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エホバの王国を告げ知らせるものみの塔 1969
塔69 10/15 635–638ページ

死のような状態から新たな人生へ

アイネス・ウィズ

1939年から1945年にかけてはほんとうに困難な時代でした! 夫とわたしは20年余り,ドイツのハンブルグに住んでいましたが,戦時中は食糧不足に見舞われました。しかしわたしたちは,事情はこれ以上悪化しないのではないだろうかと考えていました。ところが,ある夜遅く,わたしたちは部屋に漂ってくる異様なにおいに目をさましました。何事かと庭に出たわたしたちの眼に映ったのはなんと恐ろしい光景だったのでしょう! 野菜,花,果物,立木など,庭に生えている物はすべて爆弾の強力なガスでだめになっていたのです。夜ごとに爆撃が続き,ハンブルグは修ら場と化しました。

南アメリカのコロンビアで過ごしたわたしの若いころと比べて,これはなんと著しい違いでしょう! わたしがまだ幼い時分イギリス人の両親に連れられてコロンビアの首都ボゴタに移住しました。わたしは成長してドイツ人と結婚し,ハンブルグに行って住みました。わたしたち夫婦には子供がありませんでしたが,生みの親を失った3人の子を実子のようにして育てました。

しかしやがて娘は結婚して家を去り,二人のむすこは戦死しました。その後まもなく主人は神経疾患にかかり,心臓の発作のため亡くなりました。わたしはただひとりになり,財産もなく,コロンビアの親族と連絡を取ることもできませんでした。ドイツ政府はわたしの家を没収し,わたしに一部屋を残して他の部屋に多数の難民を住まわせました。

冬は最悪の季節でした。暖房用の燃料は何もありませんでした。電気もガスも石炭やまきもありません。わたしは家からほど近いエルベ川へ行き,こわれた船やはしけの残がいの板切れを川岸ぞいによく捜したものです。水道管はみな凍りついているので,そうした板切れで火を起こし,氷を溶かしては水を得ました。

何のためにこんな生活をするのかしらと,わたしは何度自問したことでしょう。終戦になってもドイツは敗戦国でしたから,わたしは難民キャンプに1年間抑留されました。前途はまっくらでした。それで,わたしは逃亡を決心し,5人の仲間とともに無一文で飢えに苦しみながら逃亡し,ベルギー領にたどりつき,そこでコロンビア領事の助けを得て故郷に帰りました。

しかし生きる目的は何もないように思えました。当時わたしの知る限りでは,最も親しい人たちはすでになくなっていたのです。わたしはあたかも生きたしかばねのように暮らし,身の回りのできごとには全く興味を持ちませんでした。

新しい人生のあけぼの

しかしやがて転換期がやって来ました。それは1947年バランキアでのことです。わたしはこの町の山の手に住む親類のもとにいました。ある日,一人の男の人が「ものみの塔」誌を携えて尋ねてきました。その人は自分がエホバの証人で宣教者だと述べ,雑誌は聖書に関するものであると言いました。わたしはそれまでエホバの証人について何も聞いたことがなく,聖書についてもほとんど知りませんでした。しかし,その男の人の親切で思いやりのある態度に動かされて雑誌を予約することにしました。

翌週この証人は再びやって来ました。わたしが雑誌の内容はほとんど理解できないと述べたところ,その人はいくつかの事柄を説明しはじめました。その結果,わたしは毎週定期的に聖書研究をすることに同意したのです。こうして死のような状態から目ざめはじめました。幾つかの疑問が沸いてきました。聖書の約束にしたがって御国の支配下に到来する楽園の地についてすべてを知りたいとどんなに望んだことでしょう。それまで各地を旅行していましたので,地球は利己的な人間によって汚されてはいるものの,ほんとうに美しい所だと確信していました。

聖書の音信に関する知識が増すにつれ,わたしはますます希望に満たされ,生きたいと心から願うようになりました。ふたたびわたしの目は輝きました。このたびは神の国に対する純粋な関心のためでした。確かにわたしは家族を失いましたが,今やはるかに大きな,そして増大してゆく家族を見いだしたのです。この家族の成員はみな信仰の子供たちです。なんとすばらしいことでしょう!

こうして霊的に目ざめてまもなく,わたしは自らをキリスト・イエスを通して完全にエホバに捧げました。死のような絶望の状態からわたしを救い,御国を支持する活動で人生を満たす機会を与えてくださったエホバ神の愛に対するわたしの感謝を表わすのに,献身はわたしにできる精一杯のことでした。こうして1948年7月4日,献身を水のバプテスマで表わしました。

わたしには体力と健康がよみがえり,それに加えて,他の人々が聖書の知識を得るのを助ける大きな喜びがありました。わたしは家から家に音信を広めることにさゝげる時間をふやして行きました。それでも,ものみの塔協会を代表する全時間の伝道者として奉仕することなどわたしは夢にも考えませんでした。ところがある日,全時間伝道をしている友人が,わたしに全時間奉仕をしてみてはと話したのです。わたしはただちに,全時間すなわち「開拓」奉仕者の申込書に記入し,これをものみの塔協会に提出しました。

幸福な生涯の仕事

そして1949年3月10日,「開拓」奉仕者として任命されました。前の晩からカバンに文書を一杯準備し,その朝,わたしは文書をいっぱいつめた鞄を持ち,楽しい気分で家を早く出ました。ところが奉仕する予定の町の一角に着くと,妙な事が起きたのです。わたしは目の前がまっくらになり,突然力が抜けて地面に倒れてしまいました! ちょうどその時,親類の者が自動車で通りかかり,わたしを見つけ,家に連れて帰りました。彼らの驚きようをご想像ください! わたしは二,三日家で静養しなければなりませんでした。

あとになってこの時の事情をふり返って見ると,その時開拓奉仕をよくも断念しなかったものだと思わずにはおれません。失望するどころか,わたしはすぐに全快し,失った時間をうめ合わせようと決意していました。カトリック教徒であった親類はエホバに対するわたしの熱心を理解できませんでしたが,わたしの邪魔をしようとはしませんでした。このようにして今日まで引き続き全時間の伝道の仕事に携わってきたことはわたしの大きな喜びです。この誉れはエホバにこそ帰されるべきものです。なぜならこれまでのすばらしい20年間,必要なだけの霊的,かつ肉体的な力はエホバが与えてくださったからです。

その最初の7年間はバランキアで過ごしました。わずか10人の御国伝道者から,エホバの証人の4つの会衆へと神権組織が成長するのを見るのはなんという喜びでしょう! そして今ではこの町に20の会衆があります。1953年,ニューヨーク市ヤンキー野球場で開かれた大規模な国際大会には,バランキアからわたしたち40名がコロンビアを代表して出席する感激を味わいました。幾千幾万ものエホバの証人たち,そしてブラジル,エクアドル,中国,コロンビアその他のクリスチャン兄弟たちからのあいさつのことばを掲げた数々の標識を目にしたわたしたちの感激はことばで言い表わすことができません。黙示録 7章9節にある。「われ見しに,みよ,もろもろの国・族・民・国語の中より,誰も数へつくすことあたはぬ大なる群衆」という使徒ヨハネの表現はなんと適切なのでしょう。

わたしが司会している聖書研究生にこの一部始終を一刻も早く知らせたいと思うあまり,大会が終わってコロンビアへ帰る道すらもどかしく思えました。コロンビアの人々は,エホバの証人が町や村で家から家を訪問するごくわずかの人々ではないことを知る必要がありました。そして彼らはたしかにこの時以来,経験を通してこのことを学んでいきました。巡回,地域そして全国大会の規模はしだいに大きくなってきました。バランキアで開かれた国際大会(1966-1967年)には6000人近くの出席者がありました。幾多の国々からの証人ととても楽しく交わることができたこの大会は,わたしたちにとってほんとうに大きな喜びをもたらしました。

町から町に移って伝道する

わたしのつぎの任命地はコロンビアのカリでした。すばらしいことにここには今5つの会衆があります。ここでわたしは宣教者の家で宣教者とともに生活するすばらしい特権にあずかりました。信仰のうちにある円熟した兄弟たちの監督下で,なんという安らぎと満足を味わえたことでしょう。新しい宣教者がスペイン語を学ぶのを助けたのも大きな喜びでした。しかし宣教者が進歩し,まもなくスペイン語で聖書の話ができるようになるのを助けたおもな力はエホバの霊であることを知りました。1960年,首都ボゴタではさらに多くの全時間奉仕者が必要となりました。そしてわたしはボゴタに送られ,まもなくその地で5人の他の「開拓者」と働きました。その後の何年間かの奉仕はほんとうに祝福され,現在ボゴタには10の会衆があります。

自分が教える人々の信仰のため,しっかりした土台を忍耐強く築かねばならないことの大切さを認識したのはこのボゴタでのことです。わたしは一人の若い婦人とその3人の子供および彼女の両親と聖書研究を行ないました。その夫は聖書の研究に反対し,子供たちを彼女から引き離すと言っておどしていました。ある晩,彼はなじみの友だちと酒盛をしたあと,ピストルを振り回しながら家に帰って来ると,聖書の勉強を止めないなら撃ち殺すと言って,子供たちのいる前で妻をおどしました。子供たちはすっかり驚き,泣きながら母親をかばいました。しかし婦人は静かにそして勇敢に立ちあがると,夫にこう言いました。「わたしは殺されてもかまいません。でもわたしは神のみことばの勉強をやめるつもりはありません。第一子供たちがあなたの行ないの証人となるでしょう。このことを忘れないでください。そのうえ,あなたはご自分が流す血に対して全能の神に申し開きをしなければなりません」。これを聞いた夫は家を飛び出して行きました。やがてこの婦人はバプテスマを受け,今では子供たちとともに忙しく伝道に携わり,また御国会館の集会にも出席しています。以来,夫は彼女が学ぶのを二度と禁じませんでした。

3年前,わたしはメデリンに来ました。このコロンビア第二の都市はアンデス山脈の高地に位置しています。わたしはここでもまた,ものみの塔協会のギレアデ聖書学校を卒業した宣教者たちと生活をともにする特権にあずかっています。79歳を過ぎ,長年恵まれてきた体力をもはや持っていないわたしにとってこのような生活は大きな慰めとなっています。車がないので,宣教を行なうには相当歩かねばなりません。でも,わたしと聖書を学んでいる幾人かの人はたいへん思いやりが深く,毎週“わたしの家”に来てくださいます。こうしてわたしは体力を保ち,毎月100時間の目標を達成しています。エホバは確かにわたしたちの働きを祝福しておられます。それでここの会衆は大いに発展し,3つの会衆に分会することが必要になりました。

振り返ってみると,この20年間,開拓者として幸福な日々を過ごしました。それはかなり骨の折れる仕事の連続でしたが,深い満足を味わえました。エホバが,死のような状態からわたしを救い出し,新たな人生を開いてくださったのです。これはわたしにとってほんとうにすばらしいことです! 体力の衰えた今日でさえ,エホバは偉大な御国の事柄のために少しでも奉仕する道をわたしに開いてくださっています。エホバは,「年老ぬるとき我をすてたまふ」ことなく,また「わが力おとろふるとき我をはなれたまふこと」がありません。(詩 71:9)神の変わらぬ保護の御手が常にささえてくださるのです! わたしは,「確くしてうごくことなく,常に励みて主のわざに務め」たいと決意しています。コリント前 15:58。

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