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神聖な奉仕の宝を認識するものみの塔 1977 | 1月15日
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保ち,どんな形の困難や反対が生じようとも,神がわたしたちの後ろだてであることを,それらを通して知ることができますように。願わくは,ゼカリヤと同じわたしたちの祈りを神が聞かれて,「敵の手から救い出されたのち,いつの日もそのみまえで忠節と義とをもって恐れなく神聖な奉仕をささげる特権をわたしたちに得させ」てくださいますように。―ルカ 1:74,75。
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夜も昼も神聖な奉仕をささげるものみの塔 1977 | 1月15日
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夜も昼も神聖な奉仕をささげる
「み子についての良いたよりに関連してわたしが自分の霊をこめて神聖な奉仕をささげている神」― ローマ 1:9。
1,2 神に対するわたしたちの「神聖な奉仕」に関係した犠牲があることを,聖書はどのように示していますか。
今日の神のしもべたちは,律法契約に基づく種々の犠牲をささげることは求められていません。キリスト・イエスはその契約を全うし,そのゆえに神はそれを除かれたのです。しかしそれでも,わたしたちの神聖な奉仕において肝要な地位を占める犠牲があります。それは何ですか。
2 キリスト・イエスの使徒パウロは,ヘブライ 13章15,16節でそれをわたしたちに示しています。幕屋でイスラエルの祭司によってなされた神聖な奉仕について述べ,それがイエスにおいてどのように全うされたかを論じた後,パウロはこう述べます。「彼を通して常に賛美の犠牲を神にささげましょう。すなわち,そのみ名を公に宣明するくちびるの実です」。
3 ヘブライ 13章15節にある,霊感によるパウロの言葉はわたしたちに何を要求していますか。
3 この事はわたしたちに何を意味するでしょうか。エホバ神に関する真理,またその王国の良いたよりを語り告げるように,という意味です。そしてこの事は,折々,時たま,週末や集会の晩だけでなく,使徒が述べるとおり,「常に」,すなわち毎日,夜も昼も行ない,これを行なう機会に絶えず目ざめているべきなのです。
4 わたしたちの「神聖な奉仕」は,くちびるで行なうだけですか。(ヨハネ第一 3:18)
4 これは,わたしたちの「神聖な奉仕」がただ語ることだけである,という意味ですか。そうではありません。「賛美の犠牲」について述べた後,使徒は,神がわたしたちに望まれる別の犠牲についてさらに述べているからです。16節でこう述べます。「さらに,善を行なうこと,そして,他の人と分かち合うことを忘れてはなりません。神はそのような犠牲を大いに喜ばれるのです」。そうです,わたしたちのささげる「神聖な奉仕」は平衡の取れたものであるべきです。神を賛美する言葉と行ない,『善を行なうことや他の人と分かち合う』こととつり合いの取れたものであるべきです。
5 (イ)どうすれば,わたしたちの生活全体が良いたよりを証しするものとなりますか。(ロ)これは,わたしたちの住む地域社会の中の他の人々に,どんな影響を与えますか。
5 ですから,イエスと同じように,わたしたちは,自分の全生活が真理に対する証しとなることを願います。人々を助ける面でイエスのような奇跡を行ない得ないことは確かです。それでも,わたしたちの立派な行状,正直さ,誠実さ,できる時に自分に可能なすべての方法で人々を助けようとすること,これらによっても受け入れられるのです。ガラテア 6章10節の勧めのとおりに行なえます。「ですから,時に恵まれているかぎり,すべての人,ことに信仰において結ばれている人たちに対して,良いことを行なおうではありませんか」。こうした歩み方によって,人々が真理に対して耳を開くようその下地を作ることになります。その上でわたしたちは,すべての人に良いたよりを宣明することを控えてはなりません。憶することなく,大胆に,『心に満ちあふれるものから』語るのです。でなければ,わたしたちの良い業,立派な生き方を見る人々はどうして真の助けを受けられるでしょうか。わたしたちにその立派な業を行なわせているのは神からの良いたよりである,ということを,人々に知らせるべきなのです。(マタイ 5:16; 12:34,35)そうすることによって人々は,同じようにその良いたよりを学ぶなら,自分もこのわたしたちと同じようになれる,ということを知るのです。自らの良い行状に添えて他の人々の役に立とうとする親切な業,および,『賛美の犠牲,すなわち,そのみ名を公に宣明するくちびるの実』,この両者を示しているのでない限り,神に対して神聖な奉仕を十分にささげているとは言えません。―ヘブライ 13:15。
6 わたしたちの「神聖な奉仕」が完全であるためには,何が要求されますか。
6 したがって,イエスの手本,また使徒たちの手本から明瞭な点として,わたしたちの「神聖な奉仕」とは,わたしたちの人格を改めて親切を行なうことだけではありません。これはわたしたちの奉仕の一部,その基であり,その上にわたしたちは賛美の犠牲を加えるのです。(詩 106:12)良いたよりに即して生きかつそれを宣明するのでなければ,わたしたちの「神聖な奉仕」は完全とは言えません。
7 わたしたちの「神聖な奉仕」を成す種々の犠牲をささげることに,どれほどの時間を費やすかは,だれが決めますか。
7 今日のわたしたちすべては,自分が,神に対して夜昼『神聖な奉仕』をささげている人々の中に入っていることを示せます。エホバ神は,わたしたちが賛美の犠牲をささげることにどれほどの時間を費やすべきか,また神を大いに喜ばせる他方の犠牲にどれほどの時間を当てるべきかについて,(「常に」と言う以外は)何も規定を設けておられません。わたしたちは自分でこの両者の間に平衝を保たねばなりません。それでも,これらのすべての犠牲,すなわち,神のみ名を公に宣明するくちびるの実と,善を行なって他の人々と分かち合うこと,このすべてがそこにあって,日中も晩の時間もわたしたちの生活の中でその場所を占めているべきなのです。―使徒 26:7と比較してください。
8 イエスは,「夜も昼も」仕えるどんな模範を示されましたか。(マルコ 1:35。ルカ 6:12)
8 イエスは良いたよりを自分の心の中に収めていました。それについて深く思いめぐらし,その音信を人々に理解させるためにどうしたらよいかを考えました。彼は良いたよりを語るために常に,「夜も昼も」備えをし,非常に疲れていた時にさえそれをためらいませんでした。彼は真理を告げる点で常に熱心でした。(ヨハネ 2:17)あるサマリア人の女に語り掛けた時のことを思い出してください。ユダヤ人はそのような者を,神聖な物事を解し得ない者とみなしていたのです。(ヨハネ 4:7-26)しかしイエスは,その女の不道徳な生活について知りながらも,彼女を裁きませんでした。その女に対するイエスの証しは,神のみ名とお目的を広範囲にふれ告げるすばらしい結果となりました。―ヨハネ 4:39-42。
わたしたちの全生活が「神聖な奉仕」
9 「神聖な奉仕」は本質的に何を包含しますか。霊感によって書かれたパウロの文書は,これをどのように示していますか。(コロサイ 3:17)
9 ですから,「神聖な奉仕」はわたしたちの生活のただ一部をなすものではありません。それはただ一つの活動,もしくはある幾つかの活動に限られるものではなく,わたしたちの日常生活のあらゆる分野を包含するのです。それは次の言葉によって要約できます。『食べるにも,飲むにも,他のどんな事をするにも,すべての事を神の栄光のためにしなさい』。(コリント第一 10:31)この奉仕にまさにすべての面が含まれるべきことを示して,パウロはローマ 12章1,2節でこう述べます。「兄弟たち,わたしは神の情けによってあなたがたに懇願します。あなたがたの体を,神に受け入れられる,生きた,聖なる犠牲としてささげなさい。これがあなたがたの理性による神聖な奉仕です。そして,自分をこの事物の体制に合わせてはなりません」。a
10 (イ)何にせよ,特定の活動がわたしたちの「神聖な奉仕」の一部であるかどうかを決めるのは何ですか。(ロ)神の言葉は,親にどんな奉仕を「夜昼」することを要求していますか。親はこれをどう見るべきですか。
10 多くの事が関係しています。しかし,あなたの目ざすところ,目標,また心の動機が,あなたの行なう事柄がまさしく「神聖な奉仕」であるかどうかを決定する要素となります。例えば,わたしたちの中には,親である人が多くいます。神に対するその人の「神聖な奉仕」の一部,事実大きな部分は子供のことであるはずです。詩篇 127篇3節は,子供は「エホバのあたへたまふゆずり」であると述べています。あなたはそのゆずり与えられたものを,神の前にあって,また神の栄光のために育てておられますか。これもあなたの奉仕の「夜昼」なされるべき面です。親は神の定めた優れた原則を,起きた時から寝る時まで自分の子供に教え諭すべきである,と神の言葉は指摘しているからです。(申命 6:4-9)これを行なうための基本は,子供と聖書を勉強することです。しかし,親は,『わたしは,他の人々とするように,自分の子供とも毎週一度ずつ聖書研究をしている。だから,善悪を知って聖書の原則に従ってゆくのにそれで十分のはずだ』と考えるべきではありません。それは正しくありません。信仰のある親の子供は神によって「聖なる」もしくは神聖なるものとみなされています。この点を思い出してください。(コリント第一 7:14)神にとって神聖な物事を自分の手に委ねられた場合,あなたはそれをどのように扱うでしょうか。それを毎日,昼も夜も極めて慎重に守ってゆくのではありませんか。
11 なぜ親はこの面の「神聖な奉仕」を怠ることはできませんか。
11 子供たちを教え,しつけるためにあなたが今行なうこと,それは子供たちを救うものとなるのです。一方,あなたがこの点で今放漫であるなら,自分の子供たちを失う結果になります。つまり,子供たちへのあなたの言葉が全く相手にされなくなる時が,あなたの知らないうちに,突如訪れることになります。この世が子供たちに対してあなた以上の影響力を持つようになるのです。その時,神聖な財産に対するあなたの扱いを,神はどのようにご覧になるでしょうか。
12,13 (イ)親は申命記 6章4-9節の勧めをどのように賢明かつ効果的に実行できますか。(ロ)クリスチャンの親が,この世的な見地から見たただの「良い子」以上のものを望むのはなぜですか。(箴 3:1-4)
12 子供に神の言葉をひねもす教え諭すというのは,終始子供に説教をするという意味ではありません。あなたの毎日の生活と話す事とによって,神の真理がどういうものかを実際に示すことが求められるのです。あらゆる場合に,子供たちに対するあなたの優しい親密な関係,親しく身近に接して物事を共に行ない,自由に語り合うことなどによって,子供がエホバ神とその知恵,その愛,その道の正しさなどを認識するように助けることができます。その話すことに耳を傾け,筋道を立てて話し合ってください。子供に指示を与え,仕事を割り当て,また懲らしめを施す際には,その理由を示し,親に従い,そのゆえに,すべてのものの頭である神に従うことの良い結果について説明してください。
13 世に言う普通の意味での“良い子”を持とうとするのは正しくありません。もとより,自分の子供が,行儀が良く,敬意を持ち,正直で,思いやり深い子供となることを望まれるでしょう。しかし,そのように望むのは,何よりも,その子供がエホバ神を知りかつ愛するようになったためであるはずです。子供に対するあなたの訓育が世の若者の場合と異なり,それが真の意味で神聖な奉仕となるために,子供の心と思いはエホバに向けられ,こうしてその子供もエホバの賛美者とならねばならないのです。―詩 148:12,13。
14 夫と妻は結婚の取り決めを通してどのように「神聖な奉仕」をささげることができますか。
14 夫と妻は自分たちの結婚関係を成功させ,結婚の取り決めを始められた神の誉れとなるようにすることによっても神聖な奉仕をささげることができます。男にしても女にしても,他の人に対して非常に親切に,気持ちよく接し,辛抱強く人の過ちをこらえ,仕返しの気持ちなど持たずに辱めや危害をさえ忍ぶ場合もあります。ところが,配偶者のことになると,夫にしても妻にしても,すぐに怒ったり,言葉の裏の意味を読もうとしたり,挑発的であったり,あら捜しを試みたりする場合があります。互いに意思を通わせなくなってしまう夫婦もあります。結婚した人がほかのどんな事をするとしても,神聖な結婚の契約を無視しているのであれば,その人は受け入れられる神聖な奉仕を神に十分にささげていることにはなりません。―エフェソス 5:22-25,29。
15 妻は,彼女の住む地域社会の中で良いたよりを広めるのにどんな強力な貢献をすることができますか。
15 家庭の主婦である人たちには受け入れられる神聖な奉仕を神にささげる良い機会があります。他の人の見る主婦の立派な業の中には,もちろん,家を清潔できちんとさせ,家族の食事や衣服の世話を見ることも含まれます。他の人の前に展示されているものとして家以上のものがあるでしょうか。妻が人をよくもてなすこと,隣人を進んで助けようとすること,とりわけ,どんな事にせよ会衆内の他の姉妹たちを援助するために骨身惜しまず働く態度,これらは神が大いに喜ばれる犠牲です。彼女のこうした点について人々が知る時,彼女が会衆の区域内で良いたよりを宣明することにはより強い影響力が伴うことになります。―使徒 9:36-41。テトス 2:4,5。
16 子供たちや若い人々はどのようにして毎日神に「神聖な奉仕」をささげ,良い結果を得ることができますか。
16 家族内の子供たちがエホバに「神聖な奉仕」をささげることに関心を抱いているのであれば,そうした子供たちは,自分の父親を敬い,家を清潔に整えることに協力して神に誉れをもたらす面で母親を助けることができます。そして,親が真理にいない場合でも,子供たちは親に神を知らせるためこうした点で多くの事を行なえます。学友たちの前での行状,先生たちに対する敬意,機会の開けた時に良いたよりについて話すこと,王国会館でなされる事柄に関して会衆とよく協力すること,野外奉仕に携わること,これらは確かに神がその子供に対して「神聖な奉仕」とみなしてくださる事柄です。(箴 20:11。テトス 2:6-8)あなたのなす奉仕が真の意味で「神聖な奉仕」であるか否かを試みるのに良い点として,次のことを自問してみてください。『自分は野外奉仕に出て,聖書文書を他の人々のところへ携えて行くだろうか』。それは称賛に値します。しかしこのようにも自問してみてください。『学校その他の場所での自分の行状はどうか。世の若者たちが行なうのと同じ事を行なっているだろうか。それとも,エホバに対して夜昼「神聖な奉仕」をささげるべきことを銘記しているだろうか』。あなたも,他の人々と同じように,日常の振舞いや立派な態度により,人々の関心を良いたよりに向けさせることに,大いにあずかることができます。
17 長老たちはどんな特定の奉仕を行なうべく召されていますか。
17 クリスチャンの長老たちも夜昼仕えることを求められています。その人たちの「神聖な奉仕」の中には,兄弟たちのための奉仕,その霊的な必要を顧みることが含まれます。エフェソス会衆の長老たちに対して使徒パウロは次のように言うことができました。「ですから,目ざめていなさい。そして,三年の間,わたしが夜も昼も,涙をもってひとりひとりを訓戒しつづけたことを覚えていなさい」。(使徒 20:31)第一世紀のエフェソスの兄弟たちはパウロの働きを必要としていましたが,今日のあなたの兄弟たちも同じようにあなたからの助けを必要としています。
18-21 (イ)昼夜にわたるパウロの「神聖な奉仕」はどんなものでしたか。(ロ)パウロが行なった世俗の仕事が,神に対する神聖な奉仕の一部であったと言えるのはなぜですか。ここにはわたしたちが学ぶべきどんな教訓がありますか。
18 あなたは,パウロが行なったと同じようにして夜昼仕えることができますか。パウロの言葉は,必ずしも一分残らず語ることや宣べ伝えることに用いたという意味ではありません。使徒 20章34節の中で,パウロは,自分自身および自分と共に労する者たちの必要に仕えるため世俗の仕事に手ずから携わったことを述べています。事実,テサロニケの人々に対して書き送った時,彼はこうも述べました。「兄弟たち,あなたがたは,わたしの労と刻苦とを覚えているはずです。わたしたちは神の良いたよりをあなたがたに宣べ伝えましたが,それは,あなたがたのだれにも費用の面で重荷を負わせないようにと,夜昼働きながらのことであったのです」― テサロニケ第一 2:9。
19 そうです,パウロは,天幕を造るなどの世俗の仕事に,昼間だけでなく,時には晩にも携わりました。しかし,大切なのは,なんのためにそれを行なったか,という点です。それは物質主義的な理由のためでしたか。ぜいたくのためでしたか。そうではありません。彼自ら述べるとおり,自分の兄弟たちに「費用の面で重荷を負わせない」ためでした。彼はこの面で手本を示し,自分が良いたよりを分かち与えている人々からの経済的支持によって安逸の生活を送っている,とはだれからも言われることのないようにしました。彼の動機また目ざすところは,真理を推し進め,自分が仕えた人々の思いの中からいかなるつまずきのもとをも除き去ることでした。そのゆえに彼は,そうした世俗の仕事の時間にさえ神への奉仕に携わっていると言い得たのです。しかし,仮に彼の動機が利己的なものであり,すべての事をエホバに対するように,王国関心事の推進のために行なっていたのでなかったとすればどうでしょうか。もしそうであれば,彼の働きは他のどんな世俗の仕事とも異ならず,「神聖な奉仕」であるとは言えませんでした。
20 しかしパウロは,自分の世俗の仕事に関して清い良心と正しい動機を有していましたから,非常な大胆さと熱心とをもって良いたよりをふれ告げることにより,神に対する自分の「神聖な奉仕」のこの部分を,神から与えられた使命と調和させることができました。そうした「神聖な奉仕」は神から大いに祝福されたのです。「み子についての良いたよりに関連してわたしが自分の霊をこめて神聖な奉仕をささげている神」と,パウロが主題の聖句の中で述べているとおりです」。(ローマ 1:9)神に「神聖な奉仕」をささげようとしたパウロの忠実な努力の広範な影響に,わたしたちすべては驚嘆を覚えているではありませんか。
21 したがって,わたしたち各自は次の点を自問すべきです。自分の仕事に対して自分はどんな見方をしているだろうか。自分は一体何を目ざしているのだろうか。これに対し,道理にかなった唯一の答えは,パウロが青年テモテに与えた次の助言の中に見いだせます。「敬神の専念を目ざして自分を訓練してゆきなさい。……敬神の専念はすべての事に益があるからです。それは,今の命ときたるべき命との約束を保つのです」― テモテ第一 4:7,8。ヨハネ 6:27。
22 わたしたちは敬神の専念を通してどんな二重の目的を達成しますか。
22 そうです,わたしたちが敬神の専念を追い求める主要な目的は,エホバに「神聖な奉仕」をささげてそのみ名に誉れをもたらし,こうして他の人々を助けてエホバがどのような神かを認識させ,エホバとの緊密な関係に至らせることです。しかし,こうすることによって,わたしたちは今この時により幸福な生活を送ることにもなります。またそれは「きたるべき命」をも意味します。わたしたちに対してだけでなく,わたしたちの家族,またわたしたちの行状と良いたよりの宣明によって影響を受けるすべての人々に対してもです。
23,24 自分の「神聖な奉仕」の純粋さを絶えず試すようわたしたちを励ますものは何ですか。
23 「きたるべき命」,さらにそれ以上のもの,すなわち,今からとこしえにわたりとぎれることのない命を持つことに関しては,生き残る大群衆に関する使徒ヨハネの幻が,「自分が信仰にあるかどうかを絶えず試し」,「神聖な奉仕」を真に,十分にささげているかどうかを絶えず吟味してゆくための大きな励みとなります。(コリント第二 13:5)そうです,神はわたしたちに,無上の希望として,その数え切れない大群衆の中に入る見込みを差し伸べておられます。神はその人々を来たるべき大患難の際に生き長らえさせ,ご自分の義の新秩序に招じ入れるのです。
24 正しい事,当然の事,そして最も楽しみある事を行なうことに対して,わたしたちの前にはまことにすばらしい見込みが置かれているではありませんか。まもなく,地上に住むすべての者が神に「神聖な奉仕」をささげる時が来ます。それこそ地がパラダイスとなる時ではありませんか。―啓示 22:1-3。
25 近づく大患難を生き残るためには,今も何をしているべきですか。
25 大患難の際に滅びを免れる人々の中に入ることを願うなら,その患難の後に大群衆が行なっているのをヨハネが見たその事を,今この時にも行なっていなければなりません。彼らは「大声で」,「救いは,み座にすわっておられるわたしたちの神と,子羊とによ(る)」と叫んでいました。(啓示 7:10)ためらいながらではなく,あやふやな気持ちからでもなく,いわば「大声で」,確信と専心の愛,また魂を込めた献身に基づいて,そうです,このようにしてわたしたちはエホバのみ名について公の宣明をし,そのみ名が象徴するすべての壮大な事柄,またそのみ名に裏付けられたすべての栄光ある約束に関してふれ告げてゆきたいのです。わたしたちはエホバとそのみ子を「常に」賛美していたいと思います。家庭の互いの間で,集会の際に,また同じ地域社会で耳を傾けるすべての人に,あるいは他のどのような所にいる場合でも。わたしたちがこのようにするなら,『[キリスト]の父のみ顔を常に見守っている』天の軍勢すべても,わたしたちを最大限に支援し,神への誠実なる「神聖な奉仕」の一環としてわたしたちの行なう良いたよりの宣明に対して「アーメン」の声を添えてくれるでしょう。―マタイ 18:10。啓示 7:12。
26 今日,エホバを求めるよう世界中の多数の人々の心を動かすものは何ですか。これはどんな喜びをもたらしますか。
26 今日幾千幾万の人々をエホバのもとに引き寄せているのは,エホバの民の行なう「神聖な奉仕」です。それらの人々は,エホバの証人の愛の態度,進んで助けようとする態度,清潔さ,真実の忠誠,平和的態度,宣べ伝える業に対する献身を見ています。そうして,神のしもべたちが熱心に宣明する良いたよりを耳にし,それに耳を傾けようとの衝動を持つのです。こうしてエホバ神は現在栄光を受け,今後全地にわたってその栄光は一層たたえられ,大患難を生き残った感謝にあふれる人々によって力強く賛美されることになります。このすべては,神に対して真に神聖な奉仕を日夜ささげることの,立派な,喜ばしい結果となるのです。
[脚注]
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祈りによって神に近づくものみの塔 1977 | 1月15日
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祈りによって神に近づく
エホバ神は,「耳を植えた者は聞くことをしないだろうか」と述べておられます。(詩 94:9,口)身分の上下を問わず,心から誠実な態度で神に祈る人は,神がその請願に関心を示してくださるという全き確信を抱くことができます。聖書はこう述べています。「ユダヤ人とギリシャ人の間に差別はないからです。すべての者の上に同じ主がおられ,このかたは自分を呼び求めるすべての者に対して豊かなのです」― ローマ 10:12。
しかしわたしたちは,正しい態度,つまり深い敬意のこもった態度で,また神と自分たちの関係を理解した上で,神に近づかねばなりません。神は,宇宙の主であり,わたしたちの全能の創造者です。
したがって,人が礼儀作法を一切わきまえず,前触れもなしに地上の王の前にまかり出ることがないのと同様,神に祈りを聞いていただきたいと誠実に願う人は,ふさわしい精神と礼儀をもって神に近づきます。しかしそれだからと言って,神が冷淡で近づき難い神,遠く離れた存在になるわけではありません。それは,使徒パウロがアテネの一群の男女に対して,神はご自分を人間が捜し求めるよう取り計らわれたと述べ,さらに次のように語っていることから分かります。「実際のところ神は,わたしたちひとりひとりから遠く離れておられるわけではありません。わたしたちは神によって命を持ち,動き,存在し…『…われらはまたその子孫(なのです)』」― 使徒 17:26-28。
神は,わたしたちがどうすれば必ず祈りを聞いていただけるか,という点を親切にも教えてくださいました。人は「わたしたちの主イエス・キリストの名により」神に近づかねばならないということを,神は極めて明確に示されました。(エフェソス 5:20)イエスは使徒たちに,ご自分が復活
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