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  • 使徒たちの活動 ― 大胆で熱心な証しの業の記録
    ものみの塔 1976 | 6月1日
    • れた自分たちの主に導かれ,神の聖霊の力をもって,大胆に,熱心に,そして非常に産出的に,証しの業を行なうことができました。その結果,幾千人もの人々が信者になりました。使徒パウロが,その手紙の一つで述べているように,初期クリスチャンたちの熱心さにより,良いたよりは「天下の全創造物の中で宣べ伝えられ」ました。―コロサイ 1:23。

  • イザヤ書 ― 良いたよりに満ちた本
    ものみの塔 1976 | 6月1日
    • イザヤ書 ― 良いたよりに満ちた本

      イザヤ書の筆者は「福音預言者」であるとはよく言ったものです。「福音」という言葉は良いたよりと関係がありますが,同書は確かに良いたよりに満ちています。何に関する良いたよりですか。それはおもに,神の民がその故国に復帰することにかかわる良いたよりで,彼らの神エホバの偉大さと善良さによって確証されています。同書には,来たるべきメシアとその王国に関する良いたよりも多く含まれています。

      エホバ神がご自分の民に与えられたこの壮大な音信は,慰めと希望の音信であり,喜びと楽しみをもたらすものでした。ですから,イザヤ書は,「喜び叫ぶ」,「喜んで叫びなさい」,「喜びの叫び声を上げなさい」,「元気を出しなさい」といった表現にあふれています。事実,イザヤ書には,聖書中の詩篇以外のどの書よりも多く,喜びと関連した表現が見いだされます。―イザヤ 35:6,新; 42:11,新; 44:23,新; 52:9,新。

      エホバ神は,ご自分の民にこの崇高な喜ばしい音信を伝えるためにだれを選ばれましたか。それは,この音信を最良の文体に書き表わす点で際立った資格を持っていた人,つまりイザヤです。幻の中で,エホバがご自分の聖なる神殿におられるのを見,「わたしはだれをつかわそうか。だれがわれわれのために行くだろうか」と尋ねられたとき,その役を買って出たのはこの人でした。そのすばらしい特権に対する認識を示し,イザヤは声を大にしてこう言いました。「ここにわたしがおります。わたしをおつかわしください」。(イザヤ 6:8,口)エホバは確かにイザヤをお用いになられました。エホバの聖霊がイザヤの生来の才能を奮い起こした結果,同書は文学的な名作といえ,それはすべての聖書学者の認めるところとなっています。基本的に言って,イザヤ書は詩の形で書かれており,同書の九割を詩の形に訳出している翻訳もあります。

      イザヤはいつごろこの本を書いたのでしょうか。イザヤが預言をしたのは西暦前8世紀のことで,遅くとも,西暦前777年に始め,西暦前732年かその少し後まで続けました。(イザヤ 6:1; 36:1)ですからイザヤは,ユダの王ウジヤ,ヨタム,アハズ,ヒゼキヤの治世中,少なくとも45年にわたって預言をしたといえます。(1:1)イザヤの預言の中には,セナケリブの敗北を告げた言葉のように,すぐに成就を見たものもありますが,ユダヤ人が故国に戻る時まで200年間も成就を待たねばならないものもありました。また,八世紀近くも後,キリストが到来した時に成就した預言もあり,さらに,26世紀後の今日までその成就を待ったものもあります。クリスチャン・ギリシャ語聖書の中で,最もよく引用されている預言書はイザヤ書です。

      良いたよりがそれほど確実である理由

      イザヤは何に基づいてその良いたよりを語ったのでしょうか。その良いたよりに,それほどの確信を抱けるのはなぜですか。それは,良いたよりの源であるエホバ神が,主権者であり,偉大で善良な創造者であられるからです。(イザヤ 40:26; 42:8; 45:18)「主権者なる主,万軍のエホバ」であられる神は,木を切る者が斧を使うように,強大な世界強国をお用いになることができます。(3:15; 10:15)神は偉大な陶器師であられ,わたしたちはみ手の中の粘土にすぎません。この点を認識すれば,神に喜んで従いたいという気持ちになるはずです。―イザヤ 29:16; 64:8。

      エホバは余りにも偉大な方であるため,諸国民は天びんの上の細かいほこり,あるいは空になった桶からしたたり落ちる水の一しずくとしかみなされません。地球のずっと上にあるエホバの勝った見地からすれば,微小な人間はいなごのように見えます。(40章)エホバがそのような神であられるゆえに,次の保証の言葉から慰めを得ることができます。『神は,何であれご自分の語られたことを実現させる。神の言葉は必ず首尾よく成し遂げられる』。神は,このことをわたしたちのために度々断言しておられます。―イザヤ 14:24,27; 46:10,11; 55:10,11。

      こうした資質を持っておられるエホバは,将来を予告できますが,偽りの神々にはそのようなことはできません。偽りの神々には証人となる者がいませんが,エホバ神には証人がいます。「あなたがたはわたしの証人……それはあなたがたが知ってわたしに信仰を持つため(である)……わたし ― わたしがエホバであり,わたしのほかに救い主はいない……ゆえに,あなたがたはわたしの証人であり……わたしは神である」― イザヤ 43:9-12,新。

      メシアにかかわる良いたより

      エホバ神は良いたよりの源であられ,それはみ子であるメシアを通してもたらされます。(コリント第一 8:6)適切にも,イザヤはメシアに関して多くのことを述べています。イザヤはイエスの生涯に関する多くの詳細な点を予告し(イザヤ 7:14; 9:1,2; 11:1; 42:1-4。マタイ 1:1,6,16-23; 4:14-16; 12:14-21),バプテストのヨハネがメシアに先立って道を備えること(イザヤ 40:3。ヨハネ 1:23),慰めをもたらす音信を宣明するために,イエスが神の聖霊によって油そそがれること(イザヤ 61:1,2。ルカ 4:17,18),そして,イエスがユダヤ人にとってはつまずきの石として拒絶されながらも,霊的イスラエルの土台の「隅石」となることなどを予告しています。―イザヤ 8:14,15; 28:16。ペテロ第一 2:6-8。

      イザヤはまた,人々の指導者また命令する者としてのイエスの将来の役割,イエスの名が「不思議な助言者,力ある神,永遠の父,平和の君」ととなえられること,そして「君としての支配の豊かさと平和とには終わりがない」ことをも予告しました。(イザヤ 55:4; 9:6,7,新)特に印象的なのはイザヤ 53章です。クリスチャン・ギリシャ語聖書には,この章のすべての節の成就が記されています。この章の大半はイエスの苦しみについて述べていますが,結びの部分は次のような確信に満ちた言葉で終わっています。「彼は満足させられる」,なぜなら神が,『多くの人の中で彼に分け前を与え,力ある者たちと共に彼は分捕り物を配分する』からです。(53:11,12,新)そうです,良いたよりは,神のみ子であるメシアの働きを通して勝ち誇ります。

      復帰に関する輝かしい預言

      確かに,復帰に関するイザヤの輝かしい預言は少なくありません。そうした預言は,概して,ユダヤ人が70年に及ぶバビロン捕囚から自分たちの故国に帰ったときに最初の成就を見ました。その中には,キリストの時代に二次的な成就を見た預言もあります。(イザヤ 40:3。マタイ 3:1-3)そして,そのすべては,現代に大規模な成就を見ます。a

      イザヤは神ご自身の民に関してこう述べています。「彼らはその剣を鋤の刃に打ちかえ,その槍を刈込みばさみに打ちかえねばならなくなるであろう。国は国に向かって剣を上げず,また,彼らは戦いのことをもはや学ばないであろう」。(イザヤ 2:2-4,新)今日の霊的パラダイスの中では,以前に狼やひょうや獅子や熊などのような気質を持っていた人々が従順な気質を示すようになっています。そうした人々についてイザヤはこう述べています。「わたしの聖なる山のどこにおいても,彼らは傷つけることもなく,損なうこともない。水が海を覆っているように,地は確かにエホバを知る知識で満たされるからである」。(11:6-9,新)エホバはあらゆる民のために豊かな宴を設けられます。「彼はまさに死を永久にのみほし」,そして,「居住者はだれも,『わたしは病気です』とは言わない」と述べられています。(イザヤ 25:6-8,新; 33:24,新)何とすばらしいたよりなのでしょう。

      イザヤはまた,次のようにも述べています。「砂漠の平野は喜び,サフランのように花咲く……盲人の目は開かれ,耳しいの耳も開けられる。その時,足なえは雄じかのようによじ登(る)」。(イザヤ 35:1-10,新)エホバは「新しい天と新しい地」を創造され,民は家を建てて自分たちがそこに住み,ぶどう園を設けて自分たちがその実を食べます。(イザヤ 65:17-25,新)こうした預言の成就として,エホバ神が古代のイスラエル人に行なわれたこと,そして今日霊的なイスラエル人に行なっておられることからすれば,創世記 1章28節で神が最初の人間にお与えになった命令の成就として,そうした状態を文字通り全地にもたらされることを確信できます。

      訓戒と慰め

      イザヤ書の中には,今日のわたしたちに励みとなる訓戒や諭しが多く記されています。与えられた諭しに従うかぎり,そのような訓戒には,必ず何らかの良いたよりが伴っていました。ですから,エホバは同書の冒頭の章の中で,ご自分の民に,ご自分が形式的な崇拝を喜ばないことを告げ,こう訓戒しておられます。「善を行なうことをならい,公平を求め……寡婦の訴えを弁護せよ」。そのような諭しに従うなら,『たとえあなたがたの罪は緋や紅のように赤くても,雪や羊の毛のように白くなり』ます。(イザヤ 1:17,18,口)もう一つ別の例を挙げましょう。「あなたがたはエホバを求めなさい。見いだせるうちに……邪悪な人は己の道を捨て,害を加えようとする人は己の考えを捨て去りなさい。そして,エホバに帰りなさい。あわれみをかけてくださるであろう。わたしたちの神に帰りなさい。豊かに赦してくださるからである」。「豊かに赦してくださる」― それは何と心温まる保証の言葉なのでしょう。―55:6,7,新。

      特に慰めをもたらすのは,ご自分の預言者イザヤを通してエホバが明らかにされた原則です。それは次の代表例に見られるようなものです。「わたしは高く,聖なる所に住み,また心砕けて,へりくだる者と共に住み,へりくだる者の霊をいかし,砕けたる者の心をいかす」。(イザヤ 57:15,口; 66:2と比較)イエスは,地上におられたときにイザヤ書 54章13節(新)にある次の原則を引用し,適用しました。「あなたの子たちは皆,エホバに教えられる者となり,あなたの子たちの平和は豊かになる」。イエスの教えを進んで受けた人々はこの平和を享受しました。(ヨハネ 6:45; 14:27; 16:33)また,神の民は幾世紀にもわたって,イザヤ書 54章17節(新)に記されている,次の預言的な保証の言葉から慰めを得てきました。「何であれあなたに逆らって造られる武器はどれも功を奏さなくなる。また,裁きの際にあなたに逆らって立ち上がるどんな舌もあなたはそれを罪に定める」。

      確かに,イザヤ書は『福音預言書』と言えます。それは良いたよりです。同書の中には,エホバ神とその目的に関する良いたより,そして神の目的すべてが成し遂げられるという保証が含まれています。また,メシアおよびメシアの成し遂げる事柄に関する良いたより,そして古代および現代における神の民の復帰に関する良いたよりも含まれています。さらに,イザヤの預言がかくも多く成就しているのを見ると,まだ成就を見ていない預言も必ず成就すると確信できます。

      さらにエホバのしもべすべては,エホバの偉大さと人間の微小さを強調しているイザヤ書から,自分とエホバとの関係をよりよく認識するよう助けられます。また,形式的な崇拝に満足することなく,義を行なうよう注意を払い,エホバの「器」を帯びるものとして身を清く保ち,「偉大な教授者」また教え手であられるエホバにいつも頼るよう戒められています。(イザヤ 30:20,新; 52:11; 54:13)そして,エホバのしもべには人々のもとに携えて行くそのような優れた音信があるのですから,イザヤと同様,その音信を最善の仕方で表現することに関心を払うのは当然のことです。―50:4。

      [脚注]

      a 「世の苦難からの人間の救いは近い!」(英文),90,91ページをご覧ください。

  • 読者からの質問
    ものみの塔 1976 | 6月1日
    • 読者からの質問

      ● 油そそがれたクリスチャンが排斥される場合,その人が後日復帰し,引き続き天的希望を抱くことは可能ですか。

      それは可能です。もちろん,個々の事情に応じて,その人に許しを差し伸べるかどうかを決めるのはエホバ神ご自身です。

      それが確かに可能であるということは,コリント会衆に送られた使徒パウロの手紙を読むと分かります。パウロは,聖霊によって油そそがれ,天の命の希望を抱いている人々にあててこの手紙を書きました。その中でパウロは,同会衆の成員に対し,「キリスト・イエスと結ばれて神聖なものとされ,聖なる者となるために召されたあなたがた」と呼び掛けています。―コリント第一 1:2; 15:49。

      同会衆に属する油そそがれたクリスチャンの一人が淫行をならわしにするようになりました。悔い改めを示さず,その不道徳な行為をやめないことが明らかになったとき,パウロは,その人を排斥するよう会衆に指示しました。(コリント第一 5:1-5,9-13)しかし,この排斥された人は,後になって心から悔い改めたようです。パウロは,コリント人に書き送った二番目の手紙の中で,以前に罪を犯したある人物を許し,再び受け入れるようにと勧めていますが,この人物は前述の排斥された人であると考えられています。―コリント第二 2:6-11; 7:8-13。

      会衆に復帰したこの人には,どんな希望があったでしょうか。天への召しを失い,その代わりに地上での永遠の命を待ち望むようになりましたか。そうではありません。地的希望は,いわゆる第二次希望のようなものではないからです。アベル,エノク,ノア,アブラハムそして他の大勢の際立った信仰の持ち主は,地上でとこしえの命を享受する希望を抱いていました。しかしそれは,彼らが天への召しにかなわなかったからではありません。エホバのご意志に従って天への召しが差し伸べられる時代に生を受けなかっただけのことです。(ヘブライ 10:19,20)天においてであれ,パラダイスの地においてであれ,永遠の命を得ようとしているすべての人には,同じほどの信仰と忠誠心が求められています。聖霊によって油そそがれ,キリストの共同相続者となったクリスチャンが永遠の命を得るためには,その召しに対して忠実であることを証明しなければなりません。―啓示 2:10,11。フィリピ 3:8-14。ローマ 8:14-17。

      しかしこれは,地上にいる油そそがれたクリスチャンが決して罪を犯さないという意味ではありません。肉において,彼らは依然不完全であり,従って,他の人すべてと同様罪を犯し,時には,ゆゆしい罪を犯すこともあるでしょう。キリストの弟子であり,明らかに油そそがれたクリスチャンであった,聖書記述者ヤコブはこう書きました。『わたしたちはみな何度もつまずくのです。ことばの点でつまずかない人がいれば,それは完全な人です』。(ヤコブ 3:2; 2:5)不完全さの結果であるこの種の故意でない罪は,使徒ヨハネの語った「死をきたさない罪」と言えるでしょう。(ヨハネ第一 5:16)神は,この種の罪を許すことができます。ヨハネは次のように語りました。「わたしたちが自分の罪を告白するなら,神は忠実で義なるかたであり,わたしたちの罪をゆるし,わたしたちをすべての不義から清めてくださいます」― ヨハネ第一 1:9。

      しかし,それには悔い改めが必要です。油そそがれたクリスチャンが今日ゆゆしい罪をならわしにし,悔い改めを示さないような場合,会衆は神の諭しに従い,その者を排斥しなければなりません。しかしながら後日,当人が悔い改めるなら,コリント会衆から排斥された人の場合と同様,許されて復帰することでしょう。

      しかし,神はすべての罪をお許しになるわけではありません。マルコ 3章28,29節でイエスの語った言葉の示すところによると,故意かつ意識的に神の霊を冒とくする者は決して許されません。また,パウロも次のように書きました。『真理の正確な知識を受けたのち,故意に罪をならわしにするなら,罪のための犠牲はもはや何も残されておらず,むしろ,裁きに対するある種の恐ろしい予期があるのです』。(ヘブライ 10:26,27)こうした

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