希望の力
『私たちはこの希望で救われた。しかし,見える希望は希望ではない。人があるものを見るとき,それを希望するであろうか?』― ロマ 8:24,新世。
1 希望の誉は,誰のところに捧げるべきですか? その希望は,どのように力でありますか?
ヱホバは永遠の生命の大いなる源であり,『希望を与える神』である故に,希望はヱホバなしでは宇宙に存在しません。(ロマ 15:13,新世)人類歴史の中で最も暗い時,つまりアダムとエバがその創造者に対して反逆し,その子孫に罪と死をもたらしたとき,ヱホバは希望の必要を見られ,そして恵みの御心からその希望を給与されました。その崇高な希望は,約6000年程前に初めて示されましたが,いまや正義を愛し正義を求める人々に対し,強いまた保護する力で今日充たされております。その力は,神の書かれた言葉を理解することによつて活動づけられるのですが,クリスチヤンをして敬虔な行をなさせ,試みをうけるときはクリスチヤンを維持し,そしてクリスチヤンを導いて狭い路に安全に従わせます。その狭い路こそ,ヱホバの新しい世において終ることのない生命に導くものです。
2 世界の情勢は,なぜそんなにも希望が無いように見えますか?
2 ヱホバが正当な希望を人類に与えておられるならば,今日の世界の情勢はなぜそんなにもひどく希望のないように見えるのですか? なぜならば,悪い者である悪魔サタンは,多くの人類を盲目にし,真の希望を見させないからです。この狡賢いものは,偽の希望を考え出し,全地の人々の上にその希望をおしつけました。悪魔は巧妙にも自らを『光の天使』に変身して諸国民を騙しています。それで,『全世界は悪いものの勢力の下にある。』(コリント後 11:14。ヨハネ第一書 5:19,新世。コリント後 4:4)その結果は? 人々の満ち溢れている世界は,空虚な,餓えた,そしてぼんやりした希望を持つているのです。一般普通の人に,その人の希望は何であるか尋ねてごらんなさい。その答えは殆ど大低,不確実なものか,またはぼんやりとしている希望を表すものです。ある人は,その希望は金を得ることだと言いますが,しかしそれらの人々はヱホバの与える希望を持つてはおりません。なぜならばそのような人は,最高の裁判主の目から見るとき,犯罪者であります。『我もし金をわが望となし,精金にむかいて汝わが頼みなりと言いしことあるか? 我もしわが富の大いなると,わが手に物を多く獲たるとを喜びしことあるか? これもまた裁判人に罪せらるべき悪事なり。我もし斯くなせし事あらば,上なる神に背きしなり。』― ヨブ 31:24,25,28。
3 人間の制度に希望を置くことはなぜ安全ではないかを説明しなさい。また諸国民は,なぜ『よろこびと平和』に欠如しているかを説明しなさい。
3 人間の約束や,また国家の制度に希望を置く者は,『私たちはこの希望で救われた』と確信を以つて言うことができません。本当に,そのような人は,救いの希望をどうして持つことができますか? 明日の安全な世界を立てるという人間の立派な約束は,みじめにも失敗しています。人々はヱホバの与えた希望を無視しているため,その信頼している対照物は蜘蛛の巣のようです。もし人々がそれに依存するならば,それは立ち忍のぶことができません。『実にすべての人は,みなその盛りの時だにもむなしからざるはし。』と言われているのですから,最も賢明な人間の制度といえども,救いの希望の保証人にはなり得ません。(詩 39:5。ヨブ 8:14,15)それですから,人間の建てることのできる最も良い家や,または制度にしても,救いの希望に対する基礎としては,ただ蜘蛛の巣でしかあり得ません。『汝は彼の願いを蛛巣のごとくに拭いさり給う。実に,すべての人は息のようである。』(詩 39:11,ア訳)牧師たちは,アイゼンハワー大統領を賞揚して,その就任式の際に呼ばれたように,『新しい希望の建築者』と呼び,また牧師たちは政治家たちと一緒になつて国際連合を人類唯一つの希望であると賞揚していますが,しかし,諸国家は『全きよろこびと平和』で満されていないというあからさまな事実は,やはり依然としてそのままです。なぜ? なぜならば,彼らは『希望を与える神』を知らないからです。キリスト,イエスの言葉を聞いてごらんなさい。『正義の父よ,世は本当にあなたを知つてはいない。』(ヨハネ 17:25,新世)真の希望の唯一つの源であるヱホバを知らないのですから,富と人間の約束に基くこの世の希望は,消えて衰亡してしまいます。
4,5 (イ)世界の腐敗の状態に対して,人間が神を非難する時,何が間違つていますか?(ロ)ヱホバは,『希望に基いて』創造物を無益に従わせられましたが,それはどのような仕方でなされましたか?
4 永続する正義の新しい世というヱホバの約束は,決して衰亡することはありません。(申命 7:9。イザヤ 66:22)この現在にいたるまで,『アダムにある者は皆死んでいる』という事実にもかかわらず,これは意気を高め,解放を与える希望です。(コリント前 15:22,新世)どのように解放の希望ですか? なぜならば,新しい世とは,『創造物それ自体が束縛の状態と腐敗から解放される』ということを意味するからです。(ロマ 8:21,新世)現在の世の束縛の状態と腐敗に対して,人々はしばしば烈しく神を非難いたします。その間違いのことは,正しい見透しを得るために,彼らは聖書を調べないということです。アダムとエバが,その死の宣告が遂行される前に,子たちを持つよう許されたのは,全くヱホバの恵みある御親切によるのでした。もしそうでなかつたならば,私たちは今日ここに生存していないでしよう! しかし,アダムの罪の結果,人間は不完全と死の中に生まれました。(ロマ 5:12)もちろん私たちはそのような仕方を願いませんでしたが,人間はどうしてもそうならざるを得ないのです。使徒はロマ書 8章20節(新世)でこのことをこう説明しています。『創造物は無益に従わせられたが,それ自体の意志によるのではなく,希望に基いてそれを服従させた方によるのである。』全能の神は,人間のために何かをすることができると希望して人間の創造を無益なものに服従させたとこれは意味しません。いいえ,神は決して希望しません! 神は知つておられます!『世の初めからその業すべては神に知られている。』(使行 15:18)ヱホバはその御業について完全な知識を持たれますから,希望を持つなどという余地を許しいれません。
5 しかし,それにしても,ヱホバは『希望に基いて』人類をどのように無益なものに従わせましたか? アダムとエバを死に宣告する以前に,エデンの園で宣告されたことを話すことによつてでした。ヱホバ神は裁判者として,不忠実な掩うことをなすケルブ,すなわちサタン悪魔と知られるようになつた霊者に話しかけられました。『私はお前と女のあいだ,またお前の裔と女の裔のあいだに敵意を置く。彼はお前の頭をうち砕き,お前は彼の踵をうち砕くであろう。』(創世 3:15,新世)ここに,全人類に対する最高の希望は約言されました。最高の神からの約束であつて,悪しきことを紹介した残忍なる者,つまり『死を生ぜしめる手段を持つものである悪魔』は,救助者によつて砕かれてしまい,存在しなくなるというのです。(ヘブル 2:14,新世)ここに,新しい世の約束がなされました。その新しい世で,人間は腐敗の無益な束縛から栄光ある自由と生命に解放されるでしよう! ―イザヤ 65:17。
6 ヱホバは,どの理由のためにその愛する子を地に遣しましたか?
6 神の愛する子,すなわち大いなる救助者になるようヱホバの選んだ者が地に来たとき,新しい世の希望はただに蛇を砕くことを意味しただけではなく,また従順な人類が永遠の生命のために『この希望によつて』救われることをも意味するということが明白になりました。イエスはこう言いました。『私が来たのは,彼らが生命を持ち,十分豊かに持つためである。』(ヨハネ 10:10,新世)神がその独り子を与え,そして苦しみの杭で死ぬのを許したのは,完全な新しい世のためだつたのです。(ヨハネ 3:16)よみがえされたキリスト・イエスが,その贖いの犠牲の価値を天の父に捧げ,ヱホバによつてそれがうけいれられたとき,新しい世のために基礎は置かれました。今日ヱホバの新しい天と新しい地という救いの希望に心の底からの信頼を置いているものは,新しい世の社会です。彼らの希望は,偽ることのできない神の約束に基いており,その生活をする際は彼らを支え維持して推進させる力です。希望はなぜ力であるかをいま調べてみましよう。
希望の力を分析す
7 希望を定義しなさい。希望は,単なる欲求よりもどのように力強いものですか?
7 省略のないウエブスター新国際辞典によると,希望の定義はこうです。『欲求するものを得ることができるとの期待がつき従う欲求』というのです。それで,希望は二つの要素で成り立つています。すなわち,(1)欲求,そして(2)その欲求が実現されるまたは成就されるという感情。それで,人は鋭い欲求を持つことができますが,しかし希望を欠きます。その背景で,欲求が達成されるという可能性が殆どないという場合に,その欲求は希望ではありません。本当に,欲求は引き寄せます。しかし,希望はそれ以上のことをします。希望は人を促進し,人を推し進めます。希望は努力をするよう強くすすめます。
8 希望のためには,なぜ根拠が必要ですか?
8 希望するものを信ずるためには,確信と信頼のために土台,または基礎となるかたい,動かない根拠が是非ともに必要です。なぜですか? その理由は,私たちは希望するものを見ないからです。『見える希望は希望ではない。人があるものを見るとき,それを希望するであろうか?』(ロマ 8:24,新世)ここで,『見る』という言葉は,人の希望が達成されたという考えを含んでいます,というのは,そのとき人の目は実現を見るからです。ヨブ記 7章7節にこう書かれています。『我目はふたたび幸いを見ることあらじ。』欄外の翻訳(英文)には,『見ること,すなわち楽しむ』とつけ加えられています。
9,10 (イ)希望の力はいつも成功に導きますか? 説明しなさい。(ロ)掩うことをなすケルブの希望は,失望に導きますが,それはなぜ確かですか?
9 希望は私たちの見ないものです。それで,その希望の根拠によつては,希望は成功に導くこともあれば,失敗に導くこともあります。希望の活動を起させる力は,必ずしも成功に導かないということを示すために,自ら悪魔サタンになつた掩うことをなすケルブの例をとつてみましよう。この力ある霊者は,生命を支配する野心に一身を委ねました。それには成功する可能性があると信じたために,その野心は彼の希望になりました。その掩うことをなすケルブを動かし,その野心に充ちた行為の計画を行わせたのは,実際に希望の力でした。彼はヱホバの宇宙主権に反逆して,叛逆者になり,巧妙にエバを惑して同じく変節者にならせました。
10 しかし,反逆を行つてヱホバの聖なる制度から離れ去つたサタンの高ぶつた心は,最高のようになるというその甘い希望を成就することは決してありません。サタンの希望は,悪く間違つていました。最初に,その希望は犯罪の欲求でつくりあげられました。第2に,欲求が実現されるという感情は,ケルグの智恵を腐敗させた盲目の誇りで感動されたのです。(エゼキエル 28:17。テモテ前 3:6)誇りが感動するそのような希望は,ただ亡びに導くだけです。(シンゲン 16:18)サタンはすでに,その手下である悪鬼たちと共に,天の高さから地のところにまで追い落されています。まもなくこの世の見えざる支配者は,ハルマゲドンのときに亡ぼされるでしよう。そのとき,王であるキリスト・イエスは死と同じような無活動の底なき坑にサタンを追い落します。(ヨハネ 12:31; 14:30。黙示 12:7-9,12; 20:1-3)掩うことをなすケルブの場合は,健全な基礎のない希望は決して成功に導かないということを説明しており,またあるものに対する欲求は,そのものを得ようとする感情と共になるとき,実際どれ程に強いものであるかということを説明しております。
エバの希望,なぜに欠点あるもの
11 希望の力は,エバを押し進めて,禁ぜられた木を食べさせましたか? どうしてそれを知りますか?
11 サタンは蛇を通してエバを誘い,次の欲求でエバをじらし,そして禁ぜられた木を食べさせました。『あなたは決して死なないであろう。それを喰べたその日にあなたの目は必らず開き,また必らず神のようになつて,善と悪とを知るようになると神は知つているからである。』(創世 3:4,5,新世)エバは神のような知慧を得るというこの約束を実際に信じ,希望を持つ程になりましたか? そうです,エバは希望をつくりあげる要素をみな持つていました。エバはつけ加えられる知慧に対して欲求を持ち,その知慧を得ることを心から期待しました。それで,エバの欲求ははらんで希望を生じさせ,そしてその希望の力はエバを押し進めさせました。しかし,それは成功にむかつてではなく,亡びにむかつたのです。(ヤコブ 1:14,15)エバはその欲求をはらみ,知慧を得ようと期待して罪をつくりだしましたが,そのことは聖書からも明瞭に分ります。『アダムは惑わされなかつたが,女は全く惑わされ,罪を犯すにいたつた。』(テモテ前 2:14,新世)エバ自身も,盲目的に蛇を信じたということを認めました。『蛇は私を惑したので,私は食べました。』― 創世 3:13,新世。
12 エバの希望は,なぜに欠点のあるものでしたか?
12 エバの希望は,なぜ彼女を死に導きましたか? なぜならば,彼女の希望には健全な基礎がなかつたからです。もし罪を犯したならば,欲求したものが得られると希望しました。罪が希望の根拠でした。罪は蛇の約束したものを産み出すと信ずることのできる根拠をエバは持つていなかつたのです。蛇は信頼することができて,誠実なものであると証明する証拠は,全然なかつたのです。そのような証拠は,どうしてあり得ましようか? 蛇の話した言葉は,エバの創造者とは真向うから反対しているものでした。エバの創造者は『あなたがそれから食べる日に,あなたは必らず死ぬであろう。』(創世 2:17,新世)と言いました。蛇は,ヱホバの述べた言葉が真実ではないとは証明しませんでしたし,また蛇自身の言葉は真実であるという証拠を確立したのでもありません。それですから,エバにはその信仰についての健全な基礎はなかつたのです。エバの基礎は軽信でした。そして,軽信に基く希望はただ,将来にはどうなるかということについて,証明されない他の人の言葉または意見をとりあげることなのです。それでは,何が非常な欠点でしたか? このことです,エバの希望は,聖書が『信仰』と呼んでいるものに基かなかつたということです。
13 希望に対する信仰の関係は何ですか?
13 『信仰とは何か? 信仰とは,見ることのできないものを確信させる私たちの希望に実を与えるものである。』(ヘブル 11:1,ノックス訳)ここで『実』と訳されている言葉は,土台の基礎,つまり他のものがその上に立つ基礎になるものを指し示します。それで,ウエマスの翻訳(第3版)は信仰を定義して,信仰とは『私たちが希望するものについて十分根拠のある確証』と言つています。それでは,『確証』とは何ですか? それはかたい信仰である確信ですか? それ以上のものです。『信仰』という見出しの下に,ハンク・ワグネルの新標準辞書はこう述べています。『確信は論議または証拠によつて確立される信仰である。確証は論議すること以上の信仰である。』それで,新世訳の翻訳の深い意味をたしかに理解することができます。『信仰とは,希望することがらについての確証された期待である。』エバは,その希望したことがらについて,『十分根拠のある確証』または『確証された期待』を決して持たなかつたのです。それで罪に根拠を置いたエバの希望は,死に終りました。エバの希望は欠点のあるものでしたが,それでも駆動させる力を持つていました。それならば,信仰に基く希望は,どれ程に力あるものでしよう!
希望は助けに来る
14,15 (イ)ヘブル書 11章は,何についての例ですか?(ロ)クリスチャン時代以前のヱホバの証者たちは,どんな希望を持ちましたか?
14 信仰に基く希望は,非難することのできない永遠の神の約束を持つています。すなわち,もし人が終りまで忠実を保ち続けるならば,その人の希望することがらは絶対確かに実現されるということです。ヱホバの初期の証者たちのが持つたものは,そのように十分根拠のある希望でした。使徒は,ヘブル書 11章の中で,そのような証者たちの希望について書いております。しかし,この章は信仰を説明している章ではありませんか? そうです。しかしまた信仰に基いた希望,その希望についての例でもあります! クリスチヤン時代以前のヱホバの証者たちは,新しい世を待ち望みました。アブラハムについて聖書はこう言つています。『彼は真の基礎を持ち,その建て主と創造者が神である都を待つていた。』(ヘブル 11:10,新世)このことは,アブラハム,イサク,そしてヤコブが天的の希望に対して待ち望んだという意味ではありません。そうではなく,新しい天の支配をうける地上の生命によみがえるということを希望したものでした。それで彼らの希望についてパウロはこう書いています。
15 『これらの者はみな約束の成就をうけなかつたが,信仰を持つて死んだ。彼らはその約束を遠くから望み見て喜び,地上では寄留者であり,一時的の住民であると公やけに言い表わした。………彼らはより良い場所を求めているが,それは天に所属する場所である。』(ヘブル 11:13,16,新世)これらの人々のその希望は,天に行くことではなくして,王であるキリストの天的支配のあいだ地上で生活することであると知つていましたが,モーセもその一人でした。モーセはそのような希望を持つていましたので,将来のものを待ち望むという心を培いました。苦しみの下にいるとき,希望はモーセを鼓舞しました。本当にモーセは『罪を一時的に楽しむよりは,神の民と共に虐待されることを選んだ。なぜならば,キリストの故にうけるそしりを,エジプトの宝より勝る富と考えたからである。モーセは報いのされることを熱心に望んでいた。』(ヘブル 11:25,26,新世)モーセには,ヱホバの栄光で充たされる地を『熱心に』待ち望む当然の理由があつたのです。全能の神はその御自身の存在に誓いをかけてモーセにこう約束されたからです。『私が生きているように,全世界はヱホバの栄光で充たされるであろう。』(民数紀略 14:21,新世)『モーセはそのような約束を決して忘れませんでした。モーセは,サラのように,『約束した方は誠実である』と見なしました。』― ヘブル 11:11,新世。ハバクク 2:14。
16 希望が,彼らの生活の中でどのように力であつたかを示しなさい。
16 『雲のように多くの証者』は確信の希望を持つていましたので,彼らは世の一部ではないと公やけに言い表わしました。このために迫害が加えられ,ある時には苦しみが加えられました。くるしみをうけて,彼らの忠実は破れましたか? いいえ,希望が助けに来て彼らを救いました。『他の人々は,ある贖い代による解放をうけいれなかつたので,くるしみをうけたが,それは彼らがより良いよみがえりをうけるためであつた。』(ヘブル 12:1; 11:35,新世)正しい基礎を持つ希望からなんと元気づける力が生ずるのでしよう!
よみがえりの希望の力
17 彼らはなぜに『約束の成就を得なかつた』のですか?
17 それら初期の証者たちの希望から切り離すことのできない部分は,よみがえりでした。彼らは古い世には背を向けて見ず,天的の政府の支配をうけて,再び二度と死ぬことのない地上の生命によみがえされることを待ち望みました。彼らは終りにいたるまで忠実でしたが,『約束の成就をうけませんでした。』なぜ? なぜならば,『神は私たちに対してより良きものを先見せられた。それは,私たちからはなれては,彼らが全くされないためである。』(ヘブル 11:40,新世)使徒の言葉によると,クリスチヤン会衆,すなわち丁度14万4000人の忠実な信仰克服者に限定されているキリストの花嫁とはなれては,彼らは『全くされ』ません。(黙示 7:4; 14:1,3)『雲のように多い証者』は,キリスト・イエスから始まつたクリスチヤン会衆の成員ではないので,『第一のよみがえり』である天的生命と栄光のよみがえりを希望することはできません。しかし,昔の忠実な人たちは,『義者』のよみがえりをうけます。それは,地上での初期のよみがえりで,死からよみがえされ,そして結局にはキリスト・イエスによる神の御国を通して絶対の完全を得ます。―使行 24:15,新世。マタイ 22:32,33。
18 (イ)『生ける希望』は何ですか? 誰が今日,その希望を持つていますか?(ロ)その者たち以外に,誰が救の希望を持ちますか? 彼らはその希望を誰に負つていますか?
18 イエスの足跡に従う忠実なクリスチヤン会衆は天で永遠の生命を得ますが,使徒ペテロは,その永遠の生命の希望を『生ける希望』と呼んでいます。『私たちの主イエス・キリストの父なる神が讃められますように,神は,その大いなる恵みにより私たちを新たに生れさせて,生ける希望を持たせ,イエス・キリストを死人の中からよみがえらすことによつて朽ちず,汚れず,また衰えないものを相続するようにされた。』(ペテロ前 1:3,4,新世)それらクリスチヤンのうち,まだ僅かな残れる者だけが地上におります。それらの人たちの生ける希望は,1000年のあいだ王となり祭司となり,キリストと共に天で統治することです。(黙示 20:5,6)それらの者たちは,死ぬと直に霊者となつて生命によみがえされ,『目の瞬くまに一瞬に変化されます。』(コリント前 15:51,52,新世)しかし,救の希望は,善意者の『大いなる群集』の生活の中でも力であります。『誰も数えることのできない程の大いなる群集は,すべての国々,種族,国民,そして言語から来て,御座と小羊の前に立ち,白い衣服を身につけていた。そして,彼らは手に棕櫚の枝を持つていた。彼らは大声で叫びつづける「救いは,御座に座られる私たちの神と小羊とにある。」』(黙示 7:9,10,新世)これらの者は,主の『他の羊』であつて,楽園の地での永遠の生命という希望は,ヱホバとまた小羊であるキリスト・イエスに負うています。というのは『キリストは,彼に従うすべての人に対して永遠の救の責任となられた。』― ヘブル 5:9,新世。
19-21 (イ)なぜによみがえりの希望の力は,今日是非とも必要になつていますか?(ロ)この世は,新しい世の社会の持つ忠実をどのように見ていますか?
19 油注がれた残れる者とその善意者の仲間の生活内で,よみがえりの希望は,どうしてそんなに強い力なのですか? その理由は,悪魔の制度からくる迫害が,どんなに多かろうと,苦しみであろうと死であろうと,彼らの忠実を破ることができないからです。よみがえりの希望は,彼らを支え維持します。アベルから洗礼者ヨハネにいたるまでの初期の証者たちは,『あざけられ,むち打たれ,本当にそれ以上にしばりあげられ,投獄され』ても,その忠実を保ちました。それと同様に,そのような試錬が来るとしても新しい世の社会は忠実を守るでしよう。(ヘブル 11:36,新世)本当に,新しい世の社会は忠実を守ります。主は現在を予言して,『人々はあなた方をくるしみに渡し,殺すであろう。あなた方は私の名のためにすべての国民より憎まれるであろう。』と言いませんでしたか? ―マタイ 24:9,新世。
20 第二次世界大戦のあいだ,ヒトラーの収容所に投獄された幾千というヱホバの証者は,その信仰を否認して解放を得ようとはしなかつたのです。信仰を否認して解放を得るならば,彼らは希望を失うということを意味します。新しい世の希望を持つている者は,共産主義者または『民主主義』の独裁者たちによつて投獄されたり,または苦しみを受けようとも,『ある贖い代でもつて解放を受けません。将来には,マゴグのゴグによる北の極からの攻撃をうけるのですから,ヱホバの証者はよみがえりの希望という支えの力が必要です。『その魂を見出す者はそれを失い,私のためにその魂を失う者は,見出すであろう。』(マタイ 10:39,新世)この世は,希望の力を理解せずまた経験もないので,新しい世の社会の持つ強くて屈しない忠実に多く驚いています。ある人は,ヱホバの証者について次のように書き,その驚きを表しました。
21 『初めてヱホバの証者を研究し始めた時,幸運なことにアメリカの民事自由組合の一顧問から素晴らしい援助をうけることができた。その調査についての紹介の言葉として,その顧問は実際にこう言つたのである「その宗教的な確信のために,本当によろこんで死のうとする人を恐らく見たことはないであろう。事柄を行うときの我々のごまかしの仕方とか,また絶体の必然を取り扱うことなどがないように見える我々の心意からして,我々現代人は,人間の生命を与えるべき程のものは何もないと考える。しかし,証者たちと会うとき,その宗教的な信仰のためによろこんで迫害をうけ,そして殺されることをも辞さない人々と,恐らくは初めて会うことになる。」そのとき,私はそのことを十分に信じなかつたが,いまでは信じている。』この世は,ヱホバの証者の忠実になぜそんなにも驚いていますか? この世の人々は,なぜ曖昧な希望や,『絶対の必然を決して取り扱うことなどがないように見える心意』を持つのですか? なぜならば,この世は『希望を与える神』ヱホバを知らないからです。
22 (イ)残れる者と『他の羊』の期待を述べなさい。(ロ)ハルマゲドン前に死が生じようと,希望は生残者たちにとつて,どのように力となりますか?
22 ヱホバの御旨にしたがつて,油注がれた残れる者はハルマゲドンの後でもある期間のあいだ地上で奉仕し,そして他の羊は,ハルマゲドンでこの組織制度の終る時から,さらに新しい世で永遠の時にわたつて,ずつと死ぬことがなくヱホバに奉仕すると期待されております。しかし,ハルマゲドン前でも自然の原因やまたは忠実を守るために,死が生ずるでしよう。忠実な残れる者たちにとつて,死は天的の希望を直に得ることを意味します。他の羊にとつて,死は「生命のよみがえりに」出てくるまでの短い眠りを意味します。(ヨハネ 5:29,新世)どちらの場合にしても,よみがえりの希望の力は,この世によくある悲しみや,またヒステリーのような悲哀というものをなくしてしまいます。『兄弟たちよ,死んで眠つている者たちについて無知ではないようにと願う。それは,希望のない他の人々のように,あなた方が悲しまないためである。』(テサロニケ前 4:13,新世)それで,霊的な残れる者の善意者の仲間である『大いなる群集』は,ハルマゲドンの戦争を死ぬことなく生き抜けようと,またはハルマゲドンの後に死からよみがえされようと,完全な人間として神の完全な像と状に達するという約束を固く希望いたします。
23 希望は是非必要なものですか? 説明しなさい。
23 神の言葉の正確な知識を得,そして過去と現在における神と神の御業を十分知ることにより,信仰の上に正しく基礎づけられる希望は,本当に力であります! 希望は,生命の与え主,ヱホバに対する私たちの愛を富まします。希望は,苦しみの時に慰めを与えます。希望は,『人々が地上に来らんとする事柄を心配し予期するために気を失う』ときに,心の平和を与えます。(ルカ 21:26,新世)希望は,私たちに強くすすめて忠実を保たせます。希望は私たちの究極の救いをもたらすものです。『私たちはこの希望で救われた。』希望は是非必要なものです。私たちは,希望なしで,生活することはできません。もし生活できるならば,パウロはクリスチャンにとつて必要なものを基礎的な二つのもの,すなわち信仰と愛に減じたことでしよう。しかし,だめです! パウロは希望もまた欠くことのできない必要なものであると知つていました。『信仰・希望・愛・この三つが残る。』(コリント前 13:13,新世)使徒は信仰をひきのばして,希望の内容を信仰の中に含ませようとはしなかつたのです。使徒は,忍耐の試験が将来にあると知つており,希望は私たちをして忍耐せしめることのできる強い力であつて,『見えるものではなくして,見えないものに目を注がせる』ものであると知つていました。―コリント後 4:18,新世。