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目ざめよ! 1972
目72 5/8 25–26ページ

沖縄 ― 東西の交流点

沖繩の「目ざめよ!」通信員

140ばかりの小さな島が日本と台湾省の間を飛び石のように1,100㌔を越える弧を描いて延びている。それが琉球諸島である。もっとも,その中のいちばん顕著な島の名前で,沖縄と総称されることもある。

島の約半数は無人島であり,最大かつ最も人口の多い沖縄を含む残りの島々にはおよそ95万人の住民がいる。沖縄は,長さは約110㌔だが幅は3ないし29㌔しかなく,面積は1,170平方㌔ほどであるから,アメリカのロサンゼルスと同じぐらいの大きさだ。したがって,世界で最も人口密度の高い土地の一つになっている。

東には広い太平洋が,また西には東シナ海が横たわっている。沖縄の人々はいわゆる“台風の道”にすわっているのである。太平洋上で発達したあらしは沖縄の人々のそばを吹き抜けてアジア大陸へ向かう。年に一度か二度は大きな台風が,時には風速85㍍の風を伴って沖縄を襲う。

東洋と西洋が出会った時

琉球人はいくつかの民族,特に中国人と日本人の混血である。1879年,日本は琉球人の王政を廃止し,正式に沖縄を併合して日本の県の一つとした。日本語が公用語となり,多くの琉球方言にとって代ったが,いまだに使われている方言もある。

2世代前,沖縄は西洋人には事実上知られざる土地で,少数の西洋人が訪れたにすぎない。1853年,ペリー提督はこの島を本拠にして日米通商条約を結んだ。数人の外人宣教者が来たり,時たま,生物学者や探検家が立ち寄ったりした。しかし東西の接触はその程度のものであった。

ついで1945年がやって来た。第二次大戦終結の年である。日本軍は沖縄で最後の防戦に必死であった。4月1日,アメリカの攻撃が始まった。続く3か月間に,大戦の最も激烈な戦闘のいくつかが行なわれ,沖縄の人々はその板ばさみになった。

死傷者数と破壊のほどは仰天すべきものだった。住民の90%が家を失い,10%を上回る人々が死んだ。兵士と市民あわせて約56万人が死傷した。島の南部は破壊され,建物の95%がだめになった。沖縄の人たちがその闘いを「はがねの台風」と呼ぶのももっともなことである。

混り合うが融合しない

沖縄の首都那覇は完全に荒廃した状態から,人口約30万人の活気にあふれる都市になった。かつては農村だったゴサは,人口およそ7万の都市に成長し,戦前の那覇よりも大きい。

ビルの大半はコンクリート造りで,台風に耐えるようにできており,家屋は一般に平屋である。しかし,高層建築のアパートも多数建てられている。10万台を越すモーターバイクは島を走り回り,ラッシュ時には街路をふさぐ。

したがって,西洋人が沖縄で目にするのは,他の多くの西洋人であり,見なれた光景である。終戦とともに,アメリカ軍人すべてが撤退したわけではない。いや全く撤退しなかったのである。現在沖縄にはおよそ9万人のアメリカ兵とその家族が住んでいる。アメリカは120を上回る施設を持つ,史上最強の軍事複合体を沖縄で維持してきた。島の優に4分の1は軍事基地で占められている。

沖縄の人々は社交的であるが,英語を話す外国人たちが同化されたことは一度もない。二つの文化は油と水のように平行して流れ,混じり合うが決して融合しない。アメリカ人の沖縄があり,沖縄人の沖縄がある。ほとんどの沖縄人は英語を学ばないし,アメリカ人の大半は,ここに一時的に住むだけであるから,島民の生活様式を取り入れない。

長年にわたり,沖縄の日本への復帰が強く叫ばれてきた。その理由の一つは,沖縄の人々が土地を非常に必要としており,しかもアメリカがそのかなりの部分を支配しているということにある。1953年,琉球列島のうち北方の小さな群島,すなわち奄美諸島が日本に帰属した。その後,1971年6月,アメリカは沖縄と他の琉球列島の日本返還条約に調印した。1972年中には復帰が期待されている。そうすれば,日本は,第二次大戦で最後にアメリカに奪われた領土を,約27年ぶりで取り戻すことになる。

しかし,それはアメリカの沖縄撤退を意味するものではない。アメリカは88の軍事施設を保持し,したがってそこに人を配置するのに引き続きかなり多数の人員を必要とする。

東西の融合

沖縄の人々は,評判の高い核兵器を含む,強力な軍事基地の存続をよく思っていない。「はがねの台風」を経験した彼らにとって,軍事兵器の類は楽しい思い出を呼ぶものではない。だから,神の管理下で人々が「剣を鋤に打かへその鎗を鎌に打ちかへ」るという,聖書の約束は,沖縄人の多くにとって快い音信である。―ミカ 4:3。

1952年,沖縄には,神の王国がもたらす平和について伝道するエホバの証人がひとりもいなかった。しかし今では500名を上回るエホバの証人がいる。彼らは11の会衆にわかれて,聖書研究をしたり,交わりを持つために定期的に集まる。そのうち10の会衆においては集会は日本語で行なわれているが,英語を話す人々からなる会衆も1968年以来存在するようになり,現在そこには100名を越す人々が交わっている。その会衆の人々は,沖縄にいる英語を話す人たちを訪問する。こうして,他の土地で聖書を学んだことのある多くの人たちと連絡が取れ,そのうちの多くは援助を受けて霊的に進歩した。

日本語を話すエホバの証人と,英語を話すエホバの証人たちは,使い慣れたことばで聖書を学ぶため別個に集会を開いてはいるが,両者の間には真の協力が見られる。彼らの大会はその一例である。現在大会には750人を越す人々が出席するが,彼らはそうした集まりを成功させるために密接に協力して働く。意志の伝達はおもに手ぶりや身ぶりで行なわれるが,彼らの間に見られる一致は,どうすれば人々が共に平和で幸福にくらせるかということのりっぱな実例である。

そうした一致が沖縄に充満する分裂や混乱と対照をなしていることに気づく人もいる。事実,日本語を使う会衆と英語を使う会衆が商業ビルの空家を集会場として使用するために修理したところ,近所の人々は二つのグループがいっしょに働いているのを見てたいへん驚き,わざわざやって来て質問する人が少なくなかったほどである。東洋人であれ,西洋人であれ,確かにそれらの人は混り合うだけでなく,融合して一致した一つのクリスチャン家族をなしているのである。

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