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エホバの王国を告げ知らせるものみの塔(研究用)2021
塔研21 01月号 26–30ページ
以前のキャスリーン・ローガンと夫のハービー

ライフ・ストーリー

エホバに「できません」と言わないようにしてきました

キャスリーン・ローガンの語った経験

台風の後,川は激しい濁流になり,大きな岩がたくさん流されていました。私たちは川の向こう岸に渡りたかったのですが,橋が流されてしまっていました。私も,夫のハービーも,一緒にいた阿美語の通訳者も,不安な気持ちでいっぱいでした。向こう岸にいた兄弟たちが心配そうに見守る中,私たちは川を渡り始めました。まず,自分たちの小さな車を運転して,一回り大きなトラックの荷台に載せました。それから,トラックがゆっくりと川に入っていきましたが,私たちの車はロープやチェーンで固定されていませんでした。恐ろしく長い時間に感じましたが,ずっとエホバに祈り,何とか無事に渡れました。これは1971年のことです。私たちは生まれ故郷から遠く離れた台湾の東部にいました。詳しくお話ししましょう。

エホバを愛するようになる

ハービーは4人兄弟の長男です。1930年代の経済危機の頃に,ウェスタン・オーストラリア州のミッドランド・ジャンクションで家族が真理を学びました。ハービーはエホバを愛するようになり,14歳でバプテスマを受けました。間もなく,会衆内での割り当てを断るべきではないことを学びます。まだ若かった頃に,集会で「ものみの塔」の朗読をするのを断ったことがありました。自分にはできない,と思ったからです。でも割り当てをくれた兄弟から,「エホバの組織の中で誰かに何かをするように言われたら,できると思われているっていうことだよ」と言われました。(コリ二 3:5)

私は,母や姉と一緒にイギリスで真理を学びました。父はずっと後になってから真理を受け入れましたが,当初は反対していました。父はいい顔をしませんでしたが,私は9歳でバプテスマを受けました。開拓奉仕をしてやがて宣教者になることが目標でした。ところが父は,21歳になるまで開拓者になることは許さない,と言いました。そんなに待てなかったので,16歳の時に父の許しを得てオーストラリアに引っ越し,すでに移住していた一番上の姉と一緒に暮らすようになりました。そして,18歳になった時に開拓奉仕を始めました。

1951年,結婚式の日

オーストラリアでハービーと出会いました。2人とも宣教者としてエホバに仕えたいと思っていて,気が合いました。私たちは1951年に結婚し,開拓奉仕を2年間した後,巡回奉仕をするように言われました。巡回区はウェスタン・オーストラリア州の大部分を占めていたので,人里離れた広大な乾燥地帯をよく運転しました。

夢がかなう

ギレアデの卒業式で,ネイサン・ノア兄弟がキャスリーンとハービーに卒業証書を渡している。

1955年,ヤンキー・スタジアムでのギレアデ卒業式

1954年,ギレアデ第25期に招待されました。宣教者になるという夢がもうすぐかないます。私たちは船でニューヨークに到着し,徹底的に聖書を学ぶ授業が始まりました。カリキュラムの一環としてスペイン語も勉強しました。ハービーは巻き舌が苦手だったので,苦労しました。

しばらくして教訓者たちから,日本で奉仕することに関心がある人は日本語のクラスに申し込むように,と言われました。私たちは,どこで奉仕するかはエホバの組織に任せよう,と思いました。少しして,ギレアデの教訓者の1人だったアルバート・シュローダー兄弟が,私たちが申し込んでいないことに気付いて,「もう少し考えてみてください」と言いました。それでもためらっていると,シュローダー兄弟は,「ほかの教訓者たちと相談して,お二人をクラスに入れました。日本語にチャレンジしてみてください」と言いました。ハービーは日本語の方が合っているようでした。

私たちは1955年に日本に行きました。当時,伝道者は全国に500人しかいませんでした。ハービーは26歳,私は24歳でした。港町の神戸で4年間奉仕しました。それから再び旅行する奉仕をすることになり,名古屋市の近くで奉仕を楽しみました。兄弟姉妹たちも料理も田舎の風景も,全部大好きでした。ところがしばらくして,思ってもみなかった話がありました。それでも,エホバに「できません」とは言いませんでした。

新たな場所で新たなチャレンジ

1957年,日本の神戸で。ハービーと私と他の宣教者たち

旅行する奉仕を3年間行った後,日本支部から,台湾に行って原住民の阿美族のために奉仕してもらえないか,と言われました。阿美族の兄弟たちが何人か背教したので,事態を正すために,日本語を上手に話せる兄弟が必要とされていたのです。a 私たちは日本での奉仕が好きだったので,悩みました。でも,ハービーは割り当てを決して断らないことにしていたので,台湾に行くことにしました。

1962年11月に,台湾に着きました。2271人の伝道者のうち,ほとんどが阿美族でした。でも,まずは中国語を学ばないといけませんでした。1冊の教科書と,英語を話せない先生の助けを借りて,何とか学びました。

台湾に着いて間もなく,ハービーは支部の僕に任命されました。小さな支部だったので,ハービーは支部の仕事をしながら,月に多くて3週間,阿美族の兄弟たちと奉仕できました。時々,地域監督としても奉仕し,大会で話をしました。ハービーが日本語で話せば,阿美族の兄弟姉妹は理解できたと思いますが,政府は中国語以外で宗教の集まりを持つことを禁じていました。それで,ハービーはまだうまく話せなかった中国語で話をし,別の兄弟が阿美語に通訳しました。

当時,台湾には戒厳令が敷かれていたので,大会を開くには許可証が必要でした。許可証をもらうのは大変で,警察がなかなか発行してくれないこともよくありました。大会の週までに発行されなかった時には,ハービーは発行してもらえるまで警察署に居座りました。警察は外国人が居座っていることが気まずかったので,いい作戦でした。

初めての山登り

キャスリーンとハービーと他の人たちが手作りの乗り物に乗って浅い川を渡っている。

台湾で伝道するために浅い川を渡っているところ

兄弟たちと奉仕した週は,大抵1度に1時間以上歩いて,山を登ったり川を渡ったりしました。初めて山に登った時のことをよく覚えています。急いで朝ごはんを食べた後,私たちは朝5時半のバスに乗って遠くの村に行き,広い川床を渡ってから山に登りました。とても急な斜面だったので,私の前を登っていた兄弟の足が私の目の高さにありました。

その日の午前中,ハービーは地元の兄弟たちと一緒に伝道し,私は日本語を話す人たちが暮らす小さな集落で1人で伝道しました。午後1時ごろ,私は何時間も何も食べていなかったので,おなかがぺこぺこで倒れそうでした。やっとハービーに会うと,ほかの兄弟たちはいませんでした。ハービーは数冊の雑誌と引き換えに生卵を3つもらっていました。卵の両端に小さな穴を開けて,中身を吸い出す食べ方をやって見せてくれました。あまりおいしそうじゃありませんでしたが,私もやってみました。3つ目の卵はどっちが食べたと思いますか。私です。ハービーが,もし私が空腹で倒れたら,おんぶして山を下りるのは無理だ,と思ったからです。

一風変わったお風呂

ある巡回大会の時に,それまでにない経験をしました。王国会館のすぐ隣に住む兄弟の家に泊まっていた時のことです。阿美族にとってお風呂に入ることは大切なので,巡回監督の妻が準備してくれました。ハービーは忙しかったので,私に先に入るように言いました。お風呂といっても,冷たい水が入ったおけと,お湯が入ったおけと,空のたらいが置いてあるだけでした。びっくりしたことに,巡回監督の妻はそれを家の外の,王国会館から丸見えの所に置いていました。王国会館では兄弟たちが大会の準備を手伝っていました。何かカーテンのようなものがないか尋ねると,巡回監督の妻はなんと透けて見えるビニールシートをくれました。家の裏の,陰になっている所に行こうかと思いましたが,そこではフェンスの隙間からガチョウが何羽も頭を出していて,近寄ったらつつかれそうでした。私は,「兄弟たちは忙しいから,私がお風呂に入っていても気付かないだろう。それに,入らないと,みんなに嫌な思いをさせてしまう。入るしかない」と思いました。それで,入りました。

阿美族の礼服を着たハービーとキャスリーン

阿美族の礼服を着ているハービーと私

阿美族のための出版物

阿美族の兄弟たちの多くは読み書きができず,阿美語の出版物もありませんでした。兄弟たちがクリスチャンとしてなかなか成長しない理由はそこにある,とハービーは気付きました。その頃,阿美語がローマ字を使って書かれるようになったので,兄弟たちに読み方を教えるのが良さそうでした。それは大変なことでしたが,やがて兄弟たちは自分でエホバについて学べるようになりました。1960年代後半に阿美語の出版物が発行され始め,1968年には「ものみの塔」誌が阿美語で読めるようになりました。

ところが,政府が中国語以外の言語の出版物に規制をかけました。それで,問題を避けるため,阿美語の「ものみの塔」誌はいろいろな形で出版されました。例えば少しの間,標準中国語と阿美語の両方で書かれた「ものみの塔」誌が使われました。それを使っていると,表向きは地元の人たちに中国語を教えているように見えました。それ以来,エホバの組織によって阿美語の出版物がたくさん発行され,阿美族の人たちが聖書の真理を学ぶのに役立ってきました。(使徒 10:34,35)

清めの時期

1960年代と70年代には,多くの阿美族の兄弟たちが神の基準の通りにはしていませんでした。聖書の原則を十分に理解していなかったので,不道徳なことをしたり,酔っ払ったり,たばこを吸ったりビンロウジをかんだりしていました。ハービーは多くの会衆を訪問して,そうしたことをエホバがどう思うかを兄弟たちに理解させようとしました。冒頭でお話しした出来事は,そのような訪問の時に起きたことです。

謙遜な兄弟たちは行いを改めましたが,悲しいことにそうしない人もたくさんいました。2450人以上いた台湾の伝道者は,20年の間に900人ほどまでに減ってしまいました。とても残念に思いましたが,清くない組織がエホバに祝福されることはありません。(コリ二 7:1)やがてエホバの基準がしっかり守られるようになり,エホバの祝福によって,今では台湾に1万1000人を超える伝道者がいます。

1980年代以降,阿美語会衆の状況が良くなっていったので,ハービーは中国人たちのためにもっと奉仕できるようになりました。うれしいことに,多くの姉妹の夫たちがエホバの証人になるよう助けることができました。「そのうちの1人が初めてエホバに祈った時,とてもうれしかった」と,ハービーが言ったのを覚えています。私も,エホバの証人になるよう多くの誠実な人たちを助けることができて,うれしく思っています。以前に聖書を教えていた人の息子と娘と一緒に,台湾支部で奉仕することもできました。

悲しい別れ

今,私は1人でいます。59年近く連れ添った,愛する夫ハービーは,がんとの闘病の末,2010年1月1日に亡くなりました。約60年間,全時間奉仕を行いました。今でもとても寂しいです。でも,2つの素晴らしい国での初期の活動で夫を支えることができて,幸せでした。アジアの2つの難しい言語を話せるようになって,ハービーは書くこともできるようになりました。

夫が亡くなってから数年して,統治体は,私が高齢になっていることを考慮し,オーストラリアに戻ることを勧めてくれました。私は最初,「台湾を離れたくない」と思いました。でも,ハービーが教えてくれたように,エホバの組織に「できません」とは言いたくありませんでした。しばらくたってから,戻ることにして良かったと思いました。

キャスリーンがある家族にベテルを案内している。

ベテルで日本語や中国語で見学案内をしている。

現在,週中はオーストラレーシア支部で働き,週末は地元の会衆と奉仕しています。ベテルでは日本語や中国語で楽しく見学案内をしています。そして,いつの日か約束通り復活が起きるのを心待ちにしています。エホバに「できません」と言わないようにしていたハービーを,エホバは覚えていてくださるに違いないからです。(ヨハ 5:28,29)

a 現在,台湾の公用語は中国語ですが,長い間日本語が公用語でした。そのため,当時は台湾のさまざまな民族の間で日本語が共通語でした。

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