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    2017 エホバの証人の年鑑
    • ジョージアの山岳地域で,1人のエホバの証人が男性に伝道している

      ジョージア

      ジョージア(グルジア)での王国の音信の広がりは,隠されたパン種に関するイエスの例えでよく言い表わされています。(マタ 13:33)パン種と同様,霊的な成長は初めのうち,はっきり見えませんでしたが,王国の音信はやがて広くゆきわたり,多くの人々の生き方に変化をもたらしました。

      ジョージアの神の民が「順調な時期にも難しい時期にも」示した愛,信仰,忠節,進取の気性,勇気についての活気に満ちた励みある物語をお読みください。―テモ二 4:2。

  • ジョージアの概要
    2017 エホバの証人の年鑑
    • ジョージアのアッパー・スバネティの集落

      アッパー・スバネティ

      ジョージア

      ジョージアの概要

      男性がたくさんのぶどうをかごで運んでいる

      ぶどうの収穫を喜ぶ

      国土 ジョージアは雄大な山脈と雪を頂く峰々で知られており,その幾つかは4500㍍を超えています。地理的には大きく東ジョージアと西ジョージアの2つに分けられます。それぞれは独自の風土,食べ物,音楽,ダンス,習慣を持つ幾つもの地域から成っています。

      住民 370万人の人口のほとんどはジョージア人(グルジア人)です。

      宗教 住民の大半は正教会の信者ですが,約10%はイスラム教徒です。

      言語 ジョージア語は近隣のどの言語にも似ていません。歴史の資料は,独特なジョージア文字が紀元前に考案されたことを示しています。

      生活 多くの人々は農業で生計を立てています。最近では観光もジョージア経済の重要な部分となっています。

      気候 国の東部では温暖な気候を楽しむことができます。西ジョージアの黒海沿岸は亜熱帯で,かんきつ類を豊かに産出します。

      ぶどうを収穫している人々

      カヘティ州でのぶどうの収穫

      食物 ジョージアの食卓にパンは欠かせません。伝統的なパンは土窯で焼きます。典型的な料理は,新鮮なハーブとスパイスをきかせた濃厚なシチューです。ワイン作りには長い歴史があります。古くからワインの発酵には大きな土製のかめが用いられてきました。多くの家庭でぶどうの栽培とワイン作りが行なわれています。ジョージア原産のぶどうは約500種に及びます。

      1人の女性がパンを作っている

      伝統的なパン作り

      面積

      6万9700平方㌔

      人口

      372万400人

      2016年の伝道者数

      1万8619人

      伝道者1人当たりの人口

      200人

      2016年の記念式出席者数

      3万2216人

      ジョージアの地図
  • 早い時期に真理を求めた人たち
    2017 エホバの証人の年鑑
    • スフミ近郊の海岸での集会,1989年

      スフミ近郊の海岸での集会,1989年

      ジョージア | 1924-1990年

      早い時期に真理を求めた人たち

      早くも1920年代に,聖書研究者たちは,ジョージアで誠実に真理を求める人を見つけようとしていました。1924年,レバノンのベイルートに事務所が開設され,アルメニア,ジョージア,シリア,トルコ地域での宣べ伝える業を監督することになりました。

      その時期にジョージアでも真理の種はまかれていたかもしれませんが,初めのうち目に見える成果はありませんでした。(マタ 13:33)しかし王国の音信は広がってゆき,ジョージアの多くの人々の生活に大きな変化をもたらしました。

      公正を求めていた

      第二次世界大戦が勃発した時,バソ・クベニアシビリは10代の少年でした。ジョージアはソビエト連邦の一部だったので,バソの父親はソ連軍に徴兵されました。その時までに母親は亡くなっていました。きょうだいの中でいちばん年上だったバソは,自分自身と弟や妹を養うため盗みを働くようになりました。

      バソは不良グループに加わり,やがて犯罪組織に深くかかわるようになりました。こう語っています。「政府や一般の世の中に比べれば,犯罪者の社会のほうが正義や公正にかなっていると感じていました」。バソは人間が提供できる以上のものを求めていました。「本当の正義を望んでいました」と述べています。

      バソ・クベニアシビリ,1964年

      バソ・クベニアシビリ,1964年,収容所から釈放後まもなく

      最終的にバソは犯罪行為のため逮捕され,シベリアの労働収容所に送られました。その収容所で1人のエホバの証人に会いました。信仰のために投獄されていた人でした。バソはこう言います。「探していたものをついに見つけたのです。文書は何もありませんでしたが,わたしは兄弟が話してくれることを真剣に学びました」。

      バソは1964年に釈放され,ジョージアに戻ってエホバの証人を探しました。収容所で共に過ごした兄弟とは手紙で連絡を取り合っていました。しかし残念なことに,その忠実な友人は亡くなり,神の民とのつながりがすべて失われてしまいます。バソが再び証人を見つけるまで,ほぼ20年待たなければなりませんでした。そのことについては後ほどさらに取り上げます。

      苦難が祝福に

      森の中の集会

      森の中の集会

      若いジョージア人の女性バレンチナ・ミミノシビリにとって,ナチの強制収容所に投獄されたことは大きな祝福となります。そこで初めてエホバの証人に会いました。彼女が最も感動したのは,その揺るぎない信仰です。証人たちの語る聖書の教えに深く心を打たれました。

      戦争が終わって家に帰った時,バレンチナは自分が新しく見いだした信仰を他の人に伝え始めました。しかし,間もなく彼女の行動は地方当局の目に留まり,ロシアの労働収容所での10年の刑を宣告されます。そこで再びエホバの証人に会い,後にバプテスマを受けます。

      1967年に釈放された後,バレンチナは西ジョージアに移動し,そこで宣べ伝える業を慎重に再開しました。バレンチナは,自分が後にある女性の懸命な祈りの答えになるとは気づきませんでした。

      エホバは祈りに答える

      1962年にアントニーナ・グダゼ姉妹はシベリアからジョージアに移動しました。未信者の夫が自分の国に帰ることにしたからです。もともとシベリア生まれのアントニーナは,そこに流刑にされていた証人たちを通して真理に接しました。アントニーナは東ジョージアのハシュリで生活を始めましたが,信仰の仲間を見いだすことはできませんでした。

      グダゼ家,1960年代

      グダゼ家,1960年代

      アントニーナはエホバがどのように祈りに答えてくださったかについてこう振り返っています。「ある日シベリアの母から小さな荷物が送られてきました。中には幾つかの聖書文書が上手に隠されていたんです。続く6年の間,そのようにして霊的な食物を受け取ることができました。わたしは荷物が届くたびに,エホバの霊的な導き,励まし,気遣いに感謝しました」。

      それでも,アントニーナは独りぼっちでした。こう述べています。「わたしは兄弟姉妹に会わせてくださいとエホバに祈り続けていました。ある日,わたしが働いている店に2人の女性が入ってきました。そしてわたしに尋ねます。『あなた,アントニーナ?』 その優しい笑顔から,仲間の姉妹であるとすぐに分かりました。わたしたちは抱き合って涙を流しました」。

      2人の姉妹のうちひとりはバレンチナ・ミミノシビリでした。アントニーナはとても興奮しました。西ジョージアで集会が開かれていることを知ったのです。集会場所は家から300㌔以上離れていましたが,それでも彼女は月に1度出席しました。

      真理の種が西ジョージアで芽生える

      ソ連の地方当局によって迫害されていた証人たちの幾人かは,1960年代に状況のより良い場所に移動しようとしました。熱心で精力的なウラジミル・グラジュク兄弟はその1人でした。彼は1969年,ウクライナから西ジョージアのズグジジ市に移動しました。

      ウラジミル・グラジュクと妻リューバ

      ウラジミル・グラジュクと妻リューバ

      ジョージアに来た人たちは当初ロシア語で集会を開きました。しかし,定期的に出席するジョージア人が増えてきたので,ジョージア語で集会を開くことにしました。弟子を作る業は効果的に行なわれ,1970年8月には12人の地元の人たちがバプテスマを受けました。

      1972年の春,ウラジミルは家族を連れて西に進み,黒海沿岸の都市スフミに移り住みました。こう言います。「わたしたちは霊的な豊かさを味わい,エホバの与えてくださる祝福に感謝しました。スフミの会衆は急速に成長しました」。その春,初めて行なわれた記念式には45人が出席しました。

      「一心に耳を傾けました」

      現在90代のバブツァ・ジェジェラバは,スフミで最初に真理を受け入れて速く進歩した人たちの1人です。1973年の初めのことでした。彼女は言います。「ある日わたしは,4人の女性が活発に論じ合っていることに気づきました。2人は修道女で,後で分かったのですが,もう2人はエホバの証人でした」。1人はウラジミル・グラジュクの妻リューバで,もう1人はウクライナから来たとても熱心な開拓者イタ・スダレンコでした。

      バブツァ・ジェジェラバ,1979年と2016年

      バブツァ・ジェジェラバ,1979年と2016年

      バブツァはその会話を耳にした時の気持ちを,「わたしは一心に耳を傾けました」と述べています。神にお名前があると聞いたとき,バブツァはすかさずその会話に加わり,そのお名前が聖書のどこにあるかを尋ねます。彼女がたくさんの質問をしたので,その話し合いは3時間も続きました。

      バブツァは証人ともう会えなくなってしまうのではないかと心配して,「わたしをここに残してどこかへ行ってしまうのですか」と言いました。

      「いいえ,そんなことはしません。今度の土曜日にまた来ます」と姉妹たちは答えます。

      土曜日になって2人の姉妹が本当にやってきたので,バブツァは大変喜びました。すぐに聖書研究が始まります。その研究が終わるころ,バブツァは神の民とのつながりを確実に保つ必要を改めて感じ,「やっと見つけたこの人たちを失うわけにはいかない」と考えました。

      バブツァはあることを思いつきます。「リューバが結婚していることは分かっていました。それで,イタも結婚しているか尋ねたところ,独身とのことでした。それで言いました。『わたしのアパートに来て,一緒に住まない? ベッドは2つあるし,その間にはランプもある。その明かりの下で聖書を開けば,夜でも聖書について話し合えるわ!』」イタはその招きに応じ,バブツァのアパートに引っ越しました。

      バブツァは当時のことをこう振り返ります。「夜眠れない時など,学んだことをよく思い巡らしました。ふと疑問が生じ,イタを起こして言いました。『ねぇ,イタ,聖書を出して。質問があるの』。イタは目をこすりながら,『いいわよ,バブツァ』と答えてくれました。そして,聖書を開いて教えてくれたのです」。イタが来てから3日後,バブツァは良いたよりを宣べ伝える業に加わりました。

      バブツァにはナテラ・チャルゲイシビリという親友がいました。バブツァはこう言います。「豊かな財産が妨げとなって彼女は真理を受け入れないのではないかと思っていたのですが,うれしいことに,わたしは間違っていました。最初に話した時から,彼女の心は真理で燃えていました」。まもなく2人とも,友人や同僚,近所の人たちに,自分たちの見いだした希望を熱心に伝えていました。

  • 集会は信仰の成長を助ける
    2017 エホバの証人の年鑑
    • ジョージア | 1924-1990年

      集会は信仰の成長を助ける

      集会は新しい人の信仰を成長させる点で大きな役割を果たしました。そして,バプテスマを受けたばかりの人たちも,長年真理にいる人たちと同じように喜んで自宅を集会場所として提供しました。出席者はみな温かく歓迎され,このことも愛の絆を大いに強めるものとなりました。

      幾人かの研究生にバプテスマを受ける用意ができたなら,特別集会が慎重に組織されました。1973年8月,兄弟たちはスフミの郊外で集まりました。その場所は黒海に面していました。しかし35人の希望者はバプテスマを受けることができませんでした。警察が集まりを中断させ,ウラジミル・グラジュクを含む幾人かの兄弟姉妹を逮捕したのです。

      ウラジミルと他の兄弟たちは釈放されるとすぐ,バプテスマ希望者全員に改めて連絡しました。当初の予定の2日後には,希望者たちはバプテスマを受けることができました。ウラジミルはこう述べています。「エホバがわたしたちの側におられると感じました。バプテスマの後,みんなで一緒に祈ってエホバへの感謝を表わしました」。

      反対によって良い知らせが広まる

      そのバプテスマの2日後,ウラジミル・グラジュクは再び逮捕され,後にイタ・スダレンコ,ナテラ・チャルゲイシビリと共に数年の懲役刑を言い渡されました。この逮捕は悲しいことでしたが,奉仕者たちは宣教奉仕を続けることを決意しました。しかし,より慎重に行なうことが必要でした。

      当局の注意を引かないため,奉仕者たちは地元以外の町や村に出かけて行って証言しました。それで,反対によってさらに多くの地域に良い知らせが広まる結果になりました。

      共産主義体制の間,大都市に住んでいる奉仕者たちは静かな通りや公園で証言しました。買い物のため,また親族を訪ねて他の町や村から来た人々に会うことがよくありました。奉仕者たちは関心を示した人に住所を尋ね,再び会えるようにしました。

      バブツァ・ジェジェラバは西ジョージア全体を広く旅しました。「あちらこちらに親戚がいたので,わたしが頻繁に旅行に出てもだれも不審に思うことはありませんでした。2年ほどすると,わたしはズグジジで20人以上の人と,そしてチホロツクの町で5人と聖書を研究していました。その全員がバプテスマを受けたのです」。

      ぜひともジョージア語の文書を

      やがてジョージア語の文書がどうしても必要だということが分かってきました。再訪問や聖書研究の際,奉仕者には研究生が最もよく理解できる言語の聖書や聖書文書が必要でした。a

      バブツァはジョージア語の文書が全くない中で聖書研究を司会する難しさをこう振り返ります。「わたしの持っていた聖書と出版物はすべてロシア語でした。それで多くの場合,研究生のために資料を翻訳することが必要になりました」。バブツァは辞書だけを頼りにして,雑誌の記事をジョージア語に翻訳しました。マタイの福音書全体を翻訳することまでしました。

      小さな謄写版

      勇気ある証人たちは小さな謄写版を使って自宅で文書を複写した

      関心を持つ人たちは母語に訳された記事を見て本当に喜び,それを自分用に手で書き写しました。ジョージア語の聖書はなかなか手に入らなかったので,研究生の中には現代の“写字生”となった人もいます。

      「1日中書き写していました」

      ジョージア語に翻訳された文書は兄弟たちや関心を持つ人に回覧され,全員が読めるようにしました。しかし,各人が読むための時間は数日から数週間しかありませんでした。現代のジョージア語に訳されたギリシャ語聖書が兄弟たちの間で回覧された時,ある家族はその機会にそれを書き写すことにしました。

      父親からギリシャ語聖書を書き写すよう頼まれた時,ラウル・カルチャバはまだ13歳でした。こう言います。「父は箱いっぱいのノートやたくさんのペンや鉛筆を買ってきました。わたしにやる気を起こさせるためです。圧倒されそうになりましたが,取りかかることにしました。少し手を伸ばすために休む以外は,1日中書き写していました」。

      ジョージア語の「ものみの塔」と「日ごとに聖書を調べる」,手で書き写されたもの

      ジョージア語の「ものみの塔」と「日ごとに聖書を調べる」,手で書き写されたもの

      皆が読みたがっているその聖書を,ラウルがさらに数週間用いてよいことになったので,親族は大喜びしました。おかげで若いラウルは,この大きな仕事を成し遂げることができました。わずか2か月で,27の書からなるクリスチャン・ギリシャ語聖書全体を書き写したのです。

      書き写すために勤勉な努力が払われましたが,増加していく聖書研究生の霊的な飢えを十分に満たすことはできませんでした。差し迫った必要を満たすため,勇気ある兄弟姉妹たちは危険な仕事を引き受けました。それは自分たちの家で聖書文書を複写して配達することです。

      西ジョージアでの宣べ伝える業には勢いがつきました。しかし,国の東部はどうでしょうか。前述のバソ・クベニアシビリのような誠実に真理を求める人を援助できる人が首都トビリシにいたでしょうか。

      真理が首都に

      1970年代,ソビエト当局は多くの地域で証人たちを家から追い立てて意気をくじこうとしました。ウクライナ人の夫婦オレクシー・クルダスと妻のリディアは,まさにそのような目に遭い,トビリシに移り住んでいました。2人は信仰のゆえにソ連の収容所で何年も過ごした経験もありました。

      ラリサ・ケサエフ(グダゼ),1970年代

      ラリサ・ケサエフ(グダゼ),1970年代

      オレクシーの家族はザウル・ケサエフと妻のエテリに真理を伝えました。2人はとても宗教心の厚い人でした。当時15歳だった娘のラリサは,オレクシーとリディアに初めて会った時のことをこう振り返ります。「正教会だけが真の宗教だということを証明しようとしました。何度か話し合った後,わたしたちは何も言えなくなりましたが,オレクシーたちはその後も聖書から筋道立てて話してくれました」。

      ラリサはこう続けます。「家族で教会に行く時には,いつも壁に書かれた十戒を読んでいました。その両側にはイコンがありました。しかし教会に行ったある日の晩,オレクシーが出エジプト記 20章4,5節から読んでくれた時,わたしはがく然としました。その夜は眠れませんでした。『イコンを崇拝することで神のおきてを破っているのではないか』という思いが消えませんでした」。

      その疑問をどうしても解決したいと思ったラリサは,次の日の朝早く教会に急ぎました。そして,壁の十戒を読み返しました。「あなたは自分のために……いかなる彫刻像や形も作ってはならない。それに身をかがめては……ならない」。生まれて初めてこのおきての意味を理解できました。ラリサと両親はやがてバプテスマを受け,トビリシで初期のエホバの証人となりました。

      公正の探求は報われた

      初めて真理に接してからほぼ20年後,バソ・クベニアシビリは,トビリシでのエホバの証人の集会に通っている人に出会いました。バソは証人たちにまた会えたことをうれしく思いました。長年の願いだったのです。

      バソ・クベニアシビリ

      バソ・クベニアシビリ,初めて真理に接してから24年後に証人になった

      しかし初めのうち,地元の証人たちはバソを自分たちの活動に参加させたくありませんでした。犯罪歴のある人として知られていたからです。バソは証人たちに対するソビエト当局のスパイではないかと恐れる人もいたのです。そのためバソは,4年もの間クリスチャンの集会に出席することを認められませんでした。

      やがてバソの良い動機が明らかになり,会衆の一員となってバプテスマを受けることが認められました。ついに,若い時から探し求めていた「裁き[または,公正]の神」のもとに来ることができたのです。(イザ 30:18)バソは2014年に亡くなるまで変わることのない確固とした態度でずっとエホバに仕えました。

      1990年までに,宣べ伝える業は国全体で確立されました。900人の奉仕者が942件の聖書研究を司会していました。その後の劇的な増加のために土台が据えられたのです。

      a 聖書のある部分は早くも西暦5世紀にジョージア語に翻訳されていました。しかし共産主義の時代には,聖書はなかなか手に入りませんでした。―「ジョージア語の聖書」を参照。

  • ジョージア語の聖書
    2017 エホバの証人の年鑑
    • ジョージア語の聖書

      モクビ四福音書,14世紀のジョージア語写本

      ジョージア | 1924-1990年

      ジョージア語の聖書

      ジョージア語は,アルメニア語,コプト語,シリア語,ラテン語などと共に,聖書が翻訳された初期の言語の1つです。福音書,パウロの手紙,詩編のジョージア語古代写本があり,西暦5世紀中ごろないしそれ以前のものとみなされています。その後何世紀にもわたって聖書をジョージア語に翻訳して写本することが続けられ,幾通りかの訳本や写本が誕生しました。a

      聖書はジョージアの文学や伝統的価値観に強い影響を与えました。5世紀後半に書かれたと思われるシュシャニク女王の悲劇的な物語には,聖書からの引用や聖書への言及が幾つも見られます。1220年ごろに編集された叙事詩「豹皮の騎士」(ジョージア語)の中で,詩人ショータ・ルスタベリはクリスチャンの道徳観について述べ,友情,寛大,見知らぬ人への愛などをテーマにして書きました。それらの価値観は今でもジョージア人の間で道徳的な理想として大切にされています。

      a 詳しくは,「ものみの塔」2013年6月1日号の「幾世紀も埋もれていた宝」の記事を参照。

  • 「神がそれをずっと成長させてくださった」 コリ一 3:6
    2017 エホバの証人の年鑑
    • 1992年,トビリシの集まりに来た兄弟たち

      1992年,トビリシの集まりに来た兄弟たち

      ジョージア | 1991-1997年

      「神がそれをずっと成長させてくださった」 コリ一 3:6

      ゲナディ・グダゼ

      ゲナディ・グダゼ,1990年代初めに巡回監督として奉仕した

      1991年,ソビエト連邦は崩壊し,ジョージアは独立しました。しかし政治的変動と社会の混乱のため人々の生活は一気に厳しいものとなりました。そのような時期に巡回監督として奉仕したゲナディ・グダゼは,人々がパンを買うために丸1日並んでいたのを覚えています。

      証人たちは,そのようにして並んでいる大勢の人たちに聖書の音信を伝えたものです。ゲナディは言います。「その大変な時期に,だれもが真理に好意的になったように思えました。聖書研究を望む人の住所を記したメモを何百枚も受け取りました」。

      毎回の集会後,責任ある兄弟たちは訪問を依頼した人たちの名前と住所を読み上げたものです。そして奉仕者たちが手分けして家々を訪問しました。

      1人のエホバの証人が,パンの列に並んで待っている人々に証言している

      1990年代,パンの列に並ぶ人たちに宣べ伝える

      トビリシで長老として奉仕していたレバニ・サバシビリ兄弟は,訪問を依頼してきた夫婦についてこう振り返ります。「リストにあったほとんどの家を奉仕者たちは訪ねましたが,この夫婦を訪問しようとする人はいませんでした。その家がずいぶん遠く,わたしたちの多くはすでに数件の聖書研究を持っていたからです」。

      数か月後,同じ夫婦が再び訪問を依頼してきました。やがて3度目の依頼が送られてきて,この度はメモが添えられていました。証人たちが血について潔白であるために,どうか来てほしい,とありました。(使徒 20:26,27)レバニはこう言います。「それは新年の時期で,普段なら人々を訪問しないのですが,これ以上先延ばしにはできないと感じました」。

      真理を求めていたこの夫婦,ロイニ・グリガラシビリと妻のナナは目を疑いました。ある寒い朝,レバニともう1人の兄弟が戸口に立っていました。この夫婦はすぐに聖書研究を始めました。ロイニとナナは今では子どもたちと共に正規開拓者として奉仕しています。

      関心を持つ人を助けるための精力的な努力

      真理を受け入れた人たちは,とても感謝していたので,良いたよりをさらに他の人々に宣べ伝えるため,自分の時間,エネルギー,資産を惜しみなく差し出しました。バドリ・コパリアニと妻のマリーナには子どもがいましたが,誠実な人たちを助けるため精力的に遠くの村へ出かけて行きました。

      週末になると,バドリとマリーナは10代の息子ゴチャとレバニを連れて,トビリシ北方の美しい山岳地帯ドシェティに行きました。時には遠くの村に行くために,曲がりくねった道を150㌔も移動しました。

      ある日,1人の女性が自分の職場にバドリとマリーナを招きました。バドリはこう言います。「大きな部屋に招かれましたが,そこには約50人もの人が待っていました。びっくりしましたが,エホバに祈ってから,終わりの日のしるしについてマタイ 24章の聖句から話しました。驚いた1人の人は,『どうしてわれわれの司祭はこのことを教えてくれないんだろう』と言いました」。

      記念式が関心を集める

      イエスの死の記念式も多くの誠実なジョージア人が真理を聞く機会となりました。例えば1990年にトビリシのイーア・バドリーゼ姉妹の家で開かれた記念式は,近隣の人々の関心を大いに集めました。

      イーア・バドリーゼ

      イーア・バドリーゼは記念式の時200人を自分のアパートに迎えた

      バドリーゼ姉妹は自分のアパートを記念式のために提供しました。子どもたちの助けを借りて,リビングルームに場所を作りましたが,出席者のために必要ないすをどうすれば準備できるでしょうか。ジョージアでは家族の大きな集まりのためにテーブルやいすを借りるのは普通のことでした。彼女がいすばかり借りるので,「テーブルは必要ないのですか? どうやって食事をするんですか」と店の人に何度も尋ねられました。

      バドリーゼ姉妹は,イエスの死を記念するためアパートの13階にある彼女の住まいに来たすべての人々を迎え入れることができました。驚くべきことに200人も出席したのです! 近隣の多くの人がエホバの証人について質問したのも不思議ではありません。

      思い出に残る記念式

      1992年,記念式のために国の各地で大きな講堂を借りました。ゴリに住んでいたダビット・サムハラゼは旅行する監督が記念式の計画について尋ねたことを思い出します。

      奉仕者たちが個人の家で集まる計画でいるのを知って,監督はこう尋ねました。「皆さんの町に大きな講堂はないのですか。どうしてそれを借りないのですか」。講堂は1000人以上収容できたので,100人を超える程度の会衆の奉仕者たちは,そんなに大きな会場は必要ないと思っていました。

      旅行する監督は提案しました。「もし奉仕者1人が10人を連れてくれば,会場はいっぱいになりますね」。とても現実的とは思えませんでしたが,奉仕者たちはその提案を受け入れて大いに努力しました。何とうれしいことでしょう! 1036人が記念式に出席したのです。a

      熱心な開拓者が新しい区域へ

      1992年,ジョージアにはエホバの民が聖書の音信をまだ宣べ伝えていない地域がたくさんありました。国が深刻な経済危機に直面している中で,これらの新しい区域にどのように音信を伝えられるでしょうか。

      そのころ西ジョージアに住んでいたタマジ・ビブライアはこのように振り返ります。「旅行する監督がわたしたちの何人かと会合して,どうしたらよいか話し合いました。わたしたちは特別開拓者を割り当てる方法について十分知っていたわけではありませんが,良いたよりを緊急に宣べ伝えなければならないことは理解していました」。(テモ二 4:2)それで16人の開拓者が選ばれ,国内の様々な場所に割り当てられました。―地図を参照。

      開拓者たちが5か月間割り当てられた場所を示したジョージアの地図

      5か月のあいだ開拓者たちが派遣された場所

      1992年5月,これらの地域で5か月間奉仕するように割り当てられた開拓者たちを励ますため,トビリシで3時間の集まりが開催されました。毎月,長老たちは開拓者たちを訪問して霊的な援助を与え,必要に応じて物質的な援助もしました。

      2人の開拓者の姉妹,マネア・アダシビリとナジー・ジワニアは,オズルゲチの町に割り当てられました。当時60歳だったマネアはこう言います。「関心を持つ女性がオズルゲチの近くに住んでいることを知っていました。ですから,到着したらすぐにその人に会うことにしました。その人がいる婦人寮に着いてみると,彼女は約30人の人を集めて,わたしたちを待っていました。その日に,何件もの聖書研究が始まりました」。

      その後の奉仕もとても生産的なものでした。わずか5か月で,12人にバプテスマの準備が整いました。

      自己犠牲の精神は報われた

      2人の開拓者の兄弟,パブレ・アブドシェリシビリとパアタ・モルビダゼはツァゲリに派遣されました。そこはキリスト教世界の教えと混ざり合った古い伝統のとりでのような地域です。

      ツァゲリの風景

      ツァゲリの風景

      厳しい冬が近づくころ,5か月の割り当ての期間が過ぎようとしていました。パアタは翻訳作業を手伝うため他の場所に招かれます。パブレは決断を迫られました。こう言います。「ツァゲリの冬が厳しいことを知っていました。でも,聖書研究生は引き続き助けを必要としていました。それで,ツァゲリにとどまることにしました」。

      「地元の家族と一緒に住んでいました」とパブレは言います。「ほとんど1日中奉仕に出かけていました。夕方,1階のリビングにある薪ストーブを囲んで家族と共に過ごしました。でも自分の部屋に戻ったら,わたしは厚手の毛布にくるまり暖かい帽子をかぶって眠りました」。

      春に長老たちがパブレを訪問してみると,11人がバプテスマを受けていない伝道者の資格を得ていました。そしてすぐに,その全員がバプテスマを受けました。

      a 1992年,ジョージアには1869人の熱心な奉仕者がおり,1万332人が記念式に出席しました。

  • 思いやりのある牧者による訓練
    2017 エホバの証人の年鑑
    • ジョージア | 1991-1997年

      思いやりのある牧者による訓練

      ジョニ・シャランベリゼとタマジ・ビブライア,1990年代初め

      ジョニ・シャランベリゼ,タマジ・ビブライアと共に。1990年代初め

      1990年代の初めごろ,ジョージアのほとんどの会衆では長老や奉仕の僕が1人しかいませんでした。奉仕者は幾つもの町や村を含む広大な区域に散らばっていたため,多くの会衆は別々に集まる幾つもの群れで構成されていました。

      ジョニ・シャランベリゼとパブレ・アブドシェリシビリは2人ともすでに遠隔地の区域で奉仕していましたが,新たにカヘティ地域の都市テラビを援助するよう割り当てられました。そこには300人の伝道者がいて,長老は1人もいませんでした。その会衆は,別々の場所で集会を開く13ものグループで構成されていました。

      パブレ・アブドシェリシビリ

      パブレ・アブドシェリシビリ

      ジョニとパブレは,兄弟たちの霊的進歩を妨げる問題があることにすぐ気づきました。ジョニはこう言います。「多くの兄弟たちは自分たちの大きな農園とぶどう畑を所有していました。農村部では普通,作業を近所の人々と助け合って行ないます。それで,兄弟たちは未信者と多くの時間を過ごしていました」。―コリ一 15:33。

      ジョニとパブレは,収穫作業のため仲間の証人たちに助けてもらうよう提案しました。そうすることによって兄弟たちは農作業の間も交わりから良い影響を受けるでしょう。(伝 4:9,10)ジョニは,「会衆内の兄弟愛の絆が強くなりました」と言います。ジョニとパブレが3年後カヘティ地域を去った時,そこには5人の地元の長老と12人の奉仕の僕がいました。

      集会によって宣教の技術が向上する

      わたしたちの活動は1990年代初めまで制限下にあったので,証人たちは小さなグループで集まり,会衆の書籍研究と「ものみの塔」研究だけを行ないました。これらの集会は励みの多いものでしたが,奉仕者たちを伝道のために訓練するものではありませんでした。

      共産主義政権が崩壊した時,この状況は変わりました。この時エホバの組織は,神権宣教学校と奉仕会の集会を毎週行なうように指示を与えます。

      ナイリ・フツィシビリと姉のラリ・アレクペロバには,当時の集会の楽しい思い出があります。ラリはこう語ります。「とても興奮しました。姉妹たちもプログラムに参加できるようになったことをみんなが喜びました」。

      ナイリはこう言います。「ある実演では,ステージ上で家の人が新聞を読んでいました。その時ドアをノックする音が聞こえます。家の人が返事をすると,集会所の入口のドアを開けて2人の姉妹が入って来ました。それからステージに上がって行ったのです」。ラリは,「そんなこともありましたが,この集会によって宣教の技術は向上しました」と述べています。

      霊的食物の必要が増大する

      長年にわたり,幾人かの兄弟たちは手動の複写機を使って自宅で聖書文書を複製していました。しかし,増大する出版物の必要に応えるため,兄弟たちは一般の業者に頼んで手ごろな値段で雑誌を印刷してもらうことにしました。

      兄弟が新聞から文字を切り取っている

      ジョージア語の雑誌の印刷用原版のために新聞から切り取った文字を英語版の表紙に貼り付けた

      兄弟たちは機知を働かせて印刷用の原版を作製しました。翻訳されたジョージア語の原稿は英語版のレイアウトに合わせて打ち込まれました。兄弟たちは英語版の雑誌から挿絵を切り取って,タイプライターで打ったものに貼り付けました。最後に魅力的な書体の文字を新聞から切り出して表紙に貼り付けました。こうして印刷する準備ができました!

      初期に国内で印刷されたジョージア語の雑誌

      初期に国内で印刷されたジョージア語の雑誌

      パーソナル・コンピューターが利用できるようになると,2人の若い兄弟,レバニ・コパリアニとレリ・ミルザシビリはそれを使うための講習会に出席しました。レリはこう言います。「わたしたちには経験がありませんでしたし,すべてが順調だったわけでもありません。でも,エホバの助けのおかげで,しばらくすると雑誌の入力と組版ができるようになりました」。

      いろいろな障害もありましたが,ジョージア全域の会衆は自国で印刷された4色刷りの雑誌を受け取れるようになりました。それでも,増大してゆく必要に追いつくことが難しくなります。しかしジョージアのエホバの民は,ちょうどよいタイミングで,エホバの組織からの愛ある指導を受けることになります。

      ターニングポイント

      1992年のロシア,サンクトペテルブルクでの国際大会は,ジョージアの兄弟たちがドイツ支部からの代表者たちと会う機会となりました。「翻訳作業を通常どのように行なうか説明してくれました。その仕事を助けるために訪問するとのことでした」とゲナディ・グダゼは言います。

      ジョージア語で聖書文書を印刷するのは簡単なことではありません。この言語はユニークな文字を用いており,協会のMEPS<メップス>(多言語電子出版システム)はまだジョージア語のアルファベットをサポートしていませんでした。それで,印刷用の写真製版のため,新しいフォントをデザインしなければなりませんでした。

      1970年代の終わりに,ジョージア人のダティカシビリ家族が米国に移住していました。その地で娘の1人マリーナは真理を学びます。ブルックリン・ベテルの兄弟たちがジョージア語の文字作成を手掛けた時,MEPSにそのアルファベットを入力する点でマリーナは大いに助けになりました。まもなくジョージア語で幾つかのパンフレットや「見よ! わたしはすべてのものを新しくする」の冊子がドイツ支部で印刷されるようになりました。

      翻訳の業を組織するための助け

      1993年,マイケル・フレッケンシュタインと妻のシルビアが翻訳事務所を設立するためドイツ支部からトビリシにやって来ました。「わたしはまだサンクトペテルブルクで話し合ったことを覚えていました。18か月後にトビリシに着いた時,翻訳チームが立派に仕事を進めているのを見て驚きました」とマイケルは言います。

      トビリシの翻訳事務所で働くレリ・ミルザシビリ,パアタ・モルビダゼ,レバニ・コパリアニ,1993年

      トビリシの翻訳事務所で働くレリ・ミルザシビリ,パアタ・モルビダゼ,レバニ・コパリアニ,1993年

      数か月ほどのうちに,11人からなる全時間の翻訳者たちが小さなアパートに設けられたオフィスで働いていました。エホバの組織が提供する貴重なトレーニングのおかげで,霊的な糧が安定して会衆に届くようになりました。

      不穏な時期に霊的食物を届ける

      ソ連の崩壊後,連邦を構成していた共和国のいたるところで不安な状況や民族紛争が生じました。ジョージアも例外ではありません。その結果,特に国や州の境界を越えるような旅行はとても危険になりました。

      ザザ・ジクラシビリ兄弟とアレコ・グブリティシビリ兄弟,その妻たち

      ザザ・ジクラシビリ兄弟とアレコ・グブリティシビリ兄弟(それぞれ妻と共に写っている)は不穏な時代に文書を運んだ

      1994年11月のある日,アレコ・グブリティシビリは2人の兄弟と共に州の境界を通過しようとしていました。その時,武装した男たちのグループに車を止められ,外に出されました。アレコはこう語っています。「聖書文書を見て彼らは怒り始め,わたしたちを整列させました。殺すつもりのようです。エホバに熱烈に祈りました。約2時間後,1人の男が言いました。『お前たちの文書を持って,行ってしまえ。もし戻ってきたら車を火で焼き,お前たちもおしまいだ』」。

      このような危険があったにもかかわらず,兄弟たちは霊的な食物を届け続けました。ジョージアに聖書文書を届けるために大きな犠牲を払ったザザ・ジクラシビリ兄弟はこう言います。「兄弟たちが霊的な食物を必要としていることを知っていました。愛する妻たちは大きな支えになってくれました」。

      「文書を運んだ兄弟たちの多くは,家族を持つ人でした」とアレコは言います。危険を冒して運び続けるよう彼らを動かしたものは何でしょうか。アレコはこう続けます。「それはエホバに対する深い愛と感謝です。そしてわたしたちは,愛する兄弟姉妹を世話する面で,エホバの方法に倣いたかったのです」。

      兄弟たちのこのような自己犠牲の精神のおかげで,不穏な時期にも文書の供給が途絶えることはありませんでした。その後,兄弟たちはドイツとジョージアとの間に安全なルートを確立しました。

      タイムリーな霊的励まし

      政治情勢が安定した1995年,証人たちは初めての地域大会を開催する準備をしました。1996年の夏,ゴリ,マルネウリ,ツノリの3つの場所で行なわれた地域大会にジョージア各地から約6000人が出席しました。

      1996年,エホバの証人はゴリ近郊での地域大会に出席した

      ゴリ近郊での地域大会に出席した証人たち,1996年

      ゴリ近郊での大会は出席者にとって特に思い出深いものです。以前,記念式のために借りた講堂がいっぱいになるかと心配した時に比べると何という違いでしょう。このたび兄弟たちは2000人以上の出席を見込んでいましたが,その数を収容できる場所を見つけられませんでした。それで,市内からそう遠くない美しい山のキャンプ場で屋外大会を開催することにしました。

      大会委員会で奉仕したカコ・ロミゼ兄弟はこう記しています。「プログラムの後,兄弟姉妹たちは共に過ごして歌を歌い,温かい交わりを楽しみました。それは神の民が強い愛の絆で結ばれていることのしるしでした」。―ヨハ 13:35。

      愛ある備えが成長を促す

      1996年には旅行する監督が国中のすべての会衆を1週間ずつ訪問する取り決めが始まりました。そのために新たな旅行する監督たちが任命され,それまで西ジョージアと東ジョージアで奉仕していた兄弟たちに加わりました。

      明らかに,これら旅行する監督たちの「愛の労苦」と熱心な奉仕は,会衆が成長して,神権的な指示にしっかり従う助けになりました。(テサ一 1:3)1990年から1997年にかけての増加はまさに目ざましいものでした。1990年には904人の奉仕者が活動を報告していましたが,わずか7年後には1万1082人が良いたよりを宣べ伝えていたのです!

      数十年前に始まった霊的な成長は,今や国中に広がっていました。しかしエホバは,ジョージアにいるご自分の民のためにさらなる祝福を用意しておられました。

  • 祝福が「順調な時期にも難しい時期にも」 テモ二 4:2
    2017 エホバの証人の年鑑
    • ズグジジ近郊での開拓者学校の生徒

      ズグジジ近郊での開拓者学校

      ジョージア | 1998-2006年

      祝福が「順調な時期にも難しい時期にも」 テモ二 4:2

      1990年代の終わりから,ジョージアの証人たちは奉仕者や関心を持つ人々の目ざましい増加を喜びました。1998年にはキリストの死の記念式に少なくとも3万2409人が出席しました。

      しかし,長老たちも含め多くの奉仕者は,真理に比較的新しく,経験も不足していました。霊的な活動の様々な面で訓練を必要としていました。果たして訓練はどのように与えられるのでしょうか。

      エホバの組織からの一層の支援

      ドイツのギレアデ分校を卒業したアルノー・トゥングラーと妻のゾンヤは,1998年3月,ジョージアに割り当てられました。その同じ年,統治体はジョージアに国内事務所の開設を承認し,その事務所はロシア支部が監督しました。

      国内委員会はすぐに,宣べ伝える活動を監督し始めます。わたしたちの活動が合法化されたので,聖書文書が当時のドイツ支部から直接送られて来るようになりました。法的認可は王国会館や支部施設を建設するための土地購入の道も開きました。

      霊的訓練の時

      多くの奉仕者はソビエト政権下での長年の禁令の間,家から家に公に伝道することができませんでした。アルノー・トゥングラーはこう言います。「たいていの奉仕者は,街路証言を多く行なっていましたが,家から家に行って,示された関心を育てることには慣れていない奉仕者たちもいました」。

      アルノー・トゥングラーと妻のゾンヤ

      アルノー・トゥングラーと妻のゾンヤ

      1999年5月にダビット・デビゼは,開設された国内事務所での奉仕を始めました。こう言います。「野外でもベテルでも行なうべきことがたくさんあることは分かっていました。でも,それをどのように行なえばよいかが全く分かりませんでした。ですから,統治体によって遣わされた経験ある兄弟たちをよく見て学びました」。

      ジョージアの兄弟たちのための集中的な訓練が始まりました。必要の大きな所に移動して奉仕する際によくあることですが,訓練の益は一方的なものではありません。(箴 27:17)助けるためにやってきた人たちは地元の兄弟姉妹から多くを学ぶことができました。

      地元の兄弟たちが示した愛すべき特質

      アルノーとゾンヤには,ジョージアに到着して間もないころに受けた温かい歓迎の思い出があります。地元の兄弟姉妹は,2人が新しい割り当てに慣れるよう大いに援助しました。

      ゾンヤは彼らの寛大さを思い出してこう言います。「近くに住んでいた夫婦は,おいしい食事をいつも届けてくださいました。ある姉妹は,わたしたちを野外奉仕に連れて行き,新しい会衆に紹介してくれました。そして,ジョージアの文化についてたくさんのことを教えてくれたんです。別の姉妹は辛抱強くジョージア語を教えてくれました」。

      1999年にカナダからジョージアに割り当てられたウォーレン・シューフェルトと妻のレスリーはこう言います。「ジョージアの兄弟姉妹のことが大好きになりました。そして謙遜にさせられました。若者を含め皆さんが自分の気持ちと愛情を自由に表わしてくださるのです」。

      地元の兄弟たちは宣教者たちと共にジョージア国内事務所で働いた

      地元の兄弟たちは経験ある宣教者たちと共に国内事務所で働いた

      外国からジョージアに割り当てられた人々は,自分たちが直面している問題よりも地元の人々の素晴らしい特質に注目しました。一方,宣教者たちの謙遜さと愛のこもった接し方はすぐにジョージアの兄弟たちに慕われるようになりました。

      神を恐れる人たちが真理に応じる

      1990年代に,多くの誠実な人々が真理にこたえ応じました。1998年だけでも1724人がバプテスマを受けました。これほど大勢のジョージア人が真理に関心を示すよう,何が動かしたのでしょうか。

      旅行する監督として長年奉仕したタマジ・ビブライアはこう説明します。「一つの伝統的価値観として,人々の心の中に神への愛が根づいていました。わたしたちが聖書の音信を伝えると人々は素直にこたえ応じました」。

      王国福音宣明者のための学校で教訓者として奉仕するダビット・サムハラゼはこう言います。「聖書の勉強を始めた人は,しばしば親戚や近所の人から反対されます。反対する人たちは研究をやめさせようとして,結局は自分が聖書を学ぶようになることも少なくありません」。

      王国の音信は広がってゆき,多くの人々は生き方を変えました。1999年4月,霊的成長の新しいピークとして,記念式に3万6669人が出席しました。

      「反対者も多くいます」

      使徒パウロは,古代エフェソスでの宣教活動に関してこう記しています。「活動に通ずる大きな戸口がわたしのために開かれているからです。しかし,反対者も多くいます」。(コリ一 16:9)この言葉は,1999年の画期的な記念式のわずか数か月後にジョージアの証人たちが直面した状況によく当てはまります。

      その年の8月,司祭職を剥奪されていたワシーリ・ムカラビシビリの率いる正教会の過激的なメンバーはトビリシで集会を組織し,わたしたちの出版物を大勢の人々の前で燃やしました。これはその後4年間続く迫害の始まりとなりました。

      ジョージア正教会の過激的なメンバーが集まっている,わたしたちの文書が大勢の人々の前で燃やされている,会衆の成員が暴行を受けている

      1999年以来,ジョージアのエホバの証人に対する攻撃が始まり,出版物が焼かれ,暴力行為があった

      1999年10月17日,宗教的過激主義者たちは,約200人の暴徒を集結させ,トビリシにあるグルダニ会衆の集会を襲撃しました。こん棒や鉄製の十字架を用いて証人たちに襲いかかり,その結果,幾人かが入院しなければなりませんでした。

      残念なことに,暴行を加えた者たちが逮捕されることはなく,証人たちへの攻撃はその後も続きました。シェワルナゼ大統領を含む政府関係者たちはこれらの暴力行為を強く非難したものの,明確な行動を取ることはありませんでした。事実,警察官たちは襲撃が終わった後に現場に来るということを続けていました。

      同じ時期に,ジョージア議会の議員グラム・シャラゼは,証人たちを中傷するかつてなく大規模なキャンペーンを開始しました。彼は証人たちが危険な存在であると非難しました。良いたよりを宣べ伝える面での「順調な時期」は終わったかのように思えました。

      エホバの組織は反対に対応する

      エホバの組織はジョージアの証人たちの必要に迅速に応えました。兄弟たちは,襲撃を受けた場合どのように対応すべきかについて愛ある指針を与えられました。そして,真のクリスチャンがときに迫害を忍耐すべきなのはなぜか,その理由を思い出すよう助けられました。―テモ二 3:12。

      加えて,エホバの組織は,兄弟たちを法廷で守るため法的措置を取りました。ジョージア支部の法律部門で奉仕した1人の兄弟は思い出してこう語ります。「その4年の間,わたしたちはワシーリ・ムカラビシビリのグループの行動に対して,800以上の訴状を提出しました。わたしたちは役人や人権団体に助けを求めました。エホバの証人の世界本部は大規模な広報活動を開始しましたが,襲撃はなくなりませんでした」。a

      a わたしたちの権利を擁護するための法的な闘いの詳細については「目ざめよ!」2002年1月22日号18-24ページを参照。

  • 脅しを受けてもエホバへの奉仕をやめない
    2017 エホバの証人の年鑑
    • 荒らされたジョージアのエホバの証人の家

      兄弟姉妹たちは持ち物が破壊されてもエホバに仕えることをやめなかった

      ジョージア | 1998-2006年

      脅しを受けてもエホバへの奉仕をやめない

      わたしたちの兄弟姉妹たちはひるむことなく,引き続きみんなで集まりました。長老たちは賢明に行動し,奉仕者たちを保護するための予防策を講じました。その時期にジョージアの兄弟たちを擁護したカナダの弁護士アンドレ・カルボンノ兄弟は思い出してこう語ります。「1人の兄弟が常に集会場所の近くに携帯電話をもって待機します。暴徒が近づいて来たら,襲撃がありそうだと長老たちにすぐに連絡しました」。

      シャモヤン家の住まいとジョージアの文書集積書が放火犯たちによって破壊された

      放火犯たちはシャモヤン家の住まい(左)と文書集積所(右)を破壊した

      何か事件があるごとに,支部から2人の代表者が訪問して兄弟たちを強めました。アンドレはこう言います。「支部の代表者は,集会場所がいつでも幸福そうな笑顔の兄弟姉妹たちでいっぱいになっているのを見ました。それはとても印象的なことでした」。

      兄弟たちは法廷の中でも外でも迫害者たちと向き合った

      兄弟たちは法廷の中でも外でも迫害者たちと向き合った

      聖書研究生を含め,直接に攻撃を受けていない人たちも同じ決意を示しました。アンドレは,バプテスマを受けていない伝道者になろうとしていた婦人との会話を思い出します。彼女はこう言いました。「テレビでその攻撃について見たとき,本物と偽物のクリスチャンの違いが分かりました。わたしは真のクリスチャンになりたいです」。

      勇気を持って信仰の仲間を守る

      その難しい時期にも,奉仕者たちは宣べ伝える業に活発に携わって立派な信仰と勇気を示しました。法廷で信仰の仲間を守ることにかかわる人たちも同様の信仰を実証しました。

      証人たちは多くの場合メディアによって,家庭を破壊し,医療を拒否し,国家に反抗する人々などと誤って伝えられました。あえて証人たちを擁護する弁護士たちは,自分の評判や経歴を危険にさらすことになりました。

      米国の法律部門の兄弟たち

      米国の法律部門の勇敢な兄弟たちは法廷で信仰の仲間を擁護した

      その時期にジョージアの兄弟たちを援助したカナダ支部の弁護士ジョン・バーンズは思い出してこう語ります。「弁護士として働いていた地元の兄弟姉妹たちは進んで自分を差し出しました。自分の仕事に影響があっても,恐れることなく法廷に行き,エホバの証人としての自分の立場を明らかにしました」。これら勇気ある証人たちは,「良いたよりを擁護して法的に確立する」ことに貢献しました。―フィリ 1:7。

      ジョージア市民は暴力に抗議する

      その間も,証人たちに対する暴力行為は続きました。そのため,2001年1月8日,証人たちは暴徒の攻撃からの保護と,平和な市民に暴行を加えた者たちの訴追を求める請願書を配布し始めます。

      バーンズ兄弟は請願書の目的についてこう説明します。「わたしたちが目指したのは,ジョージア人のほとんどがエホバの証人に対する暴力行為を容認していないこと,そして宗教的過激派の小グループが襲撃を先導している事実を明らかにすることでした」。

      わずか2週間で,ジョージア国内のすべての地域の13万3375人の成人が,その請願書に署名しました。そのほとんどは正教会の会員でした。請願書はシェワルナゼ大統領に提出されましたが,暴力は終わりませんでした。宗教的過激主義者たちはその後も証人たちへの襲撃を続けました。

      証人たちへの暴力を非難する請願書に幾万もの市民が署名した

      証人たちへの暴力を非難する請願書に幾万ものジョージア市民が署名した

      しかし,エホバはご自分の民を祝福し続けておられました。宗教的過激主義者が神の民を攻撃している間も,エホバ神は多くの誠実な人々を偽りの宗教から導き出しておられました。

      偽りの宗教から離れる

      バビリナ・ハラテシビリは人生のほとんどをジョージア正教会の敬虔な信徒として過ごしてきました。彼女は30代のころ,聖人の導きに従った生き方について教えるため,町から町,村から村へと旅をしました。

      しかしバビリナは神についてもっと知りたいと思い,ジョージア正教会の神学校で聴講することにしました。ある時,牧師が「永遠の命に導く知識」の本を聴衆に見せ,その本をエホバの証人からもらうよう勧めました。牧師はこう言ったのです。「皆さんはこの本から聖書について多くのことを学べます」。

      バビリナはショックを受けました。いつも証人たちを避けていたからです。それなのに今,牧師は証人たちの本を推薦しているのです。彼女はこう考えました。「神についてエホバの証人から学ぶべきだとしたら,自分はここでいったい何をしているのかしら」。彼女はポチの町にいる証人とすぐに連絡を取って聖書研究を始めました。

      バビリナは聖書から学ぶにつれ,人生における重要な変化を遂げていきました。こう言いました。「イコンを拝むのは正しくないと聖書からはっきり理解できたとき,わたしは一切の偶像を捨てました。そうするのが正しいことだと確信しました」。70代後半でしたが,エホバの証人になることを決意しました。

      バビリナ・ハラテシビリと孫娘のイザベラ

      バビリナは孫娘のイザベラに聖書の真理を伝えた

      2001年,悲しいことにバビリナは病気になり,バプテスマを受ける前に亡くなりました。しかし後に,彼女の孫娘イザベラがバプテスマを受け,今も忠実にエホバに仕えています。

      修道女になろうとしていた

      エリソ・ジジシビリが修道女になろうと決めたのは28歳の時でした。彼女が生まれ育ったトキブリの近くには修道院がありませんでした。2001年,トビリシに移り住んで修道院の定員に空きができるのを待つ間,家庭教師のアルバイトをしていました。その生徒の1人がヌヌという姉妹の娘だったのです。

      エリソはこう言います。「しばしば聖書について話しました。わたしは正教会の教えを強硬に擁護しましたが,ヌヌは辛抱強くいろいろな聖句を見せてくれました。ある日ヌヌは,『神はわたしたちに何を求めていますか』の冊子を読むよう勧めてくれました。わたしは聖句を引きながらそれを読み進め,イコンを拝むことが神の命令に違反することだと分かったんです」。

      後にエリソは地元の教会に行って,司祭に幾つかの質問をしました。司祭の答えから,教会の教えが聖書に基づいていないことがはっきりしました。(マル 7:7,8)真理を見いだしたことを確信した彼女は,すぐにエホバの証人と聖書研究を始め,その後まもなくバプテスマを受けました。

      エリソ・ジジシビリとヌヌ・コパリアニ

      修道女になろうとしたエリソ・ジジシビリ(左)とヌヌ・コパリアニ(右)

      反対の中での王国会館建設

      2001年ごろのことですが,会衆の数が増えてきたので崇拝のために集まり合うふさわしい場所の必要が大きくなりました。ある報告によると,70ほどの王国会館が必要でした。そのようなわけで,周囲の反対がありましたが王国会館の建設計画が始まりました。―エズ 3:3。

      建設チームはまもなく,それまでトビリシで幾つかの会衆が使用していた建物の改装工事に取り掛かります。その後すぐ2つのプロジェクトが続きました。1つはトビリシ,もう1つは西ジョージアのチアトゥラです。

      傷んだ王国会館と,それに代わる新しい王国会館

      トビリシの王国会館(左)が新しくなった(右)

      チアトゥラのプロジェクトに携わったタマジ・フツィシビリ兄弟は思い出してこう語ります。「毎日15人の奉仕者が働きました。すぐに町の人たちは,新しい会館の建設について知りました。時々,敵対者が建設中の王国会館に来て破壊しようとしている,といううわさを耳にしました」。

      そのような反対の中,建設プロジェクトはどのように進められたのでしょうか。タマジはこう言います。「わたしたちは働き続け,3か月で王国会館を完成させました。反対者からの脅しはありましたが,彼らが実際にやって来ることはありませんでした」。a

      ついに来た救済

      逮捕された正教会の過激派メンバーとリーダーのワシーリ・ムカラビシビリ

      逮捕された正教会の過激派メンバーとリーダーのワシーリ・ムカラビシビリ

      2003年10月,サムトレジアの町で建設プロジェクトが始まりました。ここでも宗教的過激派は地元の兄弟たちを脅しました。実際,反対者が来て建物を壊したのは,壁が建てられたばかりでモルタルもまだ乾いていない時でした。

      しかし,2003年11月,ジョージアでの新しい情勢は兄弟姉妹に救済をもたらしました。政権交代によって宗教的寛容の道が開かれたのです。その結果,エホバの証人を攻撃してきた正教会過激派の幾人かが逮捕されました。

      神の民に注がれた豊かな祝福

      迫害が終わってまもなく,ジョージアのエホバの民は数々の霊的祝福を受けました。2004年の地域大会で,ジョージア語の「クリスチャン・ギリシャ語聖書 新世界訳」が発表されました。

      もう1つ忘れられないイベントは,2006年に開かれた「救出は近い!」地域大会です。出席者は,統治体の成員ジェフリー・ジャクソンが聴衆に話をすると聞いて興奮しました。ジャクソン兄弟がジョージア語の「新世界訳聖書」全巻を発表した時の驚きは非常に大きなものでした。

      ジェフリー・ジャクソンによるジョージア語の「新世界訳」の発表を聞いて拍手する聴衆。証人たちが新しい聖書を注意深く調べている

      2006年,ジョージア語の「新世界訳」が発表された

      多くの出席者の目に感謝の涙があふれていました。ある姉妹はこう言いました。「この歴史的な大会で全巻そろった聖書を受け取った時の喜びは,とても言葉では言い表わせません」。1万7000人を超える人々が,ジョージアのエホバの民の歴史の中で極めて画期的な霊的宴を楽しみました。

      a 2001年から2003年に,ジョージア全国で7つの王国会館が建設されました。

      1組の夫婦が公の証言カートを引いて通りを歩いている

      迫害が終わる!

      みなさんの多くは1999年から2003年に報告されたジョージアの大変な状況を鮮明に覚えておられるでしょう。数えきれない祈りがジョージアにいる大切な兄弟姉妹たちのために世界中でささげられました。(ヤコ 5:16)2003年の末に迫害が終わった時,兄弟たちの喜びは本当に大きなものでした。以来,この国におけるわたしたちの業は自由に行なわれてきました。ジョージアの兄弟姉妹たちは,仲間が示してくれた愛ある関心と気遣いにとても感謝しています。―ペテ一 2:17。

  • 「これはエホバの僕たちの世襲財産」 イザ 54:17
    2017 エホバの証人の年鑑
    • エホバの証人がフロのケーブルカーの駅で伝道している

      フロのケーブルカーの駅での証言

      ジョージア

      「これはエホバの僕たちの世襲財産」 イザ 54:17

      ジョージアのエホバの僕たちはたゆむことなく良いたよりを宣べ伝えており,エホバはその勤勉な働きを祝福してこられました。それによって,良いたよりは国の隅々にまで及んでいます。

      ウシュグリ村に向かう奉仕者たち

      標高2200㍍のウシュグリ村に向かう奉仕者たち

      近年,熱心な伝道者や開拓者が,あまり伝道されていない区域に住む人々の必要にこれまで以上に注意を向けています。山岳地帯の村や集落には四輪駆動車やケーブルカーでなければ行くことができない場所もあります。

      スバネティ地域で伝道している奉仕者

      スバネティ地域での奉仕

      2009年以降,ジョージア支部は毎年それらの地域で宣べ伝える業を支援するため,未割り当ての区域のリストをすべての会衆に提供して奉仕者を募ってきました。この活動に参加するためには,大きな犠牲を払う必要がありました。

      テムリ・ブリアゼと妻のアナ

      テムリ・ブリアゼと妻のアナ

      テムリ・ブリアゼと妻のアナは新婚でしたが,山岳地帯のアジャリア地域で奉仕者の必要が大きいことを知りました。新しい家を建てるためちょうど土地を購入したところでしたが,宣教を拡大する機会が開かれたのです。

      まず1週間,アジャリア地域で過ごしました。テムリは第一印象をこう語ります。「地方の奉仕者たちは小さな村に行くためにたくさん歩いています。わたしたちは四駆を持っていましたから,それが大いに役立つとすぐに思いました」。

      アナもこう言います。「会衆や親族ととても強い絆で結ばれていましたから移動することは簡単ではありませんでした。でも,エホバの祝福を感じました」。テムリとアナはアジャリア地域の町ケダの群れを3年以上にわたって援助してきました。

      創意を働かせた開拓者たち

      一時的な特別開拓者の働きは,遠隔地の奉仕を助ける点でとても貴重なものとなってきました。割り当てが終わるとき,多くの開拓者たちは,自分たちが見いだした聖書研究生の援助を続けるためその区域にとどまりました。

      どちらもハツナという名の2人の開拓者の姉妹は,絵のように美しいマングリシの町に割り当てられました。その町に証人はいませんでしたが,姉妹たちの奉仕はとても産出的でした。最初の月に9件,翌月に12件,その翌月には15件,さらに次の月には18件の聖書研究を司会していました。これらの聖書研究生の援助を続けるために,2人はマングリシに留まることにしました。

      生活費をやりくりする点で姉妹たちは創意を働かせる必要がありました。マングリシを訪れる人の多くは,特産品で健康に良いとされる松かさの保存食品を喜びます。姉妹たちは最初,緑の松かさを集めてその名産品を作り,地元の市場で売りました。しかしその後,思いがけない収入源を得ることになります。

      ある日,聖書研究生が幾羽かのひよこを持ってきました。めんどりが別の場所でこっそり卵を産んでひなたちを連れて戻ってきたと言うのです。婦人はこの思いがけない収穫物を研究司会者にプレゼントしたいと思いました。姉妹の1人は鶏を育てた経験があったので,小さな養鶏場を始めることにしました。

      1人の姉妹はこう記しています。「エホバの助けと兄弟たちや聖書研究生のおかげでマングリシに5年間留まることができました」。今,そこには活発な兄弟姉妹たちの群れがあります。

      マングリシで奉仕するハツナ・ハレバシビリとハツナ・ツライア

      マングリシで奉仕するハツナ・ハレバシビリとハツナ・ツライア

      外国語での開拓奉仕

      近年,ジョージアでは大勢の外国人を見かけます。多くの開拓者たちは新たな奉仕の区域が開かれたことに気づき,アゼルバイジャン語,アラビア語,英語,中国語,トルコ語,ペルシャ語などを学び始めました。

      多くの開拓者たちが国内の外国語の群れや会衆に交わってきましたが,必要のさらに大きな外国の地に行った人もいます。隣の国に移動した時,ギオルギとゲラは20代でした。「わたしたちはエホバに最善のものをささげたかったんです。移動することはそのための絶好の機会でした」とギオルギは言います。

      そこでの奉仕を振り返ってゲラはこう言います。「そのような区域で長老として奉仕することから多くを学びました。エホバの『小さな羊』を助けるために用いていただけるのは大きな喜びです」。―ヨハ 21:17。

      ギオルギはこう加えます。「難しい問題はたくさんありましたが,わたしたちは自分の奉仕に専念し,迷ったりしませんでした。やるべきことをやっていると感じていました」。

      別のゲラという兄弟は何年かトルコで奉仕しました。思い出してこう語ります。「最初は言語の壁があって喜びを保てませんでした。やがて,兄弟姉妹たちや区域の人々と意思が通うようになると楽しくてしかたありませんでした」。

      トルコのイスタンブールで10年以上開拓奉仕をしたニノは気持ちをこのように語っています。「わたしは,移動した最初の日からエホバの助けを感じました。外国の地での開拓奉仕では『年鑑』レベルの経験を毎日のように楽しむことができます」。

  • 偉大な創造者を忘れなかった
    2017 エホバの証人の年鑑
    • ジョージアの若い証人たちが共に歌って楽しんでいる

      ジョージア

      偉大な創造者を忘れなかった

      これまでに出てきた兄弟姉妹の多くは若い人たちで,「あなたの若い成年の日にあなたの偉大な創造者を覚えよ」という言葉に従ってきました。(伝 12:1)実際,ジョージアの3197人の開拓者の3分の1は25歳以下の人たちです。どうしてこれほど多くの若者が真理の道をしっかり歩んでいるのでしょうか。

      このことについては幾つかの要素が関係しています。1つはジョージア人の家族の絆が強いことです。5人の子どもを真理のうちに育てたコンスタンティネはこう説明します。「わたしが真理に引き寄せられたのはエホバが愛ある父親であると感じたからです。わたしも親になった時,子どもたちに安心感を与える父親になりたいと思いました」。

      3人の子どもを持つマルハジは家族の絆を強めるため,妻と共に真剣に努力しました。こう言います。「時々子どもたちに,親ときょうだいに何を感謝しているか尋ね,その考えを家族の崇拝で述べ合うようにします。その結果,子どもたちは互いの良い点を見ることや感謝することを学びます」。

      「本当に充実した日々を送っています」

      親の努力を助けるため,長老たちはできるだけ早い時期に若い人たちが会衆の活動に参加できるようにします。11歳でバプテスマを受けたネストリはこう語ります。「長老たちは僕が幼い時から小さな割り当てをくださいました。それによって,自分も会衆の一部だと感じるようになりました」。

      良い模範と長老たちの援助も不可欠です。ネストリの兄のコバはこう説明します。「姉や弟とは違って,わたしの10代はとても不安定でした。1人の若い長老は良い模範でした。わたしを裁くことなく,いつも理解しようとしてくれたおかげで,わたしはエホバのもとに戻ることができました」。

      現在,ネストリとコバは姉のマリと共に,遠隔地での奉仕を楽しんでいます。コバはこう言います。「今わたしは,本当に充実した日々を送っています!」

      「子供たちが真理のうちを歩みつづけている」

      支部事務所は神権的なプロジェクトに若いクリスチャンを含めることによって,子どもの訓練に励む親たちを強めるよう努力しています。支部委員会の成員の1人はこのように記しています。「わたしたちは若者たちを大切に思っているので,霊的目標を達成しようとする努力を支えたいと考えています」。

      ジョージアの証人たちはトビリシの大会ホール建設でインターナショナル・サーバントと共に働いた

      ジョージアの証人たちはトビリシの大会ホール建設でインターナショナル・サーバントと共に働いた

      経験豊かな兄弟姉妹たちと共に働いて緊密に交わることは,若い人たちに忘れられない印象を与えました。トビリシの大会ホール建設でインターナショナル・サーバントと共に働いたマムカはこう言います。「このような国際的プロジェクトを通して本当にたくさんのことを教えられました。実際的な技術だけでなく霊的な教訓を学べたのです」。

      緊密な家族関係,長老たちからの励まし,良い模範,それらがジョージアの若者たちに積極的な影響を与えてきました。親たちは使徒ヨハネと同じ気持ちを抱いています。「わたしの子供たちが真理のうちを歩みつづけていると聞くこと,わたしにとってこれほど感謝すべきことはありません」。―ヨハ三 4。

      翻訳の強化

      2013年,統治体は世界中のそれぞれの区域内で,さらに出版物の必要のある言語を見極めるようすべての支部に要請しました。その目的は,良いたよりをさらに多くの人々に伝えることです。

      その結果,ジョージア支部は幾つかの出版物をスバン語とミングレル語に翻訳することにしました。これらはジョージア語に似ていて,ジョージア語の方言とみなされてもいます。

      スバネティ地域の熱心な開拓者たちはこう書いています。「スバン族の人々は霊的な事柄に対する関心と聖書に対する深い敬意を持っています。最初はわたしたちの出版物を受け取ろうとしなかった人たちも,自分たちの母語に翻訳されたものを見て受け取るようになりました」。

      ミングレル語の奉仕者たちは,母語で集会を開くことができ,深い感動を味わいました。若い開拓者のギガはこう認めています。「今わたしたちは集会の際,自分の言葉で自分を表現できます。注解をする前に頭の中でそれを翻訳する必要はもうないのです」。

      トカイアのミングレル語会衆の長老ズリは自分の気持ちをこう述べています。「人生でたくさんの喜びや悲しみを経験してきましたが,こんなに泣いたことはありません。初めてミングレル語で王国の歌を歌った時,自分も含めて出席者のだれも涙をこらえることができませんでした」。

      最近の進展

      2013年4月6日,土曜日はジョージアの証人たちの歴史の中でも特別な日となりました。統治体の成員デービッド・スプレーンにより,改装され拡張された支部施設,大会ホール,新しい聖書学校施設の献堂の話が行なわれたのです。多くの地元の証人たちは24の国から来た338人の代表者たちのために家を解放して温かくもてなしました。

      次の日,スプレーン兄弟の特別な話の映像と音声を,国中の集会場所に集まった1万5200人の聴衆に提供できました。これはジョージアの神権的な歴史における最大の国際的イベントでした。相互の励ましも兄弟姉妹の経験した喜びも本当に感動的でした。1人の若い兄弟は,「今わたしは,新しい世がどんな所になるかが分かります」と言いました。

      支部の献堂式で,コーラス隊が歌い,証人たちが外で交わり,訪問者が受付で名前を記帳している

      支部の献堂式,2013年,トビリシにて

      現在,王国福音宣明者のための学校と呼ばれている,クリスチャンの夫婦のための聖書学校は,ジョージアのエホバの民に大きな祝福となってきました。2013年以来,200人を超える生徒が卒業しました。卒業生たちは受けた教育に感謝し,どこでも必要な所で喜んで熱心に仕えようとしています。

      「前のものに向かって身を伸ばして」

      勇敢な初期王国宣明者たちの努力のおかげで,良いたよりはジョージア全土に行き渡りました。彼らが示した神と隣人に対する無私の愛,信仰と勇気と進取の気性をエホバは豊かに祝福してこられました。

      1万8000人を超えるジョージアの兄弟姉妹は,先駆けとなった人たちの仕事を続け,隣人たちが神の言葉の力を自ら経験するよう助けることに喜びを抱いています。―フィリ 3:13; 4:13。

      ジョージアの支部委員会: ワーン・トムチュク,レバニ・コパリアニ,ジョニ・シャランベリゼ,マイケル・E・ジョーンズ

      ジョージアの支部委員会: ワーン・トムチュク,レバニ・コパリアニ,ジョニ・シャランベリゼ,マイケル・E・ジョーンズ

  • クルド人が真理にこたえ応じる
    2017 エホバの証人の年鑑
    • 姉妹が女性とクルド語で研究している

      ジョージア

      クルド人が真理にこたえ応じる

      「わたしは母語でエホバについて聞けたことを本当に感謝しています。そのことをいつも祈りでエホバにお伝えします」とグリザーは語ります。

      グリザーはエホバの証人と8年間交わっていましたが,バプテスマを受けたのは母語であるクルド語の集会に出席してからでした。彼女は,近年ジョージアで真理にこたえ応じた多くのクルド人の1人です。ところで,クルド人とはどんな人たちでしょうか。

      クルド人は幾世紀も中東で暮らしてきました。学者の中には彼らが聖書に出てくる古代メディア人の子孫であると考える人もいます。(王二 18:11。使徒 2:9)クルド語はイラン語群に属しています。

      今日,2000万人以上のクルド人が様々な国で生活しています。アルメニア,イラク,イラン,シリア,トルコなどです。ジョージアには約2万人のクルド人がいます。一般的にクルド人は神を恐れ,宗教的な事柄に深い敬意を払う人たちです。

      現在ジョージアにはクルド人の奉仕者が500人おり,クルド語会衆が3つあります。2014年,たいへん喜ばしいことにクルド語の初めての地区大会がトビリシで開かれ,アルメニア,ウクライナ,ドイツ,そしてトルコからの代表者を迎えることができました。

      クルド人の子どもたちが,カレブとソフィアのビデオを楽しんでいる
  • 愛は人間が作った境界を越える
    2017 エホバの証人の年鑑
    • ジョージア

      愛は人間が作った境界を越える

      娘のサネルが生まれる前に,両親は医師から,もし無事に生まれたとしても深刻な健康問題を抱えることになるだろう,と言われました。サネルは生まれたものの,すぐに手術が必要になりました。両親はアブハジア(ジョージアからの独立を宣言した地域)に住んでいましたが,無輸血で手術をしてくれる医師を見つけることができませんでした。

      両親は地元の医療機関連絡委員会(HLC)と連絡を取りました。a うれしいことに,HLCの兄弟たちはすぐにジョージアの首都トビリシに協力的な外科医を見つけてくれました。しかしサネルの母親は出産からまだ十分に回復していなかったため,旅行することができませんでした。それでエホバの証人であるサネルの2人の祖母が付き添って,トビリシの病院へ連れて行くことになりました。

      この難しい手術は成功しました。祖母たちはこう書いています。「わたしたちは20日以上病院にいました。その間ジョージアの大勢の兄弟姉妹が訪ねてきて助けを申し出,たくさんの親切を示してくれました。仲間の兄弟愛について読んではいましたが,今回は自分たちがそれを実際に経験することができました」。

  • 生き方を変えたいと思っていました
    2017 エホバの証人の年鑑
    • ジョージア

      生き方を変えたいと思っていました

      ダビット・サムハラゼ

      • 生まれた年 1967年

      • バプテスマ 1989年

      • プロフィール 旅行する監督として奉仕した。2013年からは聖書学校で教えている。

      ダビット・サムハラゼは聖書学校で教えている

      1985年,18歳の時,わたしはソビエト当局により徴兵されました。軍隊での不公正や抑圧に苦しめられ,「あの人たちのようにはなりたくない。自分は異なっていたい」と考えたものです。それでも納得できる行動ができたわけではありません。それで,生き方を変えたいと思っていました。

      徴兵期間が終わり,家に帰りました。ある夜,パーティーの後に,自分を改める力を神に祈り求めました。次の日,仕事へ向かう途中におばを訪ねました。おばはエホバの証人です。家に入ると,数人のエホバの証人が集まっていました。温かく歓迎されたので,加わって話を聞くことにしました。

      聖書研究を行なうことにし,6か月後にバプテスマを受けました。エホバのおかげでより良い人間になり,自分の力ではできない変化を遂げることができました。

  • 導きを求めてエホバに頼りました
    2017 エホバの証人の年鑑
    • ジョージア

      導きを求めてエホバに頼りました

      タマジ・ビブライア

      • 生まれた年 1954年

      • バプテスマ 1982年

      • プロフィール 地下での印刷を助けた。4人の子どもを育てながら,ジョージアの初期の旅行する監督として奉仕した。

      タマジ・ビブライア

      わたしが妻のツィツォと共にエホバの証人になった時,母は非常に怒りました。ある日,母は親族を全員呼び集めて,エホバの証人との交わりをやめさせようとしました。考えを変えるか,家族と絶縁するかの選択を迫られました。

      わたしは町を出ることにしました。金属加工職人だったので,ジョージア第2の都市クタイシに移転しようと考えました。その町ならすぐに仕事が見つかると思ったのです。奉仕者の必要が大きい町であることも知っていました。それで,導きを求めてエホバに頼りました。

      その後しばらくして,わたしの聖書研究生に会います。その人はジバリという小さな町に住んでいました。わたしがクタイシに移転することを考えていると聞いて,自分の町にぜひ来てほしいと言い,こう述べました。「アパートがあります。わたしと妻と子どもたちは同じ部屋を使うので,お二人は空いた部屋を使ってください」。

      わたしはエホバの導きを求めていました。それで,仕事と住む場所の両方がジバリですぐに見つかるようなら,とりあえずそうさせていただきたい,と伝えました。とても驚いたことに,その研究生はその日の夕方に求人案内を持って戻ってきました。

      数日後,わたしは家族とジバリに移りました。まさに引っ越したその日に,びっくりするほど給料の良い仕事が与えられました。新しい社長は会社の所有する大きな家に住むよう勧めてくれました。しばらくしてから,わたしは聖書文書を地下で印刷するのを助けてほしいと頼まれました。新しい家には十分なスペースがあったので,妻と協力してその仕事に用いてもらうことにしました。

      何年もの間,わたしたちの広々とした家は記念式などの特別な集まりに用いられました。なんと500人以上がわたしたちの家でバプテスマを受けたのです。エホバの導きを認め,そのとおりにして本当に良かったです!

      タマジ・ビブライアと妻が男性と聖書研究をしている
  • 「神にとってはすべてのことが可能です」
    2017 エホバの証人の年鑑
    • ジョージア

      「神にとってはすべてのことが可能です」

      ナテラ・グリゴリアディス

      • 生まれた年 1960年

      • バプテスマ 1987年

      • プロフィール バプテスマの後すぐ,ナテラは商品販売マネージャーとしての経験や人脈を生かして地下での印刷を助けた。

      ナテラ・グリゴリアディス

      1980年代の後半,わたしたちの集会では,「ものみの塔」研究の司会者だけが雑誌を持っていました。しかもたいていは手書きのものです。それでわたしは,長老のゲナディ・グダゼに近づいて,自分たちで雑誌を印刷することを提案しました。

      当時,兄弟たちは手製の謄写版を使って少量の印刷物を作っていました。雑誌を定期的に生産するためには,もっと性能の良い謄写版と,経験を積んだタイピスト,タイプライター,そして謄写版原紙<ステンシル>が安定して手に入ることが必要でした。しかし,紙も含め印刷用資材はすべて政府の取り締まりのもとにあり,特別保安局が管理していました。

      わたしは,その筋に通じた知人で,廃棄されて政府の管理下にない機械を手に入れることができる人からタイプライターを譲り受けました。実の姉妹はタイピストだったので助けになってくれました。兄弟たちは新しい謄写版を組み立て,ステンシルを買える場所も見つけました。すべてはうまくゆき,すぐにジョージア語の「ものみの塔」誌の最初の号が生産されました。

      しかし,新たな問題が持ち上がりました。ある日,ゲナディがこう言います。「ステンシルを手に入れる別のルートを探す必要があります」。政府系の事務所に幾束ものステンシルを見たが,自分は当局に監視されているので買うことができないとのことでした。どうしたら手に入れられるでしょうか。「無理だわ!」とわたしは何度も言いました。それに対してゲナディはきっぱりと答えます。「『無理だ』と言うのはやめてください。『神にとってはすべてのことが可能です』」。―マタ 19:26。

      次の日わたしは,この言葉についてずっと考えながら,緊張して政府系の事務所に向かいました。エホバは親切なタイピストのところへ導いてくださり,その人はわたしの願いを喜んで所長に取り次いでくれました。その所長はタイピストの夫だったのです。すぐにその事務所から定期的にステンシルを買えるようになり,それ以降,資材に関する問題は全く生じませんでした。

      ナテラ・グリゴリアディスが「ものみの塔」を読んでいる
  • 夫は読むことに夢中でした!
    2017 エホバの証人の年鑑
    • ジョージア

      夫は読むことに夢中でした!

      マリーナ・コパリアニ

      • 生まれた年 1957年

      • バプテスマ 1990年

      • プロフィール マリーナと夫のバドリは,2人の息子を育てる間も精力的な奉仕者だった。バドリは後に国内委員会の一員として奉仕し,2010年に亡くなるまで忠実を保った。

      マリーナ・コパリアニ

      1989年,夫とわたしは近くの家でエホバの証人に会いました。ギビ・バルナゼ兄弟は近所の人と聖書研究をしていました。しかし,兄弟は自分用の聖書を持っていませんでした。当時のジョージアで聖書を手に入れるのは難しかったのです。

      わたしたちは聞いた事柄に心を動かされ,聖書を手に入れたいと思いました。夫は自分の兄に会った時,聖書を探していることを話しました。驚いたことに,ジョージア語の新訂版の聖書を最近買ったところだ,とのことです。しかも,その聖書を喜んでプレゼントすると言ってくれたのです。

      バドリは家に帰るとテーブルに向かい,夕暮れまで聖書を読みました。次の日,朝起きるとまた読み続けます。わたしが仕事から帰ると,まだテーブルに向かって聖書を読んでいたのです。夫は読むことに夢中でした! それでわたしは,数日休みを取って最後まで読んだらどうかと提案しました。夫はそのようにして聖書全体を読み通しました。

      後にバルナゼ兄弟と「とこしえの命に導く真理」の書籍を研究し始めた時,自分たち用の聖書があって本当に良かったと感じました。なぜなら,わたしたちは個人用の「真理」の本を持っておらず,司会者は聖書を持っていなかったからです。約1年後,バドリとわたしはバプテスマを受けました。

      マリーナ・コパリアニと夫のバドリ
  • 今までどこに行っていたの?
    2017 エホバの証人の年鑑
    • ジョージア

      今までどこに行っていたの?

      アルトゥル・ゲレヘリア

      • 生まれた年 1956年

      • バプテスマ 1991年

      • プロフィール バプテスマのわずか8か月後,家と景気の良いビジネスを後にして,必要の大きな所で奉仕するために移動した。

      アルトゥル・ゲレヘリア

      宣教を拡大するのはどうかと長老たちから尋ねられた時,わたしはバプテスマを受けたばかりでした。1992年5月4日,必要の大きな所へ移動できる人たちのための特別集会に出席しました。次の日,わたしは奉仕仲間と一緒にアジャリア地区の港町バトゥーミへ向かいました。

      バトゥーミでの初めての奉仕の時,わたしはとても緊張しました。「どうやって人々に近づいたらいいだろう」と思いました。最初に会った女性の反応に驚きました。「今までどこに行っていたの?」と言ったのです。その女性はエホバの証人についてもっと知りたいと真剣に願っていたので,次の日には聖書研究を始めました。

      バトゥーミに出発する前,わたしたちは関心を示す人たちの住所録を受け取っていました。その町をよく知らなかったので,街角で会う人たちに道を尋ねました。ほとんどの通りの名前が少し前に変更されていて,大抵の人はうまく説明できませんでした。それでも,そのような人たちがわたしたちの音信に関心を示し,やがてわたしたちは,10人から15人の幾つものグループと聖書を研究するようになりました。

      到着してからわずか4か月後には,40人以上が定期的に集会に出席していました。それで,「だれがこの新しい人たちを世話するのだろうか」と思いました。ちょうどその時,アブハジアにおけるジョージア軍と分離派との衝突の結果,わたしが以前交わっていた会衆の成員がみなバトゥーミに移動して来ました。たった1日で,経験ある長老や開拓者の交わる新しい会衆ができたのです。

      グループで行なう聖書の討議
  • 人生はうまくいっていると感じていました
    2017 エホバの証人の年鑑
    • ジョージア

      人生はうまくいっていると感じていました

      マドナ・カンキア

      • 生まれた年 1962年

      • バプテスマ 1990年

      • プロフィール 以前はジョージアの共産党員だった。多くの人が真理を学ぶのを助けてきた。2015年,トビリシで開かれた王国福音宣明者のための学校の第1期卒業生。

      マドナ・カンキア

      1989年でしたが,聖書の真理を聞いた時,わたしは自分の住むセナキの町で名の知られた共産党員でした。ジョージア最高評議会(今日の議会)にいつも出席していました。ある青年と婚約してもいたので,自分の人生はうまくいっていると感じていました。

      両親はわたしに神への愛を教えてくれました。それで,共産党員でしたが神を信じていました。聖書を学んで自分の疑問すべてに満足のいく答えを見つけたので,エホバに献身する決意をしました。ところが家族は,そして友人や同僚,さらには婚約者もわたしの決定に同意しませんでした。

      新たな信仰は親族に全く受け入れられませんでした。自分の政治的な立場とも相いれません。わたしは,家を出て,婚約を解消し,仕事も辞め,共産党や最高評議会から離れるしかないと結論しました。バプテスマののち友人や家族からの圧力は強まり,わたしは自分の住む町でよく知られてもいたのでクタイシに移り,そこですぐに開拓奉仕を始めました。

      わたしの信仰にはそれによってぶつかった困難に見合う価値があるかと尋ねられるなら,自分の下した決定は本当に喜びあるものだったとためらいなく答えます。両親はわたしの選んだ道を理解してくれませんでしたが,神と隣人を愛するよう教えてくれたことに深く感謝しています。それはわたしの人生で大きな助けになってきました。

      マドナ・カンキアが女性との聖書研究を司会している
  • 真のクリスチャン愛は決して絶えない
    2017 エホバの証人の年鑑
    • ジョージア

      真のクリスチャン愛は決して絶えない

      イゴル: わたしたちはアブハジアのトクバルチェリという町にあるエホバの証人の群れに交わっていました。その群れが属していた会衆は約85㌔離れた都市ジバリにあり,わたしは毎月そこへ群れのための聖書文書を取りに行きました。1992年,ソ連が崩壊した後にアブハジア自治区はジョージアから分離しようとしました。分離主義者とジョージア軍の間で戦争が始まり,多くの困難が生じました。

      ギゾ・ナルマニアとイゴル・オチガバ

      ギゾ・ナルマニアとイゴル・オチガバ

      これら2人の兄弟は一緒に働いて,アブハジアでの戦争の時に仲間の信者たちを助けました。

      ギゾ: わたしは21歳でバプテスマを受けました。それは戦争の始まるちょうど1年前です。戦いが始まると,兄弟たちは恐れと不安のため一時的に活動できなくなりました。しかし,これまでずっと良い牧者であるイゴルはわたしたちを励ましてこう言いました。「今こそ人々は慰めを必要としています。エホバとの強い関係を保つ唯一の方法は宣教を続けることです」。それで十分に注意を払いつつ,神の言葉からの慰めの音信を毎日人々に伝えました。

      イゴル: 戦争のために,文書を得るために行き来するジバリへのいつもの道を使えませんでした。自分はその地域で育ったので,茶畑と山岳地を抜ける安全なルートを見つけることができました。それでも武装集団に遭遇したり地雷を踏んだりする危険があり,兄弟たちを危険にさらしたくなかったので,月に1度自分独りで出かけました。エホバの助けのおかげで,時宜にかなった霊的食物を得ることができ,真理のうちにしっかり立つことができました。

      トクバルチェリで戦闘はありませんでしたが,町はじきに封鎖されました。その結果,戦時の苦難を経験するようになります。冬が近づくにつれて食べ物は次第に底をつき,生き延びられるかどうかをだれもが心配しました。しかし,ジバリの兄弟たちが救援隊を組織してくれていると聞きました。本当に大きな喜びでした。

      ギゾ: ある日イゴルは,仲間からの食料を保管し,配るためにわたしたちの家を使えないかとわたしの家族に尋ねてきました。ジバリから食料を運んで来る計画を立てていたのです。わたしたちは安全面を心配しました。幾つもの検問を通らなければならず,武装集団や盗賊に遭遇するかもしれないと思ったからです。―ヨハ 15:13。

      数日後,イゴルが無事に戻って来たのは本当にうれしいことでした。近づいた冬に必要な食料を満載した車を運転してきました。わたしたちはそのような困難な時期に,真のクリスチャン愛は決して絶えないことをじかに経験したのです。―コリ一 13:8。

  • 聖書の答えを自分の目で見た
    2017 エホバの証人の年鑑
    • ジョージア

      聖書の答えを自分の目で見た

      ペポ・デビゼ

      • 生まれた年 1976年

      • バプテスマ 1993年

      • プロフィール ジョージア正教会の家庭で,伝統を固く守るように育てられた。聖書の真理を学んだ後,夫と共にベテルで働いた。今は特別開拓者として奉仕している。

      ペポ・デビゼ

      エホバの証人について初めて聞いたのは,クタイシの大学に通っていた時でした。近所の人の話では,証人たちは崇拝にイコンを用いず,イエスを全能の神とは信じていないとのことでした。それは,正教会の信者としてわたしが大切にしていた信条と相いれないものでした。

      1992年の夏,故郷のツァゲリに帰省した時,その町でも証人たちが活動していることを知りました。母は証人たちについて良い評判を多く聞いていました。わたしはまだ否定的な見方をしていたので,母は「証人たちが何を教えているのか,自分で見てきなさい」と言いました。

      2人の開拓者の兄弟パブレとパアタが,近所の家族を定期的に訪問していました。近くの大勢の人がやって来て証人たちの話を聞き,質問していました。それで,わたしもそこに行ってみました。わたしが質問する度に,兄弟たちは聖書を開いてそこを読むようにと言います。わたしはそのことにとても感銘を受けました。聖書の答えを自分の目で見たのです。

      その後すぐ,聖書を研究していたグループにわたしも加わりました。次の夏,そのグループからわたしを含む10人がバプテスマを受け,後に母もエホバの証人になりました。

      いま思うと,兄弟たちはわたしのどの質問に対しても,聖書から答えを読めるようにしてくれました。そのことを本当に感謝しています。おかげで自分の信条が揺らいだ時の内面の葛藤を乗り越えることができたからです。そのように聖書そのものを開くことがいかに助けになったかを覚えているので,人々が真理の価値を認めるよう助けるためにわたしもこの方法を用いています。

      ペポ・デビゼと夫
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