神の目的とエホバの証者(その12)
「『あなたがたは私の証者です』とエホバは言われる。」― イザヤ 43:10,新世訳
第10章 辛抱し忍耐するために強められる
ロイス: 証者たちの悲しみの時は,いつ始まりましたか。
ジョン: 1914年です。それは非難をうけたとき,試練をうけたとき,そして失望を感じたときでした。しかし,エホバは耐えられないものを御自分の民に決してあたえません。そのわけで,辛抱し忍耐するようにすすめる激励とさとしの言葉は,「ものみの塔」の頁を通してくりかえし述べられていました。1914年1月1日号の「ものみの塔」(英文)の中で,パストー・ラッセルはイエスの初期の弟子たちの立場と1914年という意味深い年を迎えた弟子たちの立場とをくらべて,次のように述べていました。
このことについて神の民が失望を感じている,と我々は知っている……初期の時代の教会が迫害をうけていたとき,くるしみをうけた者たちはすぐに栄光にはいるものと信じられていた。彼らは御国が近いと考えた。失望を感じたある者たちは,ひきつづき待って希望し,祈りつづけた。他の者たちは大きな法王組織をつくって,教会はいま栄化されるべきである,と言明した……
我々は,教理の事柄におけるほどぜったいの確実性をもって,時の事柄を読めるわけではない。なぜなら,時は基礎的な教理ほど明確に聖書中に述べられていなからだ。我々はいまでも信仰によって歩いているのであり,目で見えるものに従っているのではない。しかし,我々は不信仰な者ではない。むしろ,忠実であって,待っているだけである。もし後になって教会が1914年の10月までに栄化されないなら,我々は主のみこころがどんなものであろうとも,それに満足を感ずるようにつとめよう。……年表は祝福であると我々は信ずる……それは我々を目ざめさせるべきである。……朝早く目ざめれば,それだけけっこうなことである! 目ざめている者だけが祝福をうける……
主のみこころにより,その時が仮に25年後に来るとするなら,それは我々の意志でもある。このことは,次のことを変えるものではない,すなわち神の御子は御父によりつかわされたこと,御子は我々人類のあがない主であること,彼は我々のために死なれたこと,彼は御自分の花嫁として教会を選ばれていること,そして次に行なわれるべきことは大いなる仲立者の御手にあって栄光にかがやく御国を設立することである。……彼は地の全家族を祝福するだろう。これらの事実はかわることはない。a
5月,パストー・ラッセルはふたたび預言とその期待されていた成就に言及し,時の預言のたしかなことを警告しまた。「ものみの塔」(英文)からの別の引用文を掲載します。
主は預言者ダビデを通して,(詩 149:5-9)次のように述べている,「聖徒はえいくわうの故によりてよろこび,その寝牀(ふしど)にてよろこびうたふべし,その口に神をほむるうたあり,その手にもろはの剣ありこはもろもろの国に仇をかへし……録したるさばきをかれらに行ふべきためなり,かかるほまれはそのもろもろの聖徒にあり」。いままで,この聖徒たちの栄光について述べられていることは幕をかけられた後,すなわち第一の復活の完了後〔彼らが天に連れさられた後を彼は意味している〕に適用することについて,すこしの疑問をもいだかなかった。しかし,その言葉をさらに注意深くしらべてみると,そのような仮定に強い確信を持つことができないということが分かる。我々はひとつの可能性として,次の提案をする,すなわち聖徒たちの一部は幕をかけられた後に栄光にはいり,そして幕のかけられる前にいる者たちが肉体を持ったまま主のよろこびに全くはいり,主のわざに参加するときがくるかも知れぬ……
しかし,ここの寝状(ふしど)という言葉は,聖書中の他の場所に出ている使用法と一致した見解をとるとき,信仰の休みを示す。つまり,これらの聖徒たちは,休息と反対の状況の下にあって,休息していたのだ。……
また,その預言によると,彼らの口に神をほむる歌があり,その手にもろはの剣がある。この「もろはの剣」は,他の箇所に示されているごとく,あきらかに神の御言葉のことである。幕をかけられて後に聖徒たちが神の御言葉を取りあつかっているなどは,とうてい想像することができない。むしろ,このことは次のことを示しているように見える,すなわちここに述べられている聖徒たちは幕のこちら側にいて,神の御言葉である御霊のつるぎを用いて神にほまれを帰している。―そして,無知,迷信,および暗黒時代の信条がもたらした不名誉を神の御名から取りのぞいている。b
神のわざは徐々になされるものと判明
翌年になってすぐ,ラッセルはこの詩篇 149篇にふたたび言及して,次のように書きました,
「録したるさばきをかれらに行なふ」という最後の言葉は,幕のこちら側にいる聖徒たちが諸国民に対するさばきの執行となんらかの関係を持つように見える。その意味がいったいどんなものかは,我々にはまだ分かっていない。しかし,主の御国が運営を始めて,現代の諸国民が御国の支配の下に打ちくだかれるという考えにむじゅんするものは,ここにひとつもない……
我々はこう考える,すなわち異邦人の時が終って,神の御国がそのわざをはじめた,という一層の証跡をさらに毎日探し求めねばならぬ。……主の大いなる日であるいま,不正なものふさわしくないものがひとつも残らないようにするため,ふるわれるものはこなごなにふるわれてこわされている。神ご自身が,そのふるわれることをしておられる。c
1914年11月11日号の「ものみの塔」(英文)の中で,ラッセルはふたたび忍耐をつよくすすめました。彼は次のように書いています。
我々の主はこう示した,すなわち主はその再臨のとき,正しい心の状態を持つ主のしもべたち全部は主が戸を叩く音を聞いて,主のために戸をすぐ開け,主は中にはいって,彼らと共に食事をとる……
1875年が来たとき,すべてのことは24時間以内に完了したか。そのようなことはぜったいにない! すべてのものは同じ瞬間に目をさましたか。彼らは,この収穫の時の期間中に目をさましてきたのではないか。そして,我々のうちの或る者は,ながいあいだ目をさましていなかった。d
それから,彼は1914年前の40年にわたる収穫の期間に生じた多くの出来事を語って,次のように言葉をつづけています。
我々はこれ以上詳細にはいらない。ただ次の考えを印象づけたいとのぞむ。すなわち,これらの預言の成就は突然になされたのではなく徐々になされたということだ。それらの預言の成就は,特定な時に始まっており,その成就はたしかなものである。過去からのこれらの教訓を考えるとき,我々は将来について何を考えるべきか。……
主は,異邦人の時が終るその瞬間に御自身を啓示される,と我々は期待すべきであろうか。そうではない。聖書の言葉によると,主は「燃える火」のうちにあらわれる。異邦人の時が終って後,主が「燃える火」のうちに表われるまでの時がどのくらいか,我々は知らない。……
主の臨在(パルーシア)の収穫のわざが,現在までの40年間に行なわれた徐々のわざであったなら,そして終りの時がおそい期間であるなら,現在の組織がとりのぞかれ,いまの組織制度が処罰されて滅ぼされ……正義の支配を始めさせるこの期間はどのくらいであろうか。そのような状景から判断すると,その移り変りはきわめて長い年月を要するものと,我々は期待する。e
それから,1914年の12月15日号の「ものみの塔」(英文)の中で,パストー・ラッセルはテサロニケ前書 5章4,5節を引用し,次のような激励の注解の言葉を述べています。
神は定めたもうた時に御自分の真の子供たちに光を与え,子供たちが正しい時に神の計画を理解するよろこびを持つと神は約束した。……我々の変化の時が10年以内にかりに来なくても,我々にはそれ以上の何を求めるのか。我々は祝福された,幸福な民ではないか。我々の神は忠実な方ではないか。もしある者が,これよりすぐれたものを知っているなら,それを持つがよい。もしあなたがたのうちのあるものが,それよりもすぐれたものを見出すなら,私たちに告げてもらいたい。我々は,神の御言葉中に見出したものよりすすぐれたもの,あるいはその半分も良いものを知っていない。f
すべての者に対する仕事
パストー・ラッセルは,辛抱づよく忍耐するようにと兄弟たちをはげましただけでなく神の奉仕にいそがしく励み,手近にあるわざを熱心に行なうよう兄弟たちにすすめました。1915年の初期,彼は「ものみの塔」(英文)の中で次のように書きました。
主の子供たちの中の幾人かは「戸が閉じられ」て,奉仕の機会はもうないという考えを持つ者がいる。それで,彼らは主のわざになまけている。我々は,戸が閉じてしまったなどということを夢に見て時間を浪費すべきではない。真理を求めている人々や,暗やみにすわっている人々がいる。現在のような時は,いまだかって一度もない。現在ほど,大ぜいの人々が良いたよりを聞きたいとのぞんだ時はいままでにない。40年の収穫の年のうち,いまほど真理を宣明する機会は,一度もなかった。大戦争と時代の不吉なしるしは,人々を目ざめさせており,多くの人はいま質問している。それで,主の民はいっしょうけんめいにはたらき,自分の手で行ない得ることを全力をつくしてしなければならぬ。g
このようにたえず激励されたので,当時のエホバの証者はかたい立場を保ち,将来の年月をするどい期待をもって待ちのぞみました。もちろん,大ぜいの人々はそうしたのです。たしかに,反対は増加して,はげしくなってきました。しかし,それはまた大きな試練の時でもあり,目ざとい者たちや,神の御こころを熱心に行なおうと思った人々は,その立場をしっかり保ち,将来の祝福をいただく準備をととのえました。パストー・ラッセル自身は,神の民のために備えられている大きなわざを確信しました。ラッセルと親しく交わった人々で,今でも生きている人々の話によると,彼の先見ははっきりしていたとのことです。ラッセルは彼らと交わる者の数が増加するから,それに対して準備しなければならぬ,と告げました。彼自身,制度を密接にむすびつけるためいくらかの変更を行ない,彼が個人的に変更を行なっていけない将来に備えて,他の人々にそのことをすいせんしました。群れがニユーヨーク市内いたるところで会合し,すべての者がブルックリンに来て一つの会衆に集まることができない時が来ると彼は知っていました。彼が先見したこの大きなわざが達成される前にどれほど大きな忍耐が必要であったかはラッセルはすこしも知らなかったのです。
1915年が過ぎて,1916年が始まると,彼は神の羊の群れにもう長く仕えることができないと知りました。彼の健康はとみにおとろえて,あらゆる方面からの多くの義務を果たすことは,ますます困難になってきました。しかし,パストー・ラッセルは断念しようとしませんでした。特に彼の宣教のはじめ頃,彼はクリスチャンとしての強い決意と精力によって,ほとんど単身でキリスト教国の宗教界に直面することができました。また,それに加えて神の御霊により,彼は制度の内部に生じた一切の腐敗的な影響をしりぞけることができました。その精力とクリスチャンとしての強い決意は,なお彼からはなれず,彼は晩年になってから,いままで大切にしてきたエホバへの奉仕をやめるなどということは,とうていできなかったのです。
1916年の秋までには,彼の身体の具合ははなはだ悪くなりました。しかし,ラッセルは前もって計画したカリフォルニアと西部地方の講演旅行をすることをのぞみました。10月16日月曜日,ラッセルおよび同伴者はカナダを通ってデトロイトに行き,次にシカゴに行き,カンサスを通ってテキサスに行きました。数度ラツセルの同伴者である秘書が,ラッセルのかわりに講演しなければならないほどでした。10月24日,火曜日の夜,彼はテキサス州,サンアントニオ市で最後の公開講演をしました。しかし,この講演中,彼は少時間でしたが,3度演壇から離れねばならず,彼の秘書がその間ラッセルの代りに話しました。
チャールス・ティー・ラッセルの死
会衆に対してなされた彼の最後の話は,1916年10月29日,カリフォルニア州ロサンゼルスで行なわれました。このときには,彼は非常に弱くなっていたので,すわったまま話をすることが必要でした。ラッセルは,もう状態が悪化して,旅行をつづけて行くことができないと知り,他の約束全部を取りけし,できるだけ早くニューヨークのベテルの家に帰ることにしました。彼は10月31日,火曜日,テキサス州パンパで旅行中に死にました。h
彼の死についての記事は,1916年11月15日号の「ものみの塔」(英文)に掲載されました。
ものみの塔の編集者,パストー・チャールス・ティズ・ラッセルの急死は,全世界にいる彼の多数の友たちに深い感銘を与えた。幾百通という手紙や電報がうけとられている。それは,ラッセルが愛せられ尊敬されたことをさらに示し,また彼が長年のあいだ擁護してきた大義を今後も行ないつづけるという強いのぞみを表わしている。
ラッセル兄弟は,10月16日の夕方ブルックリンを出発した。それは西部と南部における講演をするためであった。しかし,病気のため予定の時より早目に帰ることが必要になった。
サンタフェ汽車に乗車中テキサス州パンパで彼は死んだ。彼の秘書としてこの旅行に同行したメンタ・スタージオン兄弟は,その知らせをブルックリンのものみの塔聖書冊子協会本部に電報で伝え,「彼は英雄のごとく死んだ」とつけ加えた。
遺体は,土曜日の1日中ベテルの家に安置され,日曜日は1日中テンプルに安置された。
午後2時,会衆のための葬式がとり行なわれ,夜には一般人のための葬式がとり行なわれた。
真夜中,遺体はペンシルバニア州アレゲニーにはこばれ,月曜日の午後2時にはそこのカーネギーホールでピッツバーグ会衆により葬式がとり行なわれた。ラッセル兄弟は,長年のあいだその会衆の居住牧者であった。
彼の要求により,その埋葬はアレゲニーにあるローズモント・ユナイテッド墓地のベテル家族用地で行なわれた。
彼は,むかしの聖徒たちのように死の眠りにつかず,その「わざが彼について行く」者の中に数えられているのを知り,我々はよろこびを感ずる。彼は我らの愛する主と空中で会われた。彼は主を深く愛したので,主への奉仕を行ないつづけ忠実のうちに自分の生命を捨てたのである。i
このようにして,真実に強力なクリスチャン奉仕の忠実な長い生涯は終りました。パストー・ラッセルほど奉仕の特権を楽しんだ人の数はごくわずかでしょう。彼は自分自身の誉を求めようとせず,エホバの証者も人間としての彼に誉を与えようとしません。しかし,あらゆる試練の下にも,彼が忠実な奉仕を行ない忠節を保ったという記録は,すべての人を発奮させるすばらしい記録です。ものみの塔聖書冊子協会の初代会長として,シー・ティー・ラッセルは32年間エホバの証者に奉仕しました。彼は公開講演者として1600万キロ以上を旅行し,3万以上の説教をし,5万ページ以上におよぶ本を書き,しばしば毎月1000通の手紙を口授し,700人の講演者を擁する世界的な福音伝道運動のあらゆる部門を管理し,そして最も驚嘆に値する聖書の劇を個人で編集したと言われています。j
ロイス: 奉仕伝道者としては,それはほんとうにすばらしい記録ですね。そんなつらい仕事をしたので,精力をすり切らしてしまったのも分かりますわ。ラッセルさんは尊敬に値する人です。彼が死んだので制度内に大きな穴があいたような感じになったでしょう。
ジョン: そのとおりです。しばらくのあいだ人々は彼の死を惜しみました。彼の葬式のとき,多数の親友や側近くで働いた人々は,その大きな損失について語りました。そして,ジェイ・エフ・ルサフォードのした夜の葬式の話の中で,次のような賛辞が彼にささげられました。
頑健な体,英知に富む頭脳,そして勇敢な心を持ち主に全く献身していた彼は,メシヤの御国の大いなる音信とそれが世界にもたらす祝福について人々を教えるために没頭し自分の持つすべての力を用いた。
[脚注]
a (イ)1914年の「ものみの塔」(英文)4頁。
b (ロ)1914年の「ものみの塔」(英文)135頁。
c (ハ)915年の「ものみの塔」(英文)53頁。
d (ニ)1914年の「ものみの塔」(英文)326,327頁。
e (ホ)(ニ)と同じ,327頁。
f (ヘ)(ニ)と同じ「ものみの塔」(英文)377頁。
g (ト)1915年の「ものみの塔」(英文)55頁。
h (チ)1916年の「ものみの塔」(英文)360-366頁。
i (リ)1916年の「ものみの塔」(英文)338頁。
j (ヌ)「聖書の研究」第7巻,57頁。1953年8月23日のペンシルバニア州ピッツバーグ「プレス」雑誌欄6頁を見なさい。また1917年の「ものみの塔」(英文)131-136頁,323-326頁。および1916年の「ものみの塔」(英文)356-359頁にある伝記に関する報告を見なさい。