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  • 目ざめよ! 1989
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目ざめよ! 1989
目89 2/8 21–24ページ

過去の歩みに照らして見た宗教の将来

第3部 ― 西暦前1942年-1513年 ― エジプト ― 神々の戦場

「エジプトではあらゆることに宗教が関係していた」。―ウィル・デュラント,20世紀の著述家また歴史家。

エジプトに最初に住みついたのは,ノアの子ハムの子孫でした。それもハムの子で,ニムロデのおじに当たるミツライムの子孫であったと思われます。(創世記 10:6-8)バベルで言語が乱されたため,塔を建てられなくなった建設者たちは,再出発をするためバビロンの宗教を携えて各地へ散って行きました。それら挫折した建設者の一部が定住した地域は,エジプトとして知られるようになりました。

ウィル・デュラントは「文明物語」の中で,「エジプトの文化の幾つかの特定の要素がシュメールやバビロニアに起源を持つこと」について述べています。こうして,バビロニアの宗教はぬぐえない影響をエジプトに残し,宗教がエジプト人の生活において支配的な要素となりました。新ブリタニカ百科事典はこう述べています。「文化的また社会的生活は宗教的な考えに非常に深く染まっていたため,エジプトの宗教を理解しない限り,エジプトの文化を理解することはできず,またその逆にエジプトの文化を理解しない限り,エジプトの宗教を理解することはできない」。

一貫性の欠如と矛盾

エジプトの宗教は多神教で,500余りの神々,もしかしたらその倍とも言われる神々のいることが特色となっています。「エジプト全土を通じて,町もしくは都市の神の一団は三柱の神で成っていた」と,エジプト学者のE・A・ウォリス・バッジは述べています。やがて,中心的な三つ組の神が台頭してきました。父親のオシリス,母親のイシス,そして子供のホルスから成る聖なる家族です。

多神教は,幾つかの神々が自分こそ“唯一の神”であると唱える結果を招きました。しかし祭司や神学者たちは,ひとりの神を信じる一方で,その神が多くの形で存在していると考えることに何の抵抗も感じていなかったようです。作家のB・マーツは,これは「エジプトの宗教の大きな特色となっている,あのすばらしい矛盾のもう一つの例である」と注解しています。

神々の属性だけでなく,神々そのものを表わすのに,動物がよく用いられました。しかし,フランスの作家フェルナン・ハザンは,それらの動物は「益か害をもたらす神々の力が結集する焦点であったため」単なる象徴ではなく,崇敬に値するものとみなされていたと主張しています。ですから,一人のローマ市民が猫を殺したためにリンチにあったという話が伝えられていたり,犬,猫,ワニ,ハヤブサ,雄牛などのミイラがエジプトの墓から発見されたりしても驚くには当たりません。

エジプトの宗教には儀式主義や神秘崇拝,それに魔術などが深く浸透していました。また,宗教的な像や,命の象徴である輪頭十字<クルクス・アンサータ>のような象徴物の使用も同様でした。それらの像や象徴は非常に傑出したものとされたので,「個々の信仰(すなわち,個人の信心)は決して最重要な事柄ではなかった」と,新ブリタニカ百科事典は述べています。同百科事典はさらに,様々な像の中でも,「み子を抱いた聖母マリアの原型かもしれない,子供のホルスをひざに乗せたイシスの像が最も注目に値する」と付け加えています。

エジプト人は死後の命を信じていました。彼らは死者をミイラにし,ファラオの遺体を荘厳なピラミッドに安置しました。古代の墓からは,ある著述家が述べているように,「化粧板やビーズといった,哀れを誘うが大きな意味を持つ様々な飾りや,かつては飲食物が入っていた壺」が発見されています。

滅びへの秒読みとなった十の打撃

西暦前1728年,エジプトとその宗教に悲惨な結果をもたらすことになる出来事が生じました。アブラハムという名の人物がエジプトを訪れた時から約2世紀後,アブラハムの子孫は,深刻な飢きんの重大な影響を逃れるためエジプトに移りました。(創世記 12:10; 46:6,7)イスラエル人として知られていた彼らは215年間その地にとどまりました。これにより神々の戦いの舞台が整いました。一方の陣営はエジプトのおびただしい神々,他方はイスラエル人の唯一の神エホバです。イスラエル人がエホバを崇拝するためにエジプトを出る許しを求めた時,事態は急速に頂点に達しました。

エジプトの支配者であるファラオa(「大いなる家」という意味のエジプト語から派生した称号)は彼らの要求を退けました。そのためエホバは,ご自分の民のために奇跡的な方法で力を行使するというご自分の目的を表明されました。(出エジプト記 7:1-6; 9:13-16)エホバはエジプトの上に十の打撃を連続的にもたらして,エジプトの神々に正面から対決を挑まれました。―出エジプト記 12:12。

最初の打撃によって,エジプトの生命線であるナイル川は血に変わり,魚は死滅し,エジプト人たちは飲み水を得るために地面を掘らざるを得なくなりました。(出エジプト記 7:19-24)それはナイルの神ハピにとって非常な屈辱でした。

かえるは豊穣の象徴でした。「エジプト人の神々」という本は,「かえるの神とかえるの女神は世界創造の際,非常に顕著な役割を果たしたと考えられていた」と述べています。したがって,かえるの災厄は,オシリスやプタハやセベクといった豊穣の神々を当惑させただけでなく,エジプトの創造の神々までも卑しめることになりました。―出エジプト記 8:1-6。

魔術を行なうエジプトの祭司たちは,最初の二つの打撃の場合と違って,3番目の打撃と同じことを繰り返すことはできませんでした。(出エジプト記 8:16-18)魔術の主であるトートは魔力を失い,大地の神ゲブは「地の塵」が厄介なぶよに変わるのを阻止することができませんでした。

4番目の打撃からは,イスラエル人が住んでいた下エジプトのゴシェンの地と,エジプトの残りの地域との間に境が設けられるようになりました。ゴシェンはあぶの災厄を免れましたが,エジプトの他の地域は損なわれました。(出エジプト記 8:20-24)守護神であった女神ブトーと神ホルスが,自分たちに責任のあるその地域 ― 下エジプト ― で生じる事柄をもはや支配できなくなったのは明らかです。

ハトルは牛の頭をした女神でした。天空の女神ヌートも牛として描かれていました。第5の打撃の際の疫病によって『あらゆる畜類が死んだ』時,両者とも何という屈辱を被ったのでしょう。―出エジプト記 9:6。

トートは,「病人をいやすのに必要なあらゆる呪文」を知っていたと言われています。また,アモン・ラーは「災いを解消し,病気を払いのける」医師だった,とアモン・ラーをたたえる詩の70番目の節に述べられています。しかし,これらのにせ治療師たちは,第6の打撃で「水ぶくれを伴うはれ物」が「人と獣」,さらには「魔術を行なう祭司たち」にさえ生じるのを阻止できませんでした。―出エジプト記 9:10,11。

シュー,レシュプー,テフヌートといった神々は,天候を支配するのに一役買っていました。しかし,彼らは今日の天気予報官と同様,第7の打撃の際に人と獣と草木を打ち,また「野のあらゆる樹木を打ち砕いた」雷と雹を防ぐことができませんでした。(出エジプト記 9:25)雹が滅ぼせなかったものは,第8の打撃のいなごが食い尽くしました。(出エジプト記 10:12-15)右手に稲妻の矢を持ち,雷鳴と電光を支配すると考えられていた収穫の神ミンは何という敗北を被ったのでしょう。これら二つの災厄が続いていた間,雷鳴と電光はミンの手からすべり落ちたのです。

「陰うつな闇がエジプト全土に生じて三日にわたった」。これが9番目の打撃です。(出エジプト記 10:21,22)太陽神ラー,太陽を表わす円盤を身に着けていた女神セクメット,それに月の神トートは,文字通り自分たちの光を消されました。

そして,エジプトの初子が突然打たれて死に,ファラオの「大いなる家」を含め,「死人の出ない家(が)なかった」時,大きな叫びが起こりました。(出エジプト記 12:29,30)ファラオは太陽神ラーの子孫と考えられていたので,ファラオの初子の思いがけない死は神の死も同然でした。王家を保護していたベスと王を守っていたブトーは何という惨敗を喫したのでしょう。

1回どころか10回も辱められ卑しめられたファラオとその軍勢は,復しゅう心に燃え,去り行くイスラエル人を猛然と追跡しました。(出エジプト記 12:37,41,51; 14:8)ニ-マート-レーというあまり知られていないファラオをたたえた古代の詩はかつて,「彼のみ名のために戦え……彼の威厳に逆らう者に墓はなく,その死体は水の中に投げ込まれる」と豪語しました。しかし,滅びへの神の秒読みを体験したファラオに関する限り,水に投げ込まれたのはファラオ自身の体でした。ある参考文献の言う,「神ホルスのこの地上における化身,アトゥムの王権の継承者,太陽神レー[ラー]の息子であるファラオ」は,イスラエル人の神の威厳に逆らい,紅海でイスラエル人の神に滅ぼされました。―出エジプト記 14:19-28。詩編 136:15。

これは実際に生じた出来事か

新ブリタニカ百科事典が,出エジプト記の記述には「伝説的な要素」が含まれると主張する一方で,「現代の学者たちが伝説の背後に事実の確かな核心があると考える傾向のある」ことを認めていることには重要な意義があります。同百科事典はまた,王の系譜からエジプトの王朝の年代を算定することの難しさに触れ,「歴史上の記録としてのこの系譜の弱点は,誉れを受けるに値するとみなされた王の名前しか含まれておらず,多くの目立たない支配者や評判の悪い一部の支配者が全く無視され,記録から削除されていることである」と述べています。

こうした歴史的不正確さや事実の改ざんを考えると,エジプトとその偽りの神々のこの壊滅的な敗北が全く『削除された』としても驚くには当たりません。歴史を記録した人々が祭司たちの監督のもとに記録したことを思い起こすと,その敗北が記録から削除されたことは明らかです。祭司たちの主な関心事が,自分たちの地位を保ち,自分たちの神々の名誉を守ることにあったのは言うまでもありません。

昔のこうした出来事からすると,エジプトの宗教の現代版を支持する人の将来は暗いと言えます。神々の戦いを無事に生き残ったのは,真の宗教を実践した人々,すなわちイスラエル人と幾人かのエジプト人の仲間だけでした。今や彼ら,つまりこの「他とは異なる取り分けられた国民」の前途には大いなる事柄が待ち受けていました。そのことについてはこの一連の記事の第4部でお読みください。

[脚注]

a この時支配していたファラオを確定することはできませんが,エジプト学者たちは,トトメス3世かアメンホテプ2世,あるいはラムセス2世であった可能性が高いことを示唆しています。

[22ページの囲み記事]

どのように答えますか

イスラエル人がエジプトに住んでいた間,真の宗教を実践していたのはイスラエル人だけでしたか。

そうではありません。「とがめがなく,廉直で,神を恐れ,悪から離れている人」が,隣接するウツ(現在のアラビア)に住んでいたからです。その人の名はヨブといいました。ヨブは,ヨセフが死んだ西暦前1657年からモーセが起こされるまでのある時期,エホバの忠実な僕として忠誠の厳しい試練を受けました。―ヨブ 1:8。

[23ページの図版]

ファラオは神の化身とみなされた

[クレジット]

Courtesy of Superintendence of Museo Egizio

[24ページの図版]

幾つかのピラミッドはファラオの墓で,ぜいを尽くしたものだった

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