若い人は尋ねる…
ホラー映画のどこがそんなに恐ろしいのだろう
批評家には非難され,親たちからは攻撃され,テレビ・ネットワークの審査員からは度々審査されながらも,ホラー(恐怖)映画の勢いは依然として衰えていません。もし利益をあげる能力を尺度にするとすれば,ホラー映画は大当たりで,切符の売り上げが最高記録に達した映画すらあります。商魂たくましい映画製作者たちは,さらに多くの利益をあげようと,続編を作ることにおおわらわです。ほかの映画製作者たちもその利益に目を付け,大急ぎで似たような映画を次々と製作します。
ではそうした恐ろしい映画がねらっている観客はだれでしょうか。それは若者たちです。十代の少年少女たちが,最新のホラー映画の封切りを見ようと,大荒れの天候をものともせずに長い列を作っているのを見るのは珍しくありません。しかし,何がそれらの映画に若者を引き付けるのでしょうか。若者たちがそれらの映画に用心すべき理由が何かあるでしょうか。
新しいホラー映画
数十年前に観客を怖がらせていた映画は,新しいジャンルの映画に道を譲りました。今のホラー映画は,語り口のうまさやサスペンスに満ちた話の筋によって,あるいは見る人の想像力を刺激することによって,観客に背筋の寒くなる思いをさせたり,スリルを味わわせたりするのではなく,そうした効果は,もっぱら暴力行為をどぎつく,詳細に描くことに依存しているのです。「伝統的な怪物に取って代わったのは,血に飢えた狂人である」と,ニューヨーク・ポスト紙が述べているとおりです。
例えば,「13日の金曜日」という映画の第4作は,「所要時間は1時間半……首を切り落としたり,絞殺したりする短い場面が幾つか出てくる,暴力による血みどろの傷害ざたと十代のヌードの映画にすぎない」と批評されています。主人公は「ジェイソンという名の気違いの殺し屋で,ホッケー用のマスクを着け,ティーンの少年少女をめった切りにしたり,くし刺しにしたりする」のです。
このように,新しいホラー映画の大きな部分を占めているのは,大量の血や血糊なのです。ですからそれらの映画が,“ナイフ・キル”もの,“スプラッター(血みどろ)”もの,“ゴア(血糊)”ものなどと呼ばれているのも不思議ではありません。
ホラー映画に引き付けるもの
しかし,信じられないことですが,多くの若者を切符売り場に急がせるのは,この虐殺や「暴力による血みどろの傷害ざた」なのです。ホラー映画を頻繁に見に行く理由を聞かれた時,16歳のメリッサは,「ガッツのあるところが大好きなの。『ゴールディロック』みたいなおとなしい映画はどれも見る気しない。『エルム街の恐怖』のような映画に行くのが好き」と,かなり率直に言いました。そして「人がずたずたに引き裂かれるのを見るの大好きだわ」と付け加えました。
実際,多くの若者にとって,映画に対する評価の基準は,殺人がいかに「独創的な手口で」行なわれるかにあります。ある十代の若者は,「ぞっとするような殺人の場面になったとき,観客が拍手し,口笛を吹くのを実際に聞いた」と書いています。17歳のサンディーはさらに,「場面を見て本当に恐怖を感じたら,それは良い映画。恐怖を感じなかったら,それはありきたりの殺しで,まあまあの映画」と言いました。
ほかの人たちがホラー映画を見るわけ
もちろん,ホラー映画を見る人たちがみな,暴力行為を見たくてたまらない気持ちから,あるいは病的な好奇心から,それらの映画を見るわけではありません。一部のティーンエージャーにとって,ホラー映画は単に逃避のための手段,心配事の多い生活の息抜きになっています。心理学者のジョイス・ブラザースは,「自分自身の生活がひどく複雑で恐ろしいものになると……恐ろしいストーリーに逃避しやすい」と述べています。
サスペンスと興奮が期待できるところに魅力を感じる若者もいます。14歳のボビーは,「興奮してくると,座席の端に身を乗り出したままになってしまう。ジェットコースターに乗っているみたいに,ぞくぞくしたり,スリルを感じたり,その間に幾つかの谷があってほっとする」と言いました。
十代の若者の中には,身の毛もよだつような場面や,流血の生々しい描写をびくともせずに見ることで,自分の男らしさが証明されると考えている人がいます。ホラー映画をよく見るレジーは言いました。「血にもはらわたにも全くおじけないなら男なんだ。それができなければ,友達からいくじなしとみなされる」。
ところが,多くの若者は,デートが“ロマンチックな”ものになることを当てにして,ホラー映画を見に行きます。20歳のキンテリャは,「ホラー映画を見に行った時,ぞっとするような場面になると,デートの相手につかまりました」と語り,「彼はそういう反応を予期し,また望んでいたと思います」と付け加えました。十代の少女は,デートの相手に寄り添えるように,気持ちが悪くなったふりをするとさえ言われています。この反応を期待していた相手の男性は親切にそれにこたえ,保護するように抱きかかえることになります。a
スリル,興奮,逃避,ロマンス ― こうした多くの益と思えるものを与えてくれるので,ホラー映画が大きな害を及ぼすはずはない,と多くの若者は考えています。しかし,本当にそうでしょうか。
ホラー映画が教えるもの
ホラー映画は無害で,たまに夜眠れなくなるぐらいのものだ,と考えている心理学者たちがいることは事実です。しかし,人々から尊敬されている権威者の中には,害があると主張する人も幾人かいます。
ウィスコンシン大学の心理学教授,レオナルド・ベルコウィッツ博士は,ホラー映画に見られる暴力行為は,観客に三重の影響を及ぼす,と断言しています。「第1に,一般の観客は暴力をあまり怖がらなくなり,暴力に対して一層無感覚になる。第2に,観客が暴力を是認された行為と受け止める恐れがある。第3に」と,博士は言葉を続け,「その暴力行為に刺激される人たちもいるかもしれない」と述べています。
人の苦しみに同情し,感情移入をする能力のあるところが,人間と理性のない動物の違うところではないでしょうか。しかし,ホラー映画の残忍な暴力行為は,その同情心を蝕むことしかできません。「その心の無感覚さ[字義通りには,「鈍くなること」]のため……いっさいの道徳感覚を通り越し(て)」しまった人々を,使徒パウロが非難したことが思い起こされます。しかしパウロは,『互いに親切にし,優しい同情心を示す』ことをクリスチャンに励ましました。(エフェソス 4:18,19,32,王国行間逐語訳)意味のない流血行為をたくさん見ることは,これらの特質を培う助けになるでしょうか。
暴力に対する神の見方
人を無感覚にする影響力がホラー映画に潜むただ一つの危険であるとしても,それだけで大いに憂慮すべき理由になります。しかし,クリスチャンにとっては,神との友情を維持することが最大の関心事で,暴力に対する神の見方を受け入れることもこれに含まれます。神の見方は,神が古代のノアの時代の世を滅ぼした時に明らかにされました。聖書はこのように述べています。「いたる所に暴力がはびこっていた。神は世をご覧になり,世が悪いことをお知りになった。人々がみな悪い生き方をしていたからである。神はノアに言われた。『わたしはすべての人を絶やす決心をした。わたしは彼らを完全に滅ぼし尽くす。世は彼らの暴力行為で満ちているからである』」― 創世記 6:11-13,今日の英語訳。
ですから詩編作者はエホバについて,「その魂は暴虐を愛する者を必ず憎む」と述べました。(詩編 11:5)したがって,初期クリスチャンたちは,人と人,あるいは人と獣類を死ぬまで闘わせる,人気のあった剣闘士の試合には関与しようとしませんでした。確かにそれは当時受け入れられていた種類の娯楽でした。しかし,2世紀のクリスチャンで,アテナゴラスという名の著述家は,「人が殺されるところを見るのは,その人を殺すも同然とみなしていたので,我々はそのような見せ物を避けた[厳格に退けた]」と述べています。
多くのホラー映画に,心霊術のようなものや悪霊的なものが関係している点も見逃してはなりません。クリスチャンの若者が,心霊術を呼び物とする映画をいつも見ているとすれば,『悪魔の策略にしっかり立ち向かっている』ことになるでしょうか。―エフェソス 6:11。啓示 21:8。
初めのほうで述べた若者たちの中には,レジー,キンテリャ,サンディー,ボビーなど,神との友情を維持したいと考えてホラー映画を見るのをやめた人もいます。いいえ,禁欲主義者になって楽しみを一切放棄したというのではありません。聖書の研究を通して,人を堕落させる娯楽を避ける必要のあることを認識したのです。男女間の正しい振る舞いの必要を認めた彼らは,そのような映画をだしにして,ふさわしくない仕方で愛情を表現するようなことはしません。(テサロニケ第一 4:3,4)彼らはもう暴力を娯楽とみなしてはいません。見るものをよく選ぶように努力しています。
それらの若者はホラー映画を,その名の示すとおり恐ろしいものと感じるようになったのです。
[脚注]
a ある調査が行なわれたとき,36組の大学生のカップルが自発的に申し出て,ホラー映画の幾つかの場面を見ました。その結果,もし女性が苦痛を感じ,吐き気をもよおしたら,相手の男性は彼女を一層魅力的な女性とみなすということが明らかになりました。逆に,相手の男性が少しも恐れず,動じない態度をはっきり示したら,彼の魅力は増し加わりました。その調査による結論は,ホラー映画は青年期の男性に対しては恐れを知らない男らしさを示す場を,青年期の女性に対しては,相手の男性の感情の表現から感じられる“慰め”を味わう機会を与える,というものでした。