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  • 目96 5/22 25–27ページ
  • どうして友情が続かないのだろう

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  • どうして友情が続かないのだろう
  • 目ざめよ! 1996
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目ざめよ! 1996
目96 5/22 25–27ページ

若い人は尋ねる…

どうして友情が続かないのだろう

「友達と二人で,いろいろ面白いことや活動を一緒に行なって,楽しく過ごしました。でも突然に,友情はどんどん冷めてゆきました。本当にがっかりしました」― マリア。

自分のことを理解してくれる,批判的でない友達がついに見つかりました。しかし,突然,友情にひびが入ります。どうにかしようとしますが,うまくゆきません。

忠節な友はお金では得られないほど貴重です。(箴言 18:24)そして,友を失うのは辛い経験となり得ます。ヨブは友人たちから見捨てられたとき,「わたしの親しい知り合いは絶え,わたしに知られている者たちは,わたしを忘れた」と嘆いたことを聖書は述べています。(ヨブ 19:14)あなたも最近,友情が壊れて,同じようにがっかりしているかもしれません。パトリックという若者は,「だれか自分の愛する人に死なれたような気持ちだ」と言います。しかし,実際友情が芽生える度に,いつも駄目になってしまうならどうでしょうか。

もろい友情

イーストウッド・アットウォーターの「青年期」という本は,十代の友情は「ころころ変わる傾向があり,突然に,劇的な変化が生じたり,友情が終わって悲痛な気持ちになったりする」と述べています。十代の友情はなぜそんなにもろいのでしょうか。一つの理由は,成長してくると,感情や見方,目標,関心事が変わり始めるからです。(コリント第一 13:11と比較してください。)あなたは,ある点で友達より一歩進んで ― あるいは,後れて ― いることに気づくかもしれません。

それで,友達同士が大人になると心が離れてゆくことがあるのは,互いに腹を立てたからでなく,違った目標や関心事,価値観を持つようになったからなのです。友情が終わるのが最善ということさえあります。成長するにつれてもっと真剣に霊的な事柄に取り組むようになると,以前の友達の中には,健全な影響を与えない人もいたことに気づくかもしれません。(コリント第一 15:33)友達のことを気にかけますが,彼らとの交際は,以前のようには楽しめなくなります。

友情を台なしにする事柄

しかし,友達でいたいのに,続けざまに友を失うとしたらどうでしょうか。率直に言って,あなたには克服しなければならない人格上の欠点があるということかもしれません。例えば,ねたみは友情を台なしにします。あなたより裕福だとか,才能があるとか,魅力的だとか,人気がある友達がいるとしましょう。その友達が特別に注目されると憤慨しますか。「ねたみは骨の腐れで(す)」。(箴言 14:30)年若いキーノンは,「僕は友達の人気だとか,彼が持っているもので,僕にはないものをすべてねたましく思いました。それが友情にも影響を与えました」と認めています。

破壊的な影響を与える別の特質は独占欲です。友達が,ほかの人たちと過ごす時間が長くなっているのに,あなたとの時間がどんどん少なくなっているということを知ったなら,どうしますか。ある若者は,「ほかの人が友達と話をしただけでもねたましく思いました」と胸の内を語っています。友達がほかの人と付き合うことを裏切り行為と感じるかもしれません。

完全主義も友情を破壊するものとなり得ます。例えば,友達があなたのうわさ話をしたことを知ります。もしかすると秘密にしていた事柄まで話してしまったかもしれません。(箴言 20:19)あなたは,「もう絶対信用しない!」と腹立たしく言います。

友情 ― 受けること,それとも与えること?

もし,ねたみ,独占欲,完全主義のために友人との関係に緊張が生じたら,『自分は友情から何を得たいのだろうか』と自問してください。友情には,だれかがあなたの言いなりになる,つまり,あなたの指図に従う召し使いのようなることが含まれると思っていますか。名声や人気,物を得る目的で友達を探しますか。友達に全き専心を期待し,ほかの人に入り込む余地をほとんど与えないでしょうか。そうなら,友情観を変える必要があります。

聖書の教えから学べるのは,ほかの人との良い関係は,受けることからでなく,与えることから得られるということです。マタイ 7章12節でイエス・キリストご自身,「それゆえ,自分にして欲しいと思うことはみな,同じように人にもしなければなりません」と言われました。ある事柄を友達に期待するのはごく自然なことです。「人間関係を理解する」という本は,こう述べています。「我々は友人に次のような事柄を期待するものである。正直で,隠し立てしないこと,愛情を示してくれること,秘密や抱えている問題を話してくれること,必要なときに助けてくれ,自分を信頼してくれること,そして……意見の不一致を解決しようとすること」。ところが,これで終わりではありません。同書はさらに,「これらは,友達に期待する事柄であり,お返しとして友達のためにしてあげたいと思っている事柄でもある」と述べています。―下線は本誌。

イエスご自身がどのように親しい人たちと接しておられたか,注目してください。イエスは弟子たちにこう言われました。「わたしはもはやあなた方を奴隷とは呼びません。奴隷は自分の主人の行なうことを知らないからです。しかしわたしはあなた方を友と呼びました」。しかし,イエスの友情は,弟子たちがイエスのために何が行なえるかということに基づいていたでしょうか。その正反対です。イエスは,「友のために自分の魂をなげうつこと,これより大きな愛を持つ者はいません」と言われました。(ヨハネ 15:13,15)そうです,友情の真の基は自己犠牲的な愛なのです。愛が関係の基礎となっているなら,口論や問題を乗り越えられるでしょう。

問題が生じたなら

例えば,友達がお金か頭脳か才能の点であなたより多くのものあるいは優れたものを持っているとしましょう。利他的な愛は,友達と共に歓ぶ助けになります。何と言っても,『愛はねたまない』と,聖書は言っています。―コリント第一 13:4。

あるいは,友達が,あなたを傷つけるようなことを言ったりしたりしたとします。友情が終わることを意味しますか。必ずしもそうではありません。使徒パウロは,友人のマルコが宣教旅行の途中で自分を見捨てたとき,とてもがっかりしました。失望のあまり,次の宣教旅行にマルコが同行することを断わったのです。パウロは,そのことについてマルコのいとこバルナバと口論さえしています。しかし,何年かの後,パウロは愛情を込めてマルコのことを語り,自分に奉仕してくれるようローマに招いています。二人は確かに,争いを解決していました。―使徒 15:37-39。テモテ第二 4:11。

友達との間で問題が生じたなら,同じことを行なってみるのはいかがですか。問題を悪化させてはなりません。(エフェソス 4:26)性急に結論を下したり,怒って非難したりする前に,友達の言い分も聴くようにしましょう。(箴言 18:13; 25:8,9)多分,何らかの誤解があったのかもしれません。しかし,友達が思慮を欠いていて実際に悪い場合はどうでしょうか。友達もただの人間だということを忘れないようにしましょう。(詩編 51:5。ヨハネ第一 1:10)それに,後になって後悔するようなことを言ったりしたりする点でわたしたちはみな有罪なのです。―伝道の書 7:21,22と比較してください。

そうは言っても,友達の行動に自分がどれほど傷つけられたかを率直に話すことができます。友達は,もっと真剣に謝らなければならないと感じるかもしれません。愛は「傷つけられてもそれを根に持た(ない)」のですから,そのことを忘れることができるでしょう。(コリント第一 13:5)終わってしまった友情のことを思い返して年若いキーノンはこう言います。「もし,もう一度一からやり直せるのなら,友達に完全さを期待しないと思います。もっと話をよく聴いて,友達の支えになるようにし,欠点を大げさにとり上げたりはしないでしょう。今では,友情を成功させるのは,試練や難題を共に切り抜けることだということが分かります」。

しかし,友達と一緒にいる時間が以前より少なくなったり,あるいは,友達が望んでいるほど一緒にいてくれなかったりしたならどうでしょうか。友達の時間や関心を過度に欲しがっているためではありませんか。友情関係が息苦しくなりかねません。良い関係にある人たちは,お互いの自由を認めるものです。(箴言 25:17と比較してください。)ほかの人たちと楽しむための十分の機会を認めるのです。何と言っても,聖書は,友情を『広くする』ようにとクリスチャンを励ましています。(コリント第二 6:13)ですから,こうしたことを友達が行なったからといって,友達を不忠実とみなす必要はありません。

実際,特定の人に頼り過ぎるのはいずれにしても良いことではありません。(詩編 146:3)親や長老や関心を示す責任のあるほかの大人たちといった,同年代以外の人たちと友情を築くのは賢いことです。アナは,「私の一番の親友は母です。母には,どんなことでも何でも話せます」とうれしそうに言います。

いつまでも続く友情を楽しめます!

聖書はペテロ第一 3章8節で,「最後に,あなた方はみな同じ思いを持ち,思いやりを示し合い,兄弟の愛情を抱き,優しい同情心に富み,謙遜な思いを抱きなさい」と述べています。そうです,親切,同情心,道徳的な高潔さを示し,ほかの人に純粋な関心を示してください。そうすれば,必ず友達を引き付けることができます。確かに,長く続く友情を得るには努力と決意がいります。しかし,その報いは努力を補って余りあるものです。

興味深いことに,聖書はダビデとヨナタンについて述べています。二人の友情は際立っていました。(サムエル第一 18:1)二人は,狭量なねたみや,人格上の欠点を克服することができました。ダビデとヨナタンが,友情やエホバ神への忠節を他の何ものより重視したからです。同じようにしてください。そうするなら,神を恐れる人と友達でいつづけることに関して問題を抱えることはまずないでしょう。

[26ページの図版]

ほかの友達を作るのは裏切り行為だと一方が思うと,多くの場合友情は破たんをきたす

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