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  • 死 ― 何の門口?
  • エホバの王国を告げ知らせるものみの塔 1954
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エホバの王国を告げ知らせるものみの塔 1954
塔54 12/1 505–508ページ

死 ― 何の門口?

死は敵ですか,それとも友ですか? 行き詰まる街路ですか,それとも生命にいたる門口ですか? どんな状態が死人を待つていますか? 彼らはめぐまれますか? それとも苦しめられますか? それとも静かに休んでいますか? もしも行く人があるとするならば,一体誰が天へ行きますか? 今までに誰か死の国土から戻つて来て,そのことを述べた人がありますか? 誰かがそこから戻つて来てそのことを述べると期待できますか? 人々の意見は種々さまざまですが,しかし聖書は何と言つていますか? この記事はそれについての権威ある答を与えております。

今年の初めの,ある日曜の説教で,ニューヨーク市の神聖なる聖ヨハネ大会堂の,有名なパイク司祭長は『人間の多くの者は,死に対して覚悟をしておらない。死というものは,どうも私たちが考えるような具合には行かないものである。』と語りました。

それはほんとです。死について考えたり,言つたりすると,人間の心は本能的に尻ごみします。パイク司祭長は続いてこう言いました。『私たちは,「あの方は他界した」とか,「逝去した。」というやわらかな言い方を用いて,私たちの不安を覆いかくしたり,あるいは職業的葬儀屋は,不徹底な定義の「眠り」や「楽園」について語りながら漠然とした靄に包んでしまいますが,彼らのそのようなやさしいたわごとを聞いて私たちは不安をおおいかくしたりします。』

いろいろ試みられた定義の内のある例は,避けられない事から,どうかして逃れようとする人間の心を,真にせまる絵として描き出しています。死は『栄光ある冒険であり……神々しい昇進である。』と呼ばれ,『存在の他の形に移る門口である。』と呼ばれ,また『永遠の自由に入るところの,開かれたとびらである』と呼ばれています。他の者はこう断言します。『私は,個人の意識は,私たちが死と呼んでいるところの,肉体上の挿話の衝撃を引きつづき残しているものと信じます。』『私はどんな部分でも,またどんな風にでも,決して死なないでしよう。私のすべて,ほんとの私のすべて,私自身は死をまぬがれるでしよう。』『ゆえに私は,「死はない ― そう見えるものは移り変りである。」ということを望み,そして信じさえします。』

『では,あなたは一体どのようにして死をまぬがれるように謀りますか?』と疑いを抱く者はたづねます。すると,やさしい微笑を浮べて宗教的友人は彼に知らせます。『わかつているではありませんか,あなた。あなたはほんとに死ぬのではありません。内部のあなた,あなたの不滅の魂,あなたの内部にある神の不死の活力は永遠に生きます。』カトリックのある権威者はこう言います。『魂は死体と生物との間の差です……それは霊の力があたえられ……そのため魂は肉体を確れた時に,生きて働くことができます。物質的のものでないから,それは決して亡ぼされることができません。』それでは死ぬとどんなことが起りますか? 長老教会のある権威者はこう言います。『その時完全に聖くされた義人の魂は最高の天に受け入れられ……そして悪人の魂は地獄に投げこまれます。』そしてそこで何が待つていますか? 福音伝道師のビリー・グラハムは次のように答えます。『天は実際の場所です……そこには金の街路と真珠の門があり……そして木々は毎月ことなつた種類の果をむすびます。それは何と栄光に満ちた所でしよう。』そして地獄については,『そこでは泣くことと,なげきさけぶことと,歯がみすることが行われるでしよう……地獄には実際の火があると私は信じます。もしも地獄に実際の火がないならば,地獄の火焰について聖書が語つていることは,何かもつと一層悪いことについて語つていることになります。それがどのようなものでありましようとも,非常に恐ろしいので人間の言葉で表現することはできません。』

しかし多くの人々は,言わば,自分が天に行く価値はないし,といつて,たしかに地獄に投げ入れられるに相当しないと感じながら,その両方にまとわれていることに気がつきます。これらのためにカトリックの教理は一つの便利な場所を用意しました。『天に行くほどに全く善くはないが,しかし地獄に入れられるほどに悪くない人々が居る。そしてこれらの人々は,天に行けるように十分に清められるまで煉獄に送られる,というこの考えは何と愉快な考えだろう。』と彼らは思います。

あなたはどれが良いと思います? どの考えがあなたの宗教生活のためになるように,最もあなたを奮いたたせますか? 天の利益ですか? または地獄の苦痛ですか? 火のように恐ろしい未来についての嚇しは,改心者たちを得るために,そして彼らを保つておくために,欠くことのできない思想です。そして統計はこれを支持しているようです。例えばビリー・グラハムが〔前に述べたように〕『天の有様を絵のようにくわしく述べたために,145人の聴衆がキリストに誓うために,彼らの足もとに来ました。しかし彼がその夜,地獄のことを述べた時には350人が署名しました。』

このような教えは一体あなたに何を与えますか? 満足ですか? 恐怖ですか? 多分ある人は混乱させられて,こう考え深くたづねました。『愛の神はたとえ悪人であつても,人々をその罪過のために,はなはだしい苦痛を降して永遠に彼らを苦しめることが,どうしてできますか?』 アドルフ・ヒトラーは人々を生きながら巨大な窯に入れて焼きましたが,彼がおこなつた狂気の乱暴は文明世界の戦慄でありました。人々はこの事に注目しながら,こうたづねました。『神はヒトラーよりもつと悪いですか? ヒトラーの犠牲者たちは少くとも最後には情深い忘却のかなたへと去つて行きました。それなのに神は御自分の犠牲者たちに対しては,それを全然許しません。彼らは永遠にロース焼きされ,油で揚げられ,窯で焼かれ,グラグラ煮られなければなりません!』このような無慈悲を示すことのできる神と,そして天に厭気を起した人々は沢山あります。

救助のための神の言葉!

『死の恐怖のために一生涯奴隷として従わされていたすべての人々』(ヘブル 2:15,新世)を解きはなつために,神の言葉の声がするどく,はつきりとひびいて来ます。これについて単なる人間の哲学で考えたり,『教養のある臆測』をしてはいけません。人間の魂を作つた神は,罪の結果の運命を私たちにこう告げています。『罪を犯せる魂は死ぬべし。』それはどういうことですか?「油で揚げられるのでしようか?」 いいえ!『死ぬべし』です。

これについての真理は,何が魂を構成しているかを述べた神自身の記述によつて確証されています。実際神は最初の人間の魂を構成している部分を,次のように書きあらわしています。『ヱホバ神は土の塵で人を形づくり,生命の息をその鼻に吹き入れられた。それでその人は生きている魂となつた。』神がこのように人間の中に吹きこんだのは魂でなかつたことに,どうぞ注意してください。魂というものを,あたかも肉体の人間から離れて存在できる無形の物のように思つてはいけません。人間の魂を作るには,『生命の息』を吸いこむことと,『土の塵』で作られた肉体とが必要です。人間は魂を持つていませんでした。人間が魂でありました。それゆえ塵の肉体と生命の息とが離れることは,魂の死を意味します。

もしも魂が死ぬことができないならば,ヨシュアの軍勢がハゾルの町を占領した時,なぜ『彼らは剣の刃をもつて,その中のすべての魂を打ち殺した』のでしようか? なぜダビデは彼の敵が『獅子のように私の魂をかきやぶり,それをずたずたに引きさくことのないように,』敵から救つてくださいと神に祈つたのでしようか?(ヨシュア 11:11,新世。詩 7:2)逃れられない確実な結論は,魂は破壊の道具でさわることができるということ,そして魂は死ぬことができ,また実際に死ぬということです。

『しかし天についてはどうですか?』

『たしかにダビデはそのような最後を受けることはできませんでした。』と批評家たちは抗議します。『彼と,彼の前後のすべての忠信者たちの不滅の魂は,彼らを待つている非常にすぐれた天の栄光を受けました。現世の品物,しかも力強い,または鋭い現世の品物が,栄光に入る道にある彼らの魂をさまたげることはできませんでした。』ああ,しかしダビデの『魂』は彼が死んだ時に実際に天へ行く道をフワフワ進んで行つたのでしようか? 使徒ペテロはきつぱりとこう答えます。『ダビデは……死んで葬られ,その墓は今日まで私たちの中にある……ダビデは天にのぼらなかつた。』(使行 2:29,34,新世)ダビデも丁度アダムのように,魂を持つていませんでした。彼は一つの魂でありました。そして魂であるダビデは死んで葬られ,使徒の時代にはまだ天にのぼつていませんでした。その上キリスト・イエスご自身を別にして,ほかには誰も天にのぼつた者はおりません。イエスの明らかな言葉は言い破ることができないで,常に堅く立つています。『天から降つた人の子のほかに,誰も天にのぼつた者はない。』(ヨハネ 3:13,新世)イエスは天にのぼつた人々の『最初の実』でありましたから,ほかの誰もイエスに先立つて天にのぼることはできません。(コリント前 15:20)その上さらに『私の居るところに彼らもまた私といつしょに居るように,私は望みます』とのイエスの特別な祈りは,この天への望みが開かれた時でさえそれは全く特別なご準備であつて,それは全人類のためではなくて,ただ貴いわづかな御国の世嗣の『小さい群』だけのためであることを示しています。―ヨハネ 17:24。ルカ 12:32,新世

地獄はどこにあてはまりますか?

さて次のような質問がおこります。『もしも,ほんの少しの人々だけが天へ行くなら,今までにこの地上に住んでいた他のすべての忠信な男女はどうなるのですか?』 愛する息子ヨセフが死んだと思つた忠信なヤコブは,物悲しく沈んでこう言いました。『私はなげきながらショオールの中の私の息子のところへ降つて行くであろう。』(創世 37:35,新世)ショオールはヘブル語であつて,英語の翻訳者たちはこの語を『地獄』と翻訳しました。それですから『地獄』は正しいヤコブが行くことを予期した場所であります。これに驚いてはいけません。なぜならば正しいヨブさえ,そこへ行くことを祈りました! 彼はこう言いました。『おお,私をショオールにかくしてください!』―ヨブ 14:13,ア標。

これは衝撃をあたえる言葉ですか? いいえ,全くそうではありません。というのは,たしかにこれらの人々は苦痛を受ける価値がありませんでしたし,また,たしかにヨブは地獄が苦痛の場所であると思いながら,そこへ行くことを祈つたのではなかつたからです。それは面倒をまねくでしょうか? いいえ,そうではありません。『生きている者は死ぬことを知つている。しかし死んだ者は何事も知らない……あなたが行くところのショオールには業も謀計も知識も知慧もないからである。』(伝道 9:5,10,ア標)ショオール,またはハーデスはただ人類の普通の墓であります。

しかし欽定訳マコ 9:47,48に言われる『地獄の火』とは何ですか? まことにイエスはそのところで『地獄の火に投げ入れられる……そこでは彼らの蛆つきず,火も消えない』ということの,好ましくないことを示しました。しかしここに用いられた『地獄』の語は,これまで述べられてきたショオールとハーデスのどちらの語の翻訳でもありません。それはゲヘナの語の翻訳です。それゆえこの本文は,ショオールまたはハーデスの状態について語つた人々とつなぎ合わせることはできません。なぜならば前に述べた聖句はショオールまたはハーデスの語が示す場所には知識も謀計も知慧もないことが示されておりますから,たとえ,そこにそのような火が存在していたとしても,そこには苦痛の感覚もあり得ませんし,また火で苦しむ能力もあり得ません。

では,このゲヘナという新しい語は何ですか? このギリシャ語はゲイ・ヒンノム,または『ヒンノムの谷』というヘブル語の表現から来ていますが,この語はエルサレムの西南の城外の,その名がつけられた昔の谷に関係しています。この谷はごみくづ,汚物,肉の廃物,死んだ動物の死体,および,あまり悪いのでよみがえらないと考えられた犯罪者の死体を処分するための,市のごみ捨場,ごみ焼場となりました。ゲヘナは全き滅亡を象徴するようになりました。硫黄を加えて,たえずもえ続けるようにし,そしてさらにはげしくもえるようにしたのは,実に火が過度の熱をあげるようにするためでありました。谷のでこぼこの傾斜面は捨てられた廃物で覆われて,蛆の孵化場となりました。

それですから前に引いたイエスの言葉は生きているものが苦しめられる場所を指して言つたのではなくて,死んだもの,悪いけがらわしいものが火葬にされ,灰にされ,亡ぼされる場所を指して言つたのであります。彼の言葉はこれらのことを見なれているユダヤ人の心に,悪人たちを待つている運命についての幻想を起させようとして語られたのであります。その運命は,末の日にイエスの僕たちに反対する山羊のような反対者たちに向つて,イエスが告げた運命と同一のものであつて,それは過熱されたごみ焼場のごみくづのように完全に亡ぼされ,『永遠に切断される』ことであります。―マタイ 25:41,46,新世。

死人にどんな希望がありますか?

『よい質問です。』とある人は言うでしよう。『もしも,ほんのわづかの人々だけが天に行き,そして他のすべての人々は,ショオールまたはハーデスに休むために行くか,または,ひよつとしたら完全な最後の絶滅のゲヘナに行くのであるなら,私たちは一体どういうことになるのだろうか? 精々休むということだけに希望をかけて,現世の後の将来などについては忘れてしまう方が良さそうだ………。』しかし,そうではありません。私たちは無理にこのような悲観的な結論をしてはいけません。なぜならば再び神の言葉は,それに頼ろうとするすべての者のための救助となると共に,強固な,ほんとにしつかりした希望となるからです。

その希望は,よみがえりでありまして,これは聖書全巻を通して最も強い主題の一つであります。『アブラハムは……神は死人の中から〔イサクを〕よみがえらせることができる,と考えた。』ヨブは神にこう祈りました。『あなたは私を墓〔ショオール,地獄〕に隠し……私のために定まつた時を指定し,そして私を思い出してください。』そうです。むかしのすべての忠信な人々の堅い希望は『よりよいよみがえりを得るため』でありました。―ヘブル 11:17-19,新世。ヨブ 14:13。ヘブル 11:35,新世。

しかし,もしも人間は死なないという宗教の教理が真実であるならば,実に彼らの希望は無駄な,馬鹿らしいものであつたでしよう。なぜそうでしようか? なぜならば『よみがえり』の語はギリシャ語のアナスタシスから来たものであつて,その意味は生命に『起きあがる』または,再び立つ,ということだからです。もしもある人が実際に死んだのでないならば,どうしてその人が生命に再び立つことができますか? 人間が死ぬと,彼の生きていた時よりも,もつとよく生きているのです,とある人は言います。その通りであるならば,よみがえりの必要はないでしよう。もしもある人が死んですぐ天に行つてしまつたのであるならば,よみがえりはなおさら余計なことでしよう。なぜ彼はよみがえりによつて地上の肉体につれもどされなければならないのでしようか? いいえ,よみがえりが必要なのは,死んで『沈黙の中にくだつて行つた』人々のためだけであります。―詩 115:17。

死は生命に屈服する

『しかしながら,いまやキリストは死んだ者からよみがえらされて,死んで眠つている者たちの最初の実となつておられる。一人の人によつて死が来たように,死んだ者のよみがえりも,また一人の人によつてくる。丁度アダムの中にいる者がみな死んでいるように,キリストの中にいる者はみな生かされるであろう。』(コリント前 15:20-22,新世)そうです。『五百人以上の兄弟たち』によつて証された,イエスのよみがつた生命は,いま私たちがよみがえるという希望を保証しております。なぜならば『丁度父がご自身のうちに生命の贈物を持つておられるように,み子にもご自身のうちに生命の贈物を持つことを許された』からです。―コリント前 15:6。ヨハネ 5:26,新世。

み子キリスト・イエスはこのすばらしい贈物を最初に御国の世嗣の『小さい群』にさし出されました。『キリストにあつて死んだ人々は先づよみがえるであろう』というのは主の再『臨在』の期間であります。(テサロニケ前 4:15-17,新世)目に見えない主の臨在が始まつた時に,まだ生きている人々は死ぬまで引きつづき忠実に主につかえなければなりません。そして彼らが死ぬ時に,天のよみがえりという報いを即刻うけるでしよう。これらの人々,すなわち『「神と小羊の最初の実として人類の中から買い取られた』『十四万四千』の数の人々が,このように天の生命によみがえつた後に,イエスのひじようにとうといものの生命の贈物は他の者らに拡大されるでしよう。(黙示 14:1,4,新世)その時イエスの次の言葉がその上さらに成就するでしよう。『記憶の墓にいる者が,みな彼の声を聞いて出てくるであろう。善い事を行つた者らは生命のよみがえりをうけ,悪い事を行つた者らは裁きのよみがえりをうけるであろう。』(ヨハネ 5:28,29,新世)このさらに大きなよみがえりには,イエスの時代以後に忠信のうちに死んだ,または死ぬであろう人々のうち,天の希望を持たない人々とともに,イエスの時代以前のすべての忠信な人々がふくまれるでしよう。このよみがえりの中には,また,イエスが死ぬ時に,『あなたは私とともにパラダイスに居るであろう』と約束された,あの盗人のように,知らずに悪い事を行つた人々もふくまれるでしよう。―ルカ 23:43,新世。

よみがえり ― 永遠の生命への門口

それから,地上の楽園<パラダイス>の状態の中で,『永遠の自由』と永遠の生命という人間の真の希望は実現されるでしよう。このように人間の不滅を完成する力を信用しても,しかしそれが成しとげられるのは分離された『不滅の魂』によるのではなくて,死んだ魂を生命へよみがえらせることによつて成しとげられるのでありまして,そのような奇蹟をなしとげる十分の力を持つ唯一のお方,ヱホバ神の栄光のためになしとげられるのであります。神は死の事実を見て見ぬふりをしてそれを行うのではなくて,死を,その仲間のハーデス(地獄,人類共通の墓)といつしよにつかんで『火の池』すなわち『第二の死』へ投げこむことによつて,それを行うでしよう。(黙示 20:14)この黙示録の高尚な象徴的言葉の中に,死に勝つ私たちの真の基礎が描かれているのを見ます。私たちの『生命への門口』は死の鞭ではなくて,よみがえりの贈物です。この贈物とその将来のよい見通しのために私たちは感謝と信服をいたします。しかしそれは生れつきの不滅性に対して致すのではありません。私たちはそのようなものを所有しておりません。それよりもむしろ私たちは,『私たちの主イエス・キリストを通じて私たちに勝をあたえてくださつた神に』感謝と信服をいたすのであります。―コリント前 15:57,新世。

[508ページの囲み記事]

『神 彼をあわれみて言い給わん,彼を救いて墓にくだることなからしめよ,我すでに贖いのものを得たりと,その肉は小児の肉よりも瑞々しくなり,その若き時の形状に帰らん』― ヨブ 34:24,25。

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