クリスチャンは真実の中に生活す
『それで,あなた方は偽りを棄てたのであるから,おのおの隣人とともに真実を語りなさい。なぜならば,私たちは互いにつらなる肢体であるからだ。』― エペソ 4:25,新世。
1 どんな形の嘘にしろ,それはなぜ神の会衆内にあつてはなりませんか?
ヱホバ神は,活動している新しい世の社会をいま持たれており,全世界にわたつて人々を選び,彼らを訓練して新しい世の生命を得させようとしておられます。これらの人々に対してヱホバ神が期待されていることは,各自が汚れを取つて清さを保ち,サタンの支配下にある古い組織制度から離れることです。その人々のあいだでは,この世の行うような慣習をする余地はありません。私たちがしなければならないいくらかのことは,コロサイ書 3章に述べられていますが,その9節と10節は次のように教えています。『たがいに嘘を言つてはならない。古い人格をその行いと共に脱ぎ棄てて,新しい人格を着て,正しい知識により造り主の像に従つて新しくされなさい。』現在クリスチャンはその生活の仕方に注意をすべき時です。嘘を言わせ,真実に反対させようと導く事柄を避ける事は賢明です。『あなた方のうちで,賢明で物分りの良い人は誰であるか。その人に,智恵につく謙虚な業を,その正しい生活から示させなさい。しかし,自分の心の中に苦々しいねたみや争いを持つならば,誇り高ぶつてはいけない。また真実に反対して嘘を言つてもならない。』(ヤコブ 3:13,14,新世)この聖句の言うことは,人がその心にねたみや争いを持ち,そしてその心が正しくないならば,その人は程無くして嘘を言い始めるであろうと,いうのと全く同じことです。一つの悪は,次の悪になります。一つの嘘は,次の嘘を生みます。しかし,神の会衆内ではどんな形のものであつても,嘘が存在してはなりません。噓は悪いものです。嘘はヱホバの御心にかなわないものです。
2 会衆内で噓を行う者たちにどんな結果が来ますか?
2 昔しでも今でも,ある人は神の会衆内で嘘を言をうとした場合がありました。そのためにいつも面倒なことや難儀が生じたのですが,特に嘘を語つた人々にそのような結果になりました。嘘を言つたり,偽りを語つたり,欺いたりする理由は,多くの場合に,人を恐れたり,また各人の誇りによるのです。使徒行伝 5章(新世)は,こう述べています。『しかし,アナニヤという人は,その妻サッピラと一緒に,資産を売つたが共謀して,その代金を人知れぬように手元に残し,一部だけを持つて来て使徒たちの足もとに置いた。そこでペテロは言つた。「アナニヤよ,どういうわけでサタンの力の影響をうけて,聖霊を欺き,地所の代金をいくらか人知れぬよう手元に置くのか? 地所を売らずに置けば,あなたのものであり,売つてから後でも,あなたの思い通りになつたではないか? どうして,こんなことを心に考えめぐらしたのか? あなたは,人間にではなく神を欺いたのである。」アナニヤはこの言葉を聞いて,倒れて息が絶えた。それを聞いたすべての人は,非常に恐れた。』彼の妻も夫と同じく嘘をついて,同じ裁きに会いました。両人ともに偽善を行い,他人の前で,実際の者とは違う者のように見せかけたく思いました。真実の事を述べて,うけとつた代金の一部を提出していると言つたならば,悪いことをしたわけではありません。でも両人の心は正しくなかつたのです。ヱホバは両人の心の奥底を探し,その動機は何で,なぜそのような事をしたのかを見られ,その心は悪いと知られたのです。その結果にヱホバの災いの裁きが彼らに及んだのです。アナニヤとサッピラの場合に,ヱホバは両人を永久に除名されたのですから,嘘を言う人々を除名することができます。噓を言つたり,偽りを行うのは,割に合わないものです。
兄弟間の真実
3,4 (イ)会衆の僕たちが聴問を行う時に,証人はどんな種類の証言をしなければなりませんか?(ロ)嘘を言うように導くどんな要素をクリスチャンたちは避けるべきですか?(ハ)偽りの証人のために害がされたことについて,どんな聖書の例がありますか?
3 兄弟たちと係り合いを持つたとき,私たちは真実を語るべきであつて,会衆を汚れなく,清い,真実に満ちたものに保たねばなりません。ヱホバ神は,シンゲン 6章19節で,嘘を語る偽りの証言を憎まれると言われておられます。いつも真実が語られるならば,正しいことが行われます。訴えられた兄弟は,会衆の僕たちの前で聴問をうけ,包み隠すことなく述べるようにと尋ねられることがあるかもしれません。問題は,その兄弟が善をしたか,悪をしたかということです。証言に召ばれた人は,たとえこの世的な考えを持つ人から迫害や叱りを少しうけようと,その兄弟について真実を語ります。ある形の報復があると恐れて,その証言に着色するような事は許されません。この世の人で原始的な心を持つ人々は,魔法の力を恐れて嘘を言いますが,ヱホバの証者にはそのような恐れがありません。神の十分な武具は,ヱホバの証者を保護します。(エペソ 6:11-20)家族関係とか,また忠節についての間違つた考えである閥族思想を持つて,証言を歪め,悪行をした者を保護してはなりません。またある人は,上位と考えられる人には,気に入るようなことを言つて,いつもよろこばせたい気持を持つております。しかし,会衆の聴問の時でも他の時でも人の耳をよろこばせようと願つて,嘘をついてはなりません。ヱホバをよろこばす者は,清い証言をするべきです。クリスチャンの口から,嘘と真実が出てくることはありません。―ヤコブ 3:10,11。
4 ある偽りの利益のためかまたは賂路されて偽りの証言をする噓言者がおりますが,ヱホバはそのような者を好みません。人は聴問をうけた時に被告を困らせようとして偽りを言つてはなりません。偽りを言う者は,神から憎まれます。偽りの証言を話せば,ある人の恩恵を得ることができるか,または個人の利益を図れると考えるかもしれませんが,しかしその人はヱホバの恩恵を必らず失います。『真の証人は,いつわらず,偽りの証人は偽りを吐く。』(シンゲン 14:5)ある人について証言する時に,偽証を行つてすれば,多くの害がその人になされるものです。ナボテは,偽証をした人々のために殺されました。(列王紀略上 21:8-13)偽りの証人たちは,イエスの不利になるように証言し,イエスを殺すのに力を添えました。偽りの証人たちは,ステパノの不利になるように証言しました。偽証は間違いであつて,ある形式の噓です。その結果が他人に害を及ぼす時には,偽証は特別に悪いものであつて,また殆ど大抵の場合に害を及ぼすものです。―マタイ 26:60,61。使行 6:10,11。
5 偽証に抗するのは,どのようにまた何時するのが適当ですか?
5 人は,自分の不利になるつまらない噂話しなどに気を留めず,見過すことができますが,しかしある人が,法廷の前であなたの不利になる偽証をする時には,自分について弁明をし語られた嘘を論駁する証拠を提出するのは全く正しいことです。あなたの不利になる噓が,記録の中に書き留められてはなりません。使徒パウロは,支配者たちの前で自己弁明をいたしました。イエスの場合は違います。イエスは群衆の前にいて,また正しい裁きなどは念頭にない悪者たちの前にいたのです。長く話しをしても,それは無益なものでしよう。それに,イエスは自分の生命を与える時が来たことを知つていました。悪者が不利になるようにと偽りの証人をひき出すときに,一瞬のあいだ怒りを感ずるかもしれませんが,しかしどんな場合でも平静を保つて落着きを失わず,また嘘を言つて仕返してはなりません。私たちは神の律法を守り,その正義の原則に従い,そして真実を語り続けます。悪い者たちは,自分自身の行動にその責任を取ります。―詩 119:69,70。
6,7 兄弟の福祉を守り,会衆内に一致を保つため,何がされねばなりませんか?
6 ある場合には,兄弟たちの福祉を守ることに考慮を払わねばならない時があります。兄弟について質問を尋ねられることがあり,その質問はなにかその兄弟の個人的な性質に関するものの場合があります。しかも尋ねる人は,問い調べて知る権利を持つ会衆の責任ある僕でないならば,クリスチャンの兄弟は一言も言わずに答えず,自分だけの用向きに注意して,兄弟を守ることがいちばん良いのです。他人のことにあれこれ穿鑿しようとする人々を失望させなさい。別の言葉で言うならば,噂話しとか,人の悪評とか,流言を始めたり,兄弟の欠点を探すのを避けるのは良いことです。ヱホバは,嘘を言う証人を憎むばかりでなく,また兄弟たちのあいだに不和を播く者をも憎まれるということを記憶しなさい。兄弟についてひそひそ話しをするのを止めなさい。ある人がたしかに悪をしたと考え,それについて言いたいと思うならば,直接その人のところに行きなさい。ひそひそと噂話しを始めてはなりません。はつきりした言葉で言つて,私たちを教える訓告はこうです。すなわち,私たちは自分自身の用向きだけに注意すべきであつて,しかもそれはヱホバの御言葉と一致すべきものであるということです。そうするならば,お節介をして生ずる難儀や困難を避けることができます。―シンゲン 16:28; 18:8。マタイ 24:48-51。ペテロ前 4:15。
7 それで,霊的な援助を必要とするある兄弟があなたのところに来て,自分の問題や,個人的な困難な事,またはずつと以前にした悪いことでしかも除名するには当らないことなどを告げるような時には,円熟したクリスチャンの兄弟として,その問題の解決のしかたを助言しなさい。あらゆる面で,その兄弟を援助しなさい。しかし,すべて事には時があるということを記憶しなさい。兄弟たちが困つている時に,その悩みから助けなさい。誰であろうとすべての人に,知つていることをなんでも話す必要はありません。兄弟を助けなさい,しかし他の人に,その兄弟の問題や,難儀,家族の紛議,そしてまた困つた時にあなただけに打ち明けた他の事がらを言つてはなりません。あなたの兄弟に愛を示しなさい。神の制度の一致のために,それをいたしなさい。―シンゲン 11:13。
8-10 (イ)兄弟たちに対するどんな行為によつて,私たちは神を愛しているということが証明されますか?(ロ)噂話しや無益なおしやべりは,どのように兄弟に害を加え,そしてクリスチャン愛の欠如を示しますか?
8 自分はクリスチャンであると言い,神を愛する者であると言うならば,その兄弟をも愛さねばなりません。もし兄弟を愛さないならば,その人は実際には嘘の生活をしています。『私は神を愛していると言いながら,兄弟を憎むならば,その者は偽り者である。目に見える兄弟を愛さない者には,目に見えない神を愛することはできない。神を愛する者は,その兄弟をも愛さねばならない。このいましめを,私たちは神からいただいている。』― ヨハネ第一書 4:20,21,新世。
9 ある兄弟は多分20年前に間違いをし,その当時に自分の非行を告白して許されているのに,他人が,そのことをいつも引き合いにだすのは必要ではありません。それは,その兄弟に愛を示していることではありません。兄弟を真実に愛すならば,その兄弟について噂話しをしたり,話しをしてはなりません。本当に,話しをする時は真実を言わねばなりませんが,しかし兄弟について知つていることを全部言う必要はありません。本当にその兄弟が許されているならば,その問題は閉じられて,終つたものであり,御国会館で毎週話し合つたり,会衆内で語るべきではありません。その兄弟についていつも,おしやべりをしたり,その欠点を表向きにしようとする人々は,どこに恵みを表していますか? それは,一致をいつたいもたらしますか? それは,会衆の調和とよろこびの霊をいつたい守りますか? もしお話ししたいと願うならば,御国の真理や野外奉仕の経験は多くあり,互いに話し合うことができます。
10 噂話しや,無益な話しをして不和を播き,また偽りの教理で欺きをする人々は,ヱホバの制度の福祉に気を遣つてはおりません。パウロは,テトス書 1章10-12節で,いましめに従わず,無益なおしやべり屋で,心を惑す者たちについて語り,その嘘の教えによつてどのように家庭を破壊するかを示しています。『クレテ人』は,いつも嘘を言う者であると,パウロは言つています。これと結びついて,会衆の監督者は,真実に反対する者たちを責めねばならぬと,パウロは9節で示しました。神の会衆内には,真実が保たれるべきです。
正しく正直に行う
11 (イ)正直と真実の関係は,どのようなものですか?(ロ)不正直な者でも,しばらくのあいだ神の会衆と交ることがあり得ますか?
11 『人よ,ヱホバさきに善きことの何なるを汝に告げたり。ヱホバの汝に要めたまう事は,ただ正義を行い,憐憫を愛し,謙遜りて汝の神と歩むことならずや。』(ミカ 6:8)正しく又は正直に行うことと,真実を語ることは互いにぴつたりし合うものです。それらの特質は,クリスチャンの中になければならないものです。クリスチャンは,互いに正直に交渉し合い,そして助け合う兄弟たちです。しかし,憐み深いクリスチャンであつても,もし良い心持ちを持たないある者が制度に入つてきて悪い行をした場合に,その悪行を我慢して許す必要はありません。時折りに,ある人は集会に来たり,またはヱホバの新しい世の社会と交際をいたしますが,それらの人々の心の奥底を探つてみると,正直な人ではなく,また真理と正義を愛する人ではないのです。そのような人は,『寄生者』とも言われることがありますが,詐欺や欺瞞をしたり,また兄弟のお金や品物や持物を借りに行きますが,しかし心の中では返済する意向は全然なく,そしてまた決して返済しないものです。これらの人々は,表向きにはキリスト教を装いますが,その利害は全く利己的なものです。ユダは,貧亡な人々に偽善の同情を示した盗人でした。―ヨハネ 12:6。
12 (イ)兄弟からお金を借りることは良いことですか?(ロ)昔しのイスラエルで,ヱホバは正直に対する準備をどのようにつくりましたか? また,問題を落着するために,罪人には何が要求されましたか?
12 兄弟からお金を借りるということは,あまり良いことではありません。お金を借すことは,時に愛を示すことになりますが,大抵には会衆内に面倒をひきおこすことになります。(ルカ 6:35)兄弟同志が事業をして金を支払う,又は品物を確かに支給するということについて契約をつくるならば,その約束を守り,真実を語り,不正の行為を避けるべきです。記憶はあやふやなもので,当にすることができず,それに問題を避けるのを助けるためにも,そのすべての折衝の時に正式な記録を書き留めることは適当なことです。神の目から見て,騙ることや,欺くことや,また不正直は,罪のものです。ヱホバは,昔のイスラエルの民の中で,これらの罪に対する贖いの御準備を設けられました。非行をした者は,その兄弟と問題を落着し,ヱホバの御前で解決することが必要でした。『人もしヱホバにむかいて不信をなして罪を獲ることあり。すなわち,人の物をあずかり,又は質にとり,又は奪いおきて然ることあらずと言い,あるいは人を虐たぐることをなし,あるいは人の落せし物を拾いおきて然ることなしと言い,偽りて誓うことを為すなど,すべて人の為して罪を獲るところの事を一つにても行わば,これ罪を犯して身に罪ある者なれば,その奪いし物その虐げて取たる物その預りし物その拾いとりし物,およびすべてその偽り誓いし物を還すべし。すなわちその原物を還し,その上に五分の一をこれに加え,その愆祭をささぐる日にこれをその本主に付すべし。彼その愆祭をヱホバに携えきたるべし。すなわち,汝の値ずもりにしたがい,その愆のために群の中より全き牡羊をとり祭司にいたるべし。祭司はヱホバの前において彼のために贖罪をなすべし。然せば,彼はその中のいずれを行いて愆を獲るもゆるさるべし。』― レビ 6:2-7; 19:11-13。
13 正直についてのヱホバの原則は,今日までに変つていますか?
13 私たちクリスチャンは今日むかしのイスラエルと同じ祭司制度の下に従つて生活していませんが,しかし正直で正しくなければならずそしてすべての負債と質物を正しく処分解決せねばなりません。兄弟を騙つてはならず,兄弟の事柄を正しい関係にし,悪がなされるならばヱホバの許しを願いなさい。兄弟はすべての事業で,互いに正しく行い,嘘,不正直,そして騙りを全くなくしてしまいなさい。
14 借したものを返済してもらいたいと望むときに,クリスチャンの取る正しい行為とは何ですか?
14 ある兄弟や,会衆から,協会に時折報告が来て,不正直で,不道徳な者が会衆に潜び入つてきたということを知らせます。(ユダ 4)不道徳な行をする者に対する処置は明白ですが,しかし兄弟たちを餌食にする者や,ただ金を取ろうとする目的のために兄弟らしく見せかける者たち,また『悪しき者はものかりて償わず』と詩篇記者の言うような人々についてはどうでしようか?(37:21)それらの者たちについては,どんな処置をしますか? 兄弟らしく見える者に,愛と親切な気持ちから,しばらくのあいだお金とか品物を貸したといたします。しかし,定めた時が過ぎた後でも,借りた者が返済しないならば,貸した人は,お金と品物を借りた人のところに行き,全部すつかり返済するようにと要求することができます。兄弟と旨く行かないものがある時は,その兄弟のところに行き,その兄弟に話をするのは正しいことです。(マタイ 18:15-17)その者が正しい解決をしないならば,その兄弟は会衆の僕に話しをし,加害者の出席する委員会の聴問を開くよう取り極めることができます。こういう時になると,書かれて署名された契約書があると,有利なものであることが分ります。そうすればお互い同志の言葉のやり取りの問題ではなくなります。もし有罪ということが確実に判明されるならば,委員会は加害者に制限した時,といつても十分適当な時を課して,その負債を落着させるか,またはなした悪を正しく解決させます。
15 (イ)兄弟が借りたものを正しく返済するのを拒絶し,または返済できないときに,会衆によつて何がなされますか?(ロ)負債を解決するために,この世の法廷に行くのは全く正しいことでしようか?(ハ)法廷に行く前に,何を考慮すべきですか?
15 加害者が正しい,適当な解決しない場合に,貸した兄弟はその負債者の兄弟を法廷に連れて行き,その兄弟を訴えるのは正しいことですか? 聖書の助言に従うと,私たちはそのような問題を会衆の円熟した兄弟たちの前に提出すべきであつて,兄弟を法廷の前に連れて行くべきではありません。(コリント前 6:1-10)しかし,その者が強奪者ならば,会衆から除名することができます。それから後には,その者を避けるべきです。会衆から除名されることは,人間によつてなされる裁きのうちで,一番大きな罰です。というのは,円熟した兄弟が聖書の助言に従つて行う時,それは実際にはヱホバの代りに行つているものであり,その裁きは神の御言葉からなされているものです。騙られた人が,除名された者を法廷に連れて行くかどうかは,その人の決定次第です。除名された者はもはや兄弟ではなく,また会衆はその事件については力を行使尽くしていますから,唯一つの手段はその地の法廷に訴えることです。でも,時と金を含む費用を考慮することは良いことです。法律訴訟は,費用の掛かるもので,時々に弁護士がその報酬を貰い,なんでも旨い汁を吸うという結果になります。また,そのような公共の行いによつて,業の上に来る非難ということを考えるのも必要です。その理由で兄弟は,自分の兄弟を法廷に連れて行かないのです。そうするならば,制度の上に非難が来ます。パウロの述べた言葉によると,制度に非難をうけるよりは,騙られていた方が良いということです。しかし除名された者のときに,たとえ一般の人が,訴えられた者は除名されているということを認めなくてもその立場は異ります。仮りに合法の手段を使用するならば,取られたものを弁償させるということを目標にすべきであつて,復讐ということを目標にしてはなりません。そこまでに行つても負債を返済させようと願う者は,最初からその約束を書き留めて置くべきです。または被害者の兄弟が,その問題を止めるならば,その問題はヱホバの御手に任されます。ヱホバはすべての人の心を探り,その動機を知り,そして善を行う者には生命の報酬を与えます。―ロマ 12:17-19。コリント前 5:11-13。ヘブル 10:26-31。
16 兄弟は負債者に憐れみをどのように示すことができますか?
16 多くの場合に憐れみを加味すべきです。ある人は数ドルを借りて,返済するのをすつかり忘れてしまうということがあります。でもそれはなにも騙るというような意向は無いのです。借りを返還することについて,その兄弟には情状を酌量すべきです。それに,その兄弟の心が良ければ,その借金をきれいに返済したいと欲するものです。またある兄弟は困つてはおらず,借金を免除してあげたいと欲するかもしれません。(マタイ 6:12; 18:23-35。ルカ 7:41-43)誰一人として,自分の借金が免除されるなどということを期待してはなりません。借金の免除はされるべきものではありませんが,しかし兄弟の心の中にある愛によつて免除されることもあります。負債者は,良心と善い心からその負債をきれいに返済しようと欲すべきです。そして少くとも努力はすべきです。会衆の委員会は,小さな事柄の場合に,病気で貧しい人の負債は免除されるようにと聴問の際に勧告するかもしれません。しかし,それは勧告に過ぎず,貸した者が最終的に決定すべきです。このことから,会衆の委員会を構成する僕たちは,是非とも賢明で,円熟した兄弟でなければならないということが分ります。
17 (イ)不正直な人について会衆に警告を与えるとき,僕はどんな注意を払うべきですか?(ロ)非行者も会衆に復帰されることができますか?
17 借金を返済しない者,または会衆内の人からお金とか品物を取る人について,会衆に発表がなされる時には,会衆の僕がその発表をすべきです。その際に,よく言葉遣いに注意を払い,なにか人の名誉を傷つけるような仕方で発表してはなりません。ただありのままの事実を報告するか,またはある人は不正直とか騙りを働いて除名されたと報告しなさい。そうすれば,会衆内の人々は,出来事に注意を払い,自分自身の利益と兄弟たちの利益を守ることができます。『その悪は会集の中に顕る。』(シンゲン 26:26,18,19)除名された者も,後にその負債を返済するならば,その正しい行動によつて正しい心を示したために,復帰されることがありましよう。復帰は,委員会の判断で決定されます。このことは,負債を解決するのに,兄弟をなぜ法廷に連れて行かないかという,一つの良い理由です。
18 ルカ伝 16章1-8節にあるイエスの譬話は,不正直を認めていないと何が示しますか?
18 イエスは,ルカ伝 16章1-8節で譬話を述べられましたが,その中で不正直を認めているのではなく,又賞めているのでもありません。イエスは決して不義を認めません。その『主』とは,譬話しを語られた方イエス・キリストを意味しているのだとある人々は考えていますが,そうではありません。彼は不正直な執事を賞めているのではありません。それは,不義な執事の主人について述べているものに過ぎず,その主人は不忠の執事の機敏な行いに感嘆させられたのです。イエスの示していることは,この世の人々はどのようにその手段を用いて将来を図るかということなのです。『光の子ら』も又,将来を図るべきであつて,ヱホバをよろこばし,永遠の生命という永続の富を得るために,その持物や能力を用いなければなりません。
敵に対する保護
19 敵と直面する時に,クリスチャンは身を守るために何をすることができますか?
19 悪い者がクリスチヤンや,その兄弟や,神の制度に害を及ぼそうとする時,そして個人的な事柄にとやかく穿鑿してくるような時,クリスチャンはその悪い者の問に答えねばなりませんか? 特別に難儀で苦しんでいる時や迫害の時に,自分を守るということとクリスチャンたちの保護ということはどうなりますか? 悪い者が兄弟に害を加えようとしているのを知つていて,そしてその兄弟は何処にいるかと尋ねられるならば,それに答える必要はありません。イエスは多くの場合に質問された時に別の質問を発して対抗し,そのためイエスの敵は悪い立場に立つようになりました。このことも又,悪い者の場合に,答えを避けるのは正しいことであると示しております(マタイ 15:1-6; 21:23-27; 22:15-21)ナチ・ドイツ制体の時にありましたように,ヱホバの証者になるのは犯罪となるような場合があります。仮りにある人が一人の人のところに来て質問をなし,はたしてヱホバの証者であるかどうかを申し述べるようにと要求する時,もしそうですと答えるならば,その人はすぐに逮捕されてしまい,牢獄に入れられてしまいます。そのような場合に,人は自分のしたいことを自分自ら決定しなければなりません。ただ『私はクリスチャンです。』と言う方が適当であるか,または全然なにも言うまいと決断するかもしれません。このことは,マタイ 10章23節に述べられているようにキリストの否認とは違うものです。ドミニカ共和国では,現在ヱホバの証者になることは法律に違反することです。独裁者は,その地でされる伝道の仕事を止めさせようと努力して,このひどく悪い法律をつくりました。それですから,自分はヱホバの証者ですと人々に告げ知らせるのは賢明でないようです。しかし,聖書からの良いたよりを人々に語つて,その業を行い続けることができ,また全部の人々の尋ねる質問に答えないならば自分自身の利益とヱホバの制度の利益を守ることができます。―詩 29:1。
20 アメリカ合衆国では,人は何時自分自身の不利になる証言を拒絶することができますか?
20 アメリカ合衆国憲法の規定によると,人は自分自身の不利になる証言をする必要はありません。刑事訴訟の場合に,自分の不利になる証言を強制することを憲法は徹廃しております。また,立法,司法,行政の訴訟手続きの時に,質問は自分を罪に帰せしめるという理由で,証人はその質問の答えを拒絶する権利を憲法から得ています。答えによつて,他の者を罪に帰せしめるという理由では,答えを拒絶する権利を有しません。しかし,ある場合に,黙つたままでいて,侮辱罪を選ぶこともできます。(22節の説明を見なさい)その免除は各個人だけであつて,しかもただその免除を要求する人の利益のためだけです。ある人が質問の答えを拒絶するならば,その人職を失うという法律も作られています。その雇傭の場合でも,人を強制してその人自身に罪を帰せしめることはできません。しかし,答えをするのを拒絶するならば,たとえそれが罪を帰せしめるものであつても,なくても,それは職を失う合法的な根拠となります。質問に答えようか,または沈黙したままでそれに伴う罰で苦しもうかと決定するのは,各人次第です。
21 (イ)英語を話す国々では,人は罪に帰せしめる質問を何時拒絶することができますか?(ロ)その人は,何時答えねばなりませんか?(ハ)イエスに対してどんな不正な行為が取られましたか?
21 知る権利を持たない者は情報を差しひかえたからといつて,立場を不利にさせる害を加えることはできません。英語の話される国々でなされるこれについての例は,次のようなものです。ある人は逮捕されますが,しかし,もし希望するならば,立場を不利にするような質問をする警察官に情報を與えなくても,それは法律上から見てできることです。それは警察官の仕事ではないのですから,答える必要は全然ありません。それは法廷の問題です。しかし,法廷に行つて証言台に入り,真実を語ると宣誓するときに,判事は答えを要求する権威を有していますからその事件について秘密なもので恐らくは不利に帰せしめられるようなことがらも,もはや差し控えることはできません。そうするならば侮辱罪を構成するようになります。犯罪の訴えをされた人は,被告として証言台に立ち,自分自身を弁護する証言をする時,その訴えられた犯罪についての質問に対する答えを免除されるようにと主張することはできません。証人もまた,調査されている特別な犯罪について知つていることを語らねばなりません。しかし被告も証人も,英語の話される国々で一つの犯罪になる他の事件について,自分の不利となるような証言は強制されません。調べられているその事件についてのすべての事実に答えるべきです。被告が,その問題となつている特別な事件について自分自身に及ぶ罪を避けたいと願うならば,証言台に行くべきではありません。しかし,それにはその国の法律が,そのような権利を与えるという条件が要ります。またある国々では,証言台に立つのを拒絶することができます。被告が証言を拒絶しても,証言するよう召喚されている証人が,証人台に行くのを拒絶することはできません。問題となつている事件または犯罪について証人台に立つとき,その特別な事件または犯罪について黙祕権を主張する権利を断念します。その人は,他の犯罪または事件についてその免除を主張することができます。そのような免除は,アメリカ議会調査委員会の前に立つすべての証人に適用するものです。特別な犯罪または事件が連累するものはありません。そのような委員会の前で,すべての人がその特権を主張することは適当です。自分自身を罪に帰せしめることから免除されるのは,大抵に英語を話す国々に限られています。イエスの場合を考えてみるときに,マタイ伝 26章63-65節(新世)によると,法廷はそれ自体の法律の特権以上のものを行使し,大祭司はイエスを誓わせて,彼が神の子であるキリストかどうかを語らせました。イエスは,こう答えました。『あなたの言つた通りである。しかし,私はあなた方に言うが,この後に人の子は全能者の右に坐り,天の雲に乗つてくるのをあなた方は見るであろう。』不正な仕方で,イエスは余儀なく答えを言われました。その答え全部の示すとこによつて大祭司は,イエスの答えは質問に対する肯定であるとうけとつたのです。
22 全体主義支配の下で,クリスチャンが宣誓せられた時,彼らはどんな路を選ぶことができますか?
22 宣誓の下で開かれる法廷でも,ヒトラーの支配下にあつたような全体主義的な国々では,兄弟は,どちらを取つても悪い二つの路と面する状態が起りました。一つの路は,知つていることを何でも語り,兄弟たちを罪に帰して迫害や刑罰に曝らし,また自分自身の上にも宣告をうけることです。他の路は,証人台にいる時質問に答えるのを拒絶し,法廷侮辱罪で拘束されることです。今日それと似たような状態では,答えるのも答えないのも,それは各人の思う通りの決定次第です。拒絶するならば,罰をうけることになります。沈黙していて牢獄に行くのも,または話しをして自分の罪を増してしまい,兄弟たちを危険な状態に置くのもその人の選ぶこと次第です。嘘を言うことは決してできませんが,答えを拒絶し続けることはできます。しかし,それには幾年もの牢獄生活というカイザルの課す罰を支払わねばならないと記憶すべきです。クリスチャンは,宣誓の下では嘘を言いません。それで,公正な裁きもなく,クリスチャンになることは犯罪であつたナチ・ドイツでは,そこのクリスチャンたちはその生活に苦しみをうけねばならなかつたのです。ヱホバは力と智恵を与え,彼らは耐え忍ぶことができました。しかし,このことは,公正な裁きの行われない法廷で,人はいつも沈黙していなければならないということではありません。大胆な証言をすることによつて,益が得られ,ヱホバの御名に誉を帰す場合が多くあります。イエス・キリストの述べた言葉によると,その弟子たちは支配者たちの前に来て,証言を行い,語るであろうということでした。(マタイ 10:17-20)使徒行伝 22章と26章では,パウロは当局者の前でどのように大胆な,たくみな証言をしたかが示されています。その状況の下では,腹蔵なく話そうか,話すまいか,どちらが良いかは,告訴されたクリスチャンが決定すべきものです。しかし,もし話すように選ぶならば,真実を語らねばなりません。
23 イエスは宣誓の下で噓を言いましたか?
23 ナチ・ドイツの状況のような場合では,宣誓をしたとしても嘘を言うことは許されるであろうとある人は主張していますが,聖書はそのように言つてはおりません。イエスは宣誓した時に返答を与え,僅かな言葉ではありましたが真実を言いました。イエスが嘘を言つたということは聖書に示されていません。嘘を言うのを正当化しようとする人々は,ヨハネ伝 7章8節(ア標)でイエスが『汝らはこり祭りに行け。我はこの祭りに行かず。』と言いながら,後になつてその祭りに行つたことを取り上げて,それを根拠にしています。しかし,新世訳を研究してみるとき,イエスは実際には嘘を言わなかつたということが分ります。イエスはこう言いました。『私は今はまだこの祭りには行かない。』
24 ペテロのしたつらい経験から,私たちは何を学びますか?
24 マタイ伝 26章69-75節にある記録によると,ペテロは宣誓をしながらイエスをどのように否定したかが示されています。宣誓をする時には,真実を語らねばなりません。ペエロのしたことは,本当に正しくないことです。ペテロも後になつてひどく泣いたのですから,そのことを知つていたのです。彼は自分の良心に悩まされました。イエスはそのような手本をペテロに与えなかつたのです。ペテロは間違つていました。しかし,この場合にヱホバは恵ある御親切をペテロに示し,彼を許したということは明白です。なぜならば,彼は後になつて初期クリスチャンの仕事を行い,兄弟たちに奉仕するよう用いられたからです。イエス・キリストの良い経歴とペテロのつらい経験は,現代のクリスチャンたちに対する模範です。
25 ある人はどんな点を指摘しますか? 私たちは何を待ち望むことができますか?
25 ヤコブ,ラハブ,ギベオン人,ダビデ,そして他の者たちのような聖書中のいろいろな人物は嘘を言つたと非難されています。しかし,そうしたために彼らが神の恵みを失つたということは聖書に記録されていません。明白に嘘を言つたというような場合について,どのように理解すべきかは,『ものみの塔』に出版されるよう希望する別の記事で研究いたします。
誓いと正しい行
26,27 人が嘘の生活をすることはどのように可能なことですか?
26 ヱホバの新しい社会と交り,自らをヱホバの奉仕に献身する者たちは,誓いをいたしますが,しかしその誓いを破るならば,当然の罰がその結果に必らずなされます。そのような誓をする者は,その献身のすべての条件を守るべきです。つまり,全能の神ヱホバに全く従順に従えということです。(申命 23:21-23)また,真理を知つてから何が正しいかを知る者も,ヱホバの前で正しいことをする責任を持ちます。それですから,献身をする者でも,またはただ神を恐れるクリスチャンであると自称する者にしても,正しいことを行い,真実を守ることが要求されます。『神と交りを持つ』と言いながら,暗やみに歩くならば,私たちは嘘を言つているのであつて,真実を行つているのではない。しかし,神御自身が光にいるように私たちが光の中に歩むならば,私たちは互いに交りを持ち,御子イエスの血はすべての罪から私たちを潔めてくださる。』(ヨハネ第一書 1:6,7,新世)つまり,真実実際のものでないことを主張するならば,私たちは嘘の生活をしているということになります。それは,アナニヤとサツピラの行つたことでした。イエスの時代の悪い宗教家たちも,そのようにいたしました。忠実を保たない者たちは,虚言者になります。悪い行動をする者は,実際にはキリスト・イエスを否定しています。『嘘言者は誰であるか? イエスのキリストであることを否定する者ではないか?』― ヨハネ第一書 2:22,新世。
27 ヱホバは,その真理の御言葉の中で多くの教えを私たちに与えられております。それで,私たちは新しい世の生命を得るように備えをすることができ,そしてヱホバのいましめを守ります。ヱホバは,キリストを通して恵み深い御準備をつくられ,最初の大きな嘘によつて私たちのところに来た不能力と罪を取り除かれます。私たちが神に正しく奉仕するならば,ヱホバが御子を通して与えられるいましめを守ります。神の僕クリスチャンと主張しながらも,いましめを守らない者たちは,実際には噓言者であつて,噓の生活をしている者たちです。『私たちがキリストのいましめを守り続けるならば,それによつてキリストを知つていると悟るのである。「彼を知つている」と言いながら,そのいましめを守らない者は,噓言者であつて,真実はその者の中にはない。』― ヨハネ第一書 2:3,4,新世。
良心
28 クリスチャンの良心は何ですか? それは,どのように正しい行いの導きになりますか?
28 ヱホバは人間に良心を与えられています。その良心は善いものか,または悪いものかでありましよう。使徒パウロは,テモテに手紙を送り,後の時代になつて,人々はその良心を焼金で烙かれると述べました。それらの者は,神の教えから離れ背く者たちです。それらの者たちの良心は,悪行をしても苦痛を感じません。しかし,クリスチャンは善い良心を持つべきです。自分は善を行つており,あらゆることにおいて真理に従つているという事実に確信を持つべきです。私たちの信仰を成功させるためには,ヱホバの御前で善い良心を持つことは必要です。『信仰と良心を保ちなさい。ある者は,良心を捨てたため,信仰について破船をこうむつた。』(テモテ前 1:19,新世)真理の知識を得るとき,私たちは悪い良心をすてさります。そして,ヱホバのなされる御準備を通して私たちは自らを清くいたします。『心はすすがれて悪い良心はなくなり,清い水で私たちの体は洗われたのであるから,信仰に全く確信を持ち,誠実な心をもつて近ずこう。』(ヘブル 10:22,新世)クリスチャンの良心は,神の御言葉から教えをうけるのですから,正しいことをするのに良い導きとなり,タルムッドのような法典をつくりあげるのは必要でありません。クリスチャンは,各自ヱホバの御言葉の助言を考慮すべきですが,それは何が正しいかを知るためであり,また答えようか答えまいか,どちらを選ぼうかという事態に直面する時,何をしなければならないかを決定するためです。
29 善い良心は,なぜ祝福ですか?
29 善を行い,真実を語らねばならないために,善に反対する迫害者やこの世の人々から私たちは多く苦しみをうけなければなりません。正しいことをすることにより,私たちは全能の神についての証言にあずかり,神の御名の立証に参加いたします。善い良心を持つことは気持良いものですが,噓を話して間違いの道を行い,悪い良心を持つことは苦しみです。真実を語るならば,その話しの条理を正しくしようなどということに心配する必要はありません。嘘を言う者は,いつもその痕跡をくらまさねばなりません。一生涯のあいだ中,嘘をごまかそうとして,どうしてはらはらする生活をするのですか? なぜいつも真実を語らないのですか? そして清い良心でする生活を楽しまないのですか? ヱホバの御前で良心に確信を持つている時,たとえ真実を語るために苦しみをうけようと,耐え忍ぶことはそう苦しいことではありません。正しいことを行い,善い良心を守るために,苦しみを受けるのは,特権であります。―ペテロ前 2:19,20。
30 心を清く保ち,ヱホバの制度に固く従うことにより,私たち自身と子供たちはどのように益を受けますか?
30 私たちの生活でするあらゆる事柄のうちで,私たちのしようと願う重要な事は,ヱホバをよろこばすということです。私たちは,神の御心にかなうことをしたいと欲します。それで,ヱホバの建てられた制度にかたく従い,そしてその御言葉が命ずることをなし遂げます。私たちはこの古い世の悪い影響を避け,またその環境から風紀を学んではなりません。ヱホバが私たちにさせようと望まれていることを,私たちは最善の力をもつてしなければなりません。心を真理で充たしなさい。そうすれば真理は語られます。(マタイ 12:34。ピリピ 4:8)ヱホバは私たちの心の深い奥底までも探り,私たちの動機を調べてそれが正しいか悪いかを見られるということは明白です。私たちが真実を語るならば,ヱホバの恵みを受けるということが期待できます。私たちの子供たちもまた,その両親の良い手本を見て,ヱホバの御前に真実を保ちますから,ヱホバの恵みをうけます。もちろん,子供たちの生涯の早い時に,真実を語るよう訓練することは大切です。
31 新しい世の社会の中で,なぜ真実と正しさが必要ですか?
31 本当に私たちは間違いをします。しかし,私たちはヱホバ神の御恵みと兄弟たちの愛に頼り,この終りの時にあつて,ヱホバ神が新しい社会に与えた仕事に対し全力をつくして働きます。今日一つの群の民だけが忠実を守り,そして神の御言葉の中にある真理と正義の原則を擁護しております。それらの民とは,新しい世の社会をつくりあげる者たちです。神の僕たちが汚れなくて,正しく,また清く,そして真実を語り,兄弟たちと正しく正真に交渉し,制度の平和と一致を守ることは,神の御前にあつて正しいことであり,また神の御心をよろこばすものです。ヱホバの神権制度と交る者の中に悪行を許してはなりません。お互いに正しく交渉しあい,新しい世の生活の仕方をいま学びなさい。そうすれば,新しい世が全く設立されて運営される時に,私たちはそこで生活することができます。―エペソ 4:15,16。