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エホバの王国を告げ知らせるものみの塔 1961
塔61 1/15 47–53ページ

凡ての人に親切を示す

1 愛ある親切が欠けていることは,この世と人々にどんな影響を及ぼしますか。

大ぜいの人々は愛ある親切を持っていないため,この世は冷い,もてなしをしない世です。この世では,見なれぬ人々は冷やかな疑惑の目で見られます。心配は親切に冷い影響を与えました。また,大ぜいの人々は,金を愛するために愛ある親切を抑圧しました。親切は経済的な利益を妨害するものと見なされているため,しばしば親切の代りに不法が行なわれます。それで,頭がずば抜けて良くても親切があるということにはなりません。レーダーの主要な発明家であるロバート・ワットソン・ワット卿は,この事実を観察して,次のように語りました,「頭がたいへん良く,その技術にかけては天才である人々から,私の仕事は多くの害をうけた。彼らは人間になることの教育をうけなかった」。頭が良くても,愛ある親切がないなら人は「愛ある御親切に富まれる」エホバ神に似ず,むしろ「ほえたける」ししのように食いつくすべきものを求めて歩き回っている」サタン悪魔に似ます。たしかに,「終りの時には,苦難の時代が来る。その時,人々は自分を愛する者,金を愛する者……無情な者……となるであろう」。―ヨナ 4:2,ア標。ペテロ前 5:8。テモテ後 3:1,2,新口。

2 (イ)「神の子」と「悪魔の子」とを対照し,それぞれの結ぶ実を示しなさい。(ロ)「神の子」は,自分の関心事やクリスチャンの関心事を進歩させるために,不親切を用いても良いですか。

2 クリスチャンは最高者の子であることを証明し,「悪魔の子」なることを証明してはなりません。それでは「無情な」この世で,どのように生活しなければなりませんか。この悪い世が転びまわっている不親切の泥の中に,クリスチャンは落ちこんでも良いですか。仕事で出世したり,個人的な関心事やクリスチャンの関心事を有利なものにするため,不親切にしてもよいですか。してはなりません。使徒ヨハネが示すように,最高者の子なることを証明したいなら,不親切であってはなりません。「神の子と悪魔の子との区別は,これによって明らかである。すなわち,すべて義を行わない者は神から出た者ではない。兄弟を愛さない者も,同様である」。「神の子」は,「悪魔の子」の不親切な行いを採用することができません。神の子は,「不従順の子」のように,くさった実を結ぶことができません。しかし,彼らは「光の子らしく歩きなさい ― 光はあらゆる善意と正義と真実との実を結ばせるものである」。「光の子」は,個人的な関心事やエホバの関心事を進歩させるために,不親切を用いることはできません。彼らは「あらゆる善」を用います,それで,親切であるか,あるいは親切でないかによって,私たちは誰の子であるかを示します。―使行 13:10。ヨハネ第一書 3:10。エペソ 5:6,8,9,新口。

3,4 クリスチャンは,自分が神の奉仕者であることをどのようにすいせんしますか。

3 親切は私たちが神にならっている者であるか否かを他の者に告げます。それは,人をすいせんする力を持っています。このことは,この世からも認められています。ひとりの有名な人は,鉄道の駅のところで年老いた婦人のために親切にも旅行かばんを運んであげました。それを見ていたひとりの人は,次のように言いました,「私は,はじめて説教が実行されているのを見た。」あらゆる人々のうちで,クリスチャンは説教を実行する者でなければなりません。彼らの毎日の言行は,彼らが神の奉仕者であることをすいせんすべきです。「この務がそしりを招かないために,わたしたちはどんな事にも,人につまずきを与えないようにし,かえって,あらゆる場合に,神の僕として,自分を人々にあらわしている,すなわち,極度の忍苦にも,……真実と知識と寛容と,慈愛……とにより」と使徒パウロは書きました。―コリント後 6:3-6,新口。

4 それで親切は,神の真の奉仕者たちがつねに自分自身を表わし,「光の子であることを他の人々に証明する「あらゆる仕方」の一部であります。すると,こういうことになります,彼らは「責められるところのない純真な者となり,曲った邪悪な時代のただ中にあって,傷のない神の子となる……彼らの間で星のようにこの世に輝」かねばなりません。クリスチャンは,聖書の真理の光において,また道徳的な行動においても輝かねばなりません。彼らは,「無情な」この悪い世において,二つの面で星のように明るく輝きます。―ピリピ 2:15,新口。

5 イエスは,すべての人に親切を示す重要性を,どのように強調しましたか。

5 もしクリスチャンが神の奉仕者であることを表わしたいなら,すべての人に親切をよろこんで示さねばなりません。すべての人の中には,クリスチャン兄弟たち,見知らぬ者,「恩を知らぬ者,悪人」そして敵さえも入っているのです。主イエスは次のように言われました,「敵を愛し,迫害する者のために祈れ。こうして,天にいますあなたがたの父の子となるためである。天の父は,悪い者の上にも良い者の上にも,太陽をのぼらせ,正しい者にも正しくない者にも,雨を降らして下さるからである。あなたがたが自分を愛する者を愛したからとて,なんの報いがあろうか。そのようなことは取税人でもするではないか。兄弟だけにあいさつしたからとて,なんのすぐれた事をしているだろうか。そのようなことは異邦人でもしているではないか。それだから,あなたがたの天の父が完全であられるように,あなたがたも完全な者となりなさい」。―ルカ。6:35。マタイ 5:44-48,新口。

見知らぬ者に親切を示すことは責任

6 パウロは,すべての人に親切を示すことを,どのように強調しましたか。

6 神の御子が力づよく説明したように,すべての人に親切を示すことは,クリスチャンの責任です。イエス・キリストの使徒は,この責任につねに留意するよう私たちにさとしています。パウロは次のように書きました,「兄弟愛を保ち続けなさい。見知らぬ者をもてなすことを忘れてはならない。このようにして,ある人々は気づかないで御使たちをもてなした」。アブラハム,ロトそしてマノアは,すべての人に親切であったため,なんとすばらしい報いをうけたのでしょう! 彼らは御使たちをもてなして,最高者から祝福をいただきました。なぜなら彼らは「見知らぬ者に親切を示す」ことを忘れなかったからです。―ヘブル 13:1-2。創世 18:1-10; 19:1-29,新世。士師 13:8-20。

7 今日クリスチャンは,見知らぬ者に親切をどのように示しますか。なぜ,このことをする彼らは幸福ですか。

7 今日クリスチャンは,見知らぬ者に親切をどう示すことができますか。イエス・キリストの模範に従うことによります。彼はすべての人に親切を示しました。そして,彼がこのことをした最重要な仕方は,他の者を霊的な食物,「天の御国についての真理を食するように招待したことです。神の御国の関心事を拡大するため,イエスはあらゆる面で親切を示しました。彼はその宣教の最初から,見知らぬ者にもてなしを示し,彼らを霊的に助けようとしました。洗礼者ヨハネがイエスを自分の二人の弟子に紹介したとき,彼らはイエスに従って,こう尋ねました,「どこにおとまりなのですか」。イエスは,「きてごらんなさい。そうしたらわかるだろう」と答えました。「そこで彼らはついて行って,イエスの泊っておられる所を見た。そして,その日はイエスのところに泊まった。」それで,イエスの泊まっていた所でもてなしはなされました。イエスはその所を用いて,他の人々が神の御国のことを学ぶ助けにしました。しかし,イエスは主として他の人々の家に行きました。人々の施しを願い求めることでなく,与えるためでした。イエスは見知らぬ人々の家に行き,天の御国について教えることにより親切を示したのです。それで今日のクリスチャンも自分の家を快いところ,もてなしのところにするだけでなく,見知らぬ人々の家々にもよろこんで出かけます。それは,主イエスがあらかじめに告げた大きな伝道のわざに参加するためです。「この御国の福音は,すべての民に対してあかしをするために,全世界に宣べ伝えられるであろう。そしてそれから最後が来るのである」。今日この大きな伝道と教えるわざは,エホバの証者により全世界にわたって行なわれています。それに参加する人々は,なんと幸福なのでしょう! それで,いま見知らぬ者に親切を示すことは,幸福をもたらします。使徒パウロは,次のように書きました,「あなたがたもこのように働いて,弱い者を助けなければならないこと,また『受けるよりは与える方が,さいわいである』と言われた主イエスの言葉を記憶しているべき……である。」― ヨハネ 1:35-39。マタイ 24:14。使行 20:35,新口。

8 なぜ,ある人々は見知らぬ者に親切を示すことに気乗りしませんか。しかし,正しい態度は何ですか。

8 今日の多数の家の人は,愛ある親切を持っていません。それで,あるクリスチャンはイエスと使徒たちが行なったように御国の音信をたずさえて人々の家に行くことに気乗りしません。一般の人々の感謝のない態度および不親切さのため,霊的なものをもたらすのはむずかし過ぎるとその人々は感ずるかも知れません。しかし,クリスチャンが心から真実に親切であるなら,たとえ見知らぬ人の大多数は感謝の気持を示さなくても,その霊的な善を分け合うことをためらわないでしょう。エホバ神は感謝の念を持たない者や悪人に対しても親切ではありませんか。エホバ神は御子をこの世に遣わすことにより,すべての人に愛ある御親切を示しました。「それは御子を信じる者がひとりも滅びないで,永遠の命を得るためである」。それは神の過分の御親切です。クリスチャンは神の御国や他の良いわざを伝道しますが,完全ではありません。彼は働いて救を得ることはできません。それでエホバは私たちを親切に扱います。私たちは神の親切に励まされて,神のようになるべきです! 「わたしたちの救主なる神の慈悲と博愛とが現れたとき,わたしたちの行った義のわざによってではなく,ただ神のあわれみによって……わたしたちは救われたのである」。エホバは,このように愛にみちた模範を示されています。それで,最高者の子になりたいと願うクリスチャンは,見知らぬ人々に親切を示すことをさしひかえないでしょう。ヨハネ 3:16。テトス 3:4-6,新口。

9 見知らぬ者と御国の良いたよりを分け合うことは,なぜ重要ですか。家の人が無愛想なことは,神の奉仕者を気落ちさせますか。

9 人は神の恵みをいただいて,しかも見知らぬ人々に親切を示そうとしない,つまり御国の良いたよりをもたらそうとしないなら,その人は天の御父のようではないと示しています。かえって悪魔ののぞむとおりの者,そしてエホバののぞまれない者になり,見知らぬ者に不親切な態度をとります。見知らぬ者に親切であることは,クリスチャンに対する神のみこころです。それで,神の奉仕者はよろこんで見知らぬ人々を訪問して,時には戸ののぞき穴を通して語らねばならなくても,神の御国について告げます。家の人が無愛想であっても,神の奉仕者は気落ちしません。彼は善を行なうことにうみつかれません。「わたしたちは,善を行うことに,うみ疲れてはならない」。―ガラテヤ 6:9,新口。

10 クリスチャンは,その敵や迫害者に対して,どのように親切を示しますか。この行いからどんな益を受けますか。

10 不親切に対しどのように答え応ずるかによって,見知らぬ人に対するクリスチャンの親切と愛はためされます。クリスチャンは不親切な仕打をうけるとき,「争ってはならない。だれに対しても親切であって,よく教え,よく忍び,反対する者を柔和な心で教え導くべきである。おそらく神は,彼らに悔改めの心を与えて,真理を知らせ……るであろう」。(テモテ後 2:24-26,新口)クリスチャン奉仕者は,親切によって敵意を解消します。「あなたがたを迫害する者を祝福しなさい。祝福して,のろってはならない。むしろ,『もしあなたの敵が飢えるなら,彼に食わせかわくなら彼に飲ませなさい。そうすることによって,あなたは彼の頭に燃えさかる炭火を積むことになるのである』。悪に負けてはいけない。かえって,善をもって悪に勝ちなさい」。(ロマ 12:14,20,21,新口)またつぎのように書かれています,「はずかしめられては祝福し,迫害されては耐え忍び,ののしられては優しい言葉をかけている。」(コリント前 4:12,13,新口)クリスチャンはののしられてもののしり返しません。彼は祝福します。迫害をうけたとき彼は不親切な仕打の下に耐え忍びます。そして気落ちすることはありません。刑務所につとめている人や,牢獄の警備員たちは,クリスチャンたちが「迫害する者を祝福する」ため,真理を知るにいたりました。―使行 16:25-34。

兄弟たちに親切を示す

11 ガイオは,親切を示すことについてどんな模範を残しましたか。

11 クリスチャンには,見知らぬ人や迫害をする者だけでなく,個人的に知っていないクリスチャン兄弟たちにも親切を示す特権があります。使徒ヨハネは,愛する友ガイオに次のような手紙を書き送りました,「愛する者よ。あなたが,兄弟たち,しかも見知らぬ者につくしていることは,みな真実なわざである。彼らは諸会衆であなたの愛についてあかしをした。それらの人々を,神のみこころにかなうように送り出してくれたら,それは願わしいことである,彼らは御名のために旅立った者であって,異邦人からは何も受けていない。それだから,わたしたちは,真理のための同労者となるように,こういう人々をねんごろに迎えねばならない。愛する者よ。悪にならわないで,善にならいなさい。善を行う者は神から出た者である」。それで,神の真理を他の人に伝道したり,教えたりすることも親切ですが,ガイオのしたごとく,もてなしと親切を示すことも親切です。彼は「真実なわざ」をしていました。そしてヨハネは彼のことをたいへん良くほめたのです。彼の親切をうけた人々は,「見知らぬ者たち」でした。そのような親切を示すことは,時折り経済的な負担となります。しかし,ガイオは自分のもてなしの行いにけちけちしなかったのです。ガイオの親切は,たくさんの祝福をもたらしました。彼は使徒ヨハネから心あたたまるその手紙をもらっただけでなく,彼の家はコリント会衆の集会所として用いられ,また使徒パウロをもてなしたという特権にめぐまれました。「ガイオは私の泊った家の主人であり全会衆の集まるところの主人……」。親切と愛に富んでいたガイオは言葉で表わせぬ祝福をいただきました。彼の親切をあかしするものは,永遠につづく神の御言葉の内にしるされています。―ヨハネ第三書 5-8,11。ロマ 16:23,新世。

12,13 ピレモンとオネシポロの示した愛について,何と言われていますか。

12 クリスチャン兄弟たちに親切を示すことに良い模範を残した別の人はピレモンでした。パウロはピレモンに手紙を送って,次のように語りました,「わたしは,祈の時にあなたをおぼえて,いつもわたしの神に感謝している。それは,主イエスに対し,また,すべての聖徒に対するあなたの愛と信仰とについて,聞いているからである。兄弟よ。わたしは,あなたの愛によって多くの喜びと慰めとを与えられた。聖徒たちの心が,あなたによって力づけられたからである」。聖徒たちを力づけるためにピレモンが何をしたかは分かりません。しかし,なんらかの形で親切があらわされたのです。ピレモンの愛にたいして,パウロは祈りの中にエホバに感謝しました。―ピレモン 4,5,7,新口。

13 オネシポロも,思慮深い親切によって使徒の心を広く開きました。ローマでオネシポロはたいへんな努力を払ってパウロを探し求めて尋ね出し,使徒に食物を持ってきました。パウロは,オネシポロの親切に対して,しばしばエホバに感謝したのです。「どうか,主がかの日に,エホバからのあわれみを彼に賜わるように。彼がエペソで,どれほどわたしに仕えてくれたかは,だれよりもあなたがよく知っている」。―テモテ後 1:16-18,新世。

14,15 なぜオネシポロ,ピレモン,そしてガイオは,クリスチャンの良い模範でしたか。ピリピ人も,クリスチャンの精神をどのように示しましたか。

14 オネシポロ,ピレモン,そしてガイオは,親切を示すことに抜け目なく,たいへん思慮深いクリスチャンたちでした。彼らは機会をみすみすのがすようなことをしませんでした。また自分の個人的な利害だけを考えて,他の人々の必要物については考えをめぐらさない,というようなことをしませんでした。このことからピリピ人のことが思い起こされます。ピリピ人に宛てた愛のこもった手紙によって,私たちはパウロとピリピ人の会衆の間に存在した親しい思いやりのあるきずなを学びます。ほんとうにパウロが手紙を書いた理由のひとつは,ピリピ人の親切に対するパウロの感謝を示すことでした。ピリピ人たちはしばしば物質的な援助や,慰めと励ます言葉によって,パウロに実際的な思いやりと親切を示したのです。パウロがテサロニケにいたとき,彼らはパウロに二度も贈り物をしました。そして,使徒がローマに捕われていたとき,彼らはエパフロデトを彼のともに送って愛を伝えました。パウロは次のような手紙を持たせてエパフロデトを送り返しました。その手紙からピリピ人のことはパウロの祈りの中にしばしば言われていたことが分かります。

15 「わたしはあなたがたを思うたびごとに,わたしの神に感謝し,あなたがた一同のために祈るとき,いつも喜びをもって祈り,……わたしが,あなたがた一同のために,そう考えるのは当然である。……あなたがたをみな……わたしの心に深く留めているからである。」「ピリピの人たちよ。あなたがたも知っているとおり,わたしが福音を伝道し始めたころ,マケドニヤから出かけて行った時,物のやりとりをしてわたしの働きに参加した会衆は,あなたがたのほかには全くなかった。またテサロニケでも,一再ならず,物を送ってわたしの欠乏を補ってくれた。……わたしは,すべての物を受けてあり余るほどである。エパフロデトから,あなたがたの贈り物をいただいて,飽き足りている。それは,かんばしいかおりであり,神の喜んで受けて下さる供え物である。わたしの神は,ご自身の栄光の富の中から,あなたがたのいっさいの必要を,キリスト・イエスにあって満たして下さるであろう」。―ピリピ 1:3,4,7; 4:15,16,18,19,新世。

16 すべての人に示す親切に対して,誰が私たちに支払う責任を取りますか。

16 ピリピ人は,この親切の報いをうけるであろうとパウロは示しています。神は「いっさいの必要」を満たすでしょう。私たちが見知らぬ者やクリスチャン兄弟に対して親切を行なうなら,エホバ神はその親切に対して報いを与える責任を取られます。エホバ神の御言葉は,私たちにこのことを保証しています,「身分の低い者にめぐみを示す者は,エホバに貸す者である。エホバはその行いに対して支払われるであろう」。「あなたのパンを水の上に投げよ。多くの日の後,あなたはそれを得るからである」。「あなたがたが知っているとおり,だれでも良いことを行なえば……それに相当する報いをそれぞれエホバから受けるであろう」。―箴言 19:17。伝道の書 11:1。エペソ 6:8,新世。

親切を示すことに対する報い

17,18 ドルカスの示した親切の故に,どんな予期しない祝福が来ましたか。

17 私たちのまくものがどんなものでも,それは私たちに返ってきます。私たちが親切をまくなら,それは私たちに返ってきます。「多くの日の後,あなたはそれを得る」。すべての人に親切を示すクリスチャンたちには予期していない祝福が来ます。たとえば,ドルカスのことを考えてごらんなさい。彼女は「数々のよい働きや施しをしていた婦人であった。ところが,そのころ病気になって死んだ」。ドルカスの死んだ町ヨッパにいた弟子たちは,使徒ペテロが近くの町ルダにいると聞きました。彼らはふたりの人をペテロのところにつかわして,次のように頼みました,「どうぞ,早くこちらにおいで下さい」。ペテロがヨッパにつくと「屋上の間に案内された。すると,やもめたちがみんな彼のそばに寄ってきて,ドルカスが生前つくった下着や上着の数々を,泣きながら見せるのであった」。その光景を思いうかべることができます。一群れのやもめたちが,親しい友であるこの姉妹を失なったことに涙を流しながら悲しみ,ドルカスの愛と親切をあかしするものを示し,そのめいめいは自分たちに示された親切について使徒に告げました。私たちはその結果を知っています。ペテロはみなを外に出してからエホバに祈りました,「彼女は目をあけペテロを見て起きなおった。ペテロは彼女に手をかして立たせた。それから,聖徒たちややもめたちを呼び入れて,彼女が生きかえっているのを見せた」。―使行 9:36-41,新口。

18 予期していなかったなんとすばらしい祝福だったのでしょう! 死人のなかからよみがえらされたのです。これは使徒の一人が始めて行なった復活の奇跡であると記録されています。その結果をもたらした状態は,親切に根づいていたのです。ドルカスが愛ある親切に富んでいなくてもこのような奇跡はおこる,などと言える人はひとりもいないでしょう! ドルカスとやもめたちが祝福をうけただけでなく,この出来事は真理についてあかしをすることになり,「多くの人々が主を信じた」。―使行 9:42,新口。

19 人情のない,残酷な人についての神の規則は何ですか。このことはどのように例示されていますか。

19 すべての人に親切を示そうとしない人々は,たくさんの祝福を夫ないます。たしかに「いつくしみある者はおのれ自身に益を得,残忍な者はおのれの身をそこなう」。(箴言 11:17,新口)それは神の規則です。そのことを良く表わし示す例は,アビガイルとナバルです。アビガイルは「賢くて美しかったが,その夫は剛情で,粗暴であった」。ダビデはかつてナバルに親切を示したことがあり,ある日人々をナバルのもとにつかわして,すこしの食物を求めさせました,「どうぞ,あなたの手もとにあるものを,贈り物として,しもべどもとあなたの子ダビデにください」。残酷でけちなナバルは「その使者たちをののしった」のです。ダビデはこのことに怒りを感じ,つるぎを帯びて,彼と家来たちは不親切な行いを示したナバルに返報しようと決心しました。ナバルの妻アビガイルはダビデに取りなしを願い,「パン二百,ぶどう酒の皮袋二つ,調理した羊五頭,いり麦五セア,ほしぶどう百ふさ,ほしいちじくのかたまり二百」をダビデにささげました。アビガイルは,親切心とかしこさを表わした熱烈な願いの言葉を述べて流血の惨事を引きおこすことをダビデに思い止まらせました。一方ナバルは「ヱホバ,ナバルを撃ち給ひければ死ねり」。ダビデは,ナバルが分相応の仕打をエホバからうけた,と知りました。「ダビデ,ナバルの死にたるを聞きていひけるはヱホバはほむべきかなヱホバ我かうむりたる恥の訟をただしてナバルにむくい……そはヱホバ ナバルの悪をその首に帰したまへばなり」。親切で利口なアビガイルは,予期しない祝福をうけました,「ダビデはアビガイルを妻にめとろうと,人をつかわして彼女に申し込んだ」。―サムエル前 25:3,8,14,18,38,39。

20 なぜ,意地のわるい,残酷な人は,当然の報いを必ずうけますか。

20 私たちはエホバから,分相応のものをいただきます。不親切は,親切と同じく必ずもどってきます。意地のわるい残酷な人は,親切を示すことの祝福を失ないます。そして,数多くの方法で「おのれの身をそこな」うだけです。残酷な人が人間からの返報をうけず,またからだを害する感情にくるしまないように見えなくても,勘定を正確につけるエホバからの返報を避けることはできません。「不正を行う者は,自分の行った不正に対して報いを受けるであろう。それには差別扱いはない」とパウロは述べました。一方,「正義といつくしみとを追い求める者は,命と誉とを得る」。―コロサイ 3:25。箴言 21:21,新口。

21 神は何に反対していますか。しかし,クリスチャンの精神は何ですか。

21 神が不親切 ― けちくさいこと,残酷なこと,吝嗇,狭量そして利己主義に反対しているという証言はたくさんあります! クリスチャンの精神は,温和,あわれみ,寛容,もてなし,そして寛大です。クリスチャンのはかるものは,けちけちしたすくないものでなく,あふれ出るものでなければなりません。イエスは次のように言われました,「与えよ。そうすれば,自分にも与えられるであろう。人々はおし入れ,ゆすり入れあふれ出るまでに量をよくして,あなたがたのふところに入れてくれるであろう。あなたがたの量るその量りで,自分にも量りかえされであろうから。」― ルカ 6:38,新口。

22 クリスチャンは,その親切をどのように量るべきですか。その結果は何ですか。

22 それで私たちの親切を寛大にはかりましょう。クリスチャンたちは,御国の真理を見知らぬ人々に教えて親切を示します。かくして自分たちの時を惜しみなく与えることによって寛大なことを示します。寛大をたくさん量れることができるときであっても,神の貴重な御国奉仕に時間をけちけち量るなら,私たちは祝福を失なうでしょう。「少ししかまかない者は,少ししか刈り取らず,豊かにまく者は,豊かに刈り取ることになる」。すべての人に私たちの自由を寛大に示すなら,豊かな報いと予期しない祝福をうけるでしょう。まったく,あなたは「天にいますあなたがたの父の子」であることを証明するでしょう。―コリント後 9:6。マタイ 5:45,新口。

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