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  • 神の怒りに対する恐れは知恵となる
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エホバの王国を告げ知らせるものみの塔 1971
塔71 9/15 549–552ページ

神の怒りに対する恐れは知恵となる

キリスト教世界の多くの人にとって,神が怒るという考えはげせないようです。事実,エホバのクリスチャン証人たちが,神はハルマゲドンという世界的な戦いにおいて怒りを示されると言うと,それらキリスト教世界の人々は異議をとなえます。そして,「そんなことはあるはずがない。神は愛なりと聖書が言っているではないか」と言います。

たしかに聖書はヨハネ第一の書 4章8,16節でそう言っています。神は愛,つまり真の愛の権化です。この事実は,わたしたちの周囲のおびただしい創造物,また霊感のもとにしるされた神のことば,聖書の両方から認めることができます。しかし,神の憤怒,憤り,憤激,義憤が述べられている回数はさておき,神の怒りは,創世記から黙示録に至るまでに約200回述べられているということもまた事実なのです。

そのうえ,神の怒りはほんとうに慎重に考えねばならない事柄です。とくに,「エホバの烈しき怒のいまだ汝等に臨まざる先エホバの忿怒の日のいまだ汝等にきたらざるさきに……エホバを求め……よ」というような警告を考えるならば,それはなおさらです。(ゼパニヤ 2:2,3)また,神の憤りをこうむるに価する者たちに対しては,「神…はやきつくす火」であるとも聖書は述べています。―申命 4:24。

したがって,神の怒りの性質,すなわちその特質もしくは基本的な原理,神が怒りを表わされる方法,またなぜ,そしてどのように神の怒りは神が愛であることと調和するか,などを調べるのは,わたしたちの益になります。また,そうすることによって,わたしたちは神を恐れること,すなわち神の不興を買う,もしくは神の義憤をひき起こすことを恐れるのが,なぜ真の知恵の道であるかをいっそうはっきりと理解できます。―詩 111:10。箴言 9:10。

神の怒りを律する原理

まず第一に,神の怒りは常にあらゆる事実にかんする完全な知識にもとづいた知恵と一致して表明されます。こうしるされています。「造られたる物に一つとして神の前に顕れぬはなし,万の物は我らが係れる神の目のまへに裸にて露るるなり」― ヘブル 4:13。

人間は怒りを表明するとき,まちがいを犯しますが,エホバ神がまちがうことはありません。神は無限の知恵をもたれるゆえに考えうる最善の方法で,適正な時に,また適正な場所でご自分の怒りを表明することができます。神が決してまちがいをされないという事実は,わたしたちにとっては慰めであると言ってしかるべきでしょう。とはいえ,その事実はまた,恐れをいだかせる事柄でもあります。わたしたちは何ものも神から隠せないからです。ヨシュアの時代のアカンは,エリコの崩壊のさい,神の指示にそむいて,ひそかに分捕品を取ったとき,身をもってその事実を知るとともに,きわめて悲惨な結果を招きました。神の目からあたかも何かを隠しおおせるかのように行動して不幸な目にあった者たちの中には,クリスチャンの使徒たちの時代のアナニヤとサツピラがいます。―ヨシュア 7:16-26。使行 5:1-11。

第二に,神の怒りは常にご自身の公正と一致して表明されます。そうです,「エホバは磐にましましてその御行為は完くその道はみな正しまた真実ある神にましまして悪しき所なし ただ正しくして直くいます」とあるとおりです。(申命 32:4)神の怒りが,邪悪な町ソドムとゴモラに対し,まさに表明されようとしていたとき,アブラハムはその公正さについて質問し,次のように言いました。「義者を悪者とともに殺すが如きはこれあるまじきことなり……天下をさばく者は公義を行ふ可にあらずや」。しかし,もしそこに正しい人間が10人も見いだせないとすれば,神がそれらの町を滅ぼされたにしても,それを不公正だなどとは言えないということをアブラハムは悟りました。―創世 18:25。

第三に,神の怒りは常にご自分の無限の力の裏づけを伴っています。神はいかなる度合いの怒りであれ,それを望みどおりの仕方で表明するのに心要なあらゆる機知を備えておられます。義憤を感じても,何もすることができないゆえに挫折感にさいなまれるということは決してありません。ヨシャパテ王がエホバについて語ったとおりです。「汝の手には能力あり権勢ありて誰もなんぢをふせぐこと能はざるに非ずや」― 歴代下 20:6。

そして第四に,神の怒りは常に,神は愛であるという事実と一致して表明されます。神は,故意に人を殺す者に対しては死を定められましたが,神はまた,あやまって人を殺した者のためには,「逃遁邑」という,愛ある備えを設けられました。(民数 35:9-34)愛のある証拠として神の不興は時にはおだやかで,人を訓戒し,向上させる懲らしめだけをもたらす場合もあります。(ヘブル 12:5-11)確かに神は邪悪な者に滅びをもたらしますが,しかしそうすることによって,神は正しい者に対する愛を示し,情け深いことに,そうした正しい者を救済し,救助されます。―詩 145:20。テサロニケ後 1:6-9。

いろいろな方法で表明される

神はご自分の怒りを表明するのに幾つかの方法を用いてこられました。たとえば,ノアの時代に世界的な洪水で邪悪な者を滅ぼしたときなどのように,超自然的な現象を用いられた場合もあります。邪悪な町ソドムとゴモラを一掃するには天からの火を用いられました。エジプト人を10回悩まし,またパロとその軍隊を紅海で滅ぼすさいには,さまざまな超自然的な方法を用いられました。―創世 6:5-7; 7:1,11-23; 19:24,25。出エジプト 7:1–15:21。

それからまた,神が施行された因果応報の種々の自然法則が,いわば間接的に神の怒りを表明すべく作用します。ですから,神の道徳律を破る人はその結果を甘受しなければなりません。『まいたものを刈り取る』のです。(ガラテヤ 6:7,8)たとえば,アルコール飲料にふけったり,乱れた性関係を持ったり,マリファナその他の麻薬を使ったりする人は,身心両面に害をこうむります。これは確かに神の怒りの間接的な表明です。こうした問題をこのように見るべきであるということは,同性愛にふける男や女は,「その迷に値すべき報を己が身に受ける」と霊感のもとにしるされた宣言が述べていることからみても明らかです。―ロマ 1:24-27。

さらに神は,いろいろな人間の代理者を用いてご自分の怒りを表明される場合もあります。ヨシュアの配下のイスラエル軍は,堕落した邪悪なカナン人に対する神の怒りを表明しました。それは彼らの『悪が満ちた』からでした。モーセが自分の民に思い起こさせたとおりです。「国々の民悪しきが故に汝の神エホバこれを汝の前より遂はらひ給ふなり」― 申命 9:5。創世 15:16。

しかしいく世紀かのち,イスラエル人自身も,「神の使者等を嘲けり その御言を軽んじその預言者たちをののしる」という罪を犯したので,「エホバの怒」が「その民にむかひて起り」ました。神は外国のネブカデネザルの軍隊を用いて,ご自分の怒りを表明されました。彼らはイスラエルの国土を荒廃させ,エルサレムとその神殿を破壊し,その民を捕虜として連れ去りました。―歴代下 36:16-21。

神は,土地の政府,つまり「カイザル」が,神の律法と調和する,人間の定めた正しい法律の違反者個人個人に対して,ご自分の怒りを表明する手段となることを評しておられます。たとえば,そうした政府の権威にかんしてこうしるされています。「されど悪をなさばおそれよ,彼は徒らに剣をおびず,神の役者にして悪をなす者に怒りをもて報ゆるなり」― ロマ 13:1-4。

神がご自分の怒りを表明するのに時々用いられる別の代理者は,土地のクリスチャン会衆の委員会です。この委員会はその会衆の霊的な福祉に対して責任を持っているのです。会衆の委員がその責任を遂行して,故意の悪行者を破門したならば,それは悪行者に対する神の怒りを表明する行為です。そうした処置の聖書的な先例はコリント前書 5章1-13節に記録されていますが,そこでコリント会衆は,「かの悪しき者を汝らの中より退けよ」と命令されています。

エホバ神が邪悪な者に対してご自分の怒りを表明するために用いられるうつわすべての中で主要なるものは,イエス・キリストとその天使の軍勢です。特に彼らはハルマゲドンで戦われる,「全能の神の大なる日の戦闘」で神の怒りを表明するでしょう。(黙示 16:14,16; 19:11-21)確かにエホバ神はご自分の怒りを表明する数多くの効果的な方法を持っておられます。この事実もまた,わたしたちが,神の不興を買わないよう賢明な恐れをいだかねばならない理由のひとつです。

神の怒りを引き起こす原因

なかでも偽りの崇拝と背教は,エホバ神がご自分の怒りを表明されるおもな原因となります。エホバは宇宙の主権者,また至上者であり,目に見えるもの見えないものすべての創造者ですから,ご自分の理知ある被造物すべての絶対の専心を求める資格を持っておられます。神ご自身が言われているとおりです。「わたしエホバあなたの神は専心の献身を求める神であ(る)」。神に絶対の専心をつくさない者は当然,神の怒りをひき起こします。―出エジプト 20:5,新。

すべての不法,性その他にかんするすべての不道徳もまた,神の怒りをひき起こします。ですから,「これらの事」,すなわち「淫行・けがれ・情欲・悪欲・むさぼり」のために「神の怒は……来るなり」と書かれているのです。(コロサイ 3:5,6。エペソ 5:3-6)また,神は血および人間の命をたいへん尊重されるゆえに,故意に人間の命をとって血を誤用する者,または故意に人間の命を取る者,あるいは血を誤用する者も神の怒りを予期しなければなりません。―創世 9:3-6。レビ 17:10。イザヤ 26:21。使行 15:20,29。黙示 16:6; 18:24。

神の怒りをひき起こす別の原因は,神のしもべたちを圧迫するか,または神が権威を与えておられる者に反抗するかどちらかによって神のしもべたちに反対することです。エジプトは神の民を圧迫したので,神はその国民に十の災いをくだし,最後にはパロとその軍隊を紅海でおぼれ死にさせられました。(出エジプト 14:26-28; 15:7)イスラエルが荒野を旅していたさい,コラとダタンとアビラムは,神のしもべモーセに公然と反抗しました。神は反抗者たちに対して怒りを表明され,彼らの足もとの地を開かせて,それら反抗者,ダタンとアビラムをその家族もろとも飲み込ませ,一方,コラとその支持者250人を火によって滅ぼされました。―民数 16:1-35; 26:9-11。

聖書はまた,キリストの追随者たちを迫害する者も神の怒りを受けるということを明らかにしています。「汝らに患難を加ふる者に神が患難をもて報い……給ふは,神の正しき事なり」― テサロニケ後 1:6-9。テサロニケ前 2:16。

エホバ神に信仰を働かさないということは,実際には,神の真実さを疑っているか,またはご自分の約束を成就される神の力と積極性を疑っていることを物語っています。したがって,偶像崇拝をしなくても,背教の罪を犯さなくても,不道徳な「肉の行為」にふけらなくても,また神の任命されたしもべたちに反対しなくても,『しりごみ』して真の信仰の道を歩もうとしないクリスチャンは神からの怒りと滅びに価するでしょう。―ヘブル 10:38,39。

神の怒りと神の愛を調和させる

神の怒りは神が愛であるという事実と調和できることを聖書は明らかにしています。なぜそうすることができるかというと,まず第一に怒りは神の最もひいでた特質ではないからです。事実,神のことばは,「怒りやすい者とはだれとも交際をもってはなら(ない)」と助言しています。(箴言 22:24,新)神は「怒りやすい」かたではありません。神にとって,怒ることは通例ではなくて,むしろ例外です。神は「幸福なる神」なのです。(テモテ前 1:11)怒りながら同時に幸福であることはできません。神のひいでた特質は愛であって,それを表明することが神を幸福にするのです。神は『怒ることの遅い』かたです。神は完全な自制心を持っておられるので,ご自分の信条が許すかぎり,怒りの表明をおくらせることができます。―ネヘミヤ 9:17。イザヤ 42:14。

神のことばが次のように告げているのはそのためです。「我悪人の死るを悦ばず……イスラエルの家よ汝らなんぞ死べけんや」。また,悔い改めた者たちを慰めるために神は別の預言者を用いてこう言われています。「神はあはれみを悦ぶが故にそのいかりを永く保ちたまはず ふたたび顧みて我らを憐み……たまはん」。―エゼキエル 33:11。ミカ 7:18,19。

その証拠は,神がその心に最も深く愛された,そのただひとりもうけられたみ子を与えて,人間の罪のために死なしめられたことに見られます。この犠牲によって神は,そのみ子に信仰を働かせる者すべてに永遠の命と,神の怒りからの免除とを差しのべることができました。―ヨハネ 3:16,36。ロマ 6:23。

怒りではなくて愛が神の卓越した特質であることは次の事実からもわかります。それは神の怒りが表明される期間は,神の愛ある親切や善意の持続期間にくらべて短いということです。ですから,神の復しゅうの日に対照させて,善意の年と書かれているのです。(イザヤ 61:1,2)詩篇作者ダビデ王はこう述べています。「その[つまり,神の]怒はただしばしにて,その恵は生命とともにながし」。ダビデは同様に,3回,神の怒りの対象となりましたが,同時に,神の恵みとあわれみ,そして愛ある親切とをきわめて特異な仕方で示されました。―詩 30:5。

ダビデ王は神の怒りに対する正しい理解を持っていました。そして,神が怒ることに喜びを見いだす,または怒りを「はぐくむ」ことをなさらず,善意と愛ある親切をしめすことに喜びをもたれるということを知っていました。しかしダビデはまた,神の怒りを恐れるのはほんとうに知恵の道であることをも理解していました。ダビデの次のことばがさらに示すとおりです。

「エホバはあはれみと恩恵にみちて怒り給ふことおそく仁慈ゆたかにましませり。エホバはわれらの罪の量にしたがひて我らをあしらひたまはず,われらの不義のかさにしたがひて報いたまはざりき,エホバをおそるるものにエホバの賜ふそのあはれみは大にして天の地よりも高きがごとしエホバの己をおそるる者をあはれみたまふことは父がその子をあはれむが如し しかはあれどエホバのあはれみはとこしへより永遠までエホバをおそるるものにいたりその公義は子孫のまた子孫にいたらん その契約をまもりその訓諭を心にとめて行ふものぞその人なる」。神の親切のゆえに神を愛しながら,一方で賢明にも神の怒りを恐れるならば,わたしたちはダビデの次のことばに和すことができます。「その造りたまえる万物よエホバの政権」の下なるすべてのところにてエホバをほめよ,わがたましひよエホバをほめまつれ」。―詩 103:8-11,13,17,18,22。

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