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    聖書に対する洞察,第2巻
    • を作る際には普通,前回焼いた時に取っておいた練り粉を少し取り,それをほぐして麦粉に混ぜる前の水に入れ,発酵剤として用いるのが習わしでした。そのようにして混ぜたものをこね,発酵するまで放置しました。―ガラ 5:9。「菓子」; 「パン,II」; 「パン種,酵母」を参照。

      イスラエル人がエホバにささげた捧げ物は幾つかの焼いたものから成っていました。(レビ 2:4-13)祭壇の上で焼かれなかったためにパン種を入れてもよい捧げ物もありましたが,火によるエホバへの捧げ物にはパン種を用いてはなりませんでした。(レビ 7:13; 23:17)過ぎ越しやそれと関係のある無酵母パンの祭りの間はパン種の入ったパンを用いることは許されませんでした。―出 12:8,15,18。「供えのパン」を参照。

      聖書時代の毎日の食事の中でパンが際立ったものであったことは,聖書全体を通じてパンについて繰り返し述べられていることから分かります。例えば,メルキゼデクはアブラハムを祝福する前に『パンとぶどう酒を携えて来ました』。(創 14:18)アブラハムはハガルとイシュマエルを去らせた時,「パンと水の皮袋を取ってハガルに与え」ました。(創 21:14)投獄されたエレミヤが毎日受けた配給量は「丸いパン一つ」でした。(エレ 37:21)イエス・キリストは2度,大勢の群衆に食べさせるため奇跡的にパンを増やされました。(マタ 14:14-21; 15:32-37)イエスはご自分の追随者たちに,「その日の必要に応じてその日のためのパン」を祈り求めるようお教えになりました。(ルカ 11:3)そして詩編作者は適切にも,エホバ神が「死すべき人間の心を支えるパン」を備える方であることを明らかにしました。―詩 104:15。

      比喩的な用法 聖書で用いられている「パン」という語には幾通りかの比喩的な用い方があります。例えば,ヨシュアとカレブは集合したイスラエル人にカナンの住民が「わたしたちのパンとなる」と告げましたが,これは彼らを容易に征服することができ,その経験がイスラエルを支える,もしくは強めることになるという意味のようです。(民 14:9)イスラエルの牧者であられるエホバについて,「あなたは彼らに涙のパンを食べさせました」と言われている詩編 80編5節は,神の不興を買うことと関係があるかもしれない深い悲しみを反映させているように思えます。エホバはご自分の民に「苦難という形のパンと,虐げという形の水」を与えるとも述べられていますが,これは彼らが攻囲のもとで経験する状態に言及しているようです。その状態はパンや水のように彼らにとってごくありふれたものとなるのです。―イザ 30:20。

      「悪を行なわなければ眠ら(ない)」ほど邪悪な者たちに関して「箴言」は,「彼らは邪悪のパンで自分を養った」と述べています。(箴 4:14-17)そうです,彼らは邪悪な行ないで自分を支えているように思えます。命を支える物質上の備えを欺瞞や詐欺によって獲得する人について,箴言 20章17節は,「偽りによって得たパンは人に快いが,後に彼の口は砂利で満たされる」と述べています。しかし,善良で勤勉な妻については,「彼女は……怠惰のパンを食べない」と述べられています。―箴 31:27。

      聖書は「パン」という言葉を良い意味でも比喩的に用いています。イザヤ 55章2節はエホバからの霊的な備えが物質上のものよりもはるかに重要であることを示して次のように述べています。「あなた方はなぜパンでないもののために支払いをしつづけるのか。なぜ満足をもたらさないもののために労しているのか。わたしの言うことを一心に聴き,良いものを食べ,あなた方の魂が肥えたものに無上の喜びを見いだすようにせよ」。

      イエスはご自分の死を記念する新しい食事を制定された時(西暦33年ニサン14日に),「パンを取り,祝とうを述べてからそれを割き,弟子たちに与えて,こう言われ(まし)た。『取って,食べなさい。これはわたしの体を表わしています』」。(マタ 26:26)そのパンは「あなた方のために与えられる」イエスご自身の肉体を表わしていました。―ルカ 22:19; コリ一 11:23,24。

      それより1年ほど前に,イエス・キリストは「天から下って来るパン」とイスラエル人が荒野で食べたマナとを対照させ,「わたしは命のパンです」とはっきり語っておられました。イエスはご自分が「天から下って来た生きたパン」であることを示してから,「だれでもこのパンを食べるなら,その人は永久に生きます。そして,本当のことですが,わたしが与えるパンとは,世の命のためのわたしの肉なのです」と付け加えられました。(ヨハ 6:48-51)この『食べること』は比喩的な仕方で,つまりイエスの人間としての完全な犠牲の価値に信仰を働かせることによってなされなければなりませんでした。(ヨハ 6:40)イエスは昇天した時,ご自分の贖いの犠牲の真価を父エホバ神に差し出されました。キリストはこの真価によって,人類の中の従順な者たちすべてに命を与えることがおできになるのです。神の霊感によって予告されたとおり,イエスはベツレヘムでお生まれになりましたが,その名称には「パンの家」という意味があります。(ミカ 5:2; ルカ 2:11)そしてイエス・キリストを通して,命を与える「パン」が信仰を持つ人間すべてに与えられています。―ヨハ 6:31-35。

  • パン,II
    聖書に対する洞察,第2巻
    • パン,II

      (Loaf)

      ヘブライ語のレヘムという言葉とギリシャ語のアルトスという言葉(いずれも「パン」の意)は「パン」(英文字義,パンの一塊)とも訳されています。(サム一 10:4; マタ 14:17)パンの塊は普通,大麦か小麦の粉で作られ(王二 4:42; ヨハ 6:9。出 34:22をレビ 23:17と比較),丸形の場合が少なくありませんでした。(裁 7:13; サム一 10:3; エレ 37:21)実際,ヘブライ語のキッカールという言葉(丸いパン)

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