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  • マレーシアで霊的な関心事を発展させる
  • エホバの王国を告げ知らせるものみの塔 1977
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  • 戦後における発展
  • “ブラウン・スポット”における発展
  • 若い証人たちに臨む試練
  • マレーシア支部の設置
エホバの王国を告げ知らせるものみの塔 1977
塔77 12/1 725–727ページ

マレーシアで霊的な関心事を発展させる

マレーシアは暑い,熱帯のジャングルと肥沃な水田と広大なゴムおよび油やし農園の国です。またこの国には錫の鉱山も多く,そして最近には沿岸に石油も発見されました。マレーシアは東南アジア諸国連合(ASEAN)の中で最も急速に発展しつつある国のひとつと言われています。しかしエホバの証人にとって特に心強いのは,この国できわめて小さな初まりから出発した霊的な関心事の発展です。

エホバのクリスチャン証人の業は1930年代にこの地で始められました。マラヤ(現在のマレーシア)に定住した最初の証人たちの中に,オランダ人ハリス・フランクと,その妻でセイロン人のフレダがいました。1931年,旅行中のものみの塔協会の代表者がこの夫妻と接触しています。その後,陸軍の退役軍人であるジミー・ジェイムスが家族と共にインドからシンガポールにやって来て熱心に証言し始めました。彼もまたクアラルンプールでフランク一家と会っています。その後の数年間に協会の伝道ヨット「ライトベアラー」号を基地にした勇敢なグループを含め,オーストラリアその他からの大勢の開拓者の証人が聖書の音信をひろめました。彼らはゴム園,錫の鉱山,町や村,高級住宅地,貧しい人々の家を訪れて神の言葉について語り,数多くの言語で聖書文書を配布しました。

盛んな活動が行なわれるようになったので,ものみの塔協会のオーストラリア支部事務所は,王国宣明者の便宜のためシンガポールに文書倉庫を設け,1937年にアルフレッド・ウイックを派遣してその管理にあたらせました。1939年に結婚して後,彼は妻テルマと共にその後の2年間,戦争で中断するまでマラヤの西海岸をくまなく伝道しました。今でも彼らの訪問を記憶している人々がいます。最初の頃に彼らの会った人の中に,当時16歳ぐらいだったプーラン・シンという名の若いシーク教徒がいました。「死者はどこにいるか」という小冊子を読み,ウイック夫妻が近くにいるのを知って,彼は80キロほどの道のりを自転車に乗って二人に会いに来たのです。翌日彼は田舎の区域を夫妻に伴われて証言の仕方を学びました。その後しばらくして,彼は受けた霊的な高揚に鼓舞された結果,今度は自転車で約190キロを走破してクアラルンプールにおけるエホバの証人の大会に行きました。そこで彼は散髪し,あごひげをそり落としてシーク教と縁を切ったのです。バプテスマの後,彼はジョージ・プーラン・シンと名乗ることにしました。熱意にあふれて彼は全時間を証言にささげることを望み,周囲の事情からインドでその事をするのが最善であると判断しました。彼は長年の間そこで忠実に奉仕を続けています。

戦後における発展

日本軍のマラヤ侵略と占領にともなって,証言活動に携わっていた人々の大多数はインドその他へ退去させられ,残りの人々は拘留されて,証言活動は停止するに至りました。しかし1940年代の終わりごろになって,ギレアデの訓練を受けた宣教者たちが到着し,マラヤにおける業は再び発展し始めました。当時は共産主義ゲリラがジャングルにこもって植民地当局と戦い,町を襲って爆撃し,ヨーロッパ人のゴム園経営者や錫の鉱山の支配人を殺していた時です。西海岸の町々を定期的に訪問することを始めていた巡回監督にとって,旅行は非常に危険でした。

当時を回想して彼はこう語っています,「汽車で旅行する時は,ほとんどの時間,客車の床に身を伏せていなければなりません。線路沿いのジャングルからゲリラが無差別に銃撃を加えてくるからです」。カンパールの町で彼はジミー・ジェイムスの娘を訪問しました。彼女は錫鉱山で幾つかの浚渫機を受け持つ鉱夫と結婚していたのです。すべての住居は鉄条網で囲まれた敷地の中にありました。巡回監督は自分の部屋に入って電燈をつけました。あるいはつけたつもりでした。狼狽したことに彼が入れたスイッチは構内に明かりをつけ,サイレンを鳴らすためのものだったのです。それでゲリラの襲撃と勘違いした住民は全員直ちに武器をとりました。霊的な関心事という平和な事柄を培おうとしていた人にとって,なんと当惑させる事態が生じたのでしょう。

マラヤ訪問中に巡回監督は,錫鉱の中心地イーポーで一人の中国人の男の人に会いました。この人は香港で鍼術を修めるかたわらエホバの証人と聖書を学んでおり,「良いたより」の宣明に参加する用意ができていました。この小さな初まりからイーポー会衆が発展したのです。

別の訪問の時,協会はペナン島ジョージタウンのメソジスト女学校の生徒であった二人の少女グ・ユーンチンとリー・シューチャンと接触するよう巡回監督に求めました。その時より3年前エホバの証人の宣教者4人がペナン島に1か月居た間に,これらの少女たちは「真理は汝らに自由を得さすべし」という本を手に入れ,非常な興味を抱くようになっていたのです。巡回監督の訪問を受けてのち,彼らは証言し始めました。ペナンにおける霊的な関心事をいっそう進めるため,1955年に協会はアルフレッドおよびテルマ・ウイックをそこに移し,間もなく会衆が組織されました。最初の二人の少女は開拓者となり,後に宣教者の訓練を受けて1958年にギレアデ学校を卒業しています。

マラヤ半島に九つあるサルタン領のうち最南端のジョホールでは,戦前からのエホバの証人たちがシンガポールから来て徴税局の役人K・J・ジョンに時おり文書を配布していました。しかし彼は証人たちの事を真剣に考えてはいませんでした。それがなぜであったか彼は次のように語っています。「すべての宗教は,みずから祭り上げた何らかの権威の下で人間社会の秩序を保つために人間が作った手段であると,わたしはすでに結論していたのです。それでもわたしは創造者というものには信仰を持っていました。第二次世界大戦中の逆境と戦後の混乱を経験したことから,わたしは創造者にいっそう引き寄せられましたが,創造者をどのように崇拝すべきかはなお分からず,良心の命ずるままに生活を送ることを決意していました」。しかし後ほど「平和 ― それは続くか」という小冊子を読んでから,慎重なジョンの関心が呼び起こされました。遂に1960年,ジョホール・バルの町に会衆が設立され,以来何年かの間にK・J・ジョンを主宰監督とするこの会衆から9人の人が全時間の証言の業を始めています。

“ブラウン・スポット”における発展

何年も前の大会で区域の状況が論じられた時,話し手は西海岸の大部分が緑に色どられ,東海岸一帯を茶色の地域として示したマレー半島の大きな地図を見せました。以来,証人たちの間では,霊的な関心事を発展させる必要の大きな土地をユーモアたっぷりに“ブラウン・スポット”と呼んでいます。それは果たして緑になるでしょうか。

6年前のことペナンの教員養成大学に学ぶ一人の若い証人は,卒業をひかえた頃,これら“ブラウン・スポット”のひとつであるクアラトレンガヌの町に任命されることになったのを知り,動揺しました。友人はなし,一緒に聖書を学ぶ人もいないというような事を話して長老に助言を求めた時,長老の助言はこうでした。「新しい任命地での最初の日に戸別訪問して証言しなさい。そうすればすぐに友人ができるでしょう」。彼はエホバの霊に頼り,真の熱心さを抱いてその通りにしました。ほどなくして“ブラウン・スポット”は霊的な成長を示して活発な証人の会衆が生まれ,“緑色”を濃くしていったのです。

若い証人たちに臨む試練

マレーシアの王国宣明者はその大多数が若い人々です。伝統的な中国人仏教徒の家庭の出身であるため,彼らは家族の激しい反対に遭う場合が少なくありません。ある中国人少女の経験はその典型的なもので,彼女はこう語っています。

「わたしは上級学校入学資格試験を終えたばかりのところで,集会にずっと出席し,聖書に関心を示した人々との聖書研究さえ行なっていました。母は身の毛もよだつほど反感を抱いており,わたしが戸別訪問するのを卑しい事と考えていたようです。あげくのはてに母は,グループが毎週集まって聖書を研究していた場所にまでわたしについて来ました。彼女は持ってきたトランジスター・ラジオでタミール音楽を鳴らして集会を妨害しようと試み,同時にわたしに対しては帰るように何度も促しました。他の人々は事の次第を説明しようと努め,彼女を納得させないまでも徐々になだめました。今後,集会に出席しないようにと両親に言われましたが,わたしはエホバに従い続けました。

「ラオスの宣教者がスライドを用いる講演会をした時,両親は出席していたわたしを連れに来ました。わたしはおばあさんの家に車で連れて行かれました。家庭の事件はそこでたいてい解決されるのです。わたしは居並ぶ親族の前で詰問され,叱責されました。父は警告の意味でわたしの頭を壁に打ちつけ,わたしがクリスチャンの活動を続けるなら暴力に訴えることも辞さないことを示しました。

「わたしは今,大学の寄宿舎に住んでおり,独立しているので自由に証言でき,すべての集会に出席できます」。

マレーシア支部の設置

1972年初め,ものみの塔協会がマレーシア支部を設置するのに好都合な状況が訪れました。美しいペナン島にある会衆が宣教者の家と文書倉庫の付いたりっぱな王国会館を建設し,これがマラヤ半島,東マレーシアならびに独立国のブルネイにおける王国の業を監督する支部事務所となったのです。当時マレーシアの王国宣明者は207名の最高数に達しており,その年の間,彼らの人数は20パーセント以上の増加を見ました。その後の年々に活発な証人の数は455人に増え,最近開かれた一連の巡回大会には全部で600人を超える人々が出席しています。しかし1977年の主の夕食の記念式には,国中で962人が出席したのです。

証言し,教える業は確かに良い進歩を示してきました。しかしマレーシアにおける霊的な関心事を発展させるには,まだ多くの事がなされねばなりません。

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