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  • あなたは娯楽としてどんなことをしますか
    目ざめよ! 1979 | 4月22日
    • あなたは娯楽としてどんなことをしますか

      「勉強ばかりさせて遊ばせないと子供はばかになる」ということわざには,確かに大切な意味が含まれています。健全な娯楽は頭と心をそう快にします。娯楽には,人を楽しませ,生活に面白味を加えて退屈感をなくする働きがあります。娯楽が「精神に快い活動」と定義されている理由はそこにあります。

      娯楽には,独り,または小人数で楽しめる簡単なものもあれば,劇場や球場におおぜいの人が集まって楽しむ,より本格的で一般向けのものもあります。

      実際に,その気になれば,たいていどんなことをしてでも楽しめるものです。人によって好き嫌いが異なるので,娯楽は極めて個人的な性質のものです。ある人にとって楽しいものでも,別の人にはつまらないものもあるわけです。男の人を興奮させるものでも,女の人には退屈なものかもしれません。

      費用がかかる

      娯楽産業は今や大型化しています。米国だけでも,余暇の活動に費やされるお金は,年間約2,000億㌦(約40兆円)に上ります。人々の支出の点からみると,娯楽産業は同国随一の産業ということになります。一例として,昨年のスポーツ競技の観客動員数は3億人をはるかに上回っています。

      しかし,そのような営利的な娯楽は高くつくものです。あなたの家庭にはそれはどのように影響しますか。映画とかコンサートの切符の値段やスポーツ試合の入場料,または新しいテレビの購入費などに驚かされることはありませんか。娯楽がそのように大きく家計にひびくということからも,ほかにどんなことができるかを考えてみるのはよいことでしょう。そうしたものに代わるある娯楽が,同じほど,あるいはそれ以上効果があり,しかも出費がかさまないことに気付かれるかもしれません。

      しかし,娯楽についてもう少し深く掘り下げて考えてみると,その代価は関係しているお金よりも高くつく場合のあることが明らかになります。ある種の娯楽には,聖書の中で神の律法や行動基準に反する行為とされている暴力や不道徳や賭博などが大きな要素となっています。

      たとえ不健全な娯楽ではなくても,それに凝り過ぎるということもあります。そうなると快楽を追求することばかりを考えるようになります。もしかしたらあなたはそのような生活をしている人をご存じかもしれません。そういう人たちは,絶えず何らかの娯楽を追い求め,話すことといえば娯楽が話題の中心になりがちです。しかし,快楽に対してそのような過度の愛着を持つと,“霊的な人”がそこなわれ神に是認される生活様式から離れる結果になる恐れがあります。

      聖書預言の成就に注意を払っている人にとって,それは少しも驚くには当たりません。わたしたちの時代の特徴の一つとして,人々は「神を愛するより快楽を愛する者」になることが予告されていました。―テモテ第二 3:4。

      他の落とし穴

      ある種の娯楽,特にある種の営利主義的な娯楽に伴う別の問題は,多くの場合,そのような娯楽からそう快感や満足感が得られないという点です。例えば,スポーツの試合であるチームを応援する人の中には,そのチームが負けると,がっかりしたり,しょげてしまったり,腹を立てたりする人さえいます。そのような人は試合を十分に楽しめなかったことになります。

      また,営利主義的な娯楽は,参加することよりも,見ることに重きを置きがちです。自分が参加するのではなく,むしろ受け身の観客になっているのです。これは,当人の健康や他の人と協調する能力の向上にはあまり役立ちません。

      さらに,ある種の娯楽には,そこに出席している他の人々の予見し難い行動,という問題も伴います。ロック音楽コンサートなどで観客の間に起きた出来事について読んだり,見たりしたことを思い出してみてください。また,ある試合では,怒ったファンが暴徒と化し,負傷者や死者まで出るのはいったいどうしたことでしょう。確かにそのような場合観客は参加者になりますが,娯楽にではなく,傷害行為に参加しているのです。

      そのような競技はテレビでだけ見ることにして,望ましくない人々のグループと一緒になるという問題を解決する人もいるでしょう。そのような人は,球場や講堂の騒々しい群衆の中ではなく,自宅でくつろいでそうした試合を見るほうが良いと考えます。そうすることには,その娯楽が望ましくないと思えばすぐにでもスイッチを消せるという利点があります。もっとも,それには当人がそうするだけの強い意志力と道徳的高潔さを持ち合わせていなければなりません。しかし,ある面では利点があっても,テレビの視聴者はやはり参加者ではなく,別の観客にすぎないのです。

      さまざまな形の営利主義的な娯楽にはそれぞれ占めるべき位置があり,ふさわしい仕方で楽しめます。しかし,それに代わるもので,わたしたちが加われるよう特別な配慮が払われているものにどんなものがありますか。とても楽しく,その上より有意義で,あまり費用のかからない,別の形の娯楽には,どのようなものがあるでしょうか。

  • 娯楽の必要をないがしろにしてはいけない
    目ざめよ! 1979 | 4月22日
    • 娯楽の必要をないがしろにしてはいけない

      及ばざるは過ぎたるがごとし

      勤労倫理が高く評価されていた時代には,遊びを時間の浪費と考える人は少なくありませんでした。今では,快楽の追求が多くの人にとって生活の主要な目的となっています。しかし,仕事と遊びは互いに平衡が取れていなければなりません。

      良い仕事は,人生を有意義で,目的のあるものにします。適当な遊びは仕事で疲れた人の気持ちをさわやかにし,気分転換になり,英気を養わせます。長時間にわたって過度の労働に携わるなら,体は疲れ果て,気分はゆううつになります。かといって,元気の回復に必要な日数よりも長い休暇は,退屈なものになってしまいます。ですから,一方を無視して,他方をやり過ぎないことが大切です。

      すべての楽しみを非とした清教徒の誤りを犯さないようにしなければなりません。食べることは,大食のおそれがあるからといって禁ずべきものではなく,飲酒は,泥酔のおそれがあるからといって禁止すべきものではありません。同様に,極端な人がはめをはずすからといって,娯楽にまゆをひそめるのは間違いです。わたしたちが考えなければならないのは,娯楽を退けることではなく,むしろ,どんな種類の娯楽をどの程度楽しむのがふさわしいかということです。

      屋外での楽しみ

      最近は海辺や山や公園に足を向ける人が非常に多くなり,混雑が問題になっている所もあります。それでもそういう場所ではいろいろな事をして楽しめます。例えば,散歩,水泳,ランニング,徒歩キャンプ旅行,キャンプ,ピクニック,自然の研究などができます。

      しかし,必ずしもそんな遠い所まで行く必要はありません。たくさんの人は森の近くに住んでいます。裏庭にでも野鳥の巣箱やえさ場を設けることができます。あるいは少しの間,腹ばいになって30㌢四方くらいの場所の芝生や雑草を観察するなら,虫やアリやクモたちの興味深い活動に驚かされるでしょう。あなたはアスファルトのジャングルとも言える大都市にお住まいですか。そのような所にも公園や動物園がありますし,博物館やプラネタリウムは楽しいだけでなく,勉強にもなります。

      親が,子供のためにそのような活動の計画を立ててやるのはよいことです。子供たちにできそうなことをいろいろ教えて,いくらかの方向づけと刺激を与えます。チョウやアリの受精卵が次の代の子を生むまでの過程を話してやることもできるでしょう。このようにしてエホバの創造物に対する子供の好奇心を満足させてやります。これは,子供を楽しませながらエホバ神とその創造物に関心を向けさせ,地,および地の管理者である人間に対するエホバ神の目的を子供に教える方法です。ヨブ 12章7節から10節(口)の勧めているとおりにするのです。「獣に問うてみよ,それはあなたに教える。空の鳥に問うてみよ,それはあなたに告げる。あるいは地の草や木に問うてみよ,彼らはあなたに教える。海の魚もまたあなたに示す」。

      時には,仕事そのものがレクリエーションになることもあります。事務所で働く人や週中ずっと本と顔を突き合わせている学生は,庭に出て働くことが気分転換になるかもしれません。小規模の造園をやってみるのもおもしろいでしょう。大都市の中でも狭い土地ならあるかもしれません。植木箱で花や香味植物を作ることもできます。屋内に置く植物を育てることが,家の中を飾るのに役立つおもしろい趣味であることに気付いた人は少なくありません。カナリヤなどの小鳥は屋内で飼えます。水槽で魚を飼うのもおもしろいでしょう。

      研究と観賞をかねて,エホバの興味深い創造物を屋内に持ち込む方法はたくさんあります。この場合にも問題は想像力を働かせ,親が子供の関心を様々な可能性へ向けてやるということです。

      趣味

      幼い子供は泥まんじゅうを作ることが大好きです。もっとも,母親はあまりこの遊びを歓迎しませんが。でもただの泥ですから水ですぐに洗い落とせます。この遊びは,子供が少し大きくなるにつれて趣味に変わり,泥は粘土,まんじゅうは陶器になるかもしれません。これは結構興味深い手工芸です。ハチ科の様々な昆虫は,本能として備えている優れた腕を振るって長い間この仕事をしてきました。(中には“トックリバチ”と呼ばれるものさえいます。)そのほかの趣味としては,マクラメの植木鉢吊りの製作,裁縫,編み物,料理,縁取りや刻印などを行なう皮細工などたくさんあります。

      “ウィンドー・ショッピング”は,多くのたくましい男性をおじけづかせるものですが,多くの婦人や女の子はそれを楽しみます。母親はそれを教育的なものにすることもできます。価格,品質,掘出し物,経済上の原則などについて話し合うこともできるでしょう。特に店が閉まっている時間に行なうなら,それは安上がりな外出になるでしょう。

      やはり教育的でしかも面白い娯楽は,工場見学です。家族連れで,印刷工場,新聞社,織物工場,チョコレート工場,自動車工場,あるいは炭坑などを見学することです。見学をさせてくれる工場は少なくありませんし,様々な日用品が生産される方法を見るのはとても興味深く,楽しいものです。例えば,製鋼所の見学は,教室で行なう筆記あるいは口頭のレポートの主題にしやすいでしょう。

      純粋に遊びのため

      娯楽は必ずしも教育的なものでなければならないというわけではありません。ただそれが面白いからすることもあります。それもまた益があります。老若を問わず人はそれによって,生活の中のより重要な物事に対処できるよう,英気を養うことができます。

      しかし,人の関心事は各々異なります。ある人には興味のある事柄も,他の人には退屈なものかもしれません。性の違いによっても,関心事は異なってきます。また,人の年齢も影響します。年を取っている人は,自分が腰を下ろして談笑したり,読書をしたり,将棋をさしたりして満足できるからといって,若い人たちも同じだと考えるべきではありません。十代の若者たちははけ口を必要とするエネルギーに満ちあふれています。ですから野球,バレーボール,バトミントン,ハンドボール,バスケットボール,サッカーなどの活動的な遊びをしたがるでしょう。

      あるいは二,三の家族で公園などにゆき,ピクニックを楽しむという方法もあります。そして後で,そうしたい人は一緒におしゃべりを楽しみ,エネルギーのうっ積している者たちは上記のような競技に打ち興じて,エネルギーを発散させることができるでしょう。穏やかな競争があっても害はありません。しかし,勝つことが何よりも重要なことになるなら,言い争いが起こり,せっかくの楽しみもだいなしになってしまいます。

      幼児たちは,自分たちの遊べるブランコや砂場を見つけだすでしょう。空のカートンや数本の棒切れか角材でさえ,家やほら穴,飛行機や自動車,そのほか子供たちのたくましい想像力の選ぶがままに何にでもなります。子供たちが高価なおもちゃをほうりだしたまま,砂ぐいや大きなカートンを,想像の赴くままにその時々の気分に合ったものに見立てて,午後中砂ぐいの上で,あるいはカートンで遊ぶというようなことは珍しくありません。何千円もするものでもプラスチック製の消防自動車はいつまでたっても消防自動車です。ところが,大きな段ボールの箱となると,実に何にでも早変わりするのです。

      大人は,子供たちの遊んでいるところや,ほかの人たちが野球をしているのを見て楽しめます。その気になれば,ゲームに加わることさえできるでしょう。家族同士がこのようにして一緒に過ごすならば,それらの家族はより親密なより良い家族になり,世代の断絶を避けることができます。また,必要なところで行き届いた監督をすることができます。創造者を崇拝する点で全員が一致していれば,悪い交わりで良い習慣を損なうようなことは避けられます。(コリント第一 15:33)家族同士が共に研究したり,伝道したりするだけではなく,共に清いレクリエーションを楽しむなら,会衆の兄弟愛と相互の理解は増すことでしょう。

      音楽とダンス

      家族の中には音楽の好きな人がいるかもしれません。楽器の演奏を習うのはむずかしいことですがまた満足のいくものでもあります。そして聴く人を楽しませるものにもなり得ます。二,三の,あるいはそれ以上のクリスチャンの家族の中から楽器を習う人が出ればやがて合奏できるようになり,自分たちが楽しむだけでなく聴く人たちをも楽しませるようになるかもしれません。また,その音楽に合わせて踊りたいと思う人も出てくることでしょう。

      歌うことにせよ器楽を奏することにせよ音楽は,あるいはダンスは別に悪いことではありません。器楽や歌は,イスラエルにおけるエホバの崇拝にも用いられていました。老いも若きも,時にはひとりで,別の時にはグループで,音楽に合わせて踊りました。(出エジプト 15:20。詩 87:7; 149:3; 150:4。士師 11:34。エレミヤ 31:13。マタイ 11:17。ルカ 15:25)ある時そのような機会があって力強い舞踊が行なわれ,それに対して異議が唱えられましたが,エホバはそれを是認されませんでした。―サムエル後 6:20。

      しかし,ダンスは先に述べた飲食の習慣と同じで,どれほど自制心を働かせるかによって,良くもなり悪くもなります。音楽はソフトで流れるようなものであっても,ビートのよくきいたものであっても,耳ざわりなもの,あるいは人の聴力を脅かす,または他の人の迷惑になるほど音量を大きくしてはなりません。ダンスの良し悪しを決めるのはそのテンポが速いか遅いかではありません。もし性を刺激したり,興奮させたりするものになるなら,そのダンスはふさわしい娯楽のわくを超えたものになります。

      そのような時には正しい監督が必要であることを経験は示しています。もちろんそれは,上品で,清潔で,無邪気な楽しみをそぐためではなく,クリスチャンの道徳を危うくする極端な行為を抑制するためです。状況によっては,ワルツでさえ不道徳なものになりかねません。フォーク・ダンス,スクェアー・ダンス,そして現代のダンスの大半は適当に楽しめますが,環境が悪ければそれらのダンスも人を堕落させることがあります。

      読書と会話

      読んで楽しめる良い本や雑誌記事もありますが,道徳心を損なう本や雑誌もあります。後者に属するものは,クリスチャンである,「あなたがたの間では……口に上ることさえあってはなりません」。真実な事柄,徳とされている事柄,また賞賛に値する事柄を標準とすべきです。―エフェソス 5:3。フィリピ 4:8。

      映画やテレビを見るにも同じ指針が当てはまります。映画の中にはいまだに健全で,適当な娯楽になるものもありますが,そうした映画は普通というよりもむしろ例外になっています。テレビ番組には,楽しめてしかも教育的なものがまだ少なくありません。ドキュメンタリー番組は,科学,博物学,時事問題など興味深い分野を扱っています。そのような映画やテレビ番組を見,また良書を読んでいると,お互いに楽しい会話をすることができます。

      会話ですか。そうです,会話は決してすたれてはいません。会話が好まれていることは,対話形式のテレビ番組の人気の高さから見てもわかります。しかし,多くの人々は,面白く会話を交わすことがもはやできなくなっているようです。そういう人々は話はしても,人を鼓舞するような考えや概念を相手に伝えません。しかしそのような人にも,自分についての興味深い事実を話してもらうことができます。幼少時の出来事,初めての仕事,今の職に就く決心をした理由,今の宗教を信じるようになったいきさつなど,質問をしてそういう事柄について話すように仕向けると,驚くほど興味深い会話に発展するものです。

      洞察力があり,礼儀正しく,巧みで,心からのほめ言葉を述べれば,普段はおとなしい人でも反応を示し,自由に話すでしょう。人々に関心を示すなら,人々もあなたに関心を示すでしょう。やがて,二方向,あるいは四方八方に会話が発展し,みんなが楽しめます。西暦一世紀当時のギリシャ人は,彼らを訪れる人々と話に花を咲かせるのが常でした。「すべてのアテネ人とそこにとう留している異国人は,暇な時間といえば何か新しい事がらを語ったり聴いたりして過ごしているのであった」― 使徒 17:21。

      物を読み,観察し,耳を傾け,考えるなら,人と楽しく会話をするのに役立つ新鮮な新しい考えを仕入れることができます。議論をすることや独善的であるのはよくありません。そういうことをすると意思の疎通は断たれてしまいます。感じが良く,上品で,楽しい,話し上手であってください。―箴 15:1; 16:21-24; 25:11。伝道 12:10。コロサイ 4:6。

      最後に,望ましくない娯楽をただ禁ずるだけにとどまらず,それに代わる適当な娯楽を与えることが大切です。あなたの宗教が娯楽を全面的に否定するなら,お子さんは,あなたとあなたの宗教からできるだけ早く離れようとするでしょう。ですから,娯楽の空白を作らないようにしなければなりません。(マタイ 12:43-45)次の記事では,さらにどんな事柄が娯楽になるかを検討します。

  • 室内で遊ぶゲーム
    目ざめよ! 1979 | 4月22日
    • 室内で遊ぶゲーム

      晩,それも特に冬の間,屋外での活動は制限されることでしょう。自宅で,娯楽としてどんなことができるでしょうか。

      テレビを見るのは,人々の好む気晴しです。しかし,それは会話をとだえさせ,人々の間の真の交流をひどく制限してしまいがちです。では,どうしたら家族同士が共につどって楽しめるでしょうか。

      屋外スポーツの中には,規模を縮小し,多少手を加えれば家の中で行なえるものもあります。テニスはその一例です。多くの家庭で,卓上テニスともいえる卓球は人気があります。地下室や空き部屋に卓球台を据えて,家族全員,そして訪問者が楽しめるようにしている家庭もあります。

      家庭で行なえるように規模を縮小し,手を加えることのできる別のスポーツはボーリングです。プラスチック製の小さなピンを使うことができるでしょうし,ボーリングの球も同じような材質のものでよいでしょう。ピンが軽いものであれば,テニスのボールを使うこともできます。

      玉突きは,長い間,人気のある屋内ゲームとなってきました。しかし,町中の玉突き場の環境は概してあまりよくありません。そこである家族は,自宅に玉突き台を入れ,家族で,また友人たちと共に玉突きをして楽しい時を過ごしてきました。さまざまなトランプ遊びに興じる人もいます。

      家庭向け娯楽用品を供給することは大きな商売になっています。そのことは最近の1年間に,米国の玩具・ゲーム用品業界の売上げが30%以上の伸びを示したことからも明らかです。特に人気の高いのはテレビゲームです。幾百万もの人々は,自宅のテレビに接続できるリモートコントロール装置を購入しました。この装置があれば,電子テニス,野球,チェスなどをして遊べます。

      盤上ゲーム

      ゲーム用品製造業者の売上げの大きな部分を占めているのは,盤面を使うゲーム用品です。中でも,長い間最も高い人気を保っているのは,不動産や鉄道の売買をして遊ぶゲーム,モノポリ(独占遊び)です。米国ペンシルバニア州フィラデルフィア市でこのゲーム用品が1934年に初めて売り出されて以来,世界中で8,000万組以上の売上げがありました。米国だけでも,1975年中,400億㌦ほどのモノポリ用模造紙幣が印刷されました。それは,同年,米国造幣局が印刷した本物の紙幣の二倍に相当します。モノポリは約46か国で打ち興じられており,国によって,ドルは,フラン,マルク,ペセタ,円などに変ります。

      西洋すごろくは,盤上ゲームの中でも最古のものと思われますが,再び人気を得てきています。古代カルデア人の都市であるウルの遺跡で,考古学者たちは今でも使える西洋すごろくを発掘しました。古代エジプト人やローマ人もやはりこのゲームをしたことがうかがえます。西洋すごろくの人気の一因は,簡単に覚えられても,マスターするのが非常に難しい点にあります。そしてもちろん,長い間,多くの人々を大いに楽しませてきた別の盤上ゲームとしてチェスが挙げられます。

      また,言葉のゲームも,語彙を増やすのに大いに役立ち,とても楽しいものです。人々に好まれているのは,クロスワードパズルから発展した,スクラブルというゲームです。これは,1930年代に考え出されましたが,1953年ごろまでほとんど人気が出ませんでした。今では,この盤上ゲームは,毎年幾百万組も売れています。

      自分でゲームを作り出す

      しかし,娯楽といっても必ずしも他の人が作り出したゲームしか楽しめないというわけではありません。自分でゲームを作り出すことができます。厳密にはゲームと言えませんが,一人の中年の紳士は,家族が考え出したもので,自分も特別楽しいと思ったある娯楽についてこう語っています。「わたしの四人のかわいいおいとめいたちは,大体10歳と15歳の間ですが,次の日の晩にわたしたちのために演技をする,と事前に知らせてきました。そして,歌と型の決まった踊りからなる,とても楽しいプログラムを上演してくれました。10歳になる子が司会者を務めました。四人は,一時間以上わたしたちを十分に楽しませてくれました」。

      ドイツ北部に住む一夫婦は,子供たちに他の国々の人々について教えるゲームを作りました。その家族は,さまざまな土地へ旅をしていることにします。楽しみなのは,一家が前もって選んでおいた国特有の食事をすることです。それから,みんなでその国について話し,その国の写真を見,子供たちにその国の特徴や習慣について話して一晩を過ごします。

      ある晩,この家族は,日本へ“ジェット機で飛んで行く”予定になっていました。子供たちは,日本式に床の上に座る方法やはしを使って食べる方法を教えられます。もちろん,はしを使って食べたことのある人,あるいは少なくとも食べようとしてみたことのある人であれば,最初の試みが容易なものでないのをご存じでしょう。4歳になる幼いアンドレアは,ある時点までゆくと,「おとうさん,もう飛行機に乗ってドイツへ帰ろうよ」と悲鳴を上げます。たいていの家族は,娯楽のこうした可能性を見過ごしてしまいますが,それがとても興味深いものとなり得ることがお分かりでしょう。

      多くの国々では,聖書物語をジェスチャーで示し,それがだれまたは何であるかを客に考えさせるゲームが盛んです。ノアが箱船を造る仕事をしているところ,ダビデがゴリアテを打ち敗る場面,ボアズの畑で働くルツなど,そのほか多くのなじみのある物語は,容易に,そして手短にジェスチャーで示せます。正しい答えをした人が次に演技をし,すべての人に順番が回るまで同じ人が二度行なうことがないようにします。

      台所,職場,その他の場所で録音した音を使い,それをみんなに聞かせて,何の音だか当ててもらうこともできます。あるいは,ひとりの人がカーテンの後ろで立てている音が何の音だか当てるゲームにもできるでしょう。紙を破く音ですか,ビンを開ける音ですか,ナッツの殻を割る音,それともほかの音ですか。

      グループで歌をうたうのも本当に楽しいものです。また,ただメロディーを覚えて,歌うだけで満足するよりも,幅を広げ,その歌のほかのパートつまりアルト,テノール,バスなどを学んでみてはいかがですか。四つのパートから成るハーモニーをうたえるよう練習するのは,とても楽しく,有益なことです。

      自家製“カード・ゲーム”

      次のようなゲームをして楽しんでいる人は少なくありません。まずボール紙か厚手の紙を切って,20枚かそれ以上のカードを作ります。それから,二枚一組で対になるように絵をカードにはり付けます。こうして,十組ほどの対になるカードができ上がります。競技に参加する人が慣れていれば,もっと多くの組があったほうがよいでしょう。カードをきってから,表を伏せて並べます。競技者各人は,それぞれ順番に二枚ずつめくってゆけます。同じ絵の付いたカードをめくったなら,そのカードはその人のものになります。そうでなければ,カードを元の位置に戻さねばなりません。対になった絵のカードを取れなかったら,次の人の番になります。目標は,だれが一番たくさん対になったカードを取れるかを見ることです。ですから,どの絵をどこで見たかを覚えるのが挑戦になるわけです。

      次のようなゲームを試してみることもできます。カードに,ある聖書中の人物の職業,その人の際立った特質や特徴,それにその人の関係した幾つかの出来事などを列記します。あるヒントはやさしく,あるものは難しいことでしょう。参加者は各々,順番に,グループの中のだれかがその聖書中の人物がだれであるか言い当てるまで自分のカードからヒントを次々に読み上げてゆきます。

      別のゲームは,「聖句探し」とでも呼べるでしょう。各々一つの状況の記されたカードが配られます。例えば次のような状況が挙げられるでしょう。職場の同僚が物価高についてこぼす,従順でない息子を従わせる点で問題を抱える母親,学校の友人が麻薬を使ってみようと考えている,などです。各人が自分のカードに書かれた状況を読み上げ,その状況に対処するのにふさわしい聖句をみんなが探すようにします。ゲームがだらけないようにするため制限時間を定めることができます。その後,さまざまな提案について話し合えます。

      社交的な集まりでよく行なわれる人気のあるゲームは,“わたしはだれでしょう”というふさわしい呼び名のゲームがあります。大きなカード,あるいは紙に聖書中の人物の名前を書き,それを参加したいと思う人の背にピンで留めます。当人は自分の背に付けられた人物の名前を知りません。その人は,「わたしはイエスの誕生の前に生活していましたか」,「わたしは王でしたか」,「忠実な王でしたか」などの質問をして,自分の背にピンで留められた人物の名前を当てるよう努めねばなりません。それに対して,「はい」か「いいえ」そして「分かりません」という答えだけが許されます。

      次のような注意は当を得たものです。主人は,客がくつろいだ気分になっているか念を入れる必要があります。必ずしもすべての人がゲームに参加したいと思わないかもしれません。見ているほうが良いと思う人もおり,そのほうがもっと楽しめるかもしれません。ですから,全員が参加するよう強く勧めてはなりません。また,その場にいる人々に合ったゲームを選ぶようにします。複雑すぎたり,難しすぎたりするゲームは禁物です。また,競争の精神を助長しないよう努め,他の人と同じほどうまくできないからといって,ある人がきまり悪く思ったり,気落ちしたりしないようにします。―ガラテア 5:26。

      言葉と文字のゲーム

      ある人が聖書中の人物の名前を挙げることによって,簡単な言葉のゲームができます。次の人は前の人の挙げた名前の最後の文字で始まる,聖書中の人物の名を挙げなければなりません。例えば,最初の人がエバと言えば,次の人はバラクと言うことができ,その次の人はクシなどと言って続けてゆけるでしょう。同じ名前を二度使わないことにすれば,このゲームをより考えさせるものにできます。同じようなゲームで,参加者は五十音を追ってゆき,各人が,あ-い-う-え-お,というような順序に従い,それぞれのカナ文字で始まる,聖書中の人物の名を挙げてゆくのです。

      もし紙と鉛筆を配る用意があれば,ワードスクェアー(言葉の正方形)と呼ばれアルファベット文字を用いる,スウェーデンで人気のあるゲームを行なえます。参加者各人は,正方形のスペースの中に,縦横四本ずつの線を引き,そのスペースを25のわくに区切ります。それから,参加者各人は順番にアルファベットの文字を一つ挙げ,全員が自分の正方形の中の25のわくのいずれかにその文字を書き込みます。あとでその文字を別のわくに移すことはできません。ねらいは,縦横双方にできるだけ多くの単語を作ることにあります。このような単語を作るゲームは,単語のつづりに驚くほどの変化をもたらします。

      晩のひとときを活気あるものにし,その後の会話の話題を備えるのには,一つか二つのゲームで十分でしょう。あまり長い時間ゲームをしたり,同じゲームを続けすぎて,お客を疲れさせてはなりません。そうするなら,一晩何もしないでだらだらしているのと同じほど退屈で,疲れさせるものになってしまいます。

      確かにさまざまな種類の娯楽があり,わたしたちはその中から選択しなければなりません。適切な種類の娯楽は思いと心を新たにし,楽しみをもたらし,退屈感を除くでしょう。ですから,娯楽の必要性をないがしろにしてはなりません。しかし,それと同時に,神を愛するより快楽を愛する者になってはなりません。(テモテ第二 3:4)娯楽をそのあるべきふさわしい位置に据えておくのです。

  • 東と西の会う所 スリナム
    目ざめよ! 1979 | 4月22日
    • 東と西の会う所 スリナム

      スリナムの「目ざめよ!」通信員

      世界の各地から来た人々が,一つの場所で一緒に住むとしたらどんなことになるでしょうか。さまざまな人種の人が住む国々の住民は大抵,重大な問題など起こらないということに同意するでしょう。そうした“人種のるつぼ”の顕著な例はスリナムです。ここを訪れるなら,多くの国々から来たいろいろな人々が仲良く一緒に生活している様子をはっきり見ることができます。みなさんも,わたしたちの住む,美しい国と人々を見て楽しまれるでしょう。

      スリナムは南米の北東岸に位置しており,東のガイアナと,西の仏領ギアナとにはさまれています。

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