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目ざめよ! 1970
目70 12/22 22–24ページ

日曜学校では何が教えられていますか

何百万人に上る日曜学校出席者の中に,あなたのお子さんもはいっていますか。成人のための日曜学校に,あなた自身出席しておられますか。何か月あるいは何年かかって,あなたの家族は何を学びましたか。

神とはどんなかたか,その目的や要求は何かについて学びましたか。人間はなぜ死ぬか,死者はどこにいるか,神はなぜ悪を許しておられるか,また,今日の恐ろしい状態をどのようにして地上から一掃されるか,などに関して教えられましたか。人間と地球の将来に対する神の定め,神を愛し,神に仕えることを願う人々に対する希望,また,神があなたに要求しておられる事柄について学びましたか。

教科課程

日曜学校の教科課程には,成人,子ども用を問わず,独自の宗派によって準備されたものや,諸宗派の教会のために,日曜学校の教科書を専門に出版しているところで用意されるものもあります。アメリカの日曜学校の多くは,国際日曜学校標準教科シリーズを使っており,1970年用国際教科年報には,まる1年の教科課程が載っています。

それにしても,あなたとお子さんは,そうした課程から神と神の目的についていったい何を学びましたか。その日曜学校「年報」を手にとって詳しく調べる人は,前に取り上げたように,多くの肝要な問題が十分に考慮されていないのを知って驚かれるかもしれません。しかし,聖書の正確な知識を与えることを目的とする課程なら,神と神の目的に関する教理を含むのが当然です。それらは,生死をも含め,あなたの永遠の将来にかかわる事柄なのです。

肝要な教理を説明する資料が豊富に収められていないなら,聖書中の66冊の本,欽定訳によると1,189章あるいは3万1,173節全部の代わりに,ほんの一部で十分なはずです。それとも,神より現代批評家のほうが,人間の必要について,よく知っているとでも言うのでしょうか。神のことば聖書の大半が無用なら,神は霊感を与えてそれを書かせたでしょうか。真実はこうです。「聖書はみな神の感動によるものにして教へといましめと矯正と義とを薫陶するとに益あり。これ神の人の全くなりて,諸般の善き業に備を全うせんためなり」― テモテ後 3:16,17。

前述の「年報」に触れられている教理は,微妙におそるおそる,しかも一部だけが扱われています。編集者が,どの宗派の感情も傷つけまいとして,細心の注意を払ったことは明らかですが,そうすることにより,聖書の力強い音信の内容を不明りょうにし,聖書の著者であられるエホバ神にさからっています。―イザヤ 29:13,14。

三位一体の教え

広く使用されているその「年報」の中には,神,イエス・キリスト,それに聖霊の関係にかかわる,教会の中心的な教えの一つが載っています。

神のことば聖書には,イエス・キリストは神の子であると,簡単明りょうに述べられています。イエスはご自分が神であると主張したことは一度もなく,神はイエスの父であると,いつも示されました。そして,聖霊は神の活動力である,と聖書は教えています。

イエスがヨルダン川でバプテスマを受けたとき,神は天からこう言われました。「これは我が愛しむ子,わが悦ぶ者なり」。(マタイ 3:17)イエスは,「我が〔意志〕を求めずして,我をつかはし給ひし者の〔意志〕を求める」と言われ(ヨハネ 5:30〔新〕),また,『父は我よりも大なり』とも語られました。(ヨハネ 14:28)使徒パウロは,「キリストの頭は神なり」と述べ(コリント前 11:3),使徒ペテロはイエスに,「なんぢはキリスト,活ける神の子なり」と語りました。(マタイ 16:16)使徒行伝 2章1-4節は,人々が「聖霊にて満され」た,と述べ,神の霊が位格ではなく,一種の力であることを示しています。三位一体論者が唱えるように,それが位格なら,どうして『注ぐ』ことや,他の者がそれによって「満され」ることがありうるでしょうか。あなたが『注がれたり』,他の人で「満された」りすることは不可能です。

しかし,マタイ伝 16章16節のペテロのことばに関して,「年報」はこう述べています。「今日,われわれがこのことばを用いる際,後日発展したもので,父・子・聖霊に関する,よく知られている三位一体の信条を,そこに読み取る傾向がある」。ところが,「年報」は次のように認めています。「実際,これは神学の立場から正しいとされよう。しかし,当時のクリスチャンの間で,『子』という称号は,三位一体の第二の位格ではなく,ユダヤ人のメシヤをさして用いられた」。

これは,イエスの教えた人々が,三位一体の教えとなんの関係もなかったことを明らかにするものです。その教えは,クリスチャンの信仰から逸脱した人々の力を得て,「後日発展したもの」です。「年報」は,それにもかかわらず,イエスは神ではなく,また,聖霊は力であって位格ではない,と教える聖書をあえて無視し,三位一体という偽りの教理を受け入れています。

悪魔サタン

聖書はまた,神に反逆した強力な霊者から悪が生じたことを明らかにしています。その霊者はサタン,そして悪魔と呼ばれています。(黙示 12:9)イエスは,サタンの存在を信じており,サタンに誘惑された時,こう答えました。「サタンよ,去れ!『あなたが崇拝しなければならないのは,あなたの神エホバであ(る)』……と書かれている」― マタイ 4:10,新。

しかし,日曜学校「年報」にはこう書かれています。「新約時代,サタンは,そのよこしまなわざを助成する悪霊の軍勢のかしらと考えられた」。ところが,イエスや1世紀のクリスチャンが個人的に信じ,かつ教えたこと,さらに神ご自身のことば聖書の述べることを信ずるかわりに,「年報」は次のように評しています。「イエスが,実体を備えたそのような者に誘惑されるということを考えるのは無理である。……霊的な経験を描写しようとする際,具体的な象徴を用いざるをえない場合は多々ある」。

つまり,サタンは単なる比喩的表現,実在しないものとされています。しかし,サタンが存在するかどうかを最もよく知っているのはだれですか。神はご存じではないでしょうか。イエスも知っておられたのではありませんか。聖書をけなそうとする今日の批評家よりも,神の霊感によることばのほうが,すぐれた説明を与えるのではありませんか。

滅びに定められた世の一部となる

1970年用国際日曜教科「年報」は,さらにこう述べています。「神は,教会や各信者のみならず,この世をもご自分に和解させておられる。……ひとりの神がおられ,全世界は神のものである,とわれわれは信ずる。……イエスは,世が本質的に良いものであるという確信から決して動くことなく,また,人が世から離れるようにと教えられたことは一度もない」。

しかし,この邪悪な世を改宗することではなく,滅ぼすことが神の目的であるならどうですか。そうであれば,日曜学校に出席している人々は,真理を教えられていないことになります。神ご自身によって滅びに定められた世の一部になることを,彼らは求められているのです。

神の意志を行なわない,現在の人類の世を支配しているのはだれですか。エホバ神ですか。いいえ,支配しているのは悪魔サタンです。使徒ヨハネの次の明白なことばを思い起こしてください。「全世界は悪しき者に属する」。(ヨハネ第一 5:19)イエスは,悪魔を「この世の支配者」と呼びました。―ヨハネ 14:30,新。

聖書は,神の王国,すなわち神の天の政府が,「この諸の国を打破りてこれを滅せん これは立ちて永遠にいたらん」と明確に述べています。(ダニエル 2:44)この世の国々が神のものであるなら,神がそれを滅ぼし,イエスがクリスチャンに祈るように教えた,神の天の王国にとって代わらせる必要がどこにありますか。―マタイ 6:9,10。

イエスは,ご自分と追随者たちに関して,「我の世のものならぬごとく,彼らも世のものならず」と言われました。(ヨハネ 17:16)したがって,イエスはこの邪悪な世を愛さず,世の事柄に巻き込まれないようにして,追随者たちのために模範を示されました。ある時など,かなりの人々が,イエスを政治支配者にしようと願いましたが,「イエス彼らが来りて己をとらへ,王となさんとするを知り,復ひとりにて山にのがれ」ました。―ヨハネ 6:15。

ゆえに滅びに定められたこの世の事柄に人々を介入させようとする,教会の試みや日曜学校の課程は,神の目から見れば,実際には背教にすぎません。

神がまもなく滅ぼされる世の一部となるようお子さんが教えられることを,あなたは望みますか。それとも,この地上に新秩序,楽園を設けるという神の目的について,家族が学ぶのを望まれますか。そこでは聖書の述べるとおり,神を恐れる人々が平和と幸福のうちに永遠に住み,病気,悲しみ,死さえ過去のものとなります。「神みずから人とともに在して,かれらの目の涙をことごとくぬぐひ去り給はん。今よりのち死もなく,悲しみも,苦痛もなかるべし。前のもの既に過ぎ去りたればなり」― 黙示 21:3,4。

真理を見いだすことは可能か

この記事は,神のことばと真っ向から対立する,日曜学校の多くの教えの中から,三つの点を取りあげたにすぎません。聖書の他の重要な教えも混乱をきたしており,この記事の前の部分で扱ったような質問を日曜学校に行っている人々にしても,答えが得られず,彼らが聖書を使って自分たちの答えを裏づけることができなかったのはそのためです。

しかし,多くの人はこう言います。「教理を気にしたってしかたがないではないか。混乱するだけだ。教会の混乱をふるいにかけたところで,真理を見つけだせるはずがない」。

ですが,それと同じ態度を,知力や,崇拝の欲求を人間に付与された創造者が取られるでしょうか。そんなことは絶対にありません。創造者はこう語っておられます。「『さあ,あなたがた民よ,来なさい。そして,わたしたちの間で物事を正そうではないか』と,エホバは言われる」。(イザヤ 1:18,新)『事態を正す』ことが不可能なら,「汝はわが神なり われに聖旨をおこなふことををしへたまへ」と,なぜ詩篇作者は言うでしょうか。―詩 143:10。

それに,人が真理をはあくできないなら,『汝等は真理を知らん,しかして真理は汝らに自由を得さすべし』と,なぜイエスは語ったのでしょうか。(ヨハネ 8:32)イエスは真理を知っておられたし,その追随者も同様でした。神の是認を受けるかどうかは,神に関する真理の知識を取りいれるかどうかにかかっています。

神の名をもって教える人が,神のことばと矛盾する事柄を教えながら,神に喜ばれると思いますか。そうした事柄を,あなた自身学びたい,また,子どもにも学ばせたい,と願っておられますか。そうでないなら,どうして真理を学べるでしょうか。

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