かぎ十字の用途の歴史をたどる
オーストリアの「目ざめよ!」通信員
インド,ニューデリーのラクシミ・マラヤン寺院の入口の扉の上部に一つの紋章があります。また,インドネシアのバリ寺院の入口の上方にもあります。それは,アフリカの原住民,アシャンティ人の分銅にもついており,さらに,北アメリカのインディアンの用いる,魔術のためのくさりにもついています。仏陀の足跡を描いたものにもついていますし,ローマ・カトリックのある大修道院長はそれを自分の盾形紋章として用い,アドルフ・ヒトラーはそれをドイツ第三帝国の象徴として用いました。そうです,それはかぎ十字です。
それは英語でスワスチカと呼ばれますが,この名称はどこから来たのでしょうか。インドの仏教徒のあいだでは,角が右向きに曲がっている,そうした象徴が,「スワスチカ」と呼ばれていますが,それは,「福利をもたらすもの」という意味の梵語(サンスクリット)の「スバスチ」から来たことばです。
ヒトラーがそれを初めて見た所
ヒトラーは,自著「わが闘争」の中で述べているとおり,かぎ十字のついた国旗を初めて一般に紹介したのは1920年の夏のことです。彼とその幕僚は,古代の紋章をつけた新しい国旗を熱烈に支持しました。彼はこう述べました。「それが与えた影響は,たいまつのそれのようであった」。それにしても,ヒトラーはかぎ十字をどこで初めて見たのでしょうか。
彼がこの象徴を初めて見たのは幼少時代のことです。当時,彼は,オーストリア北部のオーバーユスターライヒ州,ランバハにあるベネディクト会修道院にほど近い寒村で生活していました。しばらくのあいだ,そこで聖歌隊の少年歌手をしていた彼は,1897年から1898年にかけて,その修道院で一冬を過ごしました。その中庭の春のほこらの上の壁に,1860年という年号とともに,かぎ十字の紋章が刻まれていました。また,同様の紋章が修道院の門にもありました。
さらに,ランバハのその修道院の院長テオデリッヒ・ハーン個人の盾形紋章には,「青色の下地に,先端が斜めになった,黄金のかぎ十字」がついていました。a
そうしたかぎ十字の紋章が幼いヒトラーに感銘を与えたのでしょうか。意見はさまざまですが,「アドルフ・ヒトラーの若い時代と彼が過ごした土地」と題する本は,ランバハのベネディクト会修道院について,こう述べます。「アドルフ・ヒトラーが初めて,かぎ十字に接したのは,この修道院であった。……後日,アドルフ・ヒトラーは全く別の動機でこの紋章を採用したにしても,幼年時代の一時期を,この紋章のもとで過ごしたという事実を打ち消すことはできない」― 14-16ページ。
ロバート・レンクは自著,「ドナウ川上流の総統の郷里」の中で,「聖歌隊の少年歌手アドルフ・ヒトラーは,ランバハ修道院のアーチの下の入口にある紋地の上の日輪の,角のとがったしるしを初めて見た」。(102ページ)その同じ本の中で,著者は,一般にカトリックの勢力が強いと言われている,オーバーエスターライヒ州,ミュールフィールテルのいなかの,かぎ十字の紋章のある,六つの教会について述べています。―42ページ。
ヒトラーが政治的な意味で用いた象徴が,同時に,宗教的な環境の下にも見いだされるということを知って,読者の多くは奇異に感じられるかもしれません。しかし,世界の各地で,かぎ十字がほかに使用されている事例を調べてみると,それは,政治的な意味よりも,むしろ宗教的な意味で,いっそう広く用いられているという,動かしがたい事実に気づかれることでしょう。その点は,かぎ十字の起源をたどってみると,はっきりするでしょう。
キリスト教世界の諸教会
まず最初に,ベツレヘムのキリスト生誕教会のモザイク造りの床の,かぎ十字を上げることができます。ジョエルク・レヒラーは自著,「かぎ十字に関して」という本の中で,キリスト教世界のいろいろな教会で写したかぎ十字の多数の写真を示しています。その豊富な写真資料の中には,西ドイツ,ハイリゲングラーベの,いわゆる“ハンガークロース”(つまり,断食もしくは四旬節用のテーブルクロース)が見えます。それには,かぎ十字の模様が一面に施されたキリストの衣服が描かれています。西ドイツ,ゼーストのビーゼ・マリヤ教会の祭壇のテーブルクロースにも,かぎ十字がついています。また,リューベックのボッコルト司教の青銅の記念碑や,マインツおよびハルベルシュタットのカトリック司教管区,そしてエルフルトのハインリッヒ司教(西暦1140-1150)の司教管区で用いられた,中世の硬貨の幾つかにも,かぎ十字がついています。
南部スウェーデン,ダルビーのある教会に掲げられている絵には,イエス・キリストを表わす小羊が,単なる十字架ではなく,かぎ十字を負わされている様子が描かれています。デンマーク,ウッテルスレブの教会の鐘を作る鋳型にも,かぎ十字が付されています。
それにしても,キリスト教世界の諸教会や,その僧職者たちは,この象徴をどこから借りてきたのでしょうか。かぎ十字その他,多数の象徴が,異教から取り入れられたということを知っても,さほど驚くには及びません。
初期のクリスチャンが,そうした象徴を退けたことは,次のことばが明らかにしています。「そのうえ,われわれは十字架を崇拝しないし,それを欲してもいない。木でできた神々を神聖なものとしているあなたがたは,木製の十字架を,おそらくあなたがたの神々の,一部として,確かにあがめている。あなたがたの軍旗や野営の旗はもとより,国王旗にさえ,金ぱくを付され,装飾を施された,ほかならぬ十字架が用いられており,あなたがたの優勝杯は,十字架そのものだけでなく,十字架にはりつけにされた人の形にも似せて作られている」―「ニケア前教父」第4巻,191ページ,29章,「ミニューシウス・フェリックスのオクタビウス」。
ですから,かぎ十字は初期クリスチャンが作り出したのではなく,異教に由来するものです。では,この古代の象徴は,何を意味していましたか。
多産と生命の象徴
ドナウ川下流地方(ルーマニアのジーベンベルゲン)では,かぎ十字の模様のついた土器が出土しています。また,小アジアの古代都市トロイでも,かぎ十字の紋章が発掘されました。
トロイおよびルーマニアの文物にかぎ十字の出てくる同じ時代の歴史を調べると,多産を祈願する宗教に関連して用いられた,プラスチックに似た物質でできた偶像が目につきます。それらはたいてい,中東および近東のものとよく似ています。トロイ出土のそうした女神の偶像のからだに,かぎ十字が付されている位置からすれば,それは多産と生命の象徴として用いられていたことがわかります。
さらに,ギリシア,ミケーネの掘割り式の墓から出土した,高価な金製の装身具類にも,かぎ十字が見られます。また,硬貨にもついています。アテネ出土のつぼに描かれている葬儀の様子を見ると,霊枢車を引く馬の上方に三つのかぎ十字がしるされています。墓から掘り出された,多産の女神像には,のどと乳房にかぎ十字がついています。ある石棺には,のちにアルテミスとして知られるようになった,「生命の女王」が,かぎ十字で囲まれているのが見えます。また,かぎ十字は,はすの花とも関連を持っていたようであり,同時に,古代ギリシアの愛の女神で,ローマ人がビーナスと呼んだ,アフロディーテの衣服の飾りとして用いられたようです。
したがって,トロイおよびエーゲ海地域では,かぎ十字は多産と生命を表わすものとみなされました。
かぎ十字の発祥地
1931年,南アジア,インダス川流域の文明に関する発掘調査の結果が発表されました。モヘンジョ・ダロおよびハラッパでは,西暦前はるか昔に繁栄した,高度の文明の遺物が発掘されました。明らかに宗教的な性格を持つ種々の象徴や,かぎ十字のしるしのついた印章が出土しました。それら印章の出土品は紀元前3世紀のものとされています。
興味深いのは,インダス川流域で発見された,かぎ十字に関して,考古学者V・ゴードン・チャイルドが語った次のことばです。「印章や飾り板にしばしば見られる,かぎ十字や十字架は,先史時代の最も初期のバビロニアやエラムのそれと同様,宗教的かつ魔術的な象徴であった」― V・ゴードン・チャイルド著,「最古の東洋に関する新しい光」184,185ページ。
したがって,かぎ十字はメソポタミアにその起源を持つものに違いありません。チグリス河畔のバグダードの北にあるサマラおよび,スサあるいはシュシャン(ネヘミヤ 1:1。エステル 1:2)の古代の居住地層から出土した,かぎ十字は,それが古代メソポタミヤに起源を持つ象徴であることを示しています。確かにかぎ十字は,古代の宗教的な中心地バビロンにさかのぼるものなのです。
こうして,その起源をたどってみると,かぎ十字は宗教的な性格をもつものであることがわかります。20世紀になって,それが政治的な意味を持つ象徴物となったのは事実です。しかし,それを国家的な象徴として採用した人物は,まず最初に,自分の属していた教会を通して,その紋章を知るようになったのです。そして,その教会は,政権の座についたその人物と政教条約を結び,彼の配下の軍隊が戦争に参加するに及んで,同教会の僧職者は,その軍隊のために戦勝祈願をささげたのです。
[脚注]
a ジョージ・グリュエル著,「ランバハ・ベネディクト会修道院および当院長の紋章」20,23ページ。
[21ページの図版]
ランバッハ修道院の院長ハーンの盾形紋章より
[22ページの図版]
スサ出土の陶磁器に描かれている,かぎ十字