エホバのお用いになる「露玉のような若者の隊」
神奈川県の一会衆に交わる高校3年生の兄弟は補助開拓をしてゆくために,週中の夕方に奉仕をしたいと考えました。そこで会衆の長老たちの指導のもとで,集会のない日の夕方に中学3年生の兄弟と誘い合わせ,奉仕区域をもらって夕方の野外奉仕を始めました。二人の励ましで,一人また一人とそのグループに加わる人が増え,やがて6人が定期的に夕方の奉仕に参加するようになりました。その後4年足らずのうちに,6人の若者たちはいずれも正規開拓者になり,そのうちの二人は建設奉仕者としてベテルに招かれました。これら「露玉のような若者の隊」も,日本の野外で熱心に奉仕に励む11万人を超える王国宣明者の一部なのです。―詩編 110:3。
エホバ神がこれら熱心な奉仕者たちを用いておられるので,大勢の人々が「流れのように」真の崇拝へと向かって来ています。(イザヤ 2:2)終わりの時に,王国を「宣べ伝え」,そのような人々を援助できるのは大きな特権です。(マタイ 24:3,14)しかし,「忠実で思慮深い奴隷」級の準備した出版物の助けなしにこの宣べ伝える業を行なわなければならないとしたらどうでしょうか。(マタイ 24:45,46)はるかに多くの時間と労力が求められるに違いありません。
ですから,象徴的な2億の「馬」になぞらえられる出版物を十分に供給するのは肝要なことです。(啓示 9:16-19)伝道者の数が増加すれば,宣べ伝える業を遂行するのに必要とされる出版物を印刷し製本する施設も拡張しなければなりません。現在海老名ベテルで行なわれている新しい工場とホーム棟の建設が必要になったのは,宣べ伝え弟子を作る業にたゆまず熱心に励む奉仕者たちを神が祝福してくださったからにほかなりません。
霊的な「建てる」業であれ,印刷工場やベテル・ホームを「建てる」業であれ,「エホバご自身が家を建てるのでなければ,建てる者たちがそのために骨折って働いても無駄」です。(詩編 127:1)では,海老名での「建てる」業にエホバはどのような人を用いておられるのでしょうか。その人たちは,どのような精神態度を抱き,どのようなことに留意して,「エホバご自身が」家を建てておられることを示しているでしょうか。
神の家を「建てる者たち」
現在,建設奉仕に携わっている人々の平均年齢は約25歳です。高校を卒業して間もない兄弟たち,20代前半の若い活力に満ちた人々,そして心身ともに円熟の域に達した人々がこの建てる業にあずかっています。それらの人々に共通して見られるのは『エホバにもっと仕えたい』という態度です。
23歳になる一人の兄弟は,海老名での最初の建設のとき高校1年生だったので,その奉仕にあずかれませんでした。エホバの証人の両親に育てられて,奉仕を拡大することを望んでいたこの兄弟は,「もう一度建設奉仕の機会が開かれるのを待っていました。建ったばかりだったので,すぐにその機会があるとは思ってもみませんでしたが」と語っています。しかし,出版物に対する必要は増し加わり,ほどなくして,今回の建設が始まりました。この兄弟は20歳のときに海老名へやって来て,これまで土工部門で忠実に働いてきました。
沖縄県出身の一兄弟も20歳のときに建設奉仕に加わりました。この兄弟は最初から建設奉仕を希望していたのでしょうか。兄弟はこう語っています。「両親がエホバの証人なので,学生のころからベテル奉仕を励まされていました。しかし,私は大学に進学したいという強い希望を抱いていました。父にそのことを話すと,大学へ進むという決定を下すのであれば,自分で学費を出すように,と言われました。そして,大学で費やす時間とそのための苦労について考えてみるよう促されました。『同じ苦労をするのなら,ベテルへ行って神のために骨折って働いてみたらどうだ』と父親に諭されました。ここへ来て,父の勧めに従って本当によかったと思います」。
ベテル建設に携わっているのはエホバの証人の親を持つ人ばかりではありません。若い時に陸上自衛隊で道を造ったり橋を架けたりしていた一人の人は非公式の証言がきっかけで1984年1月にバプテスマを受けました。この兄弟は同じ月に建設奉仕の申込書を提出しました。なぜでしょうか。「献身した者として,より多くエホバに仕えたいと思ったからです。でも,バプテスマと同じ月に申込書を出したことにはもう一つの理由があります。36歳になる寸前だったのです。申込書を書いたときには19歳から35歳までという年齢制限の上限でした」と,この兄弟は述懐しています。翌年の3月に招待が差し伸べられた時には37歳になっていたので,「何かの間違いではないだろうか」と考えたほどでした。しかし,間違いなどではなく,兄弟は重機部門で「献身した者として,より多くエホバに仕え」ています。
背景は様々ですが,これらの兄弟たちには共通の精神態度が見られます。
働き人の精神態度
ネヘミヤの時代にエルサレムの城壁の建設に携わった人々には,「働く心があった」と記されています。(ネヘミヤ 4:6)海老名ベテルの建設奉仕者も同じ精神態度を抱いています。現在,左官部門の責任を担う一兄弟は世俗の仕事で左官の見習いをしていたことがありますが,当時の同僚に学ぶ意欲がなかったのに対して,建設奉仕者には「学ぶ意欲と積極的に従う態度が見られ,仕事を速く覚えます」と話しています。その結果,左官の仕事をしているのはほとんど素人ばかりですが,建設現場の責任者の話では,「仕上げは世の基準よりも高いほどです。そのため,今回は前回の建設の時とは異なり,野外から応援をお願いする必要はありませんでした」。
大工部門で奉仕する一兄弟は,建設奉仕に来る前は法律家になる勉強をしていて,海老名に来た時には「釘を打つのも初めてで何も分かりませんでした」。しかし,この兄弟は割り当てられた仕事に上達するよう努めました。そして現場にあふれる「働く心」についてこう語っています。「この世では自分の仕事が切れればその合い間に休んでもよいと考えられています。ここではみんな自分の仕事が切れると仕事を探します。休んでいれば,ほかの人たちの士気に影響します」。建設奉仕に携わる兄弟たちは,「何をしていても,人にではなくエホバに対するように魂をこめて」働いているのです。―コロサイ 3:22,23。
一生懸命働くこれらの奉仕者たちは自分の力に頼っているわけではありません。土工部門で足場の組み立てを担当している兄弟は,「エホバの助けに依り頼んで祈って奉仕を始めると,比較的速く組み立てられます」と話しています。体力の面でエホバに頼らなければならない人もいます。体力にはそれほど自信のなかった一兄弟は,海老名に来てから,一番体を使う部門の一つである土工部門に配属されました。「しばらくは,自分の部屋へ帰って来るとその場でバタンとなっていましたが,今では力が付いてきました」と,この兄弟は笑顔で語っています。エホバに依り頼みつつ割り当てられた仕事を喜んで行なうこうした態度は建設奉仕者たちに広く見られます。
このような優れた精神態度を示す奉仕者たちが特に念頭に置いている事柄が二つあります。それは安全と節約です。
安全
「この世では安全教育が末端にまで行き届きません。下請け業者に,『けが人を出すな』と圧力をかけるぐらいで,金もうけが優先されがちです」と長年,世俗の仕事で現場監督を務めた兄弟は内情を明かしています。しかし,海老名ベテルの建設ではすべての働き人に安全教育が徹底されています。安全を図るどんな取り決めがあるでしょうか。
まず,毎週月曜日の朝7時50分から30分前後行なわれる建設学校があります。ここでは建設の技術面の教育がなされるだけでなく,スライドなどを用いて安全教育が行なわれます。それに加えて,毎朝,三つのミーティングが開かれます。現場監督による全体ミーティング,次いで部門ごとのミーティング,そして班ごとのミーティングと続きます。
それぞれのミーティングでその日の工程が示されるのに加えて,その日一日,どんな危険に気をつけるべきかが討議されます。安全委員の兄弟の話によると,「ミーティングによって奉仕の質が高められているので,30分ほど仕事の時間が短くなっても,それ以上のプラス面があります」。ミーティングのおかげで,兄弟たちは行動目標を持ち,安全を守るために肝要な習慣を繰り返し教えられてそれを身に着けてゆけるのです。
高所で仕事をすることの多い一人の兄弟はミーティングの益についてこう話しています。「安全帯の使用は最初どうしても面倒になるものです。この世では,慣れてくると,高所で作業するときでも安全帯を使用しません。しかし,安全帯の使用が一日の行動目標として繰り返し強調された結果,安全帯をいつも使用することが習慣になりました」。
それに加えて,新しく建設奉仕に加わる人々は,ベテルの新入者学校に入学します。その学校で高い霊性を保つよう励まされる結果,建設奉仕者たちは霊的な面でも安全に保護され,仕事の面での安全意識も高められます。
1985年11月に建設奉仕者になった一兄弟は,大工室で働いていますが,使える人が限定されているテーブルソーという電気のこぎりを,それとは知らずに使い,少しばかりけがをしてしまいました。大事には至りませんでしたが,事態は放置されず,大工室にはテーブルソーを使用してもよい人の氏名がはりだされ,ミーティングや建設学校でもこのことが取り上げられました。けがをした兄弟はそのことについてこう述べています。「自分の例が何度も取り上げられてつらかったのですが,一人一人の福祉を気遣い,同じ事故を繰り返してはいけないという責任者の兄弟たちの真剣な態度に感銘を受けました」。
このようにして培われるベテルの安全基準の高さは,外部の人々の認めるところともなっています。コンクリート・ミキサー車の一運転士は,「ここは安全基準が高いね。普通の現場ではここまでしない」と感想を述べました。
「何も無駄にならないように」する
イエス・キリストは自らにゆだねられた奇跡を行なう力を用いて5,000人に食事をさせた後,「余ったかけらを集め,何も無駄にならないようにしなさい」とお命じになりました。(ヨハネ 6:12)海老名ベテルの建設でも兄弟たちは自分たちにゆだねられた資材を用いる際にイエスのこの考え方と調和して働いています。無駄がないようにすることの大切さは,13歳の男の子から2万円の寄付が送られ,その送金書の通信欄に,「ぼくのおこずかいから出しました。どうぞつかってください」という文字を見る時にいよいよ心に深く刻まれます。
節約の一例としてコンクリートを打つ際に使う型枠用のパネルの再利用が挙げられます。雑工事部門では一度使われた型枠から釘を抜き,パネルの表面に付いたコンクリートを落としていきます。「少しでもコンクリートが残っていると,次にコンクリートがうまく打てません。忍耐と根気がいります」と,この部門で働く一兄弟は語っています。「一人1時間に七,八枚,一日フルに働いて50枚前後できます」とも話しています。パネルの角の部分を曲げてしまうと使い物にならなくなるので,ていねいに仕事をしなければなりません。小さな仕事のようですが,再利用のパネルの供給が遅れれば新しいものを購入しなければならないので,経費の節減には欠くことのできない働きです。
建設奉仕にあずかる一人一人の兄弟は節約の大切さを肝に銘じています。「現場を歩いているときに余分の針金を見つけたら,パイプなどをしばるのにそれを使うようにしています」と雑工事部門の監督は述べています。鉄筋部門で働く兄弟も,「[鉄筋をしばる]結束線の無駄がないように,まめに拾い集めています。大した額にはならないかもしれませんが,『買いたいサッカー・ボールを我慢して寄付した少年のお金で買ったのかもしれない』というのがわたしたちの合い言葉になっています」と話しています。
建設委員の話によると,この世の現場でも経費節減が叫ばれますが,「なかなか徹底しないようです」。しかし,貴重な寄付で建てる業を行なっているという認識が海老名ベテルの建設現場ではすべての人に浸透しており,「釘一本でも拾って再利用しよう」という態度が見られます。
この態度は,支給された安全靴やヘルメットを大切にして長持ちさせることにも表われています。毎週土曜日の最後の40分ほどは環境整理のための時間とされており,兄弟たちはヘルメットのあごひもを洗ったり,安全靴に靴墨を塗ったり,長靴や地下たびを洗ったりします。「こうしておくと,持ちが違ってきますし,防水効果もでてきます」と,土工部門の一兄弟は語っています。
このような小さな努力の積み重ねで経費が節減され,さらには安全に作業が進められています。工事の進み具合いも順調です。皆さんがこの記事を読まれる頃には工場棟の4階部分のコンクリート打ちが終わり,5階のフロアーが出来上がっていることでしょう。工場の地下室は,写真でご覧になれるように,すでに仕上げの段階に入っています。
「王国のこの良いたより」を宣べ伝える道具を備えるための印刷工場を建てる業は,エホバ神の祝福を受けて推し進められています。現場で働く『露玉のような若者たち』は,『献身を全うしたい』,また『より十分エホバに仕えるため自分にできることは何だろう』と考えて今日も熱心に建設に携わっています。野外の最前線でエホバをたたえる業に携わる奉仕者たちも,これら建設奉仕者たちと同じ目的を目指して共に奉仕しています。どんな人の脳裏にも,『この建設に貢献するために,自分にはどんなことができるだろうか』という思いが浮かぶのではありませんか。では,祈りのうちに自分の立場を吟味して,海老名における「建てる」業にあずかる点でも「なすべき事を常にいっぱいに」持っていけますように。―コリント第一 15:58。
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仕上げ工事の進む工場地下室
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コンクリート打ちに伴う左官の仕事
朝の全体ミーティング
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部門ごとのミーティング
新しい建設奉仕者を霊的に築き上げる新入者学校
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コンクリートパネルの再利用 ―『何も無駄にならないようにする』
安全靴の手入れ ― 長持ちの秘けつ