新しい家庭聖書研究を取り決める ―(2)
日本人はほとんどの場合,自然そのものが神であるという概念を抱いたり,巨木や岩,そして特定の人物をその崇拝の対象としたりします。それで創造者に関する知識を分かち合いたいと思う場合,次のような近づき方が効を奏します。
「聖書の神は目に見えない方ですが,その方の存在を確かめる方法をご存じでしょうか」と尋ね,家の人の答えを聞いた後,「これがその二つの方法です」と言って,「見よ!」のブロシュアーの8ページ13節を開いて読みます。その際,聖書から説明するよりも,まず創造物による方法に注目させ,17節を討議するか,18節の中から身近な創造物を例に取り,推論しながらすべてのものの造り主が存在することを指摘します。
18節の場合,次のように推論できます。「大抵の人は美しい花を見て感動を覚えます。中には,単に白い球根がどうしてあのような美しいゆりに生長していくのか不思議に思う人さえいます。以前は鳥や花そして人体の造りを不思議に思ったことがあっても,なぜ,どうしてこれらのものが存在するのかその理由まで,深く考えることはありませんでした。どうぞ12節の最後の3行の説明をご覧ください。すべてのものを造られた創造主が存在すると考えることは道理にかなっていませんか」。
「もう一つの方法である聖書もよく調べる必要があります」と述べ,その具体的な方法について14節から調べることを勧め,次の訪問を約束します。
同様の例は「論じる」の本の129,130ページにもあります。そこには,聖書を神の言葉として受け入れていない人々のために,聖書の説明以外に世の権威者や世俗の資料に加え,道理に訴える例えが挙げられています。