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戦争のない世界がいつの日か実現しますか
戦 24–31ページ

諸国民を平和に導くのはだれですか

1,2 イザヤ 2章2-4節の預言は,どのように現代に成就していますか。

イザヤ 2章には,ユダヤ人が70年間のバビロン捕囚を終えてエルサレムに帰還することを述べた預言をはるかに超えた内容があります。実際それは,あらゆる国の人々が唯一まことの神エホバの清い崇拝へ転じることを示す預言にほかなりません。その預言は,神に受け入れられる神聖な奉仕をささげる国際的な兄弟関係が形成されることを示唆しています。

2 世界各地の民を包含するそのような大規模な変化が起きるとすれば,それは劇的な変化というだけでなく,どんな人からもよく見える山の上で起きているかのように,目に見える変化となるでしょう。世界中のエホバの証人の間では,今まさにそのとおりのことが起きています。キリスト教世界の諸宗派から来た幾百万という人々は,神はおひとりであることを学び,三位一体の神を崇拝することをやめました。インドでは,ヒンズー教徒が神話の神々や無数の偶像を捨て,唯一まことの神に転じました。アフリカでも,遠く離れた島々でも,中東でも,同じことが人々に起きています。エホバの聖なる山,エホバの清い崇拝に上って来た人々は,一切の人種的,部族的,政治的憎しみを捨て,文字通り『もはや戦いを学んでいません』。―イザヤ 2:2-4。

メシアの実体 ― 論議の的

3 イザヤ 11章10節によると,メシアは諸国民にどんな影響を及ぼすことになっていましたか。

3 国際的なこの兄弟関係は,全人類に対する神の目的の成就とも関連しています。その目的とは,あらゆる国の人々が約束の「胤」,つまりアブラハムの子孫の一人によって自らを祝福し,そのようにして真理と一致のうちに神を崇拝するということです。(創世記 3:15; 22:18,ユダヤ)その後の預言が示すところによると,この「胤」は『モーセのような預言者』ともなり,あらゆる国の誠実な人々が一致して神を崇拝するための法的な基礎となる新しい契約の仲介者を務めます。(申命記 18:15,18,19。エレミヤ 31:31-34)それに加え,この方自身,ダビデの家系から出る支配者,つまりメシアになることになっていました。神はダビデの王座を永久に堅く立てられるのです。(歴代第一 17:11,12)預言者イザヤによると,メシアはあらゆる国の人々(ヘブライ語,ゴーイーム)を一致させる旗頭となります。イザヤ 11章10節はこう述べています。「その日には,もろもろの民の標章のために[「旗じるしとして」,新世]立ち上がるエッサイの根,その根にもろもろの民は求めん。その休み場は栄光あるところとならん」― ユダヤ。

4 一人のラビは,イエスが人類に及ぼした影響について,何と述べましたか。

4 メシアの実体は幾世紀にもわたって論議されてきました。イザヤ 11章10節や他の聖句によると,メシアはユダヤ人であってダビデ王(エッサイの子)の子孫となり,あらゆる国の人々はその者を神から遣わされた合法的なメシアとして受け入れることになっています。ラビのH・G・エネロウは,1世紀のユダヤ人教師であったイエスに言及し,こう書きました。「分別のあるユダヤ人であれば,一人のユダヤ人が人類に対する宗教教育と指導の面でこれほど大きな役割を果たしたという事実に,関心を持たずにはいられない」。10 メシアとしてこれほど大勢の異邦人に受け入れられているユダヤ人がほかにいるでしょうか。だれかほかのユダヤ人がそれ以上に広く受け入れられる可能性があるでしょうか。それでも,イエスがメシアかもしれないという考えに非常な戸惑いを覚える人々がいます。そのような人たちの主張する理由は吟味するだけの価値があります。

キリスト教世界の背教

5-7 多くの人がイエスの名そのものとキリスト教という言葉そのものに対して怒りを感じるのはなぜですか。

5 非キリスト教徒の大部分にとって,イエスの名そのものに対する嫌悪感を抱かせたのは,その信奉者がキリストの教えに従っているとされるキリスト教世界です。多くの国民はイエスの名により,キリスト教世界の手にかかって苦しみを経験してきましたが,ユダヤ人が他のどんな国民よりも大きな苦しみを味わってきたことに疑問の余地はありません。

6 現代,キリスト教世界における反ユダヤ主義はナチスによるホロコースト(ユダヤ人大虐殺)によって頂点に達しました。多くの要因が関係しているとはいえ,宗教上の憎しみが大きな要因の一つであることは無視できません。また,キリスト教世界の中には否定する人がいるとしても,その虐殺を行なうか容認するかした人々の中に,カトリックとプロテスタントの別を問わず,“クリスチャン”が含まれていたという事実も否定できません。エリー・ウィーゼルは自著「今日のユダヤ人」の中で,ユダヤ人の見方を次のように要約しています。「ヒトラーやヒムラーが教会から一度も破門されなかった事実をどう説明するのか。ピウス12世がアウシュビッツやトレブリンカに対する糾弾を不可欠なものとはもちろん考えず,その必要性さえも認めなかったとはどういうことなのか。親衛隊員の中に,キリスト教とのつながりを最後まで忠実に保った信者がかなり大勢いたということはどうなのか。虐殺を行なう合間に告解に出かける処刑人がいたことについては何と言えるのか。彼ら全員がキリスト教徒の家庭で育ち,キリスト教の教育を受けていた事実をどう説明するのか」。11 ですから,何世紀もの間,ユダヤ人が受けたあらゆる恥辱や打撃と結びついてきた名を持つ人物に対して,ユダヤ人がどれほどの信仰を示せるというのでしょうか。

7 露骨な迫害は別にしても,“キリスト教”の国々は世界の他の部分に道徳面でどんな手本を示してきたでしょうか。戦争,十字軍,“聖なる”異端審問といった手本に過ぎません。第一次世界大戦も第二次世界大戦も“キリスト教”の国々で始まりました。“キリスト教”の道徳律は模範的だったと言えるでしょうか。例えばエイズは,人口の大部分がキリスト教徒を自任する国々で流行しています。キリスト教世界の僧職者のスキャンダルは有名です。巨額のお金をかき集め,王様のような生活を送る不道徳なテレビ福音伝道師たちや,未成年の男子に性的な虐待を加えたことで訴えられるような同性愛の僧職者たちは,クリスチャンではない人たちがキリスト教の特色とみなす事柄のほんの数例に過ぎません。それらは,“クリスチャン”が従うと主張するイエスの名を汚す実なのです。

8-10 (イ)キリスト教世界がイエスと真のキリスト教を代表すると正当に主張できないのはなぜですか。(ロ)聖書はイエスの真の教えからの背教について,どんな警告を与えていますか。

8 それに加え,ユダヤ教もイスラム教も,キリスト教世界に浸透している偶像礼拝に反発を感じていますが,それは正当なことです。マリアを「神の母」としてあがめることのような,キリスト教世界の非聖書的な教理の多くも,そうした宗教にとっては不快なものです。ユダヤ教の真髄と明確に矛盾するものとしてユダヤ人が特に蔑視しているのは三位一体の教理です。ユダヤ教の真髄,つまり一神教の概念は,「聞け,イスラエルよ,主なる我らの神,主はひとりなり」という言葉に具体的に表現されています。―申命記 6:4,ユダヤ。

9 キリスト教世界が仕掛けた迫害,同世界による戦争や不道徳行為,偽善,冒瀆的な教理などは,クリスチャン以外の人たちだけではなく,全能の神の目にも許し難い事柄です。そのような理由で,エホバの証人は,イエス・キリストの追随者ではあってもキリスト教世界のものではありません。一方,キリスト教世界は真のキリスト教のものではありません。現に,キリスト教世界と初期クリスチャンの唯一の類似点は,イエスの名を用いていることだけです。しかし,イエスの教えが非常に良く,非常に実際的なものであり,その点で際立っているのであれば,どうしてそのような背教が生じたのでしょうか。

10 実を言えば,偽クリスチャンが起こり,イエスの正しい教えからの背教があることは,イエスご自身とクリスチャン・ギリシャ語聖書の筆者たちによって預言されていました。クリスチャン・ギリシャ語聖書とは新約聖書のことですが,新約聖書という呼び方は正確ではありません。(使徒 20:29,30。テサロニケ第二 2:1-12。テモテ第一 4:1-3。ペテロ第二 2:1,2)マタイ 7章21節から23節によると,メシアご自身,その背教者たちの実態ゆえに彼らを裁き,「わたしは決してあなた方を知らない,不法を働く者たちよ,わたしから離れ去れ」と言われます。―新世。マタイ 13:24-30,37-43と比較してください。

付加的な聖書がどうして必要だったのか

11,12 (イ)クリスチャン・ギリシャ語聖書とは何ですか。(ロ)その聖書を書いたのはだれですか。(ハ)それらの書物が神の霊感によって書かれる必要があったのはなぜですか。

11 最初,イエスの追随者はすべてユダヤ人でした。実際,「祭司たちの大群衆」を含む何千人もの1世紀のユダヤ人が,イエスを『モーセのような預言者』,つまりメシアとして受け入れました。(使徒 2:5,37,41; 4:4; 6:7。申命記 18:18)これらの同じユダヤ人が,モーセのようなこの預言者を仲介者とする「新しい契約」を基盤として合法的に確立された,エホバ神の新しい国際的な崇拝者たちのグループの土台となりました。―エレミヤ 31:31-34。

12 新しい契約に伴って,霊感を受けたさらに別の書物が必要になりました。それは,この新しい契約の取り決めのもとで神に仕える人々のために必要な,付加的な情報を提供する書物です。これらの書物,つまりクリスチャン・ギリシャ語聖書は,すべてユダヤ人によって書かれました。それらの書物はイエスの生涯と教えについて伝え,ヘブライ語聖書に記された多くの預言に関する詳細を教え,さらには,神の目的におけるメシアとその役割に関係した要点を明確にしています。それに,崇拝者たちの新しい国際的な一団に諭しと励ましを与える手紙も含まれています。a

イエスは約束のメシアだったのか

13-16 1世紀の多くのユダヤ人が,イエスはメシアであると確信したのは,どんな事柄のためですか。

13 しかし,イエスは当時の宗教指導者たちから退けられたのではないでしょうか。その通りです。彼らは次に一般の人たちに影響を及ぼしました。しかし,エレミヤも他の預言者たちも,当時の宗教指導者たちから退けられたのではないでしょうか。(エレミヤ 7:25,26; 20:1-6。歴代第二 36:15,16)イエスの世代の中で,イエスを信じ,イエスの教えと業,それにイエスに関する預言についてじかに調べる機会に恵まれた人々は,宗教指導者たちが宗教的な独占権が脅かされるのを見て反対しても,思いとどまりませんでした。それら誠実なユダヤ人たちは,個人的に目撃した事柄のゆえに,メシアに関する預言がイエスに成就したことを確信しました。それら1世紀のユダヤ人がどんな危険にさらされても,時には死の危険にさえさらされても,約束のメシアとしてのイエスに対する信仰を喜んで宣言できたのは,どんな強力な証拠があったからでしょうか。―ヨハネ 9:22; 16:2。

14 第一に,時が適切でした。メシアに関するダニエル 9章の預言は,メシアが第二の神殿の滅びる前に登場することを指摘しています。b ―ダニエル 9:24-27。

15 第二に,その人物そのものが適切でした。その人物はユダ族の人で,ダビデ王の子孫でした。(創世記 49:10。歴代第一 17:11-14。マタイ 1:1-16; ルカ 3:23-31と比較してください。)また,その人物はベツレヘムで誕生しましたが,1世紀のユダヤ人の間では,メシアの誕生する場所として定められているのはベツレヘムであると一般に理解されていました。c (ミカ 5:1[5:2,新世]。マタイ 2:4-6; ルカ 2:1-7; ヨハネ 7:42と比較してください。)このすべては,イエスの時代のユダヤ人が,メシアなら身分証明の手段として備えているに違いないと考えていた重要な信任状でした。

16 次に,その人物の教えが適切でした。それは政治的もしくは法律的な教えではなく,霊的で倫理的な教えでした。d その人物は,実に分かりやすく問題の核心に触れました。さらに,当時の習慣に反し,最終的な権威として以前の宗教指導者の言葉に訴えるのではなく,あえて聖書にのみ訴えました。この方法は群衆を驚かせました。「権威のある人のように教えておられ,彼らの書士たちのようではなかった」からです。(マタイ 7:29,新世)イエスの生涯に関する記述は,個性が極めて強力であることと,教えが極めて明快であることを明らかにしているので,歴史家たちはイエスが神話上の人物ではないと主張できる一つの理由として,その点を挙げています。e

17-20 (イ)メシアの到来の時期とメシアの犠牲の死の時期について述べているのは,ヘブライ語聖書中のどんな預言ですか。(ロ)メシアが死ななければならなかったのはなぜですか。

17 メシアに関係するものとして昔から受け入れられていたヘブライ語聖書の数々の預言は,イエスの苦しみと死を通して成就しました。そのような預言は,メシアの死を罪の許しと結びつけています。メシアの死によって備えられたこの贖罪は,クリスチャン・ギリシャ語聖書の中で「贖いの犠牲」と呼ばれています。(マタイ 20:28。ローマ 3:24)そうした預言には,どんなものがあったでしょうか。

18 ダニエル 9章24節と25節(ユダヤ)の預言の言葉に注目してください。「汝の民と汝の聖都に七十週定め置かる。こは,違犯を終了させ,罪を終わらせ,罪科を許し,永遠の義をもたらさんためなり。……油そそがれし者[「メシア」,ヘブライ語,マーシーアハ]なる君に至るまで」。この聖句の中で,「メシア」(油そそがれた者)と『違犯を終了させ,罪を終わらせること』がしっかり結び合わされていることに注目せざるを得ません。さらに26節は,「その六十と二週の後に油そそがれし者[「メシア」,ヘブライ語,マーシーアハ]は断たれ(ん)」,言い換えれば,殺されると述べています。(「『油そそがれた者』とはだれか。その者はいつ到来するか」の囲み記事をご覧ください。)

『油そそがれた者』とはだれか。その者はいつ到来するか

ダニエル 9:24(ユダヤ): 「汝の民……に七十週定め置かる」。

ここに述べられている期間にはどんな目的がありますか。

『罪を終わらせ,罪科を許し,永遠の義をもたらし,幻と預言者に証印を押さんためなり』。この言葉だけを見ても,これが聖書の最も重要な預言の一つであることが分かるでしょう。

ダニエル 9:26(ユダヤ): 「その六十と二週の後に油そそがれし者[「メシア」,ヘブライ語,マーシーアハ]は断たれ,もはやおらざるなり」。その節の続きにある,「また,来たるべき一人の君の民,都と聖き所とを滅ぼさん」という言葉から分かるように,メシアが断たれること,つまりメシアの死は西暦70年における第二の神殿の滅びの前に生じることに注目してください。

ユダヤ教の注釈者たちはこの預言をどのように理解していますか。

ユダヤ教の注釈者たちにとって,この預言に関する一つの標準的な定説と言えるような解釈はありません。この預言の一部を,バビロンでの流刑からの帰還(西暦前537年)と関連づけようとする人もいれば,ギリシャ化を企てる勢力に対するマカベア家の反逆の期間(西暦前168-165年)と関連づけようとする人もいます。また,西暦70年にローマ人が第二の神殿を滅ぼしたこと,さらには,これから先のメシアの到来と結びつける人たちもいます。

全体的に,現在のユダヤ教による解釈は,次のような二つの基本的な点で欠陥があると言えるかもしれません。

  1. 彼らはここに明言されている目的,つまり罪と罪科を終わらせ,永遠の義を確立するという目的を完全に無視し,この預言の重要性を過小評価しようとしています。

  2. 標準的なこれらの説明のどれを取っても,道理にかなった時の計算と厳密には合致しません。成就の時を見定めるために使えるような形でダニエルにこの預言が与えられた目的は,まさしくそうした計算を行なうことでした。―ダニエル 9:2と比較してください。

この預言に関して,明言された目的とも歴史的事実とも調和する説明がありますか。

次の点に注目してください。

七十週: ユダヤ教の注解者たちはほぼ共通して,これは週年のことである,言い換えれば490年を意味すると理解しています。このことは,「各々一日に対して一年」という聖書の預言的計算法と調和しています。―民数記 14:34。レビ記 25:8。エゼキエル 4:6。

「エルサレムを修復し,建てよという命令のいづるより」(ダニエル 9:25,ユダヤ): ネヘミヤは,エルサレムを修復して建て直す任務が与えられたのが,アルタクセルクセス王の第20年であったと述べています。これは西暦前455年のことでした。―ネヘミヤ 2:1-8。ものみの塔聖書冊子協会発行の「聖書に対する洞察」,第2巻,380-382,782-784ページをご覧ください。

七週: 七週(年,つまり49年)は,その都市エルサレムの修復の完成に要する期間と関連しています。

六十二週: 六十二週(年,つまり434年)は,都市が完成してからメシアが到来するまでの期間と関連しています。i

この二つの期間を合計すると,69週年,つまり483年になります。起点となる西暦前455年から数えると,第69週の終わりは西暦29年になります。

西暦29年: ベツレヘムで生まれ,ナザレで育てられた,ダビデの家系のイエス(ヘブライ語,エシュア)という名のユダヤ人がイスラエル全土で伝道を開始します。―ルカ 3:1-3,21,22。

「そして,その六十二週の後にメシアは断たれる」。(ダニエル 9:26,新世): イエスは3年半にわたる伝道活動の後,西暦33年に殺されます。このことは,ダニエル 9章27節の内容と一致しています。

「彼は犠牲と供え物とを絶えさせる」。(ダニエル 9:27,新世): イエスはご自分の死を犠牲と呼ばれました。(マタイ 20:28)それによって,律法契約のもとで捧げられた犠牲は,神の目から見て最高潮に達しました。(ヘブライ 8:1-13)イエスの犠牲の死は,ダニエル 9章24節で述べられている事柄全体の基盤となりました。

それは罪の許しをもたらします。

それは神の約束と預言を確証しました。

それは,神の規準にしたがって,将来における永遠の義のための法的な基盤となりました。

このすべては,預言が示していたとおり,第二の神殿が滅ぼされる前に生じました。

過去の成就を示す他の説明はどれも,明言されている目的と合致していないのではないでしょうか。

この預言が将来に成就すると言うなら,その成就は70週年という一定の期間から大幅に外れ,エルサレムの第二の神殿の滅びる前には当てはまらなくなってしまいます。

i この時間の区切り方に関しては,現代のヘブライ語本文に見られる母音点法(最初のヘブライ語本文には母音符合つまり母音点法はなかった)によって別の理解が生まれていますが,この母音点法は元々存在していたものではなく,中世に書士たちによって付け加えられたものです。それらの書士たちはこの聖句がイエスに成就したという解釈に反対して行動していたようです。

19 メシアが贖罪の犠牲として『断たれる』つまり殺されることに関連した別の聖句は,イザヤ 52章13節から53章12節にあります。(「『わたしの僕』― だれのことか」の囲み記事をご覧ください。)1世紀のラビは中世のランバムなどと同じように,この聖句をメシアに当てはめました。この聖句から,許しがメシアおよびその死と関連していることは非常に明確になります。

「わたしの僕」― だれのことか

「『実際,わたしの僕は……さげすまれ,人々に忌避された。……わたしたちは彼を取るに足りない者とみなした。しかし,わたしたちの病を彼が負っており,わたしたちの苦しみを彼が忍んだ。……しかし,彼はわたしたちの罪のゆえに傷つけられ,わたしたちの罪悪のゆえに打ち砕かれた。……わたしたちは皆,羊のように道に迷った。……そして主はわたしたちすべての罪科をその者に課された』。……彼は不公正を行なったことはなく,偽りを語ったこともなかったが……『わたしの義なる僕は多くの人を義なる者とし,彼らの処罰を負うのである。……彼は自らを死に遭わせ[「自分の魂を……注ぎ出し」,新世],罪人の一人に数えられたが,彼は多くの人の罪科を負い,罪人たちのために執り成しを行なった』」― イザヤ 52:13–53:12。

ここでイザヤは,全く罪のない浄い人物について説明しています。その人の苦しみと死によって彼自身の国民の贖罪,彼を受け入れなかった国民の贖罪が行なわれたのです。

しかし今日,ユダヤ教注釈者たちの大半は,ここで言及されているのはイスラエル国民全体,あるいは同国民の中の義にかなった一つのグループであるということを,疑う余地のない事実として受け入れています。

ここで問題になるのは,イスラエル国民,もしくはその一部が,かつてこの描写に適合したことがあったか,それともこれは一個人に適用されるのか,ということです。

イザヤがこの預言の言葉を書き記した時(西暦前732年ごろ)以降,800年余りの期間に関しては,この「僕」を集合的な意味にとらえるべきであると教えたユダヤ人やラビがいたという記録はありません。この期間を通じて,この預言は例外なく一個人を指すものと理解され,一般にはメシアに関する預言とみなされていました。

それに加え,「ユダヤ人の解釈者によるイザヤ書 53章」という本の序文にある説明にも注目してください。「アモラの時代の終わりまで[西暦6世紀まで]続いていたユダヤ教の解釈によると,ここで言及されている人物がメシアであるという考えは,当時,疑問の余地のない事実とみなされる場合が多かったようだ。というよりは,広く一般にそのようにみなされていたのかもしれない。そのしばらく後のタルグムも,もちろんそのような解釈をしている」― H・M・オルリンスキー編,1969年,17ページ。

この聖句は一個人,まさしくメシアに言及しているという最も自然な理解を退け,別の解釈を加えようとする動機は一体何だったのでしょうか。それは単に,この預言とイエス,つまりこの預言のどんな詳細な描写にも合致した1世紀のユダヤ人との関係を一切否定しようとする努力だったのではないでしょうか。

20 上記の理由から,メシアの死により,神のみ前において罪の完全な許しが得られるという教えは,1世紀の多くのユダヤ人が難なく理解できるものでした。彼らは,聖書が人間の生来の不完全さについて述べていることを知っていました。(伝道の書 7:20)罪を贖うために犠牲が必要であることは,毎日の生活で実感する教訓でした。そのことは律法契約の枠組みや性質そのものの中に暗に示されています。イエスの生涯に関する記述に描写されている出来事は,イエスが完全な人間であって,その死が人間の罪を贖い得ることを示しています。f (マタイ 20:28。ルカ 1:26-38)クリスチャン・ギリシャ語聖書の中で,律法下における種々の犠牲は最終的で完全なこの一つの犠牲を予示していたということが強調された時,律法の枠組み全体と聖書の他の部分に一層十分な意味が付与されました。g ―ヘブライ 10:1-10。

モーセのような,信頼できる預言者

21,22 (イ)エルサレムの滅びに関する歴史的な出来事は,イエスが真の預言者であることをどのように証明していますか。(ロ)現代に関する歴史的な出来事も,どのようにその点を証明していますか。

21 クリスチャン・ギリシャ語聖書はイエスの死を贖いの犠牲として説明することに加え,『モーセのような預言者』としてのイエスの役割をも強調しています。(申命記 18:18。第3部「人類に関する神の目的は何ですか」の17節から19節をご覧ください。)イエスはそのような方として,エルサレムの滅びを預言し,弟子たちに対して,エルサレムが軍隊に囲まれるのを見たならその都市から逃れるよう教えておられました。(マタイ 23:37–24:2。ルカ 21:20,21)しかし,軍隊に包囲された時に,どうすれば都市から逃れることができるのでしょうか。ユダヤ人の歴史家ヨセフ・ベン・マッタティアフ(ヨセフス)は自らそれらの出来事の目撃証人となった人ですが,次のようにその答えを記しています。「ケスティウス[ローマの指揮官,西暦66年]……は敗北を喫したわけではないのに,突然に部下たちを去らせ,望みを捨て,全く道理に外れたことであるが,同市から撤退した」。13 こうして,クリスチャンが同市から逃れるのに必要な出口ができました。その4年後の西暦70年,今度はティツス将軍の率いるローマ軍が戻って来て,再び同市を包囲します。イエスはエルサレムに関して,敵が『先のとがった杭で城塞[を築き],都市を取り巻いて四方から攻めたてる』ことを預言していました。(ルカ 19:43,新世)ティツスが半径約16㌔にわたる田園地帯から樹木をはぎ取り,先のとがった杭で長さおよそ8㌔ほどのそうした城塞を築いたことは,ヨセフスによって確証されています。イエスの預言はローマ人の手による滅びを避ける方法に関する精確な指示を与えていましたが,その預言の正確さは,それらの指示に注意を払った人すべての命が救われたという事実によって証明されています。―ルカ 21:20-24。

22 イエスは神が将来にすべての悪と,悪を引き起こす者たちを滅ぼされることについても預言されました。ルカ 21章24節(新世)でイエスは「諸国民の定められた時」に言及し,神が人間による支配を許す期間の限界を設けておられることを示しました。h また,人間による支配の終わりの日が,戦争,飢きん,地震,疫病,犯罪,暴力などによってしるし付けられること,人間による支配の終わる前には,神の政府が天から支配していることをあらゆる国の人々に知らせるための世界的な教育活動が行なわれるということも予告されました。(マタイ 24:3-14; ルカ 21:10,11をご覧ください。)エホバの証人は1914年に「諸国民の定められた時」が終わり,その時からこの大規模な複合のしるしがはっきり見えるようになったことを信じています。そのずっと前から,彼らは1914年が人類史上顕著な年になることを告げ知らせてきました。その年の8月に第一次世界大戦が始まった時,この点に関する彼らの期待の正しさが確証されました。実のところ,神から何らかの幻を与えられていたエホバの証人は一人もいません。彼らは聖書の勤勉な研究によってこうした結論に至ったのです。

平和の道について教育を受ける諸国民

23 イエスはどのようにして,神の王国の任命された王になることができましたか。

23 しかし,贖いの犠牲を備え,モーセのような預言者になるというメシアの役割は,神の目的の遂行におけるメシアの役割の最終的な側面,つまり神の王国の任命された王になるという側面が成就しなければ,ごく限られた価値しかなかったでしょう。(イザヤ 9:5,6[9:6,7,新世])しかしイエスは,死んだというのに,どのようにその立場を保持できたのでしょうか。メシアに関する預言に調和して,神はイエスを死後三日目に復活させました。(詩編 16:8-11。イザヤ 53:10,12。マタイ 28:1-7; ルカ 24:44-46; 使徒 2:24-32; コリント第一 15:3-8と比較してください。)イエスが自分の完全な人間の命を犠牲としてささげたため,神はイエスを人間としてではなく,強力な霊の被造物として命に回復させ,神の右でさらに別の指示を待つようにさせました。―詩編 110:1。使徒 2:33-35。ヘブライ 10:12,13。

24-26 エホバの証人はどのようにイザヤの預言の成就にあずかっていますか。

24 ダビデ王は,メシアが支配を開始する時に『神の民が進んで自らをささげる』と書きました。(詩編 110:3)あの顕著な年,1914年以来,世界情勢は悪化の一途をたどってきましたが,預言の積極的な面も成就しています。神の民は『あらゆる国民に対する証しのために,人の住む全地で王国の良いたより』を宣べ伝えることを目的として,自発的に進んで自分の時間をささげてきました。(マタイ 24:14,新世)例えば,証人たちは毎年,神の王国について人々に語り,事実を調べることに関心を持つ人々との家庭聖書研究を無償で司会するため,幾億時間も費やしています。

25 その時間すべては無償で費やされています。その活動を行なっているのは,あらゆる階層,あらゆる年齢層,ありとあらゆる職業の人々です。そのような人たちのことが,イザヤ 2章3節では次のような言葉で描写されています。「もろもろの民は行って,こう言う。『来なさい。主[ヘブライ語,יהוה,エホバ]の山に……上ろう』」。これは単なる“人数を集める”運動ではありません。次のような二つの目的を持った世界的な教育計画なのです。その目的とは,(1)神の王国が支配していることをあらゆる国の人々に知らせ,王国が間もなく行なう事柄を正確に告げること,そして,(2)事実を調べ,神の願いのとおり生ける神に仕えたいと思うすべての人に,無償で教育を施すことです。この活動の成功と預言の成就は保証されています。なぜでしょうか。エホバ神ご自身が後押しをしておられるからです。―ゼカリヤ 4:6。

26 エホバの証人の活動をイザヤ 2章3節のこの預言の成就と見るのは道理にかなったことではないでしょうか。あなたはこの業を行なっているだれかほかの人をご存じですか。また,2,000年ほど前に預言された音信で,前例がないほど混乱した時代にふれ告げられるべき音信について語るため,幾百万という人々が自分の生活の時間を割いているのは,単なる偶然だと思われますか。確かに,この終わりの日に『諸国民に対する光』となってきたのは,エホバの証人です。(イザヤ 42:6; 49:6)メシアが諸国民のための「旗じるし」であることを宣明している彼らこそ,そのメシア,つまり「エッサイの根」の指示のもとで国際的な兄弟関係を保ちながら,一致と平和のうちにエホバ神に仕えている唯一の人々なのです。―イザヤ 11:10,新世,ユダヤ。

テルアビブで伝道するエホバの証人

エホバの証人は,ここテルアビブだけではなく,世界中で,神の目的とご要求についてもっと学ぶよう,あらゆる国の人々を招く活動に活発に携わっている

a これらの書物は自己矛盾をきたしているとか,ヘブライ語聖書と矛盾しているとか言う人たちがいます。しかし,矛盾とされるそれらの箇所を調べてみると,実際にはそうではないことが分かります。事実,この場合も,ヘブライ語聖書自体の矛盾点とされている箇所に当てはまるのと同じ原則が当てはまります。(第2部「聖書 ― 神の霊感を受けたものですか」の9節から12節をご覧ください。)クリスチャン・ギリシャ語聖書を構成する書物を書いた人々をはじめ,初期クリスチャンはすべてユダヤ人だったので,彼らは反ユダヤ主義を奨励しませんでした。それは,それよりも前に,当時の宗教指導者たちを糾弾したユダヤ人の預言者たちが,反ユダヤ主義を奨励していなかったのと同じです。

b 1世紀のユダヤ人の間でこの預言は,自分たちの生きている時代に成就するものと一般に理解されていました。(ルカ 3:15)17世紀のラビ,メナセ・ベン・イスラエルは自著「デ・テルミノ・ビタエ」(「生命の終わりについて」)の中で,次のように書いています。「ある者たちはこれらの70週を次の意味に取るのを常とした。すなわちその期間の終わりにメシアが現われ,彼らを全世界の支配者にするということである。事実,当時ローマに対して武装蜂起した者たちは皆この考えを抱いていた」。

c 古代ユダヤ人のアラム語によるパラフレーズ,つまりタルグムによると,ミカ 5章1節はこうなっています。「汝[ベツレヘム]よりメシア我が前に出ずべし」。

d ユダヤ人の歴史家ヨーゼフ・クラウスナーはこう書きました。「倫理的な考えがすべてであったイエスのような人物は,当時のユダヤ教において,それまで聞いたこともない存在だった。……そのため,イエスの倫理的な教えは,ピルケー・アボトや,タルムードやミドラシュ関係の文献の教えを上回っているかもしれない。イエスの教えは,広範にわたる法規や世俗的情報の中でも失われていない」。12

e イエスの生涯と宣教を徹底的に網羅した資料としては,「イエス 道,真理,命」という本をご覧ください。

f 使徒パウロはイエスを「第二のアダム」と呼び,イエスの死はアダムから受け継いだ罪の贖いをもたらしたと述べています。(コリント第一 15:45-47。ローマ 5:12,15-19)そのような取り決めが肝要である理由を述べたさらに詳しい情報については,第3部「人類に関する神の目的は何ですか」の15節と16節,および脚注をご覧ください。

g この点に照らして見ると,アブラハムの物語全体が新しい意味を帯びてきます。神がアブラハムに息子を殺すよう求めたのは,信仰を試すためだけではなく,描画的な劇を演じて,神ご自身が人間のとこしえの益のため,自分の愛する者を犠牲にするつもりであることを人間に理解させるためでもありました。備えられるのは,ほかならぬアブラハムの胤であり,神はその胤を通して『地のすべての国の民が自らを祝福する』と約束しておられました。(創世記 22:10-12,16-18。ヨハネ 3:16と比較してください。)これを単なる偶然の一致であるとか,頭の良い人間の創作であるなどと考えるには,類似点や考え方があまりに明快で具体的です。

h イエスは「諸国民の定められた時」という表現を用いた際,ダニエル 4章10節から34節(4:10-37,新世)の預言に言及しておられたようです。この預言の詳細な説明に関しては,「聖書は実際に何を教えていますか」という本の付録にある「ダニエルの預言が予告していたメシアの到来」をご覧ください。

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