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  • 宗教を変えるのは,それほどむすかしいことですか
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目ざめよ! 1971
目71 3/22 28–29ページ

「あなたのみことばは真理です」

宗教を変えるのは,それほどむすかしいことですか

あなたは自分の宗教に幻滅を感ずるようになった大ぜいの人のひとりですか。自分の宗教は,これまで教えられてきたほど聖書の真理に堅く根ざしてはいないということに,おそらくお気づきではありませんか。新たな見解を得てもなお,自分の宗教を変えるのはむずかしいと感じておられますか。もしそうであっても,落胆するには及びません。神への愛は,そうした変化を遂げるのに必要な霊的な力を与えうるものなのです。神は,ご自分を崇拝する者が霊と真理とをもって崇拝することを望んでおられます。(ヨハネ 4:23,新)ゆえに,聖書の真理に立脚した宗教を奉ずる人々との交わりはたいせつです。

おそらくあなたは,エホバの証人のひとりといっしょに聖書研究に時間を費やして,短期間のうちに,これまでの年月中,今のあなたの宗教では学べなかった,聖書の基本的な数々の真理を学び,聖書には,人を幸福なとこしえの命に導く知識が満ちていることを知られたでしょう。では,神の目的に関する真理のすべてを宣べ伝えるものではないことを知りながら,どうしてそうした宗教とのきずなをすべて断ち切れないでいるのですか。

偽りの宗教から完全に離れることを思いとどまるよう,親族から説得されたためですか。これまでの宗教が,祖父またその親にとって申し分のないものであったのなら,あなたにとっても申し分のない宗教に違いないというのが親族の言い分ですか。それでは,あなたの祖父母が今健在だとしたなら,どんな道を取ったと思われますか。彼らは物事に目ざめている考え深い人々でしたか。では,世界や諸教会で起きている変化のすべてを,それらの人が手をこまねいて傍観していると考えられますか。

仮にあなたの祖父が,今日の牧師や一般信徒によって聖書が卑しめられる傾向にあるのを実際に見聞きしたり,“教会に通っている”人々の道徳の急激な退廃や,教会の方針に対する司祭および信徒の反抗を目にしたなら,はたして安閑としておれたでしょうか。また,あなたが得たと同様の聖書の教えに関する正確な知識を得たとすれば,あなたの祖父はどうしたと思いますか。親族や家族に妨げられるまま,自分では正しいと思う道を取らずに過ごしたでしょうか。

問題は,あなの両親が,そうした徹底的な変化のすべてを手をこまねいて黙認し,あなたも同様の態度を期待しているところにあるかもしれません。子どもは,『両親に順う』べきことをあなたは学ばれたでしょう。(コロサイ 3:20)しかし,それには何が含まれていますか。神の要求に反することをするよう,親から要求されたなら,どうですか。あなたはどうしますか。神をほんとうに愛している人は,神の意志を第一にします。それは正しいことです。(マタイ 10:37)しかも,神の意志は,正直な心臓の持ち主が,偽りの宗教のバビロン的な世界帝国から出る,つまり,きっぱり離れることなのです。―黙示 18:4。

親族のためにしりごみさせられているのでなければ,問題は,友だちを失いはしまいかという恐れかもしれません。あるいは,世間一般の考え方にさからうほどの強さがなかったり,宗教を変えたなら,人にどう思われるだろうかと心配したりしているかもしれません。しかし,まことの神の不興を買うことに対する恐れに比べれば,単なる人間に対する恐れは,まさに物の数ではありません。それゆえに,聖書はこう述べます。「人を畏るればわなにおちいるエホバをたのむ者は護られん」。(箴言 29:25)エホバにその約束の保護を仰ぎ求めるなら,以前の仲間の見解や意見を恐れるには及びません。

そのうえ,王国会館でエホバの真の崇拝者と交わるなら,苦楽をともにかわち合える,ほんとうのりっぱな友だちを見いだせるでしょう。霊感のもとにしるされた次の聖句の真理を見いだせるのは,そうした交わりだけです。「朋友はいづれの時にも愛す兄弟は危難の時のために生る」― 箴言 17:17。

それに,地域社会の長年の伝統のため,以前のきずなを断ち切れない場合もあるでしょう。適当な葬儀をしてはもらえないのではなかろうかと恐れるあまり,そうした伝統にとらわれて,偽りの宗教の団体から脱退できないのかもしれません。それはいわれのない心配です。エホバの証人が司会した葬式に出席した人であれば,そうした葬儀はまちがいなく徳を高めるものであることを証言できるからです。深い確信をもって話される,復活の希望は,遺族に真の慰めを与えるばかりでなく,葬式は無償で司会されるのです。

「宗教を変えるには年を取りすぎました」と言う人がいるかもしれません。では,年を取りすぎたからといって,病気をしても,病院には行きませんか。命のたいせつさを認識すれば,宗教を変えるのにおそすぎることはありません。シエラレオネ,ポート・ロコに住むスバ・セセイのことを考えてください。彼は107歳で宗教を変えたのです! しかも。こう言いました。「エホバ神が私のこれまでの生活を見過ごして,私を受け入れてくださるのでしたら,宗教を変えるには,年を取りすぎたと考える必要がどこにあるのですか」。

宗教を変えて,真の宗教を奉ずるには,確かに生活の仕方を多少調整しなければなりません。悪い習慣や行ないをならわしにしている人は,宗教を変えるため,そうした慣行を断つことをためらう場合があるかもしれません。神の意志に反する一夫多妻その他の習慣は,多くの宗教では許されていますが,エホバの崇拝者の間では認められません。そうした習慣や行ないがまちがっていることを認めておられるなら,神はあなたに責任を問われます。イエス・キリストの警告のことばを忘れないでください。「その審判はこれなり。光,世にきたりしに,人その行為の悪しきによりて,光よりも暗黒を愛したり。すべて悪を行ふ者は光をにくみて光に来らず,その行為の責められざらんためなり」― ヨハネ 3:19,20。

次のたとえを考えてみてください。手綱をかけられた馬,あるいは,荷を負わされたロバは飼い主の意志を行なわねばなりません。それらの動物が拍車もしくは,突き棒を避けたり,けったりしたところで無意味です。なぜなら,飼い主の意志はいやおうなく遂行されるからです。それで,パリサイ人サウロがクリスチャンを迫害しつづけたとき,主イエスはサウロにこう告げたのです。「サウロ,サウロ,何ぞ我を迫害するか,〔突き棒〕を蹴るは難し」。(使行 26:14,〔新〕)だれでも,神の真の崇拝者のために明示されている道を回避するなら,いっそう困難な事態に陥り,命を失う危険を冒すだけです。

月の神の崇拝者の中で育ったアブラハムや,遊女ラハブ,モアブ人の女ルツ,イエスのユダヤ人の母マリヤその他,大ぜいの人々が行なったとおり,正しい宗教に転向するのは,それほどむずかしいことではありません。あなたは,神の王国の祝福に決してあずかれない憶病な人々と同列にされるよりも,前述のような,神を恐れる男女の手本に従い,かつ,そうした人々と同列の者とされるのを望まれませんか。(黙示 21:8)祈りを通して神の助けを求め,そのうえ,あなたに対する神の意志を遂行すべく,断固として前進することにより,あなたは自分自身と他の人々に対して,正しい宗教に転向するのは,それほどむずかしくはないということを実証できるでしょう。

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