恐れずにエホバに奉仕する
エホバの証者が困難な状況下で熱心に働く国々(その2)
― 1965年度エホバの証者の年鑑から ―
ハンガリー
ハンガリーにも比較的に平穏な一時期がありましたが,苦難の波はその後再び兄弟たちに押し寄せてきました。多くの家が家宅捜査を受け,何十人という兄弟が裁判にかけられました。それにもかかわらず組織は依然拡大をつづけています。
共産主義政府はエホバの証者に好意をもっていません。しかしエホバの証者は世俗の仕事においても非常によく働くので,人々はエホバの証者によい印象を抱いています。ある村でのこと,二人の兄弟が戸別伝道に出かけました。しかし二人は警官に監視されていたのです。そして交番に連行されました。聖書は取りあげられ,記録が作成されました。聖書にはさんであった,タイプで写した「ものみの塔」の記事まで警官に見つけられ,事態はいっそう悪くなりました。その時交番にはたまたま上官が来合わせていて,兄弟たちを本署に連行するように命令し,この連中は働くことをいとう横着者で,家から家に歩き回っては自分の時間と人の時間を浪費している,と言いました。それを聞いた交番の警官は口をはさみました。彼は,ふたりの兄弟が働く工場に問い合わせ,二人がいちばんの働き者であることを知っていたのです。そこでふたりの警官は論争を始めました。その結果この事件にかんする記録は捨てられ,二人は釈放されました。何日かたって聖書も戻され,警官は自分がじゃまをしたことをわびました。そして二人の兄弟に,これからはもう少し注意して奉仕をするように,と忠告してくれました。
正直な人々が大いなるバビロンを出終わるまでには時に長い時間と忍耐が必要です。「あなたのパンを水の上に投げよ,多くの日の後,あなたはそれを得るからである」。(伝道 11:1)ある姉妹は,熱心なカトリック教徒である自分の母親に証言しました。母親はそれに耳を傾けようとせず,親子の縁を切る,といっておどすことさえありました。ふたりは遠く離れて住んでいたため,手紙のやりとりだけで連絡を保っていました。娘はしばしば真理のことを手紙に書いては聖書を調べてみるように母親にすすめました。しかし母親は,おまえが「栄光あるカトリック教会」から離れたのが悲しくてたまらない,だからまた教会に戻ってくるようお祈りや断食をしている,という返事をよこしました。ところが娘のほうは,もし母の心が誠実ならば,母をあわれみその目をあけて下さい,と唯一の生ける神エホバに祈っていました。こういうことがまる6年もつづきました。また母親から手紙がきました。それによると彼女の態度は以前と変わり,余生を娘と一緒にすごしたいということでした。つまり彼女はカトリック教会に背を向けたのです。娘と一緒に住むようになってから彼女は集会に出席しましたが,初めての勉強が終わったときこう言いました。「私はいままで汚い水を飲んでいたけれど,これからは清い真理の水を飲みましょう」。しばらく熱心に勉強したのちその人はバプテスマを受け,現在では奉仕に参加しています。
ポーランド
伝道活動が長い間禁止されているにもかかわらず,ポーランドの兄弟たちは,昨年中,勇敢に神のことばを語りました。当局者はやっきになって彼らの活動をおさえようとしましたが,多くの人が彼らの伝えるおとずれを聞きました。伝道中に密告されると,伝道者は警察署に連行され,資料を取られ,活動を調べられます。そして数時間か時には一日か二日の間留置され,あとは無罪放免になります。
伝道者たちは,市民のすべてが法律によって崇拝の自由を認められていること,それには自分の信仰を人に語る権利も含まれているゆえに,神のことばの伝道は違法でないこと,などを警官に指摘します。たいていの場合警官はそれを認め,伝道者をとがめませんが,なかには共産主義者でありながら,幼い時から宗教上の偏見をもつ者がいて荒々しく行動します。そういう警官は伝道者に向かって,「君たちを苦しめてやる」と言います。しかし伝道者はそのようなことに驚きません。ただ場所を変えて別のところで働くため,警官は彼らをやめさせることができません。
ある青年は,ローマ・カトリック教徒のなかにも自分と同じように宗教のことを真剣に考えている人が多いこと,またカトリック以外の宗教は絶対に必要ないという確信をもっていました。そこで伝道者はその青年に,自分と一緒に戸別伝道に行って,カトリックがどんな影響を人々に与えているか,カトリック教徒がいかに信仰に欠けているかを自分の目で直接見るようにすすめました。次の日曜日に青年は伝道者と一緒に出かけました。最初に訪問した家の人はぶっきらぼうに,牧師の行いを見てから信仰などなくなった,と言いました。別の家では若い主人がテーブルからソーセージをつかみあげ「これが私の御国だ」と言いました。さらに別の家では男の人が,いま教会から帰ったばかりだと言いました。伝道者が,神のことばに関心を示すのはいいことだ,といってほめると,その人は,いや近所の人の手前があるので行くだけだと言いました。この経験で強く心を動かされた青年は反対論をひっこめたので,伝道者はその人と聖書の勉強をはじめることができました。
少しまえ,ある町の共産党の指導者が真理にはいりました。その人の地位は二人の人に与えられましたが,彼らはそれほど活動的ではありませんでした。1年後,党員を全部集めて集会が開かれました。不活発になっている理由を聞かれたとき,みなそれぞれ言いわけをしました。前の指導者の影響があるのではないか,との質問を受けましたが,彼らがその後彼に会ったことはありませんでした。結局その町の党組織は解散と決まって集会は終わりました。しかしいまこの町には宣教を行なう奉仕中心地があります。
御霊の実を培うことは言葉より雄弁な場合があります。ある婦人は家で聖書の勉強をしていました。しかしそのことを知った夫は強く反対し妻にひどい仕打ちを加えました。彼女はそれをじっと忍び,やがて伝道者になりました。ところが夫もいまでは熱心な伝道者です。いったい何が起きたのでしょうか。妻の行いと,妻を訪ねてくる人たちが夫に深い印象を与えたのです。夫は彼らの話を立ち聞きすることがよくありました。ある時妻は,夫のひどい仕打ちについて伝道者に話しました。伝道者は,それでも妻は夫に対してよい妻であるように努めなければならない,と告げたのでその人はそのように努力しました。伝道者が次に訪問したとき,夫も出てきていろいろな質問をしました。以後一度も勉強を休んだことがなく,そのために急速な進歩をとげたのです。
こちらの言うことにすぐに同意しないなら,その人に真理を話してもむだだ,と考えるのは早計です。ひとりの伝道者は聖書に関心をもつある夫妻を再訪問しました。偶然そこにいた青年は何でも卒直に言う無神論者でした。伝道者はその訪問者の議論に反論するため証言を変えねばなりませんでした。伝道者は神の存在,神の創造のみわざ,生物に対する神のご配慮などを証明し,神の目的について説明しましたが,相手は最後まで自分の説を固執したので,たいした効果はなかったようでした。しかし青年はもう一度討論しようと言いました。そこで二人は再び討論をしました。青年は聖書および「新しい世を信ずる基礎」という小冊子を求め,考えかたを完全に変えてしまいました。彼の同僚は,いったい何がこのこちこちの無神論者を神のことばの伝道者にしたのか不思議に思っています。
ルーマニア
ルーマニアの兄弟たちは,圧迫と試練の長い年月を振り返っています。この間何百人という兄弟たちが逮捕され投獄されました。多くの兄弟たちは,聖書を読み,御国のおとずれを伝え,また聖書に従って生活したというだけの理由で長期の刑に処せられました。にもかかわらず彼らは,エホバのみ力によりたのんでそれらの試練を耐え忍び,弟子をつくる仕事をつづけています。そのため圧迫の強いルーマニアでも神の民は増加しています。
兄弟たちは,忠実にその立場を守ることによりエホバをあがめ,最も高く最も強い政府の民であることを示します。刑務所から釈放されて,ルーマニアから西欧にきたある政治犯はそのことを伝えています。彼の話によると,刑務所内の兄弟たちは,霊的に生きつづけるために小さなグループをいくつか作り,毎日聖書について討論し,ひとりびとりが短かい話をするようにしているということです。彼らの妥協しないしっかりした態度は刑務所内に知れ渡っています。その政治犯はこう言いました。「彼らは立派な人々である。正統派の教会の牧師や他の者たちはすぐに妥協するが,彼らは妥協もしなければ信仰を捨てようともしない」。自分のいた刑務所についてこの人は,「刑務所内でいちばん好かれたのはエホバの証者だった」と言っています。こうしたことはみな神の真のしもべはどこにいようとそれにふさわしく振舞い,敵に対してさえ祝福となるような行いをしなければならないことを示します。「敵を愛し,迫害する者のために祈れ,こうして,天にいますあなたがたの父の子となるためである」。(マタイ 5:44,45)刑務所内での伝道とよい行いの結果,教育のある人々もまじえてかなり多くの囚人が真理に関心をもつようになりました。
1964年,ルーマニア政府はその新政策に一致して何千という政治犯を釈放しました。エホバの証者は政治犯ではありませんでしたが,やはり特赦にあずかりました。それで1964年の後半までには,全部とまではいかなくともほとんどの兄弟が釈放されて家庭に戻ったようです。この国でエホバの民に対する圧迫が将来少なくなるかどうかは,まだわかりません。しかし事態はどうあろうとも,私たちの真の兄弟たちが,神より与えられた伝道という使命を放棄することはありません。彼らは信仰をもつ一つの家族として手に手を携え,共に耐えていくでしょう。
トルコ
伝道者の増加は以前ほどではないまでも,エホバの証者は,依然,忠実に永遠の福音を伝えており,さまざまな困難が生ずるにもかかわらず組織は拡大をつづけています。
1962年4月8日の集会の時逮捕されたアンカラの27人の伝道者の裁判事件は,1964年6月17日,ついに裁決され,全員が無罪になりました。裁判所は法律家たちに調査を依頼し,押収した文書をいく冊か彼らに渡しました。大学法学部の教授3人によって作成された報告はきわめて有利なもので,内容は次のようでした。『エホバの証者と呼ばれる宗教組織は独立した宗派である』。『エホバの証者は,明確な目的の下に結合した人々であるゆえに,事実上一つの団体を形成するものであり,したがってトルコ憲法の保護下にある』。また,一宗教の創始は,宗教の影響力を利用して政治に干渉することを禁ずるトルコ刑法第163条に違反せぬ限り,処罰に価する十分の理由とはならない。そしてエホバの証者の場合,この条項に違反する点は皆無である,と同委員会は報告しています。
一昨年の奉仕年度の終りごろ,ある兄弟は警官に数ヵ月間尾行されたのち逮捕されました。それは『彼が聖書を小わきにはさんで歩き回り,宗教的宣伝を行なった』からです。刑務所で4週間すごしたのちやっと裁判されることになり,1963年12月3日無罪を宣告され,押収された書籍も戻ってきました。
私たちはエホバの保護に深く感謝しています。またそれらの裁判所が崇拝の自由に有利な判決を下し,共に集まって交わりを楽しむ市民の権利,および自分の希望を他の人に伝える市民の権利を擁護したことにも感謝しています。
聖書に関心をもつ人を知ったなら,その関心がどんなに小さくても,根気よく訪問をつづける必要があります。ある兄弟は伝道していた時若い婦人に会い,聖書の話をしました。その婦人は話を聞きましたが,大して興味はないようでした。伝道者は隣りの家に行きました。しかしその家の女の人は強く反対して話を少しも聞きませんでした。兄弟はある姉妹に頼んで最初の若い婦人を訪問してもらいました。初めのうち数回は忙しいといって断わられましたが,ついにまた聖書の話をすることができ,聖書の勉強もはじまりました。しかしその婦人はどんな理由で態度を変えて姉妹を家の中に招き入れたのでしょうか。その婦人の話によると,初め兄弟が訪問したのち隣りの人がきて,エホバの証者はあちこち歩き回って人のじゃまばかりしている,と苦情を言いました。そこでその人は,「あの人たちがどんなおとずれを伝えているかご存じですか。お聞きになったことがありますか」と尋ねると,その婦人は,「いいえ,私は忠実なカトリック教徒ですもの,そんなことを知りたいとは思いません」と答えました。若い婦人はそういう態度がどうしても理解できなかったので,自分もカトリック教徒でありながら,エホバの証者について知りたいと思ったのです。いまではご主人も勉強に参加し,ふたりとも熱心に真理を学んでいます。ある日彼女は,「隣の人の愚かな態度のおかげでよいおとずれを聞けたことを感謝しています」と話しました。それも一つの理由でしょう。しかし聖書の勉強が始まったのは,伝道者があまり興味のなさそうな人をさえ根気よく訪問しつづけたからです。