ものみの塔 オンライン・ライブラリー
ものみの塔
オンライン・ライブラリー
日本語
  • 聖書
  • 出版物
  • 集会
  • 塔99 4/15 23–27ページ
  • コレギア派 ― 聖書研究が彼らを異ならせた

視聴できるビデオはありません。

申し訳ありません,ビデオをロード中にエラーが発生しました。

  • コレギア派 ― 聖書研究が彼らを異ならせた
  • エホバの王国を告げ知らせるものみの塔 1999
  • 副見出し
  • 関連する記事
  • 予定説をめぐる論争
  • コレギア派の発祥と発展
  • コレギア派の信条
  • 毎週の集会
  • 全国大会
  • なぜ消えたか
  • 宗教改革 ― 新たな転換期を迎えた探求の歩み
    神を探求する人類の歩み
  • ソッツィーニ派 ― 三位一体を退けたのはなぜか
    目ざめよ! 1988
  • 第17部 ― 1530年以降 ― プロテスタント教会 ― 改革を成し遂げたか
    目ざめよ! 1989
  • 神はすでにわたしたちの運命を定めておられますか
    エホバの王国を告げ知らせるものみの塔 1995
もっと見る
エホバの王国を告げ知らせるものみの塔 1999
塔99 4/15 23–27ページ

コレギア派 ― 聖書研究が彼らを異ならせた

コレギア派について聞いたことがありますか。

17世紀オランダのこの小さな宗教グループは,当時の既成諸教会とは異なっていました。どのようにでしょうか。それらの人々から何を学べますか。それを知るため,その時代に戻ってみましょう。

ヤコブス・アルミニウス(つまり,ヤコプ・ハルメンセン)がアムステルダム市に到着したのは,1587年のことでした。そのりっぱな履歴書のため,働き口を見つけるのには何の問題もありませんでした。21歳でオランダのライデン大学を卒業し,その後スイスで6年間,プロテスタントの宗教改革者ジャン・カルバンの後継者であったテオドール・ド・ベーズの下で神学を学んでいました。アムステルダムのプロテスタント信者たちが,27歳のアルミニウスを自分たちの説教者の一人として喜んで任命したのもうなずけます。ところがその幾年か後,自分たちのその選択を悔いるようになった教会員が少なくありませんでした。なぜでしょうか。

予定説をめぐる論争

アルミニウスが説教壇に立つようになってまもなく,予定説の教理に関し,アムステルダムのプロテスタント信者の間に緊張が生じました。これはカルバン主義の中核を成す教義でしたが,教会員の中には,ある者に救いを,他の者に滅びを予定として運命づける神は過酷で不公正だと感じる人たちもいました。カルバン派は,ベーズの弟子であるアルミニウスが,異議を唱えるこれらの人たちを正してくれるものと期待していました。ところが,アルミニウスはむしろ異議を唱える人たちの側に組し,カルバン派の人々を驚愕させました。1593年までに,その論争は非常に激化し,同市のプロテスタント信者を二分しました。その教理を擁護する人たちと,それを退ける穏健派の人たちです。

数年もしないうちに,この地域的な論争が,全国規模のプロテスタントの分裂へと発展しました。ついに1618年11月,決着の舞台が整えられました。軍隊と一般世論の支援を受けたカルバン派は,異論派(当時,レモンストラント派aと呼ばれた)を全国総会つまりプロテスタントのドルトレヒト会議に召集したのです。その会議の終わりに,レモンストラント派の僧職者全員は,もう二度と説教をしないという誓約書に署名するか,国外に去るかの選択を迫られました。大半が国外に追放されることを選びました。厳格なカルバン派の人々が,レモンストラント派の牧師が去った後の説教壇を占めるようになりました。カルバン主義が勝利を得たのです。というより,会議はそのように考えました。

コレギア派の発祥と発展

他の場所と同じように,ライデン近郊のワルモント村にあったレモンストラント派の会衆も牧師を失いました。しかし他とは違い,そこの会衆は教会会議の承認を受けた後任者を受け入れませんでした。そのうえ,1620年,レモンストラント派の牧師がその会衆を世話するため命の危険をおかしてワルモントへ戻ろうとした時,会衆の成員の中には,その牧師をも拒否する人たちがいました。それらの人たちは,どんな僧職者の助けも得ずに自分たちで宗教的集会を秘密裏に開くようになっていました。後に,こうした集会はコレッジ(集合),その出席者たちはコレギア派と呼ばれるようになりました。

コレギア派は,主義主張によるというよりむしろその時の特別な状況から生じたと言えますが,その事情はじきに変化しました。会衆の成員ギスベルト・ファン・デル・コッデは,僧職者の監督を受けずに集まることによって,自分たちのグループは既成の諸教会よりもずっと聖書および初期クリスチャンのやり方に倣えるようになっている,と論じました。僧職者階級は,手に職をつけて働くのを嫌がった人たちに仕事を作り出すため,使徒たちの死後に考え出されたものである,とも言いました。

1621年,ファン・デル・コッデは同じ考えを抱く仲間たちと,隣の村レインスビュルフに集会の場を移しました。b 数年後,宗教上の迫害よりも寛容さがおもな流れになると,コレギア派の集会についての評判が国中に広まりました。歴史家ジークフリート・ツィルベルベルクが述べるように,「さまざまに羽色の異なる人たち」がそこに集いました。レモンストラント派,メノー派,ソッツィーニ派の人たち,それに神学者もいました。農夫もいれば詩人,画家,医師,各種の職人などもいました。哲学者のスピノザ(ベネディクトゥス・デ・スピノザ)や教育学者ヨハン・アーモス・コメニウス(つまり,ヤン・コメンスキー),それから有名な画家レンブラント・ファン・レインなどもその運動に共鳴していました。これら信心深い人たちがそれぞれに異なった考えを持ち込み,コレギア派の信条の発展に影響を与えました。

この活動的なグループは1640年以後,急速に成長しました。ロッテルダム,アムステルダム,レーワルデン,その他の都市にコレッジが次々と設立されてゆきました。歴史学の教授アンドリュー・C・フィクスは,1650年から1700年にかけて「コレギア派は……17世紀のオランダにおいてひときわ顕著で,影響力のある宗教勢力へと成長した」と述べています。

コレギア派の信条

理性,寛容,言論の自由がコレギア派運動の特徴であったため,コレギア派の人たちは各自が異なる信条を自由に持つことができました。とはいえ,幾つかの共通の信念で結ばれていました。例えば,コレギア派の人たちはすべて,各人が自分で聖書を研究することの重要性を認識していました。成員各自は「自分で調べる[べきで],他の人を通して神を知るようになってはならない」と,コレギア派の一人は書いています。彼らはそのとおりにしました。19世紀の教会史家ヤコブス・C・ファン・スリーによれば,当時,他の宗教グループよりもコレギア派の人たちのほうが聖書の知識を多く持っていました。対抗した人たちでさえ,聖書を巧みに用いるコレギア派の人たちの能力を称賛しました。

しかしコレギア派の人々は,聖書を研究するにつれ,主流派教会とは異なる信念を発展させてゆきました。17世紀から20世紀の史料には,この人々の信条の幾つかが次のように述べられています。

初期教会。コレギア派で神学者のアダム・ボレールは1644年に,初期教会はコンスタンティヌス帝の時代に政治に介入するようになった時,キリストとの契約を破って聖霊の霊感を失った,と書いている。ボレールはまた,結果として真実にもとる教えが増え,依然続いている,とも述べていた。

宗教改革。ルター,カルバンなどに率いられた16世紀の宗教改革は,教会を改革するには十分ではなかった。むしろ,コレギア派の指導的な人物で医師のガレウス・アブラハムスゾーン(1622-1706年)の言葉を借りれば,宗教改革は口論や憎しみを引き起こして,宗教の情勢を悪化させた。真の改革は心を変化させるはずだが,宗教改革はそれを行なえなかった。

教会と僧職者。既成の諸教会は腐敗していて,世俗的で,神の権威に欠ける。宗教について真剣に考える人ならば,教会の罪の共犯者にならないため,自分の属している教会を脱退する以上に良いことはない。牧師の職は聖書に反しており,「クリスチャン会衆の霊的福祉にとって有害である」と,コレギア派の人たちは語った。

王国と楽園<パラダイス>。キリストの王国は,人の心に宿る霊的な王国ではない,とアムステルダム・コレッジの創設者の一人ダニエル・デ・ブリーン(1594-1664年)は記している。教師でロッテルダムに住んでいたコレギア派のヤコプ・オステンスは,「族長たちは地的な約束を期待していた」と述べた。同じようにコレギア派の人々は,地上が楽園<パラダイス>に変わる時を待ち望んでいた。

三位一体。ソッツィーニ派の信条の影響を受けたコレギア派の一部の指導的な人たちは,三位一体を退けた。c 例えば,ダニエル・ツヴィクラー(1621-1678年)は,三位一体など理性に反する教理は,「受け入れがたく,真実にもとる」と書いている。コレギア派のレーニエール・ローレーウの翻訳した聖書が1694年に出版された。その聖書は,ヨハネ 1章1節の後半を,「言葉は神[God]であった」とする伝統的な訳のようにではなく,「言葉は[ひとりの]神[a god]であった」と訳した。d

毎週の集会

コレギア派の人々すべてが信条の点で一致していたわけではありませんが,さまざまな都市に存在したコレッジは非常によく似たかたちで機能していました。歴史家ファン・スリーは,コレギア派運動の初期には,集会の準備はほとんどなされていなかった,と伝えています。コレギア派の人たちは,「預言」すべきことに関する使徒パウロの言葉に基づいて,男性のすべての成員が自由に発言できると考えていました。(コリント第一 14:1,3,26)結果として,集会は夜遅くまで続き,出席者の中には「ぐっすり眠り込む」人たちもいました。

その後,集会はもっと組織的に行なわれるようになりました。コレギア派は日曜日だけでなく,週日の晩にも集まりました。話し手や会衆がその年のすべての集会に準備ができるよう,印刷されたプログラムには,考慮される聖句と共に,話し手のイニシャルも載せられていました。集会は歌と祈りで始まり,その後に話し手が聖句の説明を行ないました。それが終わると,その話し手は男性たちに,いま論じられたテーマについて意見を述べるよう求めました。次に,二番目の話し手が同じ聖句の適用を示し,祈りと歌で集会が閉じられました。

フリースラント州ハルリンゲンの町のコレギア派には,集会を時間通りに進める独特の方法がありました。時間を超過した話し手は少額の罰金を払うことになっていたのです。

全国大会

コレギア派は,もっと大規模な集まりの必要も感じました。こうして,1640年以来,国中のコレギア派の人々は年に2回(春と夏),レインスビュルフに行きました。こうした集まりは,「方々からやってくる兄弟たちと,考え,感情,信条,活動面で互いに知り合う」ことを可能にした,と歴史家フィクスは記しています。

その村にやって来るコレギア派の人たちの中には,村人から部屋を賃借りした人もいましたが,同派が所有する30室もある邸宅フローテ・ホイス,つまり“大きな家”に滞在した人もいました。そこでは60人ないし70人が一緒に食事をしました。食後,訪問者たちは邸宅のかなり広い庭を散策して『神の業を楽しんだり,静かに語り合ったり,しばし黙想したりする』ことができました。

コレギア派の人がみなバプテスマの必要性を感じていたわけではありませんが,多くの人がそれを感じていました。ですから,バプテスマは大規模な集まりの特色の一つとなりました。その儀式はたいてい土曜日の午前に行なわれた,と歴史家ファン・スリーは述べています。歌と祈りに続いて,浸礼の必要性に関する話が行なわれました。次いで話し手は,成人のバプテスマ希望者たちに,「我はイエス・キリストが生ける神の子なることを信ず」という信仰の告白を行なうよう促しました。祈りをもって話が終わると,出席者全員はバプテスマプールに歩いて行き,新しい信者がプールの中でひざをかがめて肩まで水につかるのを見守りました。次いでバプテスマを施す人は,新しく信者となる人の頭をゆっくりと前方へ押して水中に沈めました。その儀式の後,全員が席に戻り,別の話に耳を傾けました。

集まりそのものは,土曜日の午後5時に短い聖書の朗読と歌と祈りをもって始められました。話のできる人がいつでもいるように,ロッテルダム,アムステルダム,ライデン,そして北ホラント州のコレッジが大会ごとに交代で話し手を準備しました。日曜日の午前は,主の晩餐式のために取り分けられていました。話と祈りと歌の後に,男性,次いで女性がパンとぶどう酒にあずかりました。さらに日曜日の晩にも話が行なわれ,月曜日の午前にはみなが閉会の話を聞くために集まりました。こうした大会での話はたいてい実際的な内容で,詳細な説明を加えながらそれを適用することが強調された,とファン・スリーは述べています。

レインスビュルフ村はこうした集まりを歓迎しました。18世紀にその様子を見ていたある人は,見知らぬ人たちが大勢やって来てたくさんのお金を落としてゆくことは,村にとって収益になる,と書いています。そのうえ,コレギア派は,毎回の大会の後にレインスビュルフの貧しい人たちのために寄付をしました。そうした集まりが1787年に中止された時,村はおそらく損失感を味わったことでしょう。その後,コレギア派運動は影が薄くなってゆきました。なぜでしょうか。

なぜ消えたか

17世紀の終わりまでには,宗教における理性の役割について論争が持ち上がっていました。コレギア派の人たちの中には,人間の理性的判断が神の啓示に優先すると考えた人もいましたが,それと意見を異にする人たちもいました。やがて,その論争はコレギア派運動全体を二分するようになりました。コレギア派が再び一致できたのは,その論争における両者の主要な擁護者たちが死んでからのことでした。それにもかかわらず,その分裂後,この運動は「決して元通りにはならなかった」と歴史家フィクスは述べています。

18世紀のプロテスタント諸教会内でいっそう寛容さが増したことも,コレギア派が減少する一因となりました。コレギア派の理性や寛容の原則が広く社会に認められるようになると,「かつて孤立していたコレギア主義の光は,啓蒙時代の曙光の中に溶け込んでいった」のです。18世紀末までに,コレギア派の人たちの大半はメノー派その他の宗派に吸収されました。

コレギア派の人たちは自分たちの運動において一致することを目指していなかったため,コレギア派の成員の数と同じほどさまざまな見方が存在していました。そのことに気づいていた彼らは,自分たちが使徒パウロの勧めているとおり,「同じ考え方で……結ばれてい(る)」とは唱えませんでした。(コリント第一 1:10)しかし同時に,コレギア派の人たちは,考えの一致というクリスチャンの基礎的な信条が実現する将来を思い見ていました。

コレギア派の時代には真の知識がまだ満ちあふれていなかったことを考えると,彼らは今日の多くの宗教が注目できる手本を残したと言えます。(ダニエル 12:4と比較してください。)この人々が聖書研究の必要を強調したことは,「すべてのことを確かめなさい」という使徒パウロの諭しと調和しています。(テサロニケ第一 5:21)ヤコブス・アルミニウスやほかの人たちは,聖書の個人研究を通して,長年奉じられてきたある種の宗教上の教義や慣行が聖書に全く基づいていないことを知りました。その点に気づいた時,彼らは既成の宗教と歩みを異にするだけの勇気を備えていました。あなただったらそうされたでしょうか。

[脚注]

a 異論派は,1610年に公式の抗議書(レモンストランティア,反対理由を述べた文書)をオランダの支配者たちに送っていました。その行動にちなんでそれらの人々はレモンストラント派と呼ばれるようになりました。

b この場所がもとで,コレギア派はレインスビュルフ派とも呼ばれました。

c 「目ざめよ!」誌,1988年11月22日号,19ページ,「ソッツィーニ派 ― 三位一体を退けたのはなぜか」という記事をご覧ください。

d Het Nieuwe Testament van onze Heer Jezus Christus, uit het Grieksch vertaald door Reijnier Rooleeuw, M.D. (主イエス・キリストの新約聖書,レーニエール・ローレーウ博士によりギリシャ語から翻訳)

[24ページの図版]

レンブラント・ファン・レイン

[26ページの写真]

コレギア派の発祥地であるワルモント村とバプテスマが行なわれたデ・フリート川

[23ページの図版のクレジット]

Background: Courtesy of the American Bible Society Library, New York

    日本語出版物(1954-2026)
    ログアウト
    ログイン
    • 日本語
    • シェアする
    • 設定
    • Copyright © 2025 Watch Tower Bible and Tract Society of Pennsylvania
    • 利用規約
    • プライバシーに関する方針
    • プライバシー設定
    • JW.ORG
    • ログイン
    シェアする