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目ざめよ! 1971
目71 3/22 25–27ページ

「ルクセンブルクの愛する聖母マリア」

ルクセンブルクの「目ざめよ!」通信員

彼女の顔はうりざね顔で,ふさふさした巻き毛が肩にたれています。彼女は,真珠のくび飾りや,ほかの高価なネックレスをたくさん持っています。その衣装の華麗さは,王や王妃のそれをしのぐものがあります。彼女の衣装だんすには,金系銀系で縫いとりをし,ダイヤモンドなどの宝石をちりばめた衣装がいっぱいはいっています。笏は二つも自由に使え,彼女と,彼女の抱いている子どもを飾る金の冠は4組あって,好きなものが選べます。

彼女はいったいだれでしょう? 高さ1メートル余りの高価な小像です。ルクセンブルクではよく知られていて,「ルクセンブルクの愛する聖母マリア」という肩書をもっています。

彼女はしなの木で作られていて,心臓は本物の金です。彼女の右足は,トルコ人の顔をした月をふまえています。これは,教皇の勝利,つまり西暦1571年のレパント沖の海戦で,スペインとベネチアの艦隊がトルコ艦隊に勝利を得たことを記念するものと言われています。彼女は金のかぎも1個もっています。

20世紀の末の現在でさえ,ルクセンブルク国とルクセンブルク市のこの守護聖人は,人々に拝まれ,崇拝されています。巡礼や,彼女を祝す行列は,数かぎりなく行なわれます。人々は彼女の前で頭をさげ,祈りをささげます。彼女が慰めをもたらし,奇跡的に病気をいやしてくれたと考えている人は,たくさんいます。多くの人にとって,彼女は単なる彫像以上のものです。彼女は「天后」なのです。

ことの起こり

この小像の威力と霊験のあらたかなことにかんする迷信深い話は,口から口に伝えられ,伝えられるうちに,伝える人たちのまことしやかな想像がつけ加えられていきました。イユズス会は,この小像に教会当局の承認を得ました。1677年には,像はこの国全体の守護聖人および警護者と宣言され,翌年,教皇庁はその選択を確認しました。

この像のために建てられた礼拝堂は巡礼の中心になりました。ルクセンブルクのある女子公務員は,12年間彼女をベッドにしばりつけ,彼女から言語能力を奪っていた,からだのしびれる関節炎をここでいやされた,と言われています。ルクセンブルクの「愛する聖母マリア」の崇拝者たちは幻を受けたと伝えられています。彼らは彼女を「神の母」「病人を慰める者」と呼びます。

現代という有利な時点に立って考えると,ルクセンブルクの「愛する聖母マリア」の昇進は,実際には,反対改革の別の面であったように思われます。それはそれなりに成功しました。おおかたの住民は,奇跡を行なう力をもつと言われる像の崇拝にとらわれていたために,ルーテルなどの僧侶が教会の教理を非難して反抗した,いわゆるプロテスタント宗教改革のあいだずっと,ローマ・カトリック教会にかたくつき従いました。

現在の時点で事実を考慮する

現在はどうでしょうか。ルクセンブルクの市民が,この高価な小像に対して,行列と信仰告白を行ないつづけるのは,正しいことですか。この小像との関係における彼らの立場を再検討しなければならない理由がありますか。直視すべき明白な事実がいくつかあることは確かです。それらの事実はこの問題と直接関係があり,しかも,真の崇拝という問題を含んでいます。

たとえば,教皇ピウス12世の,1943年聖書回勅の一部をなす,つぎのことばを考えてみてください。「聖なる記述者たちは,神の霊感を受けて,それらの書物を書いた。それは神が父としてのいつくみによって人類に与えることを望まれたものであって,人類を『教え,いましめ,矯正し,義を薫陶し,神の人が全くなって,あらゆるよいわざに全き備えをする』ためのものである。教会はこの天与の宝物の中に,教会の宗教法および道徳法の最も貴重な源泉と神聖な規準があると考える」。

もしあながローマ・カトリック教会の会員であるならば,この回勅のことばを真剣にとりあげますか。もし聖書が宗教的,道徳的教えの規準であるとすれば,誠実なカトリック教徒は,ルクセンブルクの守護聖人の祭りや祭りの行列が神の意志にかなっているかどうか調べることを,巧みに避けたりはしないでしょう。

自分の聖書を開いて,出エジプトの書 20章4,5節(カトリック・バルバロ訳)を見るならば,どのカトリック教徒も,神のつぎのような明確なことばを見いだします。「自分のために,なんの彫刻した偶像も,つくるな,上は天に,下は地に,地の下は水のなかにあるものの,どんなかたちのものも。それらの前にひざまずくことも,崇敬をしめすこともするな。あなたの神である主,私は,ねたみ深い神で……父の罪を……子孫の上に罰する」。

いうまでもなく,ルクセンブルクの「聖母マリア」は彫刻したものです。そして,神ででもあるかのように,盛んな儀式と熱情とをもって敬慕され,仕えられています。司祭にせよ,司教にせよ,また支配者にせよ,臣民にせよ,神のこの明確な命令を退けたり,無視したりする権利を持つ人がいるでしょうか。そういうことをする人が,罰を受けずにすむでしょうか。

しかし,ほかにも考えねばならないことがあります。バルバロ訳聖書のイェレミアの書 10章3節から5節には,つぎのようなことばが見られます。「民々の“おそれ”はむなしい,それは,森で刈りとられた木に,すぎず,おので仕事をするものの,わざである。それは,銀と金で,かざられ,くぎと,金づちとで,動かないように,打ちつけられる。偶像は,瓜畑のかかしのようで,ものもいえず,歩けないので,運んでやらねばならない。それをおそれるな。それは害を加える力もなく,よいことも,できないものだ」。

この小像の場合,職人が1本のしなの木を切り例し,それを削って,ものもいえず,よいことも,悪いこともできない「ルクセンブルクの聖母」を作り出しました。この命のない像が奇跡を行なうということを迷信深い先祖たちが信じこまされていたのは事実です。しかし,啓発され,教育されている現代の人々はどうですか。霊感による神のことばに完全にそむく信仰を広めるのは正しいことですか。

この点にかんする,神の御子イエス・キリストの教えはきわめて明白です。たとえば,イエスの使徒パウロが話ったつぎのことばに注意してください。「私たちが神の一族であるなら,神を,人間の技術と才能とでつくった金や銀や石のものと同じだと思ってはなりません」。(使徒行録 17章29節,バルバロ訳)またイエスの使徒ヨハネも,「小さな子らよ,偶像を警戒せよ」と,はっきり警告しています。―ヨハネ第一 5:21,バルバロ訳。

「天后」はいない

この小像につけられた「天后」および「神の母」という肩書はどうですか。

聖書のエレミヤ記 7章18節(バルバロ訳)に「天后」のことが述べられているのは興味をひきます。それによると,「天后」は偽りの女神でした。全能の神は,ご自分の民がそのような偽りの崇拝に思いをよせたとき,怒りを表わされました。聖書にはつぎのように記録されています。「子どもは,たきぎをひろい,父が,それに火をつけ,女が,粉をこね,天の女神にパン菓子をつくる。また,私を傷つけようとして,ほかの神々に,灌水をおこなう」。クリスチャンであることを主張する人々は,今日,それと同じような異教の偶像崇拝でもって,神の怒りをひき起こすことを,恐れるべきではないでしょうか。

「神の母」という肩書も,長い間,異教の崇拝と関係がありました。これは,聖書には一度も出てきません。多くの人が,信じるように教えられてきたこととは反対に,イエス・キリストは,弟子たちに対し,ご自分の地上の母マリアを敬えとも,彼女に祈れとも命じておられません。その代わりにイエスははっきりと宣言されました。「私は,道であり,真理であり,命である。私によらずには,だれ一人父のみもとにはいけない。……あなたたちが,私の名[イエスの母の名ではない]によって願い求めることは,すべて,父が子において光栄をお受けになるように,私がはからう」。(ヨハネ 14:6,13,バルバロ訳)また使徒パウロは,『女仲介者』がいるとは述べずに,こう宣言しています。「神は唯一であり,神と人間との間の仲立ちも,人間であるキリスト・イエズスただ一人である」― ティモテオ前 2:5,バルバロ訳。

あなたはどうするか

ほかの人たちが,命のない像の崇拝をつづけるかもしれないのは事実です。しかし,全能の神がそのみことば聖書の中で言われていることを考えると,そうした崇拝が神の不興を買うものであることは,明白ではないでしょうか。あなたはどうしますか。

つぎのような,きわめて明確な,神のことばの表現に一致して行動するのが賢明でしょう。「かれらの偶像は,金銀で,人の手になったもの。それは,口があっても,話せず,目があっても,見えず,耳があっても,聞えず,鼻があってもかげず,手があっても,触れず,足があっても,歩けず,そののどからは,声がでない。それをつくった者は,それと等しいものになろう,それに信頼をかける者も」― 詩篇 115:4-8,バルバロ訳。

もちろん,話すことも,見ることも,聞くことも,歩くこともできない,彫像のような命のないものになることはいけません。彫像の道づれとなって命を終えることは,あなたの望まれるところではないでしょう。神はまもなく,すべての彫像と,それをあがめる人をすべて滅ぼされます。神のことばはそのことを明確に述べています。「細工人は,みな,自分の像を恥じる,それは,自分の鋳たものが,いつわりで,そこに,いのちのいぶきがないからだ。それらは,むなしく,笑止千万なわざである。罰せられるとき,それらは,ほろびるのだ」― イェレミアの書 10:14,15,バルバロ訳。

今は,神の是認と,祝福と,真の意味の保護とを願う人々が,聖書中に見いだされる希望と平和の音信に耳を傾けるべきときです。エホバの証人はその音信を,ルクセンブルクの人々に,また,他の国々の人すべてに惜しなく宣べ伝えているのです。

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