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  • あなたの魂,あなたの霊,および人間の死後
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エホバの王国を告げ知らせるものみの塔 1969
塔69 2/15 99–104ページ

あなたの魂,あなたの霊,および人間の死後

愛する人を亡くした時の空虚な気持ちをあなたも経験しておられるでしょう。そのような場合,たいていの人は悲しみとともに,自分の力ではどうにもならないものを感じます。そして,おのずと疑問がわいてくるでしょう。人は死ぬとどうなるのか。まだどこかで意識をもち続けているのだろうか。死んだ人が生き返るという望みがほんとうにあるだろうか。聖書はこうした疑問に慰めとなる答えを与えています。

簡単に言えば,死は生きていることの反対です。最初の人間アダムの意識的な不従順に対して刑を宣告したとき,神はこう言われました。「[あなたは]やがて地に帰るであろう。あなたは地から取られたからである。あなたは塵だから,塵に帰る」。(創世 3:19,新)考えてください。神がちりでからだを造り,それに命を与えるまで,アダムはどこにいましたか。どこにも存在していませんでした。アダムは死んだとき,この命と意識のない初めの状態に帰ったのです。アダムは火の燃える地獄に行ったのではなく,天の至福にはいったのでもありません。神の予告どおりに死んだのです。―創世 2:17。

墓にある死人に命や意識はありません。聖書はこの点をはっきり教えています。伝道之書 9章5節と10節が死人の状態について述べることに注意してください。「生きている者は自分が死ぬことを知っている。しかし死んだ者は何事も知らない。報いを受けることももはやない。彼らの記憶は忘れられるからである。あなたの手が行なうことは,何事であれ,力をつくして行なえ。あなたが行く墓には,わざも,はかりごとも,知識も,知恵もないからである」。(欽定)これは,死人は何もできず,何も感じないという意味です。次の聖句が述べるとおり,死人の考えは停止しています。「もろもろの君により頼んではならず,人の子により頼んでもならない。彼らに助けはない。その息が出てゆけば彼は土に帰る。その日に,彼の考えは滅びる」― 詩 146:3,4,欽定。

人は不滅の魂をもっているか

では魂についてはどうですか。魂は人間の一部であり,人が死ぬ時,肉体を離れて生き続けるのではありませんか。この点について正しい答えを得るには,魂とはなんであるかをまず定めねばなりません。読者は驚かれるかもしれませんが,霊感の下にしるされた聖書の中では,人間だけでなく動物も「魂」と呼ばれています。たとえば民数紀略 31:28(新)には,「人,牛,ろば,羊それぞれ五百ごとに一つの魂[ヘブル語でネフェシュ]」ということばがあります。―黙示録 16:3もごらんください。そこには「魂」のギリシア語「プシュケー」が出てきます。

では,魂とはなんですか。わたしたちは,文字にしるされた創造者ご自身のことばがなんと述べているかを調べましょう。創世記 2章7節(新)にこう書いてあります。「そして,エホバ神は地の塵で人を造り,その鼻に命の息を吹き入れられた。すると人は生きた魂となった」。

神が人の呼吸を開始させられたときはじめて,「人は生きた魂となった」,という点にどうか注意してください。つまり,医者となった人は医者であると同じように,創造された人間は魂であったのです。(コリント前 15:45,新)それで,人間の魂とは人間そのもののことであり,単に肉体に宿ったり,からだから離れて別個に存在したりする影のようなものではあり得ません。このことと一致して,聖書は人間の魂が身体的な特性をもつことを明らかにしています。たとえば聖書は,「あなたがたの魂は肉を食べたいと願う」と述べ,魂を,物質的な食物を求めるものとして扱っています。(申命 12:20,新。レビ記 17:12〔新世界訳〕もごらんください)聖書はまた,魂には血管があり,その中を血が流れていると述べています。「罪のない,貧しい者の魂の血」と語っているからです。(エレミヤ 2:34,欽定)そうです,あなたの魂とは,身体的また精神的な機能を備えたあなたそのもののことなのです。―箴言 2:10。

では,「わたしの魂」という表現をはじめ,ある人の魂という言い方で,魂がさながら人の中にあるかのごとくに述べている聖句についてはどうですか。もとより,そうした聖句はわたしたちがすでに取り上げた聖句と調和しなければなりません。神のみことばに矛盾はあり得ないからです。それで,「魂」ということばがいろいろな意味に使われていることは明らかです。「魂」ということばは,魂としての人自身をさす場合があります。それで,「わたし自身」という言い方がありますが,それと同じ意味で,「わたしの魂」と言うこともできるのです。たとえば,詩篇筆記者は,「わたしの魂は嘆きのために眠りませんでした」と書いています。―詩 119:28。

「魂」ということばはまた,生きた魂つまり生きた人間として人がもつ命を表わすこともあります。たとえばわたしたちは,生きた人間であるという意味で,だれそれは生きていると言います。あるいはこの場合,人間としての命があるという意味で,彼は命をもっていると言うこともできます。これと同じで,聖書に従えば人間とは魂そのものですが,生きているかぎり,人は「魂をもっている」ともいえるのです。それで人が自分の命を失うというのと同じ意味で,自分の魂を失うということができます。イエスは,「人が全世界を得ても,自らの魂を失えば,何の益があろうか」と言われました。(マタイ 16:26,欽定)ラケルはベニヤミンを産みましたが,これが難産であったため,ラケルの魂(つまり,魂としてのラケルの命)は彼女を離れ,ラケルは死にました。(創世 35:16-19)ラケルは生きた人間ではなくなり,しかばねとなりました。また預言者エリヤが死んだ少年に奇跡を行なったとき,少年の魂(魂としての少年の命)は少年にもどり,「彼は生き返り」ました。少年はふたたび生きた魂となりました。―列王上 17:17-23,新。

魂が人そのものであれば,人が死ぬとき,魂はどうなりますか。聖書は,「罪を犯している魂 ― それは死ぬ」と述べて,魂が死ぬものであることを明らかにしています。(エゼキエル 18:4,20,新)使徒ペテロはイエスに関するモーセのことばを引用し,「実際に,その預言者に聞き従わない魂はすべて民の中から完全に滅ぼされるであろう」と述べました。(使行 3:23,新)この基本的な真理と一致して,聖書の中に,人間や動物の魂が不死または不滅であり,滅んだり,滅ぼされたりすることができない,と述べているところは一箇所もありません。他方,魂が死ぬものであり,また殺し得るものであることを示す聖句は幾十もあります。(レビ 23:30。ヤコブ 5:20)聖書は,イエス・キリストについてさえ,「彼(は)自分の魂を注ぎ出して死に至らせ」と述べています。(イザヤ 53:12,新)ここでわかるとおり,人間の魂とは人間自身のことであり,人が死ぬときには,人の魂そのものが死ぬのです。

死について誤った考えが多いのは,「魂」と「霊」の意味を混同しているためです。これから学ぶとおり,聖書は,これら二つが別のものであることを示しています。

生きた被造物にある霊とは何か

ヨブ記 34章14,15節は,人(あるいは,知覚のある,他の地上生物のいずれでも)が存在し,生き続けるためには,二つのもの,つまり霊と息が必要であることを示しています。その聖句はこう述べています。「もし彼[神]がその心をある者に向け,その者の霊[ヘブル語でルーアハ]と息[ヘブル語でネシャマー]をご自分のもとに集められるならば,肉なるものは皆ともに死に,地上の人間は塵に帰るであろう」。わたしたちは,神が最初の人間を「地の塵で」,つまり地中から取った諸元素で造られたのを知っています。アダムの創造のとき,神はアダムのからだの幾十億という細胞を生きさせ,つまり,その中に生命力をもたせました。この活動的な生命力が「霊」(ルーアハ)ということばで表わされています。しかし,アダムのからだの幾十億の細胞一つ一つの中でこの生命力が保たれるためには,酸素が必要であり,それは呼吸によって供給されることになっていました。それで神はつぎに,「その鼻に命の息[ネシャマー]を吹き入れられた」のです。こうしたアダムの肺は働きはじめ,呼吸によって細胞の生命力をささえるようになりました。―創世 2:7,新。

これは生まれたばかりの赤子の場合と似ています。生まれる赤子にはすでに生命がありますが,生まれてすぐに呼吸を始めない場合があります。医師は呼吸を開始させるため,子供をたたきます。呼吸をしなければ子供はすぐに死んでしまうからです。同じように,アダムのからだの細胞にあった生命は呼吸によってささえられねばなりませんでした。それによってアダムは,生きた人間としての活動を営むことができたのです。

人間の魂とは生きた人間そのもののことであり,霊とはその人間を生きたものたらしめる生命力のことです。霊に個性はなく,また生きた人間が行なうと同じことは行なえません。霊そのものは考えたり,話したり,聞いたり,見たり,感じたりすることができないのです。この点で霊は,自動車のバッテリーから出る電流にたとえることができるでしょう。この電流はガソリンに点火してエンジンに力を出させ,ヘッドライトを輝かせ,警笛をひびかせ,自動車ラジオに人の声や音楽を出させます。しかし,エンジン,ヘッドライト,警笛装置,ラジオなどがなければ,バッテリーから出る電流そのものはそれらのことを何一つ行なえません。電流はこれらの装置を働かせる力にすぎないからです。

この霊つまり生命力はすべての動物の中にあり,妊娠の時に親から子へと伝えられてゆきます。それで神は,洪水を起こし,「活動的な生命の力[ルーアハ,霊]をもつ,肉なるものすべて[動物と人間]を天の下から滅ぼし去る」とノアに言われたのです。―創世記 6:17,新世訳,1953年版脚注。また欽定訳の創世記 7:15,22の脚注参照。

人間と動物は皆ひとしくこの生命力,つまり霊を備えているので,両者は同じようなさまで死にます。それで伝道之書 3章19,20節(新)はこう述べています。「人の子らに起こる事と,獣に起こる事とがあるが,両者には同じ事が起こるからである。これも死に,彼も死ぬ。これらはみな同一の霊[ルーアハ]をもつ……すべては一つの所に行きつつある。みな塵から出ており,みな塵に帰りつつある」。

神は命の与え主です。それで,神のみことばは,人が死ぬ時のことについて,「塵は元どおり地に帰り,霊はこれを与えたまことの神に帰る」と述べています。(伝道 12:7,新)人が死ぬとき,その生命力は最終的にはからだの細胞すべてから抜け去り,からだそのものは腐りはじめます。思考と行動のすべてが終わるのです。(詩 104:29)では,霊が『これを与えた神に帰る』とはどういうことですか。その人の生命力が文字どおり地球を離れ,宇宙を伝わって神のおられる所に行くという意味ですか。そうではありません。死んだいま,その人の将来の命の見込みは全く神にかかっているという意味で,それは神に帰るのです。霊を元どおりにし,その人を再び生きさせることができるのは神だけです。

死んだ人を恐れて生活し,死んだ先祖をなだめるために供え物をする人がいます。しかし,死んだ人に意識はなく,生きている人をそこなったりすることはできないのですから,このような心配はいりません。そして,故人を非常に愛していた場合でも,遺族が,おそらくは多額の費用をかけて,いろいろな宗教行為や儀式を行なってみても,故人の益にはならないのです。(サムエル後 12:21-23)こうして,死んだ人のほんとうの状態を知っていれば,死人と交信しようとするような行為をも避けることができるでしょう。死人と話すことができると唱える者がいますが,実際には故人を装う悪霊,つまり邪悪な霊者と交信しているのであり,聖書はこれを戒めています。―申命 18:10-12。

地獄とは何か

悪人は地獄の火でいつまでも苦しめられる,と教える宗教組織が数多くあります。しかしこれは神のみことばが教えていることですか。あなたは自分の属する教会が教える「地獄」の意味を知っておられるかもしれません。しかし,聖書がこのことばに与えている意味を調べたことがありますか。聖書によれば地獄とはなんですか。

ヘブル語聖書に出てくる「地獄」ということばは,ヘブル語「シェオール」の訳です。このことばは全部で65回出てきます。ところが欽定訳聖書はこの「シェオール」を,31回は「地獄」,31回は「墓」,3回は「坑」と訳しています。カトリック・ドーウェー訳聖書は,「地獄」として63回,「坑」また「死」として1回ずつ訳しています。クリスチャン・ギリシア語聖書の中では,ギリシア語「ヘーデース」を「地獄」と訳している場合が少なくありません。この語は全部で10回出てきますが,欽定訳とドーウェー訳はそのすべてを「地獄」と訳しています。

地獄は熱い所ですか。「シェオール」や「ヘーデース」は悪人が死後に苦しむ場所を表わしていますか。そうでないことは明らかです。なぜならすでに調べたとおり,死人は意識がなく,苦しむことさえできないからです。地獄にある者の状態について,聖書が自己矛盾をきたすことはありません。この点は,イエスが地獄にいたと述べていることによっても,裏づけられるでしょう。(使行 2:31,欽定,ドーウェー)五旬節の日にこのことを語った使徒ペテロは明らかに,イエスが,火の責め苦を受ける場所ではなく,墓の中にいたことを意味していました。(コリント前 15:3,4)使徒ペテロはこの点を述べるにあたり,詩篇 16篇10節を引用しましたが,そこに使われているヘブル語「シェオール」は,使徒行伝 2章31節で,ギリシア語「ヘーデース」として訳されています。つまり,「シェオール」と「ヘーデース」は同じ意味のことばです。それで聖書の言う地獄とは実際には人間の墓のことです。

このことをさらに裏づける証拠として,神の正しいしもべであり,多くの苦しみを経験したヨブの場合を考えてごらんなさい。彼は神にこう祈りました。「どうかわたしを地獄[シェオール。墓,欽定]の中に守り,あなたの怒りが過ぎるまでわたしを隠し,時を定めてわたしを思い出したまわんことを」。(ヨブ 14:13,ドーウェー)地獄が火の燃える熱い場所であるなら,ヨブがそこにかくまわれることを願うとは考えられません。明らかに,この「地獄」とは単なる墓のことであり,ヨブは墓に行って,自分の苦しみのやむことを願ったのです。良い人々も悪い人々も聖書の「地獄」,つまり全人類に共通の墓に行くのです。

金持ちとラザロ

しかし,「ヘーデース」ということばが出て来る所で,ある人々に,聖書の地獄とは身体的な責め苦の場所である,と信じさせてきた箇所が一つあります。それはイエスが金持ちとラザロについて語った所であり,そこでイエスは,金持ちが死に,「ヘーデース」で責め苦を受けたと語られました。(ルカ 16:22-31)ここの「ヘーデース」ということばの使用法は,なぜ他における場合と大いに異なっているのですか。なぜならイエスはあることの説明として,たとえ話をしていたのであり,文字どおりの責め苦の場所について語っておられたのではないからです。(マタイ 13:34)考えてください。単に金持ちであり,良い着物を着て,豊かなたべ物を食べていたということだけで責め苦にあうと考えるのは聖書の教え,また道理にかなっていますか。単にこじきであったということだけで天の命を受けると考えるのは聖書の教えにかなっていますか。次の点も考えてください。地獄はそこにいる者が天にいる者と実際の会話ができるような場所にあるのですか。また,金持ちが文字どおり火の池の中にいたなら,どうしてアブラハムはラザロをつかわし,その指先の水一滴で金持ちの舌を冷やすことができるのですか。ではイエスは,このたとえで何を説明しておられたのですか。

このたとえ話の中の金持ちは,イエスを退け,のちにイエスを殺した宗教指導者層を表わしていました。他方,ラザロは神の御子を受け入れた一般の人々を表わしていました。聖書の中で,死は人の生涯,もしくは人の進路における大変化の象徴として使われています。(ロマ 6:2,11-13; 7:4-6と比べてください)イエスがラザロのような人々を霊的な意味で養われたとき,死つまりそれ以前の状態からの変化が起こりました。そして彼らは大いなるアブラハムであるエホバ神の恵みに入れられました。同時に,偽まん的な宗教指導者たちは,神の恵みをもっという面では「死」にました。見捨てられた彼らは,キリストに従った者たちが五旬節ののち彼らの悪行を強力にあばくのを見て,責め苦を忍ばねばなりませんでした。(使行 7:51-57)それでこのたとえ話は,実際に火の燃える地獄で死人が責め苦を受けることを教えているのではありません。

ゲヘナと煉獄

聖書は確かに「地獄の火」について述べている,と異議を唱えるかたがいるでしょう。(マタイ 5:22,欽定,ドーウェー)なるほど,このような表現を使っている翻訳が幾つかあります。しかしそのような場合,「地獄」と訳されているギリシア語の元のことばは「ヘーデース」ではなく,「ゲエンナ」です。ゲヘナということばはクリスチャン・ギリシア語聖書の中に12回出ており,エルサレム市の城壁外にあったヒンノムの谷をさしています。イエスが地上におられた当時,この谷は大きなごみ捨て場として使われており,ごみを焼くためにいおうを加えた火がいつも燃えていました。「スミス聖書辞典」第1巻はこう説明しています。「そこは市の共同ごみ捨て場となり,罪人や動物の死体をはじめ,あらゆる汚れた物が投げ込まれた」。

イエスは,悪行のゆえにゲヘナに投げ込まれる者について語られましたが,それはどういう意味ですか。投げ込まれる者がそこで永遠の責め苦を受けるという意味ではありません。イエスはこの火といおうの谷(ゲヘナ)を永遠の滅びの適切な象徴として用いられたのです。1世紀当時にイエスの話を聞いた人々はそのように理解しました。黙示録にある「火の湖」ということばも同じ意味であり,責め苦を意識することではなく,「第二の死」つまり永遠の死もしくは永遠の滅びを表わしています。この「湖」が象徴であることは,死と地獄(ヘーデース)がそこに投げ込まれることからも明らかです。これらのものを文字どおりに燃やすことはできません。しかしなくしてしまうこと,つまり滅ぼし去ることはできるのです。―黙示 20:14; 21:8。

では,煉獄についてはどうですか。これは,人間の魂が意識をもち,死後に火の清めを受ける場所であるとされています。しかし聖書は死人に意識がないことをはっきり述べているのですから,神がそのような場所で人を責め苦に合わせることなどどうしてあるでしょうか。(詩 146:4)「煉獄」ということば,また「煉獄」という考えは聖書の中にないのです。

死んだ人がまた生きるか

死んだ人のほんとうの状態について聖書の教えを学ぶなら,すでに死んだ人について不必要に心配したり,恐れたりすることはありません。また,死んだ人が苦しんでいないということを知れば,神の愛と公正さに対する認識がいっそう深まるでしょう。しかし,死んでただ墓に行くだけなら,死んだ人には何も希望がないのだろうか,と考えるかたがいるでしょう。聖書は,死んだ人が再び生きるという,すばらしい希望を明らかにしているのです。

イエス・キリストは地上での宣教活動の間に,死んだ人を実際に生き返らせ,死を支配する力のあることを示されました。(ルカ 7:11-16。ヨハネ 11:39-44)こうしてイエスは,ご自分が神の新しい事物の体制下で大規模に行なう事柄の予告編ともいうべきものを示されたのです。うれしいことに,その時が来れば,地獄つまり全人類に共通の墓は,そこに収めた意識のない死人すべてを出してからになります。(黙示 20:13)ある者は天の栄光への復活を受け,イエス・キリストのように霊の被造物となります。(ロマ 6:5)しかし人類の大部分は生き返ったのち,地上に復興する楽園での生活をたのしみます。―使行 24:15。ルカ 23:43。

神の建てる新しい体制の下で死から復活する人々は,神の正しい律法に従順であるかぎり,再び死ぬ必要がありません。(イザヤ 25:8)人類を祝福するためのこのすばらしい備えについて知ったいま,わたしたちは,いよいよエホバと御子イエス・キリストについての知識を得なければなりません。そうすることによって,わたしたちはとこしえの命ととこしえの祝福に導かれるのです。

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