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  • 愛ある親切をエホバに感謝しなさい
    ものみの塔 1977 | 6月1日
    • そして神の民の一員としてその愛ある親切を経験してきたことに対し,クリスチャンはエホバに感謝すべきです。しかし,実際にはどのようにして愛ある親切をエホバに感謝するのでしょうか。その点は次の記事の中で取り上げられています。

  • 神の愛ある親切に対しどのように感謝を表わしますか
    ものみの塔 1977 | 6月1日
    • 神の愛ある親切に対しどのように感謝を表わしますか

      1,2 (イ)わたしたちの命はどれほど貴重ですか。しかしダビデは詩篇 63篇3節の中で命についてなんと言っていますか。(ロ)どういう意味でそうでしたか。(ヨブ 14:1,2。ヤコブ 4:14)

      自分にとって命以上に貴重なものがあるでしょうか。命がなければ,どんなに財産があってもそれを楽しむことも,それから益を得ることもできません。このことを念頭において,詩篇作者ダビデが美しい調べにのせてエホバ神に申し上げたことに注目してください。『あなたの愛ある親切は命より勝っています』― 詩 63:3,新。

      2 ダビデは,エホバの恵みを失うよりは自分の命を失うほうがよい,と言っています。永遠の将来においてダビデがすべてのものを所有もしくは享受するかどうかは神にかかっているからです。またダビデは,エホバが自分に同情を示し忠節な支持を与えてくださった場合がたくさんあったことをおぼえていました。それはすべて神の愛ある親切の証拠でした。それでダビデにとってその愛ある親切は,人間としての現在の一時的な命よりも重要でした。(歴代上 29:14,15)あなたの場合にもそうですか。人にとこしえの命を与えることのできる方の愛ある親切,すなわち忠節な愛は,『きょうあってあすは消える』死すべき命よりも貴重ではないでしょうか。

      3 ダビデはエホバの愛ある親切にこたえてどんな行動を取りましたか。わたしたちはどんなことを自問してみるのが適切ですか。

      3 もっともダビデは,エホバの愛ある親切の価値を単に意識しただけで終わったのではありません。彼がどのようにそれに反応したかに注意してください。『あなたの愛ある親切は命より勝っているゆえに,わたし自身のくちびるはあなたをほめるのです。こうしてわたしは生涯にわたりあなたをたたえます』。(詩 63:3,4,新)ダビデはその愛ある親切に対する深い感謝の念に動かされて,エホバへの賛美と感謝を述べました。前の記事に取り上げられていた通り,わたしたちは個人としても,エホバの愛ある親切に感謝すべき多くの理由を有しています。したがってエホバに感謝と賛美をささげることはわたしたちの生活の重要な部分であるはずです。あなたの場合はそうでしょうか。まる一日かそれ以上,神に感謝をささげることも,会話の中で神のことを持ち出すこともなく過ごすことがありますか。それともしばしばエホバについて話し,エホバのご性質や,エホバが行なわれることを無意識のうちに賛美しますか。詩篇 107篇21,22節に込められている感慨を日ごとに表わしますか。

      4 この点,わたしたちが良いたよりを宣明するのはどれほど必要ですか。

      4 愛ある親切をエホバに感謝する一つの方法が,まだエホバを崇拝していない人に話すことであることは間違いありません。(使徒 14:1-3; 20:24)良いたよりに含まれる教訓は彼らにとって命を救うものとなり得るのです。ですから当然わたしたちは良いたよりを喜びをもって広く宣べ伝えます。―ローマ 10:9-15。

      5 (イ)わたしたちはなぜ消極的な事柄について証言する可能性がありますか。(ロ)それでもそのような知識をある程度伝えるのは適切ですが,なぜですか。

      5 真のクリスチャンは次のことを知っています。すなわち,ほとんどの人が神と聖書について学んできたのは,偽りの教理と聖書の教えを曲げたものとで成り立っている,ということです。したがって,証言の内容が無意識のうちに消極的な事柄に支配されるようになる可能性があります。それで自問してみてください。聖書が教えていないこと,例えば,聖書は三位一体の神や火の燃える地獄を教えていないとか,人間は不滅の魂を持たない,地球は燃えてなくなってしまうのではないといった事柄を,証言の際にながながと説明することがどれほど普通になっているでしょうか。(ヨハネ 14:28。エゼキエル 18:4。伝道 9:5,10; 1:4)わたしたちの証言を聞く人々が,自分の間違った信条を正す点で援助を必要としていることは事実です。また,わたしたちが誤りを指摘することは,彼らが真の宗教と偽りの宗教とを見分ける助けになるかもしれません。しかしわたしたちは,話す事柄が消極的な事柄ばかりにならないように気をつけなければなりません。

      6 なぜわたしたちは公の宣言に積極的な事柄を含めるべきですか。

      6 わたしたちは「賛美の犠牲」をささげているのですから,わたしたちの「公の宣言」には,エホバに関する積極的な事柄が多く含まれなければならないはずです。(ヘブライ 13:15。詩 107:21,22と比較してください)例えば,エホバはどんな方であるかを強調することができます。『エホバだけが至高の方である』ことを示せます。(詩 83:18)エホバとそのみ子を本当に知ることはとこしえの命をもたらし得るということを説明することができます。(ヨハネ 17:3)また,エホバのあわれみ,比類のない知恵,理解,寛大さ,忠実さ,そしてもちろん愛ある親切など,人々をエホバに引きつける,エホバの卓越した特性の幾つかに焦点を当てることもできます。―申命 32:4。ヤコブ 1:17。詩 84:11。

      7 どのようにすれば神の愛ある親切を強調することができますか。それにはどんな結果が伴いますか。

      7 わたしたちは各自自分の「公の宣言」を調べ,どうすればそうした積極的な面をもっと強調できるかを考えてみなければなりません。例えば,家族かまたは他の人と定期的に行なう聖書研究で,神の愛ある親切をなんらかの方法で強調できますか。聖書に記されているある出来事や神の約束の一面を検討する際には,わたしたちの神について明らかにされていることを簡単に説明するのも良いでしょう。あるいは学んでいる人に,今取り上げている点が,エホバについて何を理解する上で自分の役に立っているかを尋ねてみることもできるでしょう。そのようにすることは,学んでいる人を一層エホバに近づけ,その人にとって神をより現実的で個人的なものにし,このすばらしい神についてさらに多くのことを学び神を賛美するようにその人を刺激することになります。―詩 147:1,11。

      会話の中で感謝をささげる

      8 ほかのどんな時にわたしたちはエホバの愛ある親切をエホバに感謝できますか。

      8 エホバとその愛ある親切について語ることは,わたしたちが人々に聖書の真理を教えようとする時だけ行なう事柄ではありません。日常の会話においてはどうでしょうか。イエスは,「心に満ちあふれているものの中から口は語る」と言われました。(マタイ 12:34)もし本当に神の愛ある親切に感謝しているなら,日常の言葉にそれが表われるはずです。詩篇作者の場合はそうでした。彼は次のように書いています。「善いかな,エホバに賛美をささげることは,あなたのみ名に調べを奏でることは,ああ至高者よ。朝にあなたの愛ある親切について,夜間にはあなたの忠実さについて語ることは」― 詩 92:1,2,新。

      9 (イ)神のことを語ることについては普通どのように考えられていますか。(ロ)これはわたしたちの態度とどのように対照的ですか。(詩 107:31,32)

      9 ほとんどの人が,神を崇拝すると主張する教会員までが,神について,あるいは神の目的について語ろうとしない傾向があることにあなたはお気付きかもしれません。彼らはとりわけ神との個人的な関係を口に出すことを嫌います。そうすることは世間的常識をはずれたこと,またはきまりの悪いこととみなされています。この傾向があるのは,彼らが本当に神と個人的なかかわりを持っていないことに幾分原因があるのかもしれません。しかしわたしたちは,この傾向がいかに広範に広がっているかを考えて,『世の人々は神とのかかわりについて話すことや,神が自分の生活と考えの中で重要な存在であることを会話の中で示すのをいやがるけれども,自分はその影響を受けてはいないだろうか』と自問してみなければなりません。エホバは確かにわたしたちの生活の中で重要な存在なのですから,当然わたしたちの考えの中にあるはずです。わたしたちは絶えずエホバの祝福と導きを求めます。ですから,会話の中でエホバのことを話したり,エホバの行動や目的に関心のあることを示して,エホバについて語ることをためらうべきではありません。

      10 わたしたちがいつも神について語ることは聖書のどの助言と関係がありますか。

      10 もちろん,独善的な印象を与えるのは避けたいものです。わざとらしい,気どった敬虔なら,人々はすぐにそれを感じ取るということを忘れないようにしましょう。イエスは,偽善的なユダヤ教宗教指導者たちがただ人に見られまた聞かれるために信心深そうな様子を誇示していたのを非難されました。(マタイ 6:1-5)それでも聖書は確かに,エホバに絶えず賛美と感謝をささげることを勧めています。それでわたしたちは,マタイ 6章1-5節の助言に注意を払いながら,また独善的に聞こえないように気をつけながら,エホバについて語ります。慎み深くしかし確信をもって,エホバの行動と道について述べることができます。それにはエホバがわたしたちをどのように扱われたか,つまりわたしたちはエホバとどのようなかかわりを持っているかが含まれます。

      11 詩篇 34篇1節に従って会話の中で神のことを話し出すには,どんな機会がありますか。

      11 多分あなたは昼間,多くの事柄について,ご自分の家族と話したり,学校や職場や近所で,クリスチャンの友人やその他の人々と話されるでしょう。もしかしたらその時の状況は,謙そんに,そして自然に神のことを話すのに適しているかもしれません。海岸か山へ行ってエホバの創造を楽しむ休養のための旅行のことを話すでしょうか。あなたはエホバがお造りになったものの自然の美や静けさをいいものだと考えているのですから,そのことを話すのはいかがですか。

      12 真の崇拝者でない人々と話しているときには,神についてどのように語れますか。

      12 信者でない人と話をしているときでも,例えば,あなたの創造者がお造りになったものから得る喜びを簡単に話すなど,分別をよく働かせるなら,神について語ることができるかもしれません。(使徒 4:24; 14:15)あなたの普段の会話の中に神のことが出て来ても驚く人はいないはずです。なぜなら,何をするか,または何を避けるかについて,あなたはいつも神を念頭に置いているではありませんか。ある人は,あなたが子供のしつけに成功しているのを見て,子供の訓練の仕方についてあなたに話すかもしれません。それに対する答えの中に,人がこの分野で賢くなることを可能にする助言を与えてくださっていることに対する神への簡単な感謝の表現を含めることはできないでしょうか。(詩 19:7)あるいはある仕事仲間は,あなたが休暇を利用してクリスチャンの大会に出席し,休暇の全部を「遊ぶこと」だけに費やさないことについて自分の意見を述べるかもしれません。その場合には,創造者のご意志と愛ある親切についてさらに多くのことを学ぶのが楽しみなのだと,謙そんな態度で答えることができます。(詩 100:3-5)そのようなちょっとした言葉が良い影響を及ぼして,だれかが神について考えはじめないとだれが言えるでしょうか。しかしわたしたちは,相手のためになるというだけの理由で神のことを話すのではありません。神とそのみ業が自分の心のうちにあり,したがって舌の上にあるのでそれを語るのです。―詩 45:1。

      13 (イ)仲間のクリスチャンと会話を交わす時には神のことがもっと自然に話せるのはなぜですか。(ロ)それをするための方法を幾つか挙げなさい。

      13 品位と慎みを失わずに話せるときには,未信者との会話においても神のことをしばしば話すのであれば,まして神に奉仕する人々と話すときにしきりに神のことを口にするのはよく理解できます。わたしたちはずっと楽な気持ちで自分たちの活動や計画,感想その他について仲間のクリスチャンと話し合います。したがって,そのような会話の中では,詩篇 92篇1,2節にあるように,神と神の行動について話すようにすべきではないでしょうか。もしかしたら王国会館に関係した仕事が行なわれているかもしれません。会衆の上にそそがれる神の祝福に対する感謝を言い表わすこともできます。わたしたちは新しい聖書研究の手引きを受け取ります。もしそれをエホバの愛ある親切の証拠と心からみなすなら,そのことを会話の中で言うのはどうでしょうか。その中にある興味深い新しい解釈はどうですか。独善的な印象を与えない慎み深い態度で,そうした事柄を兄弟たちと楽しく話し合ってください。会話の中に折々霊的な事柄を取り入れることは,すべての人の徳を高めることになるでしょう。

      感謝すべき理由を見つけるに機敏でありなさい

      14 わたしたちは神の善良さについてどんな見方を養う必要がありますか。

      14 もしだれかから鉄の微片の混じった砂を皿に一杯もらったとしたらどうでしょうか。その鉄片を取り出すのはむずかしいことでしょう。しかし磁石を使えばわけなく集められます。エホバへの感謝で満ちている心はその磁石のようです。そういう心を持っていれば,鉄よりも価値の高い,いや金よりももっと貴重なエホバのご親切と寛大さの無数の例を,毎日,容易に見つけることができます。神の善良さの証拠を見つけるのに機敏であれば,それらのことで神を賛美し神に感謝することが容易にまた自然に行なえるでしょう。―箴 3:3,4,13-18。

      15 わたしたちがエホバに感謝できる事柄としてはどんな例がありますか。(エフェソス 5:20)

      15 わたしたちが毎日見るエホバの創造物には,一般人類のためのエホバの備えを思い出させるものがたくさんあります。あなたは二匹の子ネコが草の中でじゃれているのを見るかもしれません。そしてそのはしゃいだ,こっけいな動作を見ているとくすくす笑わずにはいられません。あなたはそれを見ていてエホバのことを,またエホバがご自分の創造物に対して抱いておられるにちがいない喜びを考えますか。エホバは「幸福な神」であると聖書は述べています。(テモテ第一 1:11)それで子ネコ,カワウソその他の動物が遊びたわむれているのを見るとき,神が楽しさやユーモアを解する心をお持ちであることを思い出しますか。ぱりぱりしたリンゴや暑い日に食べるおいしいメロンのさわやかな味はどうでしょうか。(詩 145:8,15-17)気持ちの良い香りについて言えば,特殊の花の芳香や,新しく刈り取った牧草やクローバーの香りを思い出しませんか。そうしたものを楽しむとき,わたしたちに楽しむための感覚とそうしたすばらしいものとを与えてくださった思いやりに対し,エホバに感謝を言い表わすのは正しいことではありませんか。

      16 神の善良さを敏感に捕えて語ることは他の人々にどんな影響を及ぼす可能性がありますか。

      16 ニューヨーク州の北部地方に住むある家族が食事をしていた最中に,四歳になる息子が自分でこんなことを言い出しました。「ママ,ぼくたちがごはんを食べれるように,エホバが顔を前の方に付けてくださったので良かったね」。その坊やは子供らしい無邪気な気持ちで言ったのですが,確かに何事も当然のこととは考えていませんでした。その坊やの述べた率直で誠実な感想は,彼の周囲にいた人すべてにエホバのことを考えさせ,エホバが行なわれたことに対して一層の感謝の念を抱かせました。奉仕をしている間に経験する神の愛ある親切についてわたしたちが話すことも,同様の効果があります。

      歌と祈りで感謝を広める

      17,18 (イ)イスラエル人は感謝をささげることに歌をどのように用いましたか。(ロ)マルコ 14章26節はイエスと使徒たちが何をしたことを示していますか。(使徒 16:25)

      17 エホバの愛ある親切をエホバに感謝する別の方法は歌うことです。歌うことは昔から真の崇拝の一つの特色となっています。(出エジプト 15:1-21。詩 1–150篇。歴代下 29:27。啓示 15:3,4)エルサレムの神殿においては,特定のレビ人たちは,他の人々が歌う間音楽を奏でる特権を持っていました。彼らが払った努力の内容と目的は注目に価します。聖書の述べるところによると,彼らは「イスラエルの神エホバを思い起こすと共に感謝し,またたたえる」ためのものでした。なぜでしょうか。「その愛ある親切は定めのない時にまで及ぶから」です。―歴代上 16:4,41,42; 9:33,新。

      18 この点に関連して,あなたは歌をうたう人としてのイエスと使徒たちのことを考えてみたことがありますか。彼らは歌をうたう人たちで,しかもそれを楽しみました。マルコ 14章26節によると,彼らは地上における彼らの最後の晩の集いの席上で賛美をうたいました。ユダヤ人は過ぎ越しの食事の間に詩篇 113篇から118篇までをうたうのが習慣でした。それでおそらくイエスと忠実な11人の弟子は,詩篇 118篇(新)をうたってその食事を終えたでしょう。その詩は次のような文句で始まりまた終わっています。「エホバに感謝をささげよ,あなたがた民よ。彼は善良であられるからだ。その愛ある親切は定めのない時にまで及ぶからだ」。

      19 会衆が歌うことに対してわたしたちはどんな態度を取るべきですか。(エフェソス 5:18,19)

      19 今日のクリスチャンもまた,エホバの愛ある親切に対し歌を通して賛美と感謝をエホバに言い表わす機会を持っています。あなたが出席するエホバの証人の集会であなたがうたう,聖書の主題に基づいた歌をあなたはそのように見ていますか。それとも歌がうたわれている間にほかのことをしていますか。あるいはくちびるは言葉を出していますが思いはほかのことにありますか。これは起こりやすいことです。しかし,そういうことをしないで,そうしたクリスチャンの歌を,エホバの愛ある親切をエホバに感謝するための手段とみなすなら,それはなんと立派なことでしょう!

      20 (イ)神の愛ある親切を神に感謝する点で祈りはどんな役割を果たしますか。(コロサイ 1:9-12)(ロ)ダニエル 6章10節によると,ダニエルはこの点でわたしたちにどのように良い模範となっていますか。

      20 祈りもエホバの愛ある親切をエホバに感謝するもう一つの方法です。おそらくあなたは定期的に祈っておられることでしょう。しかし,祈りによる神への感謝と賛美を拡大することができますか。いろいろな物事,自分自身,自分の家族,自分の会衆,他の人々などについてエホバにただお願いだけをする習慣に陥るのは容易なことです。もしあなたが親であるなら,子供があなたの助言と助けを求めるとき確かにうれしいに違いありません。しかしもし子供が,「お父さん,わたしは,わたしたち子供がお父さんをどれほど深く愛しているか知ってもらいたいと思います。お父さんはしっかりしています。だからわたしたちはお父さんを尊敬しています。しかしお父さんには愛情もあります。お父さんはわたしたちの一番良い友達です」と言ったなら,あなたはどう感じるでしょうか。そのような心から出る言葉を聞くことがどんなにうれしいか分かるなら,わたしたちが祈りの中に感謝と賛美を含めるとき神はどのように感じられると思いますか。この点で預言者ダニエルはわたしたちに立派な模範を残しています。聖書は彼が祈りの中で神を賛美したことをはっきりと述べています。―ダニエル 6:10。

      21 わたしたちは祈りの中で一般的な事柄以外のことをどのように言い表わすことができますか。

      21 祈るときに,わたしたちに対する神の善良さについて明確に述べるのは良いことです。子供の祈りを聞いたことがありますか。チョコレート・アイス・クリームを食べたこと,ボートに乗って楽しかったこと,学校が休みになったことなどを神に感謝するのを聞いたことはありませんか。わたしたちも,ただ一般的なことを述べて神に感謝するよりもむしろ明確に述べることはできないでしょうか。宣べ伝える業で良い経験をしたなら,そのことを明確に述べて神に感謝するのです。もし贈り物をもらったら,それをくれた人に感謝するでしょう。しかし,すべてのものを造った方に感謝するのはどうでしょうか。ある重要な問題に関する聖書の助言をはっきり理解できましたか。祈りによって感謝を表わしてください。また他の人々を代表して祈る特権を得たなら,すべての人が感謝している神の祝福の明確な例を述べるのはいかがですか。―詩 42:8。

      22 以上のことを復習してみるなら,わたしたちはエホバの愛ある親切をどんな方法でエホバに感謝し,どんな感慨を表わしますか。

      22 是認されたしもべとしてのわたしたちに神が愛ある親切を示してくださった証拠は確かにたくさんあります。それらに対して敏感であるなら毎日それらを見ることができます。(詩 107:43)そしてわたしたちは各自,わたしたちの神のことを語ることにより感謝の念を抱いてそれにこたえることができます。どのようにして? いつ? 宣べ伝え教える業において,仲間のクリスチャンや他の人たちとの一般の会話において,また歌と祈りにおいてそうすることができます。詩篇 150篇にあるように,すべての創造物が一致してエホバを賛美する時をわたしたちはまだ待ってはいるものの,個人的にはそれをすることに今十分にあずかることができます。そのようにしてわたしたちはダビデが詩篇 59篇16,17節(新)の中で言い表わしている感慨を表わします。「わたしの方は,あなたの強さについて歌い,そして朝には,あなたの愛ある親切を喜びに満ちて語ります。……ああわたしの力,あなたに向かってわたしは調べを奏でます。神はわたしの堅固な高台,わたしに対する愛ある親切の神だからです」。

  • 賢人はどんな意味で述べたか
    ものみの塔 1977 | 6月1日
    • 賢人はどんな意味で述べたか

      「自分たちが獣であることを彼らが見るためである」

      人は自分の能力や知識を誇るかもしれません。しかし,命が終わりを迎えるその仕方について言えば,人間は理性のない動物と比べて,少しも勝ったところはありません。賢い王ソロモンはこの点に注意を向け,次のように述べています。「わたしは,このわたしの心の中で言った。人の子らに関し真の神が彼らを選別しようとしておられると。それは自分たちが獣であることを彼らが見るためである。人の子らに関して終局があり,獣に関しても終局があるからである。そして彼らは同じ終局に遭遇する。一方が死ぬように他方も死ぬ。そして彼らは皆ただ一つの霊を持っているにすぎず,それゆえ人が獣に勝るところは何もない。すべてはむなしいからである。みな一つの場所に行くのである。それらはみな塵から存在するようになったのであって,みな塵に帰って行く」― 伝道 3:18-20,新。

      この概念に言及する直前に,ソロモンは,「真の神は義なる者と邪悪な者を共に裁かれる。そこではすべての事に,またすべての業に関して時があるからである」と書き記しています。(伝道 3:17,新)ですから18節で,神は人間を『選別する』,つまり『ふるい分ける』とソロモンが述べているのは,神が人間に様々の機会を与え,問題や前途の不確かさを経験させて,その結果人が義なる者であるか邪悪な者であるかをやがて明らかにするということを意味しているのかもしれません。人生が困難や前途の不確かさで満ちており,行きつくところは死であるという事実は,自分の力に関する限り,最終的には獣と変わらないことを思い起こさせるはずです。人間も獣も,呼吸により維持される同一の霊,つまり生命力によって活動しているのです。死んでしまえば,人も獣も命のない塵に帰ります。―伝道 9:4-6。

      人間の観察だけに基づいて,ソロモンが次に挙げる問いに答えられる人は一人もいません。「だれが知るか,人の子らの霊は上にのぼり,獣の霊は地にくだるかを」― 伝道 3:21,口。

      死んでしまえば,人間の活動すべても,ただの獣と全く同様に終わってしまうので,ソロモンは次のような結論を出しています。「わたしは見た,人はその働きによって楽しむにこした事はない。これが彼の分だからである。だれが彼をつれていって,その彼の,どうなるかを見させることができようか」。(伝道 3:22,口)知恵によって導かれるならば,人は自分の勤勉な働きから健全な楽しみを得るよう促されます。人は死んでしまえば,もはや人間としての活動にあずかることはありません。―伝道 9:5,10。

      人間も死んでしまえば無に帰するということを覚えておくなら,厳粛な気持ちにならざるを得ないはずです。この点は,前途の不確かさや問題の多いなかにあっても,自分の命を良い目的のために用いることの重要性を思い起こさせてくれます。またわたしたちは,死んでしまえば将来の命の見込みは神にかかっている,ということを認め,神に頼るよう心を動かされて然るべきです。

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