ものみの塔 オンライン・ライブラリー
ものみの塔
オンライン・ライブラリー
日本語
  • 聖書
  • 出版物
  • 集会
  • 塔83 3/1 4–7ページ
  • 連続ドラマはあなたの心を腐敗させていますか

視聴できるビデオはありません。

申し訳ありません,ビデオをロード中にエラーが発生しました。

  • 連続ドラマはあなたの心を腐敗させていますか
  • エホバの王国を告げ知らせるものみの塔 1983
  • 副見出し
  • 関連する記事
  • ひそかに迷わされる心
  • 腐敗した思いと心
  • それに代わるもの
  • 連続ドラマ ― あなたにどんな影響を与えますか
    エホバの王国を告げ知らせるものみの塔 1983
  • テレビの連続ドラマに関する記事 ― 読者の反応
    エホバの王国を告げ知らせるものみの塔 1984
  • 若い人たち,聖書の道徳を守るのが最善の道ではありませんか
    エホバの王国を告げ知らせるものみの塔 1982
  • 人間の心は不信実です
    エホバの王国を告げ知らせるものみの塔 1971
もっと見る
エホバの王国を告げ知らせるものみの塔 1983
塔83 3/1 4–7ページ

連続ドラマはあなたの心を腐敗させていますか

わたしたちが「友人」として選ぶ人々はわたしたちの心に影響を与えることができます。箴言 7章には,品行の悪い既婚の女性と付き合っていた若者のことが描かれています。女の「滑らかな唇」に耳を傾けていた若者は感情をかき立てられ,彼女と姦淫を犯しました。しかし,何がそのような行為に導いたのでしょうか。25節は,「あなたの心がその女の道へそれて行くことがないように」と他の人々に警告しています。交わりが若者の心を誤った方向に導いたのです。

連続ドラマにはどんな人物が登場しますか。妻に対して不貞を働く僧職者,強姦者,売春婦,自分の母親と寝ていたために愛人を射殺した未婚の母親などです。姦淫は堕胎や婚外妊娠と同じく普通のことになっています。

あなたはこのような「友達のグループ」が自分の心に影響を及ぼすことを願っているでしょうか。もし彼らがあなたの近所の人たちだとしたら,あなたは彼らを家に招き,彼らがはめをはずした行為について話すのをうれしそうに聞きますか。

エホバは,エホバの民であると主張する者たちに問い掛けられました。「あなたはどんな権利があってわたしの定めを並べ立て……るのか。……あなたは盗人を見ると,いつもこれを喜びさえした。あなたが分かち合うのは,姦淫を行なう者たちとであった」。(詩編 50:16,18)考え違いをしないようにしましょう。「悪い交わりは有益な習慣を損なうのです」― コリント第一 15:33。箴言 13:20。

「しかし,登場人物が皆ひどく悪いわけではありません。一人は本当にいい人で,わたしはすぐにその人になったような気がしました。自分もこのような人になりたいと思いました。そして彼女の性格をまねるようにしていたのです」とあるクリスチャンの主婦は語りました。連続ドラマの登場人物が,“役割の手本”にされるのは珍しくありません。しかし,クリスチャンはそのようなことをすべきでしょうか。

使徒パウロは,「精神的な暗闇」と道徳的な腐敗の中にある人々の行ないをまねることをクリスチャンに勧めるのではなく,むしろ,「あなた方は,キリストがそのようであるとは学びませんでした。本当にあなた方が,イエスのうちにある真理のとおりにそのことばを聞き,彼によって教えられたのであればです」と信仰の仲間に話しました。(エフェソス 4:17-21)献身したクリスチャンはイエスの模範,あるいは神の是認された僕として同じ型に忠実に従う人々の示す模範に注意を集中し,またその模範から教訓を得なければなりません。ほかの手本はわなになることが証明されています。―コリント第一 11:1。ヘブライ 11:1-12:2。ペテロ第一 2:21。

ひそかに迷わされる心

忠実な人であったヨブは,自分の心が自分の見るものによってどれほど容易に誘惑され得るかを認めていました。「もしわたしが,光を放つときのその光を見,または進んで行く見事な月を見るのを常とし,そしてわたしの心がひそかに迷わされるようにな(ったなら)……これもまた,裁判人による注意を要するとがである」とヨブは告白しました。a 星がきらめき,月が輝く天の光景は人の心を感動させます。しかし,ヨブの隣人たちは月を多産の象徴として崇拝していました。月崇拝には大抵の場合,性に関係したみだらなばか騒ぎが付き物でした。もしヨブが星や月のことを絶えず考えていたなら,自分の手を『自分の口に口づけする』という崇拝行為を行なってしまったことでしょう。彼の心はより広く,より寛大になって,偶像礼拝がそれほど悪いことではないと思えるまでになったかもしれません。しかしヨブは自分を抑えました。―ヨブ 31:26-28。

テレビの連続ドラマも同じように油断のできないものです。愛を探し求めるということであらゆる行為が正当化されます。一例を挙げますと,ある未婚の若い妊婦は友達にこう言います。「でもわたし,ビクターを愛してるわ。平気よ。彼と一緒にいるためならうそだってつくし,ごまかすことでも盗むことでもするわ。彼はそれだけの価値があるのよ。どんな犠牲を払ってもビクターはそれだけの価値があるのよ。彼の子供を産むなんて,わたしにとっては最高のことなの!」 静かで快いバックグラウンド・ミュージックを聴いていると,彼女の歩んでいる道がそれほど悪いものだとは考えにくくなくなってきます。あなたもビクターが好きです。そしてその女性に同情を感じます。あなたには「分かります」。「自分に都合の良い理屈をつけることができるのには驚きます。不道徳が悪いことは分かっています。……でも精神的には自分もそれに加わっていることに気付きました」と,後ほど健全な精神を取り戻した一人の視聴者は言いました。

しかし,『日常生活の中で目にすること以上に悪い事柄を見せているわけではない』と感じる人たちもいます。しかしクリスチャンは気晴らしのためにこうしたものを選ばなければならないでしょうか。使徒パウロは,「聖なる民にふさわしく,あなた方の間では,淫行やあらゆる汚れまた貪欲が口に上ることさえあってはなりません」と書いています。(エフェソス 5:3)パウロは非現実的だったのでしょうか。そうではありません。パウロが強調していたのは,クリスチャンは気晴らしにそのような不潔な行為について話し合うようであってはならないという点でした。このことは今日の真の「聖なる民」にも当てはまります。

腐敗した思いと心

1世紀のコリントの会衆には,テレビではなく偽使徒に汚された者たちがいました。2世紀の人で,クリスチャンであることを公言していたイレナエウスは,それらの背教者たちが主張していたことについて次のように述べています。「金が汚物の中に沈んでもそのためにその美しさを失うことがないのと同じだというわけである。……だから彼らは,どのような世俗的な事柄に関与しようとも,害を被ったり,自分の霊的本質を失ったりするようなことは少しもあり得ないと断言してはばからない」。ですからその背教者たちは不信者と交わり,残酷なけん闘士の闘技を見に行き,性に関係した不道徳な行ないさえしました。

使徒パウロはコリントのクリスチャンたちが偽教師を「容易に忍んでしまう」ことを非難しました。そして,「へびがそのこうかつさによってエバをたぶらかしたように」コリント人の思いが巧みに「腐敗させられて,キリストに示されるべき誠実さと貞潔さから離れる」ようなことになるのを心配しました。こうかつな方法でもたらされたこの教理上の腐敗は道徳の腐敗を招きました。―コリント第二 11:4,3。

コリント会衆には,その会衆の成員の一人が犯していた近親相姦をさえ大目に見る気持ちがあったのです! その不道徳な人は多分会衆内の人々から尊敬されていた人だったのでしょう。会衆の人たちには「分かった」のです。その人は「真の愛」を見いだした,というわけです。会衆内のほかの人々もその人の悪行に影響されて,汚れた行ない,淫行,そして恥知らずなみだらな行ないさえしていたことが考えられます。―コリント第一 5:1,2,6。コリント第二 12:21。

あなたは自分の心が同じように腐敗させられてもよいと思いますか。姦淫をする者,淫行を行なう者,殺人をする者などの生活に毎日気を取られて,彼らを容易に忍んでしまいますか。真理の道をいかにしっかり歩んでいようと,不道徳を正当化するようなものを欠かさず取り入れているとわたしたちの心はいつの間にかその影響を受けます。

何年もの間連続ドラマを欠かさず見ていたあるクリスチャンの婦人は,「わたしにはそんなことは影響しない,と考えるかもしれません。でも,心の底ではその悪い行ないを受け入れているのです。人って,自分の望む事柄を見ますからね。もし自分の夫が連続ドラマに出て来るような夫ほど優しくなければ,何かを得損なっているような気持ちになるものです」と言いました。

テレビの連続ドラマを好んで見るようになったこのクリスチャンの婦人は,警戒を怠り,不道徳な行ないをするまでになりました。しかし,すぐに身を切られるような悲痛な思いに悩まされ,ついに夫と会衆の許しを得ました。それにしても何と大きな感情的傷跡が残ったのでしょう! その女性はこのように語りました。「すべてはうまくいっていましたが,ついに,自分の心の中にためていた事柄を自由に行なえる状況が生じました。サタンはわなを仕掛け,私はそれにまんまと掛かったのです。だまされないようにしてください。連続ドラマはあなたにも影響を及ぼすことができます。自分にはそうしたものに対処するだけの強さがあると言う人もいます。でも,時がたてば分かるでしょう」。この悲劇があったあとでさえも,その人は連続ドラマを見ないではいられないように感じました。そして,「たばこをやめるよりも難しいことでした」と話を結びました。

もちろん,ほとんどの視聴者は,そうした番組を見るだけで不道徳に巻き込まれるわけではありません。しかし,自分の配偶者をドラマの中の人物と比較するようなことがあるでしょうか。それは愛を深めるでしょうか,それとも疑いを育てるでしょうか。未婚の場合なら,配偶者が欲しいという気持ちが強くなり,もしかしたら賢明でない結婚をしたり,不道徳な行ないに走ったりする結果になるでしょうか。無用な気持ちの動揺を経験するでしょうか。

使徒パウロは,「わたしにとってすべての事は許されています。……しかしわたしは,いかなるものにもその権威のもとに置かれ[奴隷にされ]たりはしません」と書いています。(コリント第一 6:12)連続ドラマに人を惑溺させる性質があることは十分証明ずみです。クリスチャンの中にも,連続ドラマが見たいばかりに,会衆の集会に出ることや宣教を怠り,ばたばたといい加減に家事を片付け,学校をさぼり,個人や家族の聖書研究を怠っている人たちがいます。そのような人たちは,その種の番組を見ることに費やしている時間の量を正直に考えてみるべきではないでしょうか。

このことは,もちろん,どんなものを見ようと言えることです。しかし連続ドラマは,人の心をとらえて,毎日次の日の出来事を見ずにはいられない気持ちにさせるので,特別に危険なのです。連続ドラマのフアンの雑誌には,心理学者のヘンドリー・バイジンガー博士の言葉が引用されていますが,博士は次の点を認めています。「調査によって立証された点であるが,テレビは確かに我々の振舞いや考え方に影響を及ぼす。……家にいていつも番組を見ている人の場合,登場人物との一体化が過度に強くなることがある。そういう人々にとって連続ドラマは自分の生活の延長のようになってしまい,一つの出来事も見逃すまいとして神経質になる」。

それに代わるもの

連続ドラマを欠かさずに見る悪い習慣に陥っていたあるクリスチャンの婦人は,かなり憂うつになっていました。その人は,もっと多くの時間をクリスチャンの宣教に費やして他の人々を助けるよう励ましてくれたある仲間の証人に,自分の気持ちを打ち明け,次のように語りました。「野外奉仕に出てほかの人たちと一緒に働くのが楽しくなりました。他の人々が抱えている問題のことを心配しなくてもよいので憂うつな気分にならなくなりました。私は自分の生活を満足のいく事柄で満たすようになったのです。ソープオペラはもう重要なものではなくなりました。私は全時間の福音宣明者になったのです」。そのようにして聖なる奉仕に拍車をかけることに解決策を見いだした人は少なくありません。―啓示 7:15と比較してください。

家事にもっと精を出し,子供たちの霊的,肉体的福祉にもっと多くの注意を払うことによって問題を解決した人たちもいます。わたしたちはほとんどだれでもほかの人々と関係を持つことを好むので,霊的な贈物や物質の贈物を分け合った人々もいます。それは裕福でなくてもできることです。多くの場合,友達のために何かおいしい物を特別に焼いてあげるだけでも大変大きな報いのあるものです。―箴言 31:10-31。

以前ソープオペラに夢中になっていた人は自分の気持ちをこのように話しました。「今になって自分に何が欠けていたか分かりました。個人研究と祈りです。祈りと清い考えに関するフィリピ 4章6節から9節は大きな助けになりました。今では日々の聖句か他の聖書解説書を読んで一日を始めるようにしています。エホバは,イエス,ヨブ,ダビデその他に関する物語など,実生活のドラマを沢山聖書に載せてくださっています。現代の証人たちが経験していることも考えます。今でも,ソープオペラで“何をやっているか”知りたいという気持ちが少しはありますが,エホバに従いたいという願いに引き止められるのです」。

エホバに喜んでいただきたいという気持ちは確かにわたしたちの心から出るものです。テレビの番組が全部腐敗しているというのではありません。しかし,クリスチャンはよく選ばなければなりません。経験からも分かる通り,聖書的規準を犯すことを正当化する番組はクリスチャンの心を腐敗させる可能性があるからです。

「エホバを愛する者たちよ,悪を憎め」。(詩編 97:10)この命令に従うのは必ずしもやさしいことではありません。わたしたちは自分の心を注意深く守らなければなりません。そして皆ダビデ王のように感じたいものです。「わたしは心の忠誠によってわたしの家の中を歩きます。わたしはどうしようもないものを目の前に置きません。わたしはそれて行く者たちの行ないを憎みました。それがわたしに[毎日の習慣のように]取り付くことはありません。わたしの目は地の忠実な者たちの上にあります」― 詩編 101:2,3,6。

[脚注]

a 「迷わされる」と訳されているヘブライ語は,基本的には「開く,広げる」を意味する。

[6ページの拡大文]

不道徳を正当化するような番組をいつも見ていると,人の道徳規準は腐敗する

[7ページの拡大文]

「自分に何が欠けていたか分かりました。個人研究と祈りです」― 元連続ドラマ中毒者

    日本語出版物(1954-2026)
    ログアウト
    ログイン
    • 日本語
    • シェアする
    • 設定
    • Copyright © 2025 Watch Tower Bible and Tract Society of Pennsylvania
    • 利用規約
    • プライバシーに関する方針
    • プライバシー設定
    • JW.ORG
    • ログイン
    シェアする