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  • エホバの王国を告げ知らせるものみの塔 1955
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エホバの王国を告げ知らせるものみの塔 1955
塔55 4/15 157–160ページ

最善の行儀

クリスチャンは最善の行儀をすべきです。神と人間に対するその真の愛から,クリスチャンは穏やかで礼儀正しく,親切な振舞をいたします。クリスチャンは神とキリストの大使であり,世の中で最高の地位を占める者です。この理由からも,彼らは正しい礼儀をなすべきでしよう。神は御旨のままに,クリスチャンを『御使と人間の両方に,この世の見もの』にし,見せものにされました。それで彼らの生活やすべての行為は,常に観察され,批評されています。彼らは生ける実例であり,神に誉をもたらすか,或は不名誉をもたらします。

使徒パウロは,この事を知り,クリスチャンに次のことを思い起させています『キリストについての善いたよりにふさわしく振舞いなさい。』『何事も争や利己主義の気持からするのではなく,へりくだつた心を持ち,他の者を自分より優れた者と考えなさい。自分自身の利害だけに気をつけず,他人の利害にも気をつけなさい。』クリスチャンは何故そう振舞わねばならぬかについて,ペテロはこう語つています『諸国民のあいだで,正しい行をしなさい。それは,彼らがあなた方を悪人呼ばわりしても,あなた方の正しい業を見て,かえつて裁きの日に神を崇めるようになるためである。主のために,あなた方は人の立てたものに従いなさい。』この正しい振舞は,本質には良い行儀です。それは,互に平和を保つて生活する仕方を知る技術です。それは神と隣人の愛から出る礼節です。―ピリピ 1:27; 2:3,4。ペテロ前 2:12,13,新世。

イエスは完全な紳士でした。彼は行儀を一度も間違えたことはありません。『人にして貰いたいと思う如く,他の人になせ』という神の規則を完全に実践しました。イエスを見守り,彼の言葉を聴き,その智恵の言葉を聞き,大いなる業と恵み深い行儀を見た人々は,全く驚きました。イエスの良い行儀は,人間の書いた行儀作法の本に述べられる規則を守つたためになされたのでなく,むしろ誠実な心を持つたためと,幼い時より全能の神の正義の原則,特に愛の律法を守り,それを実践したことによるのでした。―マタイ 13:54-56,新世。

良い行儀は,神の愛と人間の愛に根ざしています。良い行儀をするのに一銭も費用が掛かりませんが,しかし非常な価値を持つものです。奇妙なことに,行儀は往々にしてぴつたり時に適つて話される言葉です。適当な時に正しい事を言うのは,技術です。言葉は真心からなされ,自然のもので美しくなければなりません。聞いて貰いたいと願うならば,言葉は自然のもので誠実でなければなりません。さもなければ,言葉は深みのない,不誠実に聞え,おそらくお世辞と考えらるれでしよう。お世辞は侮辱であつて,愛想ではありません。

『美しい振舞は美しい形よりも優る。それは,彫刻品や絵よりも多くのよろこびを与える。それは,立派な芸術のうちで一番立派なものである。』この世的の智恵がなくても賢明になり得ると同じように,行儀作法についてこの世的の本にある規則や形式を知らなくても,善い行儀をすることはできます。それに,この世の本は精々良くても常識の代品に過ぎません。行儀作法の規則は,流行のように変り,また殆どどの国でも違つていますが,しかし良い行儀は全世界同じであります。

悪い行儀の源

虚栄,ひねくれた気質,同情を強く求める心,良い常識の欠如は,悪い行儀が生ずる主要な源です。虚栄の心を持つ人々は,人に良く思われたいが,しかし他の人を考えることはまずありません。いつも自分の事だけを考えています。虚栄は自己中心意識に導きます。ヱホバをよろこばしたいと思うならば,私たちは他の人を考えねばなりません。他の人を考え,他の人の感情に注意を払うことは,礼節の一番大切な特性です。しかし,行儀の悪い人は,しばしば大声で話をして,自慢をなし,自分と自分の家族のことを誉めます。また,自分の仕事の業績を誇り,自分より不運の人を見下し,そして概して,人の名を傷つけながら冗談を言う人は,行儀の悪い人です。

言葉は危険な道具です。言葉を注意して話すようにとイエスは弟子たちを警めました。『兄弟にむかつて,言つてはならない侮蔑の言葉を言うものは,誰であつても裁きをうけるであろう。また「ばか者」と言う者は,誰であつてもゲヘナの火に入れられるであろう。』イエスは更にこうつけ加えました『良い人は良い倉から良いものを出す。しかし,悪しき人は悪い倉から悪い物を出す。あなた方に言う。裁きの日に人はその語る無益な言葉に責任を取らねばならぬ。あなた方は,その語る言葉で正しいとされ,その語る言葉で罪に定められる。』(マタイ 5:22; 12:35-37,新世)行儀の善いクリスチャンは,自分の兄弟を「ばか者」「のろま」または他の礼に失した言葉で呼びかけません。

ある人は自分は良い生まれで,賢く,また富んでいるから,他人が何を言おうか,あるいは考えようか一向に気にかけないと思つています。そのような人は,自分たちの地位の故に,粗野であつても大丈夫と考えています。しかし,それは自分自身および交る人々に侮辱を与えるものです。他の人々は,またいろいろな無礼な仕方で隣人に軽蔑を示しています。例えば,人々の前で衣服をきちんと着ていないとか,体と心を清潔に保たないとか,忌むべき習慣に耽けるとかいうことです。『悪い交りは,有益な習慣を台無しにする』故に,クリスチャンはそのような者と交つてはならぬと,パウロは警めています。

卵の外観からでは,その品質を判断することは難しいものです。それと同じく,人々の外に表われた行儀からだけで人を判断するのは賢明でありません。多くの人は着る物が多くなく,他の人は不健康で,ある人は圧迫されてくるしんでいます。しかし,普通の人は,外観と実際の人間は違うだろうなどと時間をかけて,考えるようなことは先ずありません。すべての人は清潔を保つことができます。私たちは心から正しい事を語れます。私たちは親しみ深く,もてなし良く,親切で礼儀正しくすることができます。私たちは気取る必要はありません。私たちは正直で丁寧にすることができます。之らの事には全然費用が掛からず,無料のものです。金持ちでも貧乏人でも,すべての人はそれらを持つことができます。初めての人が近づくと,『しかつめらしく構える』またはつんつんした冷い態度を取るのは愚かなことです。クリスチャンは会話をする人でなければなりません。クリスチャンは話をし,人々を愛します。

すべての人に対する良い行儀

行儀の良い人は,あらゆる状況の下でも,すべての種類の人に礼儀正しくします。その人は,自分の『下の者』(子供たち,精神的に病気な者,不幸な者たち,その他)にも,又自分と匹敵する者(兄弟たち)そして自分の『上の者』と見る者たち(特別の資格の僕たち,支配者,王そして統治者)をも丁重に取り扱います。金を支払う人とか,恐れる人にだけ行儀良くするのではありません。夏の太陽のごとく,その親切と礼儀は,一様にすべての人にされるべきです。―ペテロ前 2:13-20。

普通一般に,友人や家族よりも初めての人に礼儀を厚くして取り扱いますが,しかし私たちの愛する人よりも,初めての人は良い接待をうける資格があるでしようか? 私たちの家族や友人には,外部の人よりももつと良い取り扱いをすべきです。良い行儀とは,人を訪問する時に着る外出着であると考える人はいます。しかし,真実に行儀の良い人とは,どんな時にも行儀正しく振舞う人のことです。

最善の行儀を教え,かつ学ぶところは,クリスチャンの家庭です。家庭は微妙な機械であつて,その各部門はお互いに密接な結びつきを持つているものです。巧みに滑らかにすることによつて,その機械は円滑に動くのです。助け合い,礼儀正しく,気持良く,丁寧に行う仕方を知ると,家庭を幸福にするものです。毎日使う気持良い言葉で,礼儀と思い遣りの言葉の言い方を学ぶと,附合う際に起る危険な摩擦を避けるのに大に役立ちます。それらは一寸した言葉ですが,大きな意味を持つものです。誰でもそれを正しく言うことができます。それには一銭も費用が掛かりませんが,しかも友を買うことができます。毎日良い行儀を実践すると,良い行儀を必要とする時,つまり家庭から離れて公共の人中にいる時も,善い行儀は私たちの身についているものです。

例えば最近のヱホバの証者の大会のときに,一寸憎々しいある初めての人が群衆にもまれ,一人の証者にぶつかりました。その証者は,よろめきから立ち直り,ほほえんでお詫びを言いました。その人は,自分が過失をしたものと知つていたために,大へんびつくりしました。しかし,お詫びを言つたのは証者だつたのです。その人が後に語つて言うのに,この礼儀正しいことに心を打たれ,神の言葉の真理を考えるようになつたとの事です。その人はいまはヱホバの証者です。

見知らぬ人から,別の例が告げられましたが,それは親切と礼儀正しくする必要を説明しています。ヱホバの証者は,国際大会の会場近くに居り,交通の混雑は大へんなものでした。この人は大道を横断しようとしていましたが,車がづーと並んで走り,どうしても横断することはできません。ヱホバの証者の標識をつけている車が近づくのを見て,その人は自問しました『ヱホバの証者は,人の言う程に親切な者たちだろうか。私を通して呉れるだろうか?』 よろこびもし,また驚いたことに,その車は止まりその人は横断することができました。この古い世でそのような親切をすることは必要です,そしてこの世は私たちの礼儀を必らず見ています。

1953年7月23日のドネレン(ニュー・ジャーシー州)ウイクリー・コール紙は,こう述べていました『ヱホバの証者が去つてしまうと,全く淋しく感ずる。……彼らは国の中で一番善い人々のようである。礼儀正しく,丁寧で,そして我々大部分の者が近頃全く顧ないような他の事柄についても非常に良い。……彼らは非常に礼儀正しい人々である。我々はホテルに居る時に礼儀正しく振舞うが,彼らは自動車を運転している時でも,それと同じ程に礼儀正しい。それは注目に価する素晴らしいことである。』1953年7月28日,モーニンク・コール紙(アレントン,ペンシルバニヤ州)の社説は,ヱホバの証者についてこう述べました。『彼らは数においても勢力においても増加している素晴らしい人々である。何処に行つても彼らは歓迎される。その行動振舞はそんなにも良く,また人々の意見は良いので,彼らは又是非来るようにと頼まれる。』クリスチャンの振舞は彼の負う良い名前にほまれをもたらすか,あるいは不名誉をもたらします。それは,神とキリストに誉をもたらすか,あるいは不名誉をもたらします。

食事の時

善い行儀を験す確かな試験は,食事をする時です。食べ始める時を知つていますか? どのように始めますか? 何を言つて,それをどのように言いますか? その国の習慣に従い,そこで礼儀正しいと思われる仕方でどのように食べますか? 何時止めますか? クリスチャンの食事の時はよろこびの時,交りの時であつて,それは幸福な時です。それは馬鹿らしい規則の長い表で束縛されてはならず,また不秩序のものであつてはなりません。それは愉快な時であつて,すべての人は援助をうけ,お互いに思い遣りを持つことができます。

祈りを捧げてから食物を食べます。食物をひつたくつてはなりません。食物が廻されてくる時,みな礼儀正しく自分の分を取ります。取る食物の分量は,自分の食慾で決めるのではなく,家族の大きさと食卓にある食物の量で決めるのです。大変行儀が悪く,貪欲な人は,自分の食べる分量以上を取るか,または多くのものを取つてしまい,他の人は殆ど食べられないか,全然食べられないようにします。他人の感情を害する仕方で,しかも住んでいる国の正しい食事の習慣の規則を無視して食べること ― 自分の家庭でこれらの違反をするとき,他の人と一緒にいる時も失敗をします。そして『クリスチャンとしては行儀が悪い』と言われるでしよう。クリスチャンは,非難をうけてはなりません。

会衆で

会衆の集会に出席する時,遅く来るのは悪い行為です。礼儀善くするには,私たちは講演者と会衆に思い遣りを持ちましよう。子供を持つ母親は,会場の後ろで通路に近いところに坐る方が具合良いでしょう。子供のために退場の必要が生じた時でも,講演者や出席者に迷惑をかけません。金特ちであろうと,この世の勢力家であろうと,どんな時でも依怙贔負を示すべきではありません。人種,皮膚の色,または国籍の故に,不公平があつてはなりません。講演の間,囁いたり,くすくす笑うことは,隣りの人に迷惑をかけます。会衆の集会は,人々が来て学び,崇拝し,そして奉仕するところです。どの場所に優つて,会衆の集会では,一番善い行儀をするべきです。

親切に飢え,礼儀や丁寧さが殆んどないこの世で,クリスチャンはその親切と良い行儀の行を大水の上に豊かに播きましよう。なぜならば,その多くは報いとなつて戻つてくるからです。それに,播くこと自体気持良く,やさしく,また費用のかからぬものです。微笑して気持良くすることは,非常にやさしく,また小さな親切な事をするのも大変やさしいものです。それで,そういう事をしないという言い訳は立ちません。その外に,お互のために毎日行うこのような小さい親切な事柄は,すべての人の生活の美を増進させるものです。

違つた国では,人々の違つた習慣がありますが,丁寧でふさわしいものであるならば,どんなものでも認めて行えるということを忘れてはなりません。決して狭い量見でもつて,これらの事柄を言つたわけではなく,また一国の生活様式を他国のすべてのクリスチャンは守らねばならないということでもありません。すべての人が健全な心を働らかすならば,あらゆる人々に対する行は親切なものとなるでしよう。

[160ページの囲み記事]

『そこで,御霊の結ぶ果は,愛,悦び,平和,寛容,慈悲,善良,忠誠,柔和,節制である。これらに反するところの律法というものはない』ガラテヤ 5:22,23。

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