ものみの塔 オンライン・ライブラリー
ものみの塔
オンライン・ライブラリー
日本語
  • 聖書
  • 出版物
  • 集会
  • 塔74 7/1 390ページ
  • ニュースの内面を見る

視聴できるビデオはありません。

申し訳ありません,ビデオをロード中にエラーが発生しました。

  • ニュースの内面を見る
  • エホバの王国を告げ知らせるものみの塔 1974
  • 副見出し
  • 関連する記事
  • 現代中国と孔子
  • 科学の約束した事がら
  • 告解に関する変更
  • 道教と儒教 ― 天の道の探求
    神を探求する人類の歩み
  • 門戸を開きはじめた中国
    目ざめよ! 1974
  • 神の目から見た世界共産主義
    エホバの王国を告げ知らせるものみの塔 1966
  • アヘン戦争 ― 今の時代に対する教訓
    目ざめよ! 1975
もっと見る
エホバの王国を告げ知らせるものみの塔 1974
塔74 7/1 390ページ

ニュースの内面を見る

現代中国と孔子

● 最近,中国共産党は反孔子運動を開始した。中国各地の新聞は数週間にわたり,西暦前六世紀のこの哲人に対する激しい攻撃を紙面いっぱいに展開してきた。「孔子の死体は,われわれの間で今日でも相変わらず悪臭を放っている。その害毒は深く浸透しており,その影響は広範囲に及んでいる」と,貴州省の一ラジオ放送は論じた。しかし,なぜこうした運動が行なわれているのだろうか。

明らかにその理由は,孔子の掲げた理想の多くが中国の共産主義思想と相反することにある。孔子は,同一の行政機構および同一の法体系による中国の単一化を支持しなかったが,共産主義はまさにそれを行なおうとしている。孔子は,奴隷,主人,皇帝など,社会の階級を認めていたが,共産主義は無階級社会を唱道している。ではなぜ,共産党は儒教をこれまで長く黙認してきたのだろうか。

儒教が中国民の間で好意的に受け入れられてきたことがその一要素と思われる。しかし今,最近のこうした攻撃を,中国が以前から展開してきた,すべての宗教的な物事に対する反対運動の一環と見る人もいる。1950年以来,道教,仏教および“キリスト教”は大いに力をそがれてきた。儒教は“倫理上の体系”であるとは言われているものの,それが宗教的な性格を帯びていることは明らかである。

この一見反宗教的な攻撃について,聖書は何か述べているだろうか。「北の王」に関する聖書の記述は注目に値する。その王は歴史的に見ると全体主義的政府をさしている。「北の王」についてこう記されている。『彼はその先祖の神々を顧みず……これの代りに軍神を崇める』。(ダニエル 11:37,38)聖書のこの預言に照らして考えるとき,孔子に対するこうした反対運動がどこまで押し進められるかを見守るのは興味深いことである。

科学の約束した事がら

● 自分たちの生活を質的に向上させてくれるものとして科学に望みを託してきた人は多い。しかし今,科学の約束してきた“すばらしい明日の世界”は単なる試験管的な試みであり,結局のところ失敗にすぎなかったと感じている人が増えている。アメリカの一著述家は,そうした人々の見解を言い表わしてこう述べた。『良い生活に対するあこがれが広まりまた強まるにつれ,世界の諸資源は渇れつつある。大都市はジャングルのような暴力と生存競争の場と化しつつある。順調に機能を果たしているものはしだいに少なくなっている』。

家の中には最新の機械装置がたくさんあるが,人々は,空気や水が以前より汚くなっていることに気づいている。平和に関する数々の約束を読んではいるが,莫大な税金が破壊を目的とした最新の“科学兵器”の製造に当てられているのを見ている。“奇跡の穀物”に関する報告を聞いてはいるが,アフリカでは幾万もの人が餓死しており,他の場所では食料品の価格が急騰を続けている。何年か前に救い主として称揚された科学に対して今や幻滅感をいだく人が多いとしても,決して不思議ではない。

どうしてこのような結果になったのだろうか。科学上の業績を上げるためにある程度の知恵が必要なことは明らかである。しかし,使徒パウロはこう言っている。『この世の知恵は神にとっては愚かなものである』。今日の事態は,その種の「知恵」が永続する“良い生活”をもたらしえないものであることを示している。そうした生活のためには,科学の世界が退けた知恵,つまり「神の知恵」が必要である。―コリント第一 2:6-8; 3:19。

告解に関する変更

● ローマ・カトリック教会は告解に関して幾つかの変更を加えている。今後,告解者と聴罪司祭とを分けてきた仕切りは取り除かれることになっている。変更が加えられた“告解の秘跡”の儀式では,一人の司祭が数人あるいはさらに大ぜいの人と“会議室”の中で話し合うことになっている。なぜこうした変更がなされたのだろうか。

さまざまな理由があることは明らかである。しかし,司祭に対する人々の態度が主な理由となっているのではないだろうか。人々は,市民的不服従運動に加わる司祭を見てきた。姦淫や同性愛行為を大目に見るその自由主義的な見解は,広く知られてきた。また,たいていの人の知ることであるが,司祭たちは兵士の武器を祝福し,革命や戦争を支持するのが普通であった。多くのカトリック教徒はこうした事がらを知り,罪のゆるしを得るためにそうした人のもとに行くべき理由を認めていないのではないだろうか。

しかし,その理由がなんであれ,告解の制度に関してこうした変更がなされたことは,カトリック教会内の多くの信徒の確信をさらに砕くものとなる。記憶に新しいものだけをあげても,崇敬を帰すべきものとされた“聖人”が格下げされ,ミサに変更が加えられ,金曜日に肉を食べてもよいことになった。そして,今度はこの変更である。次は何か,とカトリック教徒はいぶかっているであろう。

    日本語出版物(1954-2026)
    ログアウト
    ログイン
    • 日本語
    • シェアする
    • 設定
    • Copyright © 2025 Watch Tower Bible and Tract Society of Pennsylvania
    • 利用規約
    • プライバシーに関する方針
    • プライバシー設定
    • JW.ORG
    • ログイン
    シェアする