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  • あなたは真理のうちを歩みつづけますか
    ものみの塔 1990 | 9月1日
    • あなたは真理のうちを歩みつづけますか

      「わたしの子供たちが真理のうちを歩みつづけている……こと,わたしにとってこれほど感謝すべきことはありません」。(ヨハネ第三 4)使徒ヨハネは,その長い生涯が終わりに近づいたころ,このように述べました。ヨハネが「真理」に導いた『彼の子供たち』が忍耐しつづけていたことは,彼自身に大きな喜びをもたらしました。エホバもまた,ご自分の崇拝者たちが真理のうちにとどまる時に歓喜されます。今日エホバは,何百万もの人々から成る一つの大きな組織が,この賢明な道を歩んでいるのをご覧になってどれほど喜んでおられることでしょう。―箴言 27:11。

      しかし,神の民が全体として真理にしっかり結ばれている一方で,個々のクリスチャンの中には,速度をゆるめる人,あるいは清い崇拝を捨てる人さえいます。これは意外なことではありません。1世紀にも同じことが生じたからです。(テモテ第二 4:10。ヘブライ 2:1)それでも,速度をゆるめる人がいるという事実は,すべての人が自分の霊性に絶えず注意する必要のあることを強調しています。パウロは,「自分自身がどんなものであるかを絶えず吟味しなさい」と,すべてのクリスチャンを励ましました。(コリント第二 13:5)クリスチャンは各々,『どのようにしたら,真理のうちを確かに歩みつづけることができるだろうか』と自問してみなければなりません。

      中には健康の問題や個性の衝突が生じたためか,落胆してしまって速度をゆるめた人,あるいは真理のうちを歩むことまでやめた人がいます。ほかのことに気を散らされたために速度をゆるめた人もいます。そういう人たちは,この事物の体制が続く間はこの体制が結ぶ実を幾つか楽しんでいたいと考えるのです。ではどうすれば速度をゆるめないようにすることができるでしょうか。その答えを得るために,イエスがわたしたちに残された模範を考えてみましょう。

      イエスの模範に従う

      イエスは多くの難しい状況に直面されました。敵の憎しみやあざけりを耐え忍ばねばならないだけでなく,ご自分の追随者たちの間に生じた個性の衝突も処理しなければならず,この世が提供する数々の誘惑にも抵抗しなければなりませんでした。実際イエスには,だれも聞いたことがないほどの富と傑出した立場が提供されたのです。(マタイ 4:8-11。ヨハネ 6:14,15)それでもイエスは真理のうちを歩みつづけました。何がイエスをそうさせたのでしょうか。

      使徒パウロの次の言葉からそれが分かります。「自分たちの前に置かれた競走を忍耐して走ろうではありませんか。わたしたちの信仰の主要な代理者また完成者であるイエスを一心に見つめながら。この方は,自分の前に置かれた喜びのために,恥を物とも思わず苦しみの杭に耐え,神のみ座の右に座られたのです」。(ヘブライ 12:1,2)イエスの場合,「自分の前に置かれた喜び」,すなわち自分を待ち受けている報いを心に銘記していることは,真理のうちを歩みつづける助けになりました。この「自分の前に置かれた喜び」は,一時的な落胆や気を散らす事柄にくらべてはるかに大きな重要性を有していました。

      イエスの場合と同様,報いを心に銘記していることは耐え忍ぶ助けになります。(啓示 22:12)例えとして,険しい山道を歩いている旅人のことを考えてみましょう。その人は疲れ,元気をなくしています。足を運ぶにも骨が折れ,道は果てしなく続くように思えます。そうしているうちに,旅人はある丘の頂上にたどりつき,遠くのほうに自分が行こうとしている町があるのを見ます。急に足どりが軽くなります。目的地がはっきり見えるので旅人は疲れを忘れてしまうのです。クリスチャンも同様に,思いの中で自分の目的地を明確に描いているなら,真理のうちを歩みつづけるのがやさしくなるのに気づくでしょう。

      使徒パウロに見倣う

      落胆の原因になりそうな事柄を数多く耐え忍んだもう一人の人は使徒パウロでした。彼は,苛酷な健康上の問題,迫害,文字通りの困苦,そして会衆内の問題や反対にも耐えなければならないうえに,兄弟たちの間に生じた分裂や個性の衝突を処理しなければなりませんでした。(コリント第一 1:10。コリント第二 10:7-12; 11:21-29; 12:7-10)なぜパウロはあきらめてしまうほど落胆しなかったのでしょうか。彼はこう説明しています。「自分に力を与えてくださる方のおかげで,わたしは一切の事に対して強くなっているのです」。(フィリピ 4:13)パウロは重荷を自分ひとりで背負おうとはせず,むしろエホバの支えに頼りました。―詩編 55:22。

      耐え忍ぶための助けとしてパウロが求めた力の神聖な源は今日でも存在します。聖書はこう述べています。「[エホバ]は疲れた者に力を与えておられる。活動力のない者にみなぎる偉力を豊かに与えてくださる。少年は疲れ果てることもあり,うみ疲れることもある。また,若者も必ずつまずくであろう。しかし,エホバを待ち望んでいる者は再び力を得る。彼らは鷲のように翼を張って上って行く。走ってもうみ疲れず,歩いても疲れ果てることがない」。(イザヤ 40:29-31)わたしたちが,個人研究,集会への出席,熱心なクリスチャンの活動,そしてとりわけ祈りを通して力を与えてくださるようエホバに求めるなら,時折生じる誘惑や落胆を耐え忍ぶことができるでしょう。―詩編 1:1-3。ローマ 10:10。テサロニケ第一 5:16,17。ヘブライ 10:23-25。

      幾百万もの人々は楽園での生活に備えている

      サタンはこの事物の体制の神です。クリスチャンはこの体制においては事実上外国人,つまり外人居留者にすぎません。(コリント第二 4:4)ですから時に落胆させられたり気を散らされたりするような事柄に直面しても驚いてはならないのです。パウロはヘブライ人への手紙の中で,「わたしたちはここに,永続する都市を持っておらず,来たるべきものを切に求めているのです」と書きました。(ヘブライ 13:14)わたしたちの希望がこの古い世ではなく来たるべき世にあるということを覚えておくことも,速度をゆるめないようにする助けになります。

      クリスチャンはある意味で,より良い生活を他国に求めて母国を離れる移民に似たところがあります。一般に,この計画を実行に移すには困難が伴います。自分の持ち物を全部荷造りするか処分するかしなければならず,住み慣れた家や友人や親族には別れを告げなければなりません。また見知らぬ土地に行くわけですから,歓迎してくれない人々の中で住むことになるかもしれず,新しい言語や変わった生活様式を学ぶ必要があるかもしれません。それでも多くの人々は,この世で物質的に豊かになることだけを願いながらそのようにして移住します。

      この古い事物の体制からいわば移住して神の民の一員となる人々も同様の挑戦に直面します。彼らは神の言葉の清い規準に従って生きるために文化面での調整を行ないますし,真理という「清い言語」も学びます。(ゼパニヤ 3:9。コリント第一 6:9-11)そして神の王国の偉大な王イエス・キリストに仕えるために一生懸命働きます。それだけではありません。多くの場合,親族や以前の友人から関係を絶たれるゆえに,そのような人々に事実上別れを告げなければならなくなります。

      しかしクリスチャンは,経済的な理由で移住する人々よりはるかに多くのものを得ます。一つには彼らは,愛し気遣ってくれる共同社会の中に入ります。(ルカ 18:29,30)さらに重要な点として,彼らは宇宙の神であられるエホバとの密接な関係に入ります。そして神の驚嘆すべき約束の成就を待ち望むので,思いの平安や将来に関する確信を得ます。(フィリピ 4:8,9)これらの事実を正しく認識している人々は,気を散らす事柄や落胆させられるような事柄を経験しても,そのためにいつまでも速度をゆるめたままでいるようなことはしないでしょう。したがって,命に至る狭い道からそれることもないでしょう。―マタイ 7:13,14。ヨハネ第一 2:15-17。

      自分の霊的な健康に気をつけなさい

      常日頃から自分の身体的な健康に気をつけているなら,病気に抵抗する力は強く,病気になったとしても回復は早いでしょう。それと同様に,もしわたしたちが自分の霊的な健康に気をつけ,今享受している祝福やこれから享受できる祝福の展望を鮮明に保ち,自分の力ではなくエホバの力に依り頼むようになっているなら,生じる問題に取り組む上で有利な立場にあります。わたしたちは気を散らす事柄や落胆させられるような状況を完全に避けることはできません。しかし,自分の霊的な健康に前もって気をつけているなら,そうした事柄に打ちのめされることはないでしょう。

      ご自分の崇拝者たちが耐え忍ぶ時にはエホバが歓喜されるということを忘れてはなりません。真理のうちを歩みつづけることによってエホバに喜んでいただくようにしましょう。

  • 真理
    ものみの塔 1990 | 9月1日
    • 真理

      「真理」と訳されることの多いヘブライ語エメトは,確固とした,信頼できる,安定した,忠実な,真実な事柄,また事実として立証された事柄を指す場合があります。(出エジプト記 18:21; 34:6。申命記 13:14; 17:4; 22:20。ヨシュア 2:12。歴代第二 18:15; 31:20。ネヘミヤ 7:2; 9:33。エステル 9:30。詩編 15:2。伝道の書 12:10。エレミヤ 9:5)ギリシャ語のアレーテイアは偽りや不義の反意語で,事実,もしくは正しくて適当なことに調和した事柄を意味します。(マルコ 5:33; 12:32。ルカ 4:25。ヨハネ 3:21。ローマ 2:8。コリント第一 13:6。フィリピ 1:18。テサロニケ第二 2:10,12。ヨハネ第一 1:6,8; 2:4,21)原語では,文脈によって「真理」とも訳される表現がほかにも幾つかあります。

      エホバは「真理の神」であられます。(詩編 31:5)神は物事の扱いすべてにおいて忠実であられます。また,偽ることができないため,その約束は確実です。(民数記 23:19。サムエル第一 15:29。詩編 89:35。テトス 1:2。ヘブライ 6:17,18)神は真実にしたがって,つまり物事の実際の有様にしたがって裁きを行なわれます。うわべに基づいて裁くことはされません。(ローマ 2:2。ヨハネ 7:24と比較してください。)神から発せられるものはすべて浄く欠陥がありません。神の司法上の定め,律法,おきて,み言葉は真実です。(ネヘミヤ 9:13。詩編 19:9; 119:142,151,160)それらは常に正しく,ふさわしく,あらゆる不義やとがの対極にあります。

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