神の目的とエホバの証者(その50)
「『あなたがたは私の従者です』とエホバは言われる。」― イザヤ 43:10,新世訳
会長の世界旅行は励みを与える
世界的拡大は,いまや時勢のおもむくところでした。1947年のこと,会長は秘書をともなって4万7795マイルに及ぶ世界奉仕旅行をしました。これらの協会の代表が世界をめぐったことによって,本部の組織が,遠隔の地におけるエホバの証者の活動とも,直接の結びつきを持つことになりました。親しく視察することによって,野外における必要がすぐに見きわめられ,神権活動を行なう世界的組織を強め,統一するための措置が直ちに講ぜられました。このような統一を図るプログラムが進められたのは,神権的機構が全く復興されて以来,はじめてのことでした。実際の野外における宣教に兄弟たちを援助するため,ギレアデで宣教者が訓練されたことと相まって,制度のあらゆる部分の密接な協力がいまや現実に見られることになったのです。かつて束縛を経験し,いま自由を享受するようになった世界各地の兄弟たちは,会長とその同行者を迎えて大いに喜び,御国宣教のプログラムを再組織し,強化するわざに力を惜しみませんでした。a
戦後のアフリカでも大きな拡大が見られました。南アフリカで「ものみの塔協会」と交わる人々が出はじめ,そこに支部が組織された1900年の初頭以来,伝道のわざは進められて来ました。ついで1920年代に,教育のわざは北方の内陸方面にも進められたのです。また1920年代には,英領西アフリカにおいても小規模ながらわざが始められ,支部の設立を見て,この地点から内陸へわざが進められました。
1930年代のはじめにエジプトでもわざが始められ,徐々にではありましたが,アフリカ大陸の北部にわざの拡大を見ました。この3つの地点からわざがすすめられた結果,1942年までには,アフリカの11の国々に1万70人の証者がいました。1947年,ギレアデの宣教者がアフリカに派遣されるようになり,その年だけでも20人が送られました。協会の会長は世界旅行につづいて,1947年の12月と1948年の1月にアフリカのほとんど全部の支部を訪問し,アフリカ人の証者たちと話し合い,伝道の問題をしらべました。b
ギレアデの創立まで,エホバの証者の手は広大なアジアの大陸にほとんど及んでいませんでした。1942年,6ヵ国において406人の奉仕者が活動していましたが,その大部分はインドとその周辺にいたのです。日本におけるわざは,戦時中禁止されました。協会の会長と秘書はその世界旅行の途上,中近東および極東を広く回ってアジア諸国の証者を訪問し,訪問したすべての国々に宣教者を送ることを決めました。c この旅行のあと,1947年に17人の宣教者がこの地域に派遣されました。
太平洋諸島とオーストラリアもまたこの時期に注目されました。覚えていらっしゃると思いますが,協会は1903年,オーストラリアに支部を設立し,やがてわざはそこからニュージーランドと周辺の島々にひろまりました。太平洋戦争のまだたけなわだった1942年にさえ,3つの国々から4375人の奉仕者が報告しています。会長の1947年の旅行の後,ギレアデの宣教者13人がこれらの島々のいくつかに派遣されて,教育のわざを始めました。d
第二次世界大戦中,オーストラリアでは由々しい事態が起きました。協会の仕事に携わった重立った人々をも含めて多くの兄弟が,中立の立場を守らず国家の戦争目的を促進する仕事をして,オーストラリアにおける組織とその中の重立った人々幾人かに物質的な益を得させようとしました。この事態を見た協会の会長は,この問題に対する聖書の見解をすぐ兄弟たちに示し,あやまちを悟った兄弟たちは悔い改めて,早速制度を清くすることにとりかかりました。e
1947年全国大会の年
ロイス: さきほど言われた1947年の太平洋岸での大会は,やはり国際大会でしたか。
ジョン: そうではありません。1947年に大会のとりきめが変更されました。それは世界各地の兄弟が,協会の会長の訪問から最大の益を受けるためです。報告を読むと,その詳細が分かります,
1947年には,ひとつの大きな国際大会のかわりに世界中で全国大会が開かれ,その大多数は協会の会長を迎えて行なわれた。2月にハワイで開かれた大会を初めとして,ニュージーランドの大会がすぐ後につづき,その後オーストラリアで開かれた6つの大会に合計4626人が出席した。
その後フィリピンのマニラで開かれた大会には4万2000人が出席,151人が洗礼を受けた。
バンコック,ボンベイ,ミラノ,チューリッヒ(スイス),ドイツ(スタットガルト近郊),ブルーノー(チェッコスロバキア),ウィーン,ハンブルグ,コペンハーゲン,ヘルシンキ,ストックホルム,オスロ,またフランスで四つ,ベルギーで二つの大会が開かれている。
ヨーロッパで最大の大会は,オランダの首都アムテルダムにおけるもので,7650人が公開講演を聞き,324人が洗礼を受けた。またヨーロッパについて最後に述べるべきものは,7月3日から6日まで,英国ロンドンの巨大なアールズ・コートで開かれた英国の兄弟たちの大きな大会である。公開講演の出席者数は,1万7782人に上り,420人の受洗者があった。
その年,アメリカでは二つの大会が開かれた。そのひとつはカリフォルニア州ロスアンゼルスのリグレイ・フィールドで開かれた「諸国民拡大大会」であり,協会の会長その他世界を回った人々の報告がおもに行なわれた。その出席者数はいちばん多いときに4万5729人であった。第2の大会は,ペンシルバニア州フィラデルフィアにおける「賛美の歌大会」である。この大会において,エホバの僕は旗または標識を持たず,キリスト・イエスがその唯一の旗であるとの真理が明らかにされ,2万8000人以上が会長の話を聞いた。f
1948年には,エホバの証者の大会に関して別のとりきめが設けられました。しかしまず,1947年,「ものみの塔ギレアデ聖書学校」の構内に大切な新しい建物が出来たことにふれたいと思います。年鑑はこう述べています,
「ものみの塔ギレアデ聖書学校の報告中,特筆すべきものは,新しい図書館の建築である。第7,第8,第9期生が,この図書館の建築にあたった他の兄弟たちを助けた。これは鉄筋コンクリートおよびれんが造り,美しいデザインの2階建で,1階全部はひとつの大きなホールになっており,もみの木の羽目板と音響効果のよい天井,赤いゴムタイルの床がしつらえられている。建物全体は設備のととのった,きわめて美しいものである。5000冊の本をおさめた学校の図書は,ホールの一端にあって分類され,本棚におかれている。本はおもに聖書の事柄を扱った参考書である。この美しいホールの他の端は,設備のととのった教室になっている。この図書館の建物は,シャイロアと名づけられた。それは「送り出す」という意味である。たしかに主はギレアデを祝福され,ここから大勢の証者が地のはてにまで送り出された。g
また少し横道にそれますが,1948年にアメリカの最高裁判所は,エホバの証者に重要な判決を下しました。それは町で拡声装置を使う前に許可を要求した,ニューヨーク州ロックポート市の条令を無効としたものです。最高裁判所は,これが言論と集会の自由を侵するものと認め,次のように裁定しました,
拡声器は,今日,効果的な公開講演に欠くことのできないものである。宣伝カーは,政治運動の手段として受け入れられてきた。それは人々に伝える方法なのである。……宣伝されている思想を好まない場合,それを騒音ときめつけてしまうことがあり得る。この種の条令には,権力による検閲がつきものであり,悪用される危険が多い。h
1948年と1949年の地域大会
前年の8月,カリフォルニア州ロスアンゼルスの大会において,会長から発表された通り,1948年には全国大会も国際大会も開かれず,エホバの証者が奉仕のために組織されているすべての国において地域大会が開かれることになりました。アメリカにおけるその最初のものは,3月12日-14日までジョージア州アタランタで開かれ,9月17日-19日までロード・アイランドのプロビデンスで開かれた6番目の大会を最後とし,六つの大会の合計出席者数は6万6000人でした。i
カナダと英国で四つの地域大会が開かれ,1万7917人,1万8200人がそれぞれ出席しました。オーストラリアでは六つ,スイスとノルウェーで三つ,ポーランドとドイツで二つが開催され,ドイツでは3万9150人の出席を見ています。メキシコ,スエーデン,オーストリア,チリー,英領西インド諸島その他でも地域大会が開かれました。j
1949年にもひきつづいて更に大規模な地域大会が開かれました。以前の大会と同じく,これらの大会において,沢山の貴重な教訓が与えられ,奉仕活動また洗礼式が行なわれました。また「時は思ったよりも,おそい」と題する公開講演が行なわれています。カナダにおける五つの大会には2万3000人k,アメリカではオレゴン州ポートランドに始まってフロリダ州ジャクソンビルで終った14の大会に8万5441人が公開講演に集まりました。l
東ドイツの共産主義者は,西ベルリンで開かれた地域大会に証者が出席するのを阻止しようと努めましたが,それにもかかわらず1万7232人の証者が大会に集まり,公開講演には3万3657人も集まりました。この大会において,東独地区のエホバの証者の迫害に注意を喚起し,エホバの証者はナチスを恐れなかったと同じく共産主義者をも恐れないことを宣言する決議が採決されました。ドイツでは全部で四つの大会が開かれて,約4万人の証者の出席を見,公開講演には6万3401人が出席しています。また2486人が洗礼を受けました。a
地域大会はエホバの証者が組織されて奉仕を行なっている他のあらゆる国,他のヨーロッパ諸国,オーストラリア,アジアおよび西半球で開かれました。それを詳細に語れば興味はつきないでしょう。
大会はエホバの証者の奉仕者としての生活の中でもハイライトであり,踏み石となるものです。聖書に基づく論理的な話に耳を傾け,戦いのおたけびから遠く離れて,新しい世のふんい気の中に数日を楽しみ,いこいの水ぎわに集まってエホバの義を語り,互に協力することは,真理を持っているという確信を強め,御国の希望を明るくします。
さて1949年の大会も終って,すべての人は1950年の大会を待ち望んでいました。この年に国際大会の開かれることは,すでに1948年に発表され,世界各地の兄弟は出席の準備を熱心にすすめていたのです。それは記念すべき出来事となりました。
[脚注]
a (イイ)1947年「ものみの塔」(英文)140-144,171-176,189-192,205-208,219-223,236-240,251-256,267-272,284-288,301-304,315-320,333-336,349-352,363-368頁。
b (ロロ)1948年「ものみの塔」(英文),61-64,77-80頁。
c (ハハ)1947年「ものみの塔」(英文),236-240,251-256頁。
d (ニニ)右に同じ。140-144,171-176頁。
e (ホホ)1948年度年鑑(英文)62頁。
f (ヘヘ)神権政府の拡大大会の報告,1950年8月8日14,32頁。
g (トト)1948年度年鑑,44,45頁。
h (チチ)サイア対ニューヨーク州民,334U.S. 558,561,562。68S.Ct. 1148,1150,1151。92L.Ed. 1574(1948年)
i (リリ)1948年「ものみの塔」(英文),18,146,352頁。
j (ヌヌ)1948年「ものみの塔」(英文),351,365-367頁。
k (ルル)1949年「ものみの塔」(英文),365-367頁。
l (オオ)1950年「ものみの塔」(英文),28-31頁。
a (ワワ)1949年「ものみの塔」(英文),379-382頁。