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ヨハネものみの塔出版物索引 1986-2025
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3:16 洞-1 180,636-637; 洞-2 1066,1069,1251; イ解 記事8; イ聖 記事120,147; 近 231-235; 追 181; 暮 レッスン15,27-28; 塔研17.02 6-7; 塔般17.2 5; イ道 44; 塔14 3/1 3-6; 塔14 5/1 8-9; 塔10 4/1 6; 塔09 8/15 9; 塔08 12/15 12; 塔97 2/1 9-12; 塔96 2/1 4; 塔92 1/15 9-11; 偉 17章; 塔90 11/15 12,16-17; 探 242,244; 三 15-16; 塔87 2/15 10-14; 塔87 5/1 30-31; 平 118-120
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ヨハネものみの塔出版物索引 1951-1985
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3:16 塔82 8/1 21; 幸 110-111; 塔80 4/1 11-12; 塔79 4/15 12; 目79 2/8 28; 聖 25; 塔76 501; 良 117; 将 19; 目75 7/8 21; 塔74 446; 塔73 325,412,657; 平73 118-120; 目73 1/8 14; 目72 5/8 4; 目68 2/22 28; 塔66 167; 事 121; 塔64 21,58,274,682; 目64 10/8 26; 塔63 133,172,603,702; 目63 2/8 27; 塔62 171,588,666; 塔61 94; 塔60 111,457; 塔59 269; 見 18; 天 117; 塔55 29; 塔54 148; 塔53 127,383
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ヨハネ 注釈 3章新世界訳聖書 (スタディー版)
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独り子: 「ただ一人生まれた」とも訳されるギリシャ語モノゲネースは,「その種の中で唯一の」,「唯一無二の」,「特異な」と定義されている。使徒ヨハネが書いた書で,この語はイエスについてのみ使われている。(ヨハ 1:14; 3:18。ヨ一 4:9。ヨハ 1:14の注釈を参照。)神が創造した他の天使も子と呼ばれているが,イエスだけが「独り子」と呼ばれている。(創 6:2,4。ヨブ 1:6; 2:1; 38:4-7)イエスは初子で父が直接創造したただ独りの方なので,特異で,神の他の全ての子と異なっている。その子たちは,初子を通してエホバによって創造された,つまり生み出された。パウロはギリシャ語モノゲネースを同じように使って,イサクがアブラハムの「独り子」だったと言っている。(ヘブ 11:17)アブラハムはハガルによるイシュマエルや,ケトラによる数人の子の父親だったが(創 16:15; 25:1,2。代一 1:28,32),イサクは特別な意味で「独り子」だった。神の約束によるアブラハムの唯一の子で,サラの唯一の子だった。(創 17:16-19)
人類: 直訳,「世」。このギリシャ語コスモスは,一般のギリシャ文学で人類と密接に関連付けられていて,聖書では特にそうなっている。(ヨハ 1:10の注釈を参照。)この文脈のコスモスは,アダムから受け継いだ「罪」を負っているものとしてヨハ 1:29で描写されている,買い戻せる人類という世全体を指す。
愛した: これはヨハネの福音書でギリシャ語動詞アガパオー(「愛する」)が出てくる最初の箇所。このギリシャ語動詞および関連する名詞アガペー(「愛」)はこの福音書で合計44回使われていて,これは他の3つの福音書を合わせた回数より多い。聖書でアガパオーとアガペーはしばしば,原則によって導かれ支配される利他的な愛を指す。そのことはこの節での用法から分かり,罪から買い戻される必要のある人類を神が愛したと述べられている。(ヨハ 1:29)アガペーという語はヨ一 4:8で使われていて,「神は愛」と記されている。愛(アガペー)は,「聖なる力が生み出すもの」として最初に挙げられていて(ガラ 5:22),コ一 13:4-7で丁寧に説明されている。聖書での使い方から分かるように,たいていこの語には人に対する感情以上のものが含まれ,多くの文脈で意味範囲がより広い。この種の愛は,より深く考えて意識的に表現されることが多い。(マタ 5:44。エフ 5:25)それで,クリスチャンが身に付ける愛には,義務,原則,礼節を考慮に入れた道徳感覚が含まれているべき。とはいえ,愛には感情が伴わないわけではない。温かい個人的な愛情が含まれることが多い。(ペ一 1:22)そのことはヨハネの福音書での用法から分かる。ヨハネは「父は子を愛して」いると書いた時(ヨハ 3:35),アガパオーという語を使ったが,この同じ関係についてのイエスの言葉を記した時,ギリシャ語動詞フィレオー(「愛情を抱く」)を使った。(ヨハ 5:20)
独り子に信仰を抱く: 直訳,「彼の中へ信じる」。ギリシャ語動詞ピステウオー(一般に「信仰」と訳される名詞ピスティスと関係がある)は,「信じる」,「信仰を持つ」という基本的な意味があるが,文脈や構文によって,意味の微妙な違いを表現できる。この語は,誰かが存在すると単に信じたり認めたりする以上のことを意味する場合が多い。(ヤコ 2:19)従順な行動に至る信仰や信頼という考えを含む。ヨハ 3:16で,ギリシャ語動詞ピステウオーは,前置詞エイス(「中へ」)と一緒に使われている。この組み合わせについて,ある学者はこう述べている。「信仰とは一種の活動,何か人が行うこと,つまり誰かに対して信仰を置くことと考えられる」。(「新約聖書ギリシャ語文法入門」[英語],ポール・L・カウフマン,1982年,46ページ)イエスは明らかに,信仰の単なる1回の行為ではなく,信仰を特色とする生き方のことを述べている。ヨハ 3:36で,「子に信仰を抱く人」というよく似た表現が「子に従わない人」と対比されている。それで,その文脈で,「信仰を抱く」ことには,従うことによって強い信仰を表すという考えが含まれている。
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