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  • 聖書の第62番めの本 ― ヨハネの第一の手紙
  • 目ざめよ! 1975
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  • ヨハネの第一の手紙の内容
  • なぜ有益か
目ざめよ! 1975
目75 6/8 29–31ページ

『聖書全体は神の霊感を受けたものであり,有益です』

聖書の第62番めの本 ― ヨハネの第一の手紙

筆者: 使徒ヨハネ

書かれた場所: エフェソスまたはその近く

書き終えられた時期: 西暦98年ごろ

含まれている時代: 確定できない

1 (イ)ヨハネの記したものにはどんな資質があふれていますか。しかし,彼が感傷的な人ではなかったことを何が示していますか。(ロ)なぜヨハネの三通の手紙は適切な時に書かれたと言えますか。

イエス・キリストの愛した使徒ヨハネは義に対する強い愛を抱いていました。これは,彼がイエスの思いを鋭く洞察する助けになりました。こうして,ヨハネの書き記した物全体にわたって愛がその中心主題となっているのも不思議ではありません。しかし,ヨハネは感傷的な人ではありませんでした。イエスは彼のことを,「雷の子ら」(ボアネルゲス)の一人と呼んでいます。(マルコ 3:17)事実,彼が三つの手紙を書いたのも,真理と義を擁護するためでした。当時,使徒パウロの予告した背教がすでに明瞭になっていたのです。ヨハネの三通の手紙はまさに適切な時に書かれました。それらは,「邪悪な者」からの攻撃と戦う初期クリスチャンたちを助けるものとなったからです。―テサロニケ第二 2:3,4。ヨハネ第一 2:13,14; 5:18,19。

2 (イ)これらの手紙が,マタイやマルコによる書およびパウロやペテロの宣教上の手紙よりずっと後の時代に書かれたことを何が示していますか。(ロ)ヨハネの手紙はいつごろどこで書かれたと思われますか。

2 内容から判断できる点ですが,これらの手紙はマタイやマルコなどの福音書よりずっと後の時代に書かれました。ペテロやパウロの宣教上の書簡よりもさらに後の時代です。時代は変わっていました。幼い時代の諸会衆にとって大きな脅威となったユダヤ教のことは何も述べられていません。ヘブライ語聖書からの直接の引用は一度もなされていないようです。また,ヨハネは,「終わりの時」,および「多くの反キリスト」の出現について述べています。(ヨハネ第一 2:18)ヨハネは自分の手紙を読む人々を「わたしの子どもら」というようなことばで呼び,一方自分自身のことは「年長者」と呼んでいます。(ヨハネ第一 2:1,12,13,18,28; 3:7,18; 4:4; 5:21。ヨハネ第二 1。ヨハネ第三 1)これらすべては,ヨハネの三通の手紙が遅い時代に書かれたものであることを暗示しています。また,ヨハネ第一 1章3,4節は,ヨハネの福音書がこれとほぼ同じころに書かれたことを示しているように思われます。ヨハネの三通の手紙は,使徒ヨハネの死ぬ少し前,西暦98年ごろまでに,エフェソスの近くで書き終えられたものと一般に信じられています。

3 (イ)ヨハネ第一の書の筆者および典拠性についてどんな証言がありますか。(ロ)どんな句が後に加えられましたか。それが偽作であることを何が証明していますか。

3 ヨハネ第一の書が実際に使徒ヨハネによって書かれたということは,それが四番めの福音書と非常によく似ている点にも示されています。四番めの福音書が使徒ヨハネによって記されたことは明白な事実です。両者がよく似ている点の例を挙げれば,筆者は,その手紙の初めのところで,「命のことば……父のもとにあって,わたしたちに明らかにされた永遠の命」の目撃者として自分を紹介しています。これらはヨハネ福音書の冒頭部分と非常によく似た表現です。この書の典拠性はムラトリ断片およびイレナエウスによって証明されており,またこの書はポリカルポス,パピアス,その他によって引用されています。これらは皆西暦第二世紀の人です。a しかし,第5章7節の終わりと8節の始めに次のことばを加えた翻訳のあることに注意しなければなりません。『天では,父とことばと聖霊。これら三つは一つである。また,地上では,証しをするものが三つある』。この句は,ヨハネ第一の書の,15世紀よりも前のギリシャ語写本には全く出ておらず,三位一体の教理を裏付ける目的で付け加えられたものであることは明らかです。現代のたいていの翻訳はこの語句を省いています。b

4 ヨハネは仲間のクリスチャンたちをだれから保護することを求めていますか。そしてどんな偽りの教えを論ばくしていますか。

4 ヨハネは,自分の「愛する者たち」,自分の「幼子たち」を,「多くの反キリスト」の誤った教えから守る目的でこの手紙を書いています。それら反キリストは彼らの中から出て,彼らを真理からいざない出そうとしている人です。これらは「グノーシス派」の先ぶれであったと思われます。このグノーシス派は,特別の神秘的知識を神から与えられていると唱えた人々です。c 罪に関する,また,罪のためのイエスの犠牲を支持するヨハネのことばは,これら“現代主義の”教師たちが,独善的な態度で,自分には罪がなく,イエスによる贖いの犠牲は必要でないと唱えていたことを示しています。彼らはその自己中心的な“知識”のゆえに,愛のない,利己的な状態になっていました。ヨハネは真のクリスチャン愛を終始強調しつつ,そうした状態を暴き出しています。さらに,イエスがキリストであること,イエスには人間となる以前の存在があったこと,そして,信ずる人々に救いを備えるため神の子として肉のさまで来られたことを説いたヨハネは,彼らの偽りの教理に対して闘っていたものと思われます。(ヨハネ第一 1:7-10; 2:1,2; 4:16-21; 2:22; 1:1,2; 4:2,3,14,15)ヨハネはこれら偽教師をはっきり「反キリスト」であるとし,神の子どもと悪魔の子どもを見分ける多くの方法を示しています。―ヨハネ第一 2:18,22; 4:3。

5 この書がクリスチャン会衆全体を対象としたものであることを何が示していますか。

5 特定の会衆にあてられてはいませんから,この手紙は明らかにクリスチャンの仲間全体を対象にしています。始めと終わりの部分にあいさつのことばがないこともこの点を裏付けているでしょう。この書は手紙ではなく一種の冊子であったと述べる人さえいます。全体にわたって「あなたがた」という複数形が使われていることは,筆者が,個人ではなく一群の人々を対象として書いたことを示しています。

ヨハネの第一の手紙の内容

6 光の中を歩む人々とやみの中にいる人々とをヨハネはどのように対照させていますか。

6 やみではなく,光の中を歩む(1:1–2:29)「わたしたちの喜びが満ちあふれるようこれらのことを書いている」とヨハネは述べます。「神は光」ですから,「光の中を歩んでいる」者だけが,神および互いと「分け合う」関係にあります。そうした人々は「み子イエスの血」によって罪から清められています。一方,「やみの中を歩きつづけ」て,「自分には罪がない」と唱える人は,自らを惑わしているのであり,真理はその人のうちにありません。もし罪を告白するなら,神は忠実なかたとして,その罪をゆるしてくださいます。―1:4-8。

7 (イ)人は自分が神を知りかつ愛していることをどのように示しますか。(ロ)反キリストはどのように識別できますか。

7 イエス・キリストは「罪のためのなだめの犠牲」,また『父のもとにある助け手』です。神を知っていると唱えながら神のおきてを守らない者は偽り者です。自分の兄弟を愛する者は光の中にとどまっています。しかし,自分の兄弟を憎む者はやみの中を歩いています。世も世にあるものをも愛してはならない,とヨハネはきっぱり語ります。『世を愛する者がいれば,父の愛はその者のうちにない』からです。多くの反キリストが来ました。「彼らはわたしたちから出て行きました……彼らはわたしたちの仲間ではありませんでした」とヨハネは説明します。反キリストはイエスがキリストであることを否定する人々です。その人々はみ父もみ子もともに否定します。「幼子たち」は,自分が初めから学んだ事柄にとどまり,こうして「み子と結ばれ,また父と結ばれて」いなさい。彼から受けたそそぎの油にしたがってすすんで行きなさい。それは真実です。―2:1,2,15,18,19,24。

8 (イ)神の子どもと悪魔の子どもはどのように見分けられますか。(ロ)どのようにして愛を知るようになりましたか。自分の心について常にどのような点を調べるべきですか。

8 神の子どもは罪をならわしにしない(3:1-24)父の愛のゆえに彼らは「神の子ども」と呼ばれており,キリストが現わされる時,彼らは彼のようになり,「彼のあるがままを見」ます。罪は不法です。そして,キリストと結ばれている者は罪をならわしにしません。罪を行ないつづける者は悪魔から出ています。神のみ子は悪魔の業を打ち壊します。神の子どもと悪魔の子どもの違いは次の点で明らかです。神から出ている者は互いに対して愛を抱いていますが,邪悪な者から出ている者は,自分の兄弟を憎んで殺したカインのようです。「かのかたが自分の魂をわたしたちのためになげうってくださったので,それによってわたしたちは愛を知るように」なったと,ヨハネは「幼子たち」に語り,兄弟に向かって「優しい同情の戸を閉じ」ないようにと彼らに訓戒します。「ことばや舌によらず,行ないと真実とをもって愛(す)」べきです。自分が「真理から出ている」かどうかを知るために自分の心の中にあるものを調べ,自分が「神の目に喜ばれることを行なっている」かどうかを確かめるべきです。「み子イエス・キリストの名に信仰を持ち……互いに愛し合う」ために神のおきてを守らなければなりません。こうして,自分が彼と結ばれており,彼が霊によって自分たちと結びついていてくださることを知るようになります。―3:1,2,16-19,22,23。

9 (イ)霊感の表現についてどんなことを試すべきですか。(ロ)互いに愛し合う務めを何が強調していますか。

9 神と結ばれて互いを愛する(4:1–5:21)霊感の表現については,それを試してみなければなりません。キリストが肉のさまで来たことを否定するのは「神から出たもの」ではなく,反キリストのものです。それらは世から出て世と結びついています。一方,真理を伝える霊感の表現は神から出ています。「神は愛」です。ヨハネはこう語ります。「愛はこの点,わたしたちが神を愛してきたというよりは,神がわたしたちを愛し,ご自分のみ子をわたしたちの罪のためのなだめの犠牲として遣わしてくださった,ということです」。では,互いに愛し合う務めはなんと大きいのでしょう。そのようにする人々には神が結びついていてくださり,こうして愛が全うされて恐れを外に追いやり,「はばかりのない言い方ができる」ようになります。「わたしたちは,彼がまず愛してくださったので愛するのです」とヨハネは語ります。「神を愛する者は自分の兄弟をも愛しているべき(です)」― 4:3,8,10,17,19,21。

10 (イ)神の子どもはどのようにして世を征服しますか。彼らにはどんな確信がありますか。(ロ)罪と偶像礼拝に対してどんな態度を持たなければなりませんか。

10 神の子どもとして愛を示すこと,これは神のおきてを守ることでもあります。そして,それは,信仰によって世を征服する結果になります。神はみ子に信仰を置く者たちに関し,ご自分がその者たちに「永遠の命を与え……この命がご自分の子のうちにあるということ」を証ししてくださいます。こうして彼らは神に対し,ご意志にしたがって求めればなんであれ聞き入れてくださることを確信できます。不義はすべて罪ですが,死をきたさない罪もあります。神から生まれた者は罪をならわしにしません。『全世界は邪悪な者の配下にあります』が,「神の子が世に来て」,真実の神について知ることができるよう「知的な能力」を与えてくださいました。「み子イエス・キリストによって」わたしたちは今そのかたと結ばれています。自分を偶像から守りなさい。―5:11,19,20。

なぜ有益か

11 今日のクリスチャンは反キリストや世の欲に対してどのように闘いますか。

11 クリスチャン時代となった第一世紀の末と同じように今日「多くの反キリスト」がおり,真のクリスチャンはこれらに対して警告しなければなりません。真のクリスチャンは「初めから聞いている音信」を堅く守って『互いに愛し合い』,神および真の教えと結ばれた状態を保ち,はばかりのないことばを保ちつつ義を実践すべきです。(ヨハネ第一 2:18; 3:11; 2:27-29)もう一つ極めて大切なのは,「肉の欲望と目の欲望,そして自分の資力を見せびらかすこと」に対する警告です。これらは物質主義的な世の悪であり,クリスチャンと唱える人の多くがこれにのみ込まれました。真のクリスチャンは,「神のご意志を行なう者は永久にとどま(る)」ことを知っているゆえに世とその欲とを避けます。世的な欲望と分派主義と敵意のさかまくこの時代にあって,霊感による聖書を通して神のご意志を学び,ついでそれを行なうことはなんと有益なのでしょう。―2:15-17。

12 ヨハネ第一の書はわたしたちの益のためにどんなものをはっきり対照させていますか。どのようにすればわたしたちは世を征服できますか。

12 ヨハネ第一の書は,み父から出る光とよこしまな者から出て真理を破壊するやみ,命を得させる神の教えと反キリストの欺まん的な偽り,み父やみ子と結ばれた人々の会衆全体に浸透する愛と,「すべての者がわたしたちの仲間なのではないことが明らかになるため」に「わたしたちから出て行(った)」人々のうちにあるカインのような殺人的憎しみとの対照を明らかにしている点でわたしたちの益になります。(2:19; 1:5-7; 2:8-11,22-25; 3:23,24,11,12)こうした点を認識するとき,わたしたちは,「世を征服」したいという熱烈な願いを持つようになるはずです。そして,どうしたらこれを行なえるでしょうか。それは,強固な信仰と「神への愛」とを持つことによります。それは神のおきてを守ることでもあります。―5:3,4。

13 (イ)神の愛が実際的な力としてどのように強調されていますか。(ロ)クリスチャンの愛はどのようなものであるべきですか。それはどんな結合をもたらしますか。

13 「神の愛」― この動機づけの力が手紙全体を通してみごとに強調されているではありませんか。第二章の中では,世の愛とみ父の愛とが明確に対照されています。後の章では,「神は愛」であるという点にわたしたちの注意を促しています。(4:8,16)そして,その愛はほんとうに実際的なものではありませんか。それは,父が「み子を世の救い主として遣わされた」ことの中に崇高な形で表明されました。(4:14)これは,わたしたちの心の中に,感謝にあふれた恐れのない愛を奮い起こすはずです。使徒ヨハネが次に述べるとおりです。「わたしたちは,彼がまずわたしたちを愛してくださったので愛するのです」。(4:19)わたしたちの愛は,み父やみ子が示してくださったと同じように実際的な愛であるべきです。イエスはわたしたちのために自分の魂をなげうたれましたが,同じようにわたしたちも,「兄弟のために自分の魂をなげうつ務めがあります」。そうです,優しい同情の戸を開け,「ことばや舌によらず,行ないと真実とをもって」兄弟たちを愛する努めがあるのです。(3:16-18)ヨハネの手紙がはっきり示すとおり,神についての真の知識と結びついたこの愛こそ,父やみ子と堅く結ばれて神とともに歩みつづける人々を結び合わせるものなのです。(2:5,6)そして,この祝福された愛のきずなで結ばれた王国の相続者たちに対して,ヨハネは次のことばを語ります。「わたしたちは,み子イエス・キリストによって,真実なかたと結ばれています。このかたこそ真の神であり,永遠の命です」― 5:20。

[脚注]

a J・D・ダグラス編「新聖書辞典」,1962年,644ページ。

b 「クリスチャン・ギリシャ語聖書 新世界訳」(英文)1950年版,786ページ。

c J.D・ダグラス編「新聖書辞典」,1962年,642,473ページ。

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