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『エホバに転ずる』ための時間はまだ残されているものみの塔 1976 | 7月1日
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『エホバに転ずる』ための時間はまだ残されている
「わたしのもとに帰れ」とは,エホバ神がご自分の不従順な国民にたびたび語られた訴えの言葉です。その訴えには,「そうすれは,わたしもあなたがたのもとに帰ろう」という励みある約束が付け加えられています。(マラキ 3:7,新)悔い改めたご自分の国民に神がそのように帰るとは,エホバ神が好意的な注意を向けて,彼らを祝福し,導き,保護することを意味しました。
しかし神の訴えの言葉は,限りなく差し伸べられる訳ではありません。神が裁きを執行する時にその好意を求めても遅すぎます。そのために不忠実なイスラエル人はこう告げられました。「エホバを捜し求めなさい。見いだせるうちに。近くにおられる間に,呼び求めなさい。邪悪な人は己の道を捨て,害を加えようとする人は己の考えを捨て去りなさい。あわれみをかけてくださるであろう。わたしたちの神に帰りなさい。豊かに赦してくださるからである」。(イザヤ 55:6,7,新)それで,創造者とのすぐれた関係に入るよう努力できるのは,神が人類に対して,ご自分を捜し求めるようなおも暖かく訴えておられる期間中だけです。「エホバを捜し求めなさい」という訴えの言葉は,あなたに当てはまるでしょうか。そうかもしれません。
もしかすると,あなたのご両親はエホバ神の献身した奉仕者であって,聖書に対する正しい認識をあなたに教え込むため,できる限りの努力をしてこられたかもしれません。あるいは,あなた自身,エホバのクリスチャン証人とかなりの期間聖書を学んでこられたかもしれません。おそらく,エホバの証人との交わりを通して聖書から学んだ事柄をあなたに話した親族が,一人かそれ以上おられるでしょう。あるいは,エホバの証人から文書を受け取り,それを楽しく読まれたかもしれません。中には読んだり聞いたりした事柄は正しいと思ってはいても,それ以上のことをするのは難しいと感ずる方もおられるでしょう。創造者との真の関係を持っていないことを心の中で認めておられるかもしれません。もしあなたがこうした状態の下にあるなら,『エホバのもとに帰れ』との訴えが自分にも当てはまると感ずべき理由があることになります。
障害を見極める
ご自分を捜し求めるようにという神の訴えに一致して行動するため,人はそうするのに妨げとなっている障害を取り除かねばなりません。この点での最初の段階は,障害が何であるかを見極めることです。イエス・キリストの語られた例え話は,障害となるものを確認するのに役立つでしょう。
この例え話は,神の王国の「ことば」もしくは音信が人々に与える影響に関して述べられたものです。イエス・キリストはその例え話を弟子たちに説明したとき,こう語られました。「人が王国のことばを聞きながらその意味を悟らない場合,邪悪な者がやって来て,その心の中にまかれたものをさらって行きます。これが道路のわきにまかれたものです。岩地にまかれたもの,これはみことばを聞き,喜んですぐにそれを受け入れる人のことです。でも,自分に根がなく,一時は続きますが,みことばのために患難や迫害が生じると,すぐにつまずくのです。いばらの中にまかれたもの,これはみことばを聞きますが,この事物の体制の思い煩いと富の欺きの力がみことばをふさぐ人のことであり,その人は実を結べなくなります」― マタイ 13:19-22。
王国の音信に対する心の認識を増すためには,静かに熟考する時間が必要です。しかしある人の日常生活は,いわば旅人が多く通る道路のようになっているかもしれません。人通りが激しいため,時間とエネルギーが奪われてしまうのです。そうした状態にあるとき,「王国のことば」を心から熟考する機会はほとんどありません。絶え間ない往来にさらされて,心は「道路のわき」の固い土のようになります。
神とのすぐれた関係を本当に欲しているなら,そうした関係を育むのに妨げとなるほど自分の時間が他の人によって奪われるのをなぜ許すのですか。あなたの心を道路のわきの非産出的な土のようにならせる必要はありません。固い土は,すきで掘り返し,そこを通る人の流れをそらすことによって産出的になります。同様に,神の言葉を熟考する時間を作るなら,あなたの心は質の良い産出的な土のようになります。
そしてまた,「王国のことば」が浅い土に落ちる場合もあります。神の真理に対する心の認識が十分に強くないため,友人や親族からの反対に落胆しているかもしれません。しかし,王国に関する音信を初めて受け入れた時に経験した喜びを,なぜ他の人によって奪われるままにしておくのですか。神がご自分を愛する人々に差し伸べておられる,すばらしい希望について学んだ時の幸福感を覚えておられることでしょう。病気や死のない地をもたらすという神の目的を学んだ時,大きな感動を覚えられたに違いありません。また,ご自分に仕える人々のために神が備えておられる祝福にどのようにあずかれるかを知った時,大きな喜びを抱いたのではありませんか。
もしこれまで,「患難や迫害」のために王国の音信に対する認識が弱まるままになってきたのであれば,あなたが放棄したものについて真剣に考えてください。神との永続的な関係を得させるものの代わりに,ごく一時的なものを今まで求めてきたという事実を忘れてはなりません。例えば,友人や親族はあなたに命を与えることも,自分たちの命をとこしえに維持することもできません。あなたが聖書の研究を止めたためにそれらの人々が喜んだとしても,あなたがエホバ神との良い関係を得ようと努力していた時に比べて彼らの立場は良くなっていると言えますか。実際のところ,あなたが反対に屈するなら,友人や親族はますます王国に関する音信を真剣に受け入れなくなるのではありませんか。
あるいは,この世で出世するための努力が,王国の音信に対する認識をふさぐ「いばら」のような影響を及ぼしてきましたか。その結果,自分の現状を考えて,今では物質を追求することが空虚であると感じておられますか。あるいは,お子さんが自分勝手な道を歩むようになったという苦い経験を持つ方がおられるかもしれません。こうした経験から,もっと多くの時間を子供と共に過ごし,聖書のすぐれた導きに親しませたほうがはるかに良かったと思われますか。過ぎ去った時間を取り戻すことはできませんが,「富の欺きの力」のためにこれ以上,問題を増やすようなことがあってはなりません。重荷を捨てて,エホバに帰るのはどうでしょうか。
イエスが指摘されたように,生計を立てる上での日常の思い煩いは,富の追求と同じくらい有害なものになり得るのです。いばらにも似た生活上の苦労や心配は,王国の音信に対してあなたがかつて抱いた愛を,押しやってしまったのかもしれません。しかし,こうしたことはあなたに益となりましたか。依然として同じ問題に直面しませんか。恐らく今のほうが,事態はさらに難しくなっているのではないでしょうか。以前には,献身したエホバの奉仕者からの励ましや神の愛ある保護がありましたが,今はすべて自分の力で行なわねばなりません。それでは,エホバのもとに帰り,エホバの助けとその献身した民から成る会衆の助けを求めるほうが,はるかに優れているのではないでしょうか。
自分のこれまでの生き方は,エホバ神に決して許していただけるようなものではないと感じている人がいるかもしれません。もしそうであれば,イスラエル人に与えられた,聖書中の次の保証の言葉から慰めを得てください。「善を行なうことをならい,公平を求め(よ)……たといあなたがたの罪は緋のようであっても,雪のように白くなるのだ。紅のように赤くても,羊の毛のようになるのだ」。(イザヤ 1:17,18,口)そうです,エホバは,真に悔い改めてご自分のもとに帰る者をすべて受け入れてくださるのです。
エホバに帰ることによって,確かに人は多くのものを得ます。自分の力で物事を行なおうと苦闘する代わりに,祈りに対する答えとして神の助けや導きを体験します。清い良心のみがもたらし得る満足を享受するでしょう。霊的必要が満たされてはじめて,真の幸福と満足が得られるのです。
他の人に喜びをもたらす
エホバのもとへ帰ることは,また他の人に喜びをもたらします。そうすることはエホバ神とイエス・キリストが望んでおられることと調和するゆえに,み使いたちは人々が悔い改めてエホバに帰るときにいつでも喜びます。イエスはこう語りました。「悔い改めるひとりの罪人については,神の使いたちのあいだに喜びがわき起こるのです」― ルカ 15:10。
それで,エホバに帰ることによって,神を愛する人々から恥ずかしい思いをさせられるなどと恐れる必要はありません。エホバの献身した奉仕者たちは,このことに関して決してあなたをとがめたりはしないでしょう。むしろ,み使いたちと同様に純粋な感情を持つことを強く願っているのです。み使い同様,彼らはあなたがエホバに帰るのを見て,大いに喜ぶでしょう。
王国の音信を良いものと認めておられるなら,エホバに帰ることを遅らせてはなりません。神の裁きの執行がなお将来のものである限り,行動するための時間はまだ残されています。しかし,その大いなる裁きの到来を無視するような仕方で生活するのは実際には,賢明なことではありません。それは,永遠の命を得るという見込みを危険にさらすことになりかねません。エホバ神との是認された関係から得られる現在と将来の益を考えるなら,遅らせることなく,今神のもとに帰るのは賢明なことではありませんか。
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読者からの質問ものみの塔 1976 | 7月1日
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読者からの質問
● バビロンで流刑の身にあったエゼキエルが,「イスラエルの家を見守る者」として,エルサレムにいた神の民の命に対して責任があったと言えるのはどうしてですか。―エゼキエル 33:7,口。
エゼキエルは,西暦前617年にバビロンの王ネブカデネザルがエルサレムからバビロンに連れてきた,1万8,000人に上るイスラエル人の流刑者の一人でした。(列王下 24:14-16)それは,西暦前607年にエルサレムが完全に滅ぼされる10年前のことです。西暦前607年には,さらに大勢のイスラエル人が捕囚としてバビロンに連行されました。
バビロンとエルサレム両首都間の,使者や手紙による連絡は,その時代や両市の間の距離を考えると,かなりよく保たれていたと言えます。(エゼキエル 21:7; 33:21。列王下 25:8-10)“肥よく三日月地帯”の通商路には隊商による定期的な往来がありましたが,それを通して,エルサレムとバビロンの間のたよりや音信を交わすこともできました。(創世 11:31; 12:1-5。エゼキエル 27:3,17-24と比較。)バビロンにいたエゼキエルが幻の中で見た事柄やそこで行なった事柄(エゼキエル 24:24),そして同市の偽預言者の語った事柄さえ,エルサレムで知られるようになりました。(エレミヤ 29:20-23)逆に,エホバの預言者エレミヤがエルサレムで語った事柄は,バビロンで流刑になっていたイスラエル人の,容易に知るところとなりました。―エレミヤ 29:1。
それゆえ,バビロンで流刑となっていた人々に対して,エゼキエルが警告となる前兆を忠実に与えると,そうしたたよりは詳細に記録され,エルサレムに届けられたと思われます。その中には,神殿で見られる憎むべき事柄を目の当たりに見るような幻(エゼキエル 8:1-18),エルサレムで嘆き悲しんでいる人々の額に印をつける,亜麻布を着た人に関する記述(エゼキエル 9:1-11),およびエゼキエル書 12章10節から16節に記録されている,エルサレムに対する託宣などがあります。
こうして,バビロンとユダにいたイスラエル人はどちらも,エホバから公の警告を受けていました。それでエゼキエルは,「イスラエルの家を見守る者」として忠実
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