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  • 火に耐えるものを用いて正しい土台の上に建てる
    ものみの塔 1967 | 1月15日
    • 火に耐えるものを用いて正しい土台の上に建てる

      「それぞれの仕事は,はっきりとわかってくる。すなわち,かの日は火の中に現われて,それを明らかにし,またその火は,それぞれの仕事がどんなものであるかを,ためすであろう」― コリント第一 3:13。

      1 余分の資金を投じて耐火性の資材を使うことの価値はどのようにあらわれますか。

      耐火構造にするなら高価な建物を火災から守ることができます。これは主として耐火性の材料を使うことによってなされます。耐火構造の建物であれば,そのどこかに火災が起きても,それが全体に燃えひろがり,建物全部を灰にすることはありません。また周囲から火の手が及んでも,ただ火のにおいがつき,外部が少し色あせるだけですみ,建物そのものはほとんど影響を受けません。建物に使った耐火材の価値はあらわれ,余分の資金と労力を投じたことは報われます。

      2 アメリカの建築法規にある防火建築の規準は,建築資材の重要な役割をどう示していますか。

      2 それゆえ,建築法規に従う建築主は報いを受けるでしょう。アメリカの建築法規は防火建築に規準を設け,「外壁,柱,および壁をささえる大ばりや屋根のけた構えなどには4時間,床と壁には3時間の耐火能力のある不燃性資材を使用した建物で,重みのかかる内外の壁にはすべて石および鉄筋コンクリートを用いたもの」と定めています。(「アメリカナ百科事典」1956年版第2巻246ページ,「防火」の項)ここにも明らかなとおり,大切なのは土台の上にたつ建物の材料です。

      3,4 エルサレムにあったヘロデの宮はどんなものによって破壊されましたか。そのことはどのように起きましたか。

      3 ヘロデ大王の建てた宮は大きさと高価さにおいて史上有数の建物とされていますが,これは火で焼かれました。この宮は同じく火炎の犠牲となった,エルサレムのソロモン王の宮のあとに建てられたものです。1900年前のヘロデの宮の壊滅について,一百科辞典a にはこう書かれています。

      4 「西暦70年のローマ人に対するユダヤ人の最終的な抵抗の際に,決戦の場となったのは宮である。ローマ人はアントニオの塔から宮の境内になだれ込んだが,宮の広間に火をつけたのはユダヤ人自身である。ローマ軍の一兵士は宮の北側の建物にたいまつを投げ込んだ。これは〔ローマの将軍〕チツスの意に反するものであったが,結果として宮の全域に火をかけることになった。チツス自身は消火に努めたのである。……〔ユダヤ人の歴史家フラビウス〕・ヨセハスはこう述べている。『このことの起きた時期についてはただ驚くのみである。なぜなら,すでに述べたとおり,同じ月の同じ日〔月暦第5月の月アブの10日〕は,バビロニア人が最初に宮を焼いた日として記念されているからである。さて,ソロモン王が最初に宮の土台をすえた時から,ベスパシアン〔帝〕の第2年に起きたこの宮の壊滅までは1130年と7カ月15日である。また,〔ペルシャの〕クロス王の第2年にハガイによってなされたこの宮の再建からベスパシアンの治世におけるその壊滅までは639年と45日である』」。

      5 ソロモン王の宮はどのように破壊されましたか。だれによって?

      5 エルサレムにあったソロモンの宮がバビロンの征服王によって紀元前607年に滅ぼされたことについては,聖書の歴史家がこう書いています。「〔彼は〕神の宮を焼き,エルサレムの城壁をくずし,そのうちの宮殿をことごとく火で焼き,そのうちの尊い器物をことごとくこわした」― 歴代下 36:19。エレミヤ 52:12-14。

      6 (イ)これらエルサレムにあった宮の壊滅と共にエホバの像がなくなることはありませんでした。それはなぜですか。(ロ)エホバの崇拝のために今どんな建物が造られていますか。どんな建築規準に従って?

      6 これらエルサレムの宮の壊滅に伴って,神の像や彫像が焼失することはありませんでした。なぜなら,そこで崇拝された神は,崇拝者が偶像を作ることをいっさい禁じられたからです。(出エジプト 20:1-6)また,それらの宮で行なわれた神の崇拝は物質の宮の壊滅の後にも存続して今日まで行なわれ,事実それは今日繁栄しています。この神は地上の物質の宮を必要とされません。それでも神はご自分の崇拝のために,全時代を通じて最大の宮を建設しておられます。(イザヤ 66:1。列王上 8:27-30。使行 17:24-28)この宮は永遠に存続するでしょう。なぜならそれは火に耐えるもので造られているからです。それは世界に来らんとする火のような苦難の時代を無きずで通過するだけでなく,そのことによって美しさと輝きをいや増すでしょう。この宮の設計や資材は地上の特定の国家の建築規準や防火規則に従っていません。これは至上の設計者であられる天と地の創造者の建築規準に従っているのです。そして創造者が選し,創造者ご自身が供給される資材で造られています。

      7 エホバの永遠の宮とヘロデの宮や聖ペテロ寺院との建築期間を比べなさい。

      7 創造者であられる神は,地上のいかなる建物の建設に費やされたよりも多くの時間を,この宮の造営にあてておられます。ヘロデの宮について,ユダヤ人は1900年前,イエス・キリストに言いました。「この神殿を建てるのには,46年もかかっています」。(ヨハネ 2:20)ローマカトリック教会の中心的な建物であるバチカン市の聖ペテロ寺院の礎石を置いたのは4世紀のコンスタンチン帝ですが,これは16世紀の宗教改革者ルターの時代になってもまだ完成されていませんでした。しかし神は,崇拝のためのご自分の永遠の宮の建設を第1世紀のイエス・キリストの使徒の時代に始められ,今日なお続けておられます。そして19世紀後の今日はじめて,それは完成に近づいているのです。

      建設のために共に働く人々

      8 (イ)宮の建設において,神はだれを用いることをよしとされますか。(ロ)パウロはこの点をどう論じていますか。また会衆内の党派的な傾向をどう戒めていますか。

      8 この火に耐える宮の建設において,神は地上の人間が共に働くことをよしとしておられます。あなたはこの宮の建設のために神と共に働いておられますか。クリスチャン使徒パウロはそのひとりでした。またパウロのよく知る有弁なキリストの弟子,エジプト,アレキサンドリア生まれの改宗したユダヤ人アポロもそのひとりでした。ふたりが互いに神と共に働く者であることについて,使徒パウロはギリシャ,コリントのクリスチャン会衆に手紙を送り,宗教上の特定の人物に従おうとする党派心を戒めました。「ある人は『わたしはパウロに』と言い,ほかの人は『わたしはアポロに』と言っているようでは,あなたがたは普通の人間ではないか。アポロは,いったい,何者か。また,パウロは何者か。あなたがたを信仰に導いた人にすぎない。しかもそれぞれ,主から与えられた分に応じて仕えているのである。わたしは植え,アポロは水をそそいだ。しかし成長させて下さるのは,神である。だから,植える者も水をそそぐ者も,ともに取るに足りない。大事なのは,成長させて下さる神のみである。植える者と水をそそぐ者とは一つであって,それぞれその働きに応じて報酬を得るであろう。わたしたちは神の同労者である。あなたがたは神の畑であり,神の建物である」― コリント第一 3:4-9。

      9 どういう意味でパウロは植え手でしたか。コリント会衆を例として述べなさい。

      9 水をそそぐことより植えることのほうが先です。そして自らを植え手にたとえているとおり,初めに開設の仕事をしたのは使徒パウロです。彼はキリスト教の開拓者となって働いていました。このことはコリントのクリスチャン会衆の場合に特にあてはまります。パウロは宣教者としてこの町に着き,ユダヤ教の会堂でイエスがメシヤであることを伝道し始めました。後にパウロは信者となったユダヤ人を会堂の隣の家の集会所に移さねばなりませんでした。パウロは会堂づかさクリスポとその家族,およびガイオという名の信者とステパナの家族に浸礼を施しました。

      10 パウロがコリントに植えたものにアポロが水をそそぐにいたったいきさつを述べなさい。

      10 コリントで1年半ほどキリスト教を教えたのち,パウロは事情があってエルサレムへ行くことになりました。その道すがら,彼は小アジアのエペソに立ち寄り,同行のアクラとプリスキラをその地に残しました。(使行 18:1-22。コリント第一 1:13-16)そののち,キリスト教に少し通じたアポロがエペソに着き,会堂で伝道しました。アクラとプリスキラは彼と知り合い,キリスト教についてさらに説き明かしました。アポロが(ギリシャの)アカヤに行こうとした時,エペソのクリスチャン兄弟たちは彼を推薦する手紙を持たせました。こうしてアポロはコリント会衆と関係を持つことになり,ここの人々を助けるために働きました。たとえで言うなら,彼は使徒パウロが植えた種に水をそそいだのです。(使行 18:24–19:1)しかしだれが成長をはかりましたか。それは神です。

      11 (イ)コリントで働いたパウロは実際に何を植えていたのですか。(ロ)成長をはかられたのはどなたですか。成育する作物畑はだれのものでしたか。

      11 パウロはコリントでどんな種を植えましたか。それはクリスチャン,つまりイエス・キリストの弟子です。これは麦と毒麦(雑草)に関するイエスのたとえに似ています。「畑は,〔人類の〕世界である。良い種と言うのは御国の子たちで(ある)」。(マタイ 13:38)パウロはキリスト教の真理を伝道するのみならず,クリスチャンすなわち主イエス・キリストに従う人々を植えることもしたのです。彼は追随者に対するイエスの命令に従って,『人々を弟子とし』ていました。(マタイ 28:19,20)神の同労者であったパウロは,信者となって浸礼を受けたコリント人の会衆に対して,『あなたがたは神の畑である』と言うことができました。(コリント第一 3:9)しかし,その会衆の成員をクリスチャンとして成長させたのは神です。また,み子イエス・キリストの弟子として彼らを命に導かれたのは神ご自身です。パウロは単なる同労者であり,命を得させるキリストの福音を彼らに伝えるべく神に用いられたにすぎません。しかもパウロはその福音を神から受けていました。それゆえ成長するクリスチャンの畑はパウロのものではありませんでした。それは真実正当な所有者であられる神のものでした。それで神の祝福とみたまとを受けないなら,パウロやアポロがどんなに働いても,それは無駄に終わりました。

      12,13 (イ)これらの事実から,宗派を作ることをどう見るべきですか。(ロ)わたしたちはどれだけの奉仕者から奉仕を受けることができますか。弟子としてだれに従うべきですか。

      12 それゆえ,クリスチャンの成長ないし存在のほまれはパウロやアポロなど人間に帰すべきものではありませんでした。また,コリントのクリスチャン会衆の人々にも,パウロやアポロに従う務めはありませんでした。これらは奉仕者ないしはしもべであり,コリント人を信者とするための仲立ちとなったにすぎません。むしろコリント会衆の人々は,神の弟子となり,クリスチャンを作り,成長させる力の源である真の所有者に従う者になるべきでした。それゆえ,宗派を作り,著名な人間に従おうとするのはなんと狭量でしょう。神にくらべれば人間はあまりにも小さく,神は人間全部を合わせたより偉大です。奉仕者として神に用いられる人も神のものであり,つまるところすべては神のものです。

      13 わたしたちはどの奉仕者にも属していません。また一人の奉仕者から奉仕を受けるように神から定められていません。わたしたちは神の奉仕者すべての奉仕を受けるべきです。それゆえパウロが言うごとく,「だれも人間を誇ってはいけない。すべては,あなたがたのものなのである。パウロも,アポロも,ケパ〔ペテロ〕も,世界も,生も,死も,現在のものも,将来のものも,ことごとく,あなたがたのものである。そして,あなたがたはキリストのもの,キリストは神のものである」。(コリント第一 3:21-23)それでわたしたちは,神がわたしたち,およびわたしたちのために働く特別の奉仕者すべての所有者であられることを認めて,神に従いましょう。

      「神の建物」

      14 (イ)クリスチャンに関する仕事という面で,神を農夫以外に何にたとえることができますか。(ロ)それで神の同労者はどんな者にもなりますか。またアダムの子孫であるわたしたちは,同時に何になり得ますか。

      14 クリスチャンに関する神の仕事は農作だけでなく,建築の仕事にもたとえることができます。神は建築者つまり建物の作り手です。そして「神の同労者」であるなら,わたしたちも建築者となるべきです。「わたしたちは神の同労者である。あなたがたは……神の建物である」と論じた使徒パウロはわたしたちにそのことを銘記させています。(コリント第一 3:9)パウロの言うところを理解できますか。人々が神の建物であると言うのです。自分が神の創造された最初の人間アダムの子孫であるだけでなく,神によって建物とされ,神の特別の建物の一部であるということを聞いて,人は当惑を覚えるかもしれません。人はすべて神が最初に創造された人間の子孫ですが,「神の建物」となっている人は今日どれほどいますか。

      15,16 (イ)ご自分の建築作業において,神はどんな人々を使っておられますか。(ロ)すべての人が同じ任務を受けていますか。パウロはコリント人への第一の手紙 3章10,11節でこの点をどのように明らかにしていますか。

      15 この建築の仕事において,神は人間の「同労者」を使うことをよしとされました。人間の同労者は建築作業のどんな部分を受け持つのですか。同労者のすべてが同一のもしくは同様の作業をするのではありません。神から受ける過分の恵みによって,より顕著な,ないしはより重要な役割をになう者もいます。使徒パウロは自分が特別な任務を受けたことを知り,それを大切にしました。彼はその責任を果たすことに努力し,それに伴う余分の,また不断の労苦をいといませんでした。それで,自分の特別の活動,特にコリント会衆に関する活動についてパウロは次のように書きました。

      16 「神から賜わった恵みによって,わたしは熟練した建築師のように,土台をすえた。そして他の人がその上に家を建てるのである。しかし,どういうふうに建てるか,それぞれ気をつけるがよい。なぜなら,すでにすえられている土台以外のものをすえることは,だれにもできない。そして,この土台はイエス・キリストである」― コリント第一 3:10,11。

      17 イエス・キリストの使徒であったパウロは建物のどんな部分に特に関心をもっていましたか。黙示録 21章9-14節はこのことの適切さをどう示していますか。

      17 「神のみ旨によりキリスト・イエスの使徒となった」パウロは,神の建築計画において「建築師」つまり主任技術者もしくは棟梁としての任務をもっていました。そうした立場にあったパウロは建物の礎にまず心を配ったことでしょう。熟練の建築師として,彼は建物の土台の大切さを知っていたからです。クリスチャン使徒たちは会衆の基礎を置く仕事に関係しました。なぜなら黙示録 21章9-14節において,キリストに従う会衆は一つの都つまり新しいエルサレムにたとえられており,使徒たちつまり「小羊の12使徒」はこの象徴的な天の都の基礎とされているからです。(コリント第一 1:1,2)パウロが努めてクリスチャンの建築計画の基礎作業に従事したのは適切なことです。彼が特に努力を払ったのは未伝道の区域を開拓することでした。それゆえ彼はこう語っています。

      18 福音を携えて自分が働く区域について,パウロはローマ人になんと書きましたか。

      18 「わたしは,異邦人を従順にするために,キリストがわたしを用いて,言葉とわざ,しるしと不思議との力,聖霊の力によって,働かせて下さったことの外には,あえて何も語ろうとは思わない。こうして,わたしはエルサレムから始まり,巡りめぐってイルリコ〔今日のユーゴスラビアの一部〕に至るまで,キリストの福音を満たしてきた。その際,わたしの切に望んだところは,他人の土台の上に建てることをしないで,キリストの御名がまだ唱えられていない所に福音を宣べ伝えることであった。すなわち,『彼のことを宣べ伝えられていなかった人々が見,聞いていなかった人々が悟るであろう』と書いてあるとおりである。こういうわけで,わたしはあなたがた〔ローマ人〕の所に行くことを,たびたび妨げられてきた。しかし今では,この地方にはもはや働く余地がなく,かつイスパニヤに赴く場合,あなたがたの所に行くことを,多年,熱望していたので,― その途中あなたがたに会い,まず幾分でもわたしの願いがあなたがたによって満たされたら,あなたがたに送られてそこへ行くことを,望んでいるのである」― ローマ 15:18-24。

      19 建物の重要な部分に心を配ったパウロは神やキリストの精神をもっていたと言えます。この点を説明しなさい。

      19 こうしてパウロは骨の折れる仕事をしただけでなく,物事を始め,その成長を見る喜びを味わいました。彼は建築者がまちがった方向に仕事を始め,あるいは正しい土台を置かないで仕事を進める場合のあることを知っていました。彼は物事には正しく,しっかりした土台の大切なことをよく知っていました。この点で彼は神やキリストの精神をもっていたと言えます。万物の偉大な建築者であられる神は,神を恐れたヨブに対することばの中で土台の大切さを明示しておられます。「わたしが地の基をすえた時,どこにいたか。もしあなたが知っているなら言え。あなたがもし知っているなら,だれがその度量を定めたか。だれが測りなわを地の上に張ったか。その土台は何の上に置かれたか。その隅の石はだれがすえたか」。(ヨブ 38:4-6)イエス・キリストも強固な土台を置くことの大切さを示しておられます。「それは,地を深く掘り,岩の上に土台をすえて家を建てる人に似ている。洪水が出て激流がその家に押し寄せてきても,それを揺り動かすことはできない。よく建ててあるからである」― ルカ 6:47,48。

      土台

      20 (イ)神の同労者であるなら,だれの設計の明細に従うべきですか。(ロ)神の同労者がパウロの置いた土台以外のものをすえることができないのはなぜですか。

      20 神の同労者であるなら,最大の建築者であり,建物の所有者であられる神の設計の明細を無視してはなりません。建物の基礎として神はただ一つの土台を是認しておられます。使徒パウロは土台となるべきものが何であるかをよく知っていました。そしてコリント会衆を設立した時,彼はしっかりとその土台をすえました。それは神と一致して働くためであり,また自分の仕事に神の是認を求めたためでした。ほかの同労者はすべてパウロの置いたその土台を認めてその上に建てるべきであり,ほかに土台を求めてそこに建物を移そうとしてはなりませんでした。それでパウロはこう戒めています。「すでにすえられている土台以外のものをすえることは,だれにもできない。そして,この土台はイエス・キリストである」。(コリント第一 3:11)これは主イエスが使徒ペテロに語られた岩のことでした。「わたしはこの岩の上にわたしの〔会衆〕を建てよう。黄泉の力もそれに打ち勝つことはない」― マタイ 16:18,〔新世訳〕。

      21 水の浸礼に関して,パウロはイエス・キリストをどのように土台としましたか。

      21 開拓者であったパウロはコリント会衆について,『わたしは土台をすえた』と語っています。(コリント第一 3:10)さて,パウロがイエス・キリストを土台に置いたとはどういう意味ですか。伝道のために初めてコリントに来た時,パウロが宣べ伝えたのはケパつまりシモン・ペテロや有弁なアポロ,また自分自身ではありませんでした。またパウロは自分の名によって浸礼を施すということもありませんでした。それでパウロはコリント人にむかって,「あなたがたがわたしの名によってバプテスマを受けたのだと,だれにも言われることのないためである」と論じています。(コリント第一 1:15)コリントを離れて間もなくパウロはエペソに立ち寄りましたが,そこでパウロはイエスの名によって浸礼を施しています。(使行 19:1-7)それでパウロはコリントにおいてもこの名によって浸礼を施しました。

      22,23 (イ)コリントのユダヤ人と働いたパウロはイエス・キリストの土台をどのようにすえましたか。(ロ)土台であるイエス・キリストはご自分の弟子に対し,神によってどんなものとされましたか。

      22 使徒パウロはイエス・キリストを土台としてすえました。すなわち,イエス・キリストが罪と死からの救いの基であることを教えました。コリントにおけるパウロの開拓活動に関する記録は簡明にこう述べています。「パウロは安息日ごとに会堂で論じては,ユダヤ人やギリシャ人の説得に努めた。シラスとテモテが,マケドニヤから下ってきてからは,パウロは御言を伝えることに専念し,イエスがキリストであることを,ユダヤ人たちに力強くあかしした」。(使行 18:1-5)異教のギリシャ哲学に染まったこの土地においても,パウロは知恵に重きを置く異教徒やこの世的に賢い哲学とイエス・キリストとを混合せず,神に対する人間の犠牲として刑柱に付けられたイエス・キリストを伝道しました。パウロはこう語ります。

      23 「いったい,キリストがわたしをつかわされたのは,バプテスマを授けるためではなく,福音を宣べ伝えるためであり,しかも知恵の言葉を用いずに宣べ伝えるためであった。それはキリストの〔刑柱〕が無力になってしまわないためなのである。ユダヤ人はしるしを請い,ギリシャ人は知恵を求める。しかしわたしたちは,〔刑柱〕につけられたキリストを宣べ伝える。このキリストは,ユダヤ人にはつまずかせるもの,異邦人には愚かなものであるが,召された者自身にとっては,ユダヤ人にもギリシャ人にも,神の力,神の知恵たるキリストなのである。神の愚かさは人よりも賢く,神の弱さは人よりも強いからである。あなたがたがキリスト・イエスにあるのは,神によるのである。キリストは神に立てられて,わたしたちの知恵となり,義と聖とあがないとになられたのである。それは,『誇る者は〔エホバ〕を誇れ』と書いてあるとおりである」― コリント第一 1:17,22-25,30,31,〔新世訳〕。エレミヤ 9:24。

      24 コリントのような異教哲学のとりでにはいりながら,パウロはだれを宣べ伝えつづけましたか。なぜ?

      24 福音を伝道するためにコリントに来たパウロが,異教ギリシャ人の世俗的な知恵に圧倒されることはありませんでした。彼は世俗的な知恵を誇示してギリシャ人の哲学と対抗し,それによって追随者を得ようとはしませんでした。また彼は,世俗的な知恵,人間の論説や哲学などを求める者たちの耳をくすぐろうともしませんでした。彼はクリスチャン会衆の土台としてイエス・キリストをすえるためにそこに来たのです。それでパウロはコリント人への第一の手紙 2章1-5節でさらにこう語ります。「兄弟たちよ。わたしもまた,あなたがたの所に行ったとき,神のあかしを宣べ伝えるのに,すぐれた言葉や知恵を用いなかった。なぜなら,わたしはイエス・キリスト,しかも〔刑柱〕につけられたキリスト以外のことは,あなたがたの間では何も知るまいと,決心したからである。わたしがあなたがたの所に行った時には,弱くかつ恐れ,ひどく不安であった。そして,わたしの言葉もわたしの宣教も,巧みな知恵の言葉によらないで,霊と力との証明によったのである。それは,あなたがたの信仰が人の知恵によらないで,神の力によるものとなるためであった」。〔新世訳〕

      25 コリントのパウロと同じような環境におかれる時,開拓をするクリスチャンはどのように感ずることがありますか。しかし,どうすればよいですか。

      25 こうして,昔の使徒パウロのごとく,宣教の面で開拓をする今日のクリスチャンは,世俗の哲学的な知恵のとりでにはいる時,自分が弱いことを感ずるかも知れません。しかし,神の霊と力とを証明して,神に対する信仰をかためることができるのです。

      26 (イ)主はコリントにいたパウロをどのように力づけましたか。それでパウロは何をしましたか。(ロ)コリント会衆がその何年後にもしっかりと立っていたのはなぜですか。

      26 主がコリントにいたパウロを激励したのも不思議ではありません。「ある夜,幻のうちに主がパウロに言われた,『恐れるな。語りつづけよ,黙っているな。あなたには,わたしがついている。だれもあなたを襲って,危害を加えるようなことはない。この町には,わたしの民が大ぜいいる』。パウロは1年6カ月の間ここに腰をすえて,神のことばを彼らの間に教えつづけた」。(使行 18:9-11)神の言を世俗的に賢い異教の哲学の前に敗退させてはなりません。パウロがコリントに設立した会衆はしっかりと足場を定め,何年かのちパウロがこの地のクリスチャンに第一と第二の手紙を書いた時にも繁栄していました。それは正しい土台の上に設立されていたゆえにしっかりと立つことができました。

  • 燃えないものを使うことが必要
    ものみの塔 1967 | 1月15日
    • 燃えないものを使うことが必要

      1 クリスチャン会衆はいつ設立されましたか。何を土台として? ペテロの話はそのことをどう示しましたか。

      「神の建物」に許された唯一の土台は神のみ子イエス・キリストです。キリスト教国ではなく,真のクリスチャン会衆は19世紀前の西暦33年シワン6日五旬節の日に,エルサレムでこの土台の上に設立されました。「神の同労者」として仕えた使徒ペテロは神の建物の土台がだれであるかを勇敢に発表し,その場に集まるユダヤ人への話をこう結びました。「だからイスラエルの全家は,この事をしかと知っておくがよい。あなたがたが,〔刑柱〕につけたこのイエスを,神は,主またキリストとしてお立てになったのである」。

      2 心をさされたユダヤ人に対するペテロの助言はどんな土台に注目させましたか。今日の宇宙時代に,神の建物の成員はどこに立っていますか。

      2 その後,心をさされたユダヤ人が神の備えに応じて何をすべきかを尋ねた時にも,ペテロは神のただ一つの土台に忠実に従ってこう勧めました。「悔い改めなさい。そして,あなたがたひとりびとりが罪のゆるしを得るために,イエス・キリストの名によって,バプテスマを受けなさい。そうすれば,あなたがたは聖霊の賜物を受けるであろう」。(使行 2:1-38,〔新世訳〕)ここですえられた土台は幾世紀もの間,きびしい風雨に耐えています。そして今日,物質主義的,また現代主義的で,科学を崇拝するこの核宇宙時代にも,神の建物を構成する人々は依然としてこの不滅の土台の上に立っています。

      3,4 (イ)わたしたちの救いの基礎としてどんな犠牲を認めるべきですか。なぜ?(ロ)イエスの上に建てるにあたり,彼があがないの犠牲であることだけを認めればよいですか。ペテロの五旬節の時の話は何を示していますか。

      3 イエス・キリストを土台として建てるということは,わたしたちの罪のためのあがないの犠牲としてのイエス・キリストの上に建てることだけを意味しているのではありません。イエスのささげた人間の犠牲がわたしたちの永遠の命への救いの基となっていることは確かです。わたしたちはイエスのことばをそのことばどおりに受け入れねばなりません。「人の子がきたのも,仕えられるためではなく,仕えるためであり,また多くの人のあがないとして,自分の命を与えるためである」。(マタイ 20:28)またわたしたちは使徒パウロのことばをその字義どおりにとらねばなりません。「神は,すべての人が救われて,真理を悟るに至ることを望んでおられる。神は唯一であり,神と人との間の仲保者もただひとりであって,それは人なるキリスト・イエスである。彼はすべての人のあがないとしてご自身をささげられた」。(テモテ第一 2:3-6)しかし,わたしたちはイエス・キリストがあがない主以上のものであることを認めねばなりません。

      4 わたしたちは復活し,天の栄光を受けたイエス・キリストに信仰と望みを置かねばなりません。これはペテロが五旬節の日にユダヤ人に伝道した事柄です。ペテロはイエスが復活していること,および神の右に上げられ,サレムの王であり至上の神の祭司であった昔のメルキゼデクの予表した王なる祭司とされていることを説き明かしました。

      5 ペテロが詩篇 110篇1節を適用したことから詩篇 110篇4節をどう適用すべきですか。わたしたちはイエスのどんな地位を認めるべきですか。

      5 ダビデ王が詩篇 110篇1節にあらかじめしるしたとおり,イエスは天にのぼりました。それでペテロはイエスが神の右に上げられたことを述べたのち,詩篇 110篇1節に言及してこう語っています。「ダビデが天に上ったのではない。彼自身こう言っている,『〔エホバ〕はわが主に仰せになった,あなたの敵をあなたの足台にするまでは,わたしの右に座していなさい』」。それゆえ詩篇 110篇4節は天の神の右に高められた主イエス・キリストを相手として語られたものです。「〔エホバ〕は誓いを立てて,み心を変えられることはない,『あなたはメルキゼデクの位にしたがってとこしえに祭司である』」。このことはクリスチャンとなったヘブル人にあてられた霊感の聖書の中でくり返し確証されました。(使行 2:32-35。ヘブル 1:1-4,13; 5:5-10; 6:19–7:22; 10:12,13)わたしたちはクリスチャンとして,イエスがこのような位にあることを認めねばなりません。

      6 (イ)ペテロが話した時以来今日までに,神とそのキリストに関する事実はどう変化していますか。(ロ)異邦人の諸国家はキリストをどう扱ってきましたか。しかしわたしたちは今彼をどのように受け入れるべきですか。

      6 しかし,使徒ペテロがこの五旬節の話をした時以来,神とキリストに関する事実は大きく変わっています。イエスが天にのぼって神の右に座したのはペテロの話の10日前であり,その時2520年に及ぶ異邦人の時期はわずかに638年経過していたにすぎません。しかし今,異邦人の時期は終わっています。それが終わったのは1914年の秋です。そしてイエスが神の右で待つ期間も終わりました。その時神はイエスを王位につけ,王として敵のただ中で支配する権威を完全に授けられました。神はご自分が王としてたてられたイエス・キリストの杖を天のシオンからつき出され,敵のただ中で治めよと命じられました。この時以来,イエスは王として君臨しておられます。異邦人の諸国家は国際連盟およびその後継である国際連合を好んで,主イエス・キリストを退けました。しかしわたしたちは今,支配する神の王として彼を受け入れます。彼が天のシオンに『堅くすえられた尊い隅の石である』ことを信ずるなら,わたしたちは世界の現状を見て恐れ,あるいは失望することはありません。―イザヤ 28:16。ペテロ第一 2:6-8。

      7 キリスト教国はキリストがあがないの犠牲であることを形の上でどのように認めていますか。しかしキリストの今日の地位に対してどんな態度を取っていますか。

      7 カトリック,ギリシャ正教,プロテスタントなどの信徒幾億人をも擁するキリスト教国は,表面的には犠牲になったキリストを尊重してきました。キリスト教国は十字架像をいたる所に掲げ,十字架に釘づけになったキリスト像を展示しています。キリスト教国は教会のせん塔に十字架をつけています。これはキリストを殺した道具の象徴です。キリスト教国は年毎の受難日,月毎ないしは週毎の主の晩さん,日毎のミサなどを祝い,あがないの犠牲となったキリストに形の上では敬意を払っていますが,キリストが神の右において王として支配していることにはつまずいています。キリスト教国の信徒の半数以上はバチカン市の支配者を「キリストの代理者」として崇拝しています。またキリスト教国の全信徒は(961,112,000人),天で支配するキリストを退け,カイザル以外に王はないと言うかのごとくに,国際連合をはじめ地上の政治力に依存しています。そしてバチカン市さえ国際連合を支持しています。

      8 今日の人々はイエス・キリストの価値をどのように下げようとしていますか。この攻撃は意外にもどんなところから出ていますか。

      8 現代主義的な傾向の強い今日,人々はイエス・キリストが神の子であること,また人類を救うあがないであることをさえ否定しようとしています。イエス・キリストに対するこの新たな攻撃は意外なところ,つまり大学の宗教学部や神学校で教壇に立つ,任命されたプロテスタントの牧師から出ています。これらの牧師は「神なしの神学」をあみ出し,「神は死んでいる」との宗教哲学をうち立てようとしているのです。「1966年版ブリタニカ年鑑」671ページの一記事はこう述べています。

      9 神に関する従来の考え方を退けることによって,「キリストの人物に対する忠節さは深まる」ということがどう主張されていますか。そしてクリスチャンであることの意味はどう説明されていますか。

      9 「この急進的な神学の提唱者は神の観念の代わりになにを提出するのか。またなぜ彼らは今なお『神学者』であると言うのか(あるいは言うべきか)。逆説的であるが,従来の有神論の否定によってイエスの人物に対する忠節さは深まっている。〔ドイツの牧師〕ボンホエファーの別のことばを借りれば,イエスは『ほかの人々のための人』であり,自分の命をもささげて同胞の福祉につくして,勇気と希望の生活を他の人々に,そして今日のわたしたちに可能にした人である。クリスチャンであることは信条を暗しょうしたり,教会の儀式に参列したりすることではなく,他の人々に役だつ人間となり,他の人々の益のために自分の命をささげて,イエス・キリストの生涯と死に表わされた真の人間性の自由を体得し,また発揮することである」。

      10 パウロが土台としてすえたのはこのようなキリストですか。この点に関しパウロはコロサイ人への手紙 2章2-10節でキリストについて何と述べていますか。

      10 使徒パウロが土台としてすえたのは,このような神を度外視した,人間的なキリストではありません。今日,正直な態度で聖書を学ぶ者にとって,イエス・キリストがだれであり,どんな人物であるかは少しも問題になりません。キリストがだれであるかは長年にわたる「神の奥義」でしたが,使徒パウロは明らかにされたキリストについてさらにこう述べています。「キリストのうちには,知恵と知識との宝が,いっさい隠されている。わたしがこう言うのは,あなたがたが,だれにも巧みな言葉で迷わされることのないためである。……このように,あなたがたは主キリスト・イエスを受けいれたのだから,彼にあって歩きなさい。また,彼に根ざし,彼にあって建てられ,そして教えられたように,信仰が確立されて,あふれるばかり感謝しなさい。あなたがたは,むなしいだましごとの哲学で,人のとりこにされないように,気をつけなさい。それはキリストに従わず,世のもろもろの霊力に従う人間の言伝えに基くものにすぎない。キリストにこそ,満ちみちているいっさいの神の徳が,かたちをとって宿っており,そしてあなたがたは,キリストにあって,それに満たされているのである。彼はすべての支配と権威とのかしらであ(る)」― コロサイ 2:2-10。

      11 今日このような聖書的なキリストを土台として認めているのは,どんなクリスチャンですか。その人々と聖書の研究をする人はどんなことを確信できますか。

      11 これが聖書のキリストであり,今日のエホバの証人がエホバ神の備えられた土台として認めているものです。エホバの証人が「神の同労者」として使うことのできる土台はこれだけであり,エホバの証人は実際にこの土台の上に建てています。だれでも神を求めてエホバの証人と交わり,エホバの証人と聖書を学ぶ人は必ず一つのことを確信できます。すなわち,その人がキリストから離れてキリスト教国の宗教哲学に迷い込むことはありません。その人は唯一の聖書的な土台つまりエホバ神のみ子イエス・キリストの上に霊的にしっかりと建てられます。

      わたしたちはどのように建てているか

      12 わたしたちは正しい土台の上にありますが,パウロはコリント人への第一の手紙 3章12,13節でどんな警告をしていますか。

      12 わたしたちが今,正しい土台の上にいることは全く確かです。しかしわたしたちは,この土台の上にどのように建てられるのですか。「神の同労者」に対する使徒パウロの次のことばはこの点で一つの警告を含んでいます。「この土台の上に,だれかが金,銀,宝石,木,草,または,わらを用いて建てるならば,それぞれの仕事は,はっきりとわかってくる。すなわち,かの日は火の中に現れて,それを明らかにし,またその火は,それぞれの仕事がどんなものであるかを,ためすであろう」― コリント第一 3:12,13。

      13 正しい土台の上にどのように建てるかを気をつけるにあたり,わたしたちが建てるものについてどんな疑問がありますか。

      13 これより先にパウロが,「どういうふうに建てるか,それぞれ気をつけるがよい」と言ったのはこのためです。(コリント第一 3:10)しかし神の同労者が唯一の土台イエス・キリストの土に建てるものは何ですか。それは教義の組み立て,つまり聖書の教えからなる建物ですか。そしていろいろな教義を宗教上の価値や重要さに応じて金,銀,宝石,木,草,わらなどにたとえているのですか。そしてこの教義の組み立ては,人が自分で聖書を勉強し,それによって得る聖書の教えの理解と信仰とによって,自分自身の中に建てるものですか。そして,このわたしたちの教義的な建物が材料の耐久性を火でためされるのですか。使徒パウロが論じているのは,人が知識や理解や信仰の面でどのように自分自身を教育するかという問題ですか。

      14,15 語法から見てパウロはどんな建物について論じていますか。文脈はそのことをどう証明していますか。

      14 もう一度見てごらんなさい。パウロのことばを読み返してごらんなさい。パウロは教義を組み立てること,また教理や信条を作り上げることなどについて語っているのではありません。彼は人々を建てることについて語っているのです。「あなたがたは……神の建物である」と彼は述べています。(コリント第一 3:9)この建物はユダヤ人が神の崇拝のためにエルサレムに建てた宮によって予影されました。この考えを追って使徒パウロはさらにこう語っています。

      15 「あなたがたは神の宮であって,神の御霊が自分のうちに宿っていることを知らないのか。もし人が,神の宮を破壊するなら,神はその人を滅ぼすであろう。なぜなら,神の宮は聖なるものであり,そして,あなたがたはその宮なのだからである」― コリント第一 3:16,17。

      16 それでこれはなんの宮ですか。何の上に建てられますか。どんな目的のために?

      16 この生きた人々の宮つまり霊的な宮はイエス・キリストを基本的な土台として建てられています。使徒パウロはエペソ人への手紙 2章20-22節で述べました。「あなたがたは,使徒たちや預言者たちという土台の上に建てられたものであって,キリスト・イエスご自身が隅のかしら石である。このキリストにあって,建物全体が組み合わされ,〔エホバ〕にある聖なる宮に成長し,そしてあなたがたも,主にあって共に建てられて,霊なる神のすまいとなるのである」,〔新世訳〕。

      17 わたしたちは「神の同労者」として何かを創造するのですか。わたしたちは土台の上にどのように建てていますか。

      17 それで,「神の同労者」であるわたしたちは以前に存在しなかった人々を創造しているのではなく,すでに人間として存在する人々をある特定の人々に作りあげているのです。わたしたちは神の助けを得ながらどんな人々を作っているのですか。それはキリストの弟子です。わたしたちは真の意味のクリスチャンを作っているのであり,人々の中にクリスチャンの人格を建てているのです。エホバ神が天のシオンにすえた貴い土台すなわちイエス・キリストの上に建てているなら,当然にこのことをしていなければなりません。わたしたちの願いは真のクリスチャンを生み出すことです。さもなければわたしたちの建てる仕事はむだに終わるでしょう。

      18 イエスは麦と毒麦のたとえ話の中で,注意することの大切さをどう示しましたか。注意しなければ毒麦をまいた者に加担する場合もあることを説明しなさい。

      18 麦と毒麦のたとえの中で,イエスはにせのクリスチャンが多く出ることを示されました。成長の初期ににせ物は本物とよく似ていて,外観だけでは見まがうことがあります。農場の働き人が毒麦と思えるものを早いうちに抜き集めようとした時,農場の主人がそれを止めたのはこのためです。「いや,毒麦を集めようとして,麦も一緒に抜くかも知れない。収穫まで,両方とも育つままにしておけ。収穫の時になったら,刈る者に,まず毒麦を集めて束にして焼き,麦の方は集めて倉に入れてくれ,と言いつけよう」。(マタイ 13:29,30)イエスは説明して言われました。「良い種と言うのは御国の子たちで,毒麦は悪い者の子たちである」。(マタイ 13:38)それゆえ,パウロも警告するとおり,わたしたちはイエス・キリストの土台の上にどういうふうに建てるかに気をつけねばなりません。毒麦の表わすにせのクリスチャンを建てているなら,毒麦をまいた悪魔サタンに力を貸していることになります。

      19 わたしたちの建てるものについてどんな疑問が起きますか。材料の選択は結果を左右しますが,どんな材料を選ぶことができますか。

      19 わたしたちの建てるクリスチャンは火のような試練の時代に耐えますか。それとも,わたしたちの仕事はすべて煙になりますか。それはわたしたちがどんなものでクリスチャンを作るかによって決まります。わたしたちは火に耐える,燃えないものを使って建てねばなりません。わたしたちの建設の仕事の材料は金,銀,宝石,木,草,わらなどにたとえられます。もとより,木,草,わらなどに相当するもので建てるなら,わたしたちの建てるものが火で焼けることを予期しなければなりません。金,銀,宝石などは燃えません。これらは火の試練に耐えます。

      20 キリスト教国は過去16世紀の間,どんな方法で自称のクリスチャンを作ってきましたか。どんな疑問が起きますか。

      20 これまで16世紀の間,キリスト教国はキリストを土台にして立つことを主張し,何十億人もの自称のクリスチャンを生み出してきました。そして今日残る信徒の数は9億6100万人です。かつてキリスト教国は武力で人々を自分の宗教組織に入れました。また誕生後まもない幼児に洗礼を施し,教会にいれています。キリスト教国は異教の思想や慣行を採用し,それによって異教徒を教会組織に入れようとしています。また信徒が政治と商業と武力の世界の一部としてとどまることを許し,同時にそうした者たちに教会内で良い立場を与えています。キリスト教国はどんなクリスチャンを生み出していますか。

      21 この疑問に対する答えはいつ完全に明らかになりますか。キリスト教国およびその信徒はどうなりますか。

      21 この質問の答えはキリスト教国の個々の教会員についていまだ明らかでないとしても,世界のハルマゲドンに先だつ火の試練によってやがて明らかになるでしょう。その時にはキリスト教国全体が非キリスト教的なものとして暴露されます。そしてキリスト教国がバビロン的な偽りの宗教の世界帝国つまり大いなるバビロンの一部,実際にはその主要な部分であることも明らかにされるでしょう。またキリスト教国が木,草,わらなど燃えるものを集めてただ名のみのクリスチャンを建ててきたことも明らかになるでしょう。霊的な収穫の時は絶頂に達します。そして麦と毒麦のたとえ話に描かれているとおり,象徴的な毒麦は真のクリスチャンから完全に分かたれ,焼き滅ぼされます。(マタイ 13:36-42)その時,非キリスト教的なキリスト教国を含む大いなるバビロン全体が永遠に滅びます。―黙示 18:1–19:3。

      金,銀,宝石

      22 燃えないもので建ててきたなら,金,銀,宝石などを使ってどんな建て方をしてきたはずですか,詩篇 19篇はこのことをどう示していますか。

      22 それではわたしたちは象徴的な金,銀,宝石を用いてキリストの弟子を建ててきましたか。書かれた神のことばの律法,戒め,原則を弟子となる人々に教えそれをその人々の心に刻み込んできたなら,これに肯定の答えをすることができます。その人々に清く平和な「上からの知恵」を教えてきたならやはり「はい」と答えることができます。(ヤコブ 3:17)詩篇 19篇7-11節はこう述べています。「エホバの法はまたくしてたましひをいきかへらしめ エホバのあかしはかたくして愚なるものをさとからしむ エホバのさとしはなほくして心をよろこばしめエホバの誡命はきよくしてまなこをあきらかならしむ エホバをかしこみおそるる道はきよくして世々にたゆることなく,エホバのさばきは真実にしてことごとく正し これを黄金にくらぶるも,おほくの精純金にくらぶるもいやまさりてしたふべく,これを蜜にくらぶるも蜂のすのしたたりにくらぶるもいやまさりて甘し なんぢの僕はこれによりていましめを受く,これらをまもらば大なるむくいあらん」。(文語)

      23 使徒ペテロは人の中に建てるべき信仰の質を何と比較しましたか。

      23 さらに,神とキリストに対する信仰と確信の質について使徒ペテロはこう書いています。「今しばらくの間は,さまざまな試練で悩まねばならないかも知れないが,あなたがたは大いに喜んでいる。こうして,あなたがたの信仰はためされて,火で精錬されても朽ちる外はない金よりもはるかに尊いことが明らかにされ,イエス・キリストの現れるとき,さんびと栄光とほまれとに変るであろう」― ペテロ第一 1:6,7。

      24 霊的な金を求めるべきことをイエスはラオデキヤ会衆にどのように示されましたか。

      24 栄光を受けたイエス・キリストはラオデキヤ会衆への手紙の中で金について述べました。「実は,あなた自身がみじめな者,あわれむべき者,貧しい者,目の見えない者,裸な者であることに気づいていない。そこで,あなたに勧める。富む者となるために,わたしから火で精錬された金を買い(なさい)」― 黙示 3:14-18。

      25 箴言は燃えない材料として使える金,銀,宝石についてなんと述べていますか。

      25 知恵と分別とさとりと考える力の永続的な価値について,昔の賢人は霊感のもとにこう書きました。「銀のごとくこれを探り,かくれたる宝のごとくこれを尋ねば なんぢエホバをおそるゝことをさとり神を知ることを得べし そはエホバは知慧をあたへ 知識とさとりとそのみくちより出づればなり かれはただしき人のためにさとりをたくはへ直くあゆむ者のたてとなる」。(箴言 2:4-7,文語)「知恵を求めて得る人,悟りを得る人はさいわいである。知恵によって得るものは,銀によって得るものにまさり,その利益は精金よりも良いからである。知恵は宝石よりも尊く,あなたの望む何物も,これと比べるに足りない」― 箴言 3:13-15。

      26 燃えないもので建てるということはわたしたちが作る弟子に関してどんな意味になりますか。

      26 永続し,神の是認を受ける建物を作るために,わたしたちは霊感の聖書が金,銀,宝石などと比べているものをもって建てねばなりません。すなわちわたしたちは,キリストの弟子にしようとする人々に,天の知恵のとうとさ,霊的なさとり,忠実を保つことの大切さ,聖書の原則に対する献身,エホバ神の律法,さとし,いましめ,さばきに対する尊敬心,書かれた神のことばに対する信仰,神の民の神権組織に堅く従うこと,良い羊飼イエス・キリストにゆだねられた神の「羊」に対する愛,メシヤを王とする神の国への破れることのない忠誠,および自らすすんで神の国を証言する勇気などを教えねばなりません。わたしたちは「神の同労者」であり,そのゆえにキリストの弟子となる人々の中にイエス・キリストに似た新しいひととなりを築かねばなりません。エペソ人への手紙 4章20-24節はこう述べています。

      27 エペソ人への手紙 4章20-24節はこの「新しい人」について何を述べていますか

      27 「あなたがたは,そのようにキリストに学んだのではなかった。あなたがたはたしかに彼に聞き,彼にあって教えられて,イエスにある真理をそのまま学んだはずである。すなわち,あなたがたは,以前の生活に属する,情欲に迷って滅び行く古き人を脱ぎ捨て,心の深みまで新たにされて,真の義と聖とをそなえた神にかたどって造られた新しき人を着るべきである」。

      28 わたしたちは古いひととなりをどうすべきですか。これにはどんな行ないが伴うべきですか。

      28 コロサイ人への手紙 3章9-12,14節のことばもこれと同じです。「互にうそを言ってはならない。あなたがたは,古き人をその行いと一緒に脱ぎ捨て,造り主のかたちに従って新しくされ,真の知識に至る新しき人を着たのである。そこには,もはやギリシャ人とユダヤ人,割礼と無割礼,未開の人,スクテヤ人,奴隷,自由人の差別はない。キリストがすべてであり,すべてのもののうちにいますのである。だから,あなたがたは,神に選ばれた者,聖なる,愛されている者であるから,あわれみの心,慈愛,謙そん,柔和,寛容を身につけなさい。これらいっさいのものの上に,愛を加えなさい。愛は,すべてを完全に結ぶ帯である」。

      29 このような材料は火の試練の時にどんな価値をあらわしますか。わたしたちはマタイによる福音書 28章19,20節に従ってどんな弟子を作ろうとしていますか。

      29 クリスチャンのひととなりに組み込まれるこうした材料は火で燃えません。これらはクリスチャンの信仰の純粋さをためすいかなる試練にも耐えるでしょう。火のような試練にあっても信仰を守り通すのはこの種のクリスチャンであり,単に口先でキリスト教を唱える人々はたちまち灰となり,偽りもの,またにせものであることが暴露されます。わたしたちがイエスの命令に従って生み出そうとしているのはこの種のクリスチャンつまりキリストの弟子です。「それゆえに,あなたがたは行って,すべての国民を弟子として,父と子と聖霊との名によって,彼らにバプテスマを施し,あなたがたに命じておいたいっさいのことを守るように教えよ。見よ,わたしは世の終りまで,いつもあなたがたと共にいるのである」― マタイ 28:19,20。

      30 (イ)大いなるバビロンの滅びの日が近づくにつれ,わたしたちの建築の仕事についてどんな疑問が起きますか。(ロ)その時どんな損失をこうむりたくありませんか。わたしたちの望むことは何ですか。

      30 わたしたちの建設の仕事はどんな仕事ですか。虚偽の暴露,現代主義的な思潮,狂気のような国家主義,神の律法の無視などによって,個々のクリスチャン信仰の純粋さと耐久力とが試みられている今日,わたしたちの仕事はどんなものであることが現われていますか。エホバ神が大いなるバビロンおよびそれにつらなるにせのクリスチャンすべてを滅ぼされる日は近づいていますが,その時わたしたちの仕事はどんなものとしてあらわれますか。わたしたちは自分のクリスチャンの建設作業の結果が火で焼けることを望みません。むしろ火に耐える,燃えないものを使って正しい仕事をし,その報いを受けることを望みます。コリント人への第一の手紙 3章14,15節はこう述べています。「もしある人の建てた仕事がそのまま残れば,その人は報酬を受けるが,その仕事が焼けてしまえば,損失を被るであろう。しかし彼自身は,火の中をくぐってきた者のようにではあるが,救われるであろう」。

      「火の中をくぐってきた者のように…救われる」

      31 建築者であるパウロがコリント会衆に2通の手紙を書いたのはなぜですか。テサロニケ人への第一の手紙によればパウロはどんな報いを望んでいましたか。

      31 使徒パウロは火で焼かれて損失をこうむることを望みませんでした。コリント会衆の場合に彼が2通の手紙を書き送ったのはこのためです。彼は「あなたがたを,きよいおとめとしてキリストにささげ」たいと述べました。(コリント第二 11:2)また迫害されていたテサロニケのクリスチャンに次のことばを書き送ったのもこのためでした。「あなたがたは,多くの患難の中で,聖霊による喜びをもって御言を受けいれ,わたしたちと主とにならう者となり,こうして,マケドニヤとアカヤとにいる信者全体の模範になった。実際,わたしたちの主イエスの来臨にあたって,わたしたちの望みと喜びと誇の冠となるべき者は,あなたがたを外にして,だれがあるだろうか。あなたがたこそ,実にわたしたちのほまれであり,喜びである」。(テサロニケ第一 1:6,7; 2:19,20)これらの人々を自分の仕事の結果として提出したパウロにはすぐれた報いがありました。

      32,33 (イ)火の損失をこうむる建築者が救われるかどうかについて何が言えますか。(ロ)その者を火の中から引き出すために,その兄弟である「神の同労者」は何をしなければなりませんか。

      32 キリストを土台としながら燃えやすいもので建設の仕事をする者自身は火をくぐり,最後に救われますか。そのようなことはおそらくないでしょう。その者自身も火で焼かれるかもしれません。しかし,その者が永遠の命に救われるとすれば,それはその者が自分の建てたものを焼き滅ぼす火の中をくぐって出るためです。貧弱な建築者である者がこうして救われるためには,まず自分自身の中に良い建築資材とも言うべきクリスチャンの資質を取り入れて,自らを火に耐える建物にしなければなりません。その者はやさしいクリスチャン兄弟のおりを得た介入によって火から引き出してもらわねばなりません。

      33 コリント人への第一の手紙 3章15節の一現代訳(モハット訳)はこの点を明らかにしています。「もしある者の仕事が焼かれるなら,その者は損失者である ― そしてその者自身は救われるが,彼は炎から引き出されるのである」。その者が唯一まことの土台であるイエス・キリストの上にとどまるなら,その兄弟である「神の同労者」たちはその者を建てなおし,火に耐えるクリスチャンの資質をその者の中に建てねばなりません。それでユダ書 22,23節はこう述べています。

      34 ユダ書 22,23節は同様な救出の行為をどう述べていますか。

      34 「疑いをいだく人々があれば,彼らをあわれみ,火の中から引き出して救ってやりなさい。また,そのほかの人たちを,おそれの心をもってあわれみなさい。しかし,肉に汚れた者に対しては,その下着さえも忌みきらいなさい」。

      35 (イ)救いを望む者がどんな考え方をするのは危険ですか。(ロ)火の試練にはいらないですむ人がいますか。真のクリスチャンの信仰を愛する人は火の中からどのようにして出ることを願いますか。

      35 クリスチャンを自任する人のすべては皆ひとしく決定的な火の試練にはいらねばなりません。真のクリスチャンの信仰を愛する者はすべてクリスチャンの資質の確かさを実証して,火の中からくぐり出ることを願うでしょう。それは偉大な建築者であられる神の栄光となります。そしてわたしたちはその同労者です。自分の仕事の結果が焼失しても建築者自身はかろうじて永遠の滅びを免れることもありますが,だれにしてもこれに望みをかけることはきわめて危険です。神への奉仕の生活を真実に愛する者で火の中から引き出されてようやく救われることを望む者がいますか。誠実で賢明な神の同労者であるなら,粗末な建築者となって損失をこうむりたいとは思いません。彼らは忠実な同労者すべてに神がさしのべられる喜びの報いを大切なものと見ています。これこそ彼らの願うものであり,彼らはそれを目ざして働いています。

      36 わたしたちの益のためにどんな建築の仕事に感謝すべきですか。それに対してどんな態度を取るべきですか。どのように。それはどんな結果を伴いますか。

      36 それゆえわたしたちは,神の神権組織がわたしたち各自に行なうクリスチャンの建築の仕事すべてに感謝しましょう。それと同時に,神の組織と力を合わせながら神の是認を受ける仕事をし,唯一つの正しい基であるイエス・キリストを土台として,霊的な金,銀,宝石など火に耐える燃えないものを使って建築の仕事を続けましょう。これによってわたしたち自身が永遠の命を得,またわたしたちがその上で建てる仕事をする他の人々にも永遠の命を得させることができます。

  • ユダヤ教徒に証言
    ものみの塔 1967 | 1月15日
    • ユダヤ教徒に証言

      ● 時おり兄弟たちはいろいろな問題が原因で,世間から非難を受けることがありますが,そのような非難がもたらすことになった良い結果を知るのも興味深いことです。奉仕年度中にオーストラリアのある姉妹は血の問題に関して神への忠誠を守って死亡しました。そのニュースは国中に伝わりました。このことに関連した経験が監督から協会へ送られてきました。その地方のラビは監督の名を電話帳でしらべ,エホバの証人が死に至るまでもその立場を守る理由をユダヤ教の婦人会で説明してほしいと電話で依頼してきました。エホバの証人のとる立場に関してユダヤ教徒の婦人たちから同じ質問をされたラビは答えることができなかったのです。この会衆のしもべは招待に応じて補佐とともに出かけました。そしていささか驚いたことに集会所には70人の婦人がいました。監督はユダヤ教の聖書を使って約20分間にわたり血に関するエホバの証人の立場を説明しました。それから質問の時間が設けられましたが,質問の多くはラビ自身から出されました。質問が出つくした時,訪問に対する人々の心からの感謝を示す拍手がひとしきり起こり,兄弟たちが立ち去る時には多くの人が微笑して手を振っていました。兄弟たちはよく準備してこの場にのぞみ,また小冊子も携えてきていました。そしてラビの許可を得て出席者に1冊ずつ手渡しました。このように,非難がその時は不利なものに思えても,それがエホバの聖なる御名に誉れとなる良い結果になることもあります。

      ― エホバの証人の年鑑より

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