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イエスの弟子になるとはどういうこと?「来て,私の弟子になりなさい」
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第1章
イエスの弟子になるとはどういうこと?
「永遠の命を受けるには何をしなければなりませんか」
1-2. 私たちはどんな素晴らしい誘いを受けていますか。どんなことを考えてみるのは大切ですか。
あなたはこれまでに,どんな誘いを受けてうれしく思いましたか。大切な友達の結婚式に呼ばれた時でしょうか。大事な仕事をやってほしいと言われた時ですか。きっと,そのように声を掛けられて胸が躍り,光栄に思ったことでしょう。では,私たち一人一人が受けている,何よりも素晴らしい誘いについて考えてみましょう。その誘いに応じるかどうかは,人生を左右する重大な選択です。
2 それはどんな誘いでしょうか。聖書のマルコ 10章21節に書かれています。そこで全能の神エホバの独り子イエス・キリストは,「来て,私の弟子になりなさい」と勧めています。それは私たち一人一人に対する言葉でもあります。それで,「自分はどうしたいだろうか」と考えてみるのは大切なことです。こんなに素晴らしい誘いに応じないなんて考えられないと思いますか。でも現実には,応じようとしない人がほとんどです。
3-4. (ア)イエスに近づいて永遠の命について尋ねた人物は,どんな点で誰もがうらやむような人でしたか。(イ)イエスはその人のどんな良いところに注目したと考えられますか。
3 一例として,2000年ほど前にイエスから直接そのように誘われた人のことを考えてみましょう。聖書によると,その人は「青年」で,「非常に裕福」な「支配者」でした。(マタイ 19:20。ルカ 18:18,23)若くて富と権力もある,誰もがうらやむような人で,人望もあったようです。でも注目したいのはそういうことよりも,この人の態度です。偉大な教師イエスのことを聞いて,もっと知りたいと思っていました。
4 当時のほとんどの支配者は,イエスに敬意を払いませんでした。(ヨハネ 7:48; 12:42)しかし,この人は違いました。聖書にこう書かれています。「イエスが進んでいくと,ある男性が走ってきてひざまずき,こう質問した。『善い先生,永遠の命を受けるには何をしなければなりませんか』」。(マルコ 10:17)よっぽどイエスと話したかったのでしょう。あたかも貧しい人や身分の低い人のように,人前でイエスに駆け寄りました。それだけでなく,敬意を込めてひざまずきました。それなりに謙遜で,神の導きが必要だと自覚していたことが分かります。イエスは人のそういう良いところに注目する方でした。(マタイ 5:3; 18:4)イエスが「その男性を見つめ,愛を抱い」たのもうなずけます。(マルコ 10:21)では,イエスはこの青年の質問に何と答えたでしょうか。
これ以上ない誘い
5. イエスは裕福な青年の質問にどう答えましたか。その人が裕福なことを問題にしていたのではないと,どうして分かりますか。(脚注も参照。)
5 イエスは聖書の言葉を引用し,その重要な質問に天の父がすでに答えていることを示しました。すると青年は,自分はモーセの律法を忠実に守ってきたと言います。しかしイエスは,その人の心の中を見て,神との絆を弱めかねない重大な問題に気付きます。(ヨハネ 2:25)それで,こう言いました。「あなたには1つのことが欠けています。行って,持っている物を全て売り,貧しい人たちに与えなさい」。(マルコ 10:21)これは,神に仕える人はお金を持っていてはいけないということでしょうか。そうではありません。a キリストはとても重要なことを教えようとしていました。
6. 裕福な若い支配者はイエスからどんな誘いを受けましたか。それに対する反応により,どんな問題が明らかになりましたか。
6 青年に何が欠けているかをはっきりさせるために,イエスは続けて「来て,私の弟子になりなさい」と言いました。さらに,「天に宝を持つように」なるという,期待をはるかに超えるような良いことを約束します。裕福な若い支配者は,至高の神の子の弟子になるという素晴らしい機会を与えられました。最高の栄誉と言えるこの誘いに応じるでしょうか。聖書にはこう書かれています。「男性はこれを聞いて悲しくなり,悲嘆しながら去っていった。多くの資産を持っていたからである」。(マルコ 10:21,22)イエスから思ってもみないことを言われて,この人の抱えていた問題が明らかになりました。自分の資産への愛着が強過ぎたのです。権力や名声への愛着もあったのでしょう。残念なことに,そうしたものへの愛がキリストへの愛をはるかに上回っていました。この人に欠けていた「1つのこと」とは,自己犠牲的な愛でした。心を尽くしてイエスとエホバを愛してはいなかったのです。そのため,これ以上ない誘いを断ってしまいました。では,あなたはどうしますか。
7. イエスが現代の私たちにも弟子になるよう呼び掛けていると言えるのはどうしてですか。
7 イエスは,その人やごく少数の人だけに弟子になるよう勧めたのではありません。こう言っています。「誰でも私に付いてきたいと思うなら,……絶えず私の後に従いなさい」。(ルカ 9:23)キリストに付いていきたいと思う人は「誰でも」弟子になれるということです。そういう良い心を持つ人たちを,神はイエスのもとに引き寄せます。(ヨハネ 6:44)裕福な人だけでも貧しい人だけでもなく,特定の人種や国籍の人だけでも,イエスの時代に生きていた人だけでもなく,全ての人にイエスの弟子になる機会が開かれています。つまりイエスはあなたにも,「来て,私の弟子になりなさい」と呼び掛けているのです。では,イエスに付いていく価値があると言えるのはどうしてでしょうか。イエスの弟子になるとはどういうことでしょうか。
イエスは最高の指導者
8. 全ての人は何を必要としていますか。どうしてですか。
8 私たちは皆,良い指導を必要としています。そのことを認めようとしない人もいますが,これは事実です。エホバの預言者エレミヤが聖なる力に導かれて次のように書いた通りです。「エホバ,私はよく知っています。人は自分の道を定めることができません。自分で自分の歩みを導くことができないのです」。(エレミヤ 10:23)人間には自分たちを治める能力も権利もありません。歴史を見ても,人間による指導がうまくいっていないことは明らかです。(伝道の書 8:9)イエスの時代の指導者たちは,人々を抑圧し,苦しめ,間違った方向に導いていました。イエスは一般の人たちが「羊飼いのいない羊のよう」になっているのを見て取りました。(マルコ 6:34)現代も同じような状況です。付いていきたいと思えるような信頼できる指導者がいないと感じている人が少なくありません。では,イエスは良い指導者だと言えるでしょうか。確かにそうだと言える理由を幾つか考えてみましょう。
9. イエスはどんな点で人間の指導者とは違いますか。
9 1つ目の理由として,イエスはエホバ神に選ばれた指導者です。人間の指導者は大抵,不完全な人間によって選ばれます。人間はだまされやすく,間違った判断をしがちなので,良い指導者が選ばれるとは限りません。でも,イエスは人間によって選ばれたのではありません。イエスの称号である「キリスト」や「メシア」という言葉には,「油を注がれた者」つまり「選ばれた者」という意味があります。イエスは,宇宙の主権者である主によって,神聖な務めを果たすために特別に任命されたのです。エホバ神は自分の子についてこう言いました。「見なさい,私が選んだ奉仕者,私が愛し,喜んでいる者である。私は彼に聖なる力を与え[る]」。(マタイ 12:18)エホバは私たちを創造した方なので,私たちがどんな指導者を必要としているかを誰よりもよく知っています。無限の知恵を持つエホバが選んだのですから,イエスは最高の指導者だと確信できます。(格言 3:5,6)
10. イエスが私たちにとって最高の手本だと言えるのはどうしてですか。
10 2つ目の理由として,イエスはぜひ倣いたいと思わせる完璧な手本を示しました。優れた指導者には,見習いたいと思える良いところがいろいろあるものです。そういう人の良い手本を見ると,より良い生き方をしたいという気持ちになります。あなたが指導者に期待するのはどんなことですか。勇気,知恵,思いやりがあることですか。困難を物ともしない不屈の精神を持っていることでしょうか。イエスの地上での生涯について調べると,イエスがその全てを兼ね備えていて,素晴らしいところがさらにたくさんあることが分かります。イエスは天の父のあらゆる良いところに完璧に倣っていて,まさに完全な人間でした。ですから,イエスの行動,話し方,考え方や感じ方は,私たちにとって最高の手本です。聖書にこう書かれている通りです。「キリスト[は]その歩みに皆さんがしっかり付いてくるよう手本を示しました」。(ペテロ第一 2:21)
11. イエスが「立派な羊飼い」だと言えるのはどうしてですか。
11 3つ目の理由として,キリストは自分で言った通り「立派な羊飼い」です。(ヨハネ 10:14)イエスの時代の人たちは,羊飼いのことをよく知っていました。羊飼いは羊を世話するために一生懸命働きました。「立派な羊飼い」は自分のことよりも羊のことを優先し,群れを守ります。例えば,イエスの先祖のダビデは,羊飼いとして働いていた若い頃に,命懸けで羊を猛獣から守ったことが何度かありました。(サムエル第一 17:34-36)イエスは弟子たちのためにそれ以上のことをしました。自分の命をなげうったのです。(ヨハネ 10:15)そこまで自己犠牲的な指導者はなかなかいません。
12-13. (ア)羊飼いは羊のことをどれほどよく知っていますか。羊は羊飼いのことをどれほどよく知っていますか。(イ)あなたは立派な羊飼いに導いてもらいたいと思いますか。どうしてですか。
12 イエスが「立派な羊飼い」だと言える理由はほかにもあります。イエスはこう言いました。「私は……自分の羊を知っており,私の羊も私を知っています」。(ヨハネ 10:14)この言葉からどんなイメージが湧くでしょうか。何げなく見ている人には,羊の群れはもこもこした生き物の集まりにしか見えないかもしれません。でも羊飼いは一頭一頭の羊のことをよく知っています。どの雌羊が間もなく出産の助けを必要とするか,どの子羊がまだ長距離を歩けないので運んであげる必要があるか,どの羊が病気やけがで弱っているかを把握しています。羊も羊飼いのことをよく知っています。声を聞き分け,ほかの羊飼いの声と間違えたりはしません。危険を知らせる呼び掛けを聞くと,素早く反応します。羊飼いの行く所にどこでも付いていきます。羊飼いは,羊をどこに連れていったらいいかを知っています。安全で草が青々と茂っている牧草地や,水がきれいな小川を知っているのです。羊飼いに見守られて,羊は安心していられます。(詩編 23編)
13 あなたもぜひそのように導いてもらいたいと思いませんか。イエスはまさに立派な羊飼いとして,弟子たちを愛情深く導き,世話してきました。そして,あなたがいつまでも幸せで充実した生活を送れるように導くと約束しています。(ヨハネ 10:10,11。啓示 7:16,17)では,キリストの弟子になるにはどうしたらいいのでしょうか。
キリストの弟子になるとはどういうことか
14-15. キリストの弟子になるには,自分はクリスチャンだとかイエスを愛していると言うだけでは不十分です。どうしてそう言えますか。
14 現在,世界中には,自分はクリスチャンだと言う人が何億人もいます。赤ちゃんの時に洗礼を受けて,そのまま親と同じ教会に通っている人もいます。イエスを愛していて,自分の救い主だと信じている,と言う人もいるでしょう。でも,それだけでキリストの弟子だということになるのでしょうか。そうではありません。イエスは自分の弟子になる人たちに,もっと多くのことを期待しています。
15 多くの国では,ほとんどの人がキリスト教を信じていると言います。では,そういう国々ではイエス・キリストの教えが守られているでしょうか。それとも,ほかの国々と同じように,憎しみや犯罪や不公正が見られるでしょうか。
16-17. 自分はクリスチャンだと言う人であっても,何が欠けていることが多いですか。イエスの本当の弟子はどういう人ですか。
16 イエスによれば,イエスの本当の弟子は単にクリスチャンを名乗るだけでなく,クリスチャンにふさわしく行動します。例えばイエスはこう言いました。「私に向かって『主よ,主よ』と言う人全員が天の王国に入るのではなく,天にいる私の父の望むことを行う人だけが入ります」。(マタイ 7:21)イエスを主とあがめる人たちの多くが,天の父の望むことを行わないのはどうしてでしょうか。裕福な若い支配者と同じように,「1つのことが欠けて」いるからです。イエスや天の父を,自分の全てを尽くして愛してはいないのです。
17 自分はクリスチャンだと言う大勢の人は,キリストを愛しているとも言いますが,本当の意味で愛しているとは言えません。イエスとエホバへの愛は,口先だけのものであってはならないからです。イエスは,「私を愛する人は私の言葉を守ります」と言いました。(ヨハネ 14:23)また,自分を羊飼いに例えた時にこうも言いました。「私の羊は私の声を聞きます。私は彼らを知っており,彼らは私に付いてきます」。(ヨハネ 10:27)ですから,キリストを本当に愛しているかどうかは,言葉や感情だけでなく,主に行動に表れます。
18-19. (ア)イエスについて学ぶとどんな気持ちになりますか。(イ)この本にはどんな特徴がありますか。長年キリストに従ってきた人にもどのように役立ちますか。
18 私たちは,心の中で考えていることや願っていることを行動に移すものです。ですから,まず自分の内面を磨かなければなりません。イエスはこう言いました。「永遠の命を得るには,唯一の真の神であるあなたと,あなたが遣わされたイエス・キリストのことを知る必要があります」。(ヨハネ 17:3)イエスのことをよく知るために聖書を読んでじっくり考えると,心の中でイエスへの愛が育まれます。そして,イエスにしっかり従って生きていきたいという気持ちが強くなっていきます。
19 この本は,イエスについて学ぶのに役立ちます。イエスの地上での生活や宣教を細かく解説するというより,どうすればイエスに見習えるかを分かりやすく取り上げています。b この本を使って聖書という鏡をのぞき込み,「自分は本当にイエスの後に従っているだろうか」と考えてみましょう。(ヤコブ 1:23-25)たとえ長年,立派な羊飼いの後に従ってきたとしても,改善できることが何かしらあるものです。聖書はこう勧めています。「自分がクリスチャンの信条の通りに生きているかどうか,いつも確かめてください。自分がどんな人かをいつも調べてください」。(コリント第二 13:5)自分が愛情深い立派な羊飼いの教え通りにできているかどうかを確かめることは,本当に大切です。エホバが私たちの指導者として任命したイエスに従おうと一生懸命に努力すれば,必ず私たちのためになります。
20. 次の章ではどんなことを考えますか。
20 あなたがこの本を学んで,イエスとエホバへの愛をいっそう強めることができますように。いつもそのような愛を抱いているなら,今の世の中で最高に充実した幸せな生活を送れるだけでなく,私たちが立派な羊飼いに導かれるようにしてくださったエホバを永遠にわたって賛美することができます。キリストについて学ぶには,まずその方がエホバの目的の中でどのような役割を担っているかを正しく理解することが大切です。第2章では,そのイエスの役割について取り上げます。
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「私は道であり,真理であり,命です」「来て,私の弟子になりなさい」
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第2章
「私は道であり,真理であり,命です」
「私の弟子になりなさい」
1-2. 私たちが自力でエホバに近づけないのはどうしてですか。イエス・キリストは私たちのためにどんなことをしてくれますか。
道に迷ったことがありますか。例えば,友達や親戚の家に行こうとして道が分からなくなったことがあるかもしれません。そんな時に誰かに道を尋ねたところ,その人がとても親切で,道を教えるだけでなく「付いてきてください,一緒に行きますよ」と言ってくれたらどうでしょうか。本当に安心するのではないでしょうか。
2 イエス・キリストは,その親切な人のようです。私たちは自力で神に近づくことはできません。人間は罪と不完全さを受け継いでいるため,「神による命から遠く離れて」いて,いわば道に迷っています。(エフェソス 4:17,18)進むべき道を教えてもらう必要があります。その点,イエスはとても親切で,アドバイスや指示を与えるだけでなく,先導してくれます。第1章で考えた通り,「来て,私の弟子になりなさい」と言って,付いてくるよう私たちに呼び掛けているのです。(マルコ 10:21)その誘いに応じるべき理由の1つとして,ある時イエスはこう言いました。「私は道であり,真理であり,命です。私を通してでなければ,誰も父のもとに行くことはできません」。(ヨハネ 14:6)では,イエスを通してでなければ誰も天の父に近づけないのはどうしてかを考えましょう。それから,イエスがどういう意味で「道であり,真理であり,命」なのかを取り上げます。
エホバの目的の中での重要な役割
3. イエスを通してでなければ神に近づけない主な理由は何ですか。
3 イエスを通してでなければ神に近づけない主な理由は,エホバがイエスを選んで最も重要な役割を与えたからです。a それは,エホバが自分の目的を全て果たすための中心的な役割です。(コリント第二 1:20。コロサイ 1:18-20)そのイエスの役割を理解するには,エデンの園で起きたことについて考える必要があります。最初の人間夫婦がサタンに加わってエホバに反逆した時のことです。(創世記 2:16,17; 3:1-6)
4. エデンでの反逆によってどんな疑問が生じましたか。エホバは問題を解決するためにどうすることにしましたか。
4 エデンでの反逆により,ある疑問が生じました。エホバという名の神は本当にいつでも聖なる善い方,正しくて愛情深い方なのか,という疑問です。その答えは,全ての天使や人間にとって非常に重要です。エホバはこの問題を解決するために,完全な天使を地上に遣わすことにしました。その天使はこの上なく重大な使命を果たすことになります。自分の命をなげうって,エホバの名を神聖なものとし,人類を救うための贖いとなるのです。死ぬまで忠実であり続けるなら,サタンの反逆によって生じた問題全てを解決することが可能になります。(ヘブライ 2:14,15。ヨハネ第一 3:8)聖書によると,完全な天使は何億もいます。(ダニエル 7:9,10)では,エホバはこの最も重要な使命を誰に託すことにしたでしょうか。エホバが選んだのは,自分の「独り子」でした。後にイエス・キリストとして知られるようになった方です。(ヨハネ 3:16)
5-6. エホバはイエスを信頼していることをどのように示しましたか。それほどイエスを信頼していたのはどうしてですか。
5 エホバがイエスを選んだのは,全く意外なことではありません。エホバは独り子に絶対の信頼を置いていました。イエスを地上に遣わす何世紀も前から,イエスがあらゆる苦しみに遭っても忠実であり続けると予告していました。(イザヤ 53:3-7,10-12。使徒 8:32-35)他の天使や人間と同じく,イエスにも自由意志があり,どうするかを自分で決めることができました。それでもエホバは,イエスが忠誠を貫くと断言するほどイエスを信頼していたのです。どうしてそこまで強い確信があったのでしょうか。イエスのことをよく知っていたからです。イエスがどれほど父を喜ばせたいと思っているかを知っていました。(ヨハネ 8:29; 14:31)イエスはエホバを愛していて,エホバもイエスを愛しています。(ヨハネ 3:35)それで,エホバとイエスは決して断たれることのない強い絆で結ばれています。(コロサイ 3:14)
6 イエスが重要な役割を担っていること,エホバがイエスを心から信頼していること,エホバとイエスが愛の絆で結ばれていることを考えると,イエスを通してでなければ神に近づけないというのもうなずけます。では,イエスだけが私たちを神のもとに導けると言える理由をもう一つ考えましょう。
父を本当に知っているのは子だけ
7-8. 父を本当に知っているのは子だけだと言えるのはどうしてですか。
7 エホバと親しくなるには,幾つかの条件を満たす必要があります。(詩編 15:1-5)どうすれば神の基準に達し,神に喜んでもらえるかを一番よく知っているのは,イエスです。イエスはこう言っています。「全てのものは父によって私に渡されています。子を本当に知っているのは父だけであり,父を本当に知っているのは,子と,子が進んで父を啓示する者たちだけです」。(マタイ 11:27)父を本当に知っているのは子だけだというのが大げさではなく,その通りだと言える理由を考えてみましょう。
8 「全創造物の中の初子」であるイエスとエホバの間には,特別な絆があります。(コロサイ 1:15)イエスは他の天使たちが創造されるまでの間,おそらくかなりの期間父エホバとふたりきりでした。その間に,非常に親しい関係が育まれたに違いありません。(ヨハネ 1:3。コロサイ 1:16,17)イエスはずっとお父さんのそばにいて,お父さんの考え方,望んでいること,基準,物事の進め方などを学んだことでしょう。ですから,イエスがほかの誰よりもエホバのことをよく知っているというのは,決して過言ではありません。そういうイエスだからこそ,エホバがどんな方かを理解できるよう人間を助けるのに最も適任だったのです。
9-10. (ア)エホバがどんな方かをイエスはどのように明らかにしましたか。(イ)エホバに喜んでもらうにはどうする必要がありますか。
9 イエスはエホバの考え方や感じ方,また崇拝者たちに求めていることをよく知っていて,それが教えに表れていました。b そして,教えだけでなく言動によってもエホバがどんな方かを明らかにしました。「私を見た人は,父をも見たのです」と言っています。(ヨハネ 14:9)聖書によると,イエスは人を引き付ける力強い教え方をし,病気の人を深く思いやって癒やし,悲しんでいる人に感情移入をして涙を流しました。いつでも完璧にお父さんに倣っていたので,そういうイエスの言動について読む時,あたかもエホバがそのように話したり行動したりするのを見ているかのようです。(マタイ 7:28,29。マルコ 1:40-42。ヨハネ 11:32-36)イエスの言動には,天の父の性格や意志が完璧に表れていました。(ヨハネ 5:19; 8:28; 12:49,50)ですから,エホバに喜んでもらうには,イエスの教えに従い,イエスの手本に倣う必要があります。(ヨハネ 14:23)
10 イエスはエホバをよく知っていて,エホバに完璧に倣っているので,エホバがそのイエスを通して自分に近づくよう求めているのはもっともなことです。では,イエスを通してでなければエホバに近づけない理由が分かったので,今度はイエスがどういう意味で「私は道であり,真理であり,命です」と言ったかを考えましょう。(ヨハネ 14:6)
「私は道」
11. (ア)イエスを通してでなければ神との絆を持つことができないのはどうしてですか。(イ)ヨハネ 14章6節では,イエスだけが「道」だということがどのように強調されていますか。(脚注を参照。)
11 ここまでで考えた通り,イエスを通してでなければ神に近づくことはできません。それがどういうことかさらに考えてみましょう。イエスは私たちが神との絆を持つための唯一の「道」です。私たちは罪があるので,そのままでは神に近づくことができません。聖なる方エホバは罪を大目に見ることができないからです。それで人間と神との間には,いわば罪という壁があるかのようです。(イザヤ 6:3; 59:2)イエスは死ぬまで神に忠実であり続け,自分の命を贖いとして与えてくれました。(マタイ 20:28)その贖いのおかげで,神と人間の間の壁が取り除かれます。贖いは罪を取り去るからです。(ヘブライ 10:12。ヨハネ第一 1:7)神からの贈り物であるキリストの贖いの犠牲に信仰を抱く人は,「神と和解」することができます。それ以外に神と友達になる道はありません。c (ローマ 5:6-11)
12. イエスはどんな意味でも「道」ですか。
12 イエスは私たちが神に祈るときの「道」でもあります。イエスを通して祈る場合にのみ,祈りがエホバに聞かれていると確信できます。(ヨハネ第一 5:13,14)イエス自身もこう言いました。「あなたたちが天の父に何か求めるなら,父は私の名によって与えてくださいます。……求めなさい。そうすれば受け,喜びに満たされます」。(ヨハネ 16:23,24)イエスの名によって祈る時,私たちはエホバに「私たちの父」と呼び掛けることができます。(マタイ 6:9)さらに,イエスは手本を示すことによっても,いわば「道」となってくれています。前にも取り上げた通り,イエスは父エホバに完璧に倣いました。私たちはその手本から,どうすればエホバに喜んでもらえるかを学ぶことができます。それで,エホバとの友情を育むには,イエスの歩みにしっかり付いていく必要があります。(ペテロ第一 2:21)
「私は……真理」
13-14. (ア)イエスはいつもどんなことを話したので「真理」だと言えますか。(イ)自分は真理だというイエスの言葉には,さらにどんな深い意味がありましたか。
13 イエスはいつも,神からの言葉を正しく伝え,真理を教えました。(ヨハネ 8:40,45,46)誤った情報で人を惑わすようなことは決してありませんでした。(ペテロ第一 2:22)イエスに反対する人たちでさえ,イエスが「真理に沿って神の道を教えている」と認めていました。(マルコ 12:13,14)でもイエスが自分は「真理」だと言ったのは,真理を語り,広め,教えていたからだけではありません。イエスのその言葉にはもっと深い意味があります。
14 イエスが生まれる何世紀も前に,エホバは聖書筆者たちを聖なる力で導き,メシアつまりキリストについての預言を幾つも記させました。メシアの生涯,宣教,死についての具体的な預言です。モーセの律法にも,メシアが行うことが暗示されていました。(ヘブライ 10:1)イエスが死ぬまで神に忠実であり続けるなら,メシアに関するそれらの預言が全て実現することになります。そうして初めて,エホバが真実の預言を語る神であることが証明されます。イエスにはそのような重圧がかかっていましたが,地上での生涯中のあらゆる言動により,預言されていた事柄が確かに真理だったということをはっきりさせました。(コリント第二 1:20)ですからイエスは,エホバの預言の真実さを身をもって明らかにしたという意味で「真理」でした。(ヨハネ 1:17。コロサイ 2:16,17)
「私は……命」
15. 神の子に信仰を抱くとはどういうことですか。そうする人にはどんな将来が待っていますか。
15 イエスが「命」だと言えるのは,イエスのおかげで私たちが「真の命」を得られるからです。(テモテ第一 6:19)聖書にはこう書かれています。「子に信仰を抱く人は永遠の命を受ける。子に従わない人は命を得ず,神の憤りがその人の上にとどまる」。(ヨハネ 3:36)神の子に信仰を抱くとはどういうことでしょうか。命を得るにはイエスの助けが必要だと心から信じることです。そして,その信仰に基づいて行動し,イエスから学び続け,イエスの教えと手本にしっかり従うよう努力することが大切です。(ヤコブ 2:26)そのようにして神の子に信仰を抱く人は永遠に生きられます。聖なる力によって選ばれたクリスチャンの「小さな群れ」は,天での不滅の命を与えられます。「ほかの羊」の「大群衆」は,パラダイスになった地球で完全な人間として生きることができます。(ルカ 12:32; 23:43。ヨハネ 10:16。啓示 7:9-17)
16-17. (ア)亡くなった人たちにとってもイエスが「命」だと言えるのはどうしてですか。(イ)私たちはどんなことを確信できますか。
16 すでに亡くなった人たちはどうなるのでしょうか。その人たちにとってもイエスは「命」です。イエスは亡くなったラザロを復活させる少し前に,ラザロの姉妹のマルタにこう言いました。「私は復活であり,命です。私に信仰を抱く人は死んでも生き返ります」。(ヨハネ 11:25)イエスはエホバから「死と墓の鍵」を渡されました。人を復活させる力を与えられているのです。(啓示 1:17,18)王イエスはいわばその鍵で墓を開け,亡くなった人たちを生き返らせます。(ヨハネ 5:28,29)
17 「私は道であり,真理であり,命です」。この一言で,イエスは自分が何のために地上で暮らし,宣教を行ったかを言い表しました。現在の私たちにとっても,この言葉には大きな意味があります。イエスが続けてこう言っているからです。「私を通してでなければ,誰も父のもとに行くことはできません」。(ヨハネ 14:6)このことは今でも変わっていません。「父のもとに行く」道を示してくれるのはイエスだけなのです。イエスに付いていくなら決して迷うことなく,天の父に近づいていけると確信できます。
あなたはどうしますか
18. イエスの本当の弟子はどういう人ですか。
18 イエスには重要な役割があって,天の父を誰よりもよく知っているということを考えると,イエスに付いていきたいと思うのではないでしょうか。前の章で考えた通り,イエスの本当の弟子は,イエスを愛していると言うだけでなく,イエスに従って行動します。イエスにしっかり付いていくには,イエスの教えや手本から学んで自分の生き方を変えていくことが必要です。(ヨハネ 13:15)この本はそうするのに役立ちます。
19-20. この本は,キリストにしっかり従っていくのにどう役立ちますか。
19 この後の章で,イエスの生き方と宣教についてじっくり考えていきます。この本には3つのセクションがあります。最初のセクションでは,イエスがどんな方だったかを調べます。2つ目のセクションでは,イエスの伝道に対する姿勢や教え方について学べます。最後のセクションでは,イエスがどのように愛を表したかを考えます。3章以降には,「イエスの弟子として考えたいこと」という囲みがあります。その中の聖句と質問は,どうすればイエスのように話したり行動したりできるかをじっくり考えるのに役立ちます。
20 受け継いだ罪のせいで私たちは神から遠く離れてしまっていましたが,エホバ神のおかげで,もう道に迷うことはありません。エホバは大きな犠牲を払って自分の子を遣わし,私たちを友として迎え入れるための道を開いてくれました。(ヨハネ第一 4:9,10)そこまでしてくれたエホバの素晴らしい愛についてよく考え,「私の弟子になりなさい」というイエスの誘いにぜひ応じましょう。(ヨハネ 1:43)
a とても重要な役割を果たすイエスは,聖書の中で幾つもの預言的な称号で呼ばれています。(「イエス・キリストのいろいろな称号」という囲みを参照。)
b 例えば,マタイ 10章29-31節,18章12-14,21-35節,22章36-40節に書かれているイエスの言葉をご覧ください。
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「私は……謙遜」「来て,私の弟子になりなさい」
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第3章
「私は……謙遜」
「あなたの王がやって来る」
1-3. イエスがエルサレムに入った時の様子はどういうものでしたか。拍子抜けした人たちもいたと考えられるのはどうしてですか。
エルサレムは沸き立っています。特別な人が来ると聞いたからです。都市の外では沿道に人が集まり,その人を歓迎しようと待ち構えています。ダビデの王権を受け継いでイスラエルを治める人だといううわさもあります。ヤシの木の枝を振っている人たちもいれば,道路に外衣や木の枝を敷いて迎えようとしている人たちもいます。(マタイ 21:7,8。ヨハネ 12:12,13)どんなふうに姿を現すんだろうとわくわくしていたことでしょう。
2 華々しい登場を期待していた人たちもいたに違いありません。過去にそういう例があったことを知っていたからです。例えば,ダビデの息子アブサロムは自分が王だと宣言し,兵車に乗って50人の護衛と共にやって来ました。(サムエル第二 15:1,10)ローマの支配者ユリウス・カエサルはもっと派手で,ローマのカピトリヌスの丘まで凱旋行列を率いた時,ランプ台を背負った40頭の象を従えました。そうした人たちよりはるかに偉大な人物が,今エルサレムにやって来ようとしているのです。群衆が十分に理解しているかどうかはともかく,やって来るのはメシアであり,史上最も偉大な人です。でも,やがて王になるその人が姿を現した時,拍子抜けした人たちもいたかもしれません。
3 兵車や護衛は見えませんし,象どころか馬もいません。イエスは普通のロバに乗って現れます。a イエスもロバも,豪華に着飾ってはいません。ロバの背には,高価なくらではなく,弟子たちが掛けた外衣があるだけです。イエスほど重要ではない人たちがいかにも大げさな行進をしたのに,どうしてイエスはそんなにつつましくエルサレムに入ることにしたのでしょうか。
4. メシアである王がエルサレムに入る時の様子について,聖書の中でどんなことが予告されていましたか。
4 イエスは次の預言の通りにしていました。「大いに喜べ。エルサレムよ,勝利の叫びを上げよ。あなたの王がやって来る。救いをもたらす正しい王だ。謙遜で,ロバに乗っている」。(ゼカリヤ 9:9)この預言によれば,いつかメシアが神に任命された王としてエルサレムの人々の前に現れることになっていました。その方は,ロバに乗って来ることからも分かるように,素晴らしく謙遜な方なのです。
5. あなたはイエスの謙遜さのどんなところに感動しますか。イエスのように謙遜になることが大切なのはどうしてですか。
5 謙遜さはイエスの際立った魅力の1つで,イエスがどれほど謙遜だったかを考えると感動します。前の章で考えた通り,イエスだけが「道であり,真理であり,命です」。(ヨハネ 14:6)人類史の中で,神の子ほど重要な人物は誰一人いません。それなのに,イエスには傲慢さのかけらもありませんでした。不完全な人間はうぬぼれたり人を見下したりしがちですが,イエスの弟子になるにはそういう傾向と闘わなければなりません。(ヤコブ 4:6)傲慢さはエホバにとって不快なものです。ですから,イエスのように謙遜になることはとても大切です。
イエスは昔から謙遜な方
6. 謙遜とはどういうことですか。メシアが謙遜さを示すとエホバが予告できたのはどうしてですか。
6 謙遜とは,自分を低く見ることで,誇ったり人を見下したりしないことです。心からの謙遜さは,言動や人との接し方に表れます。メシアが謙遜さを示すとエホバが予告できたのはどうしてでしょうか。自分の謙遜さの手本に,子であるイエスが完璧に倣っていることを知っていたからです。(ヨハネ 10:15)イエスが実際に謙遜に行動するのも見ていました。どんな例があるでしょうか。
7-9. (ア)ミカエルはサタンと論じ合った時,どのように謙遜さを示しましたか。(イ)クリスチャンはどのようにミカエルに倣って謙遜さを示せますか。
7 「ユダの手紙」に興味深い出来事が書かれています。「天使長ミカエルは,モーセの体のことで悪魔と意見が分かれて論じ合った時,あえて断罪することも悪く言うこともせず,『エホバがあなたを叱責されますように』と言いました」。(ユダ 9)ミカエルとはイエスのことです。地上に来る前,また天に戻った後,天使長としての役割を果たすイエスはミカエルとも呼ばれています。b (テサロニケ第一 4:16)では,ミカエルがどのようにサタンに接したかに注目してみましょう。
8 サタンがモーセの体を使って何をしたかったのかは書かれていませんが,何か良からぬことを企んでいたに違いありません。モーセの遺骸を人間に崇拝させようと思っていたのかもしれません。ミカエルはサタンに悪いことをさせまいとしつつも,見事に自分を制しました。サタンは明らかに間違っていましたが,ミカエルはサタンと論じ合った時点ではまだ「裁くことを全て」委ねられてはいなかったので,エホバ神に任せるべきだと考えました。(ヨハネ 5:22)天使長として大きな権威を持っていましたが,出しゃばろうとはせず,謙遜にエホバの裁きを待つことにしたのです。謙遜さだけでなく,自分の限界をわきまえて慎みも示しました。
9 エホバがユダを導いてこの出来事について書かせたのはどうしてでしょうか。残念なことに当時,謙遜ではないクリスチャンがいたからです。その人たちは傲慢な態度で,「理解してもいない事柄をことごとく悪く言って」いました。(ユダ 10)不完全な人間は,簡単に誇りの気持ちに毒されてしまうことがあります。例えば長老団の決定など,クリスチャン会衆内で何か理解できないことにぶつかったとき,私たちはどう反応するでしょうか。いろいろな事情を全て知っているわけではないのに,不満を持ったり批判的になったりするなら,謙遜さが欠けているのかもしれません。ぜひミカエルに倣って,神から権威を与えられていないのに裁くようなことがないようにしましょう。
10-11. (ア)イエスがエホバに言われた通り地上に来たのは,どれほどすごいことですか。(イ)どのようにイエスの謙遜さに倣えますか。
10 イエスがエホバに言われた通り地上に来たのも,謙遜さの表れでした。大きな変化を受け入れなければならなかったからです。イエスは天使長であり,「言葉」としてエホバの代弁者も務めていました。(ヨハネ 1:1-3)「神聖さと栄光に満ちた,[エホバ]の高大な住まい」である天で暮らしていました。(イザヤ 63:15)それなのに「全てを捨てて奴隷のようになり,人間になりました」。(フィリピ 2:7)イエスにとって,人間になるとはどういうことだったか考えてみてください。イエスの命はユダヤ人の処女の胎内に移され,9カ月後にイエスは無力な赤ちゃんとして生まれました。貧しい大工の家で,よちよち歩きの幼児,少年,若者へと成長していきました。自分は完全な人間でしたが,ずっと不完全な人間の両親に従っていました。(ルカ 2:40,51,52)非常に謙遜でなければできないことです。
11 私たちもイエスのように謙遜になって,人から見下されるような仕事でも快く行えるでしょうか。例えば,私たちが神の王国の良い知らせを伝えても,多くの人は無関心で,ばかにしたり悪感情をぶつけてきたりすることもあります。(マタイ 28:19,20)それでもこの仕事を諦めずに続けるなら,人の命を救えるかもしれません。たとえそうならなくても,謙遜さについて多くのことを学べて,主人であるイエス・キリストにしっかり付いていくことができます。
イエスは地上にいた間も謙遜だった
12-14. (ア)人から称賛された時,イエスはどのように謙遜さを示しましたか。(イ)イエスはどのように謙遜に人に接しましたか。(ウ)イエスの謙遜さがうわべだけのものではなかったことが,どんなことから分かりますか。
12 地上で伝道した間も,イエスは最初から最後まで謙遜でした。常に天の父が賛美され,たたえられるようにしていました。イエスは知恵の表れた言葉を語り,驚くような奇跡を幾つも行い,人格も立派だったので,たびたび人から称賛されました。でもその都度,自分ではなくエホバに人々の注意を向けました。(マルコ 10:17,18。ヨハネ 7:15,16)
13 人への接し方にもイエスの謙遜さが表れていました。イエス自身が,自分は仕えてもらうためではなく仕えるために地上に来たとはっきり言っています。(マタイ 20:28)イエスはいつも温和で,周りの人に理解を示しました。弟子たちにがっかりさせられても,叱りつけたりはせず,辛抱強く教え続けました。(マタイ 26:39-41)自分たちだけになれる静かな場所で休もうとするのを群衆に邪魔された時にも,追い払ったりせず,時間を取って「多くのこと」を教えました。(マルコ 6:30-34)イスラエル人ではない女性から娘を癒やしてほしいとしつこく頼まれた時には,初めのうちは癒やすつもりがないことを伝えていましたが,腹立たしげに拒んだりはしませんでした。その女性が素晴らしい信仰を持っていることを見て取ると,願いを聞き入れました。この出来事については第14章でも取り上げます。(マタイ 15:22-28)
14 イエスはあらゆる場面で謙遜でした。「私は温和で,謙遜……です」と言った通りです。(マタイ 11:29)イエスの謙遜さは,単なる礼儀作法のようなうわべだけのものではなく,心からのものでした。そんなイエスだからこそ,謙遜さについて弟子たちに教えることを大切にしていました。
謙遜であるよう弟子たちを教える
15-16. イエスは,自分の弟子は国々の支配者とどのように違っているべきだと教えましたか。
15 イエスの使徒たちはなかなか謙遜になれなかったので,イエスは何度も教えなければなりませんでした。例えばある時,ヤコブとヨハネは母親を通して,神の王国で高い地位に就けてほしいとイエスに頼みました。イエスは慎み深くこう答えました。「私の右また左に座ることは,私が決めることではありません。その場所は,そこに座る者たちのために,天にいる私の父によって用意されています」。ほかの10人の使徒たちは,ヤコブとヨハネがしたことを聞いて憤りました。(マタイ 20:20-24)イエスはどうするでしょうか。
16 イエスは全員を優しくたしなめ,こう言いました。「あなたたちは,国々の支配者が威張り,偉い人たちが権威を振るうことを知っています。あなたたちの間ではそうであってはなりません。偉くなりたい人は奉仕者でなければならず,1番でありたい人は奴隷でなければなりません」。(マタイ 20:25-27)使徒たちは,「国々の支配者」がどれほど高慢で野心的で自己中心的かを見て知っていたことでしょう。イエスの弟子は,そうした権力欲の強い圧政者のようであってはなりませんでした。謙遜でなければならないのです。使徒たちは教訓を学んだでしょうか。
17-19. (ア)イエスは亡くなる前の晩,使徒たちに謙遜さを教えるためにどんな印象的なことをしましたか。(イ)イエスはどんなことをして,最も印象に残る仕方で謙遜さについての教訓を与えましたか。
17 すぐに正しい考え方ができるようにはなりませんでした。イエスが謙遜さについて教えたのは,この時が最初でも最後でもありません。以前に,誰が一番偉いかについて使徒たちが言い争った時,イエスは幼い子供を彼らの真ん中に立たせて,子供のようにならなければいけないと教えました。高慢で野心的で上下関係を気にしがちな大人のようであってはいけないということです。(マタイ 18:1-4)そのように教えたのに,イエスが亡くなる前の晩になってもまだ使徒たちはなかなか謙遜になれないでいました。それでイエスは,さらに印象的な教え方をします。拭き布を腰にくくって,当時の召し使いが客にしたように使徒たち一人一人の足を洗ったのです。イエスを裏切ろうとしていたユダの足さえも洗いました。(ヨハネ 13:1-11)
18 イエスは伝えたかったことを強調し,「私はあなたたちのために模範を示しました」と言いました。(ヨハネ 13:15)では,使徒たちはこれでついに教訓を学んだでしょうか。何と,その晩の後刻,またしても誰が一番偉いかについて言い争いました。(ルカ 22:24-27)それでもイエスは辛抱し,謙遜に教え続けました。その後,最も印象に残る仕方で教訓を与えます。「苦しみの杭に掛けられて死ぬことを受け入れたのです」。そのようにして「謙遜さを示し,死に至るまで従順でした」。(フィリピ 2:8)イエスは神を冒瀆した犯罪者というレッテルを貼られ,屈辱的な死に方をすることになりましたが,それを受け入れました。それで,イエスは完全で究極の謙遜さを示したと言えます。エホバが創造した全ての者の中で,際立った手本です。
19 イエスが自分の死によって謙遜さについて教えたことが,使徒たちにとって忘れられない教訓となったようです。謙遜さがいかに大切かが,忠実な使徒たちの心に深く刻まれました。聖書によると,使徒たちはその後何十年も謙遜に奉仕しました。では,私たちはどうでしょうか。
あなたはイエスの手本に倣いますか
20. 自分が心から謙遜かどうか,どうしたら分かりますか。
20 パウロは私たち一人一人に,「キリスト・イエスと同じ考え方をしてください」と勧めています。(フィリピ 2:5)私たちはイエスのように謙遜でなければなりません。自分が心から謙遜かどうか,どうしたら分かるでしょうか。パウロはこう言っています。「対抗心を抱いたり,自己中心的になったりしてはなりません。謙遜になり,自分より他の人の方が上だと考えてください」。(フィリピ 2:3)ですから,大切なのは他の人をどう見ているかです。自分よりも上で,大事な人だと考える必要があります。あなたはそうしていますか。
21-22. (ア)クリスチャンの監督が謙遜でなければならないのはどうしてですか。(イ)謙遜さを身に着けていることはどんな態度に表れますか。
21 イエスの死後かなりの年月がたった後も,ペテロは謙遜さの大切さについて考えていました。そして,クリスチャンの監督たちに,エホバの羊に対して威張ったりせず,謙遜に務めを果たすようにと教えました。(ペテロ第一 5:2,3)責任を与えられているからといって,誇ってはなりません。責任がある人ほど,心から謙遜になる必要があります。(ルカ 12:48)もちろん,監督たちだけでなく全てのクリスチャンにとって,謙遜であることは重要です。
22 ペテロは,一度は断ったのにイエスが足を洗ってくれた夜のことを決して忘れなかったに違いありません。(ヨハネ 13:6-10)クリスチャンたちに宛てた手紙の中でこう書いています。「皆が,人と接する上で謙遜さを身に着けてください」。(ペテロ第一 5:5)「身に着けて」という表現は,召し使いが仕事をするために前掛けを身に着ける様子を連想させます。イエスも膝を突いて使徒たちの足を洗う前に,拭き布を腰にくくりました。イエスに従う私たちは,神から与えられるどんな割り当てもつまらない仕事だなどとは考えません。私たちが心から謙遜であることは,あたかも前掛けを身に着けているかのように,皆にはっきり分かるようであるべきです。
23-24. (ア)傲慢にならないように注意すべきなのはどうしてですか。(イ)次の章を学ぶと,謙遜さに関するどんな見方が間違っていることが分かりますか。
23 傲慢さは人をむしばむ毒のようです。高い能力がある人でも,傲慢だと神にとって役に立たない存在になってしまいかねません。エホバがぜひとも一緒に働いてほしいと思うのは,能力があるかどうかに関わりなく謙遜な人です。私たちが日々キリストの歩みに付いていき,謙遜になるよう努力するなら,素晴らしい報いがあります。ペテロはこう書いています。「神の力強い手の下で謙遜になってください。そうすれば,神はやがて皆さんを重んじてくださいます」。(ペテロ第一 5:6)エホバは全面的に謙遜だったイエスを確かに重んじ,高い立場を与えました。謙遜であろうと努める私たちにも喜んで報いを与えてくださいます。
24 残念なことに,謙遜な人は弱い人だと思っている人たちもいます。その見方が間違っていることは,イエスの手本から分かります。イエスは最も謙遜な人でありながら,最も勇気ある人でもあったからです。次の章ではイエスの勇気について考えます。
a この出来事について取り上げたある資料によると,ロバは「みすぼらしい生き物」であり,「貧しい人たちがよく使う,のろまで頑固な荷役動物で,見た目もあまり良くない」とされています。
b ミカエルがイエスだと言える理由について詳しくは,エホバの証人の公式ウェブサイトjw.orgの「聖書Q&A」にある「天使長ミカエルとは誰のことですか」という記事をご覧ください。
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「見なさい,ユダ族の者であるライオン」「来て,私の弟子になりなさい」
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第4章
「見なさい,ユダ族の者であるライオン」
「それは私です」
1-3. イエスにどんな危険が迫りましたか。イエスはどうしましたか。
大勢の男たちがイエスを捜しています。剣やこん棒を持っていて,兵士もいます。悪意の塊となって夜のエルサレムの通りを突き進み,キデロンの谷を渡ってオリーブ山に向かいます。満月なのに,たいまつやランプも持っています。月が雲に覆われて,道を照らす必要があったのでしょうか。それとも,イエスは暗がりに隠れているに違いないと思ったのでしょうか。1つ言えることとして,イエスは恐れて身を潜めているだろうと思っている人は,イエスのことを何も分かっていません。
2 イエスは危険が迫っていることを知っていますが,逃げも隠れもしません。群衆が近づいてきます。先頭にいるのは,信頼する友だったユダです。ユダは恥知らずにもイエスを裏切ります。偽善的なあいさつと口づけをして,この人がイエスだと他の人たちに知らせます。それでもイエスは落ち着いています。男たちの前に進み出て,「誰を捜しているのですか」と尋ねます。男たちは「ナザレ人イエスだ」と答えます。
3 武器を持った群衆が迫ってきたら,大抵の人は恐ろしく感じるでしょう。この時の男たちも,イエスはおびえるだろうと思っていたかもしれません。しかし,イエスはおじけづくことも,逃げることも,自分が誰なのかをごまかすこともしません。「それは私です」と言います。イエスがあまりに落ち着いて堂々としているので,男たちは驚いて後ずさりし,地面に倒れてしまいます。(ヨハネ 18:1-6。マタイ 26:45-50。マルコ 14:41-46)
4-6. (ア)神の子は何と呼ばれていますか。どうしてですか。(イ)イエスはどんな3つの分野で勇気を表しましたか。
4 とても危険な状況だったのに,イエスがそれほどまでに冷静でいられたのはどうしてでしょうか。一言で言うと,勇気があったからです。勇気は,リーダーに期待される資質の中でも上位に挙げられます。そして,イエスほどの勇気を示した人はこれまで誰もいません。前の章で学んだ通り,イエスはとても謙遜で温厚でした。そのため,「子羊」と呼ばれています。(ヨハネ 1:29)しかし,勇気もあったので,聖書の中で全く別の呼び方もされています。「ユダ族の者であるライオン」と呼ばれているのです。(啓示 5:5)
5 ライオンはたびたび勇気と結び付けられています。あなたは雄のライオンの成獣と向かい合ったことがありますか。あるとしても,ライオンは動物園の囲いの中などにいて,危害を加えられる心配はなかったことでしょう。それでも,間近で見て思わずたじろいでしまったかもしれません。鋭い目つきの迫力あるライオンを見ていると,何かを恐れて逃げ出すことなどないように思えます。聖書にも,ライオンは「野獣の中で最も力強く,何ものからも逃げない」と書かれています。(格言 30:30)キリストはそのライオンのように勇気があったのです。
6 では,イエスがライオンのような勇気をどのように表したか,3つの分野を考えてみましょう。イエスは真理を擁護し,公正を貫き,反対に立ち向かいました。私たちも,たとえもともと勇敢でないとしても,イエスに見習って勇気を示せます。どのようにそうできるかも考えていきましょう。
イエスは勇敢に真理を擁護した
7-9. (ア)イエスが12歳の時にどんなことがありましたか。緊張しても無理はない,どんな状況でしたか。(イ)イエスは神殿の教師たちの前でどのように勇気を示しましたか。
7 「うその根源」であるサタンが世の中を支配しているので,真理を擁護するには勇気が必要です。(ヨハネ 8:44; 14:30)イエスは年若い頃から真理を擁護していました。12歳の時,エルサレムでの過ぎ越しの祭りの後に両親とはぐれたことがありました。マリアとヨセフは3日間,必死にイエスを捜し,ようやく神殿で見つけます。イエスはそこで何をしていたのでしょうか。「教師たちの真ん中に座り,話を聞いたり質問をしたりして」いました。(ルカ 2:41-50)この出来事についてもう少し考えてみましょう。
8 歴史家たちによれば,著名な宗教指導者たちが祭りの後も神殿にとどまり,広いポーチで人々を教えていました。その教師たちの足元に座って,話を聞いたり質問したりできたようです。その人たちは高い教育を受けていて,モーセの律法だけでなく,長い年月の間に付け足されてきた多くの複雑な規定や伝統についてもよく知っていました。もしあなたがそのような教師たちに囲まれたとしたら,どう感じると思いますか。緊張したとしても無理はありません。わずか12歳だったらなおさらです。年が若いと気後れしがちです。(エレミヤ 1:6)学校の授業でなるべく目立たないようにする子もいます。恥ずかしい思いをしたりばかにされたりしたくないので,先生に指されないようにするのです。
9 しかし,イエスはそうではありません。博学な教師たちの真ん中に座り,恐れずに鋭い質問をしています。それだけでなく,聖書によると「イエスが話すのを聞いていた人は皆,その子の理解力と答えにとても驚いて」いました。(ルカ 2:47)イエスが何を話したのかは聖書に書かれていませんが,当時の宗教指導者たちの間違った教えに同調するようなことは言わなかったに違いありません。(ペテロ第一 2:22)いつも神の言葉の真理に沿って意見を言ったことでしょう。それで聞いていた人たちは,その12歳の少年の洞察力や勇気に驚いたのです。
多くの若いクリスチャンが勇気を出して,自分の信じていることについて話している
10. 現代の若いクリスチャンたちは,イエスのように勇気を示してどんなことをしていますか。
10 現代の多くの若いクリスチャンも,イエスのように勇気を示しています。もちろんイエスと違って完全な人間ではありませんが,年若い頃から真理を擁護しています。学校や近所で会う人たちに上手に質問し,話してくれることをよく聞いて,敬意を込めて真理を伝えています。(ペテロ第一 3:15)そのようにして,クラスメートや先生や近所の人たちがキリストの弟子になれるように助けてきました。そうやって勇気を示している若い人たちを見て,エホバはとても喜んでいることでしょう。そのような若者は聖書の中で,爽やかで魅力的な露に例えられています。(詩編 110:3)
11-12. イエスは大人になってからもどのように勇敢に真理を擁護しましたか。
11 イエスは大人になってからも繰り返し勇敢に真理を擁護しました。まず,これから宣教を始めようという時に,恐ろしい相手に立ち向かわなければなりませんでした。力強い天使長ではなく生身の人間として,エホバの敵の中で最も強力で危険なサタンと相対することになったのです。サタンは聖書の言葉を自分の都合のいいように解釈しようとしましたが,イエスはそれを論破しました。そして,「離れ去れ,サタン!」ときっぱり命じて,その邪悪な敵を退けました。(マタイ 4:2-11)
12 イエスはその後も,聖書の言葉の意味をゆがめようとする人たちがたくさんいる中で,天の父の言葉が正しく伝わるように奮闘しました。当時も現代と同じように,宗教指導者たちは間違ったことばかり教えていました。それでイエスは彼らをとがめ,「自分たちが伝える伝統によって神の言葉を否定している」と言いました。(マルコ 7:13)その宗教指導者たちは一般の人たちから尊敬されていましたが,イエスは恐れることなく彼らを「目が見えない案内人」や「偽善者」と呼んで非難しました。a (マタイ 23:13,16)このイエスの勇気ある手本に,私たちはどのように倣えるでしょうか。
13. 私たちがイエスと全く同じようにできないのはどうしてですか。それでもどんな素晴らしいことができますか。
13 私たちはイエスと違って人の心の中を見ることはできませんし,裁く権限もないので,イエスと全く同じようにはできません。それでも,イエスに倣って勇敢に真理を擁護できます。例えば,多くの宗教が神や,神が願っていることや,神の言葉である聖書について間違ったことを教えていますが,そうした教えが正しくないことを示せます。そのようにして,サタンのうそによっていわば暗闇に包まれた世の中で光を輝かせるのです。(マタイ 5:14。啓示 12:9,10)間違った教えのせいで恐れを感じたり,神について誤解したりしている人たちに真理を伝え,爽やかな気持ちになれるよう助けることができます。イエスが言った通り人が「真理によって自由にな[る]」のを見ることができるのは,本当に素晴らしいことです。(ヨハネ 8:32)
イエスは勇敢に公正を貫いた
14-15. (ア)イエスはどのように「公正とは何かを国々に明らかに」しましたか。(イ)イエスはどんな偏見を意に介さず,サマリア人の女性と話しましたか。
14 聖書の預言によると,メシアは「公正とは何かを国々に明らかにする」ことになっていました。(マタイ 12:18。イザヤ 42:1)イエスは地上にいる間にそのことに着手しました。勇気を持っていつも人々に公平に接しました。当時の世の中には聖書の教えに反する偏見や敵意がはびこっていましたが,そうした考え方に流されたりはしませんでした。
15 ある時イエスは,スカルの井戸の所でサマリア人の女性と話しました。それを見た弟子たちは驚きました。当時ほとんどのユダヤ人はサマリア人をひどく嫌って避けていたからです。それは昔からあった根深い感情でした。(エズラ 4:4)さらに,女性を見下すラビたちもいました。彼らが作って後に書物にまとめた規則によると,男性は女性との会話を控えるべきでした。女性に神の律法を教える価値はないということもほのめかされていました。特にサマリア人の女性は汚れていると見なされていました。でもイエスは,公正とは程遠いそのような偏見を意に介さず,不道徳な生活を送っていたサマリア人の女性を人目もはばからずに教え,自分がメシアであることをその女性に明かすことさえしました。(ヨハネ 4:5-27)
16. 周りの人が偏見を持っている場合,クリスチャンに勇気が必要なのはどうしてですか。
16 あなたは偏見を持つ人と一緒にいたことがありますか。そういう人は人種や国籍の違う人をばかにするような冗談を言ったり,異性について失礼なことを言ったり,貧しい人や立場の低い人を見下したりするかもしれません。キリストの弟子はそのような心ない見方に同調したりせず,自分の心から偏見を取り除こうと懸命に努力します。(使徒 10:34)こうした面で公正であるには,勇気が必要です。
17. イエスは神殿でどんなことをしましたか。どうしてですか。
17 イエスは,神の民や崇拝の清さを守るために闘った時にも勇気を示しました。宣教を始めて間もない頃にエルサレムの神殿の境内に入った時,商人や両替屋がそこで商売をしているのを見てがくぜんとし,怒りを感じました。それで,その貪欲な人たちを神殿から追い出しました。(ヨハネ 2:13-17)宣教期間の終わりが近づいた頃にも同じようなことをしました。(マルコ 11:15-18)そのようにすれば敵をつくることになると分かっていましたが,イエスはためらいませんでした。どうしてでしょうか。イエスは子供の頃から神殿を自分の父の家と呼び,心からそうだと思っていました。(ルカ 2:49)そこで行われる清い崇拝を汚すような不公正を見過ごすことなどできませんでした。そういう熱い思いがあったので,勇敢に行動できたのです。
18. 現代のクリスチャンは会衆の清さを守るためにどのように勇気を示せますか。
18 現代のキリストの弟子たちも,神の民と崇拝の清さを守りたいと強く願っています。仲間のクリスチャンが重大な罪を犯したことを知ったなら,見て見ぬふりはしません。勇気を出してその人と話し,その件が確実に会衆の長老たちに伝わるようにします。(コリント第一 1:11)長老たちは,神との絆が弱まっている人を助けるだけでなく,会衆の清さを守るために必要なことを行います。(ヤコブ 5:14,15)
19-20. (ア)イエスの時代にどんな不公正が見られましたか。多くの人がイエスにどんなことを期待しましたか。(イ)キリストの弟子が政治や暴力に関わらないのはどうしてですか。神の民はどんな立派な行動で知られていますか。
19 では,イエスは世の中のあらゆる不公正と闘ったのでしょうか。当時の世の中にはほかにもいろいろ不公正なことがありました。イエスが生まれ育った国は外国に占領されていました。ローマ人は強力な軍隊を駐留させてユダヤ人を抑圧し,重い税を課し,宗教にも干渉しました。ですから,イエスに政治を変えてほしいと多くの人が願ったのも不思議ではありません。(ヨハネ 6:14,15)でも,イエスは政治に関わろうとはしませんでした。それには勇気が必要でした。
20 イエスは,自分の王国はこの世界のものではないと説明しました。そして,政治問題に関わるのではなく,神の王国の良い知らせを伝えることに専念するよう,手本によって弟子たちに教えました。(ヨハネ 17:16; 18:36)群衆が自分を捕らえにやって来た時には,正しい行動について大切なことを教えました。その時ペテロはとっさに剣を振るい,1人の男性にけがを負わせました。ペテロの気持ちも分かります。神の子が無実だったにもかかわらず捕らえられようとしていたのですから,正当防衛だと考えたのでしょう。でも,イエスはこう言いました。「その剣をさやに収めなさい。剣を取る人は皆,剣で滅びます」。この言葉は,現代に至るまでイエスの弟子たちが守るべき指針となっています。(マタイ 26:51-54)当時のキリストの弟子がそのように平和を大切にするには,勇気が必要でした。今でもそうです。現代の神の民は,戦争や大虐殺や暴動が起きてもクリスチャンとして中立を保ちます。他のさまざまな暴力行為にも関わることはありません。そのような立派な行動は,まさしく勇気の証しです。
イエスは勇敢に反対に立ち向かった
21-22. (ア)イエスは最大の試練に立ち向かう前にどのように力をもらいましたか。(イ)イエスはどのように最後まで勇敢でしたか。
21 エホバの子は,地上で厳しい反対に遭うことをかなり前から知っていました。(イザヤ 50:4-7)実際,地上で何度も命を狙われました。そして,ついにこの章の冒頭で取り上げた出来事が起きます。そのような危険な目に遭いながら,イエスが勇気を持ち続けることができたのはどうしてでしょうか。群衆が捕らえに来る前に,イエスが何をしていたか思い出してください。エホバに熱烈に祈っていました。聖書によると,そのイエスの祈りはエホバに「聞き入れられました」。(ヘブライ 5:7)エホバは天使を遣わして,自分の勇敢な子を力づけました。(ルカ 22:42,43)
22 力づけられて間もなく,イエスは使徒たちに,「立ちなさい。行きましょう」と言いました。(マタイ 26:46)こう言ったイエスがどれほど勇敢だったか考えてみてください。「行きましょう」と言った時,イエスはその後どうなるかを知っていました。武器を持った群衆から友人たちを守らなければならないことも,その友人たちが自分を見捨てて逃げてしまうことも,人生最大の試練に独りで立ち向かうことになることも知っていたのです。そして,違法で不公正な裁判にかけられ,あざけられて拷問を受け,ひどく苦しんで死を迎えました。その間ずっと,イエスの勇気が尽きることはありませんでした。
23. イエスは死ぬことが分かっていながら危険に立ち向かいましたが,無謀だったわけではありません。どうしてそう言えますか。
23 イエスは危険を顧みない人だったのでしょうか。そうではありません。そのような無謀さを勇気とは言いません。実際イエスは弟子たちに,神の望むことを行い続けるために用心深くあり,危険を避けるようにと教えました。(マタイ 4:12; 10:16)でも,自分は最後の試練を避けるわけにはいかないと分かっていました。神の意志が関係していたからです。忠誠を貫くことを決意していたイエスにとって,試練に真っ向から立ち向かう以外の道は考えられませんでした。
エホバの証人は迫害を受けても勇気を示してきた
24. どんな試練に遭っても勇気を持って神に従い通せると確信できるのはどうしてですか。
24 多くの弟子たちが,主人であるイエスに倣って勇気を示してきました。あざけりや迫害に遭ったり,逮捕され投獄されたり,拷問を受けたりしても,エホバに忠実に仕えてきました。殺されることになってもエホバに従い通した人たちもいます。不完全な人間がそれほどの勇気を持てたのはどうしてでしょうか。自然に身に付いたのではなく,イエスと同じようにエホバに助けてもらったのです。(フィリピ 4:13)ですから私たちも,この先に待ち受けていることについて心配する必要はありません。忠誠を貫くことを決意していれば,エホバが勇気を与えてくださいます。次の言葉を語った,私たちのリーダーであるイエスの手本について考えると,力が湧いてきます。「勇気を出しなさい! 私は世を征服したのです」。(ヨハネ 16:33)
a 歴史家たちによれば,ラビたちの墓は預言者や族長たちの墓と同じように尊いものとして大切にされていました。
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「全ての貴重な知恵」「来て,私の弟子になりなさい」
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第5章
「全ての貴重な知恵」
1-3. 西暦31年のある春の日,イエスはどこでどんな人たちに垂訓を語りましたか。聞いた人たちがとても驚いたのはどうしてですか。
西暦31年のある春の日のことです。イエス・キリストはカペルナウムの近くにいます。カペルナウムはガリラヤ湖の北西岸にある,にぎわっている町です。その付近の山で,イエスは一晩中1人で祈っていました。朝になると弟子たちを呼び,その中から12人を選んで使徒と呼ぶことにします。同じ頃,イエスの後に付いてきた大勢の人が,山腹の平らな所に集まっていました。かなり遠くから来た人たちもいます。イエスの話を聞きたい,病気を癒やしてもらいたいと思っています。イエスはその期待を裏切りません。(ルカ 6:12-19)
2 イエスは群衆の中の病気の人を全員癒やします。そして,苦痛を感じる人がいなくなると,腰を下ろして教え始めます。a イエスが語った言葉を聞いた人たちは,びっくりしたことでしょう。それまでイエスのような教え方をした人はいませんでした。イエスは自分の話の裏付けとして,口頭伝承や有名なラビの言葉を引き合いに出したりしません。その代わりに,神の導きによって書かれたヘブライ語聖書を何度も引用します。簡単な言葉を使って,分かりやすく教えました。イエスが語り終えると,群衆はとても驚いていました。それもそのはずです。ほかのどんな人間よりも知恵がある人の話を聞いたからです。(マタイ 7:28,29)
「群衆はその教え方に大変驚いていた」
3 この垂訓のほかにも,イエスが語ったことや行ったことがたくさん聖書に書かれています。神の聖なる力の導きによってイエスについて記録されたことを深く調べるのは良いことです。「キリストの内には全ての貴重な知恵……が秘められて」いるからです。(コロサイ 2:3)知恵とは,持っている知識や理解していることを役立てる能力のことです。では,イエスはどうやって知恵を身に付けたのでしょうか。どのように知恵を発揮したでしょうか。私たちはどうすればイエスの手本に倣えるでしょうか。
「この人は,このような知恵……をどこで得たのか」
4. ナザレでイエスの話を聞いた人たちはどんなことを不思議に思いましたか。どうしてですか。
4 ある伝道旅行の時に,イエスは自分が育ったナザレという町を訪れ,会堂で教え始めました。イエスの話を聞いた人の多くは驚き,「この人は,このような知恵……をどこで得たのか」と考えました。不思議に思ったのも無理はありません。その人たちは,イエスの両親ときょうだいたちのことや,決して裕福とは言えない暮らしぶりを知っていたからです。(マタイ 13:54-56。マルコ 6:1-3)見事な話をしたイエスが大工で,ラビの名門校に通ったわけではないことも知っていたでしょう。(ヨハネ 7:15)
5. イエスは自分の知恵がどこから来ていると言いましたか。
5 イエスが知恵を示せたのは,完全な頭脳を持っていたからだけではありません。しばらく伝道した後,神殿で人々を教えた時に,イエスは自分の知恵がどこから来ているかについてこう言いました。「私の教えは私のものではなく,私を遣わした神のものです」。(ヨハネ 7:16)イエスを遣わした天の父が,イエスの知恵の源だったのです。(ヨハネ 12:49)では,イエスはどのようにエホバから知恵を得たのでしょうか。
6-7. イエスはどのように父エホバから知恵を得ましたか。
6 エホバの聖なる力が,イエスの心や考えに働き掛けていました。約束のメシアについてイザヤが次のように予告していた通りです。「その者の上にエホバの聖なる力がとどまる。それにより知恵と理解を示し,助言を与え,強くなり,知識を得て,エホバを畏れる」。(イザヤ 11:2)エホバの聖なる力がイエスの上にとどまり,思考や決定を導いていたのですから,イエスの言動に最高の知恵が表れていたのも当然です。
7 イエスが父エホバから知恵を得たのは,聖なる力によってだけではありません。第2章で考えた通り,イエスは人間になる前の非常に長い期間,天で父の考え方を学びました。父のそばで「優れた働き手」として,ほかの天使やあらゆる生物や無生物を造るのを手伝いながら,私たちには想像もつかないほど深い知恵を身に付けることができました。だからこそ,人間になる前のイエスは,聖書の中で擬人化された知恵として描写されています。(格言 8:22-31。コロサイ 1:15,16)イエスは地上で伝道した間,天の父のそばで学んだことを生かすことができました。b (ヨハネ 8:26,28,38)ですから,イエスのあらゆる言動に幅広い知識や深い理解や良い判断力が表れていたのもうなずけます。
8. イエスの弟子である私たちは,どうすれば知恵を得られますか。
8 イエスの弟子である私たちも,エホバから知恵をもらう必要があります。(格言 2:6)もちろん,エホバは奇跡によって知恵を与えてくれるわけではありません。でも,私たちがいろいろな問題を乗り越えるのに必要な知恵を求めて真剣に祈るとき,必ず答えてくださいます。(ヤコブ 1:5)エホバから知恵を得るには,ほかにもしなければならないことがあります。「隠された宝を探すように」知恵を探し求める必要があるのです。(格言 2:1-6)神の知恵は聖書の中で明らかにされているので,聖書を深く調べ,学んだことに沿って生活しなければなりません。私たちが知恵を身に付けるのに特に役立つのは,エホバの子イエスの手本です。では,イエスがどのように知恵を発揮したか調べ,どうすれば見習えるか考えてみましょう。
知恵のある言葉を語った
神の知恵は聖書の中で明らかにされている
9. イエスの教えのどんなところに知恵が表れていますか。
9 大勢の人が,イエスの話を聞こうと押し寄せました。(マルコ 6:31-34。ルカ 5:1-3)イエスの言葉にはいつも並外れた知恵が表れていたからです。イエスは神の言葉の深い知識に基づき,大切なことを簡潔に分かりやすく教えました。イエスの教えはあらゆる人の心を動かし,いつの時代にも役立ちます。では,予告されていた「素晴らしい助言者」であるイエスがどんな知恵のある言葉を語ったか,幾つかの例を考えてみましょう。(イザヤ 9:6)
10. イエスは,内面を磨いてどんな人になるよう教えましたか。どうしてですか。
10 この章の冒頭で少し取り上げた山上の垂訓は,イエスが語った教えとして記録されている最も長いものです。この垂訓の中でイエスは,単に良い言動についてアドバイスしているのではなく,もっと深い助言を与えています。考えや気持ちが言葉や行動につながることをよく理解していたので,内面を磨くよう教えました。例えば,温和であること,正しいことを切望すること,憐れみ深くあること,平和を求めること,人を愛することの大切さを強調しています。(マタイ 5:5-9,43-48)そうした面で成長するにつれ,エホバに喜ばれる言動ができるようになり,周りの人との関係も良くなっていきます。(マタイ 5:16)
11. イエスは罪深い行為についての助言の中で,根本原因まで指摘しました。どんな例がありますか。
11 罪深い行為についての助言の中で,イエスは根本原因まで指摘しました。例えば,暴力行為をしないようにと言うだけでなく,心の中で怒りをくすぶらせないようにと警告しています。(マタイ 5:21,22。ヨハネ第一 3:15)姦淫を禁じるだけでなく,そうした行為につながりかねない情欲を抱かないようにと教えています。間違った欲望をかき立てるようなものを見ないようにとも勧めています。(マタイ 5:27-30)イエスは,人の罪深い行いだけでなく,そうした行いにつながる考え方や感情にも注意を引いたのです。(詩編 7:14)
12. イエスの弟子はイエスの助言に従ってどんなことをしますか。そうするとどんな良いことがありますか。
12 イエスの言葉には本当に素晴らしい知恵が表れています。群衆が「その教え方に大変驚いていた」のもうなずけます。(マタイ 7:28)イエスの弟子である私たちは,イエスの助言がためになることを確信し,それに沿って生活します。イエスが勧めた通り自分の内面を磨き,エホバに喜ばれる言動ができるように努力します。例えば,愛や憐れみを身に付け,いつも平和を求めるようにします。逆に,苦々しい怒りや不道徳な欲望など,イエスが警告した好ましくない感情や考えは心の中から取り除くようにします。そうすれば罪深い行いを避けられるからです。(ヤコブ 1:14,15)
生き方にも知恵が表れていた
13-14. イエスはどう生きるかについてどんな良い判断をしましたか。
13 イエスが深い知恵を持っていたことは,言葉だけでなく行動からも分かります。イエスの判断や決定,自分に対する見方,人との接し方など,生き方全体に知恵がいろいろな形で表れていました。では,イエスが「役立つ知恵と思考力」を発揮した例を幾つか考えてみましょう。(格言 3:21)
14 知恵には的確な判断力が含まれます。イエスはどう生きるかについて良い判断をしました。その気になれば,事業を成功させ,豪邸を建て,世の中で名を上げることもできたに違いありません。しかし,そうしたことに没頭する生き方が「むなしく,風を追うようなもの」であることをイエスは知っていました。(伝道の書 4:4; 5:10)それは知恵とは程遠い,愚かな生き方です。イエスはお金をもうけて財産を蓄えることには興味を示さず,簡素な生活を送りました。(マタイ 8:20)自分が教えた通り,神の望むことを行うことにいつも目の焦点を合わせていました。(マタイ 6:22)王国の良い知らせを伝えることに,自分の時間や体力を費やしました。それは金もうけよりもはるかに重要で,報いの多いことでした。(マタイ 6:19-21)そのようにしてイエスは素晴らしい手本を残しました。
15. 神の王国に目の焦点を合わせているイエスの弟子は,どんな生き方をしますか。それが知恵のある生き方だと言えるのはどうしてですか。
15 現代のイエスの弟子たちも,神の王国に目の焦点を合わせるのが知恵のある生き方だということを理解しています。それで,不必要な借金を抱えたり,あまり重要でないことに体力や気力を奪われたりしないように気を付けます。(テモテ第一 6:9,10)なるべく簡素な生活を送り,宣教にもっと多くの時間を費やせるようにしている人が少なくありません。開拓奉仕をしている人もいます。いつも王国を第一にするなら,最高に幸せで充実した生活を送れます。これ以上に知恵のある生き方はありません。(マタイ 6:33)
16-17. (ア)イエスは慎みがあり,自分に限界があることを認めていました。どんなことからそれが分かりますか。(イ)私たちが慎み深く自分の限界をわきまえているかどうかは,どんなことに表れますか。
16 聖書によると,知恵がある人は慎みもあります。慎みがある人は自分の限界をわきまえています。(格言 11:2)イエスは慎みがあり,自分に限界があることを認めていました。自分が良い知らせを伝える人たち全員を納得させられるわけではないことを知っていました。(マタイ 10:32-39)自分1人では限られた数の人にしか伝道できないことも分かっていました。それで,人々を弟子とする活動を弟子たちに託しました。(マタイ 28:18-20)イエスは弟子たちが自分より「もっと大きなことを行」うということも慎み深く認めていました。弟子たちはいずれ世界中で,ずっと長い期間,はるかに大勢の人に伝道するのです。(ヨハネ 14:12)さらにイエスは,自分には助けなど必要ないとは考えませんでした。天使たちに助けてもらったこともあります。荒野で天使たちに仕えてもらったり,ゲッセマネに現れた天使に力づけてもらったりしました。最大の試練に遭った時には,天の父に助けを求めて叫びました。(マタイ 4:11。ルカ 22:43。ヘブライ 5:7)
17 私たちも慎みを示し,自分に限界があることをわきまえる必要があります。もちろん,自分の全てを尽くして奉仕し,良い知らせを伝えて人々を弟子とする活動に精力的に励みたいと思っています。(ルカ 13:24。コロサイ 3:23)でも,エホバは私たちを他の人と比べたりしませんから,私たちも自分を人と比べて背伸びしようとする必要はありません。(ガラテア 6:4)知恵を働かせて,自分の能力や状況に合った現実的な目標を立てましょう。たとえ責任ある立場にいても,自分には限界があって助けや支えを必要としていることを認めるのは大切です。慎みがある人は,喜んで人に助けてもらいます。仲間のクリスチャンがエホバに導かれて私たちを「力づけ,助けて」くれることがあるのを知っているからです。(コロサイ 4:11,脚注)
18-19. (ア)イエスは分別があり,弟子たちに対してポジティブな見方をしていました。どんなことからそれが分かりますか。(イ)私たちが互いに分別のある接し方をするべきなのはどうしてですか。どうすればそうできますか。
18 ヤコブ 3章17節によると,「天からの知恵を持つ人は……分別があり」ます。イエスは分別があり,弟子たちに対してポジティブな見方をしました。弟子たちの欠点をよく分かっていましたが,良いところを見るようにしました。(ヨハネ 1:47)捕らえられる晩に弟子たちに見捨てられることを知っていましたが,彼らの揺るぎない愛を疑ったりはしませんでした。(マタイ 26:31-35。ルカ 22:28-30)ペテロがイエスなど知らないと3度言うことも知っていましたが,それでもイエスはペテロのために祈願し,ペテロを信頼していることを伝えました。(ルカ 22:31-34)地上での最後の晩に天の父に祈った時,弟子たちが犯した間違いについてあれこれ言ったりはしませんでした。その晩まで弟子たちが忠実に従ってきたことを褒め,「彼らはあなたの言葉を守っています」と言いました。(ヨハネ 17:6)そして後に,王国の良い知らせを伝えて人々を弟子とする活動を不完全な弟子たちに託しました。(マタイ 28:19,20)弟子たちは,イエスから信頼されていることを実感し,命じられた仕事を果たそうという意欲が湧いたに違いありません。
19 私たちもイエスの弟子として,このイエスの手本に倣いたいものです。神の完全な子が不完全な弟子たちに対して辛抱したのですから,罪深い人間である私たちはなおのこと互いに分別のある接し方をするべきではないでしょうか。(フィリピ 4:5)仲間のクリスチャンの短所に注目するのではなく,長所を見るようにします。エホバがその人を引き寄せたということを忘れないようにしましょう。(ヨハネ 6:44)エホバがその人の良いところを見ているのですから,私たちもそうすべきです。ポジティブな見方をすれば,人の「過ちを見過ごす」ことができるだけでなく,良い点を見つけて褒めることができます。(格言 19:11)仲間を信頼していることを伝えるなら,その人は力づけられ,ベストを尽くして喜んでエホバに仕えていこうという気持ちになることでしょう。(テサロニケ第一 5:11)
20. 福音書から貴重な知恵を得られることへの感謝をどのように表せますか。そうするとよいのはどうしてですか。
20 福音書を読んでイエスの生涯と宣教について学ぶと,まさに貴重な知恵を得られます。イエスについて学べることへの感謝をどのように表せるでしょうか。イエスは山上の垂訓の結びに,自分が語った言葉を聞くだけでなく実行するようにと聴衆に勧めました。(マタイ 7:24-27)イエスの素晴らしい教えや手本をよく思い巡らし,イエスに倣って考えたり行動したりする努力を払いましょう。そうすれば人生を満喫でき,永遠の命へと続く道を歩んでいくことができます。(マタイ 7:13,14)それこそが知恵の表れた最高の生き方です。
a この日のイエスの話は,山上の垂訓として知られるようになりました。マタイ 5章3節から7章27節までの107の節の内容をその通り話すと,20分ほどしかかかりません。
b イエスがバプテスマを受けて「天が開」いた時,人間になる前の記憶がよみがえったようです。(マタイ 3:13-17)
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「キリストは……従順を学びました」「来て,私の弟子になりなさい」
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第6章
「キリストは……従順を学びました」
1-2. 愛情深い父親が,息子が言い付けを守るのを見てうれしく思うのはどうしてですか。エホバはどんな点でこの父親のようですか。
父親が家の窓から,幼い息子が庭で友達と遊んでいる様子を見ています。ボールが弾んで道路に転がっていってしまい,息子はそれをじっと見ています。友達から「取ってきなよ」と言われますが,息子は首を振り,「道路に出ちゃだめなんだ」と言います。父親はにっこりほほ笑みます。
2 父親がうれしく思ったのはどうしてでしょうか。1人で道路に出てはいけないという言い付けを息子が守ったからです。息子は父親が見ているとは知りませんでしたが,言われた通りにしました。従順であることの大切さを理解していて,危険を避けることができたのです。この父親と同じように,私たちの天の父エホバも,私たちが従順だとうれしく感じます。私たちに,忠実であり続けて将来の素晴らしい祝福を味わってほしいと思っています。それで私たちは,エホバを信頼して従うことを学ぶ必要があります。(格言 3:5,6)そんな私たちのために,エホバは最高の先生を遣わしてくれました。
3-4. イエスが「従順を学び」,「完全にされた」とはどういうことですか。
3 聖書には,イエスについて次の興味深いことが書かれています。「キリストは神の子であったにもかかわらず,苦しんだ事柄から従順を学びました。そして,完全にされた後,自分に従う人全てに永遠の救いをもたらす方になりました」。(ヘブライ 5:8,9)神の子は非常に長い間,天にいました。サタンと他の反逆的な天使たちが神に背くのを見ましたが,初子であるイエスは決して彼らに加わりませんでした。預言の通り,「反抗的では……なかった」のです。(イザヤ 50:5)では,ずっと従順だったイエスが「従順を学」んだと言われているのはどうしてでしょうか。もともと完全なのに,「完全にされた」とはどういうことでしょうか。
4 例えで考えてみましょう。兵士が鉄の剣を持っています。完璧な仕上がりですが,まだ戦闘で使われたことはありません。兵士は鉄の剣を鍛えて,もっと強い鋼の剣にします。その鋼の剣は戦闘で使われても折れ曲がることなく,強さが実証されます。同じように,イエスは地上に来る前にも完璧な従順を示していましたが,地上で経験した事柄によって従順の質がより高いものになりました。天では遭うことのなかった試練によって従順が試され,いわば鍛えられて,イエスがどんな状況でも神に従い通すことが完全に実証されたのです。
5. イエスが従順であることが欠かせなかったのはどうしてですか。この章ではどんなことを考えますか。
5 イエスが地上での使命を果たすには,従順が欠かせませんでした。イエスは「最後のアダム」として,最初の人間アダムができなかったことを行うために地上に来ました。試練に遭ってもエホバ神に従い続けるということです。(コリント第一 15:45)イエスは単なる義務感から従順だったわけではありません。知力を尽くし,心を尽くし,自分の全てを尽くして喜んで従いました。天の父の望むことを行うのは,イエスにとって食事をすることよりも重要でした。(ヨハネ 4:34)どうしたらイエスのように従順でいられるでしょうか。まず,イエスがいつもエホバに従えたのはどうしてか考えてみましょう。イエスと同じ考え方や感じ方ができれば,誘惑に負けることなく神の望むことを行えます。キリストのように従順だとどんな良いことがあるかも考えます。
イエスがいつもエホバに従えたのはなぜか
6-7. イエスが従順だったのはどうしてですか。
6 イエスがいつもエホバに従えたのは,心の中が良い状態だったからです。第3章で考えた通り,イエスは心から謙遜でした。傲慢な人は従うのを嫌がりますが,謙遜な人は喜んでエホバに従います。(出エジプト記 5:1,2。ペテロ第一 5:5,6)イエスが従順だったのは,正しいことを愛し,悪いことを憎んでいたからでもあります。
7 イエスが最も愛していたのは,天の父エホバです。その愛については第13章で詳しく取り上げます。その愛があったからこそ,イエスは神を畏れていました。エホバをとても深く愛し敬っていたので,お父さんをがっかりさせるようなことはしたくないと思っていたのです。神への畏れは,イエスの祈りが聞き入れられた理由の一つです。(ヘブライ 5:7)また,メシアである王としてのイエスの統治の特徴でもあります。(イザヤ 11:3)
悪いことを憎んでいる人は,どんなものを楽しむかを注意深く選ぶ
8-9. 預言通り,イエスは正しいことと悪いことに対してどんな感情を持っていましたか。それはどんなことに表れていましたか。
8 エホバを愛する人は,エホバが憎むものを憎みます。メシアである王に語り掛けている次のような預言の言葉があります。「あなたは正しいことを愛し,悪いことを憎んだ。それで,あなたの神はあなたを任命し,あなたの仲間を喜ばせる以上にあなたを喜ばせた」。(詩編 45:7)イエスの「仲間」とは,ダビデ王の家系の王たちのことです。それらのどの王よりも,イエスは任命されたことを喜べます。ずっと大きな報いを受けて,王として誰よりもはるかに素晴らしいことを行うからです。イエスが報いを受けるのは,正しいことを愛して悪いことを憎み,その気持ちからいつも神に従ったからです。
9 イエスが善を愛し悪を憎んでいたことは,どんなことに表れていたでしょうか。例えば,弟子たちがイエスの指示通りに伝道して祝福を受けた時,イエスは喜びにあふれました。(ルカ 10:1,17,21)一方,イエスが愛情深く助けようとしたにもかかわらず,エルサレムの人たちが繰り返し不従順な態度を取った時,イエスは涙を流しました。その都市の人々がエホバに背いたことを悲しく思ったからです。(ルカ 19:41,42)イエスは善い行いに対しても悪い行いに対しても強い感情を表したのです。
10. 私たちは善い行いと悪い行いに対してどんな気持ちを持つ必要がありますか。そのためにどうすることが大切ですか。
10 イエスの感情について思い巡らすと,自分がエホバに従っているのはどうしてだろうと考えさせられます。私たちは不完全ですが,善い行いを心から愛し,悪い行いを心から憎むことができます。そのためにはエホバに祈り,エホバやイエスのような気持ちを持てるように助けを求める必要があります。(詩編 51:10)同時に,そうした気持ちを弱めるものに気を付けることも大切です。どんなものを楽しみ,どんな人と交友を持つかをよく考えなければいけません。(格言 13:20。フィリピ 4:8)キリストのような考え方や気持ちがあれば,形だけの従順を示すようなことはありません。私たちが正しいことをするのは,そうしたいと心から思っているからです。悪い行いを避けるのは,罰を受けたくないからではなく,悪いことを憎んでいるからです。
「キリストは罪を犯さ」なかった
11-12. (ア)イエスが宣教を始めて間もなく,どんなことがありましたか。(イ)サタンはまず何と言ってイエスを誘惑しましたか。どんなところにずる賢さが表れていますか。
11 イエスは宣教を始めて間もなく,罪を本当に憎んでいるかどうかを試されることになりました。バプテスマを受け,荒野で40日間ずっと何も食べずに過ごした後,サタンに誘惑されたのです。悪魔が使った方法は非常にずる賢いものでした。(マタイ 4:1-11)
12 サタンはまずこう言いました。「神の子なら,これらの石に,パンになるように命じなさい」。(マタイ 4:3)聖書によると,イエスは長い断食の後で「空腹を感じ」ていました。(マタイ 4:2)サタンは,何かを食べたいという自然な欲求に付け込んだのです。イエスが弱るのを待っていたに違いありません。「神の子なら」という言い方も挑発的です。サタンはイエスが「全創造物の中の初子」であることを当然知っていたからです。(コロサイ 1:15)でもイエスは,サタンの挑発に乗って神に不従順になったりはしませんでした。自分の欲を満たすために力を使うことを神が望んでいないのを知っていたので,サタンの言う通りにはしませんでした。必要なものを与えて導いてくれるエホバに謙遜に頼っていたのです。(マタイ 4:4)
13-15. (ア)サタンの2つ目と3つ目の誘惑はどういうものでしたか。イエスはどう反応しましたか。(イ)イエスが決して気を緩めるわけにいかなかったのはどうしてですか。
13 サタンは次に,イエスを神殿の最も高い所に立たせます。神の言葉を都合のいいように当てはめ,イエスに派手なパフォーマンスをさせようとします。その高い所から飛び降りて,天使たちに救ってもらうようにと誘惑したのです。神殿にいる人々がそのような奇跡を見たら,それ以後は誰もイエスが約束のメシアであることを疑ったりしないでしょう。そうなれば,イエスはいろいろな問題や苦労を避けられるかもしれません。でもイエスは,メシアが謙遜に活動することをエホバが望んでいると知っていました。人目を引く華々しい奇跡によって人々を信じさせることは,神の考えに反していました。(イザヤ 42:1,2)それで,この時もイエスは誘惑を退け,エホバに従いました。人の注目を浴びたいなどとは全く考えなかったのです。
14 では,権力には魅力を感じたでしょうか。サタンは3つ目の誘惑として,自分に1度崇拝の行為をすれば世界の全ての王国をあげようとイエスに言いました。イエスはサタンが持ち掛けてきた話について考えようともせず,すぐにこう返答しました。「離れ去れ,サタン! 『あなたが崇拝すべきなのはエホバ神であり,この方だけに神聖な奉仕をしなければならない』と書いてあるのです」。(マタイ 4:10)イエスはどんな誘惑を受けても,エホバ以外の神を崇拝しようなどとは思いませんでした。世の中での高い立場や権力を与えると言われても,神の考えに反することは一切しなかったのです。
15 サタンは諦めたでしょうか。その時はイエスに命じられた通り引き下がりましたが,ルカの福音書にあるように,「別の都合の良い時までイエスから離れた」にすぎませんでした。(ルカ 4:13)サタンはイエスが地上にいた間ずっと,イエスを誘惑するチャンスをうかがっていたのです。聖書には,イエスが「あらゆる点で……試され」たと書かれています。(ヘブライ 4:15)それでイエスは決して気を緩めるわけにはいきませんでした。私たちも同じです。
16. 今の時代にサタンは,神に仕える人たちをどのように誘惑していますか。どうすればサタンの誘惑に抵抗できますか。
16 今でもサタンは神に仕える人たちを誘惑しています。私たちは不完全なので,サタンにとって格好の標的です。サタンは私たちが持つ身体的な欲求,自己顕示欲,権力欲に付け込んできます。そうした欲求全てに訴えて,お金や物を重視させようと働き掛けてくることもあります。それで時々時間を取って,自分を見つめ直すことは大切です。ヨハネ第一 2章15-17節を読んで考えてみましょう。この世の中にあふれている罪深い欲望,もっとお金や物が欲しいと思う気持ち,人から一目置かれたいという気持ちによって,天の父への愛が弱まっていないでしょうか。この世界も支配者であるサタンも終わりに向かっている,ということを忘れないでください。サタンがどれほどずる賢く私たちに罪を犯させようとしてきても,それに抵抗しましょう。決して「罪を犯さ」なかったイエスにぜひとも見習いたいものです。(ペテロ第一 2:22)
「私は常に,その方が喜ぶことを行う」
17. イエスは天の父に従うことについてどう感じていましたか。どんなふうに思う人もいますか。
17 従順であるとは,罪を犯さないというだけのことではありません。キリストはいつも天の父に命じられた通りに行動しました。「私は常に,その方が喜ぶことを行う」と言っています。(ヨハネ 8:29)そのように神に従うことから大きな喜びを感じていました。でもイエスにとって従順であることは私たちほど難しくなかっただろう,と思う人もいるかもしれません。イエスは完全な方であるエホバに従っていればよかったが,私たちは不完全な人間にも従わなければならない,と考えるのです。しかし,聖書を読むと,イエスも不完全な人間に従っていたことが分かります。
18. 若い時のイエスの手本から,従順についてどんなことが学べますか。
18 イエスはヨセフとマリアの子として生まれ,不完全な人間であるその2人に育てられました。普通の子供以上に,両親の短所に気付いたことでしょう。では,イエスは親に反抗したり,親のやり方に口を出したりしたでしょうか。全くそんなことはありませんでした。ルカ 2章51節には,12歳のイエスが「その後も両親に従っていた」と書かれています。いつも親に従順だったイエスは,若いクリスチャンにとって素晴らしい手本です。努力が要るとしても親に従い敬意を示すべきことが学べます。(エフェソス 6:1,2)
19-20. (ア)イエスはどんな難しい状況の中で不完全な人間に従いましたか。(イ)現代の本物のクリスチャンが,教え導いている人たちに従うべきなのはどうしてですか。
19 イエスは崇拝の面でも不完全な人間に従いました。現代の本物のクリスチャンは直面することがない,どんな難しい問題があったか考えてみましょう。当時はエルサレムに神殿があり,祭司たちがいました。そこを中心とする崇拝は長い間エホバに受け入れられていましたが,間もなくユダヤ人の宗教体制は終わりを迎え,代わりにクリスチャン会衆が設立されることになっていました。(マタイ 23:33-38)イエスが地上にいた頃は,多くの宗教指導者がギリシャ哲学に由来する間違ったことを教えていました。神殿では悪徳な商売がたくさん行われていたので,イエスは神殿が「強盗のすみか」になってしまったと言いました。(マルコ 11:17)では,イエスは神殿や会堂に行くのをやめたでしょうか。そんなことはありません。そこでの崇拝をエホバが望んでいたからです。神がまだ崇拝のための取り決めを変えていなかったので,イエスは従順に神殿での祭りや会堂に出掛けました。(ルカ 4:16。ヨハネ 5:1)
20 イエスがそのように従順だったのであれば,現代の本物のクリスチャンはなおのこと従順であり続けるべきではないでしょうか。今はイエスの時代とは違い,はるか昔から予告されていた通り清い崇拝が回復されています。神は,自分の民をサタンが堕落させるようなことは決して許さないと言っています。(イザヤ 2:1,2; 54:17)もちろん,クリスチャン会衆の中でも人の罪や不完全さを目にすることはあります。しかし,間違いをする人がいるからといって,エホバに従うのをやめてしまっていいでしょうか。不従順になって集会に行かなくなったり,長老を批判したりしてはいけません。会衆を教え導いている人たちに進んで協力してください。従順に集会や大会に出席し,そこで聖書から教えられることに従いましょう。(ヘブライ 10:24,25; 13:17)
従順な人はクリスチャンの集会で学んだ通りに行動する
21. イエスは,神に従うのを思いとどまらせようとする圧力を受けた時どうしましたか。私たちはその手本にどのように倣えますか。
21 イエスは,人から何と言われようとエホバに従うのをやめませんでした。たとえ友が善意でアドバイスをしてくれても,それが神の考えと違ったときには聞き入れませんでした。例えばある時ペテロは,苦しんで死ぬなんてとんでもないと言って,自分を大切にするようイエスに強く勧めました。悪気はなかったものの,そのアドバイスは間違っていたので,イエスはきっぱりと退けました。(マタイ 16:21-23)現代でも,親族や友人が私たちのためを思って,神の教えに従うのを思いとどまらせようとすることがあります。そういうときも,私たちはイエスの1世紀の弟子たちと同じように「人ではなく神に従」います。(使徒 5:29)
キリストのように従順な人は報われる
22. イエスはどんな疑問に対する答えを出しましたか。どのようにですか。
22 イエスは死を目前にして,従順であるかどうかを極限まで試されることになりました。そのつらく苦しい経験を通して,より十分に「従順を学びました」。自分の望むことではなく,天の父の望むことを最後まで行ったのです。(ルカ 22:42)そのようにして,神への忠誠を貫きました。(テモテ第一 3:16)そのイエスの歩みにより,ずっと昔からの疑問に対する答えが出ました。完全な人間は試練に遭ってもエホバに従い続けられるか,という疑問です。アダムもエバも失敗しましたが,イエスが地上での生涯によってこの問題に片を付けました。エホバが創造したものの中で最も偉大な方が,大きな犠牲を払ってまでも神に従い,これ以上ない答えを出したのです。
23-25. (ア)エホバに従い続けるなら,どんな生き方ができますか。(イ)次の章ではどんなことを考えますか。
23 エホバへの忠誠心は,従順な行動に表れます。イエスは神に従って忠誠を貫き,全人類が救われるための道を開きました。(ローマ 5:19)そういうイエスに,エホバは豊かな報いを与えました。私たちも主人であるキリストに従うなら,エホバから「永遠の救い」という報いを与えていただけます。(ヘブライ 5:9)
24 さらに,忠誠を貫く高潔な生き方そのものが,私たちのためになります。格言 10章9節によると,「高潔に歩む人は安全に歩み」ます。高潔に歩む人は,れんが造りの立派な家を建てているようなものです。従順な行動一つ一つを,いわばれんがのように積み上げているのです。1個のれんがは大したものではないと思えるかもしれませんが,どれもなくてはならないものです。たくさんのれんがを積み上げていくと,素晴らしいものが出来上がります。同じように,従順な行動を日々積み重ねていくと,私たちは高潔な人として良い人生を築くことができ,エホバの目に美しく映るのです。
25 長い間神に従い続けるには,忍耐も必要です。次の章では,イエスの忍耐の手本について考えます。
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「イエスは……忍耐しました」「来て,私の弟子になりなさい」
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第7章
「イエスは……忍耐しました」
1-3. (ア)ゲッセマネの庭園でのイエスの苦悩はどれほどのものでしたか。どうしてですか。(イ)イエスは忍耐のどんな手本を残しましたか。これからどんなことを考えますか。
イエスはかつてないほど大きなストレスを感じています。地上での命も残りわずかとなりました。使徒たちと一緒に,なじみ深いゲッセマネの庭園に来ています。よく使徒たちとそこで集まっていましたが,この晩は1人になる時間を取ることにします。使徒たちを残して庭園の奥の方に行き,ひざまずいて祈り始めます。真剣に祈りながら深く苦悩し,「汗が血のようになって地面に滴り落ち」ます。(ルカ 22:39-44)
2 イエスがこれほど苦悩しているのはどうしてでしょうか。間もなく極度の身体的苦痛を味わうことになると知っていますが,それが理由ではありません。はるかに重要なことがイエスの心に重くのしかかっています。イエスは天の父の名誉が傷つくのではないかと気をもんでいて,自分が忠実であり続けられるかどうかで人類の将来が左右されることも分かっています。忍耐し通すことがいかに重要かを痛感しているのです。もし失敗すれば,エホバの名を汚すことになってしまいます。しかし,イエスは失敗することなく,史上最高の忍耐の手本を残します。その日の後刻,息を引き取る間際には,「成し遂げられた!」と力強く叫ぶことができました。(ヨハネ 19:30)
3 聖書は,「忍耐し[た]イエスのことをよく考えてください」と勧めています。(ヘブライ 12:3)では,イエスはどんな試練に耐えたのでしょうか。忍耐できたのはどうしてでしょうか。どうすればイエスの手本に倣えるでしょうか。こうした重要なことについて考える前に,まず忍耐とはどういうものかを取り上げます。
忍耐とは何か
4-5. (ア)「忍耐」とはどういうものですか。(イ)避けようのない苦難の渦中にあるというだけでは忍耐していることにはなりません。そのことをどんな例えで説明できますか。
4 誰でも,「さまざまな試練に悩まされ」ることがあります。(ペテロ第一 1:6)では,試練に遭っている人は皆忍耐していることになるのでしょうか。必ずしもそうではありません。「忍耐」と訳されているギリシャ語の名詞には,「困難に遭っても持ちこたえ,くじけないこと」という意味があります。聖書で言う忍耐について,ある学者はこう説明しています。「これは希望に燃える不屈の精神であり,単に諦めて事態を受け入れることではない。……忍耐する人は逆風に向かって自分の足で立ち続ける。苦しみのかなたにある目標を見据えて,最悪の試練を栄光に変える」。
5 ですから,避けようのない苦難の渦中にあるというだけでは忍耐していることにはなりません。聖書で言う忍耐とは,試練に遭っても希望を失うことなく信仰を貫くことです。例えで考えてみましょう。2人の人が全く違う理由で同じ刑務所に入れられています。1人は犯罪者で,沈んだ表情で渋々服役しています。もう1人は信仰のゆえに収容された本物のクリスチャンで,信念を曲げず,前向きな見方をしています。自分が置かれている状況を,信仰を実証する機会だと考えているからです。犯罪者の方は忍耐しているとはとても言えませんが,忠実なクリスチャンの方は忍耐の素晴らしい手本です。(ヤコブ 1:2-4)
6. どうすれば忍耐力が身に付きますか。
6 救われるためには,忍耐が欠かせません。(マタイ 24:13)しかし,私たちは生まれつき忍耐力があるわけではないので,忍耐することを学ぶ必要があります。どうすればいいのでしょうか。ローマ 5章3節には,「苦難によって忍耐力が身に付く」とあります。ですから,本当に忍耐できるようになりたいなら,信仰の試練から逃げてばかりいるのではなく,試練に立ち向かわなければなりません。毎日いろいろな試練を乗り越えていくにつれ,忍耐力が身に付きます。試練を1つ越えるたびに,次の試練に取り組むための力が付くのです。もちろん,自分1人で忍耐力を鍛えないといけないわけではありません。「神が与えてくださる力に頼」りましょう。(ペテロ第一 4:11)エホバは,私たちがイエスという最高の手本から力を得て,信仰を貫けるように助けてくれています。では,イエスの完璧な忍耐の手本を詳しく調べてみましょう。
イエスはどんなことを忍耐したか
7-8. 地上での生涯が終わる頃,イエスはどんなことに耐えましたか。
7 地上での生涯が終わる頃,イエスは数々のひどい仕打ちに耐えました。最後の晩に極度のストレスを感じている中,がっかりするようなことや屈辱的なことを経験しました。弟子の1人に裏切られ,親友たちに見捨てられ,違法な裁判にかけられました。その裁判の時には,ユダヤ教の最高法廷の成員からあざけられ,唾を掛けられ,こぶしで殴られました。それでもイエスは威厳や気品を失わず,その全てを忍耐しました。(マタイ 26:46-49,56,59-68)
8 亡くなる間際には,ひどく体を痛めつけられました。激しくむちで打たれたので,「幾筋もの深い裂傷と相当の失血」が生じたと考えられます。そして杭に掛けられ,「最大の苦痛を味わいながらじわじわと死に至る」ことになりました。大きなくぎを手足に打ち込まれた時,イエスがどれほどの激痛を感じたか想像してみてください。(ヨハネ 19:1,16-18)杭が垂直に起こされ,くぎに体重がかかり,ずたずたの背中が杭で擦れた時にも,焼け付くような痛みを感じたことでしょう。イエスは,この章の冒頭で考えたようなプレッシャーを感じながら,こうした極度の苦痛に耐えたのです。
9. 「苦しみの杭」を持ち上げてイエスの後に従うとはどういうことですか。
9 キリストの弟子である私たちは,どんなことを忍耐する必要があるでしょうか。イエスはこう言いました。「誰でも私に付いてきたいと思うなら,……苦しみの杭を持ち上げ,絶えず私の後に従いなさい」。(マタイ 16:24)「苦しみの杭」という表現は,苦しみや屈辱,死を表しています。キリストの後に従う生き方は楽ではありません。クリスチャンとして聖書の基準に従う私たちは,世の中の人たちとは違っているので,その人たちから憎まれます。(ヨハネ 15:18-20。ペテロ第一 4:4)それでも,ためらうことなく苦しみの杭を持ち上げ,手本であるキリストに従います。たとえ苦しんで死ぬことになるとしても従い続けるのです。(テモテ第二 3:12)
10-12. (ア)イエスが周りの人たちの不完全さを見て悲しい気持ちになったのはどうしてですか。(イ)イエスが忍耐力を試されたどんな状況がありましたか。
10 イエスは地上で伝道した間,周りの人たちの不完全さにも悩まされました。イエスが地上に来る前のことを少し思い起こしてみましょう。イエスは「優れた働き手」として,エホバが地球とあらゆる生物を造るのを手伝いました。(格言 8:22-31)ですから,エホバがどんなことを考えて人間を造ったかよく知っていました。人間は神に似た者として,完全な体でいつまでも幸せに暮らすことになっていました。(創世記 1:26-28)ところが,罪を犯して悲惨な結果を身に招いてしまいました。イエスは地上に来て,その現実を改めて痛感しました。自分自身が人間となり,人間の感情をじかに体験したからです。アダムとエバが持っていた本来の完全さから人間が懸け離れてしまったのを目の前で見て,イエスはとても悲しい気持ちになったに違いありません。では,イエスは気落ちし,罪深い人間には見込みがないと考えて諦めてしまうでしょうか。それとも忍耐して人間を助け続けるでしょうか。
11 イエスは,ユダヤ人が信仰を持とうとしないことを嘆きました。ある時には人前で涙を流したほどです。では,多くの人が無関心だからといって熱意を失ったり,伝道をやめたりしたでしょうか。そんなことはありません。聖書によれば,「神殿で毎日教え続け」ました。(ルカ 19:41-44,47)またイエスは,パリサイ派の人たちの心が無感覚なのを「深く悲しん」だこともあります。その人たちはイエスを訴えようとして,片手がまひした男性をイエスが安息日に癒やすかどうかをじっと見ていました。では,イエスはその独善的な反対者たちにひるんだでしょうか。全くそのようなことはなく,会堂の中央で堂々と男性を癒やしました。(マルコ 3:1-5)
12 親しい弟子たちの弱さも,イエスの悩みの種だったに違いありません。第3章で考えた通り,弟子たちには人の上に立ちたいという根深い願望がありました。(マタイ 20:20-24。ルカ 9:46)イエスは,謙遜になる必要があることを繰り返し教えました。(マタイ 18:1-6; 20:25-28)それでも弟子たちはなかなか考え方を変えず,イエスと過ごす最後の晩にも,誰が一番偉いのかについて「激しい議論」をしていました。(ルカ 22:24)では,イエスは弟子たちには望みがないと考えて諦めたでしょうか。そうはしませんでした。いつも弟子たちの良いところや可能性に目を向け,辛抱強く接し続けました。弟子たちがエホバを愛し,エホバの望むことを行いたいと思っていることを,イエスは分かっていたのです。(ルカ 22:25-27)
厳しい反応をされてもやる気をなくしてしまうことなく,熱心に伝道し続けますか
13. 私たちもイエスと同じように,どんなときに忍耐力を試されることがありますか。
13 私たちも,イエスと同じように忍耐力を試されることがあります。例えば,王国の良い知らせを伝えても,聞いてもらえなかったり反対されたりするかもしれません。そんなとき,やる気をなくしてしまうでしょうか。それとも熱心に伝道し続けるでしょうか。(テトス 2:14)仲間のクリスチャンの不完全さに悩まされることもあるでしょう。心ないことを言われたり無神経なことをされたりして,傷つくことがあるかもしれません。(格言 12:18)では,仲間の短所に注目し,愛想を尽かすでしょうか。それとも欠点を大目に見て,相手の良いところを見ようとするでしょうか。(コロサイ 3:13)
イエスが忍耐できたのはどうしてか
14. イエスが忍耐するのにどんな2つのことが助けになりましたか。
14 侮辱され,がっかりさせられ,苦しい目に遭っても,イエスが忍耐して忠誠を貫くことができたのはどうしてでしょうか。主に2つのことがイエスの助けになりました。1つは,上を見て,「忍耐……を与える神」に頼ったことです。(ローマ 15:5)もう1つは,前を見て,忍耐し続ければどんな良い結果になるかを考えたことです。この2つのことについてもう少し詳しく考えてみましょう。
15-16. (ア)イエスが自分の力に頼って忍耐したのではないことが,どんなことから分かりますか。(イ)イエスはどんなことを確信していましたか。どうしてですか。
15 イエスは神の完全な子でしたが,自分の力に頼って忍耐したのではありません。天の父に頼り,助けを祈り求めました。使徒パウロはこう書いています。「キリストは,……自分を死から救える方に祈願を捧げ,願いを伝えました。大きな声で叫び,涙を流しながらそのようにし」ました。(ヘブライ 5:7)パウロによると,イエスは神に願いを伝えただけでなく,祈願を捧げました。「祈願」とは,普通以上に心のこもった真剣な懇願のことです。元のギリシャ語は複数形になっていて,イエスが何度もエホバに助けを求めたことを示しています。実際,ゲッセマネの庭園でイエスは繰り返し熱烈に祈りました。(マタイ 26:36-44)
16 イエスはエホバが祈願に答えてくださることを確信していました。天の父が「祈りを聞く方」だということを知っていたからです。(詩編 65:2)イエスは人間になる前,エホバが自分に尽くす人たちの祈りを聞いてどのように行動するかを見ていました。例えば,預言者ダニエルが心からの祈りを捧げた時,エホバはダニエルが祈り終わる前に天使を遣わしました。(ダニエル 9:20,21)ですから,自分の独り子が「大きな声で叫び,涙を流しながら」祈るのを聞いても何もしないなどということは考えられません。エホバは確かにイエスの懇願に応えて天使を遣わし,イエスが厳しい試練に耐えられるよう力づけました。(ルカ 22:43)
17. 忍耐するために天に目を向けるべきなのはどうしてですか。どのように祈れますか。
17 私たちも,忍耐するために天に目を向け,「力を与えてくださる」神に頼る必要があります。(フィリピ 4:13)完全なイエスが助けの必要を感じてエホバに祈ったのであれば,私たちはなおのことそうすべきです。時にはイエスのように何度も祈る必要があるかもしれません。(マタイ 7:7)祈れば天使が来てくれると期待することはできませんが,神に忠実に仕えるクリスチャンが「昼も夜も祈願を捧げ,祈り続け」るとき,愛情深い神は必ずその祈りに答えてくださいます。(テモテ第一 5:5)知恵や勇気や耐える力を求めて熱烈に祈るなら,病気,家族との死別,迫害などのどんな試練も忍耐できます。(コリント第二 4:7-11。ヤコブ 1:5)
忍耐するための助けを求める熱烈な祈りに,エホバは必ず答えてくださる
18. イエスは苦難を乗り越えた先に待っているどんな良い結果に目を向けましたか。
18 イエスにとって忍耐する助けになった2つ目のことは,前を見て,苦難を乗り越えた先に待っている良い結果に目を向けたことです。「イエスは,前途にある喜びのために……苦しみの杭に耐え」たと聖書に書かれています。(ヘブライ 12:2)イエスの例から,希望,喜び,忍耐にどんな関係があるかが分かります。希望があれば喜べて,喜びがあれば忍耐できるということです。(ローマ 15:13。コロサイ 1:11)イエスは素晴らしい希望を持っていました。神に忠実であり続ければ,天の父の名を神聖なものとすることに貢献でき,人類を罪と死から救い出せるという希望です。さらに,王また大祭司として,神に従う人たちを幸せにすることができるという希望もありました。(マタイ 20:28。ヘブライ 7:23-26)イエスはそうした希望のことをいつも考えていたので,喜びにあふれていて,その喜びがあったので忍耐できました。
19. 試練に遭うとき,どんなことを考えると希望によって喜べて忍耐できますか。
19 私たちもイエスと同じように,希望に目を向けるなら喜びに満たされ,忍耐できます。使徒パウロはこう書きました。「希望によって喜びましょう。苦難に遭っても忍耐しましょう」。(ローマ 12:12)あなたは今,何らかの試練に遭っていますか。もしそうなら,前を見てください。忍耐すればエホバの名がたたえられるということを忘れないでください。神の王国によって実現する希望のことをいつも考えましょう。新しい世界でパラダイスの素晴らしさを存分に味わっている自分をイメージしてください。エホバが約束した通り,エホバの名が完全に神聖なものとされ,どこにも悪がなく,病気も死もない世界になります。そういうことをイメージすると心が喜びであふれ,どんな試練に遭っても忍耐する力が湧いてきます。神の王国でいつまでも幸せに暮らせることを考えると,今の世の中で経験するつらいことはどれも「つかの間で軽いもの」に思えるようになります。(コリント第二 4:17)
イエスの歩みに「しっかり付いて」いく
20-21. エホバは私たちに何を期待していますか。私たちはどんな決意を抱くべきですか。
20 イエスは,弟子たちがいろいろ大変なことを忍耐しなければならないということを知っていました。(ヨハネ 15:20)それで,自らが手本を示して弟子たちを力づけたいと思っていました。(ヨハネ 16:33)とはいえ,不完全な私たちは,完璧な忍耐の手本を残したイエスと全く同じようにはできません。エホバは私たちに何を期待しているのでしょうか。ペテロはこう書いています。「キリスト[は]皆さんのために苦しみ,その歩みに皆さんがしっかり付いてくるよう手本を示しました」。a (ペテロ第一 2:21)イエスはずっと忍耐して「歩み」,いわば私たちのために足跡を残してくれました。私たちはその足跡を完璧にたどることはできませんが,イエスの歩みに「しっかり」付いていくことはできます。
21 では,ベストを尽くしてイエスの手本に倣うことを決意しましょう。イエスの歩みにしっかり付いていくよう努力するなら,きっと「終わりまで」耐え忍べることでしょう。今の体制が終わるのが先か,自分の今の人生が終わるのが先かは分かりませんが,はっきりと言えることがあります。私たちが終わりまで忍耐するなら,エホバは永遠にわたって祝福してくださるのです。(マタイ 24:13)
a 「手本」と訳されているギリシャ語の言葉は,直訳すると「下に書いたもの」という意味になります。ギリシャ語聖書の筆者の中でこの言葉を使っているのは使徒ペテロだけです。この言葉は「子供の練習帳にある『お手本』,子供ができる限り正確にまねをするための完璧な文字」を指しているようです。
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「私は……そのために遣わされた」「来て,私の弟子になりなさい」
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第8章
「私は……そのために遣わされた」
1-4. (ア)イエスはサマリア人の女性をどのように上手に教えましたか。どんな結果になりましたか。(イ)使徒たちはイエスが女性と話しているのを見てどう思いましたか。
イエスと使徒たちはもう何時間も歩いています。ユダヤからガリラヤに向かって北に進んでいるところです。3日ほどで行ける最短ルートはサマリアを通ります。正午が近づいた頃,スカルという小さな町に着き,そこで少し休むことにします。
2 使徒たちが食べ物を買いに行っている間,イエスは町の外にある井戸の所で休憩しています。そこに1人のサマリア人の女性が水をくみにやって来ます。イエスは「旅のためにすっかり疲れて」いましたから,ただ目を閉じて,構わないでおいてもよかったでしょう。(ヨハネ 4:6)この本の第4章でも考えた通り,ユダヤ人はサマリア人を見下していました。それでこの女性も,ユダヤ人から話し掛けられるとは思っていなかったことでしょう。でもイエスは,この女性に話し始めます。
3 イエスはまず,この女性が毎日すること,それも今まさにしていることに触れ,それを例えにして話を続けます。水をくみに来た女性に,心の渇きを癒やし永遠の命を与える水について話したのです。会話の中で,女性は何度か議論になりかねないことを言います。a でもイエスはそれを上手にかわし,清い崇拝とエホバ神というテーマからぶれることなく会話を進めます。この会話は素晴らしい結果につながりました。女性がイエスのことを町の人たちに知らせ,その人たちもイエスの話を聞きたいと思うようになったのです。(ヨハネ 4:3-42)
4 戻ってきた使徒たちは,イエスが女性と話しているのを見てどう思ったでしょうか。真理を伝えられたことを喜んだ様子はありません。イエスがその女性と話していることにただ驚き,女性に声を掛けたりはしなかったようです。女性が去ってから,使徒たちはイエスに,買ってきたものを食べるよう勧めます。しかしイエスはこう言います。「私にはあなたたちが知らない食べ物があります」。この言葉を文字通りに受け止めた使徒たちは戸惑います。それでイエスはこう説明します。「私の食べ物とは,私を遣わした方の望むことを行い,与えられた仕事を成し遂げることです」。(ヨハネ 4:32,34)こうしてイエスは,自分にとって神から与えられた仕事をするのは食べることよりも重要だと教えました。使徒たちにも同じ見方をしてほしいと思っていました。では,神から与えられた仕事とは何でしょうか。
5. イエスは主にどんな活動をしましたか。この章ではどんなことを考えますか。
5 イエスはある時こう言いました。「私は……神の王国の良い知らせを広めなければなりません。そのために遣わされたからです」。(ルカ 4:43)この言葉から分かるように,イエスが遣わされたのは,神の王国について伝道し教えるためでした。b 現代のイエスの弟子たちも同じ活動をしています。それで,イエスがどんな思いで伝道したのか,どんなことを伝えたのか,どのように伝道に取り組んだのかを考えることは大切です。
イエスはどんな思いで伝道したか
6-7. イエスが話した例えから,真理を伝えることに対する熱い思いがどのように分かりますか。
6 イエスは,自分が教える真理に対しても,人々に対しても熱い思いを持っていました。まず,イエスがエホバから教えられた真理を伝えることについてどう思っていたかが分かる例えを考えてみましょう。イエスはこう言いました。「天の王国について教えられた教師は皆,宝物庫から新しい物と古い物を取り出す家の主人のようです」。(マタイ 13:52)この例えに出てくる家の主人は,何のために宝物庫からいろいろなものを取り出すのでしょうか。
7 自分の持ち物を見せびらかしたいのではありません。昔ヒゼキヤ王はそういうことをして,悲惨な結果になりました。(列王第二 20:13-20)では例えの主人はどうしたいのでしょうか。こんな場面を想像してみてください。あなたは尊敬する先生の家を訪ねています。先生は机の引き出しを開けて2通の手紙を出します。父親からの手紙です。片方は子供の頃にもらったもので,黄ばんできています。もう片方は最近受け取りました。先生は目をきらきらさせながら,それらの手紙にどれほど感謝しているか,手紙に書かれているアドバイスにどれほど助けられてきたか,あなたにもそのアドバイスがどう役立つかをうれしそうに話してくれます。それらの手紙は先生にとってまさしく宝物であり,それについて話さずにはいられないのです。(ルカ 6:45)先生が手紙を見せてくれたのは,自慢するためでも恩を売るためでもなく,あなたにもその手紙の価値を知ってほしいと思ってのことです。
8. 聖書から学べる真理は私たちにとってどのようなものですか。
8 素晴らしい教師であるイエスは,同じような思いで神からの真理を伝えました。イエスにとって,真理はかけがえのない宝でした。イエスは真理を愛していて,ぜひ伝えたいという熱い思いを持っていました。弟子たちみんなにも,「天の王国について教えられた教師」としてそういう思いを持ってほしいと願っていました。私たちはどうでしょうか。神の言葉から学べる真理はどれも愛すべきものです。長年大切にしてきた信条であれ,最近新しく解明されたことであれ,貴重な宝です。それで,エホバが教えてくださったことへの愛を心の中で燃え立たせ続けましょう。そして,イエスに倣い,他の人が真理の素晴らしさを感じられるよう熱意を込めて語りましょう。
9. (ア)イエスは人々のことをどう感じていましたか。(イ)イエスの人への接し方にどのように倣えますか。
9 イエスは人々のことも愛していました。そのことについてはセクション3でも考えます。聖書の中でメシアについて「立場が低い人や貧しい人を哀れに思」うと予告されていた通り,イエスは人々を思いやりました。(詩編 72:13)人々がどう考え,どう感じているかを気に掛けました。重い荷を負わされ,間違った教えや伝統のせいで真理を理解できないでいる人たちをかわいそうに思いました。(マタイ 11:28; 16:13; 23:13,15)サマリア人の女性のことを思い出してください。その女性は,イエスが気に掛けてくれてうれしかったでしょう。自分の境遇までもイエスが知っていることに驚き,預言者だと信じてイエスについてほかの人に話しました。(ヨハネ 4:16-19,39)もちろん,私たちは真理を伝えたい相手のことを全て見通すことはできません。それでも,イエスのように人を思いやり,気遣いを示すことはできます。その人がどんなことに興味があるのか,どんな問題にぶつかっているのか,どんな助けを必要としているのかを知るようにし,それに合ったことを伝えましょう。
イエスはどんなことを伝えたか
10-11. (ア)イエスはどんなことを伝えましたか。(イ)神の王国が必要になったのはどうしてですか。
10 イエスはどんなことを伝えたのでしょうか。イエスに従っていると主張する多くの教会が教えていることからして,イエスは社会を良くすることについて伝道したと思っている人たちがいます。あるいは,イエスが政治改革をしようとしたとか,何よりも個人の救いを強調したという印象を持っている人もいるかもしれません。でも先ほど考えた通り,イエスははっきりとこう言いました。「私は……神の王国の良い知らせを広めなければなりません」。その良い知らせにはどんなことが含まれるのでしょうか。
11 イエスがまだ天にいた時,サタンが神の統治の仕方は間違っていると主張してエホバの聖なる名を中傷しました。ずっと正しいことをしてきた父が不公正な統治者だと言われ,人間に良いものを与えていないと非難されたことに,イエスは心を痛めたに違いありません。最初の人間であるアダムとエバがサタンの主張を支持した時には,さらにがっかりしたはずです。その後,その反逆の影響で人類が罪と死に苦しむのも見ました。(ローマ 5:12)しかし将来,神の王国によって,こうした問題が全て解決されます。イエスはその時を本当に楽しみにしていることでしょう。
12-13. 神の王国は何よりも重要などんなことをしますか。イエスの宣教のテーマが神の王国だったことが,どんなことから分かりますか。
12 何よりも重要なのは,エホバの聖なる名が神聖なものとされることです。エホバの名は,サタンとサタンを支持する者たちから非難され,汚されてきたからです。エホバの統治者としての評判が傷つけられたので,エホバの治め方が全く正しいということが証明される必要があります。イエスはこうした重要な問題について,ほかのどんな人よりもよく理解していました。それで,弟子たちに祈り方を教えた時,まず天の父の名が神聖なものとされること,次に天の父の王国が来ること,そして神の望むことが地上でも行われることを祈り求めるようにと言いました。(マタイ 6:9,10)キリスト・イエスが治める神の王国は,間もなくサタンの悪い支配を終わらせて,エホバの正しい統治が地上に行き渡るようにします。その統治は永遠に続きます。(ダニエル 2:44)
13 この王国がイエスの宣教のテーマでした。イエスはいつも言葉と行動によって,王国がどんなもので,エホバの目的に沿ってどんなことを成し遂げるかを教えました。イエスは何にも気を散らされることなく,神の王国の良い知らせを伝えるという任務を果たしました。当時,切迫した社会問題があり,数々の不公正が見られましたが,イエスはそれらを正そうとするのではなく,自分の任務に専念しました。ではイエスは,見方が狭く,いつも同じようなことばかり言っていたのでしょうか。決してそうではありません。
14-15. (ア)イエスはどんな点で「ソロモンを上回る者」でしたか。(イ)イエスの手本に倣ってどんなことを伝えられますか。
14 このセクションで考えていきますが,イエスの教えは変化に富んだ興味をそそるものでした。聞く人たちの心をつかみました。賢い王だったソロモンも,上手に教える人でした。エホバからのメッセージを人々に伝えるために,喜ばれる言葉を探し,真実を正確に記録しました。(伝道の書 12:10)不完全な人間でしたが,エホバから「広い心」を与えられ,鳥や魚などのいろいろな動物や植物について語ることができました。大勢の人がソロモンの話を聞こうと遠くからやって来ました。(列王第一 4:29-34)イエスはその「ソロモンを上回る者」でした。(マタイ 12:42)ソロモンよりはるかに知恵があり,はるかに「広い心」を持っていました。神の言葉だけでなく,鳥や魚などの動物,農業,気象,時事,歴史,社会情勢などについても並外れた知識を持っていて,そういうものから教訓を引き出しました。それでも,人に感銘を与えようと自分の知識を見せつけることはしませんでした。いつもシンプルで明快な教え方をしました。多くの人がイエスの話に引き付けられたのもうなずけます。(マルコ 12:37。ルカ 19:48)
15 現代のクリスチャンもイエスの手本に倣おうと努力しています。イエスには到底及びませんが,私たちは皆ある程度の知識や経験があって,神の言葉の真理を教える時にそれらを活用することができます。例えば,親であれば子育ての経験を生かして,エホバが自分の子供たちに示す愛について説明できるかもしれません。ほかにも,仕事や学校生活,人間関係,最近の出来事などを引き合いに出して教えることができます。そういうときも,神の王国の良い知らせを伝えるという目的を忘れないようにしましょう。(テモテ第一 4:16)
イエスはどのように伝道に取り組んだか
16-17. (ア)イエスはどんな思いで伝道に取り組んでいましたか。(イ)イエスが生活の中で伝道を最優先していたことがどんなことから分かりますか。
16 イエスは伝道を非常に価値のある仕事だと感じていました。伝道によって,天の父がどんな方なのかを正しく知るよう人を助けることができるからです。当時,人間の教理や伝統に惑わされて真実を知らない人たちが多くいました。イエスはそういう人たちがエホバとの友情を築き,永遠に生きる希望を持てるよう助けたいと強く願っていました。良い知らせを聞いて元気になってほしいと思っていました。イエスのそういう思いがどんなことに表れていたか,3つの点を考えてみましょう。
17 第一に,イエスは生活の中で伝道を最優先しました。王国について語ることはイエスのライフワークで,その活動を何よりも大切にしていました。だからこそイエスは,第5章で考えたように,いつも簡素な生活を送っていました。人にアドバイスした通り,自分自身も一番大事なことに目の焦点を合わせていました。支払いや維持管理などに気を散らされないように,多くの物を持つことはしませんでした。宣教がおろそかになってしまうことが決してないようにしたのです。(マタイ 6:22; 8:20)
18. イエスが宣教に全力を尽くしたとどうして分かりますか。
18 第二に,イエスは宣教に全力を尽くしました。膨大な労力を費やして,パレスチナ全域を文字通り何百キロも歩き,良い知らせを伝えられる人たちを探しました。個人の家,広場,市場,野山など,さまざまな場所で人と話しました。休憩や食事,親しい友たちとの憩いのひとときが必要な時でさえ,語るのをやめませんでした。死ぬ間際にも,そばにいる人に神の王国の良い知らせを伝えました。(ルカ 23:39-43)
19-20. イエスはどんな例えで,緊急に伝道する必要があることを示しましたか。
19 第三に,イエスは宣教の緊急性を意識していました。スカルの町の外にあった井戸の所でサマリア人の女性と話した時のことをもう一度考えてみましょう。イエスの使徒たちはその時,良い知らせを緊急に伝える必要があるとは思っていなかったようです。そんな使徒たちにイエスはこう言いました。「あなたたちは,収穫までまだ4カ月あると言っていませんか。しかし,目を上げて畑を見なさい。もう色づいて収穫できます」。(ヨハネ 4:35)
20 イエスが語ったこの例えは,その時期にぴったりのものでした。現代の暦では11月半ばから12月半ばに相当するキスレウの月だったようです。ニサン14日の過ぎ越しの頃に行われる大麦の収穫まで,まだ4カ月ありました。ですから,農家の人は急いで収穫をしなければならないとは全く思っていませんでした。しかし,人々を集める比喩的な収穫についてはどうでしょうか。多くの人が聞いて学びたいと思っていました。キリストの弟子となって,エホバが与えてくださる素晴らしい希望を喜んで受け入れることのできる状態だったのです。あたかも熟した穀物がそよ風に揺れながら収穫を待っているかのようでした。イエスは比喩的な意味で,そのように色づいた畑を見渡していました。c 収穫の時が来ているので,すぐに取り掛からなければなりません。それで,後にある町の住民から引き留められた時,イエスはこう言いました。「私はほかの町にも神の王国の良い知らせを広めなければなりません。そのために遣わされたからです」。(ルカ 4:43)
21. どのようにイエスに見習えますか。
21 これらの3つの点で,私たちもイエスに見習えます。クリスチャンとして,生活の中で伝道を最優先しましょう。仕事や家族の世話をしなければならないとしても,イエスのように熱心に伝道する習慣を持つことが大切です。(マタイ 6:33。テモテ第一 5:8)また,自分の時間や体力や持っている物を惜しみなく使って,宣教に全力を尽くしましょう。(ルカ 13:24)そして,宣教の緊急性をいつも意識していましょう。(テモテ第二 4:2)あらゆる機会に,会う人に真理を伝える努力を払いたいものです。
22. 次の章ではどんなことについて考えますか。
22 イエスは伝道し教える活動が非常に大切だということをよく分かっていたので,自分の死後も活動が続くようにしました。その活動を続ける任務を弟子たちに与えたのです。その任務について次の章で詳しく取り上げます。
a 例えば,ユダヤ人とサマリア人の長年にわたる対立関係に触れ,どうしてサマリア人の自分に話し掛けるのかと尋ねました。(ヨハネ 4:9)また,ヤコブのことを自分たちの父祖だと言いましたが,当時のユダヤ人にとってそれは受け入れられないことでした。(ヨハネ 4:12)ユダヤ人はサマリア人を外国人の子孫と見なし,クタ人と呼んでいました。
b 伝道するとは,ある教えを伝えたり広めたりすることです。教えるとは,さらに踏み込んで深く詳しく伝えることです。上手に教える人は,人の心を動かし,学んだことに沿って行動しようという意欲を起こさせます。
c イエスが使った表現について,ある注釈書にはこう書かれています。「穀物は熟すと,緑色から黄色っぽい明るい色に変わるため,刈り入れの時期が来たことが分かる」。
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「行って,……人々を弟子としなさい」「来て,私の弟子になりなさい」
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第9章
「行って,……人々を弟子としなさい」
穀物が1人では収穫し切れないほど豊かに実ったら,農家の人はどうしたらよいか
1-3. (ア)穀物が1人では収穫し切れないほど豊かに実った場合,農家の人はどうしますか。(イ)西暦33年の春にイエスはどんな状況に直面していましたか。どうしましたか。
農家の人が,よく実った穀物畑を見渡しています。数カ月前に畑を耕し,種をまいてから,細心の注意を払って作物の成長を見守ってきました。種から芽が出て徐々に大きくなり,ついに刈り取れるまでになりました。一生懸命働いたかいがありました。でも,ここで問題にぶつかります。あまりにも豊かに実ったので,1人では収穫し切れません。それで,人を雇って手伝ってもらうことにします。大切な穀物を刈り入れる時間は限られているのです。
2 西暦33年の春に復活したイエスも,同じような状況に直面していました。地上での宣教期間中,イエスは真理の種をまきました。その結果,いわば作物が豊かに実り,収穫を待っていました。真理を受け入れる可能性のある人が大勢いたので,弟子になるよう助ける必要があったのです。(ヨハネ 4:35-38)イエスはどうするでしょうか。天に昇る少し前にガリラヤの山で,働く人を集める任務を弟子たちに与えました。こう言っています。「行って,全ての国の人々を弟子としなさい。……バプテスマを施し,私が命令した事柄全てを守るように教えなさい」。(マタイ 28:19,20)
3 この任務を行う人たちこそが,キリストの本物の弟子だと言えます。では,これから3つの点を考えましょう。収穫のために働く人をもっと集めるようにとイエスが言ったのはどうしてでしょうか。働く人を見つけられるよう,イエスはどのように弟子たちを訓練したでしょうか。現代の私たちはこの任務をどのように行えるでしょうか。
働く人がもっと必要だったのはどうしてか
4-5. イエス1人では伝道活動をやり遂げられなかったのはどうしてですか。イエスが天に戻った後,誰が活動を続けることになりましたか。
4 イエスは,西暦29年に伝道を始めた時,自分1人でその活動をやり遂げることはできないと分かっていました。地上で過ごせる時間は残りわずかで,回れる地域も,王国の良い知らせを伝えられる人数も限られていました。実際,イエスは基本的に,「イスラエル国民の迷い出た羊」つまりユダヤ人と改宗者だけに伝道しました。(マタイ 15:24)しかし,その「迷い出た羊」も広大なイスラエル全域に散らばっていました。さらに,いずれは世界中に良い知らせが伝えられる必要がありました。(マタイ 13:38; 24:14)
5 イエスは,自分の死後も行うべきことがたくさんあると分かっていたので,11人の忠実な使徒たちにこう言いました。「はっきり言っておきますが,私に信仰を抱く人も,私がしていることを行います。しかも,もっと大きなことを行います。私が父のもとに行くからです」。(ヨハネ 14:12)イエスが天に戻った後は,使徒たちだけでなく弟子たち全てが伝道し教える活動を続けることになります。(ヨハネ 17:20)イエスが謙遜に認めた通り,弟子たちはイエスより「もっと大きなこと」を行います。そう言える理由を3つ考えましょう。
6-7. (ア)イエスの弟子たちは,どんな意味でイエスより大きなことを行いますか。(イ)どうすればイエスの信頼に応えられますか。
6 1つ目に,イエスの弟子たちはもっと広い範囲を回ります。現代では,イエス自身が回った範囲をはるかに超えて,世界中で伝道しています。2つ目に,もっと多くの人に良い知らせを伝えます。イエスが弟子にした少数の人たちが伝道した結果,間もなく弟子の数は何千人にも増えました。(使徒 2:41; 4:4)現在では何百万人にもなっており,毎年大勢の人がバプテスマを受けています。3つ目に,弟子たちはもっと長い期間にわたって伝道します。イエスが伝道したのは3年半でしたが,その後もおよそ2000年間ずっと活動が続けられてきました。
7 弟子たちが「もっと大きなこと」を行うというイエスの言葉には,弟子たちへの信頼が表れています。イエスは,「神の王国の良い知らせ」を伝えて人々を教えるという一番大切にしていた活動を,弟子たちに任せました。(ルカ 4:43)弟子たちがその任務を忠実に果たしてくれることを確信していたのです。そのことを考えるとどんな気持ちになりますか。現代の私たちも,心を込めて熱心に伝道することによって,イエスの信頼に応えることができます。素晴らしいことではないでしょうか。(ルカ 13:24)
イエスは弟子たちを訓練した
心からの愛を抱いて,人がいればどこでも伝道する
8-9. イエスはどんな手本を残しましたか。イエスの手本に倣ってどのように伝道できますか。
8 イエスは弟子たちが伝道活動を行っていけるよう,よく訓練しました。イエスが示した完璧な手本から,弟子たちはたくさんのことを学びました。(ルカ 6:40)前の章で学んだ,伝道へのイエスの取り組み方について思い出してください。イエスは人のいる所ならどこででも伝道し,湖畔や丘,町や広場,家々で話しました。宣教旅行に同行していた弟子たちは,イエスのそういう手本を見ることができました。(マタイ 5:1,2。ルカ 5:1-3; 8:1; 19:5,6)イエスが朝早くから夜まで熱心に働き続けているのも見ました。イエスが伝道をどれほど大切にしているかが伝わってきたことでしょう。(ルカ 21:37,38。ヨハネ 5:17)同情心がにじみ出たイエスの表情を見て,イエスが人々を深く愛しているからこそ伝道しているということも分かったはずです。(マルコ 6:34)弟子たちはイエスの手本からどんな感化を受けたと思いますか。あなたはイエスの手本についてどう感じますか。
9 私たちはキリストの弟子として,イエスの手本に倣って伝道します。良い知らせを「徹底的に知らせる」ために努力します。(使徒 10:42)イエスのように,家にいる人たちを訪ねます。(使徒 5:42)必要に応じて,人が家にいそうな時間に訪問できるように自分の予定を調整します。街路や公園,店,仕事場などでも,そこにいる人に真理を伝える機会を探します。私たちは伝道の重要性を意識して,「力を尽くし,努力し」続けます。(テモテ第一 4:10)人々を心から愛しているので,人がいればいつでもどこでも伝道したいと思っています。(テサロニケ第一 2:8)
「70人が喜びながら帰ってき」た
10-12. イエスは弟子たちを伝道に送り出す前に,どんな大切なことを教えましたか。
10 イエスは具体的な指示を与えることによっても弟子たちを訓練しました。12使徒を伝道に送り出した時も,後に70人の弟子たちを送り出した時も,まず講習会のようなものを行いました。(マタイ 10:1-15。ルカ 10:1-12)素晴らしい成果があり,ルカ 10章17節によると70人は「喜びながら帰ってき」ました。では,イエスが教えた大切なことを2つ考えてみましょう。当時のユダヤ人の習慣を踏まえてイエスの指示を考えると,イエスが教えたかったことが見えてきます。
11 イエスが教えたことの1つは,エホバを信頼するということです。イエスはこう指示しました。「帯の中に金や銀や銅のお金を入れてはならず,旅のための食物袋,替えの衣服,サンダル,つえも手に入れてはなりません。働く人には当然,食物が与えられます」。(マタイ 10:9,10)当時の人は大抵,お金を入れられる帯を巻き,食物袋や替えのサンダルを持って旅行しました。a そういうものについて心配しないよう教えることによって,イエスはいわばこう言っていました。「エホバを100%信頼しなさい。必要な物はエホバが与えてくださいます」。エホバは,良い知らせを聞いて受け入れた人の心を動かして,弟子たちに必要な物を与えるようにするのです。訪問客をもてなす習慣があったイスラエルでは,それは自然なことでした。(ルカ 22:35)
12 イエスは弟子たちに,あまり重要ではないことに時間を取られないようにとも教えました。こう指示しています。「道中,誰にもあいさつをしてはなりません」。(ルカ 10:4)あいさつをしないなんて失礼ではないか,と思うかもしれません。でもイエスが言っていたのは,一言もあいさつの言葉を交わしてはならないということではありません。当時はあいさつといえば幾つもの儀礼や作法があって,長々と会話するのが普通でした。ある聖書学者はこう説明しています。「オリエントの人々が交わすあいさつは,我々がするような軽い会釈や握手ではなく,何度も抱擁し,お辞儀し,さらには地面に平伏するというものであった。こうしたことすべてを行なうにはかなり時間がかかった」。イエスはそのような儀礼的なあいさつをしないよう指示することによって,いわばこう言っていました。「時間を有効に使いなさい。良い知らせを緊急に伝える必要があるからです」。b
13. イエスが1世紀の弟子たちに与えた指示を心に留めている人は,どんな生き方をしますか。
13 私たちも,イエスが1世紀の弟子たちに与えた指示を心に留めます。伝道するに当たって,エホバを100%信頼します。(格言 3:5,6)「王国……をいつも第一に」するなら,生活に必要な物は全て与えられると確信しています。(マタイ 6:33)世界中の全時間奉仕者たちが実際に経験してきた通り,大変な時にもエホバは必ず助けてくれます。(詩編 37:25)私たちは,あまり重要ではないことに時間を取られないようにも気を付けます。注意していないと,世の中のものにすぐ気を散らされてしまいかねません。(ルカ 21:34-36)人々の命が懸かっていますから,良い知らせを緊急に伝える必要があります。(ローマ 10:13-15)そのことをいつも意識し,宣教に使えるはずの時間や体力をほかのものに奪われてしまうことがないようにしましょう。収穫は多いですが,残されている時間は短いのです。(マタイ 9:37,38)
現代の私たちにとっても大切な任務
14. マタイ 28章18-20節に書かれている任務がキリストの弟子全てに与えられていると言えるのはどうしてですか。(脚注も参照。)
14 復活したイエスは,「行って,……人々を弟子としなさい」と言い,弟子たちに重要な務めを与えました。その時にガリラヤの山にいた弟子たちだけに与えたのではありません。c イエスは「全ての国の人々」に伝道するよう命じ,その活動は「体制の終結まで」続くと言いました。ですからこの任務は,現代の私たちを含め,キリストの弟子全てに与えられています。では,マタイ 28章18-20節のイエスの言葉を詳しく見てみましょう。
15. 人々を弟子とするようにというイエスの命令に従うのが大切なのはどうしてですか。
15 イエスは任務を与える前にこう言いました。「私には天と地における全ての権威が与えられています」。(18節)イエスは確かに大きな権威を持っています。天使長として,数え切れないほどの天使たちを統率しています。(テサロニケ第一 4:16。啓示 12:7)「会衆……の頭」として,地上にいる弟子たちを指導しています。(エフェソス 5:23)1914年以来,メシアである王として天で治めています。(啓示 11:15)さらに,イエスは亡くなった人を生き返らせることができるので,墓に眠っている人を死から解放する権威も持っています。(ヨハネ 5:26-28)イエスはまず自分にそれほどの権威があることに触れ,これから言う命令に従ってほしいと思っていることを強調しました。イエスは神から権威を与えられているのですから,イエスの命令に従うのは大切なことです。(コリント第一 15:27)
16. イエスは最初にどんなことを命じていますか。その命令に従ってどんなことができますか。
16 次にイエスは,「行って」という言葉で任務の説明を始めます。(19節)王国の良い知らせを伝えるために人々の所へ行きなさい,と命じているのです。その命令に従う方法はいろいろあります。家を1軒ずつ訪ねて伝道することは,人とじかに会うとても効果的な方法です。(使徒 20:20)毎日の生活の中で人に会ういろいろな機会にも,会話して良い知らせを伝えることができます。具体的にどのように伝道するかは場所や状況によって変わってきますが,次のことは変わりません。私たちは「行って」,弟子になる見込みのある人を探すのです。(マタイ 10:11)
17. どうすれば人をイエスの「弟子」とすることができますか。
17 それからイエスは何を目指してほしいかを伝え,「全ての国の人々を弟子としなさい」と言います。(19節)どうすれば人をイエスの「弟子」とすることができるでしょうか。弟子とは学ぶ人,教えを受ける人のことですが,単に情報を知ってもらえばよいというわけではありません。関心がある人と聖書レッスンをするときに私たちが目指すのは,キリストに従うようその人を助けることです。できるだけイエスの手本を際立たせ,学んでいる人がイエスに付いていきたいと思えるようにします。イエスに倣った生き方をし,イエスと同じ活動をしてほしいからです。(ヨハネ 13:15)
18. バプテスマがキリストの弟子にとって人生で一番大切なステップだと言えるのはどうしてですか。
18 この任務で大事なことの1つは,「父と子と聖なる力の名によってバプテスマを施」すことです。(19節)バプテスマはキリストの弟子にとって人生で一番大切なステップです。神への心からの献身を表すものであり,救われるために欠かせないからです。(ペテロ第一 3:21)バプテスマを受けた弟子は,ベストを尽くしてエホバに仕え続けるなら,間もなく来る新しい世界でいつまでも祝福を味わうことができます。あなたは,バプテスマを受けてキリストの弟子になるよう誰かを助けたことがありますか。クリスチャンとして伝道していて,それ以上にうれしいことはありません。(ヨハネ第三 4)
19. 新しい人にどんなことを教える必要がありますか。バプテスマの後もどんなことを教えられますか。
19 イエスはさらに,「私が命令した事柄全てを守るように教えなさい」と言いました。(20節)イエスは,神を愛しなさい,隣人を愛しなさい,人々を弟子としなさい,といった命令を与えました。私たちは新しい人たちに,そうした命令に従うよう教えます。(マタイ 22:37-39)また,聖書の真理を説明したり,自分の信仰について人に話したりできるよう,少しずつ教えていきます。学んでいる人が会衆の伝道活動に参加できるようになったら,一緒に行い,どうすれば上手に伝道できるかを教えて手本を見せます。その人がバプテスマを受けたらもう教えなくていいというわけではありません。バプテスマを受けたばかりの人は,キリストの弟子としてぶつかる問題をどうやって乗り越えたらいいか,さらに教えてもらう必要があるでしょう。(ルカ 9:23,24)
「私は……いつの日もあなたたちと共にいる」
20-21. (ア)イエスから与えられた任務を果たすときに恐れる必要がないのはどうしてですか。(イ)今ペースを落とすべきでないのはどうしてですか。あなたはどんなことを決意していますか。
20 イエスは任務を与えた時,次のとても心強い言葉で締めくくりました。「私は体制の終結までいつの日もあなたたちと共にいるのです」。(マタイ 28:20)イエスが弟子たちに与えた任務は決して楽なものではありません。任務を行う人たちは激しい反対に遭うこともあります。(ルカ 21:12)それでも,恐れる必要はありません。リーダーであるイエスは,私たちが自分の力だけでは任務を果たせないということをよく分かってくれています。「天と地における全ての権威」を持つ方が共にいて助けてくれると思うと,本当に安心できるのではないでしょうか。
21 イエスは弟子たちに,「体制の終結」までずっと宣教をサポートすると言いました。私たちは終わりが来るまで,イエスから与えられた任務を行っていかなければなりません。今はペースを落としてよい時ではありません。大々的な収穫の真っただ中で,大勢の人が真理を受け入れて集められています。ぜひ,キリストの弟子として,この重大な任務を果たすことを固く決意しましょう。自分の時間や体力や持っている物を惜しみなく使って,「行って,……人々を弟子としなさい」というキリストの命令に従いましょう。
a 当時の帯の中には,袋状の部分に硬貨を入れて運べるものがあったようです。食物袋は,肩に掛けて食べ物などを持ち運ぶための大きな袋で,大抵は革製でした。
b 預言者エリシャも同じような指示を与えたことがあります。息子を亡くした女性の家に従者のゲハジを先に行かせた時,「誰かに会ってもあいさつしてはいけません」と言いました。(列王第二 4:29)至急行く必要があり,時間を無駄にできなかったからです。
c イエスの弟子のほとんどはガリラヤにいたので,復活したイエスが「500人以上の」人たちの前に現れたのは,マタイ 28章16-20節に書かれている出来事があった時だったのかもしれません。(コリント第一 15:6)イエスが人々を弟子とするようにという任務を与えた時,その場にはそれぐらいの数の人がいたと考えられます。
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「こう書いてあります」「来て,私の弟子になりなさい」
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第10章
「こう書いてあります」
「この聖句は,今日実現しています」
1-3. イエスはナザレの人たちにどんな重要な事実を知ってほしいと思いましたか。人々が信じられるように何をしましたか。
宣教を始めて間もない頃,イエスは故郷のナザレに戻りました。同郷の人たちに,自分が昔から予告されていたメシアであるという重要な事実を知ってほしいと思ったからです。人々が信じられるよう,イエスは何をするでしょうか。
2 多くの人は奇跡を見たいと思っていたことでしょう。イエスが行った奇跡についてうわさで聞いていたからです。しかし,イエスは奇跡を見せることはせず,いつもの習慣通り会堂に行きます。イエスが朗読のために立ち上がると,イザヤの巻物が手渡されます。イエスはその長い巻物を一方の手で広げ,もう一方の手で巻き取りながら,読みたい箇所を見つけます。そして,現在のイザヤ 61章1-3節に当たる部分を朗読します。(ルカ 4:16-19)
3 そこはメシアについての預言が書かれている所で,聴衆はその内容を知っていたはずです。皆がじっとイエスを見つめ,会堂は静まり返ります。イエスは,「皆さんがいま聞いたこの聖句は,今日実現しています」と言います。それから聖句の意味を詳しく説明したと思われます。聴衆はイエスが語った魅力的な言葉に驚きますが,まだ多くの人が奇跡を見たいと思っていたようです。そこで,イエスは聖書に書かれている例を使い,その人たちに信仰がないことをはっきり指摘します。それを聞いたナザレの人たちは,イエスを殺そうとします。(ルカ 4:20-30)
4. イエスは宣教で何を大切にしていましたか。この章ではどんなことを考えますか。
4 この例から,イエスが宣教で何を大切にしていたかが分かります。イエスはいつも神の言葉を根拠として伝道しました。もちろん奇跡も,イエスが神の聖なる力を受けていることの強力な証拠となりました。でもイエスは,聖書が何よりも重要だと考えていました。では,イエスが神の言葉を引用し,攻撃から守り,説明する点でどんな手本を残しているか考えてみましょう。
神の言葉を引用した
5. イエスは皆にどんなことを知ってほしいと思っていましたか。自分の教えの出どころを示すために何をしましたか。
5 イエスは,自分が伝えているメッセージの出どころを皆に知ってほしいと思っていました。こう言っています。「私の教えは私のものではなく,私を遣わした神のものです」。(ヨハネ 7:16)別の時にはこう言いました。「私[は]何事も自分の考えで行ってい[るのではありません。] 父が教えてくださった通りに,これらのことを話しています」。(ヨハネ 8:28)次のように言ったこともあります。「あなたたちに言うことは,独自の考えで言っているのではありません。私とずっと結び付いている父が私を通して行動しているのです」。(ヨハネ 14:10)イエスは神の言葉である聖書を何度も引用することにより,自分が確かに神の教えを伝えていることを示しました。
6-7. (ア)イエスはヘブライ語聖書のどれほどの部分から引用しましたか。それがすごいことだと言えるのはどうしてですか。(イ)イエスの教え方は律法学者たちとどのように違っていましたか。
6 記録に残っているイエスの言葉をよく調べると,イエスがヘブライ語聖書の半分以上の書から引用したり,その内容に触れたりしたことが分かります。意外と少ないと感じますか。3年半も伝道して人々を教えたのに,当時の聖書の全ての書から引用しなかったのはどうしてだろう,と思うかもしれません。実際には,イエスはきっとそうしたに違いありません。記録に残っているのは,イエスが言ったりしたりしたことのごく一部にすぎません。(ヨハネ 21:25)福音書に書かれているイエスの言葉を全部朗読しても,数時間しかかからないでしょう。では,自分が神や王国について数時間だけ話すとしたら,ヘブライ語聖書の半分以上の書から引用できるだろうか,と考えてみてください。しかもイエスの場合には,巻物が手元にないことがほとんどでした。それでも,例えば有名な山上の垂訓を語った時には,ヘブライ語聖書の内容に何度も言及しています。全て記憶していたのです。
7 イエスが聖書をよく引用したことから,神の言葉にどれほど深い敬意を持っていたかが分かります。イエスの話を聞いた人たちは,「その教え方に大変驚」きました。イエスが「律法学者たちのようにではなく,権威を授かった人のように教えていたから」です。(マルコ 1:22)律法学者たちは,教える時にいわゆる口伝律法を好んで引き合いに出しました。昔の博学なラビたちの言葉を引用したのです。対照的にイエスは,自分の教えの裏付けとして口伝律法やラビの言葉を使うことは一度もありませんでした。弟子たちを教えるときにも,間違った考えを正すときにも,常に神の言葉に基づいて語り,「……と書いてあります」といった表現を何度も使いました。
8-9. (ア)イエスは神殿を清めた時,神の言葉に基づいて行動していることをどのように示しましたか。(イ)宗教指導者たちは神殿でどのように聖書に対してひどく不敬な態度を取りましたか。
8 イエスはエルサレムの神殿を清めた時,こう言いました。「『私の家は祈りの家と呼ばれる』と書いてあるのに,あなた方はそれを強盗のすみかとしています」。(マタイ 21:12,13。イザヤ 56:7。エレミヤ 7:11)その前日,イエスは神殿で多くの奇跡を行いました。感動した少年たちがイエスをたたえ始めます。しかし,宗教指導者たちは憤り,子供たちが言っていることが聞こえるか,とイエスに言います。イエスはこう答えます。「はい。『あなたは,幼い子供たちの口から賛美を生じさせた』とあるのを読んだことがないのですか」。(マタイ 21:16。詩編 8:2)聖書に書かれている預言通りのことが起きているということを,宗教指導者たちに知ってほしかったのです。
9 後に宗教指導者たちは一団となって,「どんな権威でこうしたことをするのか」とイエスに詰め寄ります。(マタイ 21:23)イエスは自分の権威がどこから来ているかをすでにはっきり示していました。自分の考えで新しいことを教えていたのではなく,天の父の言葉に基づいて教え,行動していたにすぎません。ですから,イエスに食って掛かった祭司や律法学者たちは,実際にはエホバと聖書に対してひどく不敬な態度を取っていたのです。イエスに魂胆を暴かれ,とがめられたのも当然です。(マタイ 21:23-46)
10. 神の言葉を使う点でどのようにイエスに見習えますか。イエスの時代にはなかったどんなツールがありますか。
10 イエスと同じように,現代の本物のクリスチャンも聖書を根拠として伝道します。エホバの証人は,聖書からメッセージを伝える人たちとして世界中で知られています。エホバの証人の出版物では聖書がよく引用されます。私たちは伝道で人と話す時にも,できるだけ聖書を使います。(テモテ第二 3:16)聖句を読んで説明したり,神の言葉がどれほどためになるかについて話し合ったりできると,本当にうれしいものです。私たちはイエスのような完全な記憶力はありませんが,イエスの時代にはなかったさまざまなツールを使うことができます。ますます多くの言語で出版されている聖書全巻に加えて,聖書のメッセージを伝えるのに役立つ雑誌や本やパンフレットなどがたくさんあります。なるべく聖書を引用し,人々の注意を聖書に向けるように努力しましょう。
神の言葉を攻撃から守った
11. イエスが神の言葉を攻撃から守らなければならなかったのはどうしてですか。
11 神の言葉は頻繁に攻撃されていましたが,イエスはそのことで動じたりしませんでした。天の父への祈りの中で,「あなたの言葉は真理です」と言いました。(ヨハネ 17:17)「世の支配者」であるサタンが「うそつきで,うその根源」だということもよく知っていました。(ヨハネ 8:44; 14:30)サタンからの誘惑を退けた時,イエスは聖書を3回引用しました。サタンが詩編の言葉を自分の都合のいいように引用すると,イエスはサタンが間違っていることを示して神の言葉を守りました。(マタイ 4:6,7)
12-14. (ア)宗教指導者たちはモーセの律法をどのように不敬に扱っていましたか。(イ)イエスはどのように神の律法を間違った教えから守りましたか。
12 聖書を間違って解釈したり,神の言葉をねじ曲げて教えたりする人が多かったので,イエスはそういう人たちから聖書を守るために奮闘しました。当時の宗教指導者たちは,神の言葉の教え方が非常に偏っていました。モーセの律法を厳格に守るようにと口うるさく言う一方で,律法の基になっている原則についてはほとんど教えませんでした。そのようにして,体裁ばかりを気にするうわべだけの崇拝を人々に押し付け,公正や憐れみや忠実さなどのもっと重大な事柄を無視していました。(マタイ 23:23)イエスはどのように神の律法を間違った教えから守ったでしょうか。
13 山上の垂訓の中で,イエスは何度も「あなたたちは,こう命じられたのを知っています」と言って,モーセの律法の法令を取り上げました。そのたびに,「しかし私は言います」と続け,法令の根底にある原則について説明しました。律法を否定していたのではなく,表面的な解釈から守っていたのです。例えば,「殺人をしてはならない」というおきてはよく知られていましたが,人を憎むこともこのおきての基になっている考えに反しているとイエスは教えました。同じように,自分の配偶者ではない人に情欲を抱くことは,姦淫を禁じる神の律法の根底にある原則に反していると指摘しました。(マタイ 5:17,18,21,22,27-39)
14 イエスはこうも言いました。「あなたたちは,こう命じられたのを知っています。『隣人を愛し,敵を憎まなければならない』。しかし私は言います。敵を愛し続け,迫害する人のために祈り続けなさい」。(マタイ 5:43,44)「敵を憎まなければならない」という命令は,神の言葉に含まれていたでしょうか。そうではなく,これは宗教指導者たちが勝手に教えていたことでした。神の完全な律法に人間の考えを混ぜ込み,質を落としていたのです。イエスはそうした人間の伝統の有害な影響から,神の言葉を勇敢に守りました。(マルコ 7:9-13)
15. イエスは,神の律法が非常に厳しいものであるかのように思わせる人たちから,どのように律法を守りましたか。
15 宗教指導者たちは,神の律法が非常に厳しいものであるかのように思わせることによっても,律法を攻撃しました。イエスの弟子たちが畑の中を通りながら穀物の穂をむしって食べた時,それを見たパリサイ派の人たちは安息日を守っていないと言って非難しました。イエスは聖書に書かれている例を引き合いに出して,この極端な解釈から神の言葉を守りました。空腹だったダビデと仲間たちが,神の家の供え物のパンを食べたことに触れたのです。それは聖書に記録されている,祭司ではない人が聖なるパンを食べた唯一の例です。こうしてイエスは,パリサイ派の人たちがエホバの憐れみや思いやりを正しく理解していないことを示しました。(マルコ 2:23-27)
16. 宗教指導者たちはモーセの律法の離婚に関する規定をどう解釈していましたか。イエスはどうしましたか。
16 宗教指導者たちは,律法の抜け道を考え出して,神の律法の効力を弱めることもしていました。一例として,律法によれば,夫は妻に「恥ずべき点」があるのが分かった場合には離婚することができました。「恥ずべき点」とは,家族の恥となる重大な問題のことだと思われます。(申命記 24:1)ところがイエスの時代には,宗教指導者たちはそれを都合よく解釈し,夫はあらゆる理由で妻と離婚できるとしていました。夕食を焦がしたことさえ離婚の根拠になりました。a イエスは,モーセが聖なる力に導かれて語った言葉を彼らがひどく曲解していることを指摘し,結婚に関するエホバの当初の基準を示しました。結婚は1人の男性と1人の女性の結び付きであり,離婚の正当な根拠となるのは性的不道徳だけです。(マタイ 19:3-12)
17. 現代のクリスチャンは,イエスに見習ってどのように神の言葉を攻撃から守れますか。
17 キリストの現代の弟子たちも,聖書を攻撃から守りたいと思っています。宗教指導者たちは,正しい生き方に関する聖書の教えは時代遅れだとほのめかすことにより,聖書を攻撃しています。聖書の教理だと言って間違ったことを教えることもあります。私たちは,神が三位一体の一部ではないことを示すなどして,神の清い真理の言葉を攻撃から守れることを誇らしく思っています。(申命記 4:39)もちろん,批判的な言い方はせず,いつでも温和に敬意を込めて話すようにします。(ペテロ第一 3:15)
神の言葉を説明した
18-19. イエスは神の言葉を説明するのがとても上手でした。どんな例からそのことが分かりますか。
18 ヘブライ語聖書が書かれた時,イエスは天にいました。地上に来て神の言葉を説明でき,とてもうれしく思ったことでしょう。一例として,復活した後にエマオへ向かう道で2人の弟子に会った時のことを考えましょう。最初イエスだと気付かなかった2人は,愛する主人を亡くして自分たちがどれほど悲しみ,動揺しているかを話します。イエスはどうしたでしょうか。「モーセと全ての預言者の書から始めて,聖書全巻にある自分に関連した事柄を2人に解き明かし」ました。2人はそれを聞いてどう思ったでしょうか。後に互いにこう言っています。「あの方が道中,話してくれた時,聖書をはっきり説明してくれた時,私たちの心は燃えていたではないか」。(ルカ 24:15-32)
19 その日の後刻,イエスは使徒たちや他の人と会いました。その時にも,「聖書の意味を把握できるよう弟子たちの思考を十分に刺激し」ました。(ルカ 24:45)弟子たちは,それまでもイエスが何度も同じようにしてくれたことを思い出したに違いありません。イエスはしばしば,よく知られている聖句を取り上げて十分に説明し,聞いている人たちが神の言葉をより深く理解して新しいことを学べるように助けました。
20-21. イエスは,燃える木の所でエホバがモーセに語った言葉をどのように説明しましたか。
20 ある時,イエスはサドカイ派の人たちにも神の言葉を説明しました。サドカイ派は祭司たちとの結び付きが強いユダヤ教の教派で,復活を信じていませんでした。イエスは彼らにこう言いました。「死者の復活に関して,神が語った事柄を読まなかったのですか。こう言っています。『私はアブラハムの神,イサクの神,ヤコブの神である』。この方は死んだ人の神ではなく,生きている人の神です」。(マタイ 22:31,32)この時イエスが使った聖句は,サドカイ派の人たちもよく知っていて,彼らが尊敬するモーセが書いたものでした。イエスの説明にとても説得力があると言えるのはどうしてでしょうか。
21 モーセが燃える木の所でエホバと話したのは,紀元前1514年ごろのことでした。(出エジプト記 3:2,6)アブラハムが亡くなってから329年,イサクが亡くなってから224年,ヤコブが亡くなってから197年がたっていました。それでもエホバは,「私は[彼らの]神である」と言いました。サドカイ派の人たちもよく知っていたように,エホバは死後の世界を治めているとされる異教の神々とは全く違います。イエスが言った通り「生きている人の」神です。では,どんな結論になるでしょうか。イエスの力強い説明によると,「彼らは皆,神にとっては生きているのです」。(ルカ 20:38)薄れることのない無限の記憶を持つエホバは,自分に仕えた愛する人たちが亡くなってもその人たちのことをずっと覚えていて,確実に生き返らせます。ですから,その人たちは生きているも同然なのです。(ローマ 4:16,17)実に見事な説明ではないでしょうか。それを聞いた群衆が「大変驚いた」のもうなずけます。(マタイ 22:33)
22-23. (ア)イエスに見習ってどのように神の言葉を説明できますか。(イ)次の章ではどんなことを考えますか。
22 現代のクリスチャンにも,イエスに見習って神の言葉を説明するという素晴らしい役割が与えられています。イエスのように完璧にはできないまでも,会う人たちと聖句について話し合えます。相手はその聖句を知っているとしても,その意味を深く考えたことはないかもしれません。例えば,「御名が崇められますように」とか「御国が来ますように」といった言葉を知ってはいても,「御名」や「御国」が実際のところ何なのかは聞いたことがない人がいます。(マタイ 6:9,10,「新共同訳」,日本聖書協会)そうしたことを聖書から分かりやすく説明し,真理を知ってもらえると,本当にうれしく感じます。
23 ぜひ神の言葉を引用し,攻撃から守り,説明して,イエスのように真理を伝えていきましょう。次の章では,イエスがどのように聖書の真理を上手に教え,聞く人たちの心を動かしたか,さらに考えます。
a パリサイ派の人で離婚歴があった1世紀の歴史家ヨセフスは後に,男性たちがさまざまな理由で離婚していることに触れ,「どんな理由であれ」離婚は許されるという考えを示しました。
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「あのように話した人はこれまでいませんでした」「来て,私の弟子になりなさい」
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第11章
「あのように話した人はこれまでいませんでした」
1-2. (ア)イエスを捕まえるために遣わされた下役たちが,イエスを連れずに戻ったのはどうしてですか。(イ)イエスが非常に優れた教師だったのはどうしてですか。
パリサイ派の人たちは怒りに燃えています。イエスが神殿で天の父について教えているからです。聞いている人たちの反応はさまざまで,イエスに信仰を持った人がたくさんいる一方,イエスを捕まえたいと思っている人もいます。怒りを抑え切れない宗教指導者たちは,イエスを捕まえようとして下役たちを遣わします。しかし,下役たちはイエスを連れずに戻ります。祭司長とパリサイ派の人たちが「どうして彼を連れてこなかったのか」と問いただすと,下役たちは「あのように話した人はこれまでいませんでした」と答えます。イエスの教えがあまりに素晴らしかったので,捕まえる気にならなかったのです。a (ヨハネ 7:45,46)
2 イエスの教えに驚いたのはこの下役たちだけではありませんでした。大勢の人が,イエスの話を聞くためだけに集まりました。(マルコ 3:7,9; 4:1。ルカ 5:1-3)イエスがそれほど優れた教師だったのはどうしてでしょうか。第8章で考えたように,イエスは自分が教える真理を愛していて,人々のことも愛していました。また,上手な教え方もよく知っていました。では,イエスの教え方の特長を3つ調べ,どのように倣えるかを考えましょう。
シンプルに分かりやすく教えた
3-4. (ア)イエスが簡単な言葉を使って教えたのはどうしてですか。(イ)イエスがシンプルに分かりやすく教えたことは,山上の垂訓にどのように表れていますか。
3 イエスはその気になれば,誰よりもたくさんの語彙を使いこなせたでしょう。でも,聴衆が理解できないような言葉を使って教えることは決してありませんでした。聴衆の多くが「教育のない普通の人」だということを意識していたのです。(使徒 4:13)イエスはその人たちの限界を思いやり,受け止められないほど多くのことを一度に教えたりはしませんでした。(ヨハネ 16:12)簡単な言葉を使いながらも,深い真理を教えました。
4 一例として,マタイ 5章3節から7章27節に書かれている山上の垂訓について考えてみましょう。イエスはこの垂訓の中で,物事の核心を突く深いアドバイスを与えています。それでも,複雑な説明や言い回しはしていません。子供でもすぐに分かるような言葉を使っています。イエスの話を聞いていた人たちの中には農家の人や羊飼いや漁師もたくさんいたと思われますが,イエスが話し終えた時,皆がイエスの「教え方に大変驚いて」いました。(マタイ 7:28)
5. イエスはシンプルな表現を使って深い意味のあることを言いました。どんな例がありますか。
5 イエスは教える時によく,短くて分かりやすい表現を使って深い意味のあることを言いました。そのようにして,まだ本などなかった時代に,自分の教えが聞いている人たちの記憶と印象に残るようにしたのです。例えばこういうことを言いました。「裁くのをやめなさい。裁かれないためです」。「健康な人に医者は必要ではなく,病気の人に必要なのです」。「心は強く願っていても,肉体は弱いのです」。「カエサルのものはカエサルに,しかし神のものは神に返しなさい」。「受けるより与える方が幸福である」。b (マタイ 7:1; 9:12; 26:41。マルコ 12:17。使徒 20:35)語られてから2000年近くたった今でも,こうした言葉には強いインパクトがあります。
6-7. (ア)簡単な言葉を使って教えるのが大事なのはどうしてですか。(イ)一度にあまりに多くのことを教えて相手を圧倒してしまうことがないよう,どんなことができますか。
6 私たちもどうすればシンプルに分かりやすく教えることができるでしょうか。1つの大事なポイントは,大抵の人がすぐに理解できるような簡単な言葉を使うことです。聖書の基本的な真理は決して難解ではありません。エホバは自分の考えを,誠実で謙遜な人なら誰でも理解できるようにしてきました。(コリント第一 1:26-28)よく選んだシンプルな表現を使えば,真理を分かりやすく伝えられます。
いつでもシンプルに分かりやすく教えましょう
7 聖書レッスンでは,一度にあまりに多くのことを教えて相手を圧倒してしまうことがないようにするのも大切です。あらゆることを事細かに教える必要はありません。とにかく決まった分量を終わらせようとして急いでレッスンを進める必要もありません。学んでいる人の状況や理解力などに応じてレッスンのペースを決めましょう。目標は,キリストの弟子になってエホバを崇拝するようその人を助けることです。そのためには,相手が学んでいることを十分に理解できるよう,必要なだけ時間をかけなければなりません。そうすれば相手は聖書の真理に心を動かされ,学んだことに沿って行動したいという気持ちになるでしょう。(ローマ 12:2)
上手に質問をした
8-9. (ア)イエスは何のために質問をしましたか。(イ)神殿税を払うかどうかについてペテロが正しい答えを出せるよう,イエスはどのように質問しましたか。
8 イエスは,自分で説明した方が手っ取り早い場合にも,上手に質問を使って教えました。何のために質問したのでしょうか。時には,鋭い質問をして反対者たちの考えを明らかにし,それ以上反論できないようにしました。(マタイ 21:23-27; 22:41-46)とはいえ大抵は,弟子たちの考えや気持ちを引き出し,考える力を伸ばすために質問をしました。それで,「どう考えますか」とか「このことを信じますか」などと尋ねました。(マタイ 18:12。ヨハネ 11:26)質問によって弟子たちの心を動かすようにしたのです。1つの例を考えてみましょう。
9 ある時,税を徴収する人たちがペテロに,イエスは神殿税を払わないのかと尋ねました。c ペテロはすぐに「払います」と答えます。その後,イエスはペテロに考えさせるためにこう聞きます。「シモン,どう考えますか。地上の王たちは物品税や人頭税を誰から受け取っていますか。自分の子からですか,それともほかの人からですか」。ペテロが「ほかの人からです」と答えると,イエスは「そうであれば,子は税を課されていません」と言います。(マタイ 17:24-27)ペテロは,イエスがその質問によって何を言いたかったのかよく分かったことでしょう。王の家族は税を免除されていました。ですから,神殿で崇拝されている天の王の独り子であるイエスには,神殿税を払う義務はありませんでした。イエスは,税を徴収する人たちにどう答えるべきだったかをただペテロに伝えるのではなく,上手に質問をして,ペテロが自分で正しい答えを出せるようにしました。ペテロは,今後は答える前にもっとよく考える必要があるということも学んだでしょう。
相手に合わせて,興味を引きそうな質問をしましょう
10. 伝道でどのように上手に質問できますか。
10 私たちは伝道でどのように上手に質問できるでしょうか。家の人の興味を引きそうなことを質問し,良い知らせを伝えるきっかけをつくれるかもしれません。例えば,年配の人が出てきたら,敬意を払いつつ,「世の中が変わったなと感じることはありますか」と聞いてみることができます。答えを聞いてから,さらにこう質問できます。「いずれもっと暮らしやすい世の中になると思われますか」。(マタイ 6:9,10)幼い子供がいる母親が出てきたら,「お子さんが大人になる頃にはもっといい世の中になっていてほしいと思われませんか」と尋ねられます。(詩編 37:10,11)家の様子などをよく見て,どんな質問をしたら家の人が興味を持ってくれそうか考えることができます。
11. 聖書レッスンではどのように上手に質問できますか。
11 聖書レッスンの時にも,学んでいる人の考えや気持ちを引き出すような質問ができます。(格言 20:5)例えば,「いつまでも幸せに暮らせます」d の本のレッスン43,「クリスチャンはお酒を飲んでもいい?」を一緒に学んでいるとしましょう。そのレッスンでは,飲み過ぎや酩酊を神がどう見ているかが取り上げられています。相手は聖書が教えていることを正しく答えるかもしれませんが,学んだことに本当に同意しているでしょうか。そのことを知るため,「神のこの見方はもっともだと思いますか」,「学んだことをどんなふうに生かせそうですか」などと聞いてみることができます。そうするときも,相手の尊厳を尊重することが大切です。きまりの悪い思いをさせるようなことは不用意に聞かないようにしましょう。(格言 12:18)
論理的で説得力のある話し方をした
12-14. (ア)イエスはどんなときに人に筋道立てて考えさせましたか。(イ)パリサイ派の人たちがイエスの力はサタンからのものだと主張した時,イエスはどのように論理的に話しましたか。
12 完全な知力を持っていたイエスは,人に筋道立てて考えさせるのがとても上手でした。反対者たちに不当に非難された時には,見事に論破しました。弟子たちに大切なことを教える時にも,論理的で説得力のある話し方をしました。幾つかの例を見てみましょう。
13 邪悪な天使に取りつかれた,目が見えなくて口が利けない男性をイエスが癒やした時のことです。パリサイ派の人たちが,「この男が邪悪な天使を追い出すのは,邪悪な天使の支配者ベエルゼブブ[サタン]の力によるのだ」と言って非難しました。邪悪な天使を追い出すには普通の人間にはない力が必要だということは認めていましたが,イエスの力はサタンからのものだとしたのです。この非難は不当なだけでなく,筋の通らないものでした。イエスは彼らの考えが間違っていることを示し,こう言いました。「内部で分裂している王国はどれも荒廃し,内部で分裂している町や家はどれも長くは続きません。同じように,サタンがサタンを追い出すなら,サタンが自分自身に敵対して分裂していることになります。そうしたら,その王国はどうして長く続くでしょうか」。(マタイ 12:22-26)つまりイエスは,「私がサタンから力をもらって邪悪な天使を追い出しているとすれば,サタンは自分で自分に反対して自滅に向かっていることになります」と言っていたのです。反論の余地がない論理です。
14 イエスはさらに話を続けます。パリサイ派の弟子たちも邪悪な天使を追い払っていることを知っていたので,的を射た次の質問をします。「もし私がベエルゼブブによって邪悪な天使を追い出すのであれば,あなた方の弟子は誰によって追い出すのですか」。(マタイ 12:27)つまり,「もし私がサタンの力によって邪悪な天使を追い出しているのであれば,あなた方の弟子もそうだということになりますね」と言っていたのです。パリサイ派の人たちはぐうの音も出ません。自分たちの弟子がサタンから力をもらっているなどと認められるわけがないからです。こうしてイエスは,彼らの考えが間違っていることを論理的に示し,自分が神からの力によって邪悪な天使を追い出していることを彼らが認めざるを得ないようにしました。イエスが筋道立てて話した様子について読むだけでも感心するのではないでしょうか。イエスが話すのを直接聞いていた群衆は,イエスの堂々とした様子や声の調子も相まって,いっそう強い説得力を感じたことでしょう。
15-17. イエスが「まして」という言葉を使って天の父がどれほど愛情深い方かを教えた,どんな例がありますか。
15 イエスは天の父がどれほど愛情深く信頼できる方であるかを教えるときにも,論理的で説得力のある話し方をしました。よく「まして」という言葉を使い,聞いている人たちがよく知っていることに基づいて強い確信を持てるように助けました。e そのように物事を比較して教えることにより,イエスは人の心を動かしました。2つの例を考えてみましょう。
16 祈り方を教えてほしいと弟子たちに言われた時,イエスは不完全な人間の親でも喜んで子供に「良い贈り物」を与えることについて話し,結論としてこう言いました。「あなたたちが罪深い人間でありながら,子供に良い贈り物を与えることを心得ているのであれば,まして天の父は,ご自分に求めている人に聖なる力を与えてくださるのです」。(ルカ 11:1-13)このようにイエスは,人間の親とエホバを比較して教えました。罪深い人間の親でも子供に必要なものを与えるのですから,完全でいつも正しいことを行う天の父はなおのことそうしてくれるはずです。エホバを崇拝し謙遜に助けを祈り求める人たちに,喜んで聖なる力を与えてくれるのです。
17 イエスは,生活のことで心配しないようにというアドバイスを与えた時にも,同じような教え方をしました。こう言っています。「ワタリガラスのことを考えなさい。種をまいたり刈り取ったりしませんし,納屋も倉も持っていません。それでも神はその鳥を養っています。あなたたちは鳥よりずっと価値があるのではありませんか。ユリがどのように育つかを考えなさい。苦労して働いたり,糸を紡いだりはしません。……神が,今日は生えていて明日火に放り込まれる野の草木にこのように服を与えているなら,ましてあなたたちには服を与えてくださるのです。信仰の少ない人たち」。(ルカ 12:24,27,28)エホバは鳥や花を世話しているのですから,ご自分を愛し崇拝する人たちのことも必ず世話してくれます。このように教えてもらうと心に響き,信仰が強まります。
18-19. 目に見えない神は信じられないと言う人に,どのように筋道立てて話せますか。
18 私たちも伝道で論理的で説得力のある話し方をし,間違った宗教の教えの矛盾に気付かせたり,エホバがどれほど素晴らしい方かを伝えたりしたいものです。(使徒 19:8; 28:23,24)長々と込み入った説明をする必要はありません。イエスの手本から学べる通り,シンプルに分かりやすく話すのが一番です。
19 例えば,目に見えない神は信じられないと言われたら,どのように話せるでしょうか。何らかの結果には必ず原因があるという法則に基づいて,こんなふうに言えるかもしれません。「快適な家が建っていて,中に食べ物もいっぱいあったら(結果),その家を建てて食べ物を準備した人(原因)がいるはずではないでしょうか。そうであれば,地球という快適な住まいがあって,食べ物もたくさんある(結果)のは,誰か(原因)が地球をそのように造ったからではないでしょうか。聖書にもこんな言葉があります。『家は全て誰かによって造られるのであり,全てのものを造ったのは神です』」。(ヘブライ 3:4)もちろん,どんなに説得力のあることを言っても,全ての人が納得するわけではありません。(テサロニケ第二 3:2)
相手の心を動かすことを目指して,筋道立てて話しましょう
20-21. (ア)エホバがどんな方かを教えるときに,イエスのように物事を比較する方法をどのように使えますか。(イ)次の章ではどんなことを考えますか。
20 伝道や集会でエホバがどんな方かを教えるときに,イエスのように物事を比較する方法も使えます。例えば,神は悪いことをした人を火の燃える地獄で永遠に苦しめるようなことは絶対にしない,ということをこんなふうに説明できるかもしれません。「子供を愛している父親が,罰を与えるために子供を火であぶったりするでしょうか。では,人間の親よりさらに愛情深い天の父にとって,地獄で人を苦しめることなど考えられないのではないでしょうか」。(エレミヤ 7:31)兄弟姉妹が気落ちしていたら,エホバがその人を愛していることを確信させるためにこう言えます。「小さなスズメでさえ大事に思っているエホバは,間違いなく兄弟(姉妹)のことを深く愛して気遣っていますよ。兄弟(姉妹)はずっと頑張ってエホバに仕えてきましたから,エホバにとってすごく大切な存在だと思います」。(マタイ 10:29-31)このように論理的に話せば,人の心を動かせるでしょう。
21 こうしてイエスの教え方の特長を3つ調べただけでも,イエスを捕まえられなかった下役たちが言った,「あのように話した人はこれまでいませんでした」という言葉が大げさではなかったことが分かります。次の章では,イエスがよく例えを使って教えたことについて考えます。それはイエスの教え方の最大の特長とも言えます。
a この下役たちはサンヘドリンの職員で,祭司長たちの権限の下にあったと思われます。
b この最後の言葉は使徒 20章35節に書かれています。イエスの言葉としてこれを取り上げているのは,使徒パウロだけです。パウロはこの言葉を,イエスがそう言うのを聞いた人か,復活したイエス自身から聞いたのかもしれません。あるいは,神から啓示されたとも考えられます。
c ユダヤ人は神殿税として毎年2ドラクマを払うよう求められていました。2ドラクマは2日分の賃金に相当しました。ある本にはこう書かれています。「この税は主に,毎日捧げられる全焼の捧げ物や,民のために捧げられるさまざまな犠牲全ての費用を賄うために使われた」。
d 発行: エホバの証人
e このような論法は,「ア・フォルティオリ」と呼ばれることがあります。このラテン語の表現には,「いっそう強力な理由で,さらに確かに,なおさら」という意味があります。
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「例えを使わずに話そうとはしなかった」「来て,私の弟子になりなさい」
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第12章
「例えを使わずに話そうとはしなかった」
1-3. (ア)イエスと一緒に旅をしている弟子たちにはどんな素晴らしい機会がありましたか。弟子たちがイエスの教えをよく覚えていられたのはどうしてですか。(イ)良い例えが記憶に残るのはどうしてですか。
イエスと一緒に旅をしている弟子たちには,偉大な教師から直接学ぶという素晴らしい機会がありました。神の言葉の意味を説明し,感動的な真理を教えるイエスの声を聞けたのです。イエスの言葉が書き記されるのはしばらく先のことだったので,それまで弟子たちはイエスが話した大切なことを覚えておかなければなりません。a それでイエスは,弟子たちが覚えやすいような教え方をします。特に,記憶に残る例えをとても上手に使いました。
2 良い例えは確かに印象に残ります。ある専門家によると,例えは「耳を目にならせ」,聞く人が「頭の中で絵を描きながら考え」られるようにします。絵や映像を使って説明すると分かりやすいのと同じように,例えを使うと抽象的な概念も理解しやすくなります。話が生き生きとし,大切な教訓が聞く人の脳裏に刻まれます。
3 イエス・キリストほど上手に例えを使った人は,これまで誰もいません。現代に至るまで,イエスの例えは多くの人にインパクトを与えてきました。では,イエスが教える時によく例えを使ったのはどうしてでしょうか。イエスの例えはどんなところが良かったのでしょうか。どうすればイエスのように例えを使って上手に教えられるでしょうか。
イエスが例えを使って教えたのはなぜか
4-5. イエスはどんな理由で例えを使いましたか。
4 聖書によれば,イエスが例えを使ったのには2つの重要な理由がありました。1つは,預言を実現させるためです。マタイ 13章34,35節にはこう書かれています。「イエスは……例えで群衆に話した。実際,例えを使わずに話そうとはしなかった。預言者を通してこう語られたことが実現するためである。『私は口を開いて例えを語り,始めから隠されてきた事柄を言い広める』」。ここでマタイが引用している預言は,詩編 78編2節です。詩編作者はイエスが生まれる何世紀も前に,神の聖なる力に導かれてその言葉を書きました。エホバは何百年も前から,メシアが例えを使って教えることを予告していたのです。エホバがその教え方に大きなメリットがあると考えていることが分かります。
5 イエスが例えを使った2つ目の理由は,真理を受け入れる人たちと「心が鈍く」なった人たちをいわばふるい分けるためでした。(マタイ 13:10-15。イザヤ 6:9,10)イエスの例えによって人々の心の状態が明らかになったのはどうしてでしょうか。イエスは時に,説明がなければ十分に理解できないような例えを語りました。謙遜な人は例えの意味を尋ねましたが,傲慢な人や無関心な人はそうしませんでした。(マタイ 13:36。マルコ 4:34)ですから,イエスは例えを使うことにより,真理を求める人たちには真理を明らかにし,高慢な人たちからは真理を隠したのです。
6. イエスが例えを使ったことには,ほかにもどんなメリットがありましたか。
6 イエスが例えを使ったことには,ほかのメリットもありました。人々は興味を引かれ,もっと聞きたいという気持ちになりました。内容を頭の中で思い描き,よく理解することができました。そして冒頭でも考えた通り,イエスが話したことをよく覚えておくことができました。イエスが特にふんだんに例えを使った例として,マタイ 5章3節から7章27節に書かれている山上の垂訓が挙げられます。この垂訓には50を超える比喩表現が含まれているともいわれています。全体を20分ほどで話せることを考えると,平均して20秒に1回比喩表現が使われていることになります。すぐにイメージが思い浮かぶような教え方をイエスが意識していたことがよく分かります。
7. イエスに見習って例えを使うとよいのはどうしてですか。
7 キリストの弟子である私たちも,イエスに見習って例えを使って教えたいと思います。食べ物の味を引き立てる調味料のように,良い例えは私たちが語ることをいっそう魅力的にします。また,よく考えられた例えを使うと,重要な真理が分かりやすくなります。では,イエスの例えのどんなところが良かったのかさらに詳しく考え,例えを使った上手な教え方を学びましょう。
シンプルな例えを使った
イエスは鳥や花を例えに使い,神が必要な物を与えてくれることを教えた
8-9. イエスはシンプルで分かりやすいどんな例えを使いましたか。
8 イエスが教える時によく使った例えは,短くてシンプルなものでした。イエスは簡単な言葉で,聞いている人が生き生きとしたイメージを思い描けるようにし,重要な真理を分かりやすく教えました。例えば,衣食住のことで心配しないよう弟子たちにアドバイスした時,「鳥」や「ユリ」に注目させました。鳥は種をまいたり作物を刈り取ったりしませんし,ユリは糸を紡いだり布を織ったりしません。それでも,神のおかげで食べ物に困ることはなく,きれいに装っています。要点は明らかです。神は,鳥や花に必要な物を与えているのですから,「王国……をいつも第一に」している人たちにも必ず必要な物を与えてくださるのです。(マタイ 6:26,28-33)
9 イエスは,比喩の一種でインパクトの強い隠喩もよく使いました。隠喩とは,「……のようだ」といった表現を使わずにあるものを別のもので例えることです。例えば,ある時イエスは弟子たちに,「あなたたちは世の光です」と言いました。弟子たちはすぐにポイントをつかめたことでしょう。光を輝かせるかのように,自分たちの言動によって真理を明らかにし,神がたたえられるようにすることができる,ということです。(マタイ 5:14-16)イエスはほかにも,「あなたたちは地の塩です」とか「私はブドウの木,あなたたちはその枝です」といった隠喩を使いました。(マタイ 5:13。ヨハネ 15:5)こうした例えはどれも,シンプルだからこそ強い印象を与えます。
10. 教える時にどんな例えを使えますか。
10 私たちも教える時にシンプルな例えを使いたいものです。凝った話を長々とする必要はありません。例えば,復活について話し合っていて,死んだ人を生き返らせることはエホバにとって難しくないということを説明したい場合,どんな例えを使えるでしょうか。聖書の中で死は眠りに例えられているので,こう言えるかもしれません。「神にとって,死んだ人を生き返らせるのは,眠っている人を起こすようなものなんですよ」。(ヨハネ 11:11-14)子供がすくすく育つには親からの愛情や思いやりが必要だということを伝えたい場合はどうでしょうか。聖書では子供が「オリーブの若枝」に例えられています。(詩編 128:3)それで,「子供にとって愛情や思いやりは,植物にとっての日光や水のようなものです」と言えます。例えがシンプルであればあるほど,聞く人はポイントをつかみやすくなります。
日常的な事柄を題材にした
11. イエスは故郷のガリラヤで観察したであろうどんなものを例えの題材にしましたか。
11 イエスは一般の人の生活に基づく例えを上手に使いました。故郷のガリラヤで観察したであろう日常的な光景をよく題材にしました。子供の頃,母親が粉をひき,パン生地に酵母を混ぜ,ランプをともし,家の中を掃くのを何度も見たことでしょう。(マタイ 13:33; 24:41。ルカ 15:8)漁師がガリラヤ湖に網を下ろすのもよく目にしたはずです。(マタイ 13:47)子供たちが広場で遊ぶのも,見慣れた光景でした。(マタイ 11:16)イエスはほかにも,種まき,結婚披露宴,色づいた穀物畑など,自分が実際に見た事柄をいろいろな例えで使っています。(マタイ 13:3-8; 25:1-12。マルコ 4:26-29)
12-13. イエスが親切なサマリア人の例え話を,「エルサレムからエリコに下っていく」道路という場面設定にしたのはどうしてですか。
12 イエスは,聞いている人たちがよく知っている細かい情報を例えに含めることもありました。一例として,親切なサマリア人の例え話の冒頭でこう言いました。「ある男性がエルサレムからエリコに下っていく途中で,強盗たちに襲われました。強盗は服を剝ぎ,殴り,半殺しにして去っていきました」。(ルカ 10:30)イエスが「エルサレムからエリコに下っていく」道路という場面設定にしたことに注目できます。この例え話が語られたのはユダヤのエルサレムからそう遠くない場所だったので,聴衆はその道路のことを知っていたに違いありません。それは人里離れた所を通る曲がりくねった道路で,強盗が隠れられるような場所がたくさんあったので,特に1人で歩くには危険なことで知られていました。
13 イエスはほかにも,聞いている人たちにとってなじみ深い情報を含めました。例え話の続きで,まず祭司が,次にレビ族の人がその道路を通ります。しかし,どちらも立ち止まって被害者を助けようとはしません。(ルカ 10:31,32)祭司たちはエルサレムの神殿で奉仕し,レビ族の人たちは祭司をサポートしていました。多くの祭司やレビ族の人が,神殿での務めがない間はエルサレムから21㌔しか離れていないエリコで暮らしていました。ですから,その道路をよく通っていたことでしょう。さらにイエスは,彼らが「エルサレムから」の道路を上っていくのではなく「下っていく」ところだったと言っています。聞いている人たちはしっくりきたことでしょう。エルサレムはエリコより標高が高かったので,「エルサレムから」来る人は確かに「下っていく」ことになったからです。b イエスが聞いている人たちにとってイメージしやすい話をしたことがよく分かります。
14. 相手にとってイメージしやすい例えを使えるよう,どんなことを考えるとよいですか。
14 私たちも,相手にとってイメージしやすい例えを使いたいと思います。相手の年齢,育った環境,職業などからして,どんな例えが合うかを考えるとよいでしょう。一例として,農村地域の人であれば,大都市に住む人よりも農業を題材にした例えを分かってもらいやすいかもしれません。相手の普段の生活や関心事に合わせて,子供,家,趣味,食べ物などを例えの題材にすることもできます。
創造物を題材にした
15. イエスが創造物を熟知していたのはどうしてですか。
15 イエスが語った多くの例えから,イエスが植物や動物や自然現象についてよく知っていたことが分かります。(マタイ 16:2,3。ルカ 12:24,27)どうしてイエスは自然界のことにそれほど詳しかったのでしょうか。故郷のガリラヤで,創造物を観察する機会がたくさんあったに違いありません。また,イエスは「全創造物の中の初子」であり,エホバがあらゆるものを創造するのを「優れた働き手」として手伝いました。(コロサイ 1:15,16。格言 8:30,31)ですから,創造物を熟知していたのです。では,その知識がイエスの例えにどのように生かされているか考えましょう。
16-17. (ア)イエスが羊の習性をよく知っていたことがどんなことから分かりますか。(イ)羊が羊飼いの声を聞き分けられることがどんな例から分かりますか。
16 イエスは自分を「立派な羊飼い」に,弟子たちを「羊」に例えました。例えの内容から分かる通り,イエスは家畜の羊の習性をよく知っていました。羊飼いと羊の間には特別な絆があります。羊は羊飼いに導かれるまま,素直にどこにでも付いていきます。なぜ付いていくかというと,イエスが言った通り「羊飼いの声を知っているからです」。(ヨハネ 10:2-4,11)羊は本当に羊飼いの声を聞き分けられるのでしょうか。
17 ジョージ・A・スミスという人は羊を観察し,「聖地の歴史地理」(英語)という本の中でこう書いています。「私たちは時折,ユダヤ各地にあるそうした井戸の傍らで,昼の休憩を取った。井戸には,三,四人の羊飼いが自分の群れと一緒に下りて来る。それぞれの群れの羊は入り交じっているので,羊飼いはどのようにして自分の羊を再び集めるのだろうか,と私たちは思っていた。ところが,水を飲ませ,遊ばせ終えると,羊飼いたちは一人ひとり谷の別々の斜面に上って行き,各々が独特の呼び声を上げた。すると,大きな群れからそれぞれの羊たちが自分の牧者のもとへ向かい,各群れが来た時と同じように整然と去って行った」。羊は確かに羊飼いの声を聞き分けられるので,イエスの例えは言いたかったことにぴったり合っていました。私たちもいわばイエスの声を聞き分け,イエスの教えに従ってイエスに付いていくなら,「立派な羊飼い」に大切にしてもらえるのです。
18. エホバの創造物について知るために,どんなものを調べることができますか。
18 私たちも創造物を題材にした例えを使うことができます。例えば,動物の特徴を簡単に取り上げたシンプルな例えです。エホバの創造物について知るために,何を調べたらいいでしょうか。聖書にはいろいろな動物について書かれていて,動物の習性に基づく例えも出てきます。ガゼルやヒョウのように速い,蛇のように用心深い,ハトのように純真といった例えです。c (歴代第一 12:8。ハバクク 1:8。マタイ 10:16)「ものみの塔」誌や「目ざめよ!」誌,jw.orgの「だれかが設計?」シリーズの記事や動画からも,たくさんの情報を得られます。そうした資料に出てくる分かりやすい例えも参考になります。
実例を使った
19-20. (ア)イエスは最近の出来事を使って,ある考えが間違っていることをどのように示しましたか。(イ)私たちはどのように実例を使って教えることができますか。
19 実例を引き合いに出すのも効果的です。ある時イエスは最近の出来事を使って,悲惨な目に遭うのは神からの処罰だという考えが間違っていることを示しました。こう言っています。「シロアムの塔が倒れて死んだあの18人はエルサレムの他の全ての住民より罪が重かった,と思いますか」。(ルカ 13:4)その18人が命を落としたのは,何かの罪を犯して神の怒りを買ったからではありませんでした。「思いも寄らないこと」がたまたま身に降り掛かったのです。(伝道の書 9:11)このようにイエスは,よく知られていた出来事に触れて,聞いている人たちが正しい考えを持てるように助けました。
20 私たちはどのように実例を使って教えることができるでしょうか。例えば,イエスの臨在のしるしに関する預言の実現について話し合っているとします。(マタイ 24:3-14)戦争や飢餓や地震についての最近のニュースに触れて,イエスが預言した通りになっていることを説明できます。新しい人格を身に着けようと努力している人を励ますために,実際に変化を遂げた人の例を伝えたい場合はどうでしょうか。(エフェソス 4:20-24)身近な兄弟姉妹の経験談を引き合いに出せるかもしれませんし,エホバの証人の出版物に載っている経験談なども使えます。jw.orgの「聖書は人の生き方を変える」というシリーズから,ぴったりの例を探すこともできます。
21. 神の言葉を上手に教えることができると,どんな良いことがありますか。
21 イエスはまさに最高の教師でした。このセクションで考えた通り,「教え,王国の良い知らせを伝え」ることをライフワークにしていました。(マタイ 4:23)私たちもそうしたいと思います。上手に教えることができると,良いことがたくさんあります。教えることによって人に与えると,与えることから来る幸福感を味わえます。(使徒 20:35)エホバについての真理という,人を永遠に幸せにできる何よりも貴重なものを与えられるのです。また,人類史上最も素晴らしい教師であるイエスの手本に倣っているという充実感も味わえます。イエスと同じ活動を行えるのは,本当にうれしいことです。
a 神の聖なる力に導かれてイエスの地上での生涯について最初に記したのは,マタイだと思われます。マタイの福音書はイエスの死から約8年後に書かれました。
b イエスの例え話の中で,祭司とレビ族の人も「エルサレムから」来ました。つまり,神殿から帰る途中でした。ですから誰も,彼らは汚れて神殿での奉仕ができなくなることがないように,死んでいるように見えた人を避けただけだ,と言うことはできませんでした。彼らに人を助ける気がなかったことは明らかでした。(レビ記 21:1。民数記 19:16)
c エホバの証人が発行した「聖書に対する洞察」第1巻863-865ページには,聖書の中でさまざまな動物がどんな例えに使われているかをまとめた表が載っています。
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「父を愛している」「来て,私の弟子になりなさい」
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第13章
「父を愛している」
1-2. 使徒ヨハネによると,イエスが悲惨な死を迎えることを決意していたのはどうしてですか。
年老いた男性が,ペン先をインクに浸します。過去の記憶が鮮明によみがえってきます。この人は,イエス・キリストの使徒のうち唯一生き残っているヨハネです。100歳ほどになった今,約70年前の印象的な晩のことを思い返しています。自分や他の使徒たちがイエスと過ごした最後の晩のことです。ヨハネは聖なる力に導かれて細かいことまで思い出し,書いていきます。
2 その晩イエスは,自分が間もなく処刑されることを弟子たちに伝えました。イエスがそのような悲惨な死を迎えることを決意していたのはどうしてか,ヨハネだけが明らかにしています。ヨハネによるとイエスはこう言いました。「私が父を愛していることを世の人々が知るために,父が命じた通りにしています。立ちなさい。出掛けましょう」。(ヨハネ 14:31)
3. イエスは父を愛していることをどのように示しましたか。
3 イエスにとって,お父さんへの愛は何よりも大事なことでした。聖書の中でイエスが「父を愛している」とはっきり言っているのはヨハネ 14章31節だけですが,イエスは常に自分の生き方によって父を愛していることを示しました。イエスが来る日も来る日も勇気や従順や忍耐を示したのも,宣教に打ち込んだのも,神を愛しているからこそでした。
4-5. 聖書はどんな愛を育むよう教えていますか。イエスはどれほどエホバを愛していますか。
4 現代では,愛と聞くと浮ついた軽い感情をイメージする人もいます。恋愛をテーマにした物語や歌などでも,そういう愛がよく描かれます。聖書にも異性間の愛について書かれていますが,愛を軽々しく扱ってはいません。(格言 5:15-21)そして,聖書に繰り返し出てくるのは,もっと深い種類の愛です。その愛は,単なる情熱や一時的な感情でも,感情の伴わない冷たい理念のようなものでもありません。心の底から湧き上がるもので,神の正しい基準に基づいていて,善い行動に表れます。決して薄っぺらいものではありません。聖書によると,その「愛は決して絶えません」。(コリント第一 13:8)
5 イエスほどエホバを深く愛した人は,これまで誰もいません。イエスは,神が与えた一番大事な命令として次の言葉を引用しました。「あなたは,心を尽くし,知力を尽くし,力を尽くし,自分の全てを尽くして,あなたの神エホバを愛さなければならない」。(マルコ 12:30)イエス以上にこの命令に沿って生きた人はいません。イエスはどうしてそれほどまでにエホバを愛するようになったのでしょうか。地上にいる間も神への強い愛を持ち続けることができたのはどうしてでしょうか。私たちはどうすればイエスに見習えるでしょうか。
一番強い愛の絆
6-7. 格言 8章22-31節に書かれているのは文字通りの知恵のことではなく,神の子のことだと分かるのはどうしてですか。
6 あなたは友達と一緒に何かをして友情が深まったという経験がありますか。エホバと独り子イエスの間の愛も,そのようにして深まったに違いありません。すでに何度か取り上げた格言 8章30節について,文脈も見ながらさらに詳しく考えてみましょう。22節から31節には,擬人化された知恵について書かれています。それが神の子のことだとどうして分かるのでしょうか。
7 22節で知恵はこう言っています。「エホバが,創造の初めとして,昔の偉業の最初として私を生み出した」。これが文字通りの知恵のことではないのは明らかです。知恵が「生み出」されたことはないからです。知恵には始まりがありません。知恵を持つエホバが永遠の昔から存在しているからです。(詩編 90:2)一方,神の子は「全創造物の中の初子」です。エホバの偉業の最初として生み出されたのです。(コロサイ 1:15)「格言の書」に書かれているように,神の子は天や地よりも前から存在していました。そして神の代弁者である「言葉」なので,イエスが語ることには常にエホバの知恵が完璧に表れています。(ヨハネ 1:1)
8. 神の子は人間になる前に何をしていましたか。素晴らしい創造物を見る時,どんなことをイメージできますか。
8 地上に来る前の非常に長い期間,神の子は何をしていたのでしょうか。30節によると,「優れた働き手」として神のそばにいました。それはどういうことでしょうか。コロサイ 1章16節にこう説明されています。「他の全てのものは,天のものも地上のものも,神の子を通して創造され[ました]。それらは全て,神の子を通して,神の子のために創造されました」。創造者であるエホバは,優れた働き手であるイエスを使って,他の全てのものを創造したのです。そのようにして,天使たち,広大な宇宙,地球と多種多様な動植物,そして地上の創造物の最高傑作である人間が存在するようになりました。父と子がそのように協力して働いたことは,ある意味で建築士と建設業者の関係に似ています。建設業者は,建築士の設計通りに建物を建てます。その建物を見る人は,建築士の良いデザインに感心します。同じように,私たちは創造物を見る時,偉大な建築家であるエホバのデザインの素晴らしさに感動します。(詩編 19:1)そして,「優れた働き手」が長い期間にわたって創造者と一緒に喜んで働いた様子をイメージできます。
9-10. (ア)エホバとイエスの絆はどのようにして強くなりましたか。(イ)私たちはどうすれば天の父との絆を強めることができますか。
9 2人の不完全な人間が一緒に働く場合,仲良くやっていくのが難しいこともあります。でも,エホバとイエスは決してそのようなことはありませんでした。イエスは想像もつかないほど長い間エホバと一緒に働きましたが,「いつも神の前で喜んだ」と言っています。(格言 8:30)エホバと一緒にいられることを幸せに感じていたのです。エホバも同じように感じていました。イエスは神の良いところに倣い,ますますお父さんに似ていきました。そのようにして,父と子は非常に強い絆を育みました。最も古くから存在する,一番強い愛の絆です。
10 私たちはイエスのような特別な立場にはありませんが,それでもエホバとの絆を育むことができます。イエスはお父さんと一緒に働くことによって絆を強めましたが,愛情深いエホバは私たちにも「共に働く」機会を与えてくれています。(コリント第一 3:9)イエスの手本に倣って伝道する時,自分が神と共に働いているということを忘れないようにしましょう。神と共に働けば働くほど,私たちとエホバとの愛の絆は強くなっていきます。それ以上に素晴らしいことはありません。
イエスはエホバへの強い愛を持ち続けた
11-13. (ア)愛は植物とどのように似ていますか。イエスは少年の頃,エホバへの強い愛を持ち続けるために何をしましたか。(イ)イエスは人間になる前も,後に大人になってからも,エホバから学びたいと思っていることをどのように示しましたか。
11 愛はある意味で植物のようなものです。美しい鉢植えのように,愛が生き生きと育つには養分と世話が必要です。放っておかれ,養分を与えられないと,弱って枯れてしまいます。イエスは地上にいる間ずっと,エホバへの愛が弱くなってしまわないように努力を怠りませんでした。強い愛を持ち続けるためにイエスが何をしたか考えてみましょう。
12 イエスが少年の頃,エルサレムの神殿で教師たちと話していた時のことをもう一度思い起こしてください。心配した両親にイエスはこう言いました。「なぜ捜されたのですか。私が父の家にいるはずだと思われなかったのですか」。(ルカ 2:49)少年時代のイエスは,人間になる前の記憶がまだなかったようです。それでも,天の父エホバを熱烈に愛していました。そして,エホバを崇拝することによって愛を表せるということも分かっていました。ですから,清い崇拝が行われる神殿は,イエスにとって世界で一番魅力的な場所でした。ずっとそこにいたい,帰りたくないと思っていました。さらに,ただそこにいるのではなく,エホバについて学びたい,自分の知っていることを話したいと強く願っていました。そういう気持ちになったのはこの12歳の時が最初ではなく,もちろん最後でもありませんでした。
13 人間になる前も,イエスはお父さんから意欲的に学んでいました。イザヤ 50章4-6節に書かれている預言から分かるように,エホバはイエスにメシアとしてどんな役割を果たすことになるのかを教えました。イエスはエホバから選ばれた者として苦しい目に遭うことも知りましたが,熱心に学び続けました。地上に来て大人になってからも,父の家に行ってエホバが望んでいる通りに崇拝を行ったり学んだりする意欲を持ち続けました。イエスが日頃から神殿や会堂に通っていたことが聖書に書かれています。(ルカ 4:16; 19:47)私たちも,エホバへの強い愛を持ち続けるには,集会にいつも出席する必要があります。集会は,エホバを崇拝し,エホバのことをもっと知り,エホバとの友情を深める大切な場だからです。
「イエスは……祈りをするため自分だけで山に登った」
14-15. (ア)イエスが1人の時間を取ったのはどうしてですか。(イ)イエスの祈りのどんなところに,天の父への親しみと敬意が表れていますか。
14 イエスはまた,エホバへの強い愛を持ち続けるために,日頃からよく祈っていました。人が好きでたくさん友がいましたが,1人の時間も大切にしていました。例えば,ルカ 5章16節には,「イエスは人けのない場所に行っては祈っていた」と書かれています。マタイ 14章23節にも,「群衆を解散させた後,祈りをするため自分だけで山に登った。日が暮れても,1人でそこにいた」とあります。このようにイエスがよく1人の時間を取ったのは,人と関わるのを避けるためではなく,エホバと自分だけになって,思っていることを何でも話したかったからです。
15 イエスは祈りの中で,「アバ,父よ」と神に呼び掛けることがありました。(マルコ 14:36)「アバ」というのは父親に話し掛けるときに使われていた言葉で,子供が最初に覚える言葉の1つでした。親しみと敬意の両方がこもっています。イエスがこの言葉を使って祈ったことから,天の父ととても親しかったことや,父エホバに深い敬意を持っていたことが分かります。聖書に書かれているイエスのどの祈りにも,それが表れています。その1つの例は,ヨハネ 17章にある,イエスが亡くなる前の最後の晩に捧げた,心からの長い祈りです。その祈りをじっくり読むと心に響きます。私たちもイエスのような祈りをしたいものです。イエスの言葉を一字一句まねることはしませんが,天の父にどのように心から語り掛けたらよいかをイエスから学べます。イエスに見習っていつも祈るなら,エホバへの強い愛を持ち続けることができます。
16-17. (ア)イエスは天の父への愛を込めて,どんなことを語りましたか。(イ)イエスはエホバが良いものを惜しみなく与えてくれることをどのように示しましたか。
16 この章の初めの方で考えた通り,イエスは「父を愛している」と何度も言ったわけではありませんが,イエスが語った多くのことに天の父への愛が表れていました。例えばどんなことでしょうか。イエスは「天地の主である父……を大いに賛美」しました。(マタイ 11:25)イエスが天の父を賛美した方法の1つは,この本のセクション2で学んだように,父がどれほど素晴らしい方かを人々に伝えることでした。ある話の中ではエホバを,息子を許したいと心から思っている父親に例えています。その父親は,道を踏み外した息子が悔い改めて帰ってくるのを待っていて,遠くに息子を見つけるとすぐに走っていって迎え,抱き締めました。(ルカ 15:20)エホバが愛し許してくださることをイエスがこのように教えてくれたので,私たちは温かい気持ちになってエホバに引き付けられます。
17 イエスは,エホバが良いものをたくさん与えてくれることについてもよく語り,エホバを賛美しました。ある時には,不完全な人間の父親を例に挙げて,天の父が私たちに必要な聖なる力を必ず与えてくれることを示しました。(ルカ 11:13)また,エホバが与えてくれている素晴らしい希望についても語りました。例えば,自分には天の父のそばに戻るという希望があると話しました。(ヨハネ 14:28; 17:5)弟子たちには,エホバがキリストの「小さな群れ」を天に住まわせて,メシアである王と共に治められるようにしてくれるということを伝えました。(ルカ 12:32。ヨハネ 14:2)死を目前にした犯罪者には,パラダイスで生きられることを約束しました。(ルカ 23:43)イエスは,エホバが惜しみなく与えてくれる良いものについてこのように語ることで,エホバへの強い愛を持ち続けることができました。キリストの弟子たちにとっても,エホバについて語り,エホバが与えてくださっている希望を伝えることは,エホバへの愛と信仰を強めるために大切です。
イエスのようにエホバを愛する
18. イエスの後に従って生きていく中で一番大切なのはどんなことですか。どうしてですか。
18 イエスの後に従って生きていく中で一番大切なのは,心,力,知力,自分の全てを尽くしてエホバを愛することです。(ルカ 10:27)そのようにエホバを愛する人は,エホバへの強い愛を感じるだけでなく,行動します。イエスは,天の父への愛を感じたり,「父を愛している」と言ったりすれば十分だとは考えませんでした。そのことは,「私が父を愛していることを世の人々が知るために,父が命じた通りにしています」という言葉にも表れています。(ヨハネ 14:31)サタンは,エホバを心から愛してエホバに仕える人などいないと言いました。(ヨブ 2:4,5)イエスは,サタンのその中傷じみた主張が間違っていることをはっきりさせるために,勇気ある行動を取り,どれほど天の父を愛しているかを皆に示しました。自分の命を失うことになっても神に従い通したのです。あなたはイエスに見習いますか。エホバ神を心から愛していることを,行動によってはっきり示しますか。
19-20. (ア)クリスチャンの集会にいつも出席することが大切なのはどうしてですか。(イ)個人的に聖書をじっくり学んだり祈ったりすることも欠かせないのはどうしてですか。
19 私たちは,神を愛し神との絆を強める必要のあるものとして造られています。エホバはそんな私たちのために崇拝の場を設け,どのように崇拝したらよいかを教えてくれています。クリスチャンの集会に出席する時,神を崇拝し神への愛を深めるために集まっているということを忘れないようにしましょう。集会で神を崇拝するには,心から祈りに加わり,歌で神を賛美し,話される事柄をよく聞き,できるときにはコメントすることが大切です。仲間の兄弟姉妹を励ますこともできます。(ヘブライ 10:24,25)集会にいつも出席してエホバを崇拝するなら,神への愛がますます強くなっていきます。
20 個人的に聖書をじっくり学ぶことや祈ることも,エホバへの愛を深めるために欠かせません。そうしたことをする時,エホバと自分だけの時間を持つことができるからです。神の言葉である聖書を読み,じっくり考えると,エホバの考えや気持ちが伝わってきます。祈る時には,自分の考えや気持ちを何でもエホバに話すことができます。とはいえ,してほしいことばかり言うような祈りにならないようにしましょう。エホバがしてくれたことに感謝したり,エホバが行ったことの素晴らしさをたたえたりすることもできます。(詩編 146:1)忘れてはいけないこととして,エホバへの感謝を表し,エホバを愛していることを示す一番の方法は,エホバについてほかの人に生き生きと語ることです。
21. エホバを愛することはどれほど重要ですか。続く幾つかの章ではどんなことを考えますか。
21 神を愛する人の前には,いつまでも幸せに暮らす道が開かれています。アダムとエバも神を愛しさえすれば幸せになれたのに,神を愛そうとしませんでした。神を愛するなら,どんな試練や誘惑に遭ってもそれを乗り越えて,強い信仰を持ち続けることができます。イエスの弟子にとって,神への愛は一番大事なものです。そして,神を愛する人は周りの人をも愛します。(ヨハネ第一 4:20)続く幾つかの章で,イエスがどのようにさまざまな人を愛したかを取り上げます。まず次の章で,多くの人がイエスに引き付けられたのはどうしてかを考えましょう。
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「大勢の人が」イエスに引き付けられた「来て,私の弟子になりなさい」
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第14章
「大勢の人が」イエスに引き付けられた
「子供たちを私の所に来させなさい」
1-3. 親たちが子供をイエスの所に連れてきた時,どんなことがありましたか。イエスについてどんなことが分かりますか。
イエスの地上での生涯の終わりが迫っています。あと数週間しかありませんが,行うべきことがまだたくさんあります。イエスは使徒たちと一緒にヨルダン川の東のペレア地域で伝道しながら,南のエルサレムに向かっています。そこでイエスにとって最後の過ぎ越しを祝うためです。
2 宗教指導者たちとのやり取りの後,人々が子供たちをイエスに会わせようとして連れてきます。いろいろな年齢の子がいたと思われます。この出来事について記録するに当たり,マルコは以前に12歳の子を指して使ったのと同じ言葉を使っていますが,ルカは「幼児たち」を意味する言葉を使っているからです。(ルカ 18:15。マルコ 5:41,42; 10:13)子供たちが集まると,たいてい騒がしくなるものです。イエスの弟子たちは,主人は忙しくて子供に構っている暇はないと考えたのか,親たちを叱りつけます。ではイエスはどうするでしょうか。
3 イエスは憤ります。子供たちに対してでも親たちに対してでもなく,弟子たちに対してです。そしてこう言います。「子供たちを私の所に来させなさい。止めようとしてはなりません。神の王国はこの子供たちのような人のものだからです。はっきり言いますが,幼い子供のように神の王国を受け入れる人でなければ,決してそこに入れません」。それから子供たちを「抱き寄せ」,祝福があるようにと願います。(マルコ 10:13-16)マルコが使った表現から,イエスが優しく子供たちを抱き締めたことをイメージできます。ある翻訳にあるように,赤ちゃんを「腕に抱」くこともしたでしょう。子供が好きだったことがよく分かります。さらに分かることとして,イエスはとても近づきやすい人でした。
4-5. (ア)イエスが近づきやすい人だったことは,どんなことから分かりますか。(イ)この章ではどんなことを考えますか。
4 もしイエスが厳しかったり冷たかったり高慢だったりしたら,子供たちはイエスに近寄らなかったでしょうし,親たちもイエスに会いに行こうとは思わなかったことでしょう。でもイエスからは優しさがにじみ出ていて,神と同じように子供を大切に思っていることが伝わってきます。親たちは,イエスが愛情深く子供たちに接し,祝福があるようにと願うのを見て,本当にうれしかったに違いありません。イエスは誰よりも重い責任を担っていましたが,誰よりも近づきやすい人でした。
5 ほかにどんな人たちがイエスに引き付けられたでしょうか。イエスがとても近づきやすかったのはどうしてでしょうか。私たちはどうすればイエスのようになれるでしょうか。こうした点を考えていきましょう。
どんな人たちがイエスに引き付けられたか
6-8. イエスの周りにいたのは大抵どんな人たちでしたか。宗教指導者たちとは違って,イエスはその人たちにどのように接しましたか。
6 福音書を読むと,多くの人がイエスのそばにいたいと思ったことがよく分かります。「大勢の人」がイエスに会いに来たというエピソードが何度も出てきます。例えばこう書かれています。「大勢の人が来てイエスの後に従った」。「大勢の人が集まってきた」。「大勢の人が……多くの人を連れてき」た。「大勢の人がイエスと一緒に旅していた」。(マタイ 4:25; 13:2; 15:30。ルカ 14:25)イエスはよくたくさんの人に囲まれていたのです。
7 イエスの周りにいたのは大抵,宗教指導者たちから軽蔑され,「地の民」と呼ばれていた一般の人たちでした。パリサイ派の人や祭司はその人たちについて,「律法を知らないあの群衆は神に見放されているのだ」と言いました。(ヨハネ 7:49)彼らのそういう見方は,後代のラビの著作にも表れています。多くの宗教指導者は一般の人たちを見下げ,彼らとの食事や商取引や交友を避けていました。口伝律法を知らないその人たちには復活の希望などないと言う人たちさえいました。立場が低い人の多くは,そういう宗教指導者たちに助けや導きを求めたいとは思わなかったことでしょう。でも,イエスには違うものを感じました。
8 イエスは分け隔てなく一般の人たちに接しました。一緒に食事をし,病気を治し,教え,希望を与えました。もちろん,イエスはほとんどの人がエホバに仕えようとしないという現実を分かっていました。(マタイ 7:13,14)それでも,どの人も正しい生き方をする可能性を秘めていると考えました。冷たくて思いやりのない祭司やパリサイ派の人たちとは全く違っていたのです。その祭司やパリサイ派の人たちの中にも,イエスに引き付けられ,生き方を変えてイエスに従うようになった人たちがいました。(使徒 6:7; 15:5)一部の裕福な人や権力者たちもイエスに引き付けられました。(マルコ 10:17,22)
9. 女性たちがイエスに引き付けられたのはどうしてですか。
9 女性たちも安心してイエスに接しました。人を見下す宗教指導者たちの前では,萎縮してしまうことが多かったでしょう。多くのラビは,女性を教えることをよしとしませんでした。女性は信頼できないと考えていたので,裁判で証言させませんでした。自分たちが女性でないことを祈りの中で神に感謝することさえしました。対照的に,イエスは女性を見下したりせず,大切にしました。それを感じた多くの女性がイエスの所にやって来て,イエスから学ぼうとしました。一例として,イエスがラザロと姉妹たちの家に行った時,マルタは食事の支度で忙しく動き回っていましたが,マリアはイエスの足元に座り,イエスの話に聞き入っていました。イエスは,より大事なことを優先したマリアを褒めました。(ルカ 10:39-42)
10. 宗教指導者たちとは違って,イエスは病気の人にどのように接しましたか。
10 宗教指導者たちからのけ者にされていた病気の人たちも,イエスの所にやって来ました。モーセの律法では,重い皮膚病の人を衛生上の理由で隔離することになっていましたが,その病気の人たちに冷たくしてよいということではありませんでした。(レビ記 13章)ところが,後代にラビたちが作った規則には,その病気の人は排せつ物と同じほど不快だと書かれています。その人たちを遠ざけるために石を投げつける宗教指導者もいました。そのような扱いを受けた人たちは,教師に会いに行こうとは思わなかったに違いありませんが,イエスには会いに行きました。次のように信仰を表明した人もいます。「主よ,あなたは,お望みになるだけで,私を癒やすことができます」。(ルカ 5:12)この時イエスがどうしたかは次の章で考えますが,ここで注目したいのは,病気の人たちにとってもイエスはとても近づきやすい人だったということです。
11. 罪を犯して罪悪感に苦しんでいる人がイエスに会いに行った,どんな例がありますか。イエスのように近づきやすい人になるのが大切なのはどうしてですか。
11 罪を犯して罪悪感に苦しんでいる人たちも,イエスに会いに行きたいと思いました。イエスがパリサイ派のある人の家で食事をしていた時のことを考えましょう。罪人として知られている女性が入ってきて,イエスの足元にひざまずき,自分の罪のことで涙を流します。そして,その涙でぬれたイエスの足を自分の髪の毛で拭きます。イエスを招待した人は眉をひそめ,その女性を近寄らせたイエスを心の中で批判しますが,イエスは女性が誠実に悔い改めたことを優しく褒め,エホバに許されていると伝えて安心させます。(ルカ 7:36-50)現代ではますます多くの人が罪悪感を抱えていて,神に許してもらうために安心して頼れる人を必要としています。では,イエスがとても近づきやすい人だったのはどうしてかを分析してみましょう。
イエスが近づきやすい人だったのはなぜか
12. イエスが近づきやすい人だった主な理由は何ですか。
12 イエスは愛する天の父に完璧に見習っていました。(ヨハネ 14:9)聖書に書かれている通り,エホバは「私たち一人一人から遠く離れてはいません」。(使徒 17:27)エホバに忠実に仕える人や,神のことを知って神に仕えたいと思っている人は皆,「祈りを聞く方」であるエホバにいつでも話し掛けることができます。(詩編 65:2)エホバは宇宙で最も偉大で力がある方ですが,誰よりも近づきやすいのです。そのエホバと同じように,イエスも人を愛しています。そのイエスの深い愛についてはこの後の幾つかの章で取り上げますが,多くの人がイエスに引き付けられたのは主に,イエスの愛をはっきりと感じることができたからです。では,イエスのどんなところに愛が表れていたかを考えてみましょう。
13. 親はどのようにイエスに見習えますか。
13 イエスは一人一人に関心を払い,そのことが相手に伝わりました。大変な時にも,人への気遣いが欠けることはありませんでした。すでに考えた通り,親たちが子供をイエスに会わせようと連れてきた時,イエスは重責を果たすために忙しくしていましたが,喜んで子供たちのために時間を取りました。親にとって素晴らしい手本です。今の世の中で子供を育てるのは簡単ではありませんが,いつでも親に頼れると子供が感じられるようにするのは大切なことです。親は忙しくて子供に構っていられないこともあるかもしれませんが,そういうときにもできるだけ早く時間を取ることを子供に約束できます。子供は辛抱することの大切さを学べるでしょう。そして親が約束を守れば,子供は何かあったらいつでも親に相談できると分かって安心します。
14-16. (ア)どんなことがあってイエスは最初の奇跡を行いましたか。それがすごい奇跡だったと言えるのはどうしてですか。(イ)カナでの奇跡からイエスについてどんなことが分かりますか。親はどんなことを学べますか。
14 イエスは相手の気に掛かっていることをきちんと受け止めました。一例として,イエスが行った最初の奇跡について考えましょう。ガリラヤのカナという町で結婚の披露宴に出席していた時,ぶどう酒が足りなくなるという問題が起きました。そのことを母親のマリアから伝えられたイエスは,どうしたでしょうか。給仕たちに,大きな石の水がめ6つを水でいっぱいにするようにと言いました。給仕たちがそれを少しくんで宴会の幹事の所に持っていくと,なんと上等のぶどう酒でした。水が「ぶどう酒に変えられた」のです。(ヨハネ 2:1-11)人間は昔から,ある物を別の物に変えられたらいいのにと考えてきました。何世紀もの間,錬金術師と呼ばれる人たちが鉛を金に変えようと努力しましたが,一度も成功しませんでした。鉛と金はかなり似た元素なのに,うまくいかなかったのです。a では,水とぶどう酒はどうでしょうか。水は2つの基本的な元素が結合した単純な化合物です。一方,ぶどう酒には1000近い成分があり,その多くが複雑な化合物です。では,披露宴でぶどう酒が不足したというささいなことのために,イエスはどうしてそれほどの奇跡を行ったのでしょうか。
15 新郎新婦にとっては,それはささいな問題ではありませんでした。古代の中東では,招待客をもてなすことはとても大事なことでした。結婚の披露宴でぶどう酒を切らしてしまったら,新郎新婦は相当恥ずかしい思いをし,結婚の日が台無しになって,苦い思い出を何年も引きずることになったでしょう。ですから,2人にとって一大事であり,イエスもそのことをよく理解していて,何とかしてあげたいと思ったのです。イエスは確かに,気掛かりなことを相談したいと誰もが思うような人でした。
お子さんの気持ちを受け止め,気に掛けていることが伝わるようにしましょう
16 イエスのこの手本からも,親は大切なことを学べます。お子さんが何かのことで悩んで相談しに来たら,あなたはどうしますか。大したことではないと言って片付けたくなるかもしれません。思わず笑ってしまいそうになることもあるでしょう。自分が抱えている問題に比べれば,本当にささいなことかもしれません。でも,お子さんにとっては重大な問題だということを忘れないようにしましょう。愛するお子さんが悩んでいるのですから,真剣に受け止めたいと思うのではないでしょうか。あなたが気に掛けていることが伝われば,お子さんは何でも話してくれるようになるでしょう。
17. イエスが温和だったことは,どんなことから分かりますか。温和な人は強い人だと言えるのはどうしてですか。
17 第3章で考えたように,イエスは温和で謙遜でした。(マタイ 11:29)温和な人は魅力的です。温和でいられるのは謙遜だからこそです。温和は神の聖なる力が生み出すものの一面であり,神からの知恵と結び付いています。(ガラテア 5:22,23。ヤコブ 3:13)イエスはどんなにひどいことをされても感情的になったりしませんでした。温和だったからといって,弱かったわけではありません。ある学者は温和について,「その物柔らかさの背後には鋼鉄のような強さがある」と述べています。確かに,怒りを抑えて温和に人に接するには強さが必要です。でもエホバに助けてもらいながら努力すれば,私たちもイエスに見習って温和で近づきやすい人になることができます。
18. イエスが分別のある人だったことがどんな出来事から分かりますか。分別のある人が近づきやすいのはどうしてだと思いますか。
18 イエスは分別のある人でした。イエスがティルスにいた時,ある女性がイエスの所に来ました。娘が「邪悪な天使に取りつかれ,ひどく苦しめられて」いたので,助けてほしいと思ったのです。それに対してイエスは,助けるつもりがないことを3回にわたって示します。まず何も答えないことによって,次に助けるわけにいかない理由を説明することによって,最後にその点を例えで強調することによってです。イエスは冷たくあしらっていたのでしょうか。その女性のことをずうずうしいと感じて黙らせようとしていたのでしょうか。そうではありません。女性はイエスの温かさを感じ取っていたからこそ,断られてもイエスに頼み続けたのです。イエスは女性がそれほどまでに強い信仰を持っているのを見て,娘を癒やすことにしました。(マタイ 15:22-28)イエスは分別があり,よく耳を傾け,可能な限り願いを聞き入れる人でした。それで人々は引き付けられたのです。
あなたは近づきやすい人ですか
19. 自分が本当に近づきやすい人かどうかは,どんなことから分かりますか。
19 自分は近づきやすい人だと思っている人は少なくありません。例えば上司であれば,自分はいつも部下に何でも遠慮なく言うように言っているから,部下から慕われている,と自負しているかもしれません。でも聖書の次の言葉には考えさせられます。「自分の揺るぎない愛を公言する人は多いが,実際に忠実な人はまれである」。(格言 20:6)自分は近づきやすい人だと口で言うのは簡単ですが,実際にイエスのように愛情深く人に接していなければ本当に近づきやすい人だとは言えません。私たちがそういう人かどうかは,自分で自分をどう見るかではなく,周りの人が私たちをどう見ているかで分かります。パウロはこう言っています。「分別があることが全ての人に知られるようにしてください」。(フィリピ 4:5)このように考えてみましょう。「私は周りの人たちからどう見られているだろう。どんな人として知られているだろう」。
近づきやすい人になることは長老にとって大切
20. (ア)長老たちが近づきやすい人になる必要があるのはどうしてですか。(イ)どんなことを考えると,会衆の長老たちに謙遜に協力できますか。
20 長老たちは特に,近づきやすい人になるよう誠実に努力する必要があります。イザヤ 32章1,2節に書かれている役割を果たすためです。そこにはこうあります。「彼らはおのおの,風から逃れるための場所,暴風雨から避難するための場所,水のない土地に流れる水,乾き切った土地にある大岩の陰のようになる」。この聖句にあるように兄弟姉妹を守ったり,爽やかにしたり,安心させたりするためには,近づきやすい人であることが欠かせません。長老たちはこの大変な時代にさまざまな重い責任を担っていますから,なかなか余裕がないこともあるでしょう。でも,あまりに忙しそうにしていると,兄弟姉妹は助けを求めて近づくのをためらってしまいます。エホバの羊である兄弟姉妹にそう感じさせたくはありません。(ペテロ第一 5:2)会衆の人たちは,努力している長老たちを批判したりせず,謙遜に協力することが大切です。(ヘブライ 13:17)
21. 親はどうすれば子供にとっていつでも頼れる存在になれますか。次の章では何について考えますか。
21 親が子供にとっていつでも頼れる存在になれるように努力することは,とても大事です。子供には,お父さんやお母さんには何を話しても大丈夫だという安心感を持ってほしいものです。それで,子供が失敗を打ち明けたり,聖書の教えと違うことを言いだしたりしても,感情的になったりせず,温和さや分別を示しましょう。子供の話によく耳を傾けながら,辛抱強く教えます。長老や親に限らず,私たちは皆,イエスのような近づきやすい人になりたいと思っています。次の章では,イエスが近づきやすかった理由の1つである心からの思いやりについて詳しく考えます。
a 元素の周期表で,鉛と金は比較的近くにあります。原子核に含まれる陽子の数は,鉛が金より3つ多いだけです。現代の物理学者はごく少量の鉛を金に変える方法を見つけましたが,その過程には膨大なエネルギーが必要なので割に合いません。
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「かわいそうに思った」「来て,私の弟子になりなさい」
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第15章
「かわいそうに思った」
「主よ,目が見えるようにしてください」
1-3. (ア)目が見えない2人の人から助けてほしいと懇願された時,イエスはどうしましたか。(イ)「かわいそうに思[う]」という表現にはどんな意味がありますか。(脚注を参照。)
目が見えない2人の人が,エリコに近い道路の脇に座っています。毎日そこにやって来て,人通りの多そうな場所で物乞いをしているのです。しかしその日,ある出来事によって2人の人生が大きく変わります。
2 突然,ざわめきが聞こえます。2人は何が起きているのか見えないので,そのうちの1人が何の騒ぎなのかと尋ねると,「ナザレ人イエスが通っていくのだ!」という答えが返ってきます。イエスがエルサレムに向かう最後の旅をしているところで,大勢の人が付いてきています。イエスが通ると聞いた2人は,「主よ,憐れみをお掛けください,ダビデの子よ!」と叫び始めます。いら立った周りの人たちから静かにしているようにと言われますが,2人は黙ろうとせず,必死に叫び続けます。
3 騒がしい中,2人の叫び声がイエスの耳に届きます。イエスはどうするでしょうか。ちょうど地上での最後の週を迎えようとしているところで,気掛かりなことがたくさんあります。エルサレムでひどい目に遭って殺されることも分かっています。でも,2人の必死の願いを聞き流したりはしません。立ち止まり,叫んでいる人たちを連れてくるように頼みます。2人が「主よ,目が見えるようにしてください」と懇願すると,イエスは「かわいそうに思い」,2人の目に触れます。a すると2人は目が見えるようになり,すぐにイエスの後に従います。(ルカ 18:35-43。マタイ 20:29-34)
4. イエスは,「立場が低い人……を哀れに思」うという預言の通り,どのように行動しましたか。
4 イエスはこの時だけでなく,いろいろな時に深い思いやりを示しました。聖書にはイエスが「立場が低い人……を哀れに思」うことが預言されていました。(詩編 72:13)その言葉通り,イエスは人の気持ちに寄り添い,進んで人を助けました。伝道したのも,思いやりがあったからこそです。では,イエスの言動にどのように思いやりが表れていたか,福音書を調べ,どのようにイエスの思いやりに倣えるかを考えましょう。
人の気持ちに配慮した
5-6. イエスが心から人に感情移入したどんな例がありますか。
5 イエスは心から人に感情移入しました。苦しんでいる人たちを見ると,自分のことのように感じました。その人たちと同じ経験をしたことがなくても,どれほどつらいかを感じ取りました。(ヘブライ 4:15)12年間も出血が続いていた女性を癒やした時には,その女性が「つらい病気」で大変な思いをしてきたことへの理解を示しました。(マルコ 5:25-34)ラザロが亡くなった時には,マリアや周りの人たちが泣いて悲しんでいるのを見て,心を揺さぶられました。自分がこれからラザロを生き返らせることは分かっていましたが,同情して涙を流さずにはいられませんでした。(ヨハネ 11:33,35)
6 またある時,重い皮膚病の人がイエスの所に来て,治してほしいと嘆願し,「あなたは,お望みになるだけで,私を癒やすことができます」と言いました。イエスは完全な人で病気になったことがありませんでしたが,その人に心から同情し,「かわいそうに思い」ました。(マルコ 1:40-42)それから,普通では考えられないことをします。律法によれば,重い皮膚病の人は汚れていて,ほかの人から離れていなければなりませんでした。(レビ記 13:45,46)イエスはその人に触れずに癒やすこともできたでしょう。(マタイ 8:5-13)しかし,あえて手を伸ばしてその人に触り,「そう望みます。良くなりなさい」と言いました。すると,すぐに病気は跡形もなく治りました。イエスの優しい思いやりが伝わってきます。
人をいたわりましょう
7. どうすれば感情移入できるようになりますか。思いやりはどのように表れますか。
7 クリスチャンである私たちは,イエスに見習って人に感情移入する必要があります。聖書には,人を「いたわる」ようにと書かれています。b (ペテロ第一 3:8)慢性的な病気やうつ病などに苦しんでいる人の気持ちを理解することは,そういう経験がない人にとって簡単ではないかもしれません。でも,同じ経験をしていなければ感情移入できないということはありません。イエスは病気になったことがありませんでしたが,病気の人に感情移入しました。では,どうすれば感情移入できるようになるでしょうか。大切なのは,苦しんでいる人がつらい気持ちを話してくれる時に親身になって耳を傾けることです。「自分が相手の立場だったらどう感じるだろう」と考えてください。(コリント第一 12:26)人の気持ちを敏感に感じ取れるようになればなるほど,「気落ちしている人に慰めの言葉を掛け」るのが上手になります。(テサロニケ第一 5:14)思いやりが言葉だけでなく涙に表れることもあるでしょう。ローマ 12章15節には,「泣く人と一緒に泣きましょう」とあります。
8-9. イエスが人の気持ちをよく考えて行動したどんな例がありますか。
8 イエスはいつも人の気持ちをよく考えて行動しました。耳が聞こえず言語障害のある男性がイエスのもとに連れてこられた時のことを考えましょう。イエスはその人の不安そうな様子に気付いたようで,人を癒やす時に普段しないことをしました。「群衆の中からその男性だけを連れて」いき,誰にも見られない所で癒やしたのです。(マルコ 7:31-35)
9 目が見えない男性を人々が連れてきて,治してほしいと頼んだ時も,イエスは同じように思いやり深く行動しました。「目が見えない男性の手を取って村の外に連れて」いき,段階的に癒やしたのです。そのおかげで,男性は目に映るまぶしい光景に少しずつ慣れ,何を見ているかを徐々に理解できるようになったことでしょう。(マルコ 8:22-26)本当に素晴らしい配慮です。
10. 人の気持ちを考えている人はどのように行動しますか。
10 イエスの弟子である私たちも,人の気持ちを考えて行動しなければなりません。例えば,話し方に気を付けます。軽率に話すと人を傷つけてしまうことがあるからです。(格言 12:18; 18:21)人の気持ちに寄り添うクリスチャンは,きついことを言ったり,人をけなしたり,皮肉を言ったりはしません。(エフェソス 4:31)長老は,人の気持ちに配慮していることをどのように示せるでしょうか。助言を与えるときには,相手の尊厳を傷つけないように,親切な言い方をしましょう。(ガラテア 6:1)親は,どのように子供の気持ちに配慮できるでしょうか。子供を正す必要があるときにも,不必要に恥ずかしい思いをさせないようにします。(コロサイ 3:21)
進んで人を助けた
11-12. イエスが人に頼まれなくても思いやりを示したどんな例がありますか。
11 イエスは人に頼まれなくても思いやりを示しました。本当に思いやりがある人は,いつも受け身でいるのではなく,自分から進んで人を助けます。イエスもそうでした。一例として,大勢の人が食べ物も持たずにイエスと3日過ごした時,誰もイエスに,皆がおなかをすかせているから何とかしてほしいと頼む必要はありませんでした。聖書にこう書かれています。「イエスは弟子たちを呼んで,言った。『群衆がかわいそうです。私と共に3日いて,食べる物がないのです。空腹のまま去らせたくありません。途中で倒れてしまうかもしれません』」。それからイエスは自分の意思で奇跡を行って群衆に食べ物を与えました。(マタイ 15:32-38)
12 別の例も考えましょう。西暦31年,イエスはナインという町の近くで悲しい光景を目にします。葬式の行列が町から出てきて,近くの丘の斜面にある墓地に向かうようです。亡くなったのは,ある「やもめ」の「一人息子」でした。この母親がどれほどつらい気持ちだったか,容易に想像できます。悲しみを分かち合える夫もいません。たくさんの人がいる中で,イエスはそのやもめに注目し,「かわいそうに思い」ました。誰に頼まれたわけでもありませんでしたが,同情心から行動せずにはいられませんでした。それで,「遺体を載せた台に近づいて触」り,若者を生き返らせました。それからどうしたでしょうか。自分に同行していた大勢の人たちに加わるようその若者に求めたりはせず,「息子を母親に渡し」ました。その2人がまた一緒に暮らして,やもめが世話を受けられるようにしたのです。(ルカ 7:11-15)
困っている人を進んで助けましょう
13. 困っている人がいたら,イエスに見習ってどのように助けることができますか。
13 私たちはどのようにイエスの手本に倣えるでしょうか。もちろん,奇跡を行って食べ物を与えたり人を生き返らせたりすることはできませんが,イエスのように自分から進んで人を助けることができます。例えば,兄弟姉妹がお金に困っていたり,失業していたりするかもしれません。(ヨハネ第一 3:17)やもめの姉妹が家の修理を緊急に必要としているかもしれません。(ヤコブ 1:27)家族を亡くした兄弟姉妹が,慰めや手伝いを必要としている場合もあるでしょう。(テサロニケ第一 5:11)本当に助けを必要としている人がいるなら,頼まれなくても行動しましょう。(格言 3:27)思いやりがあれば,自分にできることをして助けたいと思うことでしょう。たとえそれがちょっとした親切や心のこもった一言だとしても,思いやりは十分に伝わるものです。(コロサイ 3:12)
思いやりの気持ちから伝道した
14. 良い知らせを伝える活動をイエスが何よりも大切にしたのはどうしてですか。
14 この本のセクション2で考えたように,イエスは良い知らせを伝える点で素晴らしい手本を残しました。こう言っています。「私はほかの町にも神の王国の良い知らせを広めなければなりません。そのために遣わされたからです」。(ルカ 4:43)イエスがこの活動を何よりも大切にしたのは,主に神を愛していたからでした。でも,人を心から思いやり,神との絆を強められるように助けたいと思ったからでもありました。イエスはいろいろな方法で思いやりを示しましたが,一番大事だったのは,神を正しく知らず満たされない気持ちでいる人たちを助けることでした。では,イエスがそういう人たちのことをどう思っていたかが分かる出来事を2つ考えましょう。私たちもどういう気持ちで伝道すべきかが分かります。
15-16. どんな2つの出来事から,一般の人に対するイエスの見方が分かりますか。
15 イエスは2年ほど精力的に宣教を行った後,西暦31年にガリラヤの「全ての町や村を旅して回り」,より徹底的に伝道することにします。その時のことについて,マタイはこう書いています。「イエスは……群衆を見て,かわいそうに思った。羊飼いのいない羊のように痛めつけられ,放り出されていたからである」。(マタイ 9:35,36)イエスは一般の人たちに同情しました。その人たちが神のことをよく知らず,惨めな状態にあったからです。導いてくれるはずの宗教指導者たちからひどい扱いを受け,全く教えてもらっていませんでした。イエスは深い同情心から,人々に希望のメッセージを伝えるために奮闘しました。彼らは神の王国の良い知らせを何よりも必要としていたのです。
16 しばらくして,西暦32年の過ぎ越しが近づいた頃,同じようなことがありました。その時イエスと使徒たちは舟に乗り,ガリラヤ湖を渡って静かな場所で休もうとしていました。ところが,群衆が岸に沿って走り,舟より先に向こう岸に着いてしまいます。イエスはどうしたでしょうか。こう書かれています。「イエスは舟を下り,大勢の人を見て,かわいそうに思った。羊飼いのいない羊のようだったからである。そして,多くのことを教え始めた」。(マルコ 6:31-34)この時も,イエスは神をよく知らない人たちの惨めな状態を見て「かわいそうに思」いました。彼らはいわば「羊飼いのいない羊」のようにおなかをすかせ,さまよっていたのです。イエスがその人たちに伝道したのは,単なる義務感からではなく,その人たちのことを思いやったからです。
思いやりの気持ちから伝道しましょう
17-18. (ア)私たちが伝道を大切にするのはどうしてですか。(イ)どうすれば人への思いやりを深めることができますか。
17 イエスの弟子である私たちが伝道を大切にするのはどうしてでしょうか。この本の第9章で考えたように,私たちは伝道して人々を弟子とする任務を与えられています。(マタイ 28:19,20。コリント第一 9:16)とはいえ,単なる義務感から伝道するのではありません。何よりも,エホバを愛しているので,エホバの王国の良い知らせを伝えます。さらに,エホバを知らない人たちへの思いやりから伝道します。(マルコ 12:28-31)では,どうすれば人への思いやりを深めることができるでしょうか。
18 エホバを知らない人たちに対して,イエスと同じ見方をする必要があります。「羊飼いのいない羊のように痛めつけられ,放り出されて」いる人たちと見るのです。迷子の子羊を見つけたところを想像してみてください。牧草地や水場に連れていってくれる羊飼いがいないので,その子羊はおなかをすかせていて,喉も渇いています。かわいそうに思うのではないでしょうか。何とかして食べ物や水を与えようとすることでしょう。まだ良い知らせを聞いたことがない多くの人は,この子羊のようです。頼りになる牧者がいないので,心が飢え渇いていて,将来に希望を持てないでいます。私たちは,そういう人たちが必要としているものを持っています。聖書から得られる,心を養う食物と,心に染みる真理の水です。(イザヤ 55:1,2)真理を知らずにいわば迷子になっている人たちのことを考えると,私たちはかわいそうに思います。イエスのようにそういう人たちへの深い思いやりがあれば,王国の希望を伝えるためにできる限りのことをせずにはいられなくなります。
19. 聖書を学んでいる人が伝道に参加する資格を満たしているなら,伝道者になるようどのように励ませますか。
19 他の人がイエスの手本に倣えるよう,どのように助けられるでしょうか。伝道に参加するよう,聖書を学んでいる人やしばらく伝道をしていない仲間を励ましたい場合のことを考えてみましょう。ポイントは,行動したいという気持ちを起こさせることです。イエスは人々のことを「かわいそうに思った」ので,進んで教えました。(マルコ 6:34)それで,イエスのように良い知らせを伝えたいと思ってもらうには,人への思いやりを深められるように助けることが大切です。こんなふうに尋ねてみることもできます。「神の王国について知ることができて,どんなことが良かったと思いますか。まだ王国について知らない人たちにとって,良い知らせを聞くことはどれほど大切だと思いますか。どうしたらそういう人たちの助けになれると思いますか」。もちろん,私たちが宣教を行う主な理由は,神を愛していて,神に仕えたいと思っているからです。
20. (ア)イエスの弟子になるにはどんなことが必要ですか。(イ)次の章ではどんなことを考えますか。
20 イエスの弟子になるには,単にイエスの言動をまねればよいというわけではありません。イエスと同じ「考え方」ができるようになる必要があります。(フィリピ 2:5)イエスがどんな思いで行動したかが聖書に書かれているおかげで,私たちは「キリストの考え」を知ることができます。それによって,イエスのように人の気持ちに寄り添い,心からの思いやりを示せるようになります。(コリント第一 2:16)次の章では,イエスが特に弟子たちにどのように愛を表したかを考えます。
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「自分に従う人たちを……最後まで愛した」「来て,私の弟子になりなさい」
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第16章
「自分に従う人たちを……最後まで愛した」
1-2. イエスは使徒たちとの最後の晩にどんなことをしましたか。その時間をとても大切にしたのはどうしてですか。
イエスは使徒たちを,エルサレムのある家の階上の部屋に集めました。一緒に過ごす最後の晩です。天の父のもとに戻る時が近づいています。あと数時間もすれば捕らえられ,かつてないほど信仰を試されることになります。でも,自分の死が迫っている中で,使徒たちのことを深く気に掛けています。
2 イエスはこれまでも自分がいずれいなくなることについて使徒たちに伝えてきましたが,彼らを力づけるために言うべきことがまだあります。それで,その最後の貴重な時間を使って,使徒たちが試練に遭っても忠実でいられるよう,大切なことを教えます。普段以上に温かく胸を打つ言葉で使徒たちに語り掛けます。イエスが自分のことよりも使徒たちのことを考えていたのはどうしてでしょうか。一緒に過ごす最後の時間をそれほどまでに大切にしたのはどうしてでしょうか。それは,使徒たちのことを深く愛していたからです。
3. イエスがずっと弟子たちを愛していたことは何に表れていましたか。
3 何十年もたってから,使徒ヨハネは聖なる力に導かれてその晩のことを次のように書きました。「イエスは,過ぎ越しの祭りの前に,自分がこの世を去って天の父のもとに行くべき時が来たことを知った。そして,世にいて自分に従う人たちを,それまでも愛してきたが,最後まで愛した」。(ヨハネ 13:1)この言葉の通り,イエスは「自分に従う人たち」を最後の晩に至るまでずっと愛しました。その愛は,イエスのさまざまな言動に表れていました。では,イエスがどのように愛を表したかを調べて,弟子としてどのようにイエスに見習えるかを考えましょう。
辛抱強く接した
4-5. (ア)弟子たちに対するイエスの辛抱は何度も試されました。どんなことがありましたか。(イ)ゲッセマネの庭園で3人の使徒が眠り込んでしまった時,イエスはどうしましたか。
4 コリント第一 13章4節に「愛は辛抱強[い]」とある通り,愛がある人は人に辛抱強く接します。イエスもそうでした。第3章で考えたように,使徒たちはなかなか謙遜になれませんでした。自分たちの中で誰が一番偉いかについて何度も議論しました。では,イエスは腹を立てたりいら立ったりしたでしょうか。そうではなく,辛抱強く諭しました。一緒に過ごした最後の晩にも使徒たちの間で「激しい議論」が起きましたが,イエスの態度は変わりませんでした。(ルカ 22:24-30。マタイ 20:20-28。マルコ 9:33-37)
5 その晩の少し後に,イエスが11人の忠実な使徒たちと一緒にゲッセマネの庭園に行った時,またしても辛抱が試されます。イエスは8人の使徒を残し,ペテロとヤコブとヨハネを連れて庭園の奥の方に行って,こう言いました。「私は悲しみのあまり,死んでしまいそうです。ここにとどまって,私と共にずっと見張っていなさい」。そして,少し離れた所に行って熱烈に祈り始めます。長い祈りを終えて戻ってみると,なんと3人は眠り込んでいました。イエスにとって一番大変な時に緊張感もなく寝ていた3人を,イエスは叱りつけたでしょうか。そうはせず,辛抱強く助言し,「もっとも,心は強く願っていても,肉体は弱いのです」と言いました。その言葉から,使徒たちの弱さや感じていたストレスをよく理解していたことが分かります。a その後も使徒たちはさらに2回眠り込んでしまいましたが,イエスはずっと辛抱しました。(マタイ 26:36-46)
6. イエスに見習ってどのように人と接したらよいですか。
6 イエスが使徒たちに見切りをつけなかったことは,私たちにとっても励みになります。イエスの辛抱は報われました。使徒たちは,謙遜であることや目を覚ましていることの大切さを学んだのです。(ペテロ第一 3:8; 4:7)私たちはイエスに見習ってどのように人と接したらよいでしょうか。特に長老たちは仲間に辛抱強く接する必要があります。疲れ切っている時や自分の心配事で頭がいっぱいの時に,兄弟姉妹に相談を持ち掛けられることがあるかもしれません。助言になかなか応じない人もいることでしょう。それでも,辛抱強ければ「温和な態度で」教えることができ,「群れを優しく扱」えます。(テモテ第二 2:24,25。使徒 20:28,29)親にとっても,イエスに見習って辛抱することは大切です。子供がなかなか言うことを聞かない場合があるからです。愛情深くて辛抱強い親は,諦めずに子供を教え続けます。そうすれば,きっと喜ばしい結果になることでしょう。(詩編 127:3)
必要なものを与えた
7. イエスはどのように弟子たちの体を気遣い,必要な物に事欠かないようにしましたか。
7 愛がある人は,人のためになることをします。(ヨハネ第一 3:17,18)「自分のことばかり考え」ません。(コリント第一 13:5)愛情深いイエスは,弟子たちの体を気遣い,必要な物に事欠かないようにしました。弟子たちから頼まれなくても,弟子たちのためを思って行動することがよくありました。例えば,弟子たちが疲れていることに気付いた時には,「一緒に静かな場所に行って,少し休」むことにしました。(マルコ 6:31)弟子たちや,教えを聞きに集まっていた何千人もの人たちがおなかをすかせていることを見て取ると,食べ物を与えました。(マタイ 14:19,20; 15:35-37)
8-9. (ア)イエスは弟子たちが強い信仰を持てるように,必要な教えや励ましを与えました。どんなことからそれが分かりますか。(イ)杭に掛けられていた時,イエスは母親のことを深く気遣ってどんなことをしましたか。
8 イエスは弟子たちが強い信仰を持てるように,必要な教えや励ましを与えることもしました。(マタイ 4:4; 5:3)人々を教える時に,主に弟子たちのことを念頭に置いていたこともよくありました。例えば山上の垂訓は,特に弟子たちのために話しました。(マタイ 5:1,2,13-16)例えを使って教えた時には,「弟子たちだけの時に全ての説明を」しました。(マルコ 4:34)さらにイエスは,終わりの時代に弟子たちが信仰を強める食物を十分に受け取れるよう,「忠実で思慮深い奴隷」を任命することを予告しました。1919年以来,聖なる力によって選ばれたイエスの兄弟たちの少人数の一団が,地上で忠実な奴隷として「適切な時に食物を与え」ています。(マタイ 24:45)
9 イエスは亡くなる日に,愛する家族がエホバとの強い絆を持ち続けられるように取り計らいました。その感動的な場面を想像してみてください。イエスは杭に掛けられ,ひどい苦しみに耐えています。息をするには,脚で体を持ち上げなければならなかったことでしょう。そうすると激痛が走ったに違いありません。くぎを打たれた足の所が体の重みで裂け,むちで打たれた背中が杭にこすれたからです。そういう状態では,話すのも大変だったでしょう。それでも,息を引き取る直前に,イエスは母親のマリアへの深い愛が表れた言葉を語ります。そばに立っていたマリアと使徒ヨハネを見て,周りの人にも聞こえるほど大きな声でマリアに,「見なさい,あなたの子です!」と言います。それからヨハネに,「見なさい,あなたの母親です!」と言います。(ヨハネ 19:26,27)その忠実な使徒が,マリアを生活面だけでなく信仰面でも支えてくれることを確信していたのです。b
子供を愛する親は,子供に辛抱強く接し,子供の幸せのために必要なことをする
10. 親はどのようにイエスに見習えますか。
10 親がイエスの手本についてじっくり考えるのは良いことです。家族を心から愛する父親は,家族を十分に養います。(テモテ第一 5:8)また,家族のリーダーとして,家族がバランスよく休養や楽しいことをする時間を取れるようにします。一番大事なこととして,クリスチャンの親は子供が神との強い絆を持てるように助けます。そのために,家族で聖書を学ぶ時間を欠かさずに取ることは大切です。子供たちが楽しく学んで,エホバに仕えたいと思えるようにします。(申命記 6:6,7)さらに,伝道や集会がとても大切であることを教え,よく準備して参加することによって手本を示します。(ヘブライ 10:24,25)
快く許した
11. 人を許すことについて,イエスは弟子たちにどんなことを教えましたか。
11 愛がある人は,人を許します。(コロサイ 3:13,14)コリント第一 13章5節にある通り,「傷つけられても根に持ちません」。イエスは,許すことの大切さを繰り返し弟子たちに教えました。「7回ではなく77回」人を許すようにと言いました。何度でも許しなさい,ということです。(マタイ 18:21,22)また,罪を犯した人が助言を受けて悔い改めたなら,その人を許すようにとも教えました。(ルカ 17:3,4)口先だけの偽善的なパリサイ派の人たちとは違い,イエスは自ら手本を示しました。(マタイ 23:2-4)親しい友の言動にがっかりした時にも,イエスがどのように快く許したかを考えてみましょう。
12-13. (ア)イエスが捕らえられた夜,ペテロはイエスをがっかりさせるようなどんなことをしましたか。(イ)イエスが快く人を許したことは,復活後のどんな言動から分かりますか。
12 イエスの親しい友の1人に,温かい心の持ち主である使徒ペテロがいました。ペテロは時々衝動的に行動することもありましたが,イエスはペテロの良いところに注目し,特別な務めや機会を与えました。例えば,ペテロはヤコブやヨハネと一緒に,他の使徒たちは見ることができなかった奇跡を見せてもらいました。(マタイ 17:1,2。ルカ 8:49-55)また,イエスが捕らえられた夜も,その2人と一緒にゲッセマネの庭園の奥の方までイエスに付き添いました。しかし,その夜にイエスが裏切られて拘束された時,ペテロや他の使徒たちはイエスを見捨てて逃げました。その後,イエスが不当な裁判にかけられている間,ペテロは勇敢にも外で待っていました。ところが,怖くなって重大な間違いをしてしまいます。イエスなど知らないと3回もうそをついたのです。(マタイ 26:69-75)イエスはどうしたでしょうか。あなただったら,親友にそのようにがっかりさせられたらどうしますか。
13 イエスはペテロを許しました。ペテロが罪悪感に苦しんでいることをよく分かっていました。ペテロが「泣き崩れた」ことから,深く後悔していたことは明らかでした。(マルコ 14:72)復活した日に,イエスはペテロの前に現れました。慰めて安心させるためだったのでしょう。(ルカ 24:34。コリント第一 15:5)それから2カ月もしないペンテコステの日に,ペテロはエルサレムで使徒たちの先頭に立って群衆に話しました。イエスがペテロにその務めを与えたことは,ペテロへの信頼の表れでした。(使徒 2:14-40)イエスは自分を見捨てたほかの使徒たちのことも根に持ったりしませんでした。復活した後も,彼らを「私の兄弟たち」と呼んでいます。(マタイ 28:10)イエスが許すよう人に教えただけでなく,自分自身も快く人を許したことがよく分かります。
14. 人を許すように努力する必要があるのはどうしてですか。誰かから気に障るようなことをされたとき,具体的にどうしたらいいですか。
14 キリストの弟子である私たちは,人を許すように努力する必要があります。イエスと違って私たちは皆不完全で,互いに間違ったことを言ったりしたりしてしまうことがよくあるからです。(ローマ 3:23。ヤコブ 3:2)悔い改めている人を許すなら,自分も神に罪を許してもらえます。(マルコ 11:25)では,誰かから気に障るようなことをされたとき,具体的にどうしたらいいでしょうか。愛があれば,相手の小さな間違いや欠点はたいてい見過ごすことができるでしょう。(ペテロ第一 4:8)自分を傷つけた人がペテロのように誠実に悔い改めているなら,イエスに見習って快く許したいと思うことでしょう。根に持ったりせず,水に流すのが最善です。(エフェソス 4:32)そのようにすれば,会衆の平和に貢献でき,自分自身も穏やかな気持ちでいることができます。(ペテロ第一 3:11)
信頼していることを示した
15. 欠点がある弟子たちをイエスが信頼したのはどうしてですか。
15 愛がある人は,人を信頼します。聖書によると「全てのことを信じ」ます。c (コリント第一 13:7)愛情深いイエスは,不完全な弟子たちを信頼しました。弟子たちが心からエホバを愛していて,エホバの望むことを行いたいと思っていることを信じていました。弟子たちが間違いをしても,心が曲がっているからだとは考えませんでした。例えば,使徒のヤコブとヨハネが王国でイエスの隣に座れるように母親を通してお願いした時,イエスは2人の誠実さを疑ったり,使徒にはふさわしくないと考えたりはしませんでした。(マタイ 20:20-28)
16-17. イエスは弟子たちにどんな責任を委ねてきましたか。
16 信頼の表れとして,イエスは弟子たちにいろいろな責任を委ねました。奇跡によって食べ物を増やして大勢に与えた時には,2回とも食べ物を配るのを弟子たちに任せました。(マタイ 14:19; 15:36)自分にとって最後の過ぎ越しを祝うに当たっては,エルサレムに行って準備をするようペテロとヨハネを遣わしました。2人は,子羊,ぶどう酒,無酵母パン,苦菜など,必要な物を用意しました。それは単なる雑用ではありませんでした。過ぎ越しを正しい方法で祝うことはモーセの律法で求められており,イエスは律法を注意深く守る必要があったからです。しかもその晩,過ぎ越しの祝いの後にイエスが自分の死を記念する式を制定した時,パンとぶどう酒はイエスの体と血を表す重要な物として使われました。(マタイ 26:17-19。ルカ 22:8,13)
17 イエスは弟子たちにさらに重要な務めも与えました。すでに考えた通り,伝道して人々を弟子とするという重大な任務を託しました。(マタイ 28:18-20)また,聖なる力によって選ばれた弟子たちのうちの少人数の一団に,信仰を強める食物を分配させることにしました。(ルカ 12:42-44)天で王となった今でも,イエスは弟子たちを信頼し,聖書に書かれた資格を満たしている「人々という贈り物」に自分の会衆の世話を任せています。(エフェソス 4:8,11,12)
18-20. (ア)兄弟姉妹を信頼する人はどんな見方をしますか。(イ)人に責任を委ねる点でどのようにイエスに見習えますか。(ウ)次の章ではどんなことを考えますか。
18 人に対する見方の点で,どのようにイエスの手本に倣えるでしょうか。兄弟姉妹を信頼することは,愛の表れです。愛がある人は,人の悪いところではなく,良いところを見るようにします。人にがっかりさせられることはあるものですが,愛情深ければ,相手に悪意があるとすぐに決めつけたりはしません。(マタイ 7:1,2)仲間の良いところに注目すれば,批判したりするのではなく,励まして力づけたいと思えることでしょう。(テサロニケ第一 5:11)
19 人に責任を委ねる点でもイエスに見習えるでしょうか。会衆の監督たちが人を信頼し,その人に合った有意義な仕事を任せるのは良いことです。経験のある長老たちはそのようにして,会衆の役に立とうと「努めている」若い兄弟たちが大切なことを学んで成長できるように助けることができます。(テモテ第一 3:1。テモテ第二 2:2)人を育てるのは大事なことです。エホバがますます多くの人を会衆に招き入れているので,教え導く資格のある兄弟たちがいっそう必要になっているからです。(イザヤ 60:22)
20 イエスは人を愛する点で素晴らしい手本を残しています。イエスの弟子としてできる一番大切なことは,イエスの愛に見習うことです。イエスは私たちを深く愛して,私たちのために自分の命を差し出してくれました。そのことにイエスの愛が一番よく表れています。次の章で詳しく考えましょう。
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「これより大きな愛はありません」「来て,私の弟子になりなさい」
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第17章
「これより大きな愛はありません」
1-4. (ア)ピラトが暴徒たちの前にイエスを連れ出した時,どのような反応がありましたか。(イ)屈辱的でひどいことをされたイエスは,どんな態度を貫きましたか。これからどんなことを考えますか。
「見なさい,この人だ!」 ローマ総督ポンテオ・ピラトは,自分の邸宅の外に集まった暴徒たちの前にイエス・キリストを連れ出し,そう言いました。西暦33年の過ぎ越しの日の朝のことです。(ヨハネ 19:5)ほんの数日前にイエスが神に選ばれた王としてエルサレムに入った時,人々は大喜びで迎えました。ところが今は,イエスに対して敵意をむき出しにしています。
2 イエスは王族が着るような紫の長い衣を身に着け,冠をかぶっています。しかしそれは,自分を王だと言ったイエスをばかにするために人々が着せたものです。衣の下の背中はむちで打たれてずたずたに裂けていて,血まみれです。冠はいばらを編んだもので,それが頭に押し付けられたため,頭からも血が流れています。祭司長たちにあおられた群衆は,ぼろぼろのイエスに全く敬意を払おうとしません。祭司たちは「杭に掛けろ! 杭に掛けろ!」と叫び,群衆も「彼は死に値します」と声高に主張します。(ヨハネ 19:1-7)
3 イエスは,どれほど屈辱的でひどいことをされても堂々としていて,じっと耐えています。a 死ぬ覚悟ができているのです。その過ぎ越しの日,イエスは杭に掛けられ,ひどく苦しみながら亡くなりました。(ヨハネ 19:17,18,30)
4 イエスは弟子たちのことを本当に愛していたので,大切な友たちのために自分の命を差し出しました。「友のために自分の命をなげうつこと,これより大きな愛はありません」と言っていた通りです。(ヨハネ 15:13)それにしても,イエスがそれほどまでに苦しんで死ぬ必要が本当にあったのでしょうか。イエスがためらわずに命を差し出したのはどうしてでしょうか。イエスの弟子であり「友」でもある私たちは,どのようにイエスの手本に倣えるでしょうか。
イエスが苦しんで死ぬ必要があったのはなぜか
5. 自分がどんな試練に遭うかをイエスが知っていたのはどうしてですか。
5 イエスは自分が約束のメシアとしてどんな経験をするか分かっていました。メシアがどのように苦しんで死ぬかを詳しく予告していたヘブライ語聖書の数々の預言を知っていたのです。(イザヤ 53:3-7,12。ダニエル 9:26)それで,自分がどんな試練に遭うかを弟子たちに何度か伝えました。(マルコ 8:31; 9:31)自分にとって最後の過ぎ越しを祝うためにエルサレムに向かっていた時には,使徒たちにこう言いました。「人の子は祭司長と律法学者たちに引き渡され,死に値すると断罪されて異国の人々に引き渡されます。そして,人の子はあざけられ,唾を掛けられ,むち打たれ,殺されます」。(マルコ 10:33,34)イエスは決して大げさなことを言っていたのではありません。ここまでで取り上げた通り,イエスは実際にあざけられ,唾を掛けられ,むち打たれ,殺されました。
6. イエスが苦しんで死ぬ必要があったのはどうしてですか。
6 では,どうしてイエスは苦しんで死ぬ必要があったのでしょうか。幾つかの大事な目的があったからです。第一に,イエスが忠誠を貫くことにより,エホバの名が神聖なものとされることになりました。サタンは,神の治め方には問題があり,人間が神に仕えるのは私利私欲からにすぎない,と主張しています。(ヨブ 2:1-5)イエスは「苦しみの杭に掛けられて死ぬ」まで忠実であり続けることにより,サタンの主張が間違っていることを証明しました。(フィリピ 2:8。格言 27:11)第二に,メシアが苦しんで死ぬことにより,人々の罪が償われることになりました。(イザヤ 53:5,10。ダニエル 9:24)イエスが「多くの人と引き換える贖いとして自分の命を与え」てくれたおかげで,私たちは神との友情を育むことができます。(マタイ 20:28)第三に,イエスはさまざまな苦しみに耐えたことで,「あらゆる点で私たちと同じように試され」ました。そのようにして,「私たちの弱さに同情」できる思いやり深い大祭司になりました。(ヘブライ 2:17,18; 4:15)
イエスがためらわずに命を差し出したのはなぜか
7. イエスはどんな犠牲を払って地上に来ましたか。
7 イエスがしたことはどれほどすごいことだったのでしょうか。次のように考えてみてください。あなたが外国に移住することになったとして,もし移住先のほとんどの人から嫌われ,侮辱されたり暴力を振るわれたりし,最後には殺されるということが分かっていたら,あえて家族や家を後にして移住しようと思うでしょうか。イエスがしたのは,まさにそういうことでした。地上に来る前,イエスは天で父エホバのそばにいて,特別な立場に就いていました。それなのに,住み慣れた天を後にし,地上で人間として生きることを受け入れました。ほとんどの人から憎まれ,ひどい屈辱や虐待を受け,苦しんで死ぬことになると分かっていたのに,そうしたのです。(フィリピ 2:5-7)イエスがそれほどの犠牲を払おうと思ったのはどうしてでしょうか。
8-9. イエスがためらわずに自分の命を差し出したのはどうしてですか。
8 一番の理由は,天の父を深く愛していたからです。イエスはエホバを愛していたので,お父さんの名や評判のことを気に掛けていました。(マタイ 6:9。ヨハネ 17:1-6,26)長い間悪く言われてきたお父さんの名誉が回復されることを心から願っていました。そのためなら何でもしたいと思っていました。それでイエスは,苦しい目に遭っても忍耐し,正しいことを貫き通しました。そうすれば天の父の美しい名を神聖なものとすることに貢献できると分かっていたからです。(歴代第一 29:13)
9 イエスが自分の命を差し出したのは,人間を愛していたからでもあります。イエスは人間の歴史の最初から,ずっと人間のことを愛してきました。地上に来る前のイエスについて,聖書にこう書かれています。「私は……人間に深い愛情を抱いた」。(格言 8:30,31)イエスは地上に来てからも,人々を愛していることをはっきり示しました。この本の第14章から第16章で考えたように,イエスの言動にはいつも,あらゆる人への,特に弟子たちへの愛が表れていました。そして西暦33年ニサン14日には,全人類のために命をなげうってくれました。(ヨハネ 10:11)イエスはそこまでして私たちへの深い愛を表してくれたのです。私たちはこのイエスの愛に倣えるでしょうか。イエスはそうしてほしいと思っています。
「私があなたたちを愛した通りに,……互いを愛しなさい」
10-11. イエスが弟子たちに与えた新しいおきてとはどういうものですか。そのおきてに従うのが大切なのはどうしてですか。
10 イエスは亡くなる前の晩,親しい弟子たちにこう言いました。「私はあなたたちに新しいおきてを与えます。それは,互いに愛し合うことです。私があなたたちを愛した通りに,あなたたちも互いを愛しなさい。あなたたちの間に愛があれば,全ての人は,あなたたちが私の弟子であることを知ります」。(ヨハネ 13:34,35)「互いを愛しなさい」というのが「新しいおきて」だと言えるのはどうしてでしょうか。モーセの律法にも,「仲間[または,隣人]を自分自身のように愛さなければならない」というおきてがありました。(レビ記 19:18)でもイエスによると,私たちは人のために自分の命を与えるほどの,もっと大きな愛を示さなければなりません。そのことは,次のイエスの言葉から分かります。「私があなたたちを愛した通りにあなたたちが互いを愛すること,これが私のおきてです。友のために自分の命をなげうつこと,これより大きな愛はありません」。(ヨハネ 15:12,13)ですから,新しいおきてとは,「人を自分自身のようにではなく,自分よりも愛しなさい」ということです。イエスは人のために生きて死ぬことによって,確かにそのような愛を示しました。
11 新しいおきてに従うことが大切なのはどうしてでしょうか。イエスの言葉に注目してください。「あなたたちの間に[自己犠牲的な]愛があれば,全ての人は,あなたたちが私の弟子であることを知ります」。自己犠牲的な愛は本物のクリスチャンの特徴だということです。この愛は,エホバの証人が大会で着けるバッジに似ています。そのバッジを見れば,その人の名前と会衆がすぐに分かります。同じように,私たちが自己犠牲的な愛を身に付け,示し合うなら,それを見る人たちは私たちが本物のクリスチャンだということが分かります。その愛は大会バッジのように誰の目にも明らかであるべきなのです。それで,こう考えてみましょう。「私の自己犠牲的な愛という“バッジ”は周りの人にはっきり見えているだろうか」。
自己犠牲的な愛を示すとはどういうことか
12-13. (ア)私たちは互いへの愛を表すためにどれほどのことをすべきですか。(イ)自己犠牲とはどういうことですか。
12 私たちはイエスの弟子として,イエスが愛してくれた通りに互いを愛する必要があります。それはつまり,兄弟姉妹のために進んで犠牲を払うということです。どれほどの犠牲を払うべきかについて,聖書にはこう書かれています。「私たちが愛を知ったのは,イエスが私たちのために命をなげうってくださったからです。それで,私たちも兄弟のために命をなげうたなければなりません」。(ヨハネ第一 3:16)イエスのように,必要なら兄弟姉妹のために死ぬ覚悟でいなければならないのです。例えば迫害に遭うとき,たとえ自分が殺されることになっても,兄弟姉妹を裏切って危険にさらすようなことはしません。人種間や民族間の争いが起きている地域では,兄弟姉妹を命懸けで分け隔てなく守ります。戦争が起きたときには,投獄されたり処刑されたりするとしても,決して武器を取りません。兄弟姉妹とも,ほかの誰とも戦いたくないからです。(ヨハネ 17:14,16。ヨハネ第一 3:10-12)
13 仲間のために自分の命を犠牲にする以外にも,自己犠牲的な愛を示す方法はいろいろあります。そもそも,命を犠牲にしなければならないほどの状況はそう多くありません。でも,命を差し出せるほど兄弟姉妹を愛していれば,日頃から進んで犠牲を払って兄弟姉妹を助けるでしょう。自己犠牲とは,自分にとって都合が悪くても人のためになることをするということです。周りの人のことをいつも優先し,何を必要としているかによく心を配ります。(コリント第一 10:24)そのような愛を実際にどんな場面で表せるでしょうか。
会衆や家庭で
14. (ア)長老たちはどのように忙しく働いていますか。(イ)あなたの会衆で一生懸命に働いている長老たちについてどう思いますか。
14 会衆の長老たちは,「羊の群れを世話」するために忙しく働いています。(ペテロ第一 5:2,3)自分の家族を支えるだけでなく,集会の話などを準備したり,牧羊訪問をしたり,審理問題を扱ったりと,会衆のために晩や週末も時間を割いています。もっと多くのことをしている長老たちもたくさんいます。大会の運営のために働いたり,医療機関連絡委員会や患者訪問グループで奉仕したり,LDCボランティアとして奉仕したりしています。このように,長老たちは自己犠牲的な愛を抱き,自分の時間や体力や資産を進んで使っています。(コリント第二 12:15)仲間のために尽くす長老の皆さんのことを,エホバは深く愛しています。会衆の兄弟姉妹も感謝しているに違いありません。(フィリピ 2:29。ヘブライ 6:10)
15. (ア)長老の妻たちはどんな犠牲を払っていますか。(イ)会衆のために働く夫をよく支えている姉妹たちのことをどう思いますか。
15 長老の妻たちのことも考えてみてください。夫が会衆を世話できるように,たくさんの犠牲を払って支えています。夫が家族と過ごす時間を削って会衆のために働かなければならないとき,寂しく思いながらも喜んで協力しています。巡回監督の妻が払っている犠牲についても考えてみましょう。夫と共に,会衆から会衆へ,巡回区から巡回区へと移動するのは楽なことではありません。自分たちの家を持たず,毎週違う布団で寝ることさえあります。こうした長老の妻たちは,自己犠牲的な愛を示して自分のことよりも会衆のことを優先していて,本当に素晴らしい手本です。(フィリピ 2:3,4)
16. 親は子供のためにどんな犠牲を払いますか。
16 家庭ではどのように自己犠牲的な愛を表せるでしょうか。親であれば,子供を養い,「エホバが望む指導と助言によって育て」るために,ベストを尽くしていることでしょう。(エフェソス 6:4)子供の衣食住を賄うために,くたくたになりながら働かなければならない場合もあります。子供に必要なものを買ってあげるためなら自分が我慢しようとさえ思っているかもしれません。子供に聖書を教え,一緒に集会や伝道に参加するためにも,多くのエネルギーをつぎ込んでいます。(申命記 6:6,7)そのようにして自己犠牲的な愛を表す親は,家族という枠組みをつくったエホバに喜ばれます。そして,子供たちと一緒にいつまでも幸せに暮らせることでしょう。(格言 22:6。エフェソス 3:14,15)
17. 夫はイエスの自己犠牲的な愛にどのように倣えますか。
17 夫はどのようにイエスの自己犠牲的な愛に倣えるでしょうか。聖書にこう書かれています。「夫は,キリストが会衆を愛したのと同じように,妻を愛し続けてください。キリストは会衆のために自分を差し出しました」。(エフェソス 5:25)この章で考えてきた通り,イエスは弟子たちを深く愛していたので,自分の命さえ差し出しました。いつも弟子たちのことを優先し,「自分を喜ばせることはしませんでした」。(ローマ 15:3)そのイエスに見習う夫は,妻の願いや必要としていることを自分のことよりも優先します。妻と意見が分かれるときには,自分の考えを押し通そうとはせず,聖書の教えに反しない限り妻の意見を聞き入れます。そのようにして自己犠牲的な愛を示せば,エホバに喜ばれます。妻や子供もそんな父親のことをますます愛し,尊敬することでしょう。
イエスに従って生きる
18. どんなことを考えると,新しいおきてに従いたいという気持ちになりますか。
18 新しいおきてに従って互いを愛するのは楽なことではありませんが,パウロのように考えると,努力したいという気持ちになります。パウロはこう書きました。「キリストの愛が私たちを駆り立てるのです。私たちは次のように考えているからです。1人の人が全ての人のために死にました。……その方が全ての人のために死んだのですから,生きている人たちはもはや自分のために生きるのではなく,自分のために死んで生き返らされた方のために生きるべきです」。(コリント第二 5:14,15)イエスが私たちのために死んでくださったことを考えると,イエスのために生きたいという気持ちになるのではないでしょうか。イエスの思いに応えるには,イエスの自己犠牲的な愛に倣うことが大切です。
19-20. エホバは私たちにどんな素晴らしい贈り物をくれましたか。その贈り物を受け取るにはどうしたらいいですか。
19 イエスは,「友のために自分の命をなげうつこと,これより大きな愛はありません」と言いました。まさにその通りです。(ヨハネ 15:13)私たちのために自分の命をなげうってくれたことに,私たちへのイエスの愛が一番よく表れています。でも,イエスより大きな愛を示してくれた方がいます。イエスはこう言っています。「神は,自分の独り子を与えるほどに人類を愛したのです。そのようにして,独り子に信仰を抱く人が皆,滅ぼされないで永遠の命を受けられるようにしました」。(ヨハネ 3:16)神は私たちを深く愛しているからこそ,自分の子を贖いとして与えてくださいました。そのおかげで私たちは,罪と死から救われます。(エフェソス 1:7)それでもエホバは,その素晴らしい贈り物を受け取るよう私たちに強制してはいません。
20 エホバからの贈り物を受け取るかどうかは私たち次第です。受け取りたいなら,イエスに「信仰を抱く」必要があります。イエスを信じていると言うだけでは不十分です。信じていることが毎日の行動や生き方全体に表れていなければなりません。(ヤコブ 2:26)イエス・キリストの後にしっかり従って生きていくなら,今も,そして将来も,幸せな生活を送ることができます。この本の結びとなる次の章で,そのことについて考えます。
a その日,イエスは2回も唾を掛けられます。最初は宗教指導者たちから,その後ローマの兵士たちからです。(マタイ 26:59-68; 27:27-30)そのようにあざけられてもじっと耐えたので,「侮辱や唾から顔を覆い隠さなかった」という預言が実現しました。(イザヤ 50:6)
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「引き続き私の後に従いなさい」「来て,私の弟子になりなさい」
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第18章
「引き続き私の後に従いなさい」
1-3. (ア)イエスは使徒たちとどのように別れましたか。使徒たちが寂しく感じる必要がなかったのはどうしてですか。(イ)天に戻ってからのイエスについて知る必要があるのはどうしてですか。
11人の使徒たちがオリーブ山に集まっています。尊敬と愛情のこもったまなざしで使徒たちが見つめているのは,復活したイエスです。姿は人間ですが,実際には再び力強い天使になっています。イエスと使徒たちがその山で顔を合わせるのはこれが最後です。
2 オリーブ山は石灰岩でできた丘陵地にあり,キデロンの谷を挟んだ向かい側にエルサレムがあります。イエスにとって思い出深い場所です。この山の中腹にあるベタニヤでは,ラザロを生き返らせました。数週間前には,その近くのベテパゲから,ロバに乗ってエルサレムに向かいました。ゲッセマネの庭園もオリーブ山にあったと思われます。イエスはそこで,捕らえられる前の数時間を苦悩しながら過ごしました。今その同じ山が,親しい友である弟子たちとの別れの場所になろうとしています。イエスは弟子たちを温かく励ましてから,空へ上っていきます。弟子たちはその場に立ち尽くしたまま,愛するイエスが雲に隠れて見えなくなるまでじっと見守ります。(使徒 1:6-12)
3 寂しい別れのシーンに思えるかもしれませんが,実はそうではありません。その時2人の天使が使徒たちに言った通り,イエスの歩みはそれで終わったわけではありませんでした。(使徒 1:10,11)天に戻ってさらに活躍することになっていたからです。聖書を調べると,イエスがその後どんなことをしてきたかが分かります。そのことについて学ぶのは大切です。イエスがペテロに与えた,「引き続き私の後に従いなさい」という命令に,私たち皆も従わなければならないからです。(ヨハネ 21:19,22)たまに従うというのではなく,生涯ずっとイエスに従う生き方をするべきなのです。そのためには,イエスが天でどんな役割を担い,今どんなことをしているかを知る必要があります。
天に戻ってからのイエス
4. イエスが天に戻ってからどんなことをするかについて,聖書の中でどのように予告されていましたか。
4 イエスが天に戻ってエホバや天使たちとの喜ばしい再会を果たした時のことについて,聖書には何も書かれていません。でも,イエスが天に戻ってすぐにどんなことをするかは予告されていました。聖書から分かるように,ユダヤ人は1500年以上の間,贖罪の日の儀式を行っていました。年に一度のその日,大祭司は神殿の至聖所に入り,犠牲の血を契約の箱の前ではね飛ばしました。その儀式の中で,大祭司はメシアを表していました。イエスは天に戻ってから,その儀式によって表されていたことを一度限り行いました。天でエホバの前に出ることによって最も聖なる場所に入り,自分の贖いの犠牲の価値を父に差し出したのです。(ヘブライ 9:11,12,24)エホバはそれを受け入れたでしょうか。
5-6. (ア)エホバがキリストの贖いの犠牲を受け入れたことがどんなことから分かりますか。(イ)贖いから誰がどんな恩恵を受けますか。
5 その答えは,イエスが天に戻って間もなく起きたことから分かります。120人ほどのクリスチャンがエルサレムのある家の階上の部屋に集まっていた時,突然,激しい風が吹き付けるような音が家全体に響き渡りました。炎のような舌が弟子たちの頭の上に現れ,弟子たちは聖なる力に満たされてさまざまな言語で話し始めました。(使徒 2:1-4)このことによって,新しい国民が生まれたことが明らかになりました。その国民とは,神に新たに「選ばれた種族,王である祭司」になる「神のイスラエル」で,地上を神が考えている通りの状態にするために働きます。(ペテロ第一 2:9。ガラテア 6:16)この出来事は,エホバ神がキリストの贖いの犠牲を喜んで受け入れたことの証拠でした。その時聖なる力が注がれたことのほかにも,贖いによって可能になったことがあります。
6 その時以来,世界中のキリストの弟子たちが,贖いの恩恵を受けています。「小さな群れ」は天でキリストと一緒に治め,「ほかの羊」はイエスが治める地上で生きることになります。(ルカ 12:32。ヨハネ 10:16)贖いのおかげで,私たちは罪を許され,そうした希望を持つことができます。贖いに「信仰を抱」き,イエスに日々従うことによって,晴れやかな気持ちでいられ,明るい将来を楽しみにできるのです。(ヨハネ 3:16)
7. イエスは天に戻った後,権威を与えられてどんなことをしてきましたか。どうすればイエスの指導にしっかり従っていることになりますか。
7 イエスは天に戻った後,ほかにもどんなことをしてきたでしょうか。イエスには大きな権威が与えられています。(マタイ 28:18)クリスチャン会衆を治めるようエホバから任命され,公正で愛情深いリーダーとして会衆を導いています。(コロサイ 1:13)イエスは予告されていた通り,自分の弟子たちを見守り世話することを,信頼できる人たちに任せています。(エフェソス 4:8)例えば,パウロを「異国の人々への使徒」として選び,良い知らせを広める任務を与えました。(ローマ 11:13。テモテ第一 2:7)1世紀の終わりごろには,ローマの属州アジアにあった7つの会衆に,褒め言葉を掛け,助言を与え,正すべき問題点を伝えました。(啓示 2-3章)あなたはイエスがクリスチャン会衆の頭だということをいつも意識していますか。(エフェソス 5:23)自分の会衆で長老たちに従い,協力するなら,頭であるイエスにしっかり従っていることになります。
8-9. 1914年に,イエスはどんな権威を与えられましたか。そのことを考えると,どんな決定をしたいと思いますか。
8 1914年,イエスはエホバによってメシア王国の王に任命されました。イエスが統治を始めて間もなく,「天で戦争が起こ」りました。その結果,サタンと邪悪な天使たちは地に投げ落とされ,それ以来地球ではたくさんの悲惨なことが起きています。大きな戦争,犯罪,テロ,病気,地震,食糧不足などによって多くの人が苦しんでいることからして,今が終わりの時代で,イエスが天で治めていることは明らかです。サタンは今でも「この世の支配者」として,残された「短い」時の間権威を振るっていますが,イエスは世界中の人々に,その支配から抜け出して自分の王国の国民になる機会を与えています。(啓示 12:7-12。ヨハネ 12:31。マタイ 24:3-7。ルカ 21:11)
9 今,メシアである王イエスにしっかり従うことは重要です。日々いろいろな決定をする時にはいつも,この堕落した世の中で受け入れられるかではなく,イエスに喜んでもらえるかを考えなければなりません。「王の中の王また主の中の主」であるイエスは正しいことを愛しているので,人間を見て怒りを感じることもあれば喜びを感じることもあります。(啓示 19:16)どういうことでしょうか。
メシアである王が怒ることと喜ぶこと
10. イエスはどんな方ですか。正当な怒りを感じているのはどうしてですか。
10 私たちの主人であるイエスは,エホバと同じように幸福な方です。(テモテ第一 1:11)地上にいた時も,批判的で気難しい人ではありませんでした。とはいえ,今の世の中で起きているたくさんの悪い事柄を見て,正当な怒りを感じています。例えば,多くの宗教組織が,イエスの教えを守っていると主張しながら間違ったことをしています。そのことをイエス自身が次のように予告していました。「私に向かって『主よ,主よ』と言う人全員が天の王国に入るのではなく,天にいる私の父の望むことを行う人だけが入ります。その日には,多くの人が私に向かって『主よ,主よ,私たちは……あなたの名によって多くの強力な行いをしなかったでしょうか』と言います。その時,私ははっきり言います。『あなたたちのことは全く知りません。不法なことをする人たち,離れ去りなさい!』」(マタイ 7:21-23)
11-13. ある人たちはイエスの厳しい言葉に戸惑うかもしれません。どうしてですか。イエスが怒りを感じている理由をどんな例えで説明できますか。
11 自分はクリスチャンだと言う多くの人は,イエスの言葉に戸惑うかもしれません。イエスの名によって「多くの強力な行い」をしてきた人たちに対して,イエスがこのような厳しいことを言うのはどうしてでしょうか。キリスト教を奉じていると主張するいろいろな宗教団体が,慈善事業を推進したり,貧しい人たちを助けたり,病院や学校を建てたりしてきました。それなのになぜイエスの怒りを買っているのか,例えで考えてみましょう。
12 ある夫婦がしばらく出掛けなければならなくなり,子供たちを連れていけないので,ベビーシッターを雇ったとします。そのベビーシッターに,「子供たちの面倒を見てやってください。食事をさせ,衛生面や安全面に気を配ってください」と指示します。ところが,帰ってきた両親はがくぜんとします。子供たちはおなかをすかせていて,体や服が汚れています。元気がなく,かわいそうな状態です。泣き叫んでいるのに,放っておかれています。ベビーシッターは何をしているのでしょうか。なんと,はしごに上って窓を掃除しています。怒った両親が問いただすと,ベビーシッターはこう言います。「私,いろいろしましたよ。窓はぴかぴかでしょう? 皆さんのために,家のあちこちも修理しておきました」。両親の怒りは収まるでしょうか。そんなはずはありません。そんな仕事は頼んでいないからです。子供たちの世話をしてもらいたかったのに指示を無視されたら,怒るのは当然です。
13 多くのキリスト教会はこのベビーシッターのようです。イエスは弟子たちに,聖書の真理を人々に教えることによって神からの食物を与え,清い状態でいられるように助けなさいと指示していました。(ヨハネ 21:15-17)ところが,多くのキリスト教会はその指示に従っていません。そうした教会が間違ったことを教えてきたため,人々は聖書の基本的な真理さえ知らず,混乱し心が飢えています。(イザヤ 65:13。アモス 8:11)教会がいくら世界を良くしようとしてきたとしても,イエスの指示を無視してきたことの言い訳にはなりません。そもそも,サタンがつくり上げた世界は取り壊しが決まっている家のようなもので,聖書に書かれている通りもう間もなく滅ぼされます。(ヨハネ第一 2:15-17)
14. イエスは現在行われているどんな活動を見て喜んでいますか。どうしてですか。
14 天から地上を見ているイエスは,大きな喜びも感じているに違いありません。天に戻る前に弟子たちに与えた,人々を弟子とするという任務を,何百万もの人たちが果たしているからです。(マタイ 28:19,20)私たちの行動を見てメシアである王が喜んでいることを考えると,本当にうれしくなります。これからも「忠実で思慮深い奴隷」と一緒に働き続けることを決意しましょう。(マタイ 24:45)天に行くよう選ばれた兄弟たちから成るその少人数のグループは,多くのキリスト教会の聖職者たちとは違い,イエスに従って伝道活動を指揮し,キリストの羊を養ってきました。
15-16. (ア)地上の多くの人が愛を示していないことで,イエスはどう感じていますか。どうしてそう言えますか。(イ)多くのキリスト教会の指導者たちがイエスの怒りを買っているのはどうしてですか。
15 王であるイエスが怒りを感じている別の理由は,地上の多くの人が愛を示していないからです。イエスが地上にいた時のことを思い起こしてみましょう。イエスが安息日に人々を癒やした時,パリサイ派の人たちはイエスを批判しました。彼らは心が狭く,独自の解釈でモーセの律法や口伝律法を守ることにこだわっていたので,それ以外のものを認めようとしませんでした。イエスの奇跡によって非常に大勢の人が助けられましたが,人々が心から喜んだり信仰を強められたりしたことはパリサイ派の人たちにとってどうでもよいことでした。イエスは彼らのことをどう思ったでしょうか。「憤りを覚えながら見回し」,彼らの「心が無感覚なのを深く悲し」みました。(マルコ 3:5)
16 現在,イエスはさらにひどい状況を見て「深く悲しんで」います。多くのキリスト教会の指導者たちは,聖書に書かれていない教義や伝統に固執しています。また,神の王国の良い知らせが広められていることに腹を立てています。そうした聖職者たちは世界各地で,イエスが伝えたメッセージを誠実に伝えようとするクリスチャンに対する迫害を扇動してきました。(ヨハネ 16:2。啓示 18:4,24)さらに,戦争に行って人を殺すよう教会員たちに呼び掛けることさえしています。戦うことがイエス・キリストに喜ばれるかのように思わせているのです。
17. イエスは本物の弟子たちのどんな様子を見て喜んでいますか。
17 対照的に,イエスの本物の弟子たちは人に愛を示すよう努力しています。反対に遭っても,イエスに見習って「あらゆる人」に良い知らせを伝えます。(テモテ第一 2:4)互いを深く愛していて,そのことが一番の特徴となっています。(ヨハネ 13:34,35)仲間を愛し,敬い,尊重しているので,まさしくイエスの後に従っていると言えます。メシアである王はそれを見て心から喜んでいるに違いありません。
18. 私たちがどうなってしまうと,主人であるイエスは深く悲しみますか。どうすればイエスに喜ばれますか。
18 忘れないでおきたいこととして,主人であるイエスは,弟子たちが忍耐せず,エホバへの愛を弱めて仕えるのをやめてしまうと,深く悲しみます。(啓示 2:4,5)弟子たちが終わりまで耐え忍ぶなら,イエスは喜びます。(マタイ 24:13)ですから,「引き続き私の後に従いなさい」というキリストの命令をいつも心に留めましょう。(ヨハネ 21:19)では,終わりまで耐え忍ぶ人が,メシアである王の導きによって今も将来もどんな素晴らしい人生を送れるか考えてみましょう。
王に仕え続ける人たちは最高の人生を送れる
19-20. (ア)イエスの後に従うなら,今どんな素晴らしいものを手に入れられますか。(イ)キリストを「永遠の父」として受け入れる人にはどんな良いことがありますか。
19 イエスの後に従うなら,今も最高の人生を送れます。キリストを自分の主人とし,キリストの指示に従って手本に倣うなら,世界中の人たちがなかなか得られずにいる素晴らしいものを手に入れることができます。有意義な仕事,本当の愛の絆で結ばれた家族のような仲間,晴れ晴れとした良心,穏やかな心などです。結果として,充実した幸せな生活を送れます。それだけではありません。
20 エホバは,子孫全員を悲惨な目に遭わせたアダムの代わりに,イエスが「永遠の父」となるようにしました。(イザヤ 9:6,7)そのことを受け入れ,イエスに信仰を抱くなら,私たちは地上で永遠に生きるという確かな希望を持てます。また,エホバ神との絆をますます強めることができます。すでに学んだように,毎日イエスの手本に倣うよう努力することは,神からの次の命令に従う一番の方法です。「皆さんは子供として神に愛されているのですから,神に倣ってください」。(エフェソス 5:1)
21. 暗い世の中でキリストの弟子はどんな光を輝かせますか。
21 イエスと父エホバに見習う私たちには,素晴らしい機会があります。闇に包まれた世界で,何十億という人たちがサタンに惑わされていますが,キリストの弟子である私たちは神からの明るい光を輝かせることができます。聖書の真理という光,クリスチャンとしての立派な生き方に表れる光,本当の喜びや平和や愛という光です。キリストに従ってそうした光を輝かせるにつれ,エホバとの友情がますます深まっていきます。エホバに造られた者として,それ以上に価値のあることはありません。
22-23. (ア)イエスの後にずっと付いていく人にはどんな素晴らしい将来が待っていますか。(イ)あなたはどんなことを決意していますか。
22 エホバが将来あなたのためにどんなことを行いたいと思っているかについて,さらに考えてみましょう。エホバは,メシアである王がサタンの邪悪な体制を終わらせるために戦うようにします。イエスの勝利は確実です。(啓示 19:11-15)その後,キリストの千年統治が始まり,イエスは天から地を治めます。その統治により,神に従う全ての人が贖いの恩恵を受け,完全な人間になります。想像してみてください。あなたは健康で若々しく元気いっぱいになり,世界中の人たちと1つの家族になって,地球をパラダイスに変えるために楽しく働くことになります。1000年の終わりに,イエスは統治権を父エホバに返します。(コリント第一 15:24)あなたが離れることなくキリストに従い続けるなら,想像もつかないほど素晴らしい将来が待っています。「神の子供の輝かしい自由」を得られるのです。(ローマ 8:21)アダムとエバが失った良いもの全てを取り戻すことになります。地上でエホバの息子や娘となった後は,アダムが犯した罪の影響に悩まされることは二度とありません。「もはや死はなくなり」ます。(啓示 21:4)
23 第1章で取り上げた裕福な若い支配者のことを思い出してください。イエスから「来て,私の弟子になりなさい」と言われましたが,応じませんでした。(マルコ 10:17-22)私たちはその人のようになりたくはありません。ぜひとも喜んでイエスに従いましょう。忍耐しつつ,立派な羊飼いの後にずっと付いていくことを決意してください。そうすれば,イエスがエホバの約束全てを完全に実現させるのを見ることができるでしょう。
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「来れば」,キリストのことがよく「分かる」「来て,私の弟子になりなさい」
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セクション1
「来れば」,キリストのことがよく「分かる」
イエスが人間として生きていたのはおよそ2000年前のことですが,現代の私たちもイエスを知ることができます。聖書を読んでいわばイエスのそばに「来れば」,神の子のことがよく「分かる」のです。(ヨハネ 1:46)福音書には,イエスがどんな方だったかが生き生きと描かれています。このセクションでは,イエスの魅力的なところを幾つか取り上げます。
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「教え,……良い知らせを伝え」た「来て,私の弟子になりなさい」
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セクション2
「教え,……良い知らせを伝え」た
イエスは大工として働き,奇跡を行い,病気を治しました。ほかにもいろいろなことをしましたが,周りの人から先生と呼ばれました。「教え,……良い知らせを伝え」ることがライフワークだったからです。(マタイ 4:23)イエスの弟子である私たちも,同じ伝道活動をしています。このセクションでは,伝道の面でのイエスの手本を学び,どのように倣えるかを考えます。
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「キリストの愛が私たちを駆り立てる」「来て,私の弟子になりなさい」
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セクション3
「キリストの愛が私たちを駆り立てる」
私たちがイエスの後に従いたいという気持ちになるのはどうしてでしょうか。使徒パウロはこう答えています。「キリストの愛が私たちを駆り立てるのです」。(コリント第二5:14)このセクションでは,イエスの愛について学びます。イエスはエホバを愛し,人間を愛し,私たち一人一人を愛しています。そのことを考えると感動し,いっそうイエスの手本に倣うよう駆り立てられます。
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