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エホバの王国を告げ知らせるものみの塔 1976
塔76 4/15 252–255ページ

創世記 基礎および型となる本

聖書に匹敵し得る本がはたしてあるでしょうか。文学,詩あるいはドラマとして見ても,歴史として,預言として,あるいは賢明で正しい生き方の導きとして見ても,聖書は比類のない本です。聖書はおよそ十六世紀の期間にわたって約四十人の筆者が書き記した六十六「巻」より成っています。

きわめて適切な事に巻頭の本,創世記はその後に続く本の基礎を成しており,型を残すものとなっています。創世記なくしては,聖書の他の部分に見いだされる事柄の多くは理解できないものとなるでしょう。なぜなら後の筆者は創世記に精通していることを前提としているのみならず,その史実性を当然として書いているからです。そして創世記の史実性に間違いはありません。例えば,歴代志略上,マタイによる書とルカによる書に載せられている系図は創世記が基礎になっています。

創世記の,それも特に1章から11章までは,神が喜んで奇跡を行なわれる事を否定する人々が好んでする攻撃の的となってきました。しかし創世記とくにこれら11の章は,聖書の中でその後に続く部分の基礎あるいは,いわば1階を成しています。それを構成するものが神話であると非難することは,65階の高層ビルが1階あるいはそのよって立つ基礎なしに空中に建てられているのを想像しようとするのに似ています。a

元来,創世記は(五書を意味する)ペンタテュークの最初の部分に過ぎませんでした。この五書は今日,聖書の最初の五巻を成しています。ユダヤ人と初期クリスチャンはともにそのすべてをモーセの手に成るものと認めていました。これら五つの本,創世記,出エジプト記,レビ記,民数紀略,申命記はトーラー,すなわち律法と名づけられました。そしてその後,聖書中においてこの律法はモーセの手に成るものであることが二十七回も述べられています。

当然に創世記は宇宙の創造の記述をもって書き出されています。世界の主要な宗教の聖典の中でも,神が無からあるものを創造したことを述べているのは聖書だけです。「創造する」と訳されるヘブライ語には一つにはこのような意味があります。聖書の他の部分において何回となく神は宇宙の創造者として描かれています。その典型的なものはイザヤ書 40章であり,そこでは星の輝く天の創造に表わし示された神の偉大な力と知恵のゆえに信仰を抱いて神に頼るべきことが勧められています。またイザヤ書 45章12,18節,使徒 14章15節,17章24節,啓示 10章6節をごらんください。

ついで創世記は六「日」すなわち六つの期間について述べています。その期間に創造者は地球を人間の住みかに準備し,また男女を創造されました。b 事実に基づくこの記録はイスラエル人の安息日の基礎として用いられています。『そはエホバ六日の中に天と地と海とそれらの中のすべての物を作りて第七日に息みたればなり』。(出エジプト 20:11)ヘブライ 3章と4章においてクリスチャンは,神がそのわざを休まれたように,信仰を働かせることによって彼らのわざを休むように勧められています。詩篇 95篇11節もごらんください。

創世記第2章は神が男と女を創造され,二人が「一体」となったことについて,更に詳細を加えています。イエス・キリストは結婚と離婚に関するキリスト教の規範を定義するに際してこの章から引用されました。(創世 2:24。マタイ 19:4-6)また使徒パウロはクリスチャンの間とくにクリスチャン会衆内におけるかしらの権の原則を説明するのにこの記述を用いています。『男が最初に形づくられた』ゆえに男は上位に立つのです。―テモテ第一 2:13。コリント第一 11:7-9。

罪が入った事とキリストの贖い

創世記第3章はエバの欺かれた事,アダムが彼女の罪に加わって二人とも死を宣告されたことを述べています。パウロはサタンのたくらみをクリスチャンに警告し,また服従という女の役割を強調するのにこの記録に言及しています。「わたしは,へびがそのこうかつさによってエバをたぶらかしたように,あなたがたの思いが腐敗させられ……はしまいかと気づかっているのです」。「アダムは欺かれませんでしたが,女は全く欺かれて違犯に至ったのです」― コリント第二 11:3。テモテ第一 2:14。

クリスチャン・ギリシャ語聖書に示されているように,神が贖いを備えて比類のない過分のご親切を示すに至ったのは,アダムが罪と死に陥った結果でした。「ひとりの人の罪過によって多くの者が死んだのであれば……ひとりの人イエス・キリスト」による神の無償の賜物は「いよいよ多くの者に満ちあふれるからです」。これは人間が罪に陥ったことを否定する進化論の教えの偽りである事を示しています。「自分の魂を,多くの人と引き換える贖いとして与えるために」来たとイエスが言われた事も,あるいは「世の罪を取り去る,神の子羊」としてバプテストのヨハネがイエスを喜び迎えた事も,創世記の記録の上に立ってのみ,初めて意味を成すのです。確かに「アダムにあってすべての人が死んでゆくのと同じように,キリストにあってすべての人が生かされるのです」。―ローマ 5:15。マタイ 20:28。ヨハネ 1:29。コリント第一 15:22。

アベルからバベルの塔まで

創世記第4章はカインがその弟アベルを殺した,最初の殺人事件を記録しています。兄弟を憎むことのないようにと警告した使徒ヨハネはこの出来事に言及しています。「互いに愛し合うこと……です。カインのようであってはなりません。彼は邪悪な者から出て,自分の兄弟を殺りくしました」。なぜなら「自分の業が邪悪で,自分の兄弟の業が義にかなっていたからです」。(ヨハネ第一 3:11,12)第5章はエノクが神と共に歩んだことを述べています。パウロとユダの両方が,義にかなったエノクの生き方について述べています。―ヘブライ 11:5。ユダ 14,15。

ノアの生涯および彼とその家族が生き残った洪水については,創世記第6章から9章にわたって記録されています。預言者たち,例えばイザヤがノアと洪水に言及しています。イエスもまた,無関心な世が大洪水の時に滅びたように,現在の事物の体制の終結の時も同様であろうと預言されました。(イザヤ 54:9。マタイ 24:37-39)パウロとペテロもノアと洪水の事にふれています。(ヘブライ 11:7。ペテロ第一 3:20。ペテロ第二 2:5)創世記第10章には「諸国民の一覧表」が載せられています。これは「依然として驚くべきほどに正確な記録である」と,考古学者W・F・アルブライトは語りました。創世記第11章はバベルすなわちバビロンの起源と,神が人類の言語を乱された事を描いています。

アブラハム,イサクおよびヤコブ

残りの章である第12章から50章までには,イスラエル民族の族長三人の歴史が詳しく記されています。この人々は聖書の他の部分にも何回となく出てきます。事実,アブラハムの名はその後,聖書中に二十六回現れており,外国人としての彼の寄留生活(およびイサクとヤコブのそれ)は,初期クリスチャンの殉教者ステファノおよびパウロの両方によって詳しく説かれています。(使徒 7:2-6。ヘブライ 11:8-22)ガラテア 3章16,29節から明らかなように,イエス・キリストおよび彼と共になる彼の体の成員はアブラハムの霊的な胤です。その時よりほとんど二千年前にアブラハムに対して,『地のすべての国民が彼の胤によってみずからを確かに祝福するであろう』と告げられた神の約束は,ここにおいてその成就に注意が向けられています。(創世 22:17,18。創世 3:15と比べてください。)確かに,アブラハムに与えられた約束を記す創世記の記録は,それ以後聖書中に述べられた事柄の多くを理解する上に基礎となるものです。

創世記第11章から19章までには,ロトの家族およびソドムとゴモラに関する出来事が記されています。イエスはロトの妻のようになってはいけないと警告しました。彼女は滅びに定められたソドムを不従順にも振り返って見たために命を失ったのです。またロトの日におけると同様,人の子の日もそのようになるであろうと,イエスは預言されました。(ルカ 17:28-32)創世記を確証するものとしては,ペテロとユダの両方がソドムの堕落について述べており,またイエスもソドムを指して悪の町と言われました。しかしイエスの宣べた王国の音信を拒絶した町々はさらに責むべきものとされました。―ルカ 10:12。ペテロ第二 2:6。ユダ 7。

アブラハムの息子イサクはその父と同じく忠実と従順を保ち,イサクの息子ヤコブも同様でした。ヤコブは家督の権を得ることに関心を示した事や,祝福を得ようとして一晩中,天使とすもうを取った事に見られるように,神聖な物事に対して真の認識がありました。ヤコブが天使とすもうを取った事はホセア 12章3節にも出ています。ヤコブはまた臨終の床で息子たちについて非常に著しい預言をしました。(創世 49:1-28)しかしわたしたちは,神聖な物事を認識しなかったヤコブの兄エサウのようになってはいけないと警告されています。―ヘブライ 12:16。創世 25:34。

ヤコブの十二人の息子の中で際立っていたのはユダとヨセフです。『ユダはその兄弟たちにまさる者となりました』。(歴代上 5:2)メシアなるシロはユダの家系から出る事になっており,イエス・キリストはまさしくユダ族に生まれました。イエスは「ユダ族の者であるしし」と呼ばれています。―啓示 5:5。創世 49:10。

創世記第37章から50章までに記されているところによると,ヨセフはあらゆる点で責むべきところのない人でした。奴隷の境遇に売られたにもかかわらず,ヨセフは自分の神エホバに対して忠実を守りました。その結果,彼は祝福されて世界強国エジプトの総理大臣にまでなり,自分の父の家族のみならずエジプトの国民を救う者となりました。―使徒 7:9-14。

創世記は型を残す

確かに創世記は聖書の他の部分に記録されている非常に多くの事柄の基礎となっています。しかしそれだけでなく創世記は神のことばの他の部分に対して型を残しており,聖書が人類に対する神のご意志とお目的の啓示である事を示しています。また人間性に関して真実であり,率直さの点で際立ち,神の属性すなわち性質を明らかにするという聖書の様式を確立しているのも創世記です。

創世記 1章26節から28節は地球と人間に対するエホバ神のお目的 ― 人が増えて地を満たし,それを治め,地の他の生物を支配すること ― を明らかにしています。主の模範的な祈り,またもはや死もなく,悲しみも叫びも痛みもないことについて述べた啓示 21章4節の預言は,地球と人間に対する神のご意志とお目的がいつか全く成就することを保証するものです。女の霊的な胤すなわちキリストがサタン悪魔の頭を砕くという,メシアに関する最初の預言は創世記 3章15節に述べられており,この事柄はローマ 16章20節において言及されています。創世記 22章15節から18節は,既にふれた通り,この胤に関してアブラハムのはたす役割を明らかにしています。

人間の性質について言えば,創世記はサタンがまずエバを欺き,彼女を通してアダムに近づいたやり方を告げています。無節操な男は同様に女を用いて誘惑し,人を食いものにします。ペリシテ人もデリラを用いてサムソンを落とし入れました。(士師 16:4-21)神はアダムがその妻を支配すると言われました。そして何世紀もの間,多くの男は不当に妻を支配するという点でアダムにならってきました。アベルを殺すまでになったカインのねたみ,また父の気に入りの息子であったゆえにヨセフに対して兄弟たちがいだいたねたみは,堕落した人間の性質をさらけ出しています。

堕落した人間の性質をいっそう示すものとして,創世記はノアが酒に酔った事,ヤコブの長子ルベンがヤコブの妾の一人と関係して『父の床を汚し』た事,ヤコブの他の二人の息子シメオンとレビが妹をはずかしめられたという理由で一族の男子をことごとく残酷にも殺害した事など,神のしもべたちの弱点についても語っています。ついでに次の事にも注目してください。創世記に見いだされるこの率直さは,初期の筆者がその人物を想像によって美化したという批評家の論の間違いを示しています。―創世 49:3-7。

とりわけ創世記は,エホバ神の比類のない性質を明らかにし,またエホバ神がご自分に仕えて正義の道を歩む人々にどのように報われるかを示すという点で,その後に続く聖書中の他の本に型を残しています。見えるもの見えないものすべての創造に関して告げている点で,確かに創世記は生命の与え主である創造者の愛,その無限の知恵,その全能の力を証ししています。アダムが,地を満たし,地を治め,地球上の動物を支配する使命を神から与えられた事も,アダムと,生まれてくるその子孫に対する神の愛の表われでした。特定の木の実が禁じられていた事は,エホバの知恵と公正を物語っています。このような従順の試みを経てはじめてアダムはそのすべての祝福を感謝していることを示せるでしょう。

アダムとエバが反逆した時,二人に下された死の宣告は神の一貫性のみならず神の公正を示すものとなりました。それでもエデンの園の外で生きる事を彼らに許した神は,まだ生まれていなかった彼らの子孫にあわれみを差し伸べられたのです。これは命を得る機会を子孫に与えることになりました。

神の子たちである天使が地に下って人間の娘と結婚し,そのために地の腐敗した時,神は大洪水によって地を清め,その力を表わされました。しかしここでも神はあわれみによってノアとその家族およびすべての動物の代表的な種を生き残らせました。大洪水後,殺人に対して死の刑罰が定められた事にも,神の公正は示されています。ソドムとゴモラを滅ぼした時,神はロトと娘たちを顧みてここでもあわれみを示されました。

公正,知恵そして愛という神の性質は,神が族長たちを扱われた方法にも一際はっきり示されています。アブラハムそして後にはイサクについて,彼らは「年満て」死んだと書かれています。(創世 25:8; 35:29)ヤコブは多くの家畜と大家族を持ち,何と報いの豊かな生涯を送ったのでしょう。そして忠実を守ったヨセフはエホバ神から何と大きな報いを得たのでしょう。

次の事には少しの疑問もありません。創世記はその後に続く聖書六十五巻に記録されている非常に多くの事柄の基礎を成しています。それはまた人類に対する神のご意志とお目的の啓示であるという点で,聖書の他の部分に対して型を残すものです。

確かに創世記について,聖書の他の部分についてと同様,次の事が言えます。すなわちそれは「神の霊感を受けたものであり,教え,戒め,物事を正し,義にそって訓育するのに有益です」― テモテ第二 3:16,17。

[脚注]

a 創世記第1章から11章に出ている事柄に対して普通言われる反対論の答えとしては,「進化と創造 ― 人間はどちらの結果ですか」および「聖書はほんとうに神のことばですか」をごらんください。

b 米国の有力な地質学者の一人ウォラス・プラットは次の事を述べました。「もしわたしが地質学者として,地球の起源と地球上の生命の発達につき,現在の学者の考えを,例えば創世記の最初の読者であった部族のように素朴な田舎の人に説明する事を求められたならば,創世記第1章のことばをほとんどそのまま述べるのが,わたしに出来るまず最善の事であろう」。六「日」についての説明の中で彼はこう尋ねています,「創造者にとって『一日は千年のようであり,千年は一日のようである』ことは,我々にとって全く確かな事ではないだろうか」― ザ・ランプ,1971年秋季号,第53巻 第3号。

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