全地に良いたよりを告げ知らせる
「その音は全地に出て行き,そのことばは人の住む地の果てにまで行った」― ローマ 10:18.
1 (イ)わたしたちは何が頂点に達する時代に生きていますか。(ロ)「用意のできていること」をどのように示しますか。(マルコ 13:32-37)
時は急速に尽きようとしています。1914年以後の世代は,「事物の体制の終結」を物語るイエスの預言的な「しるし」の主要な部分が成就するのをすでに目撃してきました。「世のはじめから今に至るまで起きたことがなく,いいえ,二度と起きないような大患難」は最大の勢いをもって今や全地を打とうとしています。わたしたちは常に用心し,目ざめており,注意を怠らず,用意を備えていなければなりません。イエスは言われます。「このゆえに,あなたがたも用意のできていることを示しなさい。あなたがたの思わぬ時刻に人の子[イエス・キリスト]は来るからです」。サタンの世に対してエホバが最後の審判を行なう時刻は迫っています。―マタイ 24:3,21,22,34,42,44。
2 どのようにして,大いなるバビロンの罪にあずかることを避けますか。(エレミヤ 51:6)
2 用意を備えることには,この世の偽りの宗教すべてから完全に離れ,その離れた状態を保つことも含まれます。(ヤコブ 1:27)実際,神と真理とを愛する人々は,はっきりとこう告げられています。「わたしの民よ,彼女[大いなるバビロン]の罪にあずかることを望まず,彼女の災厄をともに受けることを望まないなら,彼女から出なさい。彼女の罪は重なり加わって天に達し,神は彼女の数々の不正な行為を思い出されたのである」― 啓示 18:4,5。
3 偽りの宗教が滅びに値するのみであることを,どんな記録が示していますか。
3 キリスト教世界においても,非キリスト教諸国においても,この偽りの宗教の世界帝国は驚くような記録を築き上げてきました。彼女は生ける真の神エホバを退け,その名を口に出そうとさえしません。魂は本来不滅であるとか,死者は地獄で火の責め苦を受けるといった,悪霊的な教理を彼女は教えてきました。彼女の異端審問所,戦争,抑圧は,幾百幾千万の人々に苦痛と悲哀をもたらしてきました。今世紀に生じた二つの世界大戦を思い起こしてください。6,900万の人命を奪ったこれらの戦争は,キリスト教世界において,キリスト教を標ぼうする国どうしの間で始まったのです。キリスト教世界の持つ流血の罪はなんと大きいのでしょう。偽りの宗教に伴う迷信,占い,心霊術,麻薬使用,これらもまたエホバの目に憎まれるものです。―申命 18:9-13。イザヤ 65:11,12。
4 真の崇拝者にはどんな積極的な行動が要求されていますか。
4 といっても,偽りの宗教から出るだけでは足りません。エホバが今日備えておられる霊的保護の箱船の中に入ることが必要です。これは物質の構造物でも,なんらかの神殿でも,あるいは地球上の特定の場所でもありません。神の子キリスト・イエスが言われたように,「神は霊であられるので,神を崇拝する者も霊と真理をもって崇拝しなければならないのです」。(ヨハネ 4:24)したがって,神の真の崇拝者は,すべての偶像崇拝や迷信的な習慣から離れるだけにとどまらず,さらに神の言葉を勉強し,それを生活に当てはめるようにします。そしてクリスチャンとしての人格を養い,奉仕においては『生気にあふれ』,心と魂をこめて神と隣人に愛を示します。―マルコ 12:28-31。
神の敵の処刑
5 偽りの宗教はどのように処刑されますか。(エレミヤ 25:34,36)
5 エホバは,偽りの宗教の世界帝国に対して驚くほど突然に裁きを執行します。啓示 18章21節はその様をこう描写しています。「強い使いが,大きな臼石のような石を持ち上げ,それを海に投げ込んで言った,『大いなる都市バビロンはこのように,速い勢いで投げ落とされ,二度と見いだされることはない』」。彼女に対する司法上の処罪は迅速かつ決定的なものとなります。
6 なぜ「十本の角」は「子羊」の追随者たちを攻撃して失敗しますか。(マタイ 10:28)
6 しかし,その後に続くものがあります。野獣の十本の「角」は次に真の宗教に向かい,こうして「子羊[イエス・キリスト]と戦」います。(啓示 17:12-14)いいえ,彼らは天の王座にいるキリストに触れることはできません。彼らはただ,一見無防備に見える地上の弟子たちを攻め得ると思うのみです。それら政治上の「角」はその攻撃に成功するでしょうか。いいえ! エホバの忠節なしもべたちはこの悪霊的な最終攻撃に抗してしっかりと立ち,アフリカ,東洋,共産主義世界の多くの国々で現在行なっているのと同じように行動するからです。
7 ハルマゲドンのときとその後の出来事はなぜ「良いたより」と言えますか。(啓示 14:6,7)
7 その時,「人の住む全地の[政治上の]王たち」は,自分たちが,ハルマゲドンと呼ばれる世界情勢に位置していることを知ります。「主の主,王の王」である「子羊」は,その所で「彼らを征服」するのです。(啓示 16:14,16; 17:14)最後に,勝利を得たキリストは,サタンと配下の悪霊を行動不能の底知れぬ深みに投じ,全人類の祝福を目ざすその栄光ある千年統治を開始するための道を開きます。このすべては,心の躍る「良いたより」ではありませんか。
喜びのパラダイス!
8 エホバを愛する人々にとっては,どんなパラダイスの喜びをすでに得ることができますか。(イザヤ 35:10)
8 エホバを愛する人々の前に開かれるのはこれです。しかしそれは,ハルマゲドンの大いなる戦いの後に初めて存在するものではありません。今でもあるのです。すでに,この終わりの時に,「エホバの家の山」[エホバに対する真の崇拝の場所]は『もろもろの山のいたゞきに堅く立』っています。その『もろもろの山』とは,大いなるバビロンがそれぞれの宗派的な儀式を行なっている所を指します。何という幸福ではありませんか。多くの国から来た人々が,王国会館その他の場所に群れをなして流れのごとくに集まっており,そこでエホバの民が行なう真の崇拝に加わっています。次の預言の通りです。『おほくの民ゆきて相語りいはん いざわれらエホバの山にのぼ(らん)……神われらにその道ををしへ給はん われらその路をあゆむべしと』― イザヤ 2:2,3。
9 霊的パラダイスは今どの程度回復されていますか。
9 油そそがれたエホバの証人たちのうちの忠実な残りの者,「終わりの時」の初期に業と迫害の重圧に耐えた人々に対しては,まぎれもない「大群衆」がこれに加わっています。彼らは群れをなして集い来ています。それを示すものとして,1976年,年ごとになされるイエスの死の記念の式には,全地にある3万9,600以上のエホバの証人の会衆に,合計487万を上回る人が集まりました。確かに,霊的パラダイスは全地球的な規模に広がっています。―ダニエル 12:4。啓示 7:9。
10 (イ)霊的パラダイスはどのように箱船のような役をしますか。(イザヤ 26:20,21)(ロ)どのように全地は霊的パラダイスを反映するものとなりますか。(詩 72:18,19)
10 この霊的パラダイスは,だいじな乗員を乗せ,「大患難」を通過して,その後の汚染のない地に入る,保護のための箱船のような働きをします。その時,残虐な支配者たちが抑圧したり迫害したりすることはもはやありません。エホバの崇拝者たちがサタンとその不道徳な世界に対して戦う必要はもはやなくなります。「大群衆」には,健全で,報いの大きい,心を鼓舞する仕事があります。全地を文字どおりの麗しいパラダイスに変えることです。それは霊的パラダイスの喜びを反映する所となります。その霊的パラダイスについてイザヤはこう書きました。『荒れ野とうるほひなき地とは楽しみ 砂漠は喜びてさふらんの花のごとくに咲きかがやかん 盛んに咲きかがやきて喜びかつ歌ひ……彼らはエホバの栄えを見 我らの神の麗しきを見るべし』― イザヤ 35:1,2。
11 聖書は,死者が忘れられることはないというどんな保証を与えていますか。
11 死者が忘れられることもありません。今日,百年前の父祖たちのことを思い出し,あるいはその名を挙げられる人がどれほどいるでしょうか。ほとんどいません。しかし神はそれを覚えておられます。わたしたちのすべての父祖たち,人類史のこれまで6,000年のあいだ労し苦しんだすべての人々を覚えておられます。(ヨハネ 5:28,29。マルコ 12:26,27)イエスの愛の犠牲を基として,愛の親切に富まれる偉大な神エホバは,それらの人々を,大いなる者も小なる者も復活させます。その人々はエホバのみ座の前に立ち,永久に続く,幸福な満ちあふれる命に入るための一層の要求に自分を合わせる機会を与えられます。(啓示 20:12)このすべてはまさしく壮大な良いたよりではありませんか。わたしたちの際立った神,この良いたよりすべての源である方にわたしたちは大いに感謝すべきです。
わたしたちの家族にとっても「良いたより」
12 コロサイ 3章には,家族のための愛ある助言がありますが,それを幾つか挙げなさい。
12 わたしたちは,自分の家庭の中でも,この「良いたより」に従いたいと思うはずです。その良いたよりは,今また将来に至るまで,幸福な家族の生活を送るようにわたしたちを助けるものであるからです。良いたよりの書である聖書は,この点で本当に優れた原則を示しているではありませんか。その一例はコロサイ書の第三章ですが,同章全体を一読してみれば,どんな家族をも助けてこの「終わりの時」のあらしを切り抜けさせる,愛のこもった助言をそこに見いだすことでしょう。この危機の時にあっても一つの家族として共に成功を収めるのは難しすぎることではありません。それはとりわけ,「愛を身に着け(る)」場合です。愛は「結合の完全なきずな」です。―コロサイ 3:14。
13 子供を幼い時から導くことの価値を示すどんな例が聖書にありますか。
13 また,わたしたちの幼い者,子供たちはどうでしょうか。わたしたちは子供たちを愛し,また子供たちがわたしたちに愛を示すことを願っています。それで,わたしたちのため神の言葉の中に備えられた,子供の訓練のための優れた規範,それ以上に親の従い得るものが外にあるでしょうか。それは,サムエル,ダビデ,バプテストのヨハネ,テモテ,そしてもとよりわたしたちの主イエス自身など,真理の強固な擁護者たちを生み出したと同じものなのです。しかしわたしたちは自分の幼子たちを見守り,クリスチャンの資質を培う点で幼い時から導いてゆくことが必要です。この不完全な世界の中にあって完全な結果を期することはできませんが,それでもエホバがわたしたちの努力に祝福を注いでくださることを期待できます。詩篇 127篇(3節)が述べるとおり,わたしたちの子供は「エホバのあたへたまふゆづり」であり,エホバの道に従ってこれを訓練する親たちにとって祝福となるものだからです。
王国をしっかりと支持する
14 どんな生き方は永遠の幸福につながりますか。
14 わたしたちは,エホバとそのみ子を知るようになったことを幸福に思っていないでしょうか。それによってわたしたちは,とこしえの幸福に至る生き方に導き入れられたのです。それは活動的で意義ある生き方です。それは,エホバに対する深い愛,また自分の隣人,とりわけ自分の家族また兄弟たちに対する自己犠牲的な愛を働かせることを中心としています。この真理に従って生きる際に,長々とした“すべからず集”があるのではありません。わたしたちを霊的に損なうものとして当然に避けるべき「必要な事がら」が幾つかあることはあります。その一例として,使徒 15章28,29節には,偶像礼拝,血,淫行が挙げられています。しかし,クリスチャンとしてのわたしたちの生き方は,真理を実践する積極的な生き方,献身してバプテスマを受けた神の奴隷としての,幸福で喜びある生活の仕方です。それは目的ある生活です。「何をしていても,人にではなくエホバに対するように魂をこめてそれに携わりなさい。あなたがたは,しかるべき報いである相続財産をエホバから受けることを知っているのです」。(コロサイ 3:23,24)このパウロの言葉に堅く従うとき,わたしたちの喜びは,今も,またパラダイスの地に至っても大いなるものとなります。そして,今日なされねばならない大きな仕事は,終わりが到来する前に,「王国のこの良いたより」を証しとして全地に宣べ伝えることです。―マタイ 24:14。
15 「良いたより」の,これから成就するどんな点は,わたしたちの心を賛美で満たしますか。
15 わたしたちは,『義の宿る新しい天と新しい地』をエホバが創造されるのを待ち望んでいます。霊の復活を通して,キリストの「花嫁」を構成する14万4,000人の全員が天でキリストと共になり,また,新たな清い人類社会が地上で全面的に活動を始めるその日は,どんなにか輝かしい日となることでしょう。この「良いたより」の確かさを思うとき,わたしたちの心は,「すべてのものを新しく」し,「すべての涙をぬぐい去って」,叫びや苦痛の原因となるいっさいのものを除き去るとの約束をしてくださる大いなる神に対する賛美に満たされます。そうです,キリストの王国による栄光ある支配の下では,敵である死でさえ消滅するのです。今は,その王国の側にしっかりと立ち,エホバの主権を擁護しつつ,最終的に「汚点もきずもない,安らかな者」として見いだされるよう力を尽して励んでゆきましょう。―ペテロ第二 3:13,14。啓示 21:1-5。コリント第一 15:25,26。
なすべき仕事がある
16 まだどんな偉大な業を完成しなければなりませんか。(ヨハネ 14:12)
16 地上におられた時,イエスは一つの事を始められました。それはやがて地を満たすまでに拡大する事柄でした。その世代のうちにさえ,「その良いたよりは天下の全創造物の中で宣べ伝えられた」と言われるまでになりました。(コロサイ 1:23)しかし,イエス自身は,「事物の体制の終結」の時になされるべき事としてさらに大々的な証しの業について予告し,「あらゆる国民の中で,良いたよりがまず宣べ伝えられねばな(らない)」と言われました。(マルコ 13:10。マタイ 24:3,14)その宣べ伝える業は今や完了したのでしょうか。いいえ,そうではありません! 終わりはまだ到来していないからです。
17 エホバの証人が「大患難」の臨むその時まで忙しいのはなぜですか。(イザヤ 6:8,11)
17 時が満ちているとわたしたちが考えるがゆえに,あるいは区域をもう何度も回ったとわたしたちが感じるがゆえに終わりが来るのではありません。エホバが王国伝道という偉大な業を望まれるだけ果たされた時にそれは到来し,その時に「大患難」をもたらされるのです。その時まではなすべき仕事があります。そうして,エホバの証人であるわたしたちがそれを行なうべく割り当てられているのです。「大患難」が到来するその時,その伝道の業は前進の絶頂にあり,全地にわたって最も大々的になされているべきなのです。裁きを執行するための主イエスの到来,それはエホバの民に対してさえ全く突然に来るでしょう。それが来る時,エホバの民は最も忙しく活動しているはずだからです。
18 なぜ「ずっと見張って」いることが必要ですか。(ルカ 21:34-36)
18 イエスはこう言われます。「ずっと見ていて,目を覚ましていなさい。あなたがたは,定められた時がいつかを知らないからです。……ずっと見張っていなさい」。(マルコ 13:32-37)仮に,「大患難」に対する期待のために,エホバの証人が,1914年,1925年,1975年,あるいは他のいずれかの時に手をゆるめ,見張ることを怠って前途のための計画を立てなかったとすればどうだったでしょうか。それによって,今日わたしたちが見る大々的な霊的パラダイスができていたでしょうか。エホバがご自分の民を動かして,良いたよりを全地に告げ知らせる業を続けさせてこられたことを,わたしたちは本当にうれしく思います。
19 今の時代に,霊と真理とをもって神を崇拝するとはどういう意味ですか。(啓示 7:15)
19 エホバの前進する神権社会は,「大患難」に至るまで,また「大患難」の間も活動し,絶えず進み行く組織となります。霊と真理による神への崇拝は,積極的なもの,熱心なもの,生気のある,前進的なものであるからです。西欧諸国,東洋,その他の土地など,地上のより多くの場所が今や徹底的な証しを受けるようになりました。今後,終わりが来る以前に,「栄光ある良いたより」がどれほど告げ知らされるのかだれにも分かりません。パウロの述べたとおり,良いたよりを宣べ伝えなかったとすれば,わたしたちにとっては「災い」となります。それは,わたしたちの時代に対する神のご意志,また意図しておられる仕事なのです。―コリント第一 9:16。
20 どのようにして『信仰は聞く事がらから生じ』ますか。(ローマ 10:10)
20 イエスは,良いたよりを告げ知らせるための手本を自ら示されました。その油そそがれた追随者たちは今日に至るまでその足跡に倣ってきました。使徒パウロは,この点に言及しつつ,イザヤ 52章7節を引用して,「良い事がらについての良いたよりを宣明する者の足はなんと麗しいのだろう」と書きました。今では,全地において,「大群衆」が油そそがれた残りの者に加わって共に良いたよりを告げ知らせています。しかし,すべての人が音信に注意を払うわけではありません。パウロはこう述べます。「しかしながら,すべての者が良いたよりに従ったのではありません。イザヤは,『エホバよ,わたしたちから聞いた事がらにだれが信仰を持ったでしょうか』と言っているからです。ですから,信仰は聞く事がらから生じるのです。一方,聞く事がらはキリストについてのことばによるのです。しかしながら,わたしは言います。彼らは聞かなかったわけではないでしょう。実に,『その音は全地に出て行き,そのことばは人の住む地の果てにまで行った』のです」― ローマ 10:15-18。イザヤ 53:1。詩 19:4。
21 「良いたより」が征服されないものであることを何が物語っていますか。(啓示 10:7)
21 今日,事情はパウロの日と似ています。キリストに関する「幸福な神の栄光ある良いたより」は地の隅々に告げ知らされています。冷酷な支配者また根深いバビロン的な宗教が真理の光に対する障壁となっている国もあります。しかし,良いたよりは引き続き告げ知らされており,より多くの場所で,『信仰が聞く事がらから生じ』ています。
22 「良いたより」の勝利を予期してわたしたちは今何をしているべきですか。
22 わたしたちは引き続き「平和の良いたよりの装備を足に」はいていますように。そして,パウロの行なったとおり,『神の過分のご親切に関する良いたよりについて徹底的な証し』を続けてゆきますように。(使徒 20:24。エフェソス 6:15)そうです,わたしたちは,「キリストについての良いたよりにふさわしく行動し……一つの霊のうちにしっかりと立ち,一つの魂をもって良いたよりの信仰のために相並んで奮闘し,いかなる点でも,あなたがたの敵対者たちのゆえに恐れ驚いたりは」しませんように。(フィリピ 1:27,28)「良いたより」は必ず勝利を収めるのです! わたしたち一人一人が,『良いたよりを全地に告げ知らせる』業に熱心に携わりますように。そうするときにわたしたちはいつも幸福であることができ,また多くの他の人々をも,非常に幸福にするのです。