ものみの塔 オンライン・ライブラリー
ものみの塔
オンライン・ライブラリー
日本語
  • 聖書
  • 出版物
  • 集会
  • 目92 9/22 14–16ページ
  • 神はわたしの祈りに答えてくださるだろうか

視聴できるビデオはありません。

申し訳ありません,ビデオをロード中にエラーが発生しました。

  • 神はわたしの祈りに答えてくださるだろうか
  • 目ざめよ! 1992
  • 副見出し
  • 関連する記事
  • 祈りを妨げるもの
  • 祈りの乱用
  • 『ご意志にしたがった』祈り
  • 神が答えてくださる方法
  • 祈りによって神に近づく
    聖書は実際に何を教えていますか
  • どうすれば神に祈りを聞いていただけますか
    エホバの王国を告げ知らせるものみの塔 1969
  • 祈りを通して助けを得る方法
    あなたは地上の楽園で永遠に生きられます
  • 祈りはあなた自身を表す
    エホバの王国を告げ知らせるものみの塔 1959
もっと見る
目ざめよ! 1992
目92 9/22 14–16ページ

若い人は尋ねる…

神はわたしの祈りに答えてくださるだろうか

「エホバがわたしの祈りに答えてくださるかどうか知りたいのです。答えてくださるかどうかはっきり分からないからです。わたしは同じ問題を抱えている若者を大勢知っています」と,11歳のサンドラは言います。15歳のアリッサは,祈りに関して似たような問題を抱えたことがあり,「独り言を言っているような気がしたこともよくありました」と認めています。

1988年のギャラップ調査によると,米国の十代の若者の87%は何らかの機会に祈ったことがあるようですが,定期的に祈っている人は半数以下でした。自分の祈りの答えが返ってこないと感じている人もいるようです。時には自分の祈りをだれも聴いていないように思えることがあるかもしれません。しかし,誠実に信仰の祈りをささげれば,「祈りを聞かれる方」が確かに聴いてくださることを聖書は保証しています。(詩編 65:2)しかし,神がただ聴くだけで,丁寧に聴いてはいてもその答えとしてほとんど何もしてくださらない方ではないということはどうしたら分かるのでしょうか。

詩編作者は神のことを祈りを聞かれる方と呼んだ後,次のように言いました。「義にそった畏怖の念を起こさせることをもって,あなたはわたしたちに答えてくださいます。わたしたちの救いの神よ」。(詩編 65:5。詩編 66:19,20と比較してください。)では,自分の祈りの答えが返ってこないと感じる人がいるのはなぜでしょうか。

祈りを妨げるもの

その理由は神との真の関係がないことにあるのかもしれません。神の存在そのものを疑っている若者もいます。神を信じてはいても,遠くにいる抽象的な存在とみなしている人もいます。祈りとはエレベーターの非常停止ボタンを押すようなもの,つまり極めて緊急な時の最後の手段となっています。一人のカトリックの若者は「神を信じる」と主張し,「困った時や助けが必要な時はいつも神に助けを求めます」と言います。別の若者はありのままを話して,「何かが本当に欲しい時しか祈らないことがあります」と言います。

しかし,祈りは信仰や崇敬の念,献身,信頼を表わすものであり,単なる絶望や利己的な願望の表現であってはなりません。神が存在するかもしれないと思うから祈る,というのは十分ではありません。「神に近づく者は,神がおられること,また,ご自分を切に求める者に報いてくださることを信じなければならない」と聖書は述べています。(ヘブライ 11:6)疑う人の祈りに答えが返ってくることはありません。(ヤコブ 1:6-8)エホバはご自分を知り,愛するようになった人々に耳を傾けておられるので,彼らがまさかの時のために祈りを取っておくことはありません。テサロニケ第一 5章17節が勧めているように,彼らは「絶えず祈り」ます。アメリカ訳の訳し方によれば,彼らは「祈ることを決してやめません」。

残念なことに,クリスチャンの若者の中には,エホバを知るようになったものの,本当の意味でエホバとの友情を深めてこなかった人たちがいます。(詩編 25:14)彼らはごくまれにしか祈らず,その祈りも一般的なものになりがちで,祈りに答えが返ってくることはまずありません。もしかするとあなたの祈りもこのようなものでしょうか。もしそうなら,神についてもっと知ることによって,「神に近づき」ましょう。(ヤコブ 4:8)冒頭に出てきたアリッサという若者はエホバに関して疑いを抱いていました。しかし,聖書の個人研究を行なった結果,徐々に疑いは消え,神との関係を深めることができました。

その人の態度や行動が祈りを大いに妨げるものとなることもあります。詩編作者はこう述べました。「もしわたしが心の中で有害なことを考えたのなら,エホバはわたしの言うことを聞かれないであろう」。(詩編 66:18。箴言 15:29)神を不快にさせるようなこと,つまり麻薬を使ったり,たばこを吸ったり,堕落させる音楽を聴いたり,性の不道徳に関係したりしておきながら,神があなたの祈りに答えてくださると期待するのは道理にかなったことでしょうか。とんでもありません。それでエホバは,裏表のある生活をして,偽善的にも「自分がどんな者かを隠す」人の祈りを退けられます。(詩編 26:4)エホバは,「とがなく歩み,義を行ない,その心に真実を語る」人の祈りにしか耳を傾けられません。(詩編 15:1,2)ですから,祈る時に独り言を言っているように思えるなら,自分の生活をじっくり調べてみてください。もしかすると,何らかの点で変化する必要があるかもしれません。

祈りの乱用

どんな種類のことを神にお願いすることができますか。イエスはこのように保証してくださいました。「あなた方が父に何か求めるなら,父はそれをわたしの名によって与えてくださるのです」。(ヨハネ 16:23)これは何とも期待を起こさせる言葉です。何でも祈ることができるのです。本当に神は魔神か何かのように,あなたの意のままになるのでしょうか。あなたの願い事を,つまらないものでも,すべてかなえてくださるのでしょうか。イエスがこの言葉を語られたのは,悲痛な死を迎えるほんの数時間前のことでした。イエスがばかばかしいことなど気にかけておられなかったことは確かです。それで,ヤコブ 4章3節は祈りの乱用についてこう警告しています。「なるほど求めはします。それでも受けていません。肉欲の快楽に対する自分の渇望のために用いようとして,まちがった目的のために求めているからです」。

今日,多くの人は祈りの特権を乱用しています。ある学校のバスケットボールチームは,試合の後必ずコートの真ん中にひざまずいて祈りを唱えます。あなたは,神がバスケットのファンだとか,ゲームに手を加えるようなことさえなさると本当に思いますか。(ガラテア 5:26と比較してください。)あるいは,靴のために祈るという婦人についてはどうでしょうか。その女性はこう言っています。「靴屋がバーゲンをしていて,私のサイズの靴が1足か2足しか残っていないことが時々あります。お金を持ち合わせていない場合,私が戻るまで靴を必ずそこに残しておいてくださるよう神にお願いします」。しかし,必要に駆られて祈ることと,神が買い物をしてくださると期待することとは全くの別問題です。

同じように,当然受けるべき罰や懲らしめを免れさせてくださるよう神に祈るのはふさわしくありませんし,無駄なことでしょう。(ヘブライ 12:7,8,11)また,テストの準備をほとんど何もしないでおいて,良い点がとれるように神にお願いしたところで,うまくゆくことはないでしょう。―ガラテア 6:7と比較してください。

『ご意志にしたがった』祈り

使徒ヨハネは,祈りに関する重要な点をこう説明しています。「わたしたちは神に対してこのような確信を抱いています。すなわち,何であれわたしたちがそのご意志にしたがって求めることであれば,神は聞いてくださるということです」。(ヨハネ第一 5:14)イエスの模範的な祈り(主の祈り)は,そのような祈りの中に含めることができる事柄を幾つか実際に示しています。イエスは(1)神のお名前が神聖なものとされること,(2)神の王国が来ること,(3)神のご意志が成し遂げられること,(4)身体的,霊的に必要な物が与えられること,(5)サタンのわなを避けるための助けなどを祈り求めました。―マタイ 6:9-13。

この枠組みにしたがって考えると,祈るのにふさわしい事柄はたくさんあります。実際,ペテロ第一 5章7節は,『自分の思い煩いをすべて神にゆだねる』ようクリスチャンに勧めています。『神は顧みてくださるからです』。これはわたしたちの生活に関係するほとんどすべての事柄について祈ることができるという意味です。学校の専攻科目を選ぶことなど,決定しなければならないことがありますか。神の知恵を祈り求めてください。(ヤコブ 1:5)ばかばかしい失敗をしてしまいましたか。では,神に許しを求めましょう。―イザヤ 55:7。ヨハネ第一 1:9。

しかし,祈りと調和した行動をしなければなりません。クリントという若者のことを考えてみましょう。クリントは高校を卒業した後,全時間の福音宣明者になりました。数か月の間,聖書研究に関心を示す人を見いだすことができませんでした。そこで,クリントはそのことを祈りに含めました。それでも,彼は棚ぼた式に研究生が転がり込んでくるのを待ったりはしませんでした。勤勉に家々のドアをノックし続け,そのうちに聖書を喜んで学ぶ人を何人か見つけることができました。

神が答えてくださる方法

時には,祈ること自体が助けになることもあります。サンディーという若者はマスターベーションの問題と闘っていました。こう語っています。「エホバに祈ってそのお名前を呼ぶのは助けになります。なぜなら,マスターベーションをしないよう助けてくださいと祈った後にはしないほうがよい,と分かっているからです」。

しかし,時には神が物事をうまく動かして祈りに答えてくださったように思えることがあります。ケンという若者はある時,割り当てられていた聖書からの短い話をするため,エホバの証人の王国会館に行かなければなりませんでした。あいにく,彼を車に乗せてくれる人がいませんでした。ケンはそのことについて熱烈に祈りました。数分後,めったに来ることのない姉が家にやって来ました。姉はケンの宗教に関心を持っていませんでしたが,ケンを車に乗せてくれました。祈りに対する直接的な答えだったのでしょうか。恐らくそうでしょう。いずれにせよ,物事があなたに有利に働いた時,神に感謝をささげるのはふさわしいことです。パウロは,「すべての事に感謝しなさい」と説き勧めています。―テサロニケ第一 5:18。

でも,神があなたの祈りに対して何かドラマチックな仕方で答えてくださると期待してはいけません。また,あなたに起こるささいな出来事まですべて神のご意志の表われだと解釈するのもよくありません。普通わたしたちの祈りに対する答えは,それとは分からないように与えられるものです。例えば,聖書や聖書関係の出版物で何か読んだり,親や仲間のクリスチャンが健全な助言を与えてくれたりすることがあります。確かに,自分に対する神のご意志が何であるかを判断するには識別力が必要でしょう。時がたてば,たいていのことは解決するものです。

そうです。時間がかかるのです。あなたの望み通りの時に神が答えを与えてくださると期待しないことです。「黙ってエホバの救いを待つのは良いことである」とエレミヤは書きました。(哀歌 3:26)さらに,あなたの好きな答えが必ず返ってくるという保証はありません。使徒パウロは,『肉体のとげ』と呼んだ問題が取り除かれるよう神に3度お願いしましたが,神の答えはノーでした。(コリント第二 12:7-9)しかし,パウロは祈りの賜物に対する感謝を失うことなく,がんばってエホバへの奉仕を続けました。「たゆまず祈り……なさい」と書いたのはパウロでした。(コロサイ 4:2)ですから,「求めつづけ……探しつづけ……たたきつづけ」てください。(マタイ 7:7)そうすれば,あなたは神に一層近づくことになり,恐らくあなたの祈りに対する答えが返ってくることでしょう。

[15ページの図版]

祈りの内容は,欲しい物を願い求めるつまらないものであってはならない

    日本語出版物(1954-2026)
    ログアウト
    ログイン
    • 日本語
    • シェアする
    • 設定
    • Copyright © 2025 Watch Tower Bible and Tract Society of Pennsylvania
    • 利用規約
    • プライバシーに関する方針
    • プライバシー設定
    • JW.ORG
    • ログイン
    シェアする