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エホバの王国を告げ知らせるものみの塔 1963
塔63 11/15 693–696ページ

導かれてただしいみちにすすむ

ゴットフリード・ヒューズの経験談

子供のころ,私の母は祈りの仕方をよく教えてくれました。私は今でもそれをなつかしく思います。どれも簡単な祈りでしたが,それは,愛ある全能の神,万物の創造者がおられるとの意識を,私の心の中に植え付けました。やがて年が進み,主の祈りも覚えました。もとより,その深い意味を理解していたわけではありません。

スイスのアルプス地方,ベルン高地の山ふところに抱かれた,私たちの小さな村への冬の夜の訪れは早かったようです。夕暮になると針先のきかない私の母は,手にした縫い物をかたわらにおき,子供たちをまわりに集め,夕やみがましてランプがともる頃まで,色々と聖書の物語りを聞かせてくれました。私たちはこの静かなひとときをいつも楽しみにしていました。また,日曜学校に行ったり,堅信礼にそなえる話を聞いたりして,聖書に接する機会は他にもありました。しかしまだそのころには,エホバが持たれるすばらしい計画についてほんの少しの認識も得ていませんでした。

独立して暮しを立てるために,親元を離れることになった時,母から与えられた忠告は,祈りの特権をおろそかにしないように,ということでした。当時私は,人の前に置かれた永遠の前途はただ二つ,すなわち,火の燃える地獄で永遠の苦悩を忍ぶか,あるいは天において無限の至福を喜ぶかのいずれである,との教えを信じていました。私としては,自分の不足をいつも感じていましたので,どうか私をいつも正しく導いて下さいと神に祈りました。

正しい道をはっきり知る

1915年の初め,私を導いて,祈り求めていた正しい道に進ませる出来事がありました。一番上の姉が死に,その埋葬を済ませ,帰りに汽車に乗りました。葬儀後の悲しく,うつろな気持を満たせぬままでいた私はただ一人同じ客室に乗り合わせた年も同じ頃と思われる若い男に気付きました。今度の戦争をどう思いますか,と彼は問いかけて来ました。自分の母などは,世の終りが近いしるしではないかと思っているようだ,と私が答えると,彼は聖書から預言の言葉を引用しながら,あれはこうこれはこうと世界情勢の意味を説明し始めました。そのような話に一度も接したことのない私にとって,彼の説明には意外なひびきがありました。

それからこの若者は,「地に平和をもたらすメシヤの御国の設立」と題した小さなパンフレットを私に渡し,住所を教えてもらえればあとからもっと本を送ると言いました。私は喜んで住所を知らせました。私が一番印象づけられたのはこの若者の輝くようなまなざしであり,これこそ本当のクリスチャンに違いないと思いました。

間もなく,「悲しみを去り,涙をぬぐえ」という題の小さな冊子が届きました。なんとすばらしい内容だったのでしょう。死とはなにか,なぜイエスは死のさまを眠りにたとえたのかがはっきり分かりました。死者は意識を保ったままどこか他の世界にいるのではなく,そのさまは深い眠りにも似ており,キリストによる御国の支配が行なわれる時にその眠りからさめるのだ,という事を学んだ時,私は喜びの気持でいっぱいになりました。この小冊子を何度も読み返したのち,それを送ってくれた聖書研究生に手紙を書き,「聖書の研究」第一巻『世々にわたる神の経綸』を受け取りました。これに続いてものみの塔協会スイス支部と連絡をとり,「聖書の研究」の後巻とエルバフェルダー訳聖書を一部注文しました。送られて来た小包の中には,どうしたらこの仕事ともっと密接なつながりを持てるかを知らせる,親切な手紙もはいっていました。

自分が得た新しい知識の喜びは大きく,こんなにすばらしい音信ならだれでも受け入れて,私と共に喜ぶだろうと思いました。しかしその期待は裏切られました。自分がこんなに喜んでいることなのに,私の同僚には少しの反応もありませんでした。あんなに親しく,心を分け合ったはずの家族さえそれほどの関心も表わしませんでした。家に帰ると家族の者は,このごろ牧師さんは変わった説教をするようになった,と言って,私を教会に連れて行こうとしました。私はそれを断わり,いくら道徳の話をしても,御国の約束についてはなにも教えないのだろう,と言いました。

その年の秋,湖畔の町バベイで浸礼式をかねた一日だけの大会が開かれ,集まった人たちは私たち ― 私と他に3人 ― がエホバへの献身の象徴としてジュネーブ湖で浸礼を受けるのを見ました。

頭初,自分の家族には真理を聞くほどの耳を持つ者はいないのではないかとさえ思われました。しかし,エホバの恵みによってひとたび私のものとなったこの貴重な真理の宝をどうして捨てられましょう。私は真理に対する家族の目が開かれることをくりかえしエホバに祈り,エホバは正しい者の祈りを聞かれるということを実際に経験したのです。2年後に女の兄弟の一人が神への献身を水のバプテスマによって表わし,続いて1922年には母と兄が浸礼を受けました。

仕事をかえる

集会に定期的に出席するためにそれまでの仕事を変えてベルンに移りました。ベルンでは絶えず拡大する宣教の仕事に自分も参加できるようになりました。私は,今日エホバに献身する人たちが受けるような優れた訓練の機会には恵まれていませんでしたが,当時までに解明された真理については十分の知識を身につけていました。それで私に委ねられたのは自分のうちにある望みを公けに宣明する仕事でした。近づく新しい世の祝福を語り,注意深い聖書の研究から得られる価値を人々に知らせるのは,自分にとって大きな喜びとなりました。

その後,自分の働いていた会社では良い地位が提供されました。しかし,それによって集会の出席が妨げられることを恐れた私は,その申し出を断わりました。そのすぐ後に私が受けたのは,全時間の宣教の仕事への招待でした。

1920年の初め,ベルンにあったものみの塔協会の支部で私の奉仕は始まりました。当時,フランス語の文書の多くはベルンで翻訳と印刷が行なわれ,フランス語が話される世界の各地に送られていました。私はこの仕事を助ける特権を得たのです。

数ヵ月後,「創造の写真劇」を用いる証言活動が計画され,その上映は4晩にわたって行なわれました。フィルムは人間家族の住居としての地球の準備の模様を示す絵に始まり,次いで地上の創造の栄冠とも言える人間の創造,楽園の喪失から楽園の回復に至る人類の全歴史を描写していました。話しや映写をする兄弟たちに同行して,アルサス・ロレーヌ地方やザール地方の大きな町や村を順ぐりにたずねるのは,楽しみの仕事になりました。しかしなによりうれしかったのは,上映に対する人々の関心です。いつも,映画が始まるずっと前から会場の座席はひとつ残さず埋めつくされ,立って見なければならぬ者もたくさんありました。「写真劇」の上映の後には一連の講演会が行なわれました。この集中的な活動の結果として,各地に新しい会衆が設立され,弱い会衆はたておこされました。フィルムはスイス,ベルン県の町や村においても上映され,その仕事の援助にも加わりました。

1920年の秋には,当時のものみの塔協会会長J・F・ルサフォード兄弟の最初の訪問に喜びました。2日間の大会が組織され,この時初めて,「現存する万民は死することあらじ」の話を聞きました。

1924年から25年にかけて,ベルンに新しいベテルと工場が建設されました。工事の進展に応じておおぜいの兄弟がそれぞれ自分の特技と時間をささげ,建て物はほとんど全部兄弟たちの手によって完成されました。1925年に献堂されたこのベテルの家は,今でも活動的な御国の仕事の中心として用いられています。スイス-ドイツ支部と中央ヨーロッパ事務所がチューリッヒからベルンのこの新しいベテルに移転したのもこの年であり,ドイツとフランスにおける仕事は一つの監督,同じ屋根の下に行なわれることになりました。

楽しい月日が続きました。絶えず明るみを増す真理の光と歩みを共にするのはなんと喜ばしいことではありませんか。「ものみの塔」の中に新しい真理の解明が発表されるごとに,私たちの喜びは高まりました。この世の権威者に対し私たちが取るべき態度について学んだときの喜びも忘れられません。また,不完全な私たちが完全な人格を身につけるのはむずかしいこと,しかし,私たちの努力ではなく神の深い御親切によって新しい世で命を得るために,私たちの心を変えて御たまの実を生み出すべきこと,そのために絶えず努力すべきことを,「ものみの塔」の中で学んだとき,どんなに私の心は慰められたことでしょう。

第二次大戦が始まる前には,郊外地区での週末の伝道活動にも加わりました。時にはスイス国境ぞいにあるフランスの町や村に足をのばすこともありました。こうした活動には,エホバへの賛美を歌いつつ命にかかわる救いのたよりを人々に運んだり,周囲に展開する田園の美しさを見てエホバの創造をたたえたりして,二重の喜びがありました。過ぎゆくこの世の楽しみのために,伝道の仕事の喜びを犠牲にしたことはありません。その後戦争が始まりフランスに足をのばすことは出来なくなりました。しかし,戦いの後に良いニュースを聞きました。戦前に救いのたよりをたずさえてエホバの証者がスイスからたずねて来た事を土地の人々は忘れず,その地方に新しい会衆がいくつも設立されていたのです。その時思い出したのは次の聖書のすすめの言葉です,「なんぢの糧食を水の上に投げよ,多くの日の後に汝ふたたびこれを得ん」。―伝道 11:1。

多難の年

1940年,それはまさに多難な年となりました。ある日ベルンのベテルは軍部に占領され,なんらかの証拠を得ようと当局者は徹底的に調べて行きました。もとより私たちは政治活動には一切関係していませんから,彼らが期待したものが何か見つかったわけではありません。しかし,文書はすべて没収され,工場での印刷も当時発行していた「コンソレイション」誌と国内用の二,三の小冊子以外には出来なくなりました。国外への文書の発送や連絡は一切遮断されました。

その後,当時「兄弟たちへの僕」と呼ばれた各地を巡回する奉仕の仕事を任命されました。私が奉仕したのはスイスのフランス語地区の会衆でした。次第に新しい会衆がふえてゆきました。このように協会を代表して旅行する人たちは,今では「巡回の僕」と呼ばれていますが,これらの僕たちの実際的な援助の結果として,今日大きな増加が見られるのは喜びです。

第二次大戦終了と共に,外国との連絡は正常に復しました。1945年には現在ものみの塔協会会長であるN・H・ノア兄弟のはじめての訪問がありました。会長は,「なんぢのわかき日になんぢの造主をおぼえよ」という聖書の言葉にもとづいて話し,私たちはまさに全身を耳にする気持でそれを聞きました。愛にみちた話であり,信仰の強められるのを覚えました。後にこの話は「ものみの塔」にのせられ,ゆっくり研究できましたが,他との連絡を絶たれ,命の真理も細々としか伝えられてこなかった戦争の時代のすぐあとでしたから,よみがえるような思いでそれを読みました。今私が深く感謝しているのは,真理を見出して以来これまでの年月の間,どのようにエホバが御自分の仕事を見守りまた導かれたか,そして,エホバ神の制度とエホバ自身に対する愛の心からの献身の深さという面で他の模範となる人々がどのように責任の地位を委ねられたかを,実際に見,実際に経験して来た事です。

1947年,私は再びベテルに呼ばれました。しかしその9ヵ月後,フランス語の巡回区で奉仕していた兄弟がからだをこわし,その仕事を引きつぐことになりました。私はずっと1950年までこのフランス語地区で奉仕し,次いでドイツ語地区に移って1954年まで働きました。翌,1955年にはベルンのベテルに戻り現在そこで奉仕を続けています。

感謝

私に委ねられたこれらのすべての特権に対し,また特に,何年もの間野外において全時間奉仕者として働けた事に対し,神に感謝せずにはいられません。エホバの制度が初期クリスチャン教会に定められた原則にもとづき,いよいよ美しく,いよいよ機能的なすがたに建てあげられてゆくのを見て来ました。初期教会内の各地の会衆を,円熟した兄弟が訪問し,賛美のわざを教え,奉仕の仕事を助け,励ましの言葉によってその信仰を強め,また群れをやしなう監督として,円熟した者たちを任命したと全く同じように,今日,巡回,地域,地帯の僕がそれぞれ働いています。今日のこうした僕たちも,会衆を牧するにふさわしい円熟した人々を僕の地位に選び出すために必要なすすめの言葉を与えます。

1950年と1953年に出席したニューヨーク,ヤンキー野球場での国際大会のことを忘れてはなりません。それらの大会への私の出席を助けるために巡回区内の会衆は実に親切に心を使ってくれました。そして1958年にはものみの塔協会の援助を得て三たびニューヨークの大会に出席しました。私がなにより強く心にうたれたのは,全世界のすべての土地から,階級も人種も国籍も違う人々が集まり,すべての人々が唯一の共通の牧者,キリスト・イエスの下に結合していることでした。そのすべての人々が共通の希望を語り,同じ信仰を抱き,地上のいずれの土地に住もうとも同じ方法で宣教の仕事に従事しているのを実際に自分で知った時,感謝の念が心の奥底からわきあがってくるのを抑えることができませんでした。これらすべてが聖書の預言通りに行なわれているのです。

野外における伝道者として,またベテルにおける共なる働き人として,全時間奉仕の立場を守って来た私のこれまでの年月はまさに喜びに満ちる生活でした。たしかに私の体力は今衰えています。しかし,今なお必要に応じてベテルの仕事の一端に参加出来る事を深く感謝しています。主にするごとく労を惜しまず,常に良心に従い,常に信頼に答えることに努めて,どんな仕事の割当も心から喜んで果たせます。

私の強い願いは,エホバが私にたまわったすべての良き物を忘れることなく,いつまでもエホバの恵みのうちにとどまることです。唯一の真の神エホバに信頼を置き,正しい道へのエホバの導きにこたえ,いつまでもエホバの賛美を歌いつつ進んで行きたいと思っています。

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