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  • 時間と永遠性 ― 実際にはどんなことが分かっているのでしょうか
    ものみの塔 1999 | 6月1日
    • あるのかもしれません。そのためわたしたちは,時の流れと人間の老化の過程そのものとを重ね合わせて見るようになっています。多くの人にとって,これ以外の考え方をするというのは,時間の概念そのものに反するように思えることでしょう。『他のすべての生き物に明らかに当てはまっている事柄が,どうして人間については例外となるのか』と尋ねるかもしれません。

      このような論議の中で見過ごされがちなのは,人間は他の創造物に比べて幾つもの面で,すでに例外的な存在である,という点です。例えば,動物には,人間の持つ種々の知的能力が備わっていません。他の見方があるにしても,動物は,本能の定めるところを超えて創造性を発揮することはありません。人間が持つような美的感覚,また愛や認識や感謝を表わす能力も備わってはいません。生きる意味を大きくするこうした特質や能力が人間にはずっと多く備わっているのであれば,命そのものに関してもより多く与えられていてよいのではないでしょうか。

      一方,考えることをしない樹木の中には数千年も生きる例があるのに,理知を持つ人間が平均して七,八十年ほどしか生きないというのは不思議なことではないでしょうか。創造性や審美眼を持たないカメでさえ200年以上も生きることがあるのに,そうした能力が十分に賦与されている人間がその半分よりずっと短くしか生きられないというのは,筋の通らないことではないでしょうか。

      人間が時間や永遠性の概念を十分に把握できないことは確かであるとはいえ,永遠に生きるという約束は,聖書にしっかり根ざしたものです。「永遠の命」という言葉は,聖書に40回近く出てきます。しかし,人間が永遠に生きることを神が意図しておられるなら,それがまだ実現していないのはなぜでしょうか。この点は,続く記事で取り上げられます。

  • 神は約束を果たすのが遅いのではありません
    ものみの塔 1999 | 6月1日
    • 神は約束を果たすのが遅いのではありません

      「エホバよ,いつまでわたしは助けを叫び求めなければならないのですか。そしてあなたは聞いてくださらないのですか」。このように述べたのは,西暦前7世紀に生きていたヘブライ人の預言者ハバククです。とはいえ,わたしたちもこれと同じように感じることがあるのではないでしょうか。人はだれしも,自分が切に求めている事柄がすぐにも,あるいはできるだけ早く実現してほしい,と思うものです。このことは,即座に満足できなければ済まない今の時代では特にそうです。―ハバクク 1:2。

      1世紀にも,神はもっと早く約束を果たすべきだと思った人たちがいたようです。その人たちは辛抱しきれず,神は遅いとか,遅れているなどと考えるようにもなっていました。そのため使徒ペテロは,時間に関する神の見方が人間の見方とは大いに異なることを思い起こさせなければなりませんでした。ペテロはこう書いています。「愛する者たちよ,この一事を見過ごしてはなりません。エホバにあっては,一日は千年のようであり,千年は一日のようで(す)」― ペテロ第二 3:8。

      このような見方で時を計算するなら,80歳の人はまだ2時間ほどしか生きておらず,人類史もわずか六日ほどしかたっていないことになります。こうした観点に立って物事を見ると,わたしたちに対する神の物事の行ない方が理解しやすくなります。

      とはいえ,神は時間に注意を払っておられないわけではありません。いえ,むしろ,時間のことを大いに意識しておられます。(使徒 1:7)ですからペテロは続けてこう述べています。「エホバはご自分の約束に関し,ある人々が遅さについて考えるような意味で遅いのではありません。むしろ,ひとりも滅ぼされることなく,すべての者が悔い改めに至ることを望まれるので,あなた方に対して辛抱しておられるのです」。(ペテロ第二 3:9)神は人間とは異なり,何かを行なうのに,時間が迫っているかのように焦ることはありません。神は「とこしえの王」であり,事の全体像をよく把握して,時の流れの中で,ご自分の行動がどの時点で関係者全員に最善の益になるかを見定めることがおできになります。―テモテ第一 1:17。

      ペテロは,神が遅れているかのように見える理由を説明したのちに,「エホバの日は盗人のように来ます」と警告の言葉を述べています。つまり,清算の日は,人々が予期していない時に来るのです。次いでペテロは,続く節の中で,「聖なる行状と敬虔な専心」を保つ人々にすばらしい見込み,つまり,神の約束による「新しい天と新しい地」に生きて入るという見込みがあることを示しています。―ペテロ第二 3:10-13。

      このことからわたしたちは,神の裁きがまだ到来していないことについて,むしろ感謝を深めることができるのではないでしょうか。その辛抱のおかげで,わたしたちは神の目的を知り,約束された祝福にあずかるため自分の生き方を調整できました。ペテロが論じているように,「わたしたちの主の辛抱を救いと考え(る)」べきではないでしょうか。(ペテロ第二 3:15)しかし,神の辛抱にはもう一つの要素が関係しています。

      とがの升目が満ちる

      人類に対する神のこれまでの物事の行ない方を見ると,多くの場合,改善の見込みが全くなくなるまでは裁きを行なわれなかったことが分かります。一例としてカナン人に対する裁きに関して言えば,神は非常に早くからその数々の罪をアブラハムに指摘しておられました。しかし,裁きを執行すべき時にはまだ至っていませんでした。なぜでしょうか。聖書によると,「アモリ人[カナン人]のとががまだ満ちていないから」,もしくは,ノックス訳で言えば,「アモリ人の邪悪さはその期間が満ちていな[かった]」からでした。―創世記 15:16。a

      しかし,およそ400年後に神の裁きが臨み,アブラハムの子孫であるイスラエル人はその土地を受け継ぎました。ラハブやギベオン人など少数のカナン人は正しい態度と行動を取って救われましたが,カナン人のほとんどは,甚だしいまでの汚れに堕していました。男根崇拝,神殿売春,子供のいけにえなどを習慣としていたのです。その点は近年の考古学上の発掘にも示されています。「ハーレイの聖書ハンドブック」(英語)は,「カナン人の諸都市の遺跡を発掘する考古学者は,神がなぜもっと早く彼らを滅ぼさなかったのだろうかと不思議に思うほどである」と述べています。最終的に,カナン人の『罪の升目は満ち』,その邪悪さの「期間は満ち」ました。神は地が清められるようにし,それと同時に,正しい態度を示していた人々に配慮を払われましたが,このことが公正に欠けるとして正当に非難できる人はいないはずです。

      ノアの日についても同じような状況が見られます。大洪水の前に人々は邪悪になっていましたが,神は憐れみによって,その時代がさらに120年続くことを言明されました。そのうちのある期間,ノアは「義の伝道者」として仕えました。(ペテロ第二 2:5)時が経過するにつれ,人々の邪悪さは限度に達したようです。「神が地をご覧になると,見よ,それは損なわれていた。肉なるものがみな地でその道を損なっていたからである」。(創世記 6:3,12)『罪の升目は満ち』ました。時間の経過によって,人々の悪の傾向は頂点に達していました。神が行動を取られた時,それはどこから見ても正当でした。神の目に義にかなっていたのはわずかに8人で,その人々は救い出されました。

      イスラエルに対する神の扱いにも同様のものが見られます。イスラエルは忠実ではなく,堕落した状態に陥っていましたが,神は何百年もの間それを辛抱されました。記録はこう述べています。「エホバはその使者たち(を)何度も遣わされた。その民……に同情を覚えられたからである。ところが,彼らは絶えず……そのみ言葉を侮り,その預言者たちをあざけっていたので,ついにエホバの激怒がその民に向かって起こり,いやし得ないまでになった」。(歴代第二 36:15,16)民は,もはや改善を見込み得ない域に達していました。救いに値したのは,エレミヤと他の幾人かだけでした。神がその他の人たちに最終的な裁きを下された時,それが公正にもとると言える人はいませんでした。

      神の行動の時は来ている

      これらの例からも分かる点として,神が現在の事物の体制に対する裁きを控えておられるのは,時が熟するまでのことです。そのことは,神の象徴的な刑執行者に与えられた命令の言葉にも示されています。「『あなたの鋭い鎌を入れて,地のぶどうの木の房を集めなさい。そのぶどうは熟したからである』。すると,み使いは鎌を地に突き入れて,地のぶどうの木の取り入れを行ない,それを神の怒りの大きなぶどう搾り場に投げ込んだ」。人類の悪が『熟する』,つまり改善を見込み得ない域にまで達する,とされている点に注目してください。神が裁きを執行されるとき,そうした介入が正当なものとされることに疑問はありません。―啓示 14:18,19。

      こうした点を考えるとき,世に対する神の裁きは近いとはっきり判断できます。過去に神の裁きを正当とした種々の特徴を現在の世界も帯びているからです。どこに目を向けても,地は暴虐で満ちていて,ちょうどノアの日の大洪水の前のようになっています。人々の態度は,創世記 6章5節に描かれた状況にいよいよ似てきています。そこには,『人の心の考えのすべての傾向が終始ただ悪に向かっていた』と書かれています。神の裁きがカナン人に下される原因となったようなゆゆしい罪が,今日ごく普通に見られています。

      特に第一次世界大戦以降,人類は恐るべき変化を経験してきました。地は幾千万という人々の血で染められてきました。戦争,集団虐殺,テロ,犯罪や不法が世界の至るところで生じてきました。飢餓,疫病,不道徳が世界中に蔓延しています。「これらのすべての事が起こるまで,この世代は決して過ぎ去りません」とイエスは言われましたが,あらゆる証拠は,わたしたちが今その邪悪な世代の中で生きていることを示しています。(マタイ 24:34)今日の世界も自らの「罪の升目」を満たしつつあります。「地のぶどうの木の房」は収穫を前にして熟しつつあります。

      あなたが行動すべき時

      使徒ヨハネは,裁きの時が近づくにつれ,二つの面で物事は熟してゆくと告げられました。一方において,「不義を行なっている者,その者はいよいよ不義を行なうように。不潔な者はいよいよ不潔になるように」と述べられています。他方,「義なる者はいよいよ義を行ない,聖なる者はいよいよ聖なる者となるように」とも述べられています。(啓示 22:10,11)後者は,エホバの証人の行なう世界的な聖書教育の業に関連して進展を見ています。その業の目的は,神が求めておられる事柄を教えて,永遠の命を受けるにふさわしい人となれるように助けることです。その活動は今,8万7,000ほどの会衆を通して,233の国や地域で繰り広げられています。

      神は遅いのではありません。ご自分の約束にあずかる者となれるようにと,「新しい人格を着ける」のに必要な時間を辛抱強く一人ひとりに与えておられるのです。(エフェソス 4:24)今日,世の状況はしだいに悪くなっていますが,それでも神は猶予しておられます。世界中のエホバの証人は,とこしえの命に導く知識を隣人と分かち合うため,できる限りのことを行なっています。(ヨハネ 17:3,17)うれしいことに,毎年30万人余りの人々がそれにこたえ応じ,バプテスマを受けています。

      永遠の命を目の前にしているのですから,今は手をこまねいている時ではなく,行動すべき時です。間もなく,イエスの約束の成就,つまり,「生きていてわたしに信仰を働かせる者はみな決して死ぬことがありません」という約束の成就を見ることになるのです。―ヨハネ 11:26。

      [脚注]

      a この聖句の「ソンキノ版フマッシュ」(英語)の脚注ではこうなっています。「排除に値するには至っていない。神は国民の罪の升目が満ちるまでは処罰をされないからである」。

      [6ページの図版]

      神の刑執行者は,地のぶどうの木が熟したならば鎌を突き入れるようにと告げられた

      [7ページの写真]

      世界中のエホバの証人は,神のとこしえの祝福にあずかれるように人々を助けている

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