先生としての経験
経験は,いちばん良い先生ですとよく見なされています。しかし,そのとおりですか? ヱホバ神は,その果てしない智恵を経験からえましたか? 神のことばは,このように言つています『ヱホバ,智恵をもて地をさだめ,さとりをもて天をすえたまえり。その知識によりて海はわきいで,雲は露をそそぐなり。』このことばは,先生としての経験についてなにも言つてはいません。経験が,どうして先生でありえましようか? 経験を積むまえより,神は『初めから終りのこと』を知つておられます。予言者であるイザヤは,神から霊をうけてこうたづねました『誰かヱホバの,み霊をみちびき,その議士となりて教えしや。ヱホバは誰とともに議りたまいしや。たれかヱホバを聰くし,これに公平のみちをまなばせ,知識をあたえ,さとりのみちをしめしたりしや。』たれひとりとしてそうした人はいません。ヱホバはひとつの級にあつて,御自分ひとりでおられます。それでは,経験はどのようにヱホバを教えることができますか? ―シンゲン 3:19,20。イザヤ 46:10; 40:13,14。
いのちをえようとする人たちにとつて,経験はいちばん良い先生であるとヱホバはすすめません。ヱホバのいましめは,彼らがみな『ヱホバより教をうけ』るのであつて,経験によるのではないということです。ヱホバの子であるイエスは,こう言いました。『ゆいいつで,まことの神であるあなたと,あなたがつかわした者,すなわちイエス,キリストを知ること,これこそとこしえのいのちを意味する。』― イザヤ 54:13。ヨハネ 17:3,新世訳。
経験のない者にとつて,経験はひつようなものではありません。むしろ,神より霊をうけたことばがあたえられているのは,『人に智恵と教えとをしらしめ,さときことばをさとらせ,さとき教えとただしきと公平となおきとをえしめ,つたなき者にさとりを与え,経験ないものに知識とつつしみを得させんためなり。』かしこいいましめは,ひどい経験よりも,おおくのことを教えるものです。そして愚かな人がひどい経験によつてやつとのみこむよりも,かしこい人はそのかしこい教えからおおくのことを学びます。『ひとつのいましめの,さとき人に入るは,百度うつことの愚かなる人に入るよりもふかし。』― シンゲン 1:1-4; 17:10。
経験が失敗した場合
神は,誇りと反逆にたいして警告をあたえられました。しかし,悪魔サタンはヱホバにたいして反逆しました。そしてその経験により反逆は,不名誉な失敗であつたとサタンは知りました。サタンは1914年ののちに,天から追いおとされてしまうという経験をしましたが,サタンはあきらかにこの経験からなにも学ばなかつたようです。というのは,サタンはいまでもヱホバの神権制度にたいして戦いをしつづけ,そしていつそうにはげしく,戦いをしているからです。しかしそれはサタンのまつたき終りという運命にみちびくでしよう。
悪魔は,さいしよの人間の夫婦をだまして,反逆という悪魔の手本にしたがわせました。さいしよの夫婦も,失敗を経験しました。その結果は,罪と死というものでした。そして,彼らのために全部の人類家族は,この罪と死をうけつぎました。人間はエデンから追いだされた後からずつと不従順のためにつらい経験をしましたが,それらの経験は一つとして,人間は悔い改め自分たちの悪を認めねばならぬという必要を教えませんでした。
それいらい,人間は堕落しましたが,人間は謙遜な心を持たず,自分たちのあやまちを学びませんでした,うちのめされるようなつらい経験からも,人間は学ばず,ますます悪い方へと落ちて行きました。人間はおおくの経験をへていているものですが,智恵に不足しています。年のわかい,そしてまだ経験をおおくつんでいないエリフは,ヨブの時代の自称の賢人たちにたいして,こう言いました『私は年がわかく,あなた方は年をへている。それで,私は知しきを表わすのを恐れ心配していた。おおくの日をへたものが話しをし,おおくの年を積んだものが智恵を教えるだろうと私は考えた。しかし,人間を賢くするものは,人間にある霊であり,全能者の息である。賢いものは,年をとつたものではなく,また公正を理解するものは,年上のものではない。』まことの智恵をもたらすのはヱホバ神の御霊がともなわないならば経験でもなければ,また研究した年数でもないとエリフはよく認め知つていました。―ヨブ 32:6-9,アメリカ訳。黙示 12:9,13,17。
ソロモン王には,智恵があたえられました。そして彼は経験によつて自分の智恵をひろげようともとめました。経験によつて,ソロモンは有益なことを学んだかもしれません。しかしまた,異教の女たちと結婚したために,悪魔崇拝という愚かなことをするようになり,ヱホバの崇拝と恵みから離れさつたということをも経験によつて学びました。彼は,経験によつてその智識をえましたが,そのために新しい世にあつての生命の機会を失うことになりました。すべてのことを経験してから,そしてそれからその価値をきめようということは,必要なことでなければ,またかしこいことではありません。罪とはなんであるか自分の身でもつて知ろうとおもつて,罪にふけることは,まつたくいちばんおろかなことです。
ノアの時代のときの嘲笑者たちは,ただ経験によつてのみ学ぼうと欲しました。ノアを通してつたえられた神のおとづれは,良いものではありませんでした。彼らは,自分たちのいのちという価をはらつて,教えをうけました。経験は,いちばん悪い先生でした。イスラエルは神のいましめを無視して,おろかにもその敵のひどい攻撃や圧迫をうけるようになりました。それはみな,イスラエルが神の教えにしたがわうとはしなかつたからです。イスラエルは,くりかえし同じまちがいをして,ひじようにつらい時を経験しました。それでついに,イスラエルは国家としてくつがえされました。経験は,イスラエルに永続する利益を教えませんでした。
いまのクリスチャンは,にかよつたまちがいをして,気持の良くない経験をいたします。しかし,もし高ぶらずに,かしこいものであるならば,ヱホバからの愛あるこらしめから益をうるでしよう。私たちを教えるのは,これらのむずかしい経験ではありません。私たちを教えて,正義に訓練するものは,ヱホバのこらしめであり,ヱホバのいましめです。
現在の世界は良くない生徒?
今日の世界は,経験はいちばん良い先生であると誇るかもしれませんが,もしそうならば,世界はひじようにできの悪い生徒です。世界の人々は,いままで幾千年という年のあいだ,罪を経験しましたが,その罪を避けることを学んではいません。不道徳や,冒瀆を経験してきましたが,彼らはますますそのようなことに深くはいつて,悪い習慣にこりかたまり,現在では終りの日について予言されているとおりの堕落した状態になつています。この古い世は,いくたびもいくたびも流血の戦争や,憎むべき犯罪をくりかえしています。汚い歴史は,各時代ごとにくりかえされています。しかし,この経験から世界はなにも学んではいません。この世紀にあつては,二つの無益な世界大戦がおこなわれ,そして第三次世界大戦にそなえているほどです。世界は,経験こそいちばん良い先生ですと言いますが,泥地にもどる豚のごとく,またその吐いたものにころがる犬のように,この世界は経験からなにも学んではいません。ハルマゲドンのときに,その『いちばん良い先生』は,世界のいちばん悪い経験,すなわち死をもたらすでしよう。
しかし,神にたいして善意の心をもつ人々は,道徳をよく知るために故意に罪を経験することは必要であるとか,いのちの価値を知るために死ぬことは必要で,またヱホバは力を持つておられるというのを確信するために,ハルマゲドンで彼らにたいして示されるヱホバの力を感ずることはひつようであるなどとは信じません。彼らは,いちばんよい先生として,ヱホバ神とキリスト,イエスにたよりもとめます。私たちは,ヱホバ神とキリスト,イエスの果てしない智恵と知識を必要とします。サタンのワナをさけて行くのには,いちばん良い先生の教えはひつようです。神とキリストは,そのようないちばん良い先生です。聖書は,その教科書です。聖書を研究しなさい。聖書の教えにしたがい,そして生きなさい。