-
「福音」はエホバの御名を負う民を分けるものみの塔 1963 | 5月1日
-
-
の命じたことを行なって忠実を守りました。今日でも同様です。共産主義諸国などのようにエホバの証者の迫害されている国においても,エホバの証者は政府を転覆しようとする企てに加わることなく,神の僕また神の国の伝道を使命とする証者である自分たちの立場を説明します。新しい世の生命の希望に固い信仰を持っているので,エホバの証者はこのようなかん難に耐えることができるのです。また心を苦くして悪を以て悪に報いることをせず,平和にくらし,反対する者が神の言葉の真理を学んで祝福を得るように助けようとさえします。使徒はこう書きました,「望みをいだいて喜び,患難に耐え,常に祈りなさい……あなたがたを迫害する者を祝福しなさい。祝福して,のろってはならない。……だれに対しても悪をもって悪に報いず,すべての人に対して善を図りなさい。あなたがたは,できる限りすべての人と平和に過ごしなさい。愛する者たちよ。自分で復讐しないで,むしろ,神の怒りに任せなさい。なぜなら,『主〔エホバ,新世〕が言われる。復讐はわたしのすることである。わたし自身が報復する』と書いてあるからである。むしろ,『もしあなたの敵が飢えるなら,彼に食わせ,かわくなら,彼に飲ませなさい。そうすることによって,あなたは彼の頭に燃えさかる炭火を積むことになるのである』。悪に負けてはいけない。かえって,善をもって悪に勝ちなさい」。―ロマ 12:12-21,新口。
16 すでに論じた聖書の原則に従うエホバの証者はどんな結果を得ていますか。
16 右に論じたヨハネ伝 17章14-18,21,22節,マタイ伝 22章21節および使徒行伝 5章28,29節の原則に従うことによって,エホバの証者の新世社会は世の諸国家とはっきり分かたれています。これはたしかにエホバのみ名と御国のための民です。これはマタイ伝 6章33節にあるイエスの言葉を守って,「まず神の国と神の義とを求め」る人々です。
17 ロマ書 10章10節によれば,救われるには何が必要ですか。
17 そこで「福音」の挑むものに答えることは,エホバの証者の組織のようなひとつの組織に加わり,「御国の福音」の伝道者になるといだけのことですか。エホバの新しい世の生命を得る人は,だれでも真理の宣明に与らなければなりません。それは確かなことです。「なぜなら,人は心に信じて義とされ,口で告白して救われるからである」。(ロマ 10:10,新口)従って「福音」を聞いて信ずる者が,公に宣明するわざに加わるため,聖書の勉強に励んで真理の正確な知識を学ぶのは正しいことです。それは「福音」に対する感謝を表わしエホバを崇拝したいという気持ちを表わす道です。
新しい人
18 「福音」を受け入れるとき,生活にどれほど大きな変化が必要ですか。
18 しかし「御国の福音」を聞く人は,その生活の上で更に大きな変化を遂げなければなりません。すなわち生活のあらゆる面において神のみ心に従い,全生活を聖書の原則に一致させることが必要です。聖書は教えています,「何をするにも,人に対してではなく,主〔エホバ,新世〕に対してするように,心から働きなさい」。「あなたのすることはすべて,言葉によるとわざによるとを問わず,いっさい主イエスの名によってなし,彼によって父なる神に感謝しなさい」。(コロサイ 3:23,17,新口)たしかにそれは新しい生活を始めること,新しい人になることです。まず求めるべきものは神の国だけでなくて神の義であり,何時,なにをするにしても神の目に正しいことをしようと努めなければなりません。
19,20 (イ)使徒パウロは,この変化をコロサイ書 3章5-10節においてどう述べていますか。(ロ)エホバを喜ばせ,新い世の生命を得るには,この変化はどんなものでなければなりませんか。
19 その意味はこうです,つまり不義と悪とを捨て,神の目に悪と見える事をやめ,善をもって悪にかえてゆくことです。これについてコロサイ書 3章5-10節には使徒の次の言葉があります,「だから,地上の肢体,すなわち,不品行,汚れ,情欲,悪欲,また貪欲を殺してしまいなさい。貪欲は偶像礼拝にほかならない。これらのことのために,神の怒りが下るのである。あなたがたも,以前これらのうちに日を過ごしていた時には,これらのことをして歩いていた。しかし今は,これらいっさいのことを捨て,怒り,憤り,悪意,そしり,口から出る恥ずべき言葉を,捨ててしまいなさい。互にうそを言ってはならない。あなたがたは,古き人をその行いと一緒に脱ぎ捨て,造り主のかたちに従って新しくされ,真の知識に至る新しき人を着たのである」。(新口)
20 この新しい人を着ることは,神の新しい世の生命を望みながら,神を喜ばせるために神のみ心にかなった生活を送ろうという誠実な願いから出発しなければなりません。1週間に1日だけ新しい服を着るような工合に,一時的によそおう偽善的なものではありません。今日の宗教の多くはこの類のもので,教会に行くときだけ「キリスト教」徒のつもりになり,他の日には世の悪い道に戻って「キリスト教」のことを忘れてしまう,これはよく見られることです。悪を殺して捨て去り,古い人をその行いと共に「脱ぎ捨て」,神のみ心を行なうことによって新しい人を着るための努力と心がけが必要です。人に気にいられるため,よく思われるために,この事をするのではありません。クリスチャンは他の人とくにクリスチャン兄弟の尊敬を得たいと望みますが,まず求めなければならないのは神を喜ばせることです。エホバ神が預言者サムエルに言われた言葉を心に留めて下さい。「わが視るところは人に異なり人は外の貌を見エホバは心をみるなり」。―サムエル前 16:7。
21 誠実な人は何をすることを望みますか。
21 「エホバの御名を負う民」と交わることは大きな特権です。真の神に奉仕する喜びはそこから得られます。しかしもっと大切なのは,それによってエホバ神と結びつきを持つことです。正しい心を持ち,「福音」に感謝し,神のみ心を行なおうとする人は,エホバを賛めるために自分の生命を用いたいと望むでしょう。これからは自分の心ではなく,イエスのしたように神のみ心を行なうことを誓ってエホバに祈り,献身します。(詩 40:8; 143:10。ルカ 22:42。ヨハネ 5:30)神に献身して神と結ばれることは,仲保者キリスト・イエスによって可能となるのであり,クリスチャンはその事を認めます。―「御国のこの良いたより」,45-51節をごらん下さい。
22 コロサイ書 1章9,10節に説明されている通り,「エホバのみ心にかなった生活をする」には何が必要ですか。
22 「エホバの御名を負う民」と交わりをつづけるには,イエス・キリストを通してエホパ神と結ばれたこの関係を保たねばなりません。エホバの恵みに留まるにはみ心を行なうことが必要であり,従って神のみ心を正確に知ることは最も肝要です。そこでクリスチャンは「あらゆる霊的な知恵と理解力とをもって,神の御旨を深く知り,主〔エホバ,新世〕のみこころにかなった生活をして真に主を喜ばせ,あらゆる良いわざを行って実を結び,神を知る知識をいよいよ増し加える」ことを熱心に努めます。―コロサイ 1:9,10,新口。
-
-
現代訳聖書ものみの塔 1963 | 5月1日
-
-
現代訳聖書
◇ アメリカ,オハイオ州の一女学生は,次の経験をよせてきました。「ある日,英文学の時間に,文体の見本の一つとして,欽定訳聖書から数節を選んで読みました。先生は,数人の生徒に,現代訳の聖書を何冊か持って来て,欽定訳聖書と比較してみるようにと話しました。私は,新世訳聖書を持って行き,他の翻訳との相違点について説明しました。また,欽定訳聖書は,一般になじみの薄い言葉をたくさん使って,聖書を理解しにくくしている事を話しました。一例として,『Shambles』<シャンブルス>(日本文: 市場)という言葉をあげました。(コリント前 10:25)創造者の名前についても話しました。先生は,非常に興味を示し,生徒たちも良く聞いてくれました。その後,男生徒の一人は,私のレポートがおもしろかったと言ってきたので,新世訳聖書を見せたところ,本屋で買えるかとの事なので,私は彼に1冊配布しました。また,以前に証言したことのある女生徒の一人にも見せましたが,彼女も一部を求めました。それで,教室での割当を機会に,2冊の聖書を配布し,エホバの御名について知られることができました」。
-