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集団赦免は有効か
● 1976年12月初めのこと,米国テネシー州メンフィスのミッド・サウス・コロシアムで集団赦免の儀式が行なわれました。競技場に集まった約1万2,000人のカトリック教徒はこれにより,質問されることや司祭に告白することなしに過去の罪を司教に許されたことになります。一般的な赦免は(兵士が戦闘状態に突入したときのような)“重大な事態”に迫られた場合にこれまでも行なわれましたが,米国におけるこの種の集団赦免儀式としてはこれが最初のものです。AP通信によれば,「この儀式はカトリック教会から遠ざかった信徒,とくに離婚した女を教会にひきもどす誘いとしてもくろまれ」ました。
集団赦免は有効ですか。聖書によればそうではありません。聖書はこのような儀式を是とする言葉をひとつも述べておらず,また司祭に告白することをクリスチャンに教えていません。まただれにせよ不完全な人間が罪の許しを与え得ることを示す句は聖書にひとつもありません。霊的な助けを必要とするクリスチャンは会衆の長老の援助を求めるように勧められていますが,罪の許しを与え得るのはエホバ神だけです。(ヤコブ 5:13-15)それでダビデ王は神にこう語っています。「わたしは自分の罪をあなたに知らせ……その時あなたはわたしの犯した罪をゆるされた」― 詩 32:1-5,口。
死後の生命?
● 最近のギャラップ世論調査によれば,米国人の73パーセントは死後にも生命があるという考えを抱いています。これを信ずる証拠とされるものを挙げて,この論者は臨床上の死から生き返った人の描写する感情を指摘します。このような時の感じとして伝えられているものに静けさ,深い平安,幸福感,体から解放され,あるいは体を離れた浮揚感などがあります。
このような“証拠”をすぐに受け入れる人もいますが,異なった見地からこの問題を見る人もいます。例えば「サイエンス・ダイジェスト」誌は次のように伝えています。「そうたやすくは信じない人にアイオワ大学精神科教授ラッセル・ノエス博士がいる。同博士はほとんど死にそうになったことのある人々を長年,研究してきた。臨床的には死を宣告された後に意識を回復した人や,死にそうになった経験のある人は同じような平穏の感情そしてしばしば幸福感を感じたと報告することを同博士は指摘している。これらおよび体から遊離した他の経験はおそらく空想の投出作用 ― 圧倒的な死のおそろしさに対処するための精神作用であろうと,同博士は語っている」。
研究者たちの結論は確かに様々ですが,見過ごしてならないのは聖書に述べられた証しです。聖書は死後の生命説を支持しておらず,かえって次のように述べています。『死人も…ヤハ[エホバ]をほめたたふることなし』。それはなぜですか。なぜなら死人は「幽寂ところに下」ったからであり,「死者は何事をも知らない」からです。(詩 115:17。伝道 9:5,10,口)死後もとぎれずに続く,意識のある生命などはありません。とはいえ,神の備えの範囲内にある人類の大多数にとっては,イエス・キリストの千年統治の間に復活して生命を回復する確かな希望があります。
神 ― 父にして母
● 1976年11月18日付ウプサラ・ナイア・タイデイング紙によれば,ルーテル,スウェーデン国教会のウラ・バース牧師は神を男性と見ることに反対しています。「神を人間化することはやめなければなりません。神は運動であり,救いであり,創造する力です」と彼女は語りました。同様に少し前のこと,ローマ・カトリックの神学者,教会史家でペンシルバニア州フィラデルフィア,テンプル大学のレオナード・スウィドラー博士も,神のことを述べるに際して性別を除いた礼拝用儀式文の試験的な改訂版を作りました。スウィドラーは「我らの父また母なる神よ」と述べた祈とう文を提案しました。
このような考え方を極めて好ましいものと見る人々もいることでしょう。しかし聖書は何を示していますか。
神は「運動であり,救いであり,創造する力」であるとは聖書に示されておらず,かえって聖書は次のように述べています。「エホバは軍人……なり」。(出エジプト 15:3)またイエス・キリストは「天におられるわたしたちの父よ[父にして母ではない]」という言葉を模範的な祈りの冒頭におかれました。(マタイ 6:9)聖書のどこを見ても神は女性として描写されていません。―詩 103:13; 104:31。
しかし神は身体的に見て肉体の男性のようであるというのではありません。イエスは言われました,「神は霊であられるので,神を崇拝する者も霊と真理をもって崇拝しなければならないのです」― ヨハネ 4:24。