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エホバの王国を告げ知らせるものみの塔(研究用)2021
塔研21 4月号 30ページ–31ページ 5節
イエスと2人の犯罪者が杭に掛けられている。空は暗くなっている。

読者からの質問

イエスが死の直前に詩編 22編1節のダビデの言葉を引用したのはなぜですか。

イエスが死の直前に語った言葉は,マタイ 27章46節に記録されています。こうあります。「私の神,私の神,なぜ私を見捨てたのですか」。イエスがこの言葉を語ることによって,ダビデが記した詩編 22編1節の言葉が実現しました。(マル 15:34)イエスがこの言葉を引用したのは失望していたからだとか,一時的に信仰を失っていたからだと考えるのは,正しくないでしょう。イエスは,自分が死ななければならない理由を十分理解しており,進んで自分の命を差し出そうとしていました。(マタ 16:21; 20:28)そして,イエスが死ぬ時,エホバはイエスを「柵で囲んで守」るのをやめなければなりません。イエスはそのことも分かっていました。(ヨブ 1:10)エホバがイエスを守るのをやめたので,イエスは,どれほどつらい死に方をするとしても忠実を保てるということを証明することができました。(マル 14:35,36)

では,イエスはなぜこの詩編の言葉を述べたのでしょうか。確かなことは言えませんが,幾つかの可能性について考えてみましょう。a

イエスは,この言葉を語ることによって,自分の死にエホバが介入しないことを強調していたのかもしれません。イエスはエホバの助けなしに贖いを支払う必要がありました。「全ての人のために死を味わ」わなければならなかったのです。(ヘブ 2:9)

イエスは,詩編 22編全体に人々の注意を向けるために,その一部を引用したのかもしれません。当時のユダヤ人は大抵,詩編の多くを暗記していました。それで,詩編の一部を聞くと,その編全体をすぐに思い出せたようです。イエスは,このことを念頭に置いて,詩編 22編に収められている,自分の死に関する出来事についての多くの預言を,ユダヤ人の弟子たちに思い出させようとしていたのかもしれません。(詩 22:7,8,15,16,18,24)詩編 22編の最後の数節では,エホバの統治が地球全体に広がることも述べられています。(詩 22:27-31)

イエスは,ダビデのこの言葉を引用することで,自分が無実であることを伝えようとしていたのかもしれません。イエスは死ぬ前に,違法な裁判にかけられ,冒瀆の罪を着せられました。(マタ 26:65,66)この裁判は,真夜中に急きょ開かれ,法廷の規定を全く無視して行われました。(マタ 26:59。マル 14:56-59)イエスは,「私の神,私の神,なぜ私を見捨てたのですか」と言うことによって,自分が死刑になるようなことは何もしていないことに注意を引こうとしたのかもしれません。

詩編 22編を書いたダビデも,苦しみに遭ったとはいえ,エホバに退けられたわけではありませんでした。イエスは,そのことに注意を向けたかったのかもしれません。ダビデのこの言葉は,ダビデが信仰を失っていたことを示しているのではありません。詩編 22編の中で,ダビデはエホバの救い出す力への確信を言い表しています。そして,ダビデはエホバから引き続き祝福されました。(詩 22:23,24,27)同じように,「ダビデの子」であるイエスも,杭に掛けられて苦しんだとはいえ,エホバに退けられたわけではありませんでした。(マタ 21:9)

エホバは,イエスが忠誠を十分示せるように,イエスを守るのをやめる必要がありました。イエスは,そのことに対する深い悲しみを言い表したのかもしれません。エホバは,独り子が苦しんで死ぬことを元々意図していたわけではありません。このことが必要になったのは,アダムとエバが反逆したからです。イエスは何も悪いことをしていませんでしたが,苦しんで死ぬ必要がありました。それは,サタンが持ち出した論争に決着をつけ,アダムが失ったものを買い戻す代価を支払うためでした。(マル 8:31。ペテ一 2:21-24)このことが成し遂げられるには,エホバがイエスを守るのを一時的にやめる必要がありました。それはイエスにとって初めてのことでした。

エホバは,イエスが杭に掛けられて死ぬのを許しました。イエスは,その理由について考えるよう弟子たちを助けようとしたのかもしれません。b イエスは,自分が犯罪者として杭に掛けられて死ぬことが,多くの人にとって信仰の妨げとなることを知っていました。(コリ一 1:23)一方,弟子たちはイエスが死ななければならなかった本当の理由について考えることによって,イエスの死の重要性を理解できたでしょう。(ガラ 3:13,14)イエスを犯罪者ではなく,救い主と考えることができたのです。

どんな理由で詩編のこの言葉を引用したのだとしても,イエスは,杭に掛けられて死ぬことでエホバの望むことを行うことになる,ということを理解していました。そして,この言葉を語った直後,「成し遂げられた!」と言いました。(ヨハ 19:30。ルカ 22:37)エホバがイエスを守るのを一時的にやめることによって,イエスは地球で行うべきだったこと全てを成し遂げることができました。そして,自分について,「モーセの律法の中,また預言者と詩編の書の中に書いてあること」を全て実現させることができたのです。(ルカ 24:44)

a この号の「イエスが亡くなる前に残した言葉から学ぶ」という記事の9節と10節も参照。

b 宣教期間中,イエスは時折,自分の気持ちを表したのではない言葉や質問を述べることがありました。それは,弟子たちに考えさせるためでした。(マル 7:24-27。ヨハ 6:1-5。「ものみの塔」2010年10月15日号4-5ページを参照。)

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