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神の大いなる日に備えるための神からの助けエホバの日を思いに留めて生きる
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セクション1
神の大いなる日に備えるための神からの助け
「エホバの大いなる日は近い」。神の預言者はそう述べています。(ゼパニヤ 1:14)その日はますます迫っているので,それを思いに留めて生きる必要があります。その大いなる日について,いわゆる小預言者たちがあなたにとって重要な事柄を述べている,ということをご存じでしたか。この本の1章から3章をお読みになれば,それら12人の預言者および彼らが記した預言書のテーマを理解し,それらの書から,生活に役立つ教訓を学び取ることができるでしょう。
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エホバを知り,その方に仕えるエホバの日を思いに留めて生きる
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セクション2
エホバを知り,その方に仕える
12預言者の書には,エホバをもっとよく知りたいという気持ちを抱かせるどんな事柄が含まれているでしょうか。それらの預言者の伝えたエホバの音信が今日でも大いに役立つのはなぜですか。この本の4章から7章では,どのように神を崇拝し,その方の規準に沿って生きるべきかを考えます。例えば,あなたがどのように公正さを発揮することを神は求めておられますか。12預言書は今の生活を向上させる助けになる,ということが分かるに違いありません。
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行動や振る舞いによって神を喜ばせるエホバの日を思いに留めて生きる
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セクション3
行動や振る舞いによって神を喜ばせる
『エホバはあなたに何を求めておられますか』と聞かれたら,どうお答えになりますか。(ミカ 6:8)12預言書から,深い理解が得られます。この本の8章から10章では,真実のみを語り,暴虐を避ける,といった課題に取り組むうえで12預言書がどのように助けになるかを考えます。また,それらの預言書に収められている家庭生活に関する実際的なアドバイスも取り上げます。きっとあなたの役に立つことでしょう。
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喜びを抱いてエホバの日を待つエホバの日を思いに留めて生きる
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セクション4
喜びを抱いてエホバの日を待つ
エホバは預言者を用い,前途にある事柄,すなわちご自分の怒りを注ぎ出すことについて警告をお与えになりました。しかし,エホバを怒りの神と考えてはなりません。エホバは,「幸福な叫びを上げて[ご自分の民]のことを喜ばれる」方です。エホバの大いなる日を待っているわたしたちには,『心のかぎり歓びかつ歓喜する』十分の理由があります。(ゼパニヤ 3:14,17)その歓びをどのように行動や態度に表わせますか。12預言書を学んで本当に良かったと思える,どんな理由を見いだせるでしょうか。
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昔も今も価値があるエホバからの音信エホバの日を思いに留めて生きる
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第1章
昔も今も価値があるエホバからの音信
1,2 宝を探してどんなことが行なわれてきましたか。生活を楽しむのに何が助けになりますか。
昔から,多くの人が宝の発掘を夢見てきました。あなたも,実際に宝探しに出かけた探検家や考古学者などの話を読んだことがあるでしょう。あなたが宝探しに行くことはないかもしれませんが,もし自分が何かの宝を見つけたらどうだろうかと考えてみてください。その宝によって暮らしが豊かになり,楽しくて有意義な生活を送れるとしたら,本当にうれしいのではないでしょうか。
2 ほとんどの人は,文字通りの宝探しには行きませんが,幸せを探して,富,健康,理想の結婚生活を手に入れようとします。しかし,そうした宝は地面を掘っても見つかりませんし,それらに至る道を示す文字通りの地図もありません。言うまでもなく,そのような宝を得るには努力が必要です。それで多くの人は,目指すものに到達して楽しく有意義な生活を送るための的確なアドバイスが欲しいと考えます。
3,4 どう生きるかに関する実際的なアドバイスをどこに見いだせますか。
3 役立つアドバイスは身近なところにあります。その導きに従って,人々は幸福を味わってきました。聖書は生き方に関する最も優れたアドバイスを与えており,多くの人がそのことを認めています。英国の作家チャールズ・ディケンズは,聖書についてこう述べました。「聖書は古今を通じ,また将来においても世界で最も優れた本である。なぜなら,……だれもが導きにすることのできる,最も優れた教訓を与えるからである」。
4 聖書が神の霊感を受けたものであると考えている人にとって,これは意外な言葉ではありません。テモテ第二 3章16節で明言されている次の点に,あなたも同意なさるでしょう。「聖書全体は神の霊感を受けたもので,教え,戒め,物事を正し,義にそって訓育するのに有益です」。つまり聖書には,今日の複雑な社会の中でどう生きるかに関する,とても有用な情報が収められているのです。聖書を導きとする人は,本当に楽しくて有意義な生活を送れるようになります。
5-7 あなたは,有益な導きを求めて聖書のどの部分を調べますか。
5 そのようなアドバイスが欲しい時,あなたは聖書のどの部分を見ますか。イエスが日常生活の様々な面について適切な助言を与えた山上の垂訓のところでしょうか。あるいは,使徒パウロが記した書かもしれません。知恵の詰まった詩編と箴言からも有用な助言が得られます。実のところ,聖書のどの書も,何らかの状況や問題に対処するのに役立ちます。ヨシュア記からエステル記までのような,主に歴史を扱った書も例外ではありません。その歴史の記録には,神に仕える者として幸福でありたいと願うすべての人にとって警告となる教訓が含まれています。(コリント第一 10:11)それらの書も,自分の歩みを導いて有意義な生活を送るのに役立つアドバイスを与えているのです。次の言葉はまさに真実です。「以前に書かれた事柄は皆わたしたちの教えのために書かれたのであり,それは,わたしたちが忍耐と聖書からの慰めとによって希望を持つためです」。―ローマ 15:4。ヨシュア 1:8。歴代第一 28:8,9。
6 とはいえ聖書の中には,多くの人がまだ“宝探し”を行なっていない部分があります。それは,小預言書と呼ばれる12の書です。たいてい,比較的長いエゼキエル書とダニエル書の後に,そしてマタイによる福音書の前に収められています。(ほとんどの聖書で,12の書の順番は,ホセア,ヨエル,アモス,オバデヤ,ヨナ,ミカ,ナホム,ハバクク,ゼパニヤ,ハガイ,ゼカリヤ,マラキとなっています。)すでに述べたように,聖書は神の霊感を受けたものであり,教えを与え,生き方を示してくれます。これら12の書もそうでしょうか。
7 確かにそうです。いわゆる小預言書にも,今日どう生きたらよいかを示す非常に貴重な宝が収められているのです。では,これらの書が見過ごされることがあるのはなぜでしょうか。その点を理解するために,多くの言語で使われている“小預言書”という呼び名について考えましょう。その呼び名が,これらの書に対する一般的な見方に影響を与えているのでしょうか。あなたご自身の見方はいかがですか。
“小預言書”は本当に小さいか
8 (イ)神が指示を与えるために用いた重要な手段の一つは何ですか。(ロ)ここで取り上げている12の書は,よくどのように呼ばれますか。どんな意味でそう呼ばれていますか。
8 使徒パウロはヘブライ人への手紙の冒頭で次のように述べています。「神は,昔には,多くの場合に,また多くの方法で,預言者たちによってわたしたちの父祖に語られましたが,これらの日の終わりには,み子によってわたしたちに語られました」。(ヘブライ 1:1,2)神が人間の預言者を用いてご自分の音信を伝えたのですから,その人たちやその書のいずれをも“小さい”とみなしてはなりません。とはいえ,“小預言書”という呼び名のゆえに,その内容を“小さい”つまり重要性が低いと見る人がいます。それらの書の音信の権威は聖書の他の書よりも低い,と決めつける人もいます。しかし,多くの言語で用いられている“小預言書”という名前は実のところ,その12の書が比較的短いことを表わしているにすぎません。a
9 聖書の書は長さによって価値が決まるのではない,と言えるのはなぜですか。
9 聖書のある書が短いとしても,あなたにとって重要でないとか価値がないということにはなりません。前後の書よりもずっと短いルツ記には,実に感動的な話が収められています。この短い書は,真の崇拝に愛着を抱くべきことを強調し,神が女性を高く評価しておられることを示し,イエスの家系についての重要な情報も提供しています。(ルツ 4:17-22)別の例は,聖書の最後のほうにあるユダ書です。この書は非常に短いので,聖書の版によっては1ページにも満たないほどです。とはいえ,まさに貴重な情報と導きが含まれています。邪悪なみ使いたちに対する神の処置,会衆に入り込む腐敗した者たちに関する警告,信仰のために厳しい戦いをするようにとの励ましが収められているのです。同様にいわゆる小預言書も,短いとはいえ,内容の点でも,あなたにとっての価値の点でも,決して小さくはありません。
預言 ― どんな意味で?
10,11 (イ)「預言者」という言葉から,どんな印象を受けるかもしれませんか。(ロ)聖書によれば,預言者はどんな人たちで,何を行ないましたか。
10 さて,今度は「預言」という言葉について考えてみましょう。この語を見て頭に浮かぶのは,将来を予め告げるということかもしれません。一般に,預言者とは将来の物事を予言するだけの人であり,幾通りにも解釈できる謎めいた言葉を語ることがあると考えられています。この考え方が,12預言書についての見方に影響を与えています。
11 もちろん,12の書を読んでゆくと,予言がたくさん含まれていることがすぐに分かります。その多くは,エホバの大いなる日の到来に関するものです。これは「預言者」という語の基本的な意味と調和しています。預言者は神と親密な関係にある人たちで,多くの場合,起きることになっている事柄を啓示するために用いられました。エノクをはじめとする聖書中の多くの預言者は,確かに将来について予告しました。―サムエル第一 3:1,11-14。列王第一 17:1。エレミヤ 23:18。使徒 3:18。ユダ 14,15。
12 預言者は物事を予告する以上のことを行なった,ということをどのように説明できますか。
12 とはいえ,エホバの預言者の役割は神の予言を述べることだけではなかった,という点を覚えておく必要があります。神はしばしば,ご自分の意志を伝える代弁者として預言者をお用いになりました。例えばアブラハム,イサク,ヤコブがそうです。この3人は,将来について予告した人とみなされることはあまりありませんが,詩編 105編9-15節では預言者とされています。神がこの人たちを用いて将来の事柄を明らかにしたこともあります。ヤコブが息子たちを祝福した時がその一例です。しかし,この族長たちは,神の目的における自分たちの役割についてエホバが語られた事を家族に伝えたという点でも預言者でした。(創世記 20:7; 49:1-28)「預言者」という聖書用語の意味範囲を示す別の例は,アロンがモーセの預言者として仕えたことです。アロンは,モーセの「口」つまり代弁者となることによって,預言者の役割を果たしました。―出エジプト記 4:16; 7:1,2。ルカ 1:17,76。
13,14 (イ)預言者が単に予言するだけの人ではなかったことを,例を挙げて説明してください。(ロ)預言者が予言を述べる以上のことをしたという点を知ると,どんな益が得られますか。
13 預言者のサムエルとナタンについても考えてみましょう。(サムエル第二 12:25。使徒 3:24; 13:20)エホバは二人を用いて将来の事柄を宣明させましたが,預言者としての別の分野の奉仕も行なわせました。サムエルは預言者として,偶像崇拝を捨てて清い崇拝を再開するようにとイスラエル人を強く促しました。サウル王に対する神の裁きを宣明したこともあり,その事例は,エホバが物質の犠牲よりも従順を重んじられることを教えています。このように,預言者としてのサムエルの活動には,正しい生き方に関する神の見方を示すことが含まれていました。(サムエル第一 7:3,4; 15:22)預言者ナタンは,ソロモンが神殿を建てることと,その王国が堅く立てられることを予告しました。(サムエル第二 7:2,11-16)とはいえ,ダビデによるバテ・シバとの罪およびウリヤに対する罪を指摘した時にも,預言者として行動していました。貧しい人の持つたった1頭の大切な子羊を取り上げた富んだ人の例えを用い,強烈な仕方でダビデの姦淫を暴いたのです。またナタンは,神の聖なる所における真の崇拝に関係した取り決めを設けることにも加わりました。―サムエル第二 12:1-7。歴代第二 29:25。
14 ですから,12預言書の音信を,将来を予告する単なる予言とみなすべきではありません。それらの書には,他の多くの事柄に関する神からの情報が収められています。当時の神の民がどう生きるよう期待されていたのか,また今日のわたしたちがどう生きるべきなのかを知るうえでのすばらしい洞察も含まれています。12預言書を含む聖書の記述がとても役に立つ実際的なものであり,最善の生き方を知る助けとなることは確かです。霊感を受けたそれらの書から得られる価値ある導きにより,『現存する事物の体制にあって健全な思いと義と敬虔な専心とをもって生活する』ことができるのです。―テトス 2:12。
益を得るには
15,16 (イ)“小預言書”には,どんな比喩的な面がありますか。(ロ)それらの書には,どんな預言的な描写が収められていますか。
15 霊感のもとに記された神の言葉を読むことから,いろいろな面で益が得られます。ある時期に起きた事柄を述べている書もあれば,詩的な書もあり,それぞれに価値があります。また,比喩的すなわち象徴的な面が際立っている書もあり,12預言書もそうです。例えばヨナ書を引き合いに出して,イエスはこう述べました。「邪悪な姦淫の世代はしきりにしるしを求めますが,預言者ヨナのしるし以外には何のしるしも与えられないでしょう。ヨナが巨大な魚の腹の中に三日三晩いたように,人の子もまた地の心に三日三晩いるのです。ニネベの人々は裁きの際にこの世代と共に立ち上がり,この世代を罪に定めるでしょう。彼らはヨナの宣べ伝えることを聞いて悔い改めたからですが,見よ,ヨナ以上のものがここにいるのです」。―マタイ 12:39-41。
16 明らかにイエスは,ヨナ書を歴史の記録以上のものと見ておられました。ヨナへの神の対応,ニネベにおけるヨナの活動,神の警告の音信がふれ告げられたことの結果といった点の単なる記録ではなく,それ以上のものと見ておられたのです。イエスが理解しておられたとおり,預言者ヨナはイエス・キリストを指し示す比喩的な役割を果たし,イエスが死んで3日目によみがえらされることを指し示しました。さらに,ニネベ人の反応も注目に値します。イエスの伝道と業に対する大半のユダヤ人の態度とは対照的だったからです。(マタイ 16:4)同様に12預言書には,現代のご自分の民への神の対応に関する預言的な描写や類似点も収められています。そうした点を研究するのは,興味深くて有益です。b
17 この本は,どのような仕方で12の書を取り上げていますか。
17 もっとも,あなたがいま手にしておられるこの本は,ヨナ書など12の書の比喩的すなわち象徴的な意味の研究を目的としたものではありません。また,聖句を節ごとに調べるためのものでもありません。むしろ主に,それらの書から学んで日々の生活に適用できる点に焦点を合わせています。それで,次のように自問してみてください。『これら12の書の中で,エホバはわたしのために,どんな役立つアドバイスや助言を与えてくださっているだろうか。「現存する事物の体制にあって健全な思いと義と敬虔な専心とをもって生活する」うえで,これらの書はどのように助けになるだろうか。今は「エホバの日が来る,それが近い」時代だが,この危機の時代におけるクリスチャンの生き方,道徳,家庭生活,態度について,これらの書は何と述べているだろうか』。(テトス 2:12。ヨエル 2:1。テモテ第二 3:1)こうした点で満足のゆく答えが見つかるとともに,宝のように貴重な聖句も見いだせるでしょう。これまで聖書からの助言を他の人と分かち合う際に使ったことのないような聖句です。そのようにして,価値ある聖句の蓄えが増し加わってゆくことでしょう。―ルカ 24:45。
18 この本はどんな構成になっていますか。どうすれば益を得られますか。
18 この本は,四つのセクションに分けられています。各セクションを読み始める前に,その部分の概要をつかむようにしてください。この後の13の章それぞれには,学んだ事柄を銘記するのに役立つ囲みが二つあります。そこにある質問をもとにして,読んだ事柄を思い返し,価値や適用をじっくり考えることができます。1番目の囲みは章の中ほどにあります。そこまで来たら,その囲みの質問を考えてみてください。そうするなら,学んだばかりの事柄を心に深く植え付けることができるでしょう。(マタイ 13:8,9,23; 15:10。ルカ 2:19; 8:15)2番目の囲みは,章の後半で読んだ事柄をじっくり考え,知識として確実に蓄えるのに助けとなります。時間を取って,これらの囲みに挙げられている点をよく考えてください。そうすれば,学んでいる事柄からどうしたら実際に益を得られるかが分かるでしょう。
19 12預言書について,まずどんな点を頭に入れておくとよいですか。
19 この本を読み進めてゆく準備として,12預言書のそれぞれについてどんなことを知っているか自問してみてください。神はだれを通してその音信を伝えましたか。それはどんな人でしたか。どんな時代に生活し,どんな状況のもとで仕えましたか。(20,21ページの年表はたいへん役立つでしょう。この後の章を学ぶ際に随時参照してください。)当時の人にとってどんな音信で,どのように適用できましたか。このような点に関する知識は,内容を文脈に沿って理解するうえでどのように助けとなりますか。次の章では,こうしたかぎとなる点を取り上げます。
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わたしたちに関係する音信を伝えた預言者たちエホバの日を思いに留めて生きる
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第2章
わたしたちに関係する音信を伝えた預言者たち
1 ヘブライ語聖書の最後の12の書を記した預言者たちに関心を持つべきなのはなぜですか。
神から遣わされた12人の使者について知りたいと思われませんか。その12人はイエスが地上におられた時よりも昔の人なので,実際に会うことはできません。とはいえ,その預言者たちがどんな人で,どのように「エホバの大いなる日」をしっかりと思いに留めていたかは知ることができます。これから学ぶ事柄は,エホバの大いなる日を思いに留めようと真剣に努力しているクリスチャンすべてにとって,大きな意味があります。―ゼパニヤ 1:14。ペテロ第二 3:12。
2,3 わたしたちと12人の預言者にはどんな共通点がありますか。
2 預言者と呼ばれる人は聖書中にたくさん登場しており,多くの書に預言者の名前が付けられています。これから取り上げる12人は,他の預言者と同じく,忠実さと勇気の手本となっています。その中には,自分の伝えた音信によって人々が心と思いを変化させて神に立ち返るのを見るという大きな喜びを経験した人もいれば,頑迷な者たちがエホバの規準に背いてご意志に逆らうのを見て深い失望を味わった人もいます。また,エホバの崇拝者だと唱える周りの人たちの自己満足や気ままな態度にがっかりさせられた人もいます。
3 それら12人の預言者が生きたのは,現代と同様,政情不安,社会の騒乱,宗教の退廃を特徴とする時代でした。彼らも「わたしたちと同様の感情を持つ」人たちでしたから,やはり恐れや難しさを感じたに違いありません。(ヤコブ 5:17)それでも,わたしたちの良い手本となっており,その音信をわたしたちは銘記すべきです。「事物の諸体制の終わりに臨んでいる」わたしたちのために「預言的な聖句」として記録されている音信だからです。―コリント第一 10:11。ローマ 15:4; 16:26。
12預言者の時代
4 12預言者の活動時期の順について何と言えますか。民に警告を与えて意欲を抱かせるため,エホバはまずどんな人たちを起こされましたか。
4 ホセアからマラキまでの書はそれぞれを記した預言者の時代順に聖書に収められている,とあなたはお考えかもしれません。しかし,実際にはそうではありません。例えば,預言者のヨナ,ヨエル,アモス,ホセア,ミカは,西暦前9世紀から8世紀にかけての人でした。a そのころ,南のユダ王国でも北のイスラエル王国でも多くの王が不忠実で,臣民もその歩みに倣い,神の憤りを招きました。その時代には,アッシリア人が,次いでバビロニア人が世界制覇を目指していましたが,イスラエル人は,エホバがその二つの世界強国を処刑者としてお用いになるなどとは考えてもいませんでした。とはいえ,あなたもご存じのとおり,神は忠実な預言者たちを通してイスラエルとユダに幾度も注意を促しておられました。
5 ユダとエルサレムに荒廃が臨もうとしていたころ,どんな預言者たちがエホバの裁きをふれ告げましたか。
5 エホバは,ユダとエルサレムに裁きを下す時が近づくと,強力な代弁者のグループをもう一つ起こされます。どんな人たちですか。預言者のゼパニヤ,ナホム,ハバクク,オバデヤです。全員,西暦前7世紀に活躍しました。その時期に,極めて悲惨な出来事が生じました。西暦前607年にエルサレムがバビロニア人によって滅ぼされ,ユダヤ人が捕囚にされたのです。以前と同様にこの時も,神の遣わしたこれら代弁者たちの幾人かが預言によって神の警告を伝えており,そのとおりの事が生じました。預言者たちは,酩酊や暴虐など,間違った行ないに注意を喚起しましたが,民は歩みを改めようとしませんでした。―ハバクク 1:2,5-7; 2:15-17。ゼパニヤ 1:12,13。
6 エホバは,捕囚から帰還した残りの者の意気をどのようにして高めましたか。
6 神の民は捕囚から帰還した後,真の崇拝に焦点を合わせ続けるために,優れた指導および慰めと訓戒を必要としていました。その必要を満たしたのは別の預言者のグループ,つまりハガイ,ゼカリヤ,マラキです。この3人が仕えたのは西暦前6世紀と5世紀でした。エホバの主権を断固として支持したこれら12人の預言者とその働きについて学んでゆくと,危険に満ちた今の時代の宣教奉仕に適用できる重要な教訓を見いだせるでしょう。では,その預言者たちについて,おおむね奉仕時期の順に見てゆきましょう。
強情な国民を救い出そうと奮闘する
7,8 確信を欠くことがあるとしても,それを克服するうえでヨナの経験はどのように励みとなりますか。
7 あなたは,自分の確信が揺らぎ,信仰が弱まっているように感じたことがありますか。もしそうであれば,ヨナの経験が大いに参考になるでしょう。ヨナは西暦前9世紀の人でした。ご存じのとおり,台頭するアッシリア帝国の首都ニネベに行く割り当てを神から受けます。ニネベ人の悪を糾弾するためです。ところが,割り当てに従ってエルサレムの北東900㌔ほどの所に赴くのではなく,スペインにあったと思われる港へ向かう船に乗り込みます。逆方向に3,500㌔も行こうとしたのです。あなたはこれをどう思いますか。ヨナは恐れを抱いた,あるいは一時的に信仰を欠いたのでしょうか。それとも,ニネベ人が悔い改めるとしてもいつかはイスラエルを侵略するかもしれないと考えて,腹を立てたのでしょうか。聖書は明確には述べていません。いずれにしても,自分の考えが脇にそれないように用心すべき理由を学べます。
8 あなたはヨナが神の譴責にどう応じたかもご存じでしょう。ヨナは「大魚」に呑み込まれ,その腹の中で,「救いはエホバのものである」ことを認めました。(ヨナ 1:17; 2:1,2,9)奇跡的に救い出された後に使命を果たしますが,ニネベ人がヨナの音信を聞き入れて悔い改めたためにエホバが滅びを差し控えられると,ひどく落胆しました。エホバはもう一度,ヨナの自己中心的な態度を優しく正されます。ヨナの過ちだけに注目する人もいますが,神はヨナを従順で忠実な僕として十分な者とご覧になりました。―ルカ 11:29。
9 ヨエルの預言的な音信からどんな益が得られますか。
9 聖書に基づく音信を伝えたのに,人騒がせだとけなされ,残念な思いをしたことがありますか。預言者ヨエルの音信は,同国人からそのようにみなされました。ヨエルという名には「エホバは神」という意味があります。ヨエルは,ウジヤ王の治世中の西暦前820年ごろに,ユダで預言を記したようです。ヨエルとヨナの奉仕時期は重なっていると思われます。ヨエルは,次々と襲来して土地を荒廃させる恐るべきいなごの災厄について述べました。畏怖の念を抱かせる神の日が迫っていたのです。とはいえ,ヨエルの音信は陰うつなものばかりではありません。明るい見通しとして,忠実な者たちが『逃れ出た者となる』ことも示しています。(ヨエル 2:32)悔い改めた人は,エホバの祝福と許しを受けて歓ぶことができるのです。わたしたちの音信にもそのような面があることを銘記するなら,元気が出るのではないでしょうか。ヨエルは,神の活動する力つまり聖霊が「あらゆる肉なる者の上に」注がれることを予告しました。あなたご自身がその預言にどうかかわっているか,お分かりですか。ヨエルはさらに,救いを得る唯一の確実な方法を強調し,「エホバの名を呼び求める者はみな安全に逃れる」と述べています。―ヨエル 2:28,32。
10 エホバは,一季節労働者をどのようにお用いになりましたか。
10 耳を傾けない人が多い中で,ふれ告げるべき音信の重大さに圧倒されることがあるなら,アモスの気持ちがよく分かるでしょう。アモスは,預言者の子でも預言者団の一員でもなく,羊飼いまた季節労働者にすぎませんでした。預言したのは,ユダのウジヤ王の時代,西暦前9世紀の終わりごろです。身分の低い者でしたが,アモス(「荷である; 荷を運んでいる」という意味)は,ユダとイスラエルおよび周辺の諸国民に対する重い音信を運びました。エホバの助けがあれば普通の人でもそのような重要な業を行なえるということを知ると,心強く感じるのではないでしょうか。
11 ホセアは神のご意志を行なう点で,どれほどのことを進んでしましたか。
11 『自分はエホバのご意志を行なうために,どんな犠牲を進んで払うだろうか』と自問したことがありますか。ホセアについて考えてみてください。イザヤやミカと同じころに,預言者として60年ほど仕えた人です。エホバはホセアに,「淫行の妻」ゴメルと結婚するようにとお命じになりました。(ホセア 1:2)後にゴメルが生んだ3人の子のうち,ホセアの子は1人だけだったようです。なぜエホバは,配偶者の不貞という侮辱を耐え忍ぶようお求めになったのでしょうか。忠節さと許しに関する教訓を与えておられたのです。姦淫の妻が夫を裏切るかのようにして,北王国は神を裏切っていました。それでも,エホバは民に愛を示し,悔い改めるための助けの手を差し伸べられます。このことを考えると本当に心温まる思いがします。
12 ミカの手本について,またその預言の効果について考えることから,どんな益が得られますか。
12 今の危機的な時代にあって大胆さとエホバへの全き信頼を培うのは難しい,と思いませんか。それでも,そうした特質を表わすなら,ミカに倣っていることになります。ミカはホセアやイザヤと同時代の人で,西暦前8世紀のユダの王ヨタム,アハズ,ヒゼキヤの治世中に,ユダとイスラエルの国民に対する音信を宣明しました。北のイスラエルは甚だしい道徳的堕落と偶像礼拝によって汚れており,西暦前740年にサマリアがアッシリア人の手に落ちた時に滅びました。ユダはエホバへの従順と不忠実の間をふらついていました。暗い前途を予感させる物事が次々と起こりましたが,ミカは慰めを得ることができました。霊的に堕落してついには災いに至るユダの歩みが,一時的とはいえ,ミカの伝えた神からの音信によって食い止められ,ミカはそれを見ることができたのです。わたしたちも,人々が救いの音信に好意的にこたえ応じるのを見て,大いに慰められます。
猛烈な嵐を予期する
13,14 (イ)ゼパニヤの手本は,崇拝の面でどのようにあなたの助けとなりますか。(ロ)ゼパニヤの活動は,どんな霊的改革の開始に寄与しましたか。
13 世界強国のエジプトとアッシリアは衰退してゆきます。一方,バビロンは勢力を増し,その台頭によって,やがてユダの国民は深刻な影響を受けます。そのような時にも神の預言者たちがいて,エホバの崇拝者に警告と訓戒を与えました。今日のクリスチャンも警告の音信を宣べ伝えているということを念頭に置いて,その預言者たちの幾人かについて考えてみましょう。
14 エホバのご意志を行なうために先祖伝来のものを後にしなければならなかった方なら,ゼパニヤの気持ちをよく理解できるでしょう。ゼパニヤはヒゼキヤ王のひ孫の子で,ヨシヤ王の親族,つまりユダの王家の一員だったようです。それでも,ユダの腐敗した指導者たちを糾弾する音信を従順に伝えました。ゼパニヤという名前には,「エホバは隠してくださった」という意味があります。ゼパニヤは,人が「エホバの怒りの日に隠される」のはただ神の憐れみによる,ということを強調しました。(ゼパニヤ 2:3)幸いなことに,ゼパニヤの勇気ある布告は実を結びました。若いヨシヤ王が先頭に立って霊的改革を行ない,偶像を取り除き,神殿を修復し,清い崇拝を回復したのです。(列王第二 22-23章)ゼパニヤと仲間の預言者たち(ナホム,エレミヤ)は,補佐したり進言したりすることによりヨシヤ王をよく助けたに違いありません。しかし残念なことに,大半のユダヤ人は表面的に悔い改めただけで,ヨシヤが戦死すると,偶像礼拝に戻ってしまいました。そして,やがて捕囚としてバビロンに連れて行かれます。
15 (イ)ニネベはナホムによる陰うつな音信に値した,と言えるのはなぜですか。(ロ)ニネベに生じたことから何を学べますか。
15 自分は取るに足りない者だ,注目を浴びるような存在ではない,と感じることがあるかもしれません。クリスチャンには,神と「共に働く者」であるという大きな特権がありますが,一人一人はたいていあまり目立つ存在ではありません。(コリント第一 3:9)同様に預言者ナホムも,ユダにあったと思われるエルコシュという小さな町の出身であること以外は何も知られていません。とはいえ,その音信は重々しくて大切なものでした。どうしてそう言えるのでしょうか。ナホムはアッシリア帝国の首都ニネベに対して預言しました。そこの住民は,かつてヨナの働きに好意的に応じましたが,しばらくすると以前の歩みに戻ってしまいました。古代ニネベの遺跡で見つかった石の彫り物は,そこがナホムの言うとおり「流血の都市」であったことを示しています。(ナホム 3:1)その彫り物には,戦争捕虜に対する残虐な仕打ちが描かれています。ナホムは描写的で鮮烈な言葉を用いてニネベの徹底的な壊滅を予告し,後にその音信どおりの事が生じました。今日わたしたちが携えている音信についても同じことが言えます。
16,17 終わりに関して期待どおりの事が生じていないと思える場合,ハバククの例からどんなことを学べますか。
16 ずっと昔から今に至るまで,聖書を読んでエホバの日を期待しながらその到来を見ることのできなかった人たちがいます。神の裁きが遅れているように感じて失望した人もいるでしょう。あなたはどうですか。ハバククは次のように尋ねており,その気持ちは理解できます。『エホバよ,いつまでわたしは助けを叫び求めなければならないのですか。そしてあなたは聞いてくださらないのですか。なぜ奪い取ることや暴虐がわたしの前にあるのですか』。―ハバクク 1:2,3。
17 ハバククが預言したのは,良い王ヨシヤの治世より後で,西暦前607年のエルサレムの滅びより前の,ユダが騒然としていた時代です。不公正と暴虐が至るところで見られました。ハバククは,ユダがエジプトの側に付いても,血に飢えたバビロニア人から救われるわけではない,と警告しました。また,生き生きとした力強い文体で,「義なる者は自分の忠実さによって生きつづける」という慰めとなる情報を記しました。(ハバクク 2:4)これを使徒パウロがクリスチャン・ギリシャ語聖書の三つの書で引用していることからすると,この言葉はわたしたちにとって本当に重要であるに違いありません。(ローマ 1:17。ガラテア 3:11。ヘブライ 10:38)さらに,エホバはハバククを通して次のような保証を与えてくださっています。「この幻はなお定めの時のためのものであり,……遅くなることはない」。―ハバクク 2:3。
18 エホバがオバデヤに命じて,エドムに対して預言させたのはなぜですか。
18 預言者オバデヤは,ヘブライ語聖書で最も短い,わずか21節の書を記したことで知られています。オバデヤについて分かっているのは,エドムに対して預言したということだけです。エドム人はヤコブの兄の子孫なので,イスラエル人の「兄弟」でした。(申命記 23:7)しかしエドムは,とても兄弟とは思えない仕方で神の民を扱っていました。西暦前607年,エドムは道をふさぎ,逃げるユダヤ人を敵方のバビロニア人に引き渡します。オバデヤ書はそのころに記されました。エホバはエドムの完全な荒廃を予告なさり,その預言は成就しました。ナホムの場合と同様,オバデヤに関して分かっていることもわずかですが,ごく普通と思える人も神の使者として用いていただけるということを知ると,大いに励みが得られるのではないでしょうか。―コリント第一 1:26-29。
意気を高め,慰め,警告する
19 ハガイは,神の民を力づけることにどのように貢献しましたか。
19 忠実な残りの者が西暦前537年にバビロン捕囚から帰還した後,3人の預言者が仕えました。ハガイはその最初の人です。帰還した第一陣の中にいたのかもしれません。ハガイは総督ゼルバベルや大祭司ヨシュアと共に,預言者ゼカリヤと協力しながら,ユダヤ人の意気を高める努力を払いました。それは,民が外部からの反対と物質主義に由来する自らの無関心とを克服するためでした。民は,戻って来た目的を果たす必要がありました。エホバの神殿を再建するという目的です。ハガイは,西暦前520年に四つの率直な音信を伝え,エホバのみ名と主権を強調しました。その書には「万軍のエホバ」という表現が14回出てきます。民は,ハガイの力強い音信に促されて神殿建設を再開しました。エホバが主権者なる支配者として無限の力を持ち,霊の被造物の大軍を指揮しておられることを知ると,あなたも力づけられるのではないでしょうか。―イザヤ 1:24。エレミヤ 32:17,18。
20 ゼカリヤは,広まっていたどんな態度に立ち向かいましたか。
20 神に仕えてきた一部の人に熱意が欠けているのを見て,がっかりすることがありますか。そうであれば,預言者ゼカリヤの気持ちを察することができるでしょう。同時代のハガイと同じようにゼカリヤも,神殿の完成まで仕事を続けるよう仲間の崇拝者たちを元気づけるという難しい務めをゆだねられました。そして,その大事業に取り組むよう民を強めるために奮闘しました。周囲の人たちは気ままな態度を示していましたが,ゼカリヤは,強い信仰を培ってそれに応じた行動を取るようにと懸命に励まし,その努力は良い結果を生みました。またゼカリヤは,キリストに関する数多くの預言を記録しています。神の恵みを求める人々を「万軍のエホバ」がお忘れになることはないという音信から,わたしたちも力を得ることができます。―ゼカリヤ 1:3。
メシアを待ち望む
21 (イ)マラキの音信がぜひとも必要だったのはなぜですか。(ロ)マラキ書は,ヘブライ語聖書の結びにどんな保証の言葉を述べていますか。
21 12預言者の最後は,「わたしの使者」という意味の名前のとおりに生きたマラキです。西暦前5世紀半ばのこの預言者についても,ほとんど情報がありません。しかし,その預言を見ると,恐れを知らない代弁者として神の民の罪と偽善を叱責した人であることがはっきり分かります。マラキが描写した状況は,同時代の人であったと思われるネヘミヤが記した状況とよく似ています。マラキの音信がぜひとも必要だったのはなぜでしょうか。数十年前に預言者のゼカリヤとハガイが奮い立たせた熱意とひたむきさは影を潜めていました。ユダヤ人の霊的状態は極めて悪化していました。マラキは,ごう慢で偽善的な祭司たちに対して大胆に語り,民に対しては彼らのささげている犠牲と中途半端な崇拝の問題点を指摘しました。とはいえ,神の言葉は将来の明るい見通しを保証しており,マラキも,メシアの前駆者であるバプテストのヨハネの到来と,その後のキリストご自身の到来を予告しました。マラキの音信は,神のみ名を恐れる者のために『義の太陽が必ず照り輝く』ことを約束し,積極的な調子でヘブライ語聖書を結んでいます。―マラキ 4:2,5,6。
22 12預言者の特質や音信について,あなたはどう感じますか。
22 このように,ヘブライ語聖書の最後の12の書を記した人たちは信仰と確信を抱いていました。(ヘブライ 11:32; 12:1)その手本と音信は,「エホバの日」の到来を切望しているわたしたちに貴重な教訓を与えてくれます。(ペテロ第二 3:10)では次に,これらの預言的な音信があなたのとこしえの将来とどう関係するかを考えましょう。
a 20,21ページの年表で確かめてください。例えば,ミカとホセアはイザヤがエルサレムで神の預言者として仕えていた時期に活動していた,ということが分かります。
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エホバの日 ― 重大なテーマエホバの日を思いに留めて生きる
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第3章
エホバの日 ― 重大なテーマ
1,2 (イ)12預言書すべては,どんな重大なテーマを指し示していますか。(ロ)12預言書のうちの幾つかは,どのようにエホバの日に直接言及していますか。
「エホバの大いなる日は近い。それは近い。しかも非常に急いでやって来る」。(ゼパニヤ 1:14)神の預言者たちは,近づくエホバの日について幾度も警告しました。そしてたいていの場合,その日が到来するゆえに人々が日常生活や道徳や振る舞いの面でどう変化すべきかを指摘しました。その布告にはいつも緊急感が伴っていました。もしあなたが自分の耳でその音信を聞いたなら,どう反応したでしょうか。
2 12預言書を読むと,どの書も直接的または間接的にエホバの日について述べていることが分かります。a それで,エホバの日という繰り返し登場するテーマについてまず考えてから,次の章以降で,これらの預言書に収められている貴重な情報を調べることにしましょう。12預言書のうち六つは,エホバの日あるいはそれに類する表現を用いて直接的に述べています。ヨエルは,「畏怖の念を抱かせる,エホバの大いなる日」を生々しく描写しました。(ヨエル 1:15; 2:1,2,30-32)アモスはイスラエル人に,エホバの日は暗闇の日となるので自分たちの神に会う用意をせよと告げました。(アモス 4:12; 5:18)その後,この章の冒頭で引用した言葉をゼパニヤが語りました。エルサレムの滅びのころにオバデヤは,「あらゆる国の民に対するエホバの日が近い」という警告を発しました。―オバデヤ 15。
迫り来る嵐のように,「エホバの大いなる日は近い」
3 捕囚後の預言者もエホバの日について論じている,と言えるのはなぜですか。
3 捕囚から帰還した後のユダヤ人のもとに遣わされた二人の預言者も類似の表現を用いています。ゼカリヤは,エルサレムに攻めて来る国々の民がすべて滅ぼし尽くされる日について語り,「エホバのものとして知られる一日」に起きる事柄をありありと描写しました。(ゼカリヤ 12:9; 14:7,12-15)マラキは,「エホバの大いなる,畏怖の念を抱かせる日」の到来に神の民の注意を喚起しました。―マラキ 4:1-5。
4 12預言者のうちの幾人かは,エホバの日にどのように言及していますか。
4 12預言者の他の人たちは,「エホバの日」という表現を用いてはいないものの,その日のことを暗に示しています。ホセアは,エホバがイスラエルと,そして後にユダとの間で清算を行なわれることを述べました。(ホセア 8:13,14; 9:9; 12:2)このような音信の多くは,エホバが当時行なわれた事柄と関連があります。例えば,ヨナはニネベに対する神の裁きをふれ告げ,ミカは反抗的な民に対して神が行動される時に生じる事柄を描写しました。(ヨナ 3:4。ミカ 1:2-5)ナホムは,エホバが敵対者たちに復しゅうなさると断言しました。(ナホム 1:2,3)ハバククは公正を叫び求め,「苦難の日」を描写しました。(ハバクク 1:1-4,7; 3:16)これらの預言者の書には,真のクリスチャンにかかわる物事の進展を明確に示す音信も含まれています。一例として,捕囚後の預言者であるハガイは,諸国民が激動させられることを予告しました。(ハガイ 2:6,7)使徒パウロはそのハガイ 2章6節の言葉を引用し,神が象徴的な邪悪な天を取り除かれる時にクリスチャンがふさわしい状態でいるようにと強く勧めています。―ヘブライ 12:25-29。啓示 21:1。
エホバの日とは何か
5,6 預言者たちによれば,エホバの日はどのようなものになりますか。
5 エホバの日はどのようなものになるのだろう,と考えるのは当然のことです。あなたも,『エホバの日は,自分の今の生き方や将来と何らかのかかわりがあるのだろうか』と思われるかもしれません。預言者たちが示しているとおり,エホバの日とは,エホバが敵たちに対する行動を起こして裁きを執行する期間,つまり戦闘の日のことです。畏怖の念を抱かせるその日は,天界の現象が生じる日ともなるでしょう。「太陽や月も必ず暗くなり,星さえその輝きをとどめる」のです。(ヨエル 2:2,11,30,31; 3:15。アモス 5:18; 8:9)わたしたちの住む地上では何が生じるのでしょうか。「山々は[エホバ]の下で溶け,低地平原も引き裂かれることになる。ろうが火によるように,水が険しい所に注がれるときのように」と,ミカは述べています。(ミカ 1:4)これは比喩的な記述なのかもしれませんが,神の行動が地球とその住民に破壊的な影響を及ぼすことは読み取れます。とはいえ,すべての人に破壊的な影響が及ぶわけではありません。同じ預言者たちは,『善を捜し求めて』生きつづける人たちが受ける豊かな祝福を示しています。―アモス 5:14。ヨエル 3:17,18。ミカ 4:3,4。
6 12預言者の中には,エホバの日をもっと生々しく描写している人たちもいます。ハバククは,エホバが「とこしえの山々」を打ち砕き,「定めなく保つ丘」を低くする様子をありありと表現しました。それらは,いつまでも存続するかに見える人間の組織の適切な表象です。(ハバクク 3:6-12)エホバの日は,「憤怒の日,苦難と苦もんの日,あらしと荒廃の日,闇と陰うつの日,雲と濃い暗闇の日」なのです。―ゼパニヤ 1:14-17。
7 どんな処罰が予告されていますか。それはどのように成就すると考えられますか。
7 神に敵して戦う者たちがどんな処罰を受けるか,想像してみてください。「人が自分の足で立っている間にその肉は朽ち果ててゆく。目はそのくぼみにあるうちに朽ち果て,舌はその口にあるうちに朽ち果ててゆく」。(ゼカリヤ 14:12)これが文字通りに成就するかどうかはともかく,この幻が多くの人に臨む悲劇を予期させるものであることは分かります。少なくとも,神の敵たちが反抗的な口をきけなくなるという意味で,その舌は朽ちるでしょう。また,神の民に敵する統一行動のいかなる目論見も幻想に終わるでしょう。
愛の神が行動を起こされる理由
8,9 (イ)エホバが邪悪な者たちに対して行動を起こされる理由を理解するには,どんな点を考えなければなりませんか。(ロ)あなたが日々の生活で忠節であることと,エホバが行動されることにはどんな関係がありますか。
8 次のように質問されることがあるかもしれません。『愛のある神がどうして敵たちにそのような災厄をもたらせるのか。神は地を大混乱に陥れる必要があるのか。敵をも愛しつづけて,天におられる父の子であることを示すように,とイエスは勧めたのではないか』。(マタイ 5:44,45)あなたはそれに答えて,人類の諸問題のそもそもの始まりに注意を向けるかもしれません。神は最初の人間夫婦をご自分の像に,またご自分と似た様に創造されました。この夫婦は完全だったのです。ところが二人は人類に罪と死を持ち込み,その影響はわたしたちにも及んでいます。人類を支配する最高の権利を有しているのはだれかという論争において,二人は悪魔サタンの側に付きました。(創世記 1:26; 3:1-19)サタンは,魅力的なもので誘われたら人間はエホバに仕えるのをやめるだろうと主張し,これまで長い間その点を証明しようとしてきました。しかし,それを証明できなかったことは明らかです。イエス・キリストをはじめ,エホバの大勢の僕たちが神への忠誠を保ち,愛ゆえに神に仕えていることを示してきました。(ヘブライ 12:1-3)きっとあなたも,そのように忠節に神に仕えている大勢の人の名前を挙げることができるでしょう。
9 この論争にはいずれ決着が付き,エホバが悪を根絶されますが,この論争にはあなたも関係しています。12預言書を読むと分かるとおり,預言者の幾人かは,エホバの崇拝をなおざりにした人々のぜいたくな暮らしぶりに注意を向け,『自分の道に心を留めて』生活を変革するようにと神の民を訓戒しました。(ハガイ 1:2-5; 2:15,18。アモス 3:14,15; 5:4-6)つまり,民に生き方を教えていたのです。勧めに応じた人たちは,エホバが自分たちの主権者であることを明らかにして,サタンが偽り者であることを証明しました。エホバは敵を滅ぼし尽くす際,そのような人たちに忠節を示されます。―サムエル第二 22:26。
10 ミカが述べた事柄には,エホバが行動される別の理由がどのように示されていますか。
10 神が行動を起こされる理由は,ほかにもあります。西暦前8世紀に注意を向けましょう。ユダで預言していたミカは,あたかも自分がその国民であるかのように話し,当時の状況を,ぶどうもいちじくも残っていない収穫後のぶどう園や果樹園に例えました。ユダの社会はそのような状態にあり,廉直な者はほとんどいなかったのです。イスラエル人は仲間の住民を捕らえようとし,血を流すために待ち伏せしています。指導者や裁き人は身勝手に利得を求めています。(ミカ 7:1-4)こうした状況のもとで暮らしているとしたら,どんな気持ちになるでしょうか。罪のない被害者を気の毒に思うことでしょう。そうであれば,エホバはなおのこと,抑圧されている人々に同情をお感じになるのではないでしょうか。今日でもエホバは人類をつぶさに観察しておられます。どんなことを目にしておられますか。圧制者たちが悪らつにも人々を食い物にし,隣人に暴力を振るっています。世界人口と比べると,忠節な者はほんのわずかです。それでも,絶望する必要はありません。エホバは被害者への愛に動かされて,公正を執行なさいます。―エゼキエル 9:4-7。
11 (イ)エホバの日は,神を恐れる人にとって何を意味しますか。(ロ)ヨナの警告の音信はニネベ人にどんな影響を与えましたか。
11 エホバの日は,神の敵たちにとっては滅びを意味しますが,神を恐れて神に仕える人たちにとっては救出を意味します。b ミカは,諸国民が流れのようにエホバの家の山に向かい,その結果として全世界に平和と一致が行き渡ることを予告しました。(ミカ 4:1-4)では当時,預言者たちがエホバの日をふれ告げていたことによって人々の生き方は変化したでしょうか。変化した場合もありました。思い出してください。ヨナがニネベに対する裁きをふれ告げると,その都市の暴力的で邪悪な住民は「神に信仰を置くようになり」,『その悪の道から立ち返り』ました。そのためエホバは,この時に災いをもたらすことは差し控えられました。(ヨナ 3:5,10)間近に迫ったエホバの裁きの日に関する音信は,確かにニネベ人の生き方に影響を与えたのです。
ヨナの音信に対するニネベ人の反応から励みを得られるのはなぜか
その日はあなたにどんな影響を与えますか
12,13 (イ)12人はどの国民について預言しましたか。(ロ)12人の預言の言葉がはるか先の事柄を指し示していたと言えるのはなぜですか。
12 『でも,その預言者たちはずっと昔の人だ。エホバの日に関するその音信がわたしとどんな関係があるのか』と言う人がいるかもしれません。確かにそれらの預言者はイエスが生まれるよりもかなり前の人たちですが,わたしたちは,エホバの日に関する彼らの言葉がこの21世紀とどんなかかわりがあるかを考えるべきです。預言者たちがエホバの大いなる日について述べた事柄から,どんな実際的な益が得られるでしょうか。そのかかわりを見分けて音信から益を得るには,まず次の点を理解しておかなければなりません。預言者たちは,イスラエルとユダ,周辺諸国,さらに当時の世界強国に臨むエホバの日について警告しました。c そして,そのような預言は成就したのです。アッシリア人はサマリアを侵略し,ユダは西暦前607年に荒廃し,敵意を抱く周辺諸国もやがて荒れ果て,世界強国のアッシリアとバビロニアも倒れました。これはどれも明確な預言の成就です。
西暦33年のペンテコステの日に,ペテロはヨエルの預言の成就を説明した。その預言は今日も成就している
13 次に,それらの預言の多くが最初の成就を見てからかなりの時が経過した,西暦33年のペンテコステの日のことを考えましょう。その日,神の聖霊が注ぎ出され,使徒ペテロはそれとヨエルの預言を関連づけました。そして,「エホバの大いなる輝かしい日が到来する前に,太陽は闇に,月は血に変わるであろう」というヨエル書の言葉を引用しました。(使徒 2:20)これは,エホバの日に関する預言にはさらに別の成就があることを示しています。ヨエルの預言は,ローマ軍がエルサレムを破壊した西暦70年に2度目の成就を見ました。それはまさに闇と血の時となりました。
14,15 (イ)エホバの日に関する預言は今日のわたしたちと関係がある,と言えるのはなぜですか。(ロ)エホバの日はいつ来ると考えることができますか。
14 とはいえ,エホバの日に関するヨエルや他の人の預言には,最終的な成就,21世紀に生きているわたしたちにかかわる成就があります。どうしてそう言えますか。ペテロはクリスチャンに,『エホバの日の臨在をしっかりと思いに留める』ようにと訓戒した後,こう述べています。「神の約束によってわたしたちの待ち望んでいる新しい天と新しい地があります。そこには義が宿ります」。(ペテロ第二 3:12,13)西暦70年のエルサレムの滅びのすぐ後には,新しい天(新しい神権的な政府)も新しい地(その政府の下にある義にかなった人々の社会)も設立されませんでした。ですから,エホバの日に関する預言の言葉には,別の成就があるに違いありません。それらの預言は,今日の「危機の時代」に生きているわたしたちと関係があるのです。―テモテ第二 3:1。
15 12の書に収められているエホバの日に関する記述を総合的に考えると,イエス・キリストの言葉が頭に浮かびます。「世の初めから今に至るまで起きたことがなく,いいえ,二度と起きないような大患難がある」という言葉です。そして,その大患難が始まった「すぐ後に,太陽は暗くなり,月はその光を放たず,星は天から落ち,天のもろもろの力は揺り動かされるでしょう」と,イエスは述べました。(マタイ 24:21,29)これは,エホバの日がいつであるかを特定する助けになります。その日は目前に迫っています。聖書によれば,その大患難により,偽りの宗教の世界帝国である「大いなるバビロン」が滅ぼされます。その後,大患難の最高潮として,エホバの日に神の敵たちが地の表から拭い去られます。―啓示 17:5,12-18; 19:11-21。
16 エホバの日に関する預言は,大筋でどのように成就しますか。
16 エホバの証人は,エホバの日に関する預言が基本的にどのように成就するかを理解しています。背教したエルサレム,背信のサマリア,敵意を抱くエドム人,暴虐なアッシリア人,そしてバビロニア人は,しばしば様々な仕方で,偽りの宗教の幾つもの面を予示していました。そのような宗教すべては,大患難の最初の段階で滅ぼされます。その後,「畏怖の念を抱かせる,エホバの大いなる日」において,偽りの宗教の政治的また商業的な愛人が終わりを迎えます。―ヨエル 2:31。
用意のできていることを示す
17,18 (イ)「エホバの日を待ちこがれている」人たちにアモスが災いを宣告したのはなぜですか。(ロ)エホバの日に対する備えができていない人はどうなりますか。
17 裁きの音信は主に偽りの宗教に向けられているので,そうした預言の成就は自分には関係がないと思うクリスチャンがいるかもしれません。しかし,アモスがイスラエル人に告げた「エホバの日を待ちこがれている者は災いだ!」という言葉には,すべての人にとって現実的な意義があります。アモスの時代のイスラエル人の中にも,エホバの日は自分たちに祝福だけをもたらすと考える人たちがいました。神がご自分の民のために行動なさる日だと思い込んでいたのです。そのため,その日を待ちこがれてさえいました。しかし,うぬぼれの強い者たちにとってエホバの日は「暗闇であり,何の光もない」であろうと,アモスは述べています。そのようなイスラエル人は,エホバの憤りを受ける側にいたのです。―アモス 5:18。
18 次いでアモスは,エホバの日を待ちこがれている人たちに生じる事柄を次のように描写しています。ライオンから逃げた人が熊に出くわします。走って熊から逃れ,家に逃げ込みます。息をはずませながらドアを閉め,壁に寄りかかると蛇にかまれてしまいます。エホバの日を迎える用意がしっかりできていない人たちは,いわばそのような運命にあるのです。―アモス 5:19。
ミカのように,救いの神を待ち望む態度を示す
19 どんな現実的な仕方で,エホバの日に備えるべきですか。
19 この記述があなたにとっても現実的な意義を持つことがお分かりですか。思い出してください。アモスが音信を伝えた人々は,神に献身した者という立場にありました。それでも,彼らの行動や態度には調整が必要だったのです。ですからあなたも,その重大な日を迎える用意ができていることを示しているか,何らかの調整をすべきかと自問し,自分の生き方を吟味してみることが大切ではないでしょうか。どうすればしっかり用意ができますか。一部の人が生き残るためにするように,シェルターを造ったり,基本食料品を蓄えたり,浄水方法を習ったり,金貨をためたりしても,用意ができていることにはなりません。「その銀も金もエホバの憤怒の日には彼らを救い出すことができない」と,ゼパニヤは述べています。ですから,物質的なものを蓄えたからといって,用意ができていることにはなりません。(ゼパニヤ 1:18。箴言 11:4。エゼキエル 7:19)むしろ,霊的に用心を怠らず,用意のできた者として毎日生きてゆかなければならないのです。正しい態度と,それに一致した行動が必要です。ミカは次のように述べました。「わたしは,終始エホバに目を向ける。わたしの救いの神を待ち望もう」。―ミカ 7:7。
20 待ち望む態度は,どんな事柄に左右されませんか。
20 この待ち望む態度があるなら,用意ができていてエホバの日に目を向けていることをはっきり示せます。その日が到来する日付や,自分がどれほど長く待っているかについて思い悩むことはないでしょう。その日に関する預言はすべて,エホバのご予定の時に成就します。遅れることはありません。エホバはハバククに次のようにお告げになりました。『この幻はなお定めの時のためのものであり,終わりに向かって息をはずませてゆく。それは偽ることはない。たとえ[人間の視点から見て]遅れようとも,それを待ちつづけよ。それは必ず起きるからである。[エホバの観点から見れば]遅くなることはない』。―ハバクク 2:3。
21 この本の続く部分から,どんな益が得られますか。
21 この本では,救いの神を待ち望む態度をどのように示せるかを学びます。どんな益が得られるでしょうか。考察の中心となるのは,聖書の中であなたがあまりよくご存じでないかもしれない部分,いわゆる12小預言書です。ですから,新鮮な発見があるでしょう。例えばセクション2では,どのように「エホバを捜し求めて」生きつづけられるかを考えます。(アモス 5:4,6)これら12の書から,どうすればエホバをもっとよく知ることができるかが分かり,神に仕えることについての認識がいっそう研ぎ澄まされるでしょう。これらの預言書を通して,神のご性格に関する理解も深まるに違いありません。セクション3では,あなたが家族や他の人にどのように接することをエホバが望んでおられるかをよく把握できるでしょう。それは,神の大いなる日を迎える用意のできた者となるのに役立ちます。最後にセクション4では,エホバの日が近づいている今どんな態度を取るべきかに関する12預言書のアドバイスを調べ,それがクリスチャン宣教にどう影響するかも学びます。あなたの将来に関する預言書の音信を考えるとき,きっと胸が躍るでしょう。
22 12預言書に収められているアドバイスにどのようにこたえ応じたいと思いますか。
22 この章の冒頭で引用した,緊急感を帯びたゼパニヤの言葉を覚えておられますか。(ゼパニヤ 1:14)ゼパニヤの音信は,若いヨシヤ王の生き方に影響を与えました。ヨシヤは,わずか16歳でエホバを求め始め,20歳になると,ゼパニヤがユダとエルサレムの民に与えた励ましに応じて偶像崇拝の撲滅運動に着手しました。(歴代第二 34:1-8。ゼパニヤ 1:3-6)エホバの日に関する警告は,ヨシヤの場合と同じようにあなたの日ごとの生き方にも影響を及ぼしているでしょうか。では,わたしたち一人一人にとって12預言書がどのように役立つかを調べましょう。
a イザヤとエゼキエルもエホバの日について警告しました。イザヤは12預言者の最初のグループと同時代の人で,エゼキエルは第2のグループと同時代の人です。―イザヤ 13:6,9。エゼキエル 7:19; 13:5。この本の2章4-6節をご覧ください。
b こうした明るい面を示す箇所はほかにもあります。以下の聖句をご覧ください。ホセア 6:1。ヨエル 2:32。オバデヤ 17。ナホム 1:15。ハバクク 3:18,19。ゼパニヤ 2:2,3。ハガイ 2:7。ゼカリヤ 12:8,9。マラキ 4:2。
c 12人の中には,一つの国だけでなく,幾つもの国に対して預言した人もいます。
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エホバ ― 予告して成就させる神エホバの日を思いに留めて生きる
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第4章
エホバ ― 予告して成就させる神
1,2 (イ)現状は制御不能である,と感じる人がいるのはなぜですか。(ロ)12預言者はエホバのご性格をどのように描写していますか。
生活が思うようにゆかず制御不能である,と多くの人が感じています。そして,様々なニュース記事を読み,人類全体が回復の見込みのない悪化の一途をたどっていると考えています。世界の諸問題を解決しようとする試みは,ただでさえ危機的な事態をいっそう複雑にしているように思えます。この本で取り上げている12預言者の中にも,同様の不安な状況に直面した人たちがいました。その人たちの伝えた希望の音信からわたしたちは益を得ることができ,その音信によって他の人を慰めることもできます。―ミカ 3:1-3。ハバクク 1:1-4。
2 12預言書の柱となる考えは,宇宙の主権者であるエホバが人間に関する物事を完全に統御し,わたしたちの福祉に深い関心を払っておられる,ということです。わたしたちのだれもが,「エホバはわたしの福祉に関心を払ってくださっている」と言えるのです。12預言者は「万軍のエホバ」の魅力的な特徴を描写しています。神は『地に触れて,それを溶け去らせる』ことのできる方ですが,ご自分の民に,「あなた方に触れる者はわたしの目の玉に触れているのである」と確言しておられます。(アモス 4:13; 9:5。ゼカリヤ 2:8)神は愛に基づいて行動し,憐れみと許しを差し伸べられます。そのことを示す聖句を読むと,心温まる思いがするのではないでしょうか。(ホセア 6:1-3。ヨエル 2:12-14)もちろん,これらの預言者の書は神のご性格のあらゆる面を掘り下げているわけではありません。そうするためには聖書の66の書すべてが必要です。とはいえ,この12の書は神の魅力的な性格と行動の仕方を知るための優れた手段です。
3 12預言書は,エホバが目的を持つ神であることをどのように明らかにしていますか。
3 エホバは将来を予告する方また目的を必ず成し遂げる方であり,12預言者の書は,そのような方であるエホバの信頼性に対する確信を強めてくれます。そして,神がやがてご自分の支配のもとで地を楽園とされることを保証しています。(ミカ 4:1-4)12預言書の幾つかは,メシアの到来のために,また罪と死から人類を自由にする贖いのために,エホバがどのように道を備えられたかも述べています。(マラキ 3:1; 4:5)では,こうした点すべてを知ることが肝要なのはなぜでしょうか。
愛のある主権者は完全に統御しておられる
4,5 (イ)12預言者は,神に関するどんな基本的な真理を強調していますか。(ロ)エホバの全能性について,あなたはどう感じますか。
4 前の章で触れた,支配権に関して神に投げかけられた挑戦を思い出してください。エホバの権威に対する反逆が生じ,エホバの動機に疑いが差し挟まれた結果,天にいた一部の者たちが神に背き,地を大混乱に陥れました。ですから,宇宙の完全な秩序が保たれ,人間が平安に暮らすには,エホバの主権に対する敬意と服従が欠かせません。それゆえエホバは,ご自分の主権を立証するという正当な決意を抱いておられます。では,この点に関する理解を深めるうえで12預言書がどのように役立つかを考えましょう。
5 エホバの使者である預言者たちは,エホバの高貴な地位を強調しました。例えば,アモスは全能者のみ名と主権を大いなるものとし,「主権者なる主」という称号を21回用いています。この称号は,まことの神は計り知れないほど偉大であり,その力が及ばないものなどないということを示しています。(アモス 9:2-5。「全能者エホバ」という囲みをご覧ください。)エホバは宇宙の唯一の正当な主権者であり,命のない偶像は全く足元にも及びません。(ミカ 1:7。ハバクク 2:18-20。ゼパニヤ 2:11)エホバは,万物の造り主という地位ゆえに,あらゆるものに対して主権を行使する固有の権利をお持ちです。(アモス 4:13; 5:8,9; 9:6)このことがあなたにとって重要なのはなぜでしょうか。
6 すべての人はどのように神の目的の成就に関係していますか。
6 差別や不公正や偏見に悩まされたことのある方なら,愛のある主権者があらゆる人を気遣っておられることを知って慰められるでしょう。エホバは古代の一つの国民と特別な関係にありましたが,あらゆる国と言語の人々を益するという決意を表明されました。エホバは「全地のまことの主」です。(ミカ 4:13)み名が「諸国民の間で大いなるものとなる」と断言しておられます。(マラキ 1:11)天の父がご自分を公平に知らせておられるので,エホバの崇拝者になるようにとの招きに,『諸国のあらゆる言語から来た者たち』が意欲的にこたえ応じています。―ゼカリヤ 8:23。
7 エホバのみ名の意味が重要なのはなぜですか。
7 神がどのような方で,これから何を行なわれるかという点を知ることは,神のみ名と密接に関連しています。(詩編 9:10)ミカの時代,エホバの名を担う大勢の人があまりにも不従順だったため,み名がそしられました。霊感のもとにミカは「エホバの名の優越性」を強調し,「実際的な知恵のある人は[神の]み名を恐れるようになる」ことを指摘しました。(ミカ 5:4; 6:9)なぜでしょうか。永続する将来を望む人が抱く確かな希望はどれも,「彼はならせる」という神の名にこめられた深い意味と関係があるのです。エホバは,全被造物の益のために必要などんなものにでもなることのできるひとりの神であり,あなたはそのみ名を担い,その方について語ることができます。そうすることからどれほど大きな喜びが得られるかを,ヨエル 2章26節を読んで考えてみてください。神は,物事を生じさせる無限の能力を持っていることを実証してこられました。12預言者がふれ告げた数々の預言の成就はその証拠となっています。
8 あなたは,エホバのみ名について知った結果,何をしようと思うようになりましたか。
8 幾百万もの人々が,エホバは何であれ望む事柄を行なったり成就させたりできるということを学び,良い感化を受けています。ヨエルはその点を示して,「エホバの名を呼び求める者はみな安全に逃れる」と述べました。この言葉は,クリスチャンの筆者たちによって引用され,よく知られています。(ヨエル 2:32。使徒 2:21。ローマ 10:13)わたしたちもミカと同じように,「わたしたちは,定めのない時に至るまで,まさに永久に,わたしたちの神エホバの名によって歩む」という固い決意を抱いているでしょうか。(ミカ 4:5)そうであれば,迫害や個人的な苦悩を経験している時,確信をもって「エホバの名に避け所を得る」ことができます。―ゼパニヤ 3:9,12。ナホム 1:7。
9 神は支配者たちをどれほどまで統御しておられますか。
9 これらの預言書を読むと,エホバが支配者や有力者たちをも統御しておられるという確信が強まります。エホバは,それらの人たちにご意志に沿った行動をさせる能力をお持ちです。(箴言 21:1)ペルシャのダリウス大王の場合を考えましょう。真の崇拝の敵たちが,エルサレムでのエホバの神殿の再建をやめさせようとしてダリウスに支援を求めました。ところが,正反対の結果になりました。西暦前520年ごろ,ダリウスはキュロスの布告を再施行させ,ユダヤ人の建設作業を援助したのです。別の障害が立ちはだかった時,ユダヤ人の総督ゼルバベルに,次のような神からの音信が与えられました。「『軍勢によらず,力にもよらず,ただわたしの霊による』と,万軍のエホバは言った。大いなる山よ,あなたは何者か。ゼルバベルの前にあっては,あなたも平たんな土地となるであろう」。(ゼカリヤ 4:6,7)エホバはどんな障害にも妨げられることなく今の邪悪な事物の体制を滅ぼし,ご自分の崇拝者たちのために楽園をもたらされます。―イザヤ 65:21-23。
10 神はどんなものも統御しておられますか。その点に注目すべきなのはなぜですか。
10 エホバが自然界の様々な力を統御しておられることについても考えましょう。エホバは望むなら,それらを用いて敵を滅ぼすことができます。(ナホム 1:3-6)ゼカリヤは,エホバがご自分の民をどのように保護できるかを強調し,比喩的な言葉遣いで次のように述べました。「彼らの上方にはエホバが見え,その矢は稲妻のように出て行く。また,角笛を主権者なる主エホバが吹かれる。また,必ず南の風あらしと共に進まれるであろう」。(ゼカリヤ 9:14)では,神にとって,現代の不敬虔な諸国民に対するご自分の至上性を実証するのは難しいことでしょうか。難しいはずがありません。―アモス 1:3-5; 2:1-3。
約束を守る信頼できる方
11,12 (イ)ニネベが難攻不落と見られていたのはなぜですか。(ロ)神の預言の言葉どおり,ニネベはどうなりましたか。
11 あなたが西暦前9世紀に,現在の中東に当たる地域で生活していたなら,どの大都市のうわさを耳にしたでしょうか。おそらくニネベでしょう。アッシリアのその著名な都市は,エルサレムの北東およそ900㌔,チグリス川の東岸にありました。その壮大さに関する話があなたの耳にも届いたことでしょう。外周は約100㌔もあったのです。幾つもの王宮,神殿,広い街路,公共の庭園,また堂々たる図書館があり,ニネベを訪れた人は,その壮麗さはバビロンにも匹敵すると言いました。さらに,軍事戦略家は重厚で堅固な外壁と内壁について語りました。
12 「難攻不落!」 ニネベについて多くの人がそう言ったに違いありません。しかし,小国ユダの預言者たちは,エホバがその「流血の都市」に滅びを宣告しておられると断言します。住民がヨナの音信にこたえ応じたので,ニネベはしばし神の裁きを免れます。しかし,ニネベ人は以前の邪悪な道に戻ってしまいました。ナホムはニネベについてこう予告します。「剣があなたを切り断つ。……あなたに臨む大変災からの安らぎはない」。(ナホム 3:1,7,15,19。ヨナ 3:5-10)同じころ,神はゼパニヤを用いて,ニネベが荒れ果てた所となることを予告されます。(ゼパニヤ 2:13)エホバの言葉が成就して,当時の無敵の国家が覆されるのでしょうか。答えが明らかになったのは,西暦前632年ごろ,バビロニア人,スキタイ人,メディア人がニネベを攻め囲んだ時です。突然の洪水で城壁が崩れ,攻撃側の兵士が突入しました。(ナホム 2:6-8)強大さを誇った都市が,あっという間に瓦礫の山と化しました。今日でも,ニネベは荒れ果てたままです。a 「歓喜の都市」も,神の言葉の成就を食い止めることはできませんでした。―ゼパニヤ 2:15。
13 12預言書の預言の成就について,どんな証拠がありますか。
13 ニネベに生じたことは,預言の成就の一例にすぎません。現代の中東の地図を見てください。アッシリア,アンモン,エドム,バビロン,モアブといった国が見つかりますか。見つからないでしょう。こうした国はかつて大いに栄えていましたが,12預言者はその終焉を予告しました。(アモス 2:1-3。オバデヤ 1,8。ナホム 3:18。ゼパニヤ 2:8-11。ゼカリヤ 2:7-9)そして,それらの国は一つまた一つと消えてゆきました。エホバはそれらが消滅すると言明され,実際,そのとおりになったのです。また,バビロンでの捕囚から帰還するユダヤ人の残りの者に関する預言者たちの予告も成就しました。まさに予告どおりのことが生じました。
14 確信を抱いて,エホバの約束を中心とした生活を築けるのはなぜですか。
14 エホバの預言する能力を示すこうした証拠は,あなたの確信にどんな影響を与えるでしょうか。エホバがこれからも約束を守られる,と固く信じることができるのではありませんか。エホバは「偽ることのできない」神なのです。(テトス 1:2)さらに,み言葉を通して,わたしたちが知るべき事柄を教えてくださっています。あなたは,エホバのご意志を行なうことを中心とした生活を築き,神の預言の言葉に確信を抱いて生きることができます。12の書に収められている預言は,過去に成就した予言だけではありません。現在成就しつつある預言や,間もなく実現する預言も数多くあります。このように,12の書の記録は,現在と将来に関する預言が成就するとの確信を強めてくれます。これらの預言は真剣に受け止めるべきものなのです。
ニネベは難攻不落と思われたが,エホバの預言はどうなったか
気遣いのある父親
15 個人的な問題で苦労している時に,ミカの経験はどのように助けとなりますか。
15 神が信頼に値するのは,諸国家や世界全体の将来に関してだけではありません。エホバは,あなた個人にかかわる分野でも物事を予告して成就させる方です。どうしてそう言えるでしょうか。あなたも個人的な問題の扱いに苦労することがあるでしょう。そのような時には,理解してくれる人がいればよいというわけではなく,助けてくれると信頼できる人が必要なのではないでしょうか。西暦前8世紀,ユダの誇り高い民を相手にしていたミカは非常に寂しく感じたに違いありません。地上で忠実を保っているのは自分だけで,実の家族も信頼できないと思えたかもしれません。どこを見ても,血に飢えた,不正直で腐敗した人々がいました。それでもミカは,神の約束に元気づけられました。神は,だれが何をしようと忠実な者たちを世話すると約束しておられたのです。あなたもその約束から慰めを得られます。神を尊ばない人々の中でエホバの崇拝者が少数あるいは自分だけである場合は,特にそうでしょう。―ミカ 7:2-9。
16 神は腐敗や圧制に目を留めて義なる者たちを救い出される,と確信できるのはなぜですか。
16 今日でもよくあることですが,ユダとイスラエルの富んだ人や有力者たちは貪欲で不公平になりました。人々は,重税や土地の横領により,違法な仕方で奴隷とされていました。貧しい人たちは冷淡に,そのうえ残酷に扱われていました。(アモス 2:6; 5:11,12。ミカ 2:1,2; 3:9-12。ハバクク 1:4)神はご自分の使者たちを通して,腐敗や圧制を容認しないこと,および執拗に悪を行ない続ける者を処罰することを明らかになさいました。(ハバクク 2:3,6-16)神は,『強大な国々に関して事を正す』こと,また是認された僕たちが「まさに,各々自分のぶどうの木の下,自分のいちじくの木の下に座り,これをおののかせる者はだれもいない」ことを予告しておられます。(ミカ 4:3,4)それがどれほどすばらしい救済となるか,想像してみてください。神は他の多くのことを予告し,成就させてこられました。ですから,この約束も果たされると確信できるのではないでしょうか。
17,18 (イ)神が人々に希望を差し伸べておられるのはなぜですか。(ロ)エホバの懲らしめをどうみなすべきですか。
17 エホバが約束を果たされるのは,人間に感銘を与えようとするかのように,予言する能力をただ見せつけるためではありません。エホバは,原則に基づいた愛を動機として行動なさいます。「神は愛」だからです。(ヨハネ第一 4:8)西暦前8世紀のホセアの例を思い出してください。妻ゴメルがホセアに不忠実だったのと同じく,イスラエル人はエホバに不忠実でした。イスラエルの偶像礼拝は姦淫に似ていました。民はエホバの清い崇拝にバアル崇拝を持ち込んだのです。さらに,アッシリアやエジプトとも比喩的な「淫行を犯し」ました。エホバはどう対応されますか。ホセアは,不忠実な妻を見捨てずに連れ戻すことになっていました。エホバも,愛ゆえにご自分の民を見捨てませんでした。「地の人の縄をもって,愛の綱をもってわたしは彼らを引っ張りつづけた。……わたしは各人のもとに穏やかに食物を携えて行った」とあります。(ホセア 2:5; 11:4)民は,誠実に悔い改めてこたえ応じるなら,神の許しを得て,神との関係を回復することができました。(ホセア 1:3,4; 2:16,23; 6:1-3; 14:4)あなたも,エホバの愛情に注目すると感動を覚えるのではありませんか。こう自問してください。『エホバが過去にそのような愛情を示されたのであれば,エホバの愛を,また優しくて忠節で不変の,尽きない愛情を確信できるのではないだろうか』。―ホセア 11:8。
18 12預言書からは,神の愛には矯正が含まれるということも学べます。エホバは,道からそれた民に,彼らを『全く滅ぼし尽くし』たりはしないと保証なさいました。(アモス 9:8)神は必要な時には処罰を差し控えられませんでしたが,民は神の処罰が一時的なものであることを知って大いに安堵したはずです。マラキ 1章6節はエホバを,愛のある父親になぞらえています。父親は矯正を目的として,愛する子を懲らしめることがあるでしょう。(ナホム 1:3。ヘブライ 12:6)とはいえ,天の父は愛ゆえに,怒ることに遅い方です。そしてマラキ 3章10,16節がはっきり述べているとおり,僕たちに寛大に報いをお与えになります。
19 どんな自己吟味をするのはよいことですか。
19 マラキは,その書の初めに,「『わたしはあなた方を愛した』と,エホバは言われた」という保証の言葉を記しています。(マラキ 1:2)イスラエルに対する神のこの保証の言葉を踏まえ,こう自問してみましょう。『わたしは,神の愛を享受する妨げになりかねないことを行なっていないだろうか。神の愛のどんな面をもっとよく知り,実感したいだろうか』。神の愛を深く味わうなら,神のとこしえの愛情に対する確信が強まります。
許しによって救いが可能になる
20 神の許しによって,どのように救いが可能になりますか。
20 これらの預言書を読むと,エホバが災いをも予告されたことに気づきます。なぜそうされたのでしょうか。多くの場合,民を悔い改めへと動かすためでした。そのために,異国人が西暦前740年にサマリアを,そして西暦前607年にエルサレムを滅ぼすこともお許しになりました。神の予告が成就しましたが,後に神は,悔い改めた人々が故国に復帰することを許されました。実のところこれらの書は,罪から離れて神のもとに来る人々を神が寛大に許して復帰させることを強調しているのです。(ハバクク 3:13。ゼパニヤ 2:2,3)ミカは感動して次のように明言しました。「だれかあなたのような神がいるでしょうか。ご自分の相続財産である民の残りの者のためにそのとがを赦し,違犯を見過ごしておられるのです。永久にその怒りを保たれるようなことはありません。愛ある親切を喜びとされるからです」。(ミカ 7:18。ヨエル 2:13。ゼカリヤ 1:4)預言の成就がそれを裏付けています。
21 (イ)12預言者は,メシアについてどんなことを示しましたか。(ロ)あなたは,メシアに関するどの預言が興味深いと思いますか。
21 永続的な許しのための恒久的な法的基礎に関して,エホバはメシアの到来を予告されました。メシアは,罪深い人類のための「対応する贖い」として,自らの人間としての命を犠牲にします。(テモテ第一 2:6)アモスは,ダビデの子であるメシアがもたらす回復を指し示しました。(アモス 9:11,12。使徒 15:15-19)ミカは,イエスの誕生する場所までも明らかにしました。その方は,ご自分の犠牲に信仰を働かせる人すべてに命を与えるために登場します。(ミカ 5:2)ゼカリヤは,「新芽」つまりイエスが『腰を下ろしてその王座から治める』ことについて語りました。(ゼカリヤ 3:8; 6:12,13。ルカ 1:32,33)こうした預言をさらに調べてゆくなら,信仰が強まるに違いありません。―「メシアに関する主要な預言」という囲みをご覧ください。
22 12預言者がエホバについて明らかにしている事柄により,エホバへの確信がどのように強化されますか。
22 12預言者の音信を読むと,神の最終的な勝利に対する確信が深まります。エホバはわたしたちの擁護者であり,真の公正をもたらしてくださいます。神の言葉は存続します。神は,ご自分の民との協約を忘れず,僕たちを気遣い,すべての圧制者の手から救い出されます。(ミカ 7:8-10。ゼパニヤ 2:6,7)エホバは今も変わっておられません。(マラキ 3:6)ご自分の目的を成し遂げるうえで,行き詰まることも阻まれることもありません。このことを考えると本当に心強く感じるのではないでしょうか。裁きの日が来ると神が述べておられるので,その日は来ます。ですから,エホバの日をずっと見張っていましょう。「エホバは全地の王となるのである。その日,エホバはひとり,そのみ名も一つであることが明らかになるであろう」。(ゼカリヤ 14:9)エホバはそう予告しておられ,それを成就させるのです。
a イラク戦争前の2002年11月にダン・クルックシャンク教授がこの地を訪れ,BBCテレビの番組でこう述べました。「モスルの外れにニネベの都市遺跡が広がっており,ニムルードとともに……1840年代以降,英国の考古学者たちによって精力的な発掘が行なわれました。……これらアッシリアの都市の調査で発見されたのは,まさに,はるか昔に消え去り,ほとんど神話と化していた文明です。その文明については,飾り文句の全くない不可解な記述が聖書の中にわずかにあるのみでした」。
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神に是認される崇拝によって『エホバを求めなさい』エホバの日を思いに留めて生きる
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第5章
神に是認される崇拝によって『エホバを求めなさい』
1 あなたは神の民の一人として,どんな祝福を享受していますか。
預言を成就させる神を知っているあなたは何と恵まれているのでしょう。あなたが享受できる状態について,預言者ホセアはこう書いています。『わたしは忠実をもってあなたと契りを結び,あなたは必ずエホバを知ることになる』。ここでホセアは,神の民がバビロンでの捕囚から帰還した時に享受する,楽園のような安全な状態を描いています。現代の神の民も,霊的な繁栄と安全を享受しています。楽園のような状況にいるのです。(ホセア 2:18-20)今あなたは,献身した神の僕つまりエホバの証人として,神のみ名を担うようになっています。そして,これからもそうしてゆきたいと願っておられるでしょう。―イザヤ 43:10,12。使徒 15:14。
アモス
2,3 (イ)エホバが古代のご自分の民の崇拝様式を憎まれるようになったのはなぜですか。(ロ)預言者たちが伝えた音信を調べるべきなのはなぜですか。
2 古代イスラエルはエホバに献身した国民であり,他のどの国民も受けたことのない一式の規範を神から与えられました。(申命記 4:33-35)しかし,西暦前9世紀の終わりにはイスラエル人の状況が大きく変化していたため,神は預言者アモスを通して次のようにお告げになります。「わたしはあなた方の祭りを憎み,これを退けた。……あなた方が全焼燔の捧げ物をささげるとしても,その供え物を喜びとはしない」。(アモス 5:21,22)神は今日の世界的な会衆に対してこのように述べてはおられませんが,あなたは,もしその時代にいて自分の崇拝についてこうした評価を聞いたなら,どう感じたでしょうか。わたしたち各人の学べる教訓がありますか。
3 当時,神の民は,神に是認される仕方でエホバを崇拝していると主張していました。ところが民の多くは,子牛像やカナン人のバアルといった異教の神々に仕えたり,高き所で犠牲をささげたりしていました。引き続きエホバに誓いを立てる一方で,天の軍勢に身をかがめていました。そのため,まことの神は預言者たちを遣わし,ご自分のもとに帰って清い崇拝を行なうようにと民を強く促しました。(列王第二 17:7-17; 21:3。アモス 5:26)ですから,献身した神の僕にとっても注意を向けなければならない分野があると言えます。行動や態度を吟味して,それらがエホバに是認される崇拝にふさわしいかどうかを確かめるべきなのです。
「神についての知識」
4 王ヤラベアム2世の治世中,どんな状態が広く見られましたか。
4 12預言者の最初の人たちが神の代弁者として活動していた時期のことを考えましょう。エホバの日がイスラエルの十部族王国に臨むという予告が当時なされていましたが,表面上は繁栄ムードが漂っていました。ヨナの預言どおり,王ヤラベアム2世はイスラエルの境界を北方のダマスカス辺りから死海に至るまで回復しました。(列王第二 14:24-27)ヤラベアムは悪い事柄を行ないましたが,辛抱強いエホバはイスラエルを天の下から消し去ることは望まず,イスラエル人が悔い改めて『エホバを捜し求めて生きつづける』ための時間をお与えになりました。―アモス 5:6。
5 イスラエル人は,何が欠けていたためにエホバに退けられましたか。
5 繁栄していたイスラエル人は,その時間を活用してエホバのもとに帰ることができたはずです。エホバをもっとよく知り,神に是認される事柄を追い求めることによって,帰るべきだったのです。しかし,自己過信に陥って,『災いが近づいたり,自分たちにまで及んだりすることはない』と考えました。(アモス 9:10)『満ち足りてくると,その心が高ぶるようになって』,エホバを忘れた,と言えるでしょう。(ホセア 13:6)これは単なる古代の出来事で自分とは関係がない,などと考えてはなりません。エホバがイスラエル人に対して法的な言い分をお持ちになった理由に注目してください。「知識をあなたが退けたゆえに,わたしもあなたを退けて,祭司としてわたしに仕えることをやめさせる」とあります。彼らはエホバに献身しており,家族もみな献身していましたが,個人としては「神についての[真の]知識」が欠けていたのです。―ホセア 4:1,6。
6 どんな意味で,イスラエル人は神についての知識が不足していましたか。
6 とはいえ,神の言葉を聞いたことがなかったわけではありません。イスラエル人の親は,子どもと共に神の言葉を考察することになっていました。ほとんどの人は聖書の話を親から,また普段の会話や公の集まりで聞いていたことでしょう。(出エジプト記 20:4,5。申命記 6:6-9; 31:11-13)例えば,モーセが十のおきてを受けるためにシナイ山にいた間にアロンが金の子牛を作った時の出来事について聞いていました。(出エジプト記 31:18–32:9)ですから,この預言者たちの時代のイスラエル人は律法についての知識があり,歴史上の出来事についての話も聞いていました。しかし,その知識は死んだものでした。神が望まれる仕方で神を崇拝するよう当人たちを動かすものとはなっていなかったからです。
どのようにしてエホバを忘れるようになりかねないか
7 (イ)イスラエル人はどのようにして,いとも簡単に不従順になりましたか。(ロ)クリスチャンは,どのようにして『自分の造り主を忘れるようになる』可能性がありますか。
7 『どうしてイスラエル人はいとも簡単に不従順へと誘い込まれたのだろう』と思えるかもしれません。ホセアはその過程について,『イスラエルは自分の造り主を忘れるようになった』と述べています。(ホセア 8:14)『忘れるようになった』という表現は,原語のヘブライ語での動詞の語形の意味合いをよく伝えています。イスラエル人は,エホバに関する記憶を突然失ったのではありません。むしろ,時たつうちに,神に是認される仕方で神を崇拝することの重要性を見失っていったのです。クリスチャンもそのようなわなに陥る可能性があるでしょうか。例として,家族に必要な物を備えようと真剣に努力している人のことを考えましょう。(テモテ第一 5:8)その人は必要物を備えるために,世俗の仕事をそれなりに重要視するでしょう。何かの事情で,仕事のためにクリスチャンの集会を休まざるを得ないと思うことがあるかもしれません。やがて,集会を休むことにあまり抵抗を感じなくなり,休む回数が増えてゆきます。徐々に神とのきずなが弱まり,『自分の造り主を忘れるようになって』しまいます。同様のことは,未信者の親や親族を持つクリスチャンにも生じるかもしれません。親や親族のためにどれほどの時間を,いつ取り分けるか,という問題に直面するのです。(出エジプト記 20:12。マタイ 10:37)旅行,趣味,娯楽にどれほどの時間や注意を振り向けるかを決める場合も,同じではないでしょうか。
8 アモスの時代に,『歯に何も付いていない』とはどういう意味でしたか。
8 わたしたちは神の言葉を学んでおり,知識を活用しています。それでも各自,アモス書に出てくる「何も付いていない歯」という表現について考えてみることができます。神はアモスを通して民にこう通告なさいました。「わたしとしても,あなた方のすべての都市で何も付いていない歯を,すべての場所でパンの不足をあなた方にもたらした」。(アモス 4:6)歯に何も付いていなかったのは,歯を磨いたからではありません。食べる物が何もなく,飢きんに悩まされていたからです。しかもこの通告は,『パンの飢きんではなく,水の渇きでもなく,エホバの言葉を聞くことの飢きん』に関するものでした。―アモス 8:11。
クリスチャンがたくさんの霊的なものに囲まれながら飢きんを経験する,ということがあるか
9,10 (イ)クリスチャンも,どのようにして霊的な飢餓に陥ることがあり得ますか。(ロ)霊的な飢えという危険に用心する必要があるのはなぜですか。
9 アモスが描写した事柄の霊的な成就は,キリスト教世界の嘆かわしい状態に見られます。それとは対照的に,世界中の神の民には「天の水門」が開かれ,たくさんの霊的な備えという祝福が与えられています。(マラキ 3:10。イザヤ 65:13,14)とはいえクリスチャンは,『自分は個人としてその霊的食物をどれほど取り入れているだろうか』と自問できます。興味深いことに研究者の発見によると,脳の空腹中枢が損なわれた実験動物は食欲を失い,食物が十分あるのに餓死してしまうことがあります。個々のクリスチャンも霊的な空腹中枢が冒され,十分な霊的食物に囲まれていながら飢えるようになる,ということがあり得るのではないでしょうか。
10 あなたご自身の状況を念頭に置いて,次の点を考えてみてください。エホバはイスラエル人に霊的食物を豊かにお与えになりました。民には律法があり,それによって神との関係を強めることができました。神に関する知識を子どもに教え込むための教育プログラムもありました。神のご意志を理解するのを助けてくれる預言者たちもいました。それなのに,民はエホバを忘れるようになったのです。聖書によると,ホセアの時代の人たちは,物質面で『満ち足りてくると,その心が高ぶるようになり』ました。(ホセア 13:6。申命記 8:11; 31:20)神とのきずなよりも物質的な事柄を重視することを避けたいなら,この危険を常に意識している必要があります。―ゼパニヤ 2:3。
より重大な事柄に目を留める
11,12 (イ)ウジヤ王の治世中,なぜ預言者たちは,エホバに帰るようにと民を励まさなければなりませんでしたか。(ロ)ヨエルはどんなことの必要性を際立たせましたか。
11 ヤラベアム2世がイスラエルを治めていたころ,ウジヤ(別名アザリヤ)がユダを支配していました。ウジヤは領土を広げ,エルサレムを補強しました。『まことの神が引き続き彼を助けた』ので,ウジヤは「異例なほどに強さを発揮し」ました。また,「エホバの目に正しいことを行ない続け」,「神を求め」ました。とはいえ,ユダの多くの人は相変わらず,高き所で犠牲の煙を立ち上らせていました。―歴代第二 26:4-9。
12 このように,ユダとイスラエルの人々は神のみ名を担っていましたが,多くの場合,その崇拝には神に是認されない事柄が含まれていました。預言者たちは,民が真の崇拝と偽りの崇拝を見分けるのを助けようとしました。神はヨエルを通して,「あなた方は心をつくし,断食と涙とどうこくとをもってわたしに帰れ」と訴えかけておられます。(ヨエル 2:12)神は民が『心をつくして』ご自分のもとに来ることを望んでおられた,という点に注目してください。この問題には心が関係していたのです。(申命記 6:5)民はうわべではエホバを崇拝していたが,エホバに対して心が十分にこもっていなかった,と言えるでしょう。神は預言者たちを通して幾度も,愛ある親切と公正と柔和の重要性を強調なさいました。これらはみな心の特質です。―マタイ 23:23。
13 バビロンでの捕囚から帰還したユダヤ人は,どんな点を考えなければなりませんでしたか。
13 次に,ユダヤ人が故国に帰還した後に生じた事柄も考えましょう。律法に沿った真の崇拝が回復されたとはいえ,すべての事が正しく行なわれたわけではありません。ユダヤ人は,エルサレムの滅びに関連した出来事の記念日に断食をしました。「あなた方は,本当にわたしに,このわたしに対して断食を行なったのか」と,エホバはお尋ねになります。エルサレムが荒廃したのは神の公正ゆえであり,嘆くべきことではありませんでした。それらユダヤ人は,過去を振り返って悲しげに断食をするのではなく,真の崇拝の数々の祝福ゆえに祭りの時節には歓び,歓喜しているべきでした。(ゼカリヤ 7:3-7; 8:16,19)注意を向けなければならない点がほかにもありました。例えば,どんな点でしょうか。「真の公正をもってあなた方の裁きを行なえ。互いに対して愛ある親切と憐れみとを実行せよ。……また,互いに対し心の中で悪をたくらんではならない」とあります。(ゼカリヤ 7:9,10)神への心のこもった崇拝について預言者たちが神の民に教えた事柄は,わたしたちすべてにとって益となります。
14 (イ)捕囚から帰還した人たちは,崇拝の一部として何を行なう必要がありましたか。(ロ)預言者たちは,崇拝のより重大な面をどのように強調しましたか。
14 心のこもった崇拝にはどんなことが含まれるでしょうか。捕囚前も捕囚後も神の民には何が求められていましたか。ご存じのとおり,道徳に関する神の規準を守らなければなりませんでした。神のご意志を聞いて学ぶために集まることなど,律法が要求する明確な行為や活動もありました。とはいえ,それに加えて神は預言者たちを通し,愛ある親切,公正,柔和,憐れみ,慎みを培って発揮することを強調なさいました。エホバがそれらの特質をどのように強調なさったかに注目してください。『わたしが喜びとしたのは愛ある親切であって,犠牲ではなかった。また,全焼燔の捧げ物より,むしろ神を知ることであった』。「あなた方自身のために義のうちに種をまけ。愛ある親切にそって刈り取りを行なえ」。(ホセア 6:6; 10:12; 12:6)ミカはこう宣明しました。「エホバがあなたに求めておられるのは,ただ公正を行ない,親切を愛し,慎みをもってあなたの神と共に歩むことではないか」。(ミカ 6:6-8)預言者ゼパニヤも神の民に,『地の柔和な者たちよ,エホバを求めよ。義を求め,柔和を求めよ』と強く勧めました。(ゼパニヤ 2:3)このような態度は,神に是認される崇拝に不可欠です。
あらゆる人に良いたよりを伝えようとしていますか
15 預言者たちの訓戒に沿って,クリスチャンは崇拝において何をする必要がありますか。
15 こうした態度は,わたしたちの崇拝においてどんな位置を占めているでしょうか。言うまでもなく,王国の良いたよりを宣べ伝えるのは非常に重要なことです。(マタイ 24:14。使徒 1:8)とはいえ,次のように自問できるかもしれません。『わたしは,自分の区域での伝道を負担や重荷とみなす傾向があるだろうか。それとも,命を救う聖書の音信を聞く必要のある人たちを助ける機会とみなしているだろうか。人々に憐れみを示しているだろうか』。わたしたちは,憐れみと愛ある親切を動機として,エホバの日について警告するべきです。また,その音信をあらゆる人に伝えようとすることには,公正と義もかかわっています。―テモテ第一 2:4。
16,17 柔和と慎みが崇拝において非常に重要なのはなぜですか。
16 別の例として,クリスチャンの集会に出席する責務について考えましょう。その大切さはあなたもご存じでしょう。(ヘブライ 10:24,25)集会の出席に柔和と慎みがどう関係しているかを考えたことがおありですか。柔和な人は謙遜なので,指示を受け入れ,学んだ事柄を適用して,エホバの司法上の定めを実践します。慎みのある人は自分の限界をわきまえており,集会を通して与えられる励ましや知識が自分に必要であることを認めます。
17 このような例を考えると,預言者たちの教えた事柄からどのように益を得られるかが分かります。では,こうした分野のいずれかにおいて調整が必要であると感じるなら,どうすればよいでしょうか。あるいは,大きな間違いを犯し,その記憶に悩まされているならどうですか。12預言書から慰めと助けが得られます。
エホバのもとに帰る
18 (イ)12預言書には,どんな人にとって特に慰めとなる音信がありますか。(ロ)ご自分のもとに帰るよう民に訴えかけるエホバについて,あなたはどう感じますか。
18 すでに見たように,この本で取り上げている預言者たちは,糾弾し断罪しただけではありません。ご自分のもとに戻るようエホバが民に強く勧めておられる,ということも示しました。次のようなホセアの勧告の背後にある気持ちをじっくり考えてみてください。「さあ,わたしたちは是非ともエホバのもとに帰ろう。自らわたしたちを引き裂かれはしたが,またいやしてもくださるからだ。わたしたちをしきりに打たれはしたが,また包んでもくださる。……そして,わたしたちはエホバを知るであろう。知ろうとして追求するであろう」。(ホセア 6:1-3)確かにエホバ神は公正のうちにまずイスラエルに,そしてユダに裁きを執行されました。とはいえ,民はそのようにして打たれたことを,霊的健康を回復させるためのステップと見るべきでした。(ヘブライ 12:7-13)強情で気まぐれな民がエホバのもとに帰るなら,エホバは「いやし」,「包んで」くださるでしょう。人がひざまずいて仲間の傷に包帯を巻いているところを思い浮かべ,次いで,エホバがそうしておられるところを想像してみてください。エホバは何と憐れみ深い神なのでしょう。ご自分のもとに進んで帰って来る者たちを包んでくださるのです。このことを考えると,エホバに対する罪を犯したとしてもエホバのもとに帰りたいと思うのではありませんか。―ヨエル 2:13。
19 エホバを知ることには何が関係していますか。
19 神のもとに帰ることには何が関係していますか。ホセアは,神を「知る」だけでなく『エホバを知ろうとして追求する』ことの必要性を指摘しています。ホセア 6章3節に関して,現代の参考文献はこう述べています。「神について知ることと神を知ることには著しい相違がある。それは,恋についての本を読むことと恋をすることの相違に似ている」。エホバについての表面的な知識だけでは不十分です。自分にとってエホバが現実の存在となり,気兼ねなく近づける信頼できる友とならなければならないのです。(エレミヤ 3:4)そのような関係になれば,自分がある行動をした時にエホバがどうお感じになるかが分かります。神に是認される崇拝を追い求めるうえで,それは大きな助けとなります。
20,21 ヨシヤ王はどのようにして,神についての知識を自分自身のものとしましたか。
20 ヨシヤ王は真の崇拝を追い求める点での立派な手本です。ヨシヤの例をもう少し詳しく考えてみましょう。ヨシヤが王になった時には,マナセとアモンの治世中にはびこった偶像礼拝,暴虐,欺きによって国がひどく損なわれていました。(列王第二 21:1-6,19-21)「エホバを求めよ」というゼパニヤの訓戒はヨシヤに良い影響を及ぼしたに違いありません。ヨシヤは「ダビデの神を求め始め」ました。そして,ユダから偶像礼拝を除く運動に着手し,かつて北王国の領土だった地域にまでその運動を拡大しました。―ゼパニヤ 1:1,14-18; 2:1-3; 3:1-4。歴代第二 34:3-7。
清めが必要だった時,ヨシヤは言い訳をしなかった
21 この清めの活動の後も,ヨシヤは引き続きエホバを求めました。そして神殿の修復を命じます。その作業の際に,「モーセの手によるエホバの律法の書」が見つかりました。律法の原本だったと思われます。その書が読まれた時,ヨシヤはどう反応しましたか。『王は律法の言葉を聞くや,直ちにその衣を引き裂きました』。また『心を裂き』,聞いた事柄をすぐに適用しました。自分はすでに多くのことを行なった,などと言って自分を正当化しようとはしませんでした。この改革の結果を覚えておられますか。「彼の一生の間,[イスラエルの子ら]はその父祖たちの神エホバに従うのをやめなかった」と書かれています。―歴代第二 34:8,14,19,21,30-33。ヨエル 2:13。
あなたは聖書の規準に合わせるために必要な変化を遂げますか
22 ヨシヤの手本からどんな益が得られますか。
22 あなたは,『自分ならどう反応しただろう』とお考えになるかもしれません。ヨシヤのように預言者たちの言葉に耳を傾け,行動と考えにおいて必要な変化を遂げたでしょうか。ゼパニヤとヨシヤの時代だけでなく,今日でも神の音信や助言にこたえ応じる必要があると言えます。自分の生き方や崇拝の仕方には調整が必要だと内心感じているクリスチャンは,12預言書を考察するなら,目覚めるための良い刺激を受けることでしょう。―ヘブライ 2:1。
23 何らかの点で改善の必要を感じるなら,どうすることができますか。
23 大魚の腹の中にいたヨナはこう言いました。「わたしはあなたの目の前から打ち払われました! あなたの聖なる神殿をどうして再び見ることがあるでしょうか」。あなたも同じような気持ちになることがあるかもしれません。(ヨナ 2:4)とはいえ,不完全で間違いを犯しやすい人間であるわたしたちは,エホバの次の言葉から大いに力づけられます。「わたしのもとに帰れ。そうすれば,わたしもあなた方のもとに帰ろう」。(マラキ 3:7)あなたがエホバとの関係を強める必要に気づいているなら,会衆の長老たちが喜んで助けになってくれるでしょう。車の運転と同じように,最初はいわばギアをローに入れて走り出さなければなりません。しかし,いったん動き出せば,前進するのは楽になるでしょう。エホバがあなたを迎え入れて援助してくださることを確信してください。エホバは,「慈しみと憐れみを持ち,怒ることに遅く,愛ある親切に富んでいる」方だからです。(ヨエル 2:12-14)確かに,預言者たちの伝えた音信は,神に是認される崇拝を追い求める人すべてにとって励みとなります。
エホバのもとに帰って『エホバを求める』ことが必要な人もいる
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『公正をわき出させる』― 神を知るためのかぎエホバの日を思いに留めて生きる
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第6章
『公正をわき出させる』― 神を知るためのかぎ
1 あなたが公正の感覚を持っているのはなぜですか。
歴史上,公正を推進して名を成した人は幾人もいます。人々が公正に魅力を感じるのはなぜでしょうか。人間は神の像に造られたからです。あなた自身も公正の感覚を持っており,公正な扱いを受けることを望んでおられるでしょう。それはあなたが,公正を「喜びとする」エホバの像に造られているからです。―エレミヤ 9:24。創世記 1:27。イザヤ 40:14。
2,3 エホバの公正について学ぶために12預言書を考察するとよいのはなぜですか。
2 聖書の様々な書を読むと,神の公正を深く知ることができます。特に,12預言書を調べると多くを学べます。12預言書は公正を非常に際立たせているので,ある聖書協会は,ホセア書,アモス書,ミカ書を一冊にして発行した本に「今こそ公正を!」(英語)という表題を付けたほどです。実際,アモス書には,「公正を水のように,義を絶えず流れ行く奔流のようにわき出させよ」という強い勧めの言葉があります。また,わたしたちの最優先すべき務めとしてミカが挙げた点にも注目してください。「エホバがあなたに求めておられるのは,ただ公正を行ない,親切を愛し,慎みをもってあなたの神と共に歩むことではないか」。―アモス 5:24。ミカ 6:8。
3 ですから,エホバをもっとよく知って見倣うには,その方の公正を把握することがどうしても必要です。公正はエホバの本質の一面なので,その公正を理解しなければ,エホバを知っているとは言えません。古代の神の僕たちも,「エホバは公正を愛される方」であるということを知っていました。―詩編 33:5; 37:28。
ハバクク
4 12預言書によって神の公正に対する確信が強まるのはなぜか,例を挙げて説明してください。
4 エルサレムにエホバの裁きが下される少し前に,預言者ハバククは次のように尋ねました。「エホバよ,いつまでわたしは助けを叫び求めなければならないのですか。……律法は鈍くなり,公正が施行されることは全くありません。邪悪な者が義なる者を取り囲んでいるため,そのために公正は曲げて施行されます」。(ハバクク 1:2,4)忠実なハバククは,聖書の入手可能な部分と自らの経験とを通してエホバを知るようになっていたので,神が公正を擁護して促進する方であることを確信していました。それでも,エホバが悪を許しておられる理由が気にかかっていたのです。神は,忠実な者たちを公正に扱うことをハバククに保証なさいました。(ハバクク 2:4)ハバククや他の人たちがそのような確信を抱けたのであれば,あなたはなおのこと強い確信を抱けるのではないでしょうか。なぜそう言えますか。今では聖書の全巻がそろっており,いっそう広範な記録から,エホバがどのように行動し,公正を含むご性格をどのように発揮されたかを調べることができるからです。あなたは,エホバを知り,その完全な公正を得心する点で恵まれた立場にいるのです。
5 これから,公正のどんな面に特に注意を向けますか。
5 エホバは,イスラエルに使者たちを遣わした時,公正であるべきことを強調なさいました。(イザヤ 1:17; 10:1,2。エレミヤ 7:5-7。エゼキエル 45:9)12預言者を通し,一貫して公正を前面に出されました。(アモス 5:7,12。ミカ 3:9。ゼカリヤ 8:16,17)その預言者たちの書を読むと,日常の物事において公正を行なうようそれらの書が求めていることに気づきます。これら12の書の教訓は多くの点に適用できますが,ここでは,預言者たちが公正を強調した二つの分野を調べ,学んだ事柄をどのように実践できるかを考えましょう。
仕事と金銭に関する公正
6,7 わたしたちすべてが仕事と金銭に関する公正に関心を向けるべきなのはなぜですか。
6 「人はパンだけで生きるのではない」と,イエスは述べました。(ルカ 4:4。申命記 8:3)人間がパンを必要とすること,つまり食事をする必要があることをイエスは否定していません。その必要があるので,たいていの場合,食べてゆくために自分あるいは家族のだれかが働きます。古代の神の僕たちもそうでした。自分で作物を育てたり衣服や家具や調理器具などの商品を作ったりする人もいれば,人を雇って作物の収穫や,小麦粉,オリーブ油,ぶどう酒の製造を行なう人もおり,物品の売買をする商人もいました。屋根の修繕や楽器の演奏を職とする人もいたことでしょう。―出エジプト記 35:35。申命記 24:14,15。列王第二 3:15; 22:6。マタイ 20:1-8。ルカ 15:25。
7 あなた自身または友人や親戚の生活もそれと似ている,と思われますか。確かに今と昔では仕事の細部は違うかもしれませんが,こうした点での公正に関する神の見方は変わっていないのではないでしょうか。12預言者が伝えた神の音信が明らかにしているとおり,エホバは,ご自分の民が生活上のそうした分野で公正を実践することを期待しておられます。その例を幾つか取り上げ,神に似た公正をどのように発揮することが求められているかを考えてみましょう。―詩編 25:4,5。
8,9 (イ)マラキ 3章5節で非とされている事柄がとりわけ重大だったのはなぜですか。(ロ)聖書は雇用や労働に関して,平衡の取れたどんな見方を奨励していますか。
8 神はマラキを通して次のように宣言なさいました。『わたしは裁きのためにあなた方に近づく。わたしは,呪術を行なう者,姦淫を行なう者,偽りの誓いを立てる者に対し,また賃金労働者の賃金に関して詐欺を働く者に対して速やかな証人となる。彼らはわたしに恐れを持たなかったのである』。(マラキ 3:5)ここでエホバは,雇われ人を不公正に扱う者たちを非としておられます。そのような扱いはどれほど重大でしたか。エホバは,労働者に対する不当な扱いを,心霊術,姦淫,偽りと同列に置いておられます。クリスチャンは,『淫行の者,心霊術を行なう者,またすべての偽り者』を神がどのように裁かれるかを知っています。―啓示 21:8。
9 当時の仕事場で生じていた事柄は,単なる人間の道徳の問題ではありませんでした。エホバの公正が関係していたのです。エホバは,『賃金労働者の賃金に関して詐欺を働く』者たちの不実さのゆえに『裁きを執行するためにその者たちに近づく』と言われました。もちろん,雇われ人の気まぐれな要求を何でも雇い主が聞き入れなければならない,と述べておられたのではありません。ぶどう園で働くよう雇われた人たちに関するイエスの例えから分かるとおり,雇う側には賃金や労働条件を定める権利がありました。(マタイ 20:1-7,13-15)興味深い点として,イエスの例えの中で働き人たちは全員,丸1日働いたかどうかに関係なく,契約どおりの“1日分の賃金”である1デナリの支払いを受けました。また,雇い主が,雇われ人に損をさせて自分の利益を増やそうとするような不正は行なわなかった,という点にも注目できます。―エレミヤ 22:13。
10 自分が雇っている人への対応に注意を払うべきなのはなぜですか。
10 あなたが人を雇って事業をしている場合,あるいはだれかに仕事を依頼して手間賃を払うだけの場合でも,賃金,要求事項,金銭の扱いは,マラキ 3章5節に照らして適正でしょうか。この点を考えるのはよいことです。雇った働き人を公正に扱わないことはクリスチャン・ギリシャ語聖書でも問題とみなされているからです。こうした面で不公正な人に対して弟子ヤコブは,「彼[エホバ]はあなた方に敵していないでしょうか」と述べています。(ヤコブ 5:1,4,6)ですから,こう言えます。「賃金労働者の賃金」に関して公正でない人は,エホバを本当に知るようになってはいません。エホバの公正を見倣っていないからです。
11,12 (イ)ホセア 5章10節はどんな不正行為を際立たせていますか。(ロ)ホセア 5章10節の原則をどのように当てはめることができますか。
11 では次に,エホバがホセアの時代の一部の著名な人たちに敵対なさった理由を見てみましょう。こうあります。「ユダの君たちは境界線をずらす者たちのようになった。彼らの上にわたしは自分の憤怒を水のように注ぎ出す」。(ホセア 5:10)ホセアはどんな悪事を糾弾していたのでしょうか。ユダの農夫は土地を耕して生計を立てており,土地の境界線は石や杭で標示されていました。「境界線をずらす」ことは,農夫の区画を狭めて生計手段の一部を奪うこと,つまり盗みでした。ホセアは,公正の擁護者であるべきユダの君たちを,境界の標識をずらす者になぞらえています。―申命記 19:14; 27:17。ヨブ 24:2。箴言 22:28。
仕事や商取引で公正を指針としているか
12 今日,不動産の仕事をしている人は,買い手を欺くために『境界線をずらしたい』という誘惑に駆られるかもしれません。とはいえ,ここで考えている原則は,商人,雇い主,従業員,顧客など,契約や協約にかかわるどの立場の人にも当てはまります。例えば,仕事の際に物事を書面に残すのを渋る人がいます。合意した仕事の手抜きや新たな要求の追加がしやすくなる,と考えるのです。また,契約書を渡すとしても,分かりにくい但し書きを付け加えて契約内容をゆがめ,相手に不当な害を被らせてまでも自分の利を求める人がいます。商人であれ客であれ,雇い主であれ従業員であれ,このようなことをする人が公正の神を本当に知っていると言えるでしょうか。エホバは,み言葉の中でこう述べておられます。「[父なし子の]境界を移してはならない。……彼らを請け戻す方は強いからである。その方ご自身があなたに向かって彼らの言い分を弁護される」。―箴言 23:10,11。ハバクク 2:9。
13 ミカ 6章10-12節によれば,古代の神の民の中でどんな不正が行なわれていましたか。
13 ミカ 6章10-12節は,公正にいっそうの光を当てています。「邪悪な者の家にはなお邪悪の宝があるのか。また,糾弾された目不足のエファ升があるのか。邪悪な天びんと欺きの石おもりの入った袋とを持ちながら道義的に清くいられるだろうか。……そこに住む者たちは偽りを語った。彼らの舌は……こうかつなのである」。現代では食料品の分量は,エファではなくリットルなどで量ります。重さも,天びんに載せた石おもりで量るのではなく,キログラムで量ります。とはいえ,ミカが言おうとした点は明らかです。当時の商人や実業家はいかさまをしていました。規格どおりのおもりや升を使わず,他の人に対して不正を働いたのです。『こうかつな口』を持ち,こうかつな商取引を行なう人々を,神は「邪悪な者」と呼んでおられます。―申命記 25:13-16。箴言 20:10。アモス 8:5。
14 ミカの警告は,現代のどんな不正行為を避ける助けになりますか。
14 欺きのおもりと升に関するミカの言葉は,あなたの経営方法や従業員としての行動にかかわりがあるでしょうか。この点を考えるべきなのは,買い手や依頼者をだます手口が無数にあるからです。例えば悪徳業者は,コンクリートに入れるセメントを標準もしくは法定の量よりも少なくします。また,目に触れない部分に,受け取る代金よりも安い材料を使う職人もいます。中古品を新品と偽って売る商人もいます。ほかにも,儲けを増やすための“商売のこつ”を耳にしたことがおありかもしれません。自分もやってみようという誘惑に駆られますか。プライバシー保護に関する最近の本には,エホバの証人は「創造者が自分たちを見ていると信じており,たいてい,盗むぐらいなら死んだほうがよいと考えている」とあります。そして,「彼らは多額の金銭を取り扱う業界で引く手あまたである」とのことです。なぜでしょうか。真のクリスチャンは,仕事と金銭に関する面でも『公正を行なうようエホバが求めておられる』ということを知っているからです。―ミカ 6:8。
『まさに公正のための君たち』
15,16 ミカの時代の指導者たちは,民をどのように扱っていましたか。
15 12預言書を見ると,公正がひどく欠如した時期が何度かあったことが分かります。権威ある立場にいて公正の手本となるべき人たちが,そうしていなかったのです。(出エジプト記 18:21; 23:6-8。申命記 1:17; 16:18)ミカはこう訴えかけています。『さあ,聞くように。ヤコブの頭たち,イスラエルの家の司令者たちよ。公正を知ること,それがあなた方の務めではないか。善いことを憎んで悪を愛し,民から皮を,その骨から生肉を引きちぎる者たちよ』。―ミカ 3:1-3。イザヤ 1:17。
16 この言葉は,農村の生活をよく知っている人に衝撃を与えたはずです。羊飼いは時折,自分が世話し保護している羊の毛を刈りました。(創世記 38:12,13。サムエル第一 25:4)しかし,『公正を知っている』べき「イスラエルの家の司令者たち」は,まるで羊から皮や肉を引きちぎり,骨を折るかのように,神の放牧地の民を搾取していました。(詩編 95:7)さらにミカは,農村の生活に基づく別の例えを用い,『報いを求めて裁きを行なう』君たちが,おどろ,あるいはいばらの垣根のようであると述べています。(ミカ 7:3,4)おどろやいばらの垣根だらけの場所を通るとどうなるか,想像してみてください。おそらく引っかき傷ができ,服が破れるでしょう。指導者たちは神の民にそのような影響を与えていました。兄弟たちを公正に扱うどころか,不実で堕落した者となっていました。―ミカ 3:9,11。
17 ゼパニヤ 3章3節によれば,指導者たちはどんな態度を取っていましたか。
17 ゼパニヤも同様の点を指摘し,「その中にいる君たちはほえたけるライオン,その裁き人たちは朝まで骨をしゃぶることのなかった夕べのおおかみであった」と述べています。(ゼパニヤ 3:3)想像できますか。神の民の指導者たちが,飽くことを知らない獰猛なライオンのように義を無視していたのです。裁き人たちが,飢えた貪欲なおおかみのようにあらゆるものをむさぼり食い,朝には骨しか残らなかったのです。そのような状況で,どうして公正が施行されるでしょうか。民を世話するどころか餌食にする指導者たちにより,公正がずたずたに引き裂かれていました。
ミカの時代とゼパニヤの時代の君たちはエホバを知っていなかった
18 イスラエルの裁き人は神の民をどのように扱うべきでしたか。
18 明らかに,神に献身した国民のこれら指導者たちは神を知っていませんでした。知っていたなら,ゼカリヤ 8章16節の言葉に従っていたことでしょう。こうあります。「あなた方はこれらの事をすべきである。すなわち,互いに対して真実を語れ。真実と平和の裁きとをもってあなた方の門の内で裁きを行なえ」。イスラエルの年長者たちは都市の門に集まり,第一印象や個人的な好みではなく神のお考えに沿って司法上の問題を扱うことになっていました。(申命記 22:15)エホバは,富んだ人や著名な人をえこひいきするなどの不公平な態度について警告を与えておられました。(レビ記 19:15。申命記 1:16,17)裁き人は,「平和の裁き」を行なって,争い合う人たちの間に平和を回復するよう努めることになっていたのです。
19,20 (イ)クリスチャンの長老たちが12預言書から多くを学べるのはなぜですか。(ロ)長老たちは,エホバとその公正を知っていることをどのように示せますか。
19 使徒パウロはクリスチャンに手紙を書いた際に,ゼカリヤ 8章16節の一部を引用しました。(エフェソス 4:15,25)ですからわたしたちは,公正に関する12預言書の警告と助言が今日の会衆にも適合することを確信できます。年長者つまり監督たちは,エホバを知ってその公正を反映する面で模範となるべきです。イザヤ 32章1節は監督たちを,『まさに公正のための君たち』という,すがすがしい言葉で描写しています。12預言書の警告と助言から,そのような長老たちの実行できるどんな点を引き出せるでしょうか。
20 クリスチャンの長老たちは,聖書に収められた真理とエホバのお考えを示すものとをしっかり銘記すべきです。それらを基盤として判断を下すべきであって,単なる個人的な意見や,直感のようなものを基盤としてはなりません。聖書は,判断の難しい問題もあることを示しています。普通以上の時間をかけて準備し,聖書と,忠実で思慮深い奴隷級の賢明な助言を収めた出版物とを自ら調査することが必要になるのです。(出エジプト記 18:26。マタイ 24:45)そうした努力を払う長老たちは,神の観点から見て悪である事柄を憎み,善である事柄を愛するようになるに違いありません。そうなれば,「門の中で公正を固く定め」,『真の公正をもって裁きを行なう』ことができるでしょう。―アモス 5:15。ゼカリヤ 7:9。
21 なぜ長老は偏りを示さないようにすべきですか。どんなことが,偏りの原因となりかねませんか。
21 裁きを行なう責任のある人は,聖書の知識を持っていても,幾らか偏りを示してしまうかもしれません。マラキは,知識の源であるべき祭司たちが「律法に関して偏りを示していた」ことを嘆きました。(マラキ 2:7-9)どうしてそのような事態になったのでしょうか。ミカによれば,一部の頭たちは『ただわいろのために裁き,祭司たちはただ代価のために教えていました』。(ミカ 3:11)長老の考え方も,どのように左右されることがあり得ますか。問題の当事者が,以前に自分によくしてくれた人だったらどうでしょうか。あるいは,今後何らかの利益が得られそうだと思える場合はどうですか。また,親類縁者の関係する事件を扱っている場合を想定してみてください。親族のきずなと霊的な原則のどちらが優先されるでしょうか。悪行の事件を扱うときや,だれかが会衆内の付加的な奉仕の特権を得る聖書的な資格にかなっているかどうかを検討するときに,長老の公平さが左右されることもあり得ます。―サムエル第一 2:22-25,33。使徒 8:18-20。ペテロ第一 5:2。
長老たちは,すべての物事の扱いにおいて『門の中で公正を固く定める』
22 (イ)長老たちには,公正に関してどんな責任がありますか。(ロ)長老たちは,過ちを犯した人を扱うときに,神に似た他のどんな特質を示すべきですか。
22 だれかが重大な罪を犯すなら,霊的な牧者たちは,危険で腐敗的な影響から会衆を守るために行動します。(使徒 20:28-30。テトス 3:10,11)とはいえ,過ちを犯した人が誠実に悔い改めている場合,長老たちは『温和な霊をもってそのような人に再調整を施したい』と考えます。(ガラテア 6:1)厳しくて冷たい態度を取るのではなく,次の指示を当てはめます。「真の公正をもってあなた方の裁きを行なえ。互いに対して愛ある親切と憐れみとを実行せよ」。(ゼカリヤ 7:9)古代イスラエルでの訴訟の扱いに関するエホバの規定は,神の公正と憐れみを際立たせています。多くの場合に,任命された裁き人には幾らかの裁量が認められており,状況や悪行者の態度に応じて憐れみを示すことができました。ですからクリスチャンの監督も,「真の公正をもって」裁き,「愛ある親切と憐れみ」を発揮するように努力しなければなりません。そのようにして,エホバを知るようになっていることを表わすのです。
23,24 (イ)長老たちは,どのようにして「平和の裁き」を促進できますか。(ロ)あなたは12預言書から,公正に関してどんなことを理解できましたか。
23 ゼカリヤ 8章16節を思い出してください。「真実と平和の裁きとをもってあなた方の門の内で裁きを行なえ」とありました。目指すものは何でしょうか。「平和の裁き」です。使徒たちが生きていた時でさえ,一部のクリスチャンの間で個人的な不和や論争が生じました。パウロがユウオデアとスントケを援助したように,今日の長老たちも援助の手を差し伸べる必要があるでしょう。(フィリピ 4:2,3)長老たちは「平和の裁き」を行なう点で是非とも真剣に励むべきです。争い合う人たちの間に平和を回復しようと努めるのです。長老たちが聖書に基づいて与える助言,およびそうする時の態度は,会衆内の平和および神との平和を促進することでしょう。そのようにして,長老たちがエホバとその公正を確かに知っていることが明らかになります。
24 この章では二つの分野を取り上げました。それらの例から分かるとおり,公正に関して12預言者が記したアドバイスを日々の生活に当てはめることは非常に大切です。わたしたちが周りの人たちと共に『公正をわき出させる』なら,それは大きな祝福となるのです。
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エホバの高い規準に沿って仕えるエホバの日を思いに留めて生きる
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第7章
エホバの高い規準に沿って仕える
1 ゼパニヤの時代のエルサレムの人たちは,エホバの規準についてどう感じていましたか。
「エホバは善いことをしてくれないが,悪いことをもたらすわけでもない」。ゼパニヤの時代,エルサレムの人々はそう感じていました。何らかの規準にかなう生き方をエホバは自分たちに期待してはおられない,と考えていたのです。ゼパニヤは,貯蔵されているぶどう酒の底にたまる滓を例えに用い,民が「自分の滓の上で固まっている」と述べました。これは,民が自分たちの物事に神が介入するという宣言などに煩わされず安楽な暮らしに浸りたいと願っていた,という意味です。しかし,神はそれらのユダヤ人に対して,ご自分が『ともしびを携えてエルサレムをくまなく捜し』,ご自分の規準を無視する者たちに「注意を向ける」とお告げになりました。エホバは規準を設け,民がそれをどう見るかに関心を持っておられるのです。―ゼパニヤ 1:12。
2 あなたの周りでは,規準を持つことについて,どんな見方が一般的ですか。
2 今日でも,規準に従うという考えを毛嫌いする人は少なくありません。「自分のしたいようにしよう」という言葉を聞くことがあります。『お金が足りないときや,物事が思いどおりにゆかないときは,どんな手段に訴えても構わない』と考える人もいます。神がどうお感じになるか,自分たちに何を求めておられるかに全く注意を払いません。では,あなたはいかがですか。創造者が規準を定めるということに魅力を感じておられますか。
3,4 規準があるのは良いことである,と言えるのはなぜですか。
3 多くの人は,神の規準にかなう生き方をしなければならないという考えをはねつけますが,生活の様々な面で人間が定めた標準はためらいなく受け入れています。一例として,水質について考えてみましょう。たいていの政府は,使用に適した水質基準を定めています。とはいえ,その基準があまりに低かったらどうでしょうか。人々は下痢を起こし,水を介して病気が広がり,特に子どもたちが害を受けるでしょう。しかし実際には飲料水に関する高い基準があるので,わたしたちは守られています。国際標準化機構は次のように述べています。「もし標準がなかったなら,我々はすぐに気づくだろう。……ふだんは意識されない点だが,標準は,品質,安全性,信頼性,効率,互換性を高めることに,そしてそうしたメリットを低コストで実現することに役立っている」。
4 生活の様々な面で標準があることの価値を認めるのであれば,神の名で呼ばれる民のために神が高い規準を設けておられるはずだと考えるのは,道理にかなったことではないでしょうか。―使徒 15:14。
神の規準は道理にかなっているか
5 エホバはアモスを通して,ご自分の規準を満たすことの重要性をどのように明らかにされましたか。
5 家を建てる時にも基準は重要です。一つの壁が垂直でないだけでも,建物全体が傾きかねません。壁と壁の間にすき間ができて,その家には住めないかもしれません。これが,十部族のイスラエル国民の状態に関して西暦前9世紀の預言者アモスに与えられた幻の主旨です。アモスは,エホバが『その手に下げ振りを持って』城壁の上に立っておられるのを見ました。神はこう言われます。「今わたしは,わたしの民イスラエルの中に下げ振りを置く。わたしはこれ以上それを赦すことをしない」。(アモス 7:7,8)下げ振りは,糸の先におもりを付けたもので,垂直を厳密に確かめるのに使われます。エホバが立っておられるのをアモスが見た比喩的な城壁は,「下げ振りをもって造られた」ものであり,まっすぐ,鉛直に立っていました。それに対して,アモスの時代のイスラエル人はもはや,霊的に鉛直つまり廉直かどうかの検査に合格しなくなっていました。倒れないうちに取り壊さなければならない,傾いた城壁のような状態だったのです。
6 (イ)12預言書の要点の一つは何ですか。(ロ)神の規準は道理にかなっている,と言えるどんな根拠がありますか。
6 12預言書をじっくり読むと,神の規準に従うことは不可欠である,という考えが繰り返されていることに気づきます。12預言書の音信は,神の高い規準に達しない民に対する糾弾だけではありません。エホバはご自分の民を調べて,規準を確かに満たしていると判断なさったことがあります。民が規準を満たせたことは,神の規準が道理にかなっており,わたしたちのような不完全な人間もそれを満たせる,ということを実証しています。一つの例を考えましょう。
7 不完全な人間もエホバの規準を満たせる,という点を理解するのに,ゼカリヤ書はどのように役立ちますか。
7 故国に戻ったユダヤ人が神殿の土台を据えた後,再建作業は停止してしまいます。そのため神は預言者のハガイとゼカリヤを遣わし,工事を再開するよう民を励ましました。エホバはゼカリヤに与えた幻の中で,ユダの総督ゼルバベルが神殿の最後の仕上げとして頭石を置く時に「[その]手に下げ振りがある」ことを述べておられます。この神殿は神の規準にのっとって建てられたのです。(ゼカリヤ 4:10)では,完成した神殿に関連する次の興味深い記述に注目してください。「これら七つのものはエホバの目である。それは全地を行き巡っている」。神は,ゼルバベルが頭石を所定の位置に置いたのをご覧になりました。そして,すべてを見抜く目で,再建された神殿がご自分の精査に合格し,規準を満たしていることもご覧になったのです。このように,エホバの規準は高いとはいえ,人間はその規準を満たすことができます。ゼルバベルと民は,ハガイとゼカリヤから励ましを受け,神の規準を満たしました。あなたもゼルバベルと同じく,神の期待にかなう生き方をすることができます。このことを知ると,本当に力づけられるのではないでしょうか。
エホバの規準を受け入れるべきなのはなぜか
8,9 (イ)エホバが人間のために規準をお定めになるのは,なぜふさわしいことですか。(ロ)神がイスラエル人にご自分のおきてを守るよう要求なさったのは,なぜ適切なことでしたか。
8 創造者である神には,人類のために規準を定めて,それを守ることを求める権利があります。(啓示 4:11)エホバは,細かな点まですべてを規定する必要はありません。有益な導きとなる良心を人間に与えておられるからです。(ローマ 2:14,15)神は最初の人間たちに,「善悪の知識の木」から食べてはならないとはっきりお命じになりました。その木は,善悪の規準を定める神の権利を表わしていました。その後の出来事はあなたもよくご存じでしょう。(創世記 2:17; 3:1-19)ホセアは,アダムの間違った選択に暗に言及して,「[イスラエル人]は,地の人のように契約を踏み越えた」と書いています。(ホセア 6:7)このようにしてホセアは,イスラエル人の罪が意図的なものであったことを示しています。
9 それはどんな罪でしたか。『彼らは[律法]契約を破った』とあります。(「新共同訳」)神は,民をエジプトから救い出すことによりその所有者となったので,民のために規準を定める権利を確かにお持ちでした。イスラエル人は,エホバとの契約を受け入れることによって,その規準に沿って生きることに同意しました。(出エジプト記 24:3。イザヤ 54:5)それなのに,民の多くは律法を遵守せず,流血,殺人,淫行の罪を負う者となったのです。―ホセア 6:8-10。
10 神はどのようにして,ご自分の規準に達していない人たちを援助しようとされましたか。
10 エホバは,ご自分に献身した民を援助するために,ホセアおよび他の預言者たちを遣わされました。ホセアは自らの預言書の結びで,次のように明言しています。「賢くて,これらの事を理解する者はだれか。思慮があって,これを悟り知る者はだれか。エホバの道は廉直であり,そこを歩む者は義にかなう。しかし,違犯をおかす者はその道でつまずく者となる」。(ホセア 14:9)ホセアは14章の初めのほうで,エホバのもとに戻る必要性を際立たせています。賢い者たちは,民の歩むべき廉直な道の概略をエホバが教えておられることを理解したでしょう。あなたも,神の献身した僕として,廉直さを保ってエホバの道を歩んでゆきたいと心から願っておられるに違いありません。
製造者が定めて推奨している規準を守るのはなぜか
11 あなたが神のおきてを守りたいと思うのはなぜですか。
11 ホセア 14章9節は,廉直な歩みを続けることの利点にも注意を向けています。神のご要求を満たすなら,祝福と益が得られます。創造者である神はわたしたちの造りをご存じであり,神がお求めになる事柄はわたしたちのためになります。わたしたちと神との関係は,自動車とその製造者の関係に例えられるかもしれません。製造者は,車がどのように設計され組み立てられているかを知っています。定期的なオイル交換が必要であることも知っています。使用者が,車は調子よく走っているからなどと考えてオイル交換の規準を無視するなら,どうなるでしょうか。エンジンは普通よりずっと早く調子が悪くなり,大幅に機能が低下するでしょう。人間についても同じことが言えます。創造者は,わたしたちにおきてを与えておられます。それを守ることは,わたしたちの益となります。(イザヤ 48:17,18)益を得ているという実感があると,神の規準にかなう生き方をしよう,神のおきてを守ろうという決意が強まります。―詩編 112:1。
12 神の名によって歩むことにより,どのようにエホバとのきずなが強まりますか。
12 神のおきてを守り行なうことの最大の報いは,神とのきずなが強まることです。神の規準に従って生き,その規準がどれほど道理にかなった有益なものであるかが分かると,規準を設けた方への愛情が深まります。そのようにして深くなった結びつきを,預言者ミカは見事に描写しています。「もろもろの民は皆,それぞれ自分たちの神の名によって歩む。しかしわたしたちは,定めのない時に至るまで,まさに永久に,わたしたちの神エホバの名によって歩む」。(ミカ 4:5)わたしたちには,エホバの名によって歩むという大きな特権があります。エホバの名声を高め,生活の中で神の権威を認めるのです。そうすればおのずと,神の特質を反映したいという願いが生まれます。わたしたちは各自,神とのきずなを強めることに励んでゆきましょう。―詩編 9:10。
13 神の名を恐れることが,消極的なことでも間違ったことでもないのはなぜですか。
13 神の規準にかなう生き方をする人,神の名によって歩む人は神の名を恐れる,と言われています。その恐れは,消極的なものでも間違ったものでもありません。エホバは,そのような人たちに次の保証の言葉を述べておられます。「わたしの名を恐れるあなた方には,義の太陽が必ず照り輝き,その翼にはいやしが伴う。あなた方はまさに出て行って,肥えた子牛のように地をかきなでるであろう」。(マラキ 4:2)この預言の成就において,「義の太陽」はイエス・キリストです。(啓示 1:16)イエスは人類のために照り輝いています。現在は霊的ないやしを,そしてやがては身体的ないやしをもたらします。いやされた者たちの喜びが,『出て行って地をかきなでる』肥えた子牛の喜びになぞらえられています。自由になって興奮し,大喜びしている子牛です。あなたもこうした解放を,かなりの程度すでに経験しておられるのではありませんか。―ヨハネ 8:32。
14,15 エホバの規準をしっかり守るなら,どんな益が得られますか。
14 また,神の規準をしっかり守ることには,対人関係が良くなるという益もあります。ハバククは五つの災いを宣告しました。貪る者に対して,不正な利得を求める者,血を流す者,性的悪行をたくらむ者,偶像を崇拝する者に対してです。(ハバクク 2:6-19)エホバがこれらの災いを宣告なさったことから,神がわたしたちの生き方に関して規準を設けておられることがはっきり分かります。さらに,挙げられた悪行のうち四つは人をどう扱うかに関連がある,という点に注目してください。神の見方を身に着けるなら,隣人を傷つけることはなくなり,ほとんどの人との関係が良くなるでしょう。
15 三番目の益は,家族の幸福に関するものです。今日では,離婚が夫婦間の不和の究極の解決策とみなされることが少なくありません。しかし,エホバは預言者マラキの口を通して,「神は離婚を憎んだ」と述べておられます。(マラキ 2:16)このマラキ 2章16節は後ほど詳しく考察しますが,今ここで注目したいのは,知恵に富む神は家族の成員が守るべき規準を定めておられる,ということです。それを守れば守るほど,平和が増し加わります。(エフェソス 5:28,33; 6:1-4)もちろん,わたしたちはみな不完全なので,問題は生じます。とはいえ,「天と地のあらゆる家族がその名を負う方」はホセア書の中で実例を挙げ,夫婦間の極めて危機的な問題をも解決する方法を明らかにしておられます。その点もこの本の後の章で取り上げます。(エフェソス 3:15)では次に,神の規準を守ることに他のどんな点が関係しているかを見てみましょう。
『悪を憎み,善を愛せよ』
16 アモス 5章15節は,神の規準とどんな関連がありますか。
16 最初の人間アダムは,善悪に関するだれの規準が最善かという点で愚かな選択をしました。わたしたちは賢い選択をするでしょうか。アモスは,この選択において強い感情を抱くよう訓戒し,『悪を憎み,善を愛せよ』と促しています。(アモス 5:15)セム系の言語や文学に関するシカゴ大学教授,故ウィリアム・レイニー・ハーパーは,この聖句について次のように述べました。「[アモスの]考えによれば,善悪の規準はヤハウェのご意志に従うことなのである」。これは12預言書から学べる主要な点の一つです。わたしたちは善悪に関するエホバの規準を進んで受け入れるでしょうか。その高い規準は聖書の中で明らかにされており,「忠実で思慮深い奴隷」を構成する円熟した経験豊かなクリスチャンたちによって説明されています。―マタイ 24:45-47。
12預言者からのアドバイスに注意を払うことは,ポルノに抵抗するのにどのように役立つか
17,18 (イ)悪を憎むことが不可欠なのはなぜですか。(ロ)悪に対する強い憎しみをどのように培えるか,例を挙げて説明してください。
17 悪を憎むことは,神を不快にさせる事柄を避ける力となります。例えば,ある男性はインターネット・ポルノの危険を意識して,それを見ないようにしているかもしれません。とはいえ,その人の「内なる人」はポルノサイトの内容についてどう感じているでしょうか。(エフェソス 3:16)アモス 5章15節にある神からの勧告を心に留めているなら,悪に対する憎しみを培いやすくなります。そうすることにより,この人は霊的な闘いで勝利を収めることができるでしょう。
18 別の例も考えてみましょう。あなたは自分が性崇拝の偶像を伏し拝んでいる様子を想像できますか。考えただけでも胸が悪くなるでしょう。ホセアは,イスラエル人の父祖たちがペオルのバアルの前で不道徳行為をしたことを述べています。(民数記 25:1-3。ホセア 9:10)ホセアがこの出来事に言及したのは,バアル崇拝がイスラエルの十部族王国の主な罪の一つだったからと思われます。(列王第二 17:16-18。ホセア 2:8,13)わたしたちは,イスラエル人が性的乱交の合間に偶像に身をかがめていた様子を想像するだけでも非常に不快に感じます。そうした行為を神が厳しく断罪されたことを知っているので,サタンがインターネットを通して仕掛けるわなに各自しっかりと抵抗することができます。今日,人気のある娯楽に登場する美男美女を偶像視する人は少なくありません。しかし,それとは全く対照的に,わたしたちは偶像崇拝に関する預言者たちの警告から教訓を学び取っています。
神の言葉を記憶にとどめる
19 大魚の腹の中でヨナが行なった事から何を学べますか。
19 様々な誘惑や困難に遭いながらも神の高い規準を守ってゆこうと努力しているとき,自分には無理だと感じたり,途方に暮れたりすることがあるかもしれません。意欲も気力も尽きそうに思える場合,どうすれば危機的な状況にしっかり立ち向かえるでしょうか。(箴言 24:10)欠点のある不完全な人間であったヨナから大切な点を学べます。ヨナが大魚の腹の中で何をしたか思い出してください。エホバに祈りました。では,その祈りの内容に注意を向けましょう。
20 どうすれば,ヨナと同様の事をする備えができますか。
20 ヨナは「シェオルの腹の中から」神に祈った際,よく知っていた言葉や言い回しを幾つも使いました。詩編の言葉です。(ヨナ 2:2)ひどく苦悩し,エホバに憐れみを嘆願していた時,ダビデの言葉が口をついて出て来たのです。一例として,ヨナ 2章3,5節を詩編 69編1,2節と比較してみてください。a ヨナが当時読んだり聞いたりできたダビデの詩編に通じていたことが,よく分かるのではないでしょうか。霊感を受けた詩編の言葉や表現がヨナの内で湧き上がってきたのです。ヨナは,神の霊感による言葉を自分の「内なる所に」収めていました。(詩編 40:8)あなたは,感情的に疲れきってしまうような状況に直面した時,ふさわしい神のことばを思い出せますか。いま神の言葉にいっそう精通しておくなら,今後,神の規準に沿って決定を下したり問題を解決したりする時に大きな助けとなるでしょう。
神への健全な恐れを抱く
21 神の規準を守り通すには,何を培う必要がありますか。
21 もちろん,神の言葉を自分の宝の蔵に持っているというだけで,エホバの規準を守り通せるわけではありません。預言者ミカは,神の言葉を適用するのに必要な事柄についてさらに深い洞察を与え,こう述べています。「実際的な知恵のある人はあなたのみ名を恐れるようになる」。(ミカ 6:9)実際的な知恵のある人,つまり知識を生活に適用できる人となるには,神のみ名への恐れを培わなければならないのです。
22,23 (イ)故国に戻ったユダヤ人のもとにエホバがハガイを遣わされたのはなぜですか。(ロ)あなたには,自分も神の規準を守れると確信できる,どんな理由がありますか。
22 どうすれば,神のみ名を恐れるようになれるでしょうか。捕囚後の預言者ハガイの言葉に耳を傾けましょう。ハガイは,わずか38節の非常に短い書の中で,エホバというみ名を35回も用いています。西暦前520年,エホバがハガイを預言者として任命された時には,エルサレムの神殿の再建がほとんど進まないまま,すでに16年が過ぎていました。神の民は,敵の反対によって意気をくじかれていたのです。(エズラ 4:4,5)神殿を再建する時はまだ来ていない,と民は考えていました。エホバは,次のような訓戒をお与えになります。「あなた方は自分の道に心を留めよ。……この家を建てよ。わたしがそれを喜びとし,わたしが栄光を受けるためである」。―ハガイ 1:2-8。
23 総督ゼルバベル,大祭司ヨシュア,および『民の残っている者たちすべては,その神エホバの声に聴き従うようになり,民はエホバのゆえに恐れを抱くように』なりました。そこで神は,「わたしはあなた方と共にいる」とお告げになります。何と心強い言葉でしょう。民は神の霊の助けを得て,「エホバの家の中の仕事を行なうように」なりました。(ハガイ 1:12-14)おくしていた民が,神を不快にさせることへの健全な恐れに動かされ,反対にもかかわらず行動を起こしたのです。
24,25 この章で取り上げた原則をどのように適用できるか,具体例を挙げて説明してください。
24 あなたはいかがですか。自分の直面している状況に神のどの規準が関係するかが分かったなら,勇気を抱いて,人ではなくエホバを恐れるでしょうか。例えば,あなたは若い女性で,職場にはあなたと違って神の原則に従っていない男性がいるとしましょう。その男性は親切で,あなたに関心を示しています。そんなとき,エホバの規準と,それを無視することの危険とを思い起こさせる聖句が頭に浮かぶでしょうか。ホセア 4章11節を思い出しますか。「淫行とぶどう酒と甘いぶどう酒とが良い動機を奪い去る」という聖句です。この聖句と,神への恐れとに動かされて,神の規準を守り通し,その男性からの社交的な誘いを断わるでしょうか。その男性が言い寄ってくる場合,愛のある神を不快にさせることへの恐れは,その場から『逃げる』助けとなります。―創世記 39:12。エレミヤ 17:9。
神への恐れは,このような状況でどのように助けとなるか
25 ここで,インターネット・ポルノの誘惑に抵抗しようとしている男性の例をもう一度考えましょう。その人は,詩編 119編37節の言葉を思い出すでしょうか。「無価値なものを見ないよう,わたしの目を過ぎ行かせてください」という,祈りの形の聖句です。さらに,山上の垂訓でイエスが語った,「女を見つづけてこれに情欲を抱く者はみな,すでに心の中でその女と姦淫を犯したのです」という言葉を思い起こすでしょうか。(マタイ 5:28)クリスチャンは,エホバへの恐れと,エホバの規準にかなう生き方をしたいという願いとに動かされて,腐敗のもととなりかねないものから離れるはずです。神の規準に反する考えや行動にいざなわれる時はいつでも,神への恐れをいっそう強化しましょう。そして,エホバがハガイを通してあなたに語っておられる,『わたしはあなたと共にいる』という言葉を銘記してください。
26 次に,どんな点を考えますか。
26 こうして,あなたも神の高い規準に沿ってエホバに仕えることができ,そうすることから益を得られます。12預言書を調べてゆくと,神の規準,つまり神がわたしたち各人に求めておられる事柄がいっそうはっきりするでしょう。この本の次のセクションでは,エホバが素晴らしい規準を定めておられる三つの分野を考察します。行状,対人関係,家庭生活です。
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『エホバはあなたに何を求めておられるか』エホバの日を思いに留めて生きる
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第8章
『エホバはあなたに何を求めておられるか』
1,2 古代の神の民の道徳的退廃にエホバがどう対応されたか,という点に注意を払うと心温まる思いがするのはなぜですか。
次のような情景を思い浮かべてみてください。玄関の戸を激しくたたく音に少女がびくっとします。悪徳商人が借金を取り立てに来たに違いありません。目方をごまかし,法外な利子を課して,大勢の人から金を搾り取っている商人です。町の指導者たちは賄賂を受け取って被害者の叫びを無視し,商人の悪事を見逃しています。少女には,なすすべもありません。父親は,若い女性と暮らすために家族を捨ててしまいました。少女は母親と共に奴隷として売られてしまうかもしれません。
2 この情景は,12預言者が公然と指摘した事柄を幾つか組み合わせたものです。(アモス 5:12; 8:4-6。ミカ 6:10-12。ゼパニヤ 3:3。マラキ 2:13-16; 3:5)あなたが当時生きていたなら,どう反応したでしょうか。これは気がめいるような情景ですが,12預言者の時代にエホバが民の益を図って働きかけておられたことを考えると,心温まる思いがするでしょう。12預言書の中で,神は高潔な特質や態度を強調しておられるのです。神の励ましにより,あなたは確固とした道徳規準を持つことができ,善を行なう動機づけを得,神を賛美するように動かされるに違いありません。エホバの裁きの日が急速に近づいている今,これらの書に収められている積極的な音信に注意を払うなら,神があなたに何を求めておられるかをよく理解できます。ではまず,西暦前8世紀のミカの時代に目を向けましょう。
エホバは腐敗や不公正をよくご存じである
エホバはあなたに何を求めておられるか
3,4 (イ)ミカ書には,心に訴えるどんな招きの言葉が収められていますか。(ロ)ミカ 6章8節の問いかけについて,あなた自身はどう感じますか。
3 ミカ書と言えば,強情で気まぐれなイスラエル人に関する告発の繰り返しという第一印象があるかもしれません。もとよりエホバは,ご自分に献身した民の道徳的退廃をよくご存じで,民の中のある者たちを『善いことを憎んで悪を愛する者たち』と呼んでおられます。(ミカ 3:2; 6:12)とはいえミカ書には,糾弾だけでなく,聖書の中でも特に心に訴えて意欲を起こさせる訓戒が載せられています。ミカは義の規準の源である方に焦点を合わせ,次のような考えさせる問いかけをしています。「エホバがあなたに求めておられるのは,ただ公正を行ない,親切を愛し,慎みをもってあなたの神と共に歩むことではないか」。―ミカ 6:8。
4 これが創造者からの招きの言葉であることにお気づきになりましたか。この言葉は,世にはびこる悪によって脇道にそらされることなく積極的な態度を取れる,という点を優しく思い起こさせてくれています。エホバは,わたしたちが忠節な者として敬虔な特質を培いたいと願っていることをご存じであり,わたしたちを信頼しておられます。『エホバはあなたに何を求めておられるか』と尋ねられたなら,あなたは何と答えますか。神の道徳規準が自分の生活のどんな分野に変化を生じさせているか,また生じさせているはずか,具体的に挙げることができますか。その規準に従ってゆくとき,神との関係はいっそう強まり,生活の質も大いに向上するでしょう。地球全体が楽園になる時は目前に迫っています。次の勧めの言葉から励みを得てください。「あなた方自身のために義のうちに種をまけ。愛ある親切にそって刈り取りを行なえ。あなた方自身のために耕地を耕せ。エホバを捜し求める時間のあるうち,ついに神が来て,義にそって教え諭してくださるようになるまで」。(ホセア 10:12)では,ミカ 6章8節の優れたアドバイスの要点を調べてみましょう。
『慎みをもつ』
5 「慎みをもって」神と共に歩むことが重要なのはなぜですか。
5 注目すべき点としてミカは,『慎みをもって神と共に歩む』ことをエホバは求めておられる,と述べています。「知恵は,慎みある者たちと共にある」ので,慎み深さは必ず益となります。(箴言 11:2)慎みをもつことには,アダムの罪に起因する限界をわきまえていることが含まれます。自分が生まれながらに罪を負っているということを認めるのは,故意の罪を避ける努力の肝要な第一歩です。―ローマ 7:24,25。
6 慎みをもって罪の結果を認識するなら,どんな益が得られますか。
6 故意の罪を避けるために,へりくだった思いを伴う慎みが非常に重要なのはなぜでしょうか。慎みのある人は罪が及ぼす力を認識しています。(詩編 51:3)ホセア書を読むと,罪は人をたぶらかし,必ずひどい結末を生じさせる,ということが分かります。例えば,エホバは,古代のご自分の民の不従順に関して『言い開きを求める』と述べておられます。この言葉を聞く人は,それら慎みのない民が罪の結果を全く被らずに済むと思うでしょうか。民は,被らずに済むと考えたかもしれません。罪はしばしば人を欺き,とりこにするからです。さらに重大な点として,罪によって罪人は神から引き離され,「彼らの行ないはその神のもとに立ち返ることを許さない」と述べられている段階にまで進むこともあります。故意の罪は,悪行者の道徳心をむしばみ,その人を「有害な事柄を行なう者」に変えてしまいます。しかも,罪は当人の人生を空虚にします。しばらくはうまく行っているように見えるとしても,悔い改めない罪人は神の是認を期待できないのです。―ホセア 1:4; 4:11-13; 5:4; 6:8。
7 慎みのある人は,エホバの指導にどのようにこたえ応じますか。
7 慎みのある人は,罪の悲しい結果を避けるには神の指導が必要であることも認めます。ミカは,大勢の人が『エホバの道について教え諭して』いただこう,「その道筋を歩もう」とひたむきに努力する時代を予見しました。それは今の時代です。このような柔和な人たちは,「律法」と「エホバの言葉」を学ぼうとします。あなたも,神の要求にこたえ応じて『エホバの名によって歩みたい』と願う人たちの一人であることを,幸福に感じておられるに違いありません。それでも,ミカと同じく,「道義的に清く」あり続けるためにさらに何ができるかを知りたいと思っておられるでしょう。(ミカ 4:1-5; 6:11)エホバが求めておられる事柄を行なおうと慎みをもって努力することは,大きな助けとなります。
高潔な道徳心を培う
8 今の世の道徳水準について,あなたはどんなことに気づいていますか。
8 エホバはわたしたちの霊的また身体的な福祉を願って,堕落した世においても道徳的に貞潔であるよう求めておられます。(マラキ 2:15)わたしたちの周りには,性的な感情をあおるメッセージが氾濫しています。ポルノ写真やポルノ映画を見たり,みだらな性行為に関するものを読んだり,きわどい内容の歌を聴いたりするのは当たり前のことだ,と考える人は少なくありません。それどころか,女性をさげすみ,性の対象としか考えない人もいます。学校に通う若者は,会話の中で,卑猥な冗談や性的な含みのある言葉を口にするかもしれません。そのような腐敗的な影響力にどう抵抗できるでしょうか。
9 12預言者の時代に,多くの人はどんな点でエホバの規準を守りませんでしたか。
9 12預言者は貴重な訓戒を与えています。その預言者たちの時代には大きな映画館やビデオ・ショップはありませんでしたが,陰茎像があり,“神聖な売春”や恥知らずの乱交が行なわれていました。(列王第一 14:24。イザヤ 57:3,4。ハバクク 2:15)預言書もそれを裏づけています。例えば,「男たちが娼婦と共に自分たちだけの所に行き,神殿遊女たちと共になって犠牲をささげる」とあり,「男とその父とが同じ女のところに行った。わたしの聖なる名を冒とくするためであった」とも記されています。豊饒の儀式のたびに『遊女に賃銀』を払う人もいました。a 姦淫がはびこり,配偶者に不忠実な者たちが『[愛人]たちの後を追って』いました。―ホセア 2:13; 4:2,13,14。アモス 2:7。ミカ 1:7。
10 (イ)不道徳な行ないの根底には,おもに何がありますか。(ロ)古代の神の民は,どのようにして霊的な淫行の罪を犯しましたか。
10 性の不道徳は人の態度や動機の反映であると言えるでしょう。(マルコ 7:20-22)不道徳な民について,エホバはこう述べておられます。「淫行の霊[「性への渇望」,現代英語訳]が彼らをさまよわせ」,「彼らはただみだらな行ないをしてきた」。(ホセア 4:12; 6:9)b ゼカリヤは「汚れの霊」に言及しています。(ゼカリヤ 13:2)民の生き方には,エホバの規準と権威を無視したり蔑視したりする厚かましい態度が表われていました。ですから人は,動機を正すために,考え方と心の状態を根本的に変化させなければなりません。この点を認識するクリスチャンは,不道徳とその悲惨な結果を避けるための助けが与えられていることに,いっそう深い感謝の念を抱くはずです。
貞潔さをしっかり保つ
11 性の不道徳はどんな結果をもたらしていますか。
11 あなたもご存じのとおり,しばしば道徳の乱れが原因で家庭は崩壊し,子どもは親の導きを失い,忌まわしい病気が広まり,命を奪う中絶まで行なわれています。性に関して創造者を無視する人は,往々にして身体的また感情的な害を被ります。「[当人が]汚れた者となったゆえに破壊が臨む。その破壊の業は痛ましい」と,ミカも書いています。(ミカ 2:10)敬虔な人々は,この点を知っているゆえに決意を固めます。不潔な事柄を考え続けて心と思いを汚すようなことは避けよう,とするのです。―マタイ 12:34; 15:18。
12 性に関するエホバの見方に従うことは,どのようにわたしたちのためになりますか。
12 クリスチャンが不道徳を避けるのは,単に病気や妊娠がこわいからではありません。神の律法への愛を培うことや,性道徳に関する神の見方を受け入れることの価値を悟っているのです。エホバは,夫婦の愛情表現である性関係に対する自然な欲求を人間に植え込まれました。それは創造に関する神の目的の一部でした。結婚というふさわしい枠の中で,性関係は益となり,夫と妻を一つに結びつけます。そして,時には子どもが生まれます。しかし,12預言書の記述が裏づけるとおり,結婚の枠外での性関係は極めて有害です。民は不道徳な性的慣行ゆえに神の是認を失いました。これは当時,非常に大きな代償でした。今日のだれにとっても,やはり大きな代償となるでしょう。
13 どのようにして『淫行を除き』,誘惑を避けることができますか。
13 ホセアは同時代の人たちに,『淫行を自分たちの前から除く』ようにと訴えました。これは,道徳水準を守るために明確な行動を取るように,ということも含んでいます。(ホセア 2:2)わたしたちにとって,どんな危うい状況からも離れるのは知恵の道です。例えば,学校や近所で繰り返し誘惑に遭うかもしれません。転校や引っ越しはできないとしても,そのほかの方法で,誘惑となる状況から遠ざかって『淫行を自分の前から除く』ことができるでしょう。自分が真のクリスチャン,エホバの証人であることを他の人に知らせてください。敬意を込めてはっきりと,自分の価値観や信条を説明しましょう。エホバの高い規準を保つ決意でいることが他の人に間違いなく伝わるようにするのです。(アモス 5:15)『淫行を除く』ための別の手段は,ポルノやいかがわしい娯楽を避けることです。そのためには,何らかの雑誌を処分したり,新しい仲間を見つけたりすることが必要かもしれません。仲間として,エホバを愛する人,エホバの求めておられる事柄を行なうことに賛成してくれる人を選びましょう。(ミカ 7:5)エホバの助けを得るなら,世の不道徳に汚されないようにすることができるのです。
クリスチャンとしての信条をはっきり知らせることは保護となる
『親切を愛する』
14,15 (イ)『親切を愛する』とはどういう意味ですか。(ロ)親切を愛することは,とがめられるところのない者となるのにどのように助けとなりますか。
14 ミカは,エホバが『親切を愛する』よう求めておられることを強調しました。親切であることには,害となる事柄ではなく良い事柄を行なうことが含まれます。親切は,善良さや道徳的な美点と密接に結びついています。私的な事柄においても,他の人との関係でも,正直であり公正でなければなりません。この本の6章では,仕事と金銭に関する面など,公正と正直さの欠かせない,生活の重要な分野について考えました。とはいえ,生活上で公正,正直,親切であるべき分野はそれだけではありません。
15 親切を愛し,人に善を行ないたいと願う人は,とがめられるところのない者であろうと努めます。エホバは,清い崇拝のための物質的な務めを果たしていなかったイスラエル人に,「あなた方はわたしから奪い取っている」とお告げになりました。(マラキ 3:8)今日では,どんな行ないが神から『奪い取る』ことになるでしょうか。地元の会衆や他の場所で,王国の関心事を推し進めるために寄付された資金を扱うクリスチャンの場合を考えましょう。そのお金はだれのものですか。エホバの崇拝を促進するために提供された資金ですから,究極的にはエホバのものです。(コリント第二 9:7)では,緊急の個人的な用事のために“借り”てもよいとか,正式な承認なしに用いてもよい,などとどうして言えるでしょうか。それは神から盗むに等しい行為です。また,神の業のために寄付をした人たちに対して親切なことでも,公正なことでもありません。―箴言 6:30,31。ゼカリヤ 5:3。
16,17 (イ)アモスやミカの時代の人たちはどんな点で貪欲さを示しましたか。(ロ)神は,強欲をどのように見ておられますか。
16 さらにクリスチャンは,親切と善良さのゆえに強欲を避けようとします。アモスの時代,世間一般に甚だしい貪欲さが見られました。飽くことなく人々を餌食にする者たちは,何のためらいもなく,仲間の崇拝者である「義なる者」を『ただ銀のために売り渡して』いました。(アモス 2:6)ミカの時代も同様で,ユダの富んだ者たちは,身を守るすべのない弱者から所有物を ― 場合によっては力ずくで ― 取り上げていました。(ミカ 2:2; 3:10)仲間の土地を奪うこれら貪欲な者たちはエホバの律法に違反していました。十の言葉の最後のおきてや,相続地の永久売り渡しを禁じる規定などに違反していたのです。―出エジプト記 20:13,15,17。レビ記 25:23-28。
17 現代では,人が売られたり奴隷にされたりすることは預言者たちの時代ほど一般的ではないかもしれません。とはいえ,金銭面で人を利用することはどうでしょうか。親切を愛するクリスチャンは,仲間の崇拝者を利用するようなことは決してしません。例えば,仲間の信者を主な顧客とする商売を始めたり投資計画を進めたりするのは妥当でも親切でもないことをわきまえています。仲間のクリスチャンを利用して性急に儲けようとするのは貪欲さの表われであり,クリスチャンは貪欲であってはならないと警告されています。(エフェソス 5:3。コロサイ 3:5。ヤコブ 4:1-5)貪欲さは,金銭に対する愛,権力や利得への欲求,飲食物や性などへの飽くなき欲望といった形でも明らかになります。ミカは,自分勝手で貪欲な人は「満たされない」と述べました。それは今日でも真実です。―ミカ 6:14。
大勢のクリスチャンが,愛をもって外国人の霊的な必要にこたえている
18,19 (イ)12預言書は,「外人居留者」へのエホバの気遣いについて何と述べていますか。(ロ)愛のこもった関心を他の人に示すなら,あなたの住む地域で人間関係はどのように良くなりますか。
18 エホバは民に,『外人居留者からだまし取ってはならない』とお命じになりました。またマラキを通して,『わたしは裁きのためにあなた方に近づく。外人居留者を退けている者に対して』と宣言されました。(ゼカリヤ 7:10。マラキ 3:5)あなたがお住まいの地域では,移民,あるいは国籍や人種や育った環境の異なる人たちの流入によって変化が生じていますか。その人たちは,安全,仕事,良い暮らしを求めて移動してきたのでしょう。あなたは,言語や生活習慣が異なる人々をどう見ておられますか。偏見を抱く傾向が幾らかでもあると感じるでしょうか。偏見は親切とは正反対のものです。
19 国や育った環境の違う人もやはりキリスト教の真理を聞くに値するということをあなたが示すなら,どれほど良い反応を期待できるか,考えてみてください。親切であれば,そうした新しく来た人たちのせいで王国会館や他の物の使用が不便になったなどと感じることはないでしょう。西暦1世紀,ユダヤ人のクリスチャンの中には,非ユダヤ人に幾らか偏見を抱く人たちがいました。それで使徒パウロはその人たちに,救いに値する人は一人もいない,だれであれ救いを得られるとすればそれはただ神の過分のご親切による,という点を思い起こさせました。(ローマ 3:9-12,23,24)わたしたちは親切心を抱いているゆえに,良いたよりを聞く機会がほとんどなかったような大勢の人に今や神の愛が及んでいることを歓びます。(テモテ第一 2:4)国や育った環境の違う人はたいてい不利な立場に置かれるので,わたしたちは思いやりや親切を示し,友として迎え入れ,わたしたちの「土地に生まれた者のように」接するべきです。―レビ記 19:34。
まことの神と共に歩む
20 一部のイスラエル人はだれに頼りましたか。
20 ミカは,神と共に歩むことも強調しました。まことの神であるその方を頼みとし,導きを求めるのです。(箴言 3:5,6。ホセア 7:10)捕囚から帰還した後のユダヤ人の中には,占い師や偽りの神々に頼る人もいました。干ばつの時に助けを求めたのかもしれません。それは実のところ,邪悪な霊の勢力に助けを願い求める行為でした。そのような慣行すべてをエホバがはっきり非としておられたのに,そうしたのです。(申命記 18:9-14。ミカ 3:6,11; 5:12。ハガイ 1:10,11。ゼカリヤ 10:1,2)それらのユダヤ人は,まことの神に敵対する霊の被造物とかかわりを持つようになってしまいました。
21,22 (イ)あなたの近隣では,どんな心霊術がよく見られますか。(ロ)エホバの真の僕がオカルトに手を出さないのはなぜですか。
21 今日,聖書の述べる邪悪な霊とは悪の概念の象徴にすぎない,と考える人がいます。しかし聖書は,悪霊が現実に存在しており,占星術や魔法,ある種の魔術などの背後にいることを明らかにしています。(使徒 16:16-18。ペテロ第二 2:4。ユダ 6)同様に,心霊術の危険も現実のものです。多くの文化圏の人々が,神秘的な力を持つと唱えるシャーマンや,呪術師を頼みにしています。ホロスコープに頼る人もいれば,タロットカードや占い棒,ウィジャ盤,特殊な水晶を使う人もいます。死者の霊と交信しようとする試みも珍しくありません。決定を下す時に占星術や霊媒に頼る政治家もいる,と言われています。このすべては,まことの神と共に歩んで,その導きに従うように,というミカのアドバイスに真っ向から反しています。
22 エホバの真の僕である人は,こうした慣行を退けなければなりません。確かに言えることとして,神が魔術やオカルトを用いてご意志を啓示したり力を行使したりなさることは決してありません。アモス 3章7節が保証しているとおり,エホバは「内密の事柄を自分の僕である預言者たちに啓示して」くださいます。一方,オカルトに手を出す人は,悪霊たちの首領サタンの影響や支配を受けることになりかねません。サタンは偽り者であり,人を欺くという戦略を用います。サタンとその手下は危害を加えようと躍起になっており,常に残酷なことを行ない,人々を殺すことまでしてきました。(ヨブ 1:7-19; 2:7。マルコ 5:5)そのためミカは,まことの神と共に歩むようにと促すとともに,占いと呪術を非としているのです。
神の僕はオカルト行為を退けなければならない
23 ふさわしい願いを満たしてくださるのは,どなただけですか。
23 真の霊的な導きは,エホバとその清い崇拝からしか得られません。(ヨハネ 4:24)『エホバに願い求めよ』と預言者ゼカリヤは記しています。(ゼカリヤ 10:1)邪悪な霊の勢力による攻撃や誘惑を受けるとしても,「エホバの名を呼び求める者はみな安全に逃れる」ということを忘れないでください。(ヨエル 2:32)この保証の言葉は,エホバの大いなる日をしっかり思いに留めるための力づけとなります。
24 あなたは,ミカ 6章8節からどんな教訓を得ましたか。
24 このように,ミカ 6章8節の言葉には考えるべき多くの点が含まれています。道徳心を強化するには,ふさわしい動機と敬虔な特質が必要です。ホセアは,「末の日」に生きるわたしたちにとって励みとなる点を記しています。わたしたちの時代に神を恐れる人たちがエホバの善良さを求める,ということを述べているのです。(ホセア 3:5)アモスも,善良さを求めるようにと神が招いておられることを示して,「善を捜し求めよ。あなた方が生きつづけるためである」と述べ,『善を愛する』ようにと促しています。(アモス 5:14,15)そのようにする人は,エホバが求めておられる事柄を行なうことによってさわやかさを得るでしょう。
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神が望んでおられるとおりに人に接するエホバの日を思いに留めて生きる
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第9章
神が望んでおられるとおりに人に接する
1-3 (イ)古代ティルスに関して,多くのクリスチャンは何を思い浮かべますか。(ロ)ヒラム王とイスラエルの関係について述べてください。(ハ)ティルスに関してどんな点を考察できますか。
古代ティルスと聞いて,何を連想されますか。多くのクリスチャンは,預言がアレクサンドロス大王によってどのように成就したかを思い浮かべるでしょう。大王は,ティルスの本土側市街の瓦礫をこそげ取って,島の上にある新市街まで土手道を築き,そこを滅ぼしたのです。(エゼキエル 26:4,12。ゼカリヤ 9:3,4)とはいえあなたは,ティルスという言葉を聞いて,霊的な兄弟や他の人たちに何を行なうか,何を行なわないか,という点が頭に浮かびますか。
2 ティルスはなぜ滅ぼされたのでしょうか。こうあります。「ティルスの三つの反抗のゆえ,……彼らが流刑者たちすべてをそっくりエドムに引き渡したから,また兄弟たちとの契約を思い起こさなかったためである。それでわたしはティルスの城壁に火を送る」。(アモス 1:9,10)かつてティルスの王ヒラムはダビデに好意を示し,ソロモンの神殿のために資材を提供しました。ソロモンはヒラムと契約を結ぶとともに,ガリラヤの諸都市を与え,ヒラムはソロモンを「わたしの兄弟」と呼びました。(列王第一 5:1-18; 9:10-13,26-28。サムエル第二 5:11)ティルスが『兄弟たちとの契約を思い起こさず』,神の民である人々を奴隷として売った時,エホバはその仕打ちに目を留められました。
3 神は,ご自分の民に対する厳しい仕打ちゆえにティルスのカナン人に裁きを下されました。そのことから,どんな教訓を引き出せるでしょうか。霊的な兄弟たちへの接し方にかかわる重要な教訓です。これまでの章で,仕事における公正さ,貞潔な行状など,人との接し方に関するアドバイスを12預言書から学びました。とはいえ12預言書は,わたしたちが他の人とどのように接することを神が望んでおられるかに関して,ほかにも多くの点を示しています。
他の人の苦境を見て歓んではならない
4 エドム人は,どんな意味でイスラエルの「兄弟」でしたか。しかし,「兄弟」に対してどんな態度を取りましたか。
4 イスラエルの近隣の国エドムに対する神の有罪宣告からも教訓が得られます。こうあります。「あなたは,あなたの兄弟の日,その不運の日に,その光景を見守っているべきではない。ユダの子らが滅びの日にあるのを見て歓ぶべきではない」。(オバデヤ 12)イスラエルにとって,ティルス人は商業活動における「兄弟」のようなものだったのに対し,エドム人は真の意味での「兄弟」でした。ヤコブの双子の兄エサウの子孫だったからです。エホバもエドム人をイスラエルの「兄弟」と呼ばれました。(申命記 2:1-4)それなのに,ユダヤ人がバビロニア人の手にかかって災いを被った時に歓ぶとは,何とひどい人たちだったのでしょう。―エゼキエル 25:12-14。
5 わたしたちもどんな状況でエドム人のような精神を示しかねませんか。
5 兄弟であるユダヤ人に対するエドム人の態度を神が是認されなかったことは明らかです。それでわたしたちは,『兄弟たちに対する自分の態度は神からどう評価されるだろうか』と自問できるでしょう。考えたい一つの分野は,物事がうまく行っていない時の,兄弟に対する見方や接し方です。例えば,あるクリスチャンがあなたの気に障ることをしたか,あなたの親族との間で問題を抱えているとしましょう。「不満の理由」がある場合,その件をきれいさっぱり忘れたり解決しようと努めたりせずに,憤りを宿しますか。(コロサイ 3:13。ヨシュア 22:9-30。マタイ 5:23,24)そのような気持ちは相手の人に対する行動に表われるでしょう。よそよそしくして,その人を避けたり,悪口を言ったりするかもしれません。そして後日,その兄弟が会衆の長老からの助言や矯正を必要とするような間違いを犯したとしましょう。(ガラテア 6:1)あなたはエドム人の精神を表わして,その兄弟が苦境にあるのを見て歓びますか。神はあなたがどう行動することを望まれるでしょうか。
6 ゼカリヤ 7章10節とは違う角度から,ミカ 7章18節はどんなことを勧めていますか。
6 エホバは,わたしたちが『互いに対し心の中で悪をたくらまないように』と望んでおられ,そのことをゼカリヤを通してお示しになりました。(ゼカリヤ 7:9,10; 8:17)このアドバイスは,ある兄弟から傷つけられた,もしくは身内が不当な扱いを受けたと感じる場合に当てはまります。そう感じるとき,つい『心の中で悪をたくらみ』,それを行動に移してしまうかもしれません。しかし神は,ご自分の良い手本にわたしたちが見倣うことを願っておられます。エホバが「とがを赦し,違犯を見過ごしておられる」というミカの記述を思い出してください。a (ミカ 7:18)では,この言葉をどのように実生活に適用できるでしょうか。
7 わたしたちは過ちを水に流して忘れようとすることがありますが,それはなぜですか。
7 自分や親族に対してなされた事柄によって感情的に傷ついたとしても,実のところ,なされたのはどれほど重大な事だったでしょうか。聖書は,不和の解決方法だけでなく,兄弟間の罪の扱い方も略述しています。とはいえ多くの場合,とがや過ちをただ見逃す,つまり『違犯を見過ごす』のが最善です。こう自問してみてください。『これは,相手を許すべき77回のうちの1回ではないだろうか。水に流して忘れてしまえばよいのではないだろうか』。(マタイ 18:15-17,21,22)今は非常に大きな過ちに思えるとしても,1,000年後にはどうでしょうか。働き人が飲食を楽しむことに関する伝道の書 5章20節の言葉から,基本的な教訓を引き出せます。こうあります。『その人が自分の命の日を覚えることは度々あることではない。なぜなら,まことの神はその人をその心の歓びに専念させておられるからである』。この人は今この時の楽しみに焦点を合わせて幸せな気分になっているため,日常生活の厄介な問題をほとんど忘れています。この態度を見倣えるでしょうか。クリスチャンの兄弟関係における数々の喜びに焦点を合わせるなら,永久に重要というわけではない問題,新しい世で思い出すことのない問題を忘れられるかもしれません。こうした態度は,他の人の苦境を見て歓んだり,過ちをいつまでも覚えていたりすることとは大違いです。
気に障ることをされたとき,何を避けるべきか
他の人に真実を語る
8 真実を語るという点で努力を要する,どんな分野がありますか。
8 12預言書は,わたしたちが真実さをもって他の人に接することを神がどれほど望んでおられるか,という点も際立たせています。言うまでもなく,わたしたちは他の人に「良いたよりの真理」という真実を話そうと努めています。(コロサイ 1:5。コリント第二 4:2。テモテ第一 2:4,7)とはいえ,多様な事柄や状況が話題に上る家族や霊的な兄弟たちとの普段の会話のほうが,常に真実を語るという点で努力を要するかもしれません。なぜそう言えますか。
9 どんな時に,真実をありのままに話したくないという気持ちになるかもしれませんか。どんな点を自問すべきですか。
9 わたしたちはだれしも,不親切なことを言ったりしたりして,後ほどその事実を思い知らされた,という経験があります。そんな時,恥ずかしく思ったり,幾らか罪の意識を感じたりするものです。そのような感情のゆえに,間違いを否定する人もいれば,言い訳として真実を曲げた“説明”をする人もいます。あるいは,気まずい状況で,都合の悪い事柄には触れずに事実をうまく言い換えたくなるかもしれません。そのような場合,語った内容に偽りはなくても,まるで違った印象を与えることになります。世間でよくある真っ赤なうそではないとしても,本当の意味で『おのおの隣人に[あるいは兄弟に]対して真実を語っている』ことになるでしょうか。(エフェソス 4:15,25。テモテ第一 4:1,2)クリスチャンが兄弟に対して,相手は真実でない不正確な事を信じ込むだろうと承知のうえで曖昧な言い方をする時,神はどうお感じになるでしょうか。
10 預言者たちは,古代のイスラエルとユダで広く見られた事柄をどのように描写していますか。
10 神に献身した人でさえエホバが願っておられる事柄を時には無視するということを,預言者たちは理解していました。ホセアは,当時のある人々について神がどう感じておられたかを,こう代弁しています。「彼らには奪略が臨む。わたしに対して違犯をおかしたからである。そして,わたし自ら彼らを請け戻したのに,彼らはそのわたしに対して偽りを語った」。明白であからさまな偽りをエホバに対して述べることに加え,「のろうこと,欺くこと」も行なう人がいました。事実をねじ曲げて他の人を惑わしたのでしょう。(ホセア 4:1,2; 7:1-3,13; 10:4; 12:1)ホセアはこの言葉を北王国のサマリアで記しました。ユダの状況はこれよりましでしたか。ミカはこう伝えています。「その富んだ者たちは暴虐に満ち,そこに住む者たちは偽りを語った。彼らの舌はその口の中にあってこうかつなのである」。(ミカ 6:12)これらの預言者が「欺くこと」と『口の中にこうかつな舌を持つ』者とを非としているという点を,わたしたちは意識すべきです。クリスチャンは,故意にうそをつくことはありませんが,それでも次のように自問できます。『わたしも時折,人を欺いたり口の中にこうかつな舌を持ったりすることがあるだろうか。この点で,神はわたしに何を望んでおられるだろうか』。
11 話す事柄の点で,預言者たちは神のご意志について何を明らかにしていますか。
11 いっぽう神は,わたしたちが行なうよう望んでおられる善良な事柄も,預言者を通して明らかになさいました。ゼカリヤ 8章16節にこうあります。「あなた方はこれらの事をすべきである。すなわち,互いに対して真実を語れ。真実と平和の裁きとをもってあなた方の門の内で裁きを行なえ」。ゼカリヤの時代,門は年長者たちが司法上の問題を扱う公共の場所でした。(ルツ 4:1。ネヘミヤ 8:1)とはいえゼカリヤは,そのような場にいるときだけ正直に語れ,と述べているのではありません。公の場で正直であることは大切ですが,「互いに対して真実を語れ」とも命じられています。これは,家庭という私的な場で配偶者や近親者と話す場合を含みます。また,霊的な兄弟姉妹との日常会話にも当てはまります。顔を合わせて話すときも,電話や他の方法で話したり書いたりするときもそうです。相手の側は,聞いたり読んだりする事柄が真実であると期待してよいはずです。クリスチャンの親は,偽りを避けることの重要性を子どもに教え込むべきです。そうするなら子どもは,こうかつな舌やたばかりの舌を用いずに全く正直に語るよう神から期待されている,ということを意識しつつ,成長してゆくでしょう。―ゼパニヤ 3:13。
12 12預言書から,どんな貴重な教訓を学べますか。
12 子どもでも大人でも,真実の道にしっかりとどまろうとする人は,「真実と平和とを愛せよ」というゼカリヤの勧告に従います。(ゼカリヤ 8:19)み子が手本を示したとエホバがお認めになった点に関する,マラキの記述にも注目してください。こうあります。「真実の律法が彼の口にあった。その唇に不義が見いだされることはなかった。平和と廉直のうちに彼はわたしと共に歩んだ」。(マラキ 2:6)エホバはわたしたちにはここまで望んでおられない,と言えるでしょうか。忘れないでください。わたしたちには,数々の教訓を収めた12預言書だけでなく,神の言葉全体が与えられているのです。
暴力を避ける
13 ミカ 6章12節は,当時のどんな問題にも光を当てていますか。
13 ミカ 6章12節には,古代の神の民が他の人にむごい仕打ちをした一つの分野について,『彼らは偽りを語った。彼らの舌はその口の中にあってこうかつなのである』と記されています。とはいえ,その聖句は別の重大な欠陥も明らかにして,『富んだ者たちは暴虐に満ちた』と述べています。どのような暴虐に満ちていたのでしょうか。どんな教訓を引き出せますか。
14,15 神の民の周辺にいた諸国民の暴虐に関して,どんな記録がありますか。
14 神の民の近くにいた諸国民の評判について考えてみましょう。北東にはアッシリアがあり,その首都ニネベについてナホムはこう記しています。「この流血の都市は災いだ。彼女はただ欺きと強奪とに満ちている。獲物は去っては行かない!」(ナホム 3:1)アッシリア人は,侵略戦争と戦争捕虜への残虐行為で知られていました。捕虜を生きたまま焼いたり皮をはいだりすることもあれば,盲目にしたり鼻や耳や指を切り落としたりすることもあったのです。「神々と墓と学者たち」(英語)という本はこう述べています。「ニネベといえば,ただ殺害と略奪,抑圧と弱者への暴虐だけが人々の意識に印象づけられた。また,その戦争と,あらゆる形の身体的暴力……で知られるようになった」。その暴虐の目撃者(そして,おそらく共犯者でもあった人物)の言葉が記録されています。ニネベの王は,ヨナの音信を聞いた後,自国民に関してこう言いました。「人も家畜も粗布で身を覆うように。力をこめて神に呼ばわり,各自自分の悪の道から,その手の暴虐から引き返すように」。―ヨナ 3:6-8。b
15 甚だしい暴虐を働いたのはアッシリアだけではありません。ユダの南東のエドムも応報を受けました。なぜでしょうか。「エドムは荒れ果てた荒野となる。それはユダの子らに対する暴虐のゆえである。その土地で彼らは罪のない血を流した」と書かれています。(ヨエル 3:19)エドム人はこの警告を心に留めて暴虐の道を捨てましたか。200年ほど後にオバデヤはこう書いています。「[エドム人の都市]テマンよ,あなたの力ある者たちは恐れおののくことになる。……あなたの兄弟ヤコブに対する暴虐のゆえに……あなたは定めのない時に至るまで切り断たれることになる」。(オバデヤ 9,10)では,神の民はどうでしたか。
16 アモス書とハバクク書から,当時のどんな問題がよく分かりますか。
16 アモスは北王国の首都サマリアの状況を明らかにし,こう述べています。「『その内にある多くの騒乱を,その中でなされている数々の詐取の行為を見よ。それで彼らは,すなわち暴虐を積み重ね,……奪略を働いている者たちは,正直な事柄をどのように行なうべきかを知ってはいない』と,エホバはお告げになる」。(アモス 3:9,10)エホバの神殿があったユダではそんなことはなかった,と考えたいところですが,ユダに住んでいたハバククは神にこう問いかけています。『いつまでわたしは暴虐からの救助を呼び求め,そしてあなたは救ってくださらないのですか。有害な事柄をわたしに見させ,あなたが難儀をただ見ておられるのはどうしてですか。またなぜ奪い取ることや暴虐がわたしの前にあるのですか』。―ハバクク 1:2,3; 2:12。
17 神の民が暴虐的になった理由として,どんなことが考えられますか。
17 神の民の間に暴虐が広まったのは,暴虐に対するアッシリアやエドムなど諸国民の態度から影響を受けるままになっていたからでしょうか。そうなる危険性についてソロモンは,「暴虐の者をうらやんではならない。また,そのいずれの道をも選んではならない」と警告していました。(箴言 3:31; 24:1)後に,エレミヤはこう明言しました。「エホバはこのように言われた。『決して諸国民の道を学んではならない』」。―エレミヤ 10:2。申命記 18:9。
多くの漫画やコンピューターゲームは,暴力を振るっても構わないと子どもたちに思い込ませる
18,19 (イ)ハバククが今の世の中を見たなら,現代の暴力についてどう感じるでしょうか。(ロ)あなたは今の時代の暴力についてどう感じていますか。
18 ハバククが今の世の中を見たなら,暴虐にがく然とするのではないでしょうか。現代の多くの人は,子どものころから暴力に染まっています。少年少女に人気のある漫画は暴力を売り物にしており,登場人物は殴ったり爆破したりして相手を倒そうとします。漫画では物足りなくなった子どもたちはコンピューターゲームに進み,銃や爆弾で敵を打ち負かすことに夢中になります。「たかがゲームに過ぎないではないか」と反論する人もいるでしょう。しかし,家庭やゲームセンターでの暴力的なゲームはプレーヤーを暴力漬けにし,態度や行動を形作ります。霊感による次の助言はまさに真実です。「暴虐の者はその仲間をたぶらかし,必ずこれを良くない道に入り込ませる」。―箴言 16:29。
19 ハバククは,不本意ながら難儀や『自分の前にある暴虐』を見なければならず,それゆえに悲嘆しました。それで,わたしたちは次のように自問できるでしょう。『ハバククは,わたしが普段見ているテレビ番組を,わたしと一緒にくつろいで見るだろうか』。『意図的に暴力を加味した“スポーツ”や,古代の剣闘士まがいの防具を着けた選手たちの闘いを,わざわざ観戦しようとするだろうか』。フィールドやコートでの暴力ざたに,また熱狂的なファン同士のけんかに興奮を覚える人は少なくありません。また,国によっては,戦いや武術を呼び物とした暴力的な映画やビデオが人気を集めています。史実あるいは自国の伝統文化なので問題ないとみなされているかもしれませんが,そのために暴力に対する抵抗感が薄れていないでしょうか。―箴言 4:17。
20 マラキは,どんな種類の暴力に関してエホバの見方を述べましたか。
20 暴力に関してマラキは別の点を取り上げ,妻に不実な一部のユダヤ人に対するエホバの見方を指摘しています。「『神は離婚を憎んだのである』と,イスラエルの神エホバは言われた。『また,自分の衣を暴虐で覆った者をも』」。(マラキ 2:16)「自分の衣を暴虐で覆った」と訳されているヘブライ語については,様々な解釈があります。人に暴力を振るった時に自分の衣服に血がつくことを意味している,と考える学者もいます。いずれにしても,マラキは配偶者への虐待をはっきり非としています。家庭内での暴力の問題を取り上げ,神がそれを是認されないことを示したのです。
21 どんな分野で,クリスチャンは暴力を避けなければなりませんか。
21 身体的なものであれ言葉によるものであれ,クリスチャンの家庭という私的な場における暴力は,公の場での暴力と同じく,言い訳のできるものではありません。神はいずれをもよく見ておられます。(伝道の書 5:8)マラキが言及したのは妻に対する暴力でしたが,聖書中のどこにも,子どもや年配の親に対する暴力であればあまり目くじらを立てなくてよい,とは述べられていません。妻が夫や子どもや親に暴力を振るう場合も,やはり言い訳はできません。もちろん,不完全な人間の家庭では,緊張が生じ,いらだちや怒りを感じることもあるでしょう。とはいえ,聖書は次のようにアドバイスしています。「憤っても,罪を犯してはなりません。あなた方が怒り立ったまま日が沈むことのないようにしなさい」。―エフェソス 4:26; 6:4。詩編 4:4。コロサイ 3:19。
22 周囲の多くの人が暴力的であってもわたしたちは暴力的にならずにいられると,どうして言えますか。
22 暴力の言い訳として,『自分は暴力的な家庭で育ったからこうなんだ』,『すぐにかっとなって怒りを爆発させるのは,地元の気風なんだ』などと言う人がいます。しかしミカは,『暴虐に満ちた富んだ者たち』を非とした際,彼らは暴虐のただ中で育ったのだから仕方がない,というようなことは述べませんでした。(ミカ 6:12)ノアは,地が『暴虐で満ちた』時代に生活し,息子たちも暴虐に囲まれて成長しました。では,親子ともに暴力的になりましたか。いいえ。「ノアはエホバの目に恵みを得」,息子たちもノアに従い,大洪水を生き延びました。―創世記 6:8,11-13。詩編 11:5。
23,24 (イ)暴力的な人という評判を得ないために何が役に立ちますか。(ロ)エホバの望むとおりに他の人に接する人たちについて,エホバはどうお感じになりますか。
23 エホバの証人は世界中で,暴力的ではなく平和的な人々という評判を得ています。暴力行為を禁じるカエサルの法律に敬意を払い,従っています。(ローマ 13:1-4)そして,『剣をすきの刃に打ち変え』,平和を追い求めています。(イザヤ 2:4)暴力を避けるのに役立つ「新しい人格」を身に着けようと努めています。(エフェソス 4:22-26)また,クリスチャンの長老たちのりっぱな手本を見て学んでいます。長老は,言葉や行動によって『人を殴る』ような人であってはならないのです。―テモテ第一 3:3。テトス 1:7。
24 確かにわたしたちは,神が望んでおられるとおりに人に接することができます。そして,そうしなければなりません。ホセアは次のように述べています。「賢くて,これらの事を理解する者はだれか。思慮があって,これを悟り知る者はだれか。エホバの道は廉直であり,そこを歩む者は義にかなう」。―ホセア 14:9。
a 「違犯を見過ごしておられる」という表現について,ある学者は次のように述べています。このヘブライ語の隠喩は,「注意を向けたくない物に注目することなく通り過ぎる旅人の行動から取られている。この隠喩が伝えている考えは,[神は罪に無頓着であるということではなく,]特定の場合に神は処罰を意図して罪に目を留めることをされない,つまり処罰せずに許される,ということである」。
b ニネベの南東35㌔ほどのところに,アシュルナシルパルが再建した都市カラハ(ニムルード)があります。カラハで見つかった壁板が大英博物館に展示されており,それについて,ある文献は次のように述べています。「アシュルナシルパルは,自分が指揮した軍事行動の凶暴さと野蛮さを事細かに描いている。捕虜は……包囲された都市の城壁の傍らで柱につるされたり杭につけられたりし,若者や未婚女性は生きながら皮をはがれた」。―「聖書の考古学」(英語)。
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神に喜ばれる家庭生活を築くためにエホバの日を思いに留めて生きる
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第10章
神に喜ばれる家庭生活を築くために
1 全般にエホバの証人が幸福な家庭生活を送っているのはなぜですか。
エホバの証人は,幸福な家庭生活を送っているという評判を得ています。オックスフォード大学のブライアン・ウィルソン教授はこう書いています。「結婚関係,道徳上の問題,子育て,その他の日常的な事柄について,証人たちは,……広範囲にわたる実際的な助言を提供している。……証人たちは確かな助言という形で提供できるものをたくさん持っている。それらの助言は,聖書の中で確証されており,……首尾一貫した人生哲学にまとめ上げられている」。あなたご自身も,健全な家庭生活を送る方法について神の言葉から多くを学んでこられたに違いありません。
2 (イ)今の世の家族の状況について,あなたはどう思いますか。(ロ)家庭生活に関する導きを得るため,これから聖書のどの部分を調べますか。
2 エホバの日が近づいている今,サタンは特に家族を攻撃しています。そのため自分の家族を信頼できなくなっている人も少なくありません。ミカの時代もそうでした。ミカは次のように書いています。「仲間を信じてはいけない。……あなたの懐に寝る女に対して口を開くことにも用心せよ。息子は父を軽んじ,娘はその母に逆らい,嫁はそのしゅうとめに逆らっているからである。人の敵はその家の者たちとなっている」。(ミカ 7:5,6)あなたは,家族という枠組みが崩れている世で生活しつつも,悪影響を受けないよう懸命に闘っておられます。ですから,あなたの家庭生活は神にとっていっそう喜ばしいものであると言えます。おそらくあなたは,申命記 6章5-9節,エフェソス 5章22節から6章4節,コロサイ 3章18-21節などの聖句を適用しておられることでしょう。とはいえ,12預言書からも幸福な家庭生活のための助言が得られる,とお考えになったことがありますか。この章では12預言書のそのような助言の幾つかを取り上げますが,それらを考慮するだけで終わりとしてはなりません。それらを例として,12預言書から他の教訓も引き出すための基本的な学び方をつかみましょう。この章の終わりには,12預言書から教訓を引き出す練習として幾つかの聖句が挙げられています。
「神は離婚を憎んだ」
3,4 (イ)今日,多くの人は夫婦の問題をどのように解決しようとしますか。(ロ)マラキの時代,結婚に関するどんな嘆かわしい風潮が見られましたか。
3 当然のことながら,まず注目したいのは夫婦のきずなです。かつては,問題があるなら離婚すればよいと考える人はほとんどいませんでした。離婚手続きはたいてい難しく,19世紀の英国では,離婚するには議会による裁定が必要でした。このような考え方が家族の崩壊を防いでいたのです。しかし現在では状況が一変しています。ブリタニカ百科事典(英語)はこう述べています。「第二次世界大戦以降,多くの国で離婚率が急上昇した。……離婚に対する態度は激変し,離婚を容認する傾向が一般的になっている」。10年前には離婚がひんしゅくを買っていた韓国のような国でも,今や離婚は社会現象になりつつあります。今日,多くの国で離婚は,結婚生活で問題を抱えた人の現実的な選択肢の一つとみなされています。
4 西暦前5世紀,マラキの時代のユダヤ人の間でも離婚がはびこっていました。マラキは民にこう告げます。『エホバ自身,あなたとあなたの若い時の妻との間について証しをする者となった。あなたはこれ[妻]に対して不実な振る舞いをした』。夫たちの不実な振る舞いのゆえに,エホバの祭壇は,裏切られた妻たちの涙で,また「泣き悲しみや嘆息で」覆われました。しかも,堕落した祭司たちは,そのような非情な行ないを黙認していたのです。―マラキ 2:13,14。
5 (イ)エホバは離婚をどうご覧になりますか。(ロ)配偶者に対する不実な行動が非常に重大な問題であるのはなぜですか。
5 結婚に関するマラキの時代の嘆かわしい風潮を,エホバはどうご覧になったでしょうか。「『神は離婚を憎んだのである』と,イスラエルの神エホバは言われた」。マラキはこう記し,さらに,エホバが『変わらない』方であることも断言しています。(マラキ 2:16; 3:6)これらの聖句の要点がお分かりですか。神は以前から,離婚を非とする立場を取っておられました。(創世記 2:18,24)マラキの時代もそうでした。そして現在もそうなのです。相手に満足できないというだけの理由で結婚関係を解消する人がいます。人の心は不実なものですが,エホバはそれをくまなく探っておられます。(エレミヤ 17:9,10)離婚する人がどんな理屈をつけようと,エホバは隠された欺きや悪巧みを見抜かれます。実のところ,「すべてのものはその目に裸で,あらわにされており,この方に対してわたしたちは言い開きをしなければなりません」。―ヘブライ 4:13。
6 (イ)離婚に対するエホバの見方を持つことは,どのように助けとなりますか。(ロ)離婚に関するイエスの忠告の主眼は何でしたか。
6 離婚の危機に面していない人も,エホバの見方を銘記しておくべきでしょう。だれも完全ではないので,夫婦間で問題や不和が生じることは十分予想されます。そのような場合に,離婚を一つの選択肢,楽な逃げ道とみなしますか。口論の勢いにまかせて,離婚をほのめかすでしょうか。そうする人は少なくありませんが,結婚のきずなに関する神の見方からすると,結婚がうまくゆくように,もっと真剣に努力すべきです。確かにイエス・キリストは,離婚の正当な根拠として,淫行つまり結婚関係外のあらゆる種類の性的交わりを挙げました。とはいえ,イエスの訓戒の主眼はどこにありましたか。イエスは,「神がくびきで結ばれたものを,人が離してはなりません」と教えました。マラキが450年ほど前に述べたエホバの不変の規準を支持しておられたのです。―マタイ 19:3-9。
夫婦で口論になったとき,一つの選択肢として離婚を考えますか
7 マラキ書の訓戒に沿って,どうすれば強い結婚のきずなを保てますか。
7 では,どうすればクリスチャンの夫婦は強いきずなを保てるでしょうか。マラキは,かぎとなる点を次のように述べています。「あなた方は,自分の霊に関して自らを守り,不実な振る舞いをしてはならない」。(マラキ 2:16)これは,自分の内にある強力な傾向に気をつける,ということです。『自分の霊を守って』いる人は,配偶者以外の人に過度の注意を向けないようにするでしょう。(マタイ 5:28)配偶者以外の異性からちやほやされたり,お世辞を言われたりするのを内心喜んでいるとしたら,どうですか。自分の霊に関して守りを緩めていることになるでしょう。このように12預言書から,強い結婚のきずなを維持するのに役立つ重要な教訓として,「自分の霊」に注意を払うことを学べます。
ホセアがゴメルを取り戻したことから,エホバについて何を学べるか
8,9 ホセアとゴメルの話が聖書に収められたのはなぜですか。
8 あなたはいつまでも円満な結婚生活を送ろうと決意しておられるに違いありません。それでも,結婚生活で問題が起きないわけではありません。問題が生じるとき,どのように対処するのが最善でしょうか。とりわけ,ほぼ全面的に相手のほうが悪いと思える場合はどうですか。この本の2章と4章でホセアについて考えた点を思い出してください。ホセアの妻ゴメルは「淫行の妻」となって「情夫たちの後を追いかけ」ましたが,やがて見捨てられ,困窮して奴隷状態に陥りました。ホセアは代価を払ってゴメルを取り戻しただけでなく,ゴメルを愛するようにと命じられました。なぜでしょうか。エホバとイスラエルの間で生じていた事柄をありありと描き出すためです。エホバは「夫たる所有者」であり,その民は妻としてエホバと結ばれていました。―ホセア 1:2-9; 2:5-7; 3:1-5。エレミヤ 3:14。イザヤ 62:4,5。
9 イスラエル人は初めのころから,他の神々に従うことによってエホバに痛みを与えてきました。(出エジプト記 32:7-10。裁き人 8:33; 10:6。詩編 78:40,41。イザヤ 63:10)北の十部族王国は,子牛崇拝ゆえに,特にとがめられるべきでした。(列王第一 12:28-30)さらにイスラエル人は,夫たる所有者であるエホバに頼らず,政治上の愛人たちに目を向けました。盛りのついた強情なしまうまのようにアッシリアの後を追ったこともあります。(ホセア 8:9)自分の配偶者がそのようなことをしたら,あなたはどう感じますか。
10,11 配偶者のほうが間違っていると思える状況で,どのようにエホバに見倣えますか。
10 ホセアの時代には,イスラエル人がエホバとの契約関係に入ってから700年以上たっていました。それでも神は,民がご自分のもとに戻るなら進んで許そうと考えておられました。ホセアは西暦前803年より前に預言を始めたようですから,エホバの堪忍はその後,イスラエルに対して約60年,ユダに対しては200年近くも続いたことになります。エホバはホセアの家庭の状況を例えとして用い,悔い改めるようにと契約の民を引き続き促しておられました。イスラエルとの結婚関係を終わらせる正当な理由をお持ちでしたが,比喩的な妻が帰って来るのを助けるため,預言者たちを遣わし続けられました。自ら犠牲を払ってそうされたのです。―ホセア 14:1,2。アモス 2:11。
11 配偶者のほうが間違っていると思える状況で,あなたはエホバのように事態に対処するでしょうか。夫婦の関係を元に戻すために,自分のほうから努力しますか。(コロサイ 3:12,13)そうするには謙遜さが求められます。エホバはイスラエル人への対応の点で,本当にすばらしい手本を示されました。(詩編 18:35; 113:5-8)イスラエル人の「心に語りかけ」,切々と訴えかけることまでなさったのです。不完全な人間であるわたしたちはなおのこと,配偶者の心に語りかけ,問題を解決しよう,間違いを見過ごそうと努めるべきではないでしょうか。エホバの努力が幾らかの成果を上げたことも注目に値します。国民の残りの者がバビロンでの捕囚状態という荒野において心を開き,後に故国に帰還して,エホバを「わたしの夫」と呼ぶようになったのです。―ホセア 2:14-16。a
エホバに見倣って,問題を解決するために自分のほうから話し合いを始める
12 比喩的な妻に対するエホバの態度について黙想するなら,結婚生活にどんな益が及びますか。
12 重大な問題が生じた場合でも,配偶者との関係を回復しようと真摯に努力するなら,良い結果が得られるでしょう。神は,比喩的な配偶者が犯した霊的な淫行という由々しい罪をさえ自ら進んで許そうとされました。真のクリスチャンの夫婦の間で,問題がそれほど危機的な段階に至ることはまずありません。多くの場合,問題の発端となるのは,とげとげしい言葉やきつい言葉です。配偶者の突き刺すような言葉に傷つけられているなら,ホセアの経験,そして何よりもエホバの経験を考えてみてください。(箴言 12:18)そうすれば,許しやすくなるのではありませんか。
13 強情な民にエホバが悔い改めをお求めになったことから,どんな教訓が得られますか。
13 この歴史の記録には別の側面もあります。神は,民が淫行を犯し続けているときに,自ら進んで関係を回復しようとされましたか。その姦淫の国民について神は,「彼女はその淫行を自分の前から,その姦淫の行為を自分の乳房の間から除くように」とホセアにお告げになりました。(ホセア 2:2)民は,悔い改めて,『悔い改めにふさわしい実を生み出す』必要があったのです。(マタイ 3:8)それで,配偶者の欠点ではなく自分の欠点に焦点を合わせましょう。もし自分のほうに落ち度があるのなら,誠実に謝り,行ないを改めて,関係を回復しようと努めるのはいかがですか。許しという報いを得ることができるでしょう。
「愛の綱」― 懲らしめの基盤
14,15 (イ)マラキ 4章1節からすると,子どもを教える責任を真剣に受け止めるべきなのはなぜですか。(ロ)エホバを知るよう,どのように子どもを助けることができますか。
14 12預言書に記録されているイスラエル人へのエホバの対応から,家庭生活に関して,さらに別の点を学べます。それらの書には,子どもを助ける方法も示されているのです。今日,子育ては控えめに言っても容易ではなく,親は自分の責任を真剣に受け止めなければなりません。こう記されています。「『来たらんとするその日は必ず[人々]をむさぼり食うであろう』と,万軍のエホバは言われた。『こうしてそれは,彼らに根も大枝も残さない』」。(マラキ 4:1)その清算の日に,幼い子ども(大枝)は,親(根)に対するエホバの評価にしたがって公正に扱われます。親には,年若い子どもに関する責任があるのです。(イザヤ 37:31)親の生き方によって,良くも悪くも,子どもの将来が決まってしまうかもしれません。(ホセア 13:16)あなた(根)がエホバのみ前で良い立場を保っていないなら,エホバの憤怒の日に,お子さん(大枝)はどうなるでしょうか。(ゼパニヤ 1:14-18。エフェソス 6:4。フィリピ 2:12)逆に,神の是認を得ようとするあなたの忠実な努力は,お子さんにも益となります。―コリント第一 7:14。
15 使徒パウロは,エホバのみ名を呼び求める必要性に関するヨエルの預言を引用した後,こう書いています。「人は,自分が信仰を持っていない者をどうして呼び求めるでしょうか。また,自分が聞いたこともない者にどうして信仰を持つでしょうか」。(ローマ 10:14-17。ヨエル 2:32)パウロは公の宣教奉仕について述べていますが,この原則は,子どもを教えることにも適用できます。子どもは,エホバについて聞かなければ,どうしてエホバに信仰を持てるでしょうか。あなたは日ごとに十分な時間を取って,エホバがいかに善良な方であるかをお子さんに教え,エホバとその導きに対する深い愛をお子さんのうちに育んでおられますか。家庭でいつもエホバに関する話を聞いているなら,子どもは立派に成長することでしょう。―申命記 6:7-9。
16 ミカ 6章3-5節に基づいて,子どもを懲らしめる時どのようにエホバに見倣えますか。
16 子どもがまだ幼いうちは,クリスチャンの集会に連れて行くのも比較的簡単でしょう。しかし,子どもは成長するにつれて自分の考えを持つようになります。子どもが時おり反抗的な傾向を示す場合,どのように対応すればよいでしょうか。12預言書から学べます。エホバがイスラエルとユダにどう対応されたかに注目しましょう。(ゼカリヤ 7:11,12)例えば,ミカ 6章3-5節を読んで,その口調を考えてみてください。イスラエル人は悪を行なっていましたが,それでも神は「わたしの民」と呼びかけ,「わたしの民よ,どうか思い出すように」と訴えかけておられます。厳しくとがめるのではなく,心を動かそうとされたのです。あなたは,お子さんを懲らしめる時もエホバに見倣いますか。その子がどれほど悪いことを行なってきたとしても,家族のかけがえのない一員として接しましょう。見下すような言い方をしてはなりません。非難するのではなく,優しく訴えかけましょう。質問をして,考えを引き出すのです。気持ちを打ち明けてくれるよう,心を動かすことに努めましょう。―箴言 20:5。
17,18 (イ)どんな動機で子どもを懲らしめるべきですか。(ロ)どうすれば子どもとの「愛の綱」を保てますか。
17 あなたがお子さんを懲らしめるのはなぜですか。親の中には,家族の評判が落ちることを気にして懲らしめを与える人もいます。しかしエホバは,ご自分がどんな動機で懲らしめるのかを示して,次のように明言なさいました。「わたしはエフライムに歩み方を教え,彼らを自分の腕に抱いた。……地の人の縄をもって,愛の綱をもってわたしは彼らを引っ張りつづけた」。(ホセア 11:3,4)ホセア書のこの言葉は,エホバとイスラエルの関係を父と子の関係になぞらえています。情景を思い描いてみてください。よちよち歩く子どもを助けるために,愛情深い親が,手に持った綱でそっと引っ張っています。その綱は,子どもがつまずいた時の支え,歩き回る時の導きとなります。―エレミヤ 31:1-3。
親として,子どもに愛を示す点でエホバに見倣っていますか
18 あなたも,イスラエル人に対する神の愛に見倣いたいと思いますか。民は幾度も神に背を向けましたが,神は愛の綱をすぐに離したりはされませんでした。お子さんが時に道からそれたり,小さなことにつまずいたりしやすいとしても,その子との愛のきずなを保つようにしましょう。また,エホバは民を溺愛して悪行を見過ごしたりはされなかった,という点も銘記してください。エホバは事態に真正面から向き合い,愛をもって民を懲らしめ,時間を取って必要な助けを与えました。お子さんが真理の道から漂い出そうになっていることに気づいたなら,それを無視してはなりません。導きの綱を使うかのようにして,その子を連れ戻そうと努め,難しい時の間ずっと,温かい助けを与えましょう。問題を抱えている子と一緒に時間を過ごしてください。この点は,いくら強調しても強調しすぎることはありません。一緒に時を過ごすのです。
19 子どもについてあきらめてはならないのは,なぜですか。
19 ホセアは,イスラエル人の残りの者が懲らしめを受け入れることを予見して,こう述べました。「イスラエルの子らは戻って来て,自分たちの神エホバを,また自分たちの王ダビデを必ず求めるであろう。末の日に,彼らはエホバのもとに,その善良さのもとにわななきながらやって来るのである」。(ホセア 3:5)神が与えた懲らしめは,民の残りの者に効果があったのです。うちの子の場合もそうなる,という楽観的な見方を持ちましょう。お子さんの良い面を見るようにしてください。優しく語りかけるとともに,毅然とした態度で聖書の原則を固守してください。今は良い反応を示さない強情な子も,やがて本心に立ち返るかもしれません。
悪い交わりに用心しなさい
20 若い人は12預言書から,交わりに関するどんな質問の答えを得られますか。
20 若い人は12預言書から何を学べるでしょうか。親との話し合いでよく使われる聖句は,悪い交わりを避けることに関するコリント第一 15章33節でしょう。『でも,エホバを崇拝していない人と友達になるのは,本当にそんなに悪いことなんだろうか』と思えるかもしれません。12預言書の中に答えがあります。
21-23 (イ)若い人はエドム人の歩みから何を学べますか。(ロ)本当の意味であなたの友であるのはだれですか。
21 12預言書はおもに神の民を対象として書かれましたが,オバデヤ書は,イスラエル人の兄弟と呼ばれていたエドム人に対するものです。b (申命記 2:4)12預言書の大半とは異なり,オバデヤ書はエドム人を指して「あなた」という代名詞を用いています。では,そのエドム人について考えてみましょう。時は西暦前607年ごろ,エルサレムは攻囲されています。エドム人はヤコブの血縁であるにもかかわらず,バビロニア人と手を組み,『それをさらけ出せ。さらけ出せ』とやじります。(詩編 137:7。オバデヤ 10,12)ユダの地を乗っ取ろうと画策し,バビロニア人と一緒に食事をすることさえします。オリエントでは,共に食事をすることは両者が契約関係にあることも意味します。
22 エドム人についてオバデヤが何と予告しているかに注目してください。「あなたと契約を結んでいた者たち[バビロニア人]が皆あなたを欺いた。あなたと平和に過ごしていた者たちがあなたを打ち負かした。あなたと食物を共にしていた者たちが,識別力のない者のようにしてあなたの下に網を敷くであろう」。(オバデヤ 7)兄弟のヤコブを見捨ててバビロニア人の仲間になったエドム人は,結局どうなりましたか。ナボニドス配下のバビロニア人に滅ぼされました。マラキの時代までに,神はエドムの山々を荒れ果てた所とし,その相続分をジャッカルのための場所とされました。―マラキ 1:3。
23 では,エホバを崇拝していない“友達”について考えてみましょう。友情のきずなという『契約を結んでいた子たち』がしばしば互いを欺き,“友達”の下に「網を敷く」のを見たことはありませんか。だましたことが明るみに出ると,何と言うでしょうか。だまされた友達を,策略を見抜く識別力のないお人よしとみなすのではありませんか。仲間であるエドム人に対するバビロニア人の態度にそっくりです。そのような“友達”は,あなたが困った時に本当に気遣ってくれるでしょうか。(オバデヤ 13-16)一方,エホバ神と現代の神の民について考えてみてください。エホバは,いつもそばにいて助けてくださいます。大変な時期にもずっと支えてくださいます。エホバの民も,「苦難のときのために生まれた」忠実な者のように,『どんな時にも愛しつづける真の友』であることを実証しています。―箴言 17:17。
あなたの友達だと言う子たちが『あなたの下に網を敷いて』いますか
一番大切なきずなに重きを置く
24,25 生活の中で何が最優先になっていなければなりませんか。
24 家族のきずなは大切であり,強めるべきものです。このきずなについて,12預言書から数多くの教訓を引き出せます。あなたも,この章で用いた方法に沿ってそれらの書の他の部分も学びたい,と思われるでしょう。そうするなら,家庭生活を向上させるための教訓をさらに引き出せます。とはいえ,幸福な家庭生活を送ることが,今日の神の崇拝者にとって最も大切なのでしょうか。
25 興味深いことに,エホバの日の到来に関して,ヨエルは次のように預言しました。「民を集めよ。会衆を神聖にせよ。……花婿はその奥室から,花嫁はその婚姻の間から出よ」。(ヨエル 2:15,16)家の者すべてがエホバの崇拝のために集められることになっていました。気もそぞろな新婚夫婦も例外ではありませんでした。神のもとに集まることに勝る優先事項は一つもないのです。エホバの日が急速に近づいているので,エホバのみ前で良い立場を得ることが生活の中で最優先になっていなければなりません。この本の最後のセクションでは,いま喜びのうちに何を行なっているべきかを考えます。
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エホバは人々が命を得ることを願っておられる ― あなたもそうですかエホバの日を思いに留めて生きる
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第11章
エホバは人々が命を得ることを願っておられる ― あなたもそうですか
1,2 (イ)ニネベに関するエホバの決定に対してヨナが示した反応から,何を学べますか。(ロ)神の憐れみ,および命についての神の見方を調べるべきなのはなぜですか。
エホバは喜んでおられますが,預言者はぶ然としています。神は憐れみを示し,幾万もの人の命を容赦なさいました。この預言者ヨナが神の立場にあったなら,人々を滅びるままにしていたでしょう。しかしエホバは,ご自分の民の敵であった人々を許して,生き長らえさせることにされました。
神の僕でも,神の憐れみのほどを把握できないことがある
2 ヨナの例から分かるとおり,人間にとって,神の堪忍のほどを把握し,人々が命を得ることを望んでおられる神に倣うのは,難しい時があります。ニネベ人を容赦するというエホバの決定は,ヨナにとって『大いに不愉快な事であり,ヨナは怒りに燃え』ました。憐れみや人々の救いよりも自分の感情のほうに注意が向いていたのでしょう。ニネベ人が容赦されたら自分の面子<メンツ>が立たない,と考えたのかもしれません。(ヨナ 4:1,10,11)エホバの裁きの日が急速に近づいている現代ではどうでしょうか。次のように自問してみましょう。『どうすれば神の許しに対する認識を深められるだろうか。悔い改めた悪行者が神の優しさからいっそう益を得られるよう,自分はどんな援助ができるだろう。人々が命を得ることを望んでおられる神に,どのように見倣えるだろう』。
命のための公正と憐れみ
3 神の公正と憐れみは相反していますか。説明してください。
3 12預言書は神の憤りや人々に対する処罰,公正の執行ばかり述べている,と感じる人がいます。そして,『エホバの憐れみはどこにあるのか。神は命を救うことを気にかけているのか』と言うかもしれません。実のところ神の公正と憐れみは,相反するどころか,協働して,命を救うことに寄与します。公正と憐れみは,神の完全にバランスの取れたご性格の二つの面です。(詩編 103:6; 112:4; 116:5)神は,邪悪な者たちによる害悪をぬぐい去ることにより,正しい気質の人々に憐れみを示されます。これは神の完全な公正の証拠です。一方,全く公正なエホバは,憐れみのうちに不完全な人間の限界を酌量されます。つまり,必要な場合には裁きを,可能な場合にはいつでも憐れみを,ということです。12預言者の音信には,この完全なバランスを裏付ける言葉が数多く含まれており,人々に命を得させたいという神の願いが伝わってきます。では,その点を調べるとともに,今日実際に適用できる教訓を学ぶことにしましょう。
4 神は人々が命を得るのを願っておられる,ということを示すどんな証拠がありますか。
4 預言者ヨエルは,糾弾の音信を伝えるだけでなく,神が「慈しみと憐れみを持ち,怒ることに遅く,愛ある親切に富んでいる」ことも確言しました。(ヨエル 2:13)それから100年ほど後の西暦前8世紀にミカは,わたしたちにはエホバの許しがどうしても必要であることを強調しました。「だれかあなたのような神がいるでしょうか」と述べてから,エホバについて次のように説明しています。「永久にその怒りを保たれるようなことはありません。愛ある親切を喜びとされるからです。わたしたちに再び憐れみを示してくださいます」。(ミカ 7:18,19)ニネベ人に関するヨナの記述から分かるとおり,神の憤りの対象である人たちが悔い改めにふさわしい業によって悔恨の情を裏書きするなら,神は処罰の執行を快く考え直されます。
5 神の憐れみと命を救いたいという気持ちのどんな面に,あなたは特に心温まるものを感じますか。(「積極的に応じた人たち」もご覧ください。)
5 わたしたちは12預言者の時代に生きてはいませんが,エホバの憐れみと命を救いたいという気持ちが表われたこれらの言葉を読むとき,心を動かされるのではないでしょうか。そのような感動を覚えると,神への愛着が深まり,人々が命を得るのを助けたいという気持ちが強まります。今日ほとんどの人は間違った歩みを続けていますが,わたしたちは次の点を確信できます。神は『ひとりも滅ぼされることなく,すべての者が悔い改めに至ることを望んでおられる』のです。(ペテロ第二 3:9)このようなエホバの願いは,姦淫を犯した妻を迎え入れる際にホセアが述べた温かい言葉によく表われています。エホバは民の「心に語りかけ」ました。許しを差し伸べる義務はありませんでしたが,「自ら進んで」快くそうされました。(ホセア 1:2; 2:13,14; 3:1-5; 14:4)神のこのような態度と行動に大きな意味があるのはなぜでしょうか。命が関係しているからです。神の憐れみの証拠と,人々に命を得させたいと望んでおられることの証拠は,クリスチャン会衆にも見られます。そして,会衆が行なっている事柄はあなたともかかわりがあります。
命を得るよう人々を援助する
6 神は,人々に命を得させたいとの願いを,とりわけどのように示しておられますか。
6 公の宣教奉仕に参加するのはなぜですか。一つの大きな理由は,まことの神を知るよう人々を援助することです。エホバについて知っておくべき大切な点があります。神は,処罰を科する前に明確な警告をお与えになるのです。これは,人々に対する憐れみ深い関心,つまり死ぬのではなく命を得てほしいという気持ちの表われです。神は悪行者たちに,生き方を改めて,義にかなった神の怒りを逃れるための機会を差し伸べておられ,12預言者はそのことを知らせました。今日,わたしたちも同様の業に携わっています。クリスチャンには,来たるべき神の復しゅうの日に関する警告をふれ告げるという特権があります。そうする際,仕返しの気持ちを抱いたり,警告を聞き入れない人々が“当然の報いを受ける”のを見たいと思ったりしてはなりません。忘れないでください。宣べ伝えているのはおもに,人々が命への道を歩めるようにするためなのです。―ヨエル 3:9-12。ゼパニヤ 2:3。マタイ 7:13,14。
7 (イ)証言活動を行なうことが肝要なのはなぜですか。(ロ)無関心な人に会うとき,エホバの態度について考えることはどのように助けとなりますか。
7 家々で,学校で,職場で,また他のどこであれ,聖書の真理を伝える時はいつでも,神の憐れみと許しを緊急に必要としている人に助けを差し伸べていることになります。(ホセア 11:3,4)無関心な人や冷淡な人に会うこともあるでしょう。それでも,くじけずに頑張り通すなら,憐れみ深い神を見倣っていることになります。神はゼカリヤを通して,強情な民に,「どうか,あなた方の悪い道から,あなた方の悪い行ないから立ち返るように」と呼びかけました。(ゼカリヤ 1:4)わたしたちが神の憐れみについて告げ,命への道を指し示すとき,どれほどの人がこたえ応じるかは分かりません。ですからやはり,自分が宣べ伝えているのは,人々に命を得させたいとエホバが願っておられ,自分もそう願っているからである,という点を銘記するようにしましょう。
8 神の憐れみにこたえ応じた人たちがいることを考えると,励みになるのはなぜですか。
8 思い起こすと励みになる事実があります。ほぼどの時代にも神の音信にこたえ応じる人たちがいたのです。それゆえ預言者ホセアは,『エホバの道が廉直である』ことを悟る人たちについて語っています。そして,「そこを歩む者は義にかなう」とも述べています。(ホセア 14:9)これまで幾世紀もの間に大勢の人が,『心をつくしてわたしに帰れ』という神の招きの言葉に喜んでこたえ応じました。(ヨエル 2:12)この言葉は,エホバを知っている民に対して語られたものですが,神について学び始めたばかりの人に対する神の関心のほどもよく表わしています。間違った歩みを残念に思い,悔い改めて,正しいことを行なうようになる能力が人間にはある,という確信を神は失っておられません。実際にそうする人には,生き残る見込みがあります。―テモテ第一 4:16。
9 ニネベ人の反応から,何が必要であることが分かりますか。
9 エホバがニネベ人をお許しになったことには,別の要素も関係しています。ニネベの人々は,差し迫った神の裁きについての音信を真剣に受け止め,「神に信仰を置くようになり」ました。(ヨナ 3:5)生き続けるには,裁きに対する恐れだけでなく,信仰も必要だったのです。エホバは,人々が悔い改めて信仰のうちに行動するのを見たいと強く望んでおられるので,わたしたちに宣べ伝える業を行なわせ,人々が選択できるようにしてこられました。どんな結果を期待できますか。ニネベ人に関してこう記されています。「まことの神は,彼らの業を,すなわち彼らがその悪の道から立ち返ったのをご覧になった。そうしてまことの神は,彼らに加えると語られたその災いに関して悔やまれた。そして,それを加えなかった」。(ヨナ 3:10)エホバが,口先だけの言葉や見せかけの行為に欺かれることはありません。業によって示されたニネベ人の悔恨の情は本物だったに違いありません。神は,ニネベ人が本当に変化したのを見て取ることができました。その人たちは信仰を伴う真の悔い改めを示したのです。
10 どんなときに,エホバは救いを差し伸べましたか。
10 とはいえ,命を救いたいというエホバの気持ちから恩恵を受けたのは,ニネベ人だけではありません。オバデヤ,ナホム,ハバククが宣教奉仕を行なった後,西暦前607年のエルサレムの滅びの際に,エホバは,従順なエレミヤと忠実な仲間たちが逃れられるようにされました。(エレミヤ 39:16-18)また神の預言者たちは,悔い改めた残りの者がバビロンから帰還して清い崇拝を復興させることを予言しました。(ミカ 7:8-10。ゼパニヤ 3:10-20)それらの預言は,現代にも壮大な成就を見ています。第一次世界大戦後,油そそがれたクリスチャンは,真の崇拝に関して手を緩めていた多くの人も含め,回復させられて熱心な活動を行なうようになり,再びエホバの恵みを受け,命の見込みを持つようになったのです。現在でも,「多くの国の民」の中から来た人々が『エホバのもとに加わって』います。(ゼカリヤ 2:11)その人々には,この事物の体制の間近な終わりを生き残る見込みがあります。ですから,わたしたちの公の宣教奉仕は,クリスチャンに命じられているから行なうというような単なる従順の行為ではありません。預言を成就させるためだけに行なわれているのでもありません。(マタイ 24:14; 28:19,20)公の宣教奉仕の主眼は,人々がエホバについて学び,信仰を働かせ,命を得るのを援助することなのです。
エホバのもとに帰る人は命に至る
11,12 神の憐れみは,神の崇拝者だった人たちにとってどのように益となりますか。
11 エホバは新しい人たちに関心を持ち,その人たちに命を得させたいと願っておられますが,すでにご自分に仕えている人々のことも忘れてはおられません。わたしたちも,そのような人々に関心を持ち,彼らが命の道を歩み続けるようにと願うはずです。では実際に,どのように関心を表わせるでしょうか。
12 エホバについて学び,神に信仰を働かせて真の崇拝を活発に行なうようになったものの,今はエホバに仕えていない人がいます。あなたもそうした人をご存じかもしれません。12預言者が伝えた音信から分かるとおり,エホバは,神の民の一員でありながら真の崇拝をやめてしまった人たちに,進んで憐れみを差し伸べられました。今日でも同様です。流された人や離れた人,悪行に陥ったために悔い改める必要のある人がいます。(ヘブライ 2:1; 3:12)エホバから遠ざかってしまい,幸福ではないとはいえ,戻りにくく感じているかもしれません。神はそのような人たちに呼びかけておられます。預言者の言葉にこうあります。「万軍のエホバはこのように言われた。『わたしのもとに帰れ』と,万軍のエホバはお告げになる。『そうすればわたしもあなた方のもとに帰ろう』」。(ゼカリヤ 1:3)ホセアの言葉にも本当に力づけられます。「イスラエルよ,さあ,あなたの神エホバに帰れ。あなたは自分のとがのためにつまずいたからである。あなた方は言葉を携えてエホバのもとに帰れ。あなた方はみな神に言え,『とがをお赦しください。良いものを受け入れてください』」。由々しい罪を犯した人でさえ,真に悔い改めて神のもとに帰るなら,許されて,完全な回復に向かうことができました。(ホセア 6:1; 14:1,2。詩編 103:8-10)12預言者の時代だけでなく,今もそうです。
熱意を失ったクリスチャンがエホバのもとに帰るのを,どのように援助できますか
13 神がお許しになった人にわたしたちも憐れみを示すべき,どんな理由がありますか。
13 これは,命への道にとどまっているクリスチャンには何を意味するでしょうか。他の人についてエホバと同じ見方をしていることをどのように示せますか。わたしたちが,新しい人にも神への奉仕を中断している人にも憐れみを示すことを,エホバは期待しておられます。わたしたちに望んでいる事柄を,ホセアを通してこう述べておられます。「わたしが喜びとしたのは愛ある親切であって,犠牲ではなかった」。イエス・キリストはこの言葉を,こう言い換えておられます。「それで,『わたしは憐れみを望み,犠牲を望まない』とはどういうことなのか,行って学んできなさい」。(ホセア 6:6。マタイ 9:13)そのような憐れみを実際に表わすことは,わたしたちが神との関係を維持するうえで不可欠です。許そうとすることと神に見倣うことを使徒パウロがどのように結び付けているかに注目してください。「互いに親切にし,優しい同情心を示し,神がキリストによって惜しみなく許してくださったように,あなた方も互いに惜しみなく許し合いなさい。それゆえ,愛される子供として,神を見倣う者となりなさい。そして,……愛のうちに歩んでゆきなさい」。(エフェソス 4:32–5:2)あなたは,この点でどれほど神に見倣っておられますか。
14,15 エホバの許しに対するわたしたちの態度が試される,どんな状況がありますか。
14 甚だしい罪を犯した兄弟が悔い改めず,会衆から追放されなければならない場合はどうでしょうか。1世紀にもそうしたことが起きました。罪を犯したのに悔い改めないクリスチャンは排斥されなければなりませんでした。イエスの使徒たちの存命中もそうであったのであれば,今日そうしたことが時おり生じるのも意外ではありません。そのような場合,会衆内の忠節な人たちは,追放された人と交友を持たないようにとの聖書の指示に従います。会衆内の人たちのエホバに対する忠節な態度によって,悪行者は自分の間違った歩みの重大さを悟り,悔い改めようと考えるかもしれません。聖書には,コリントのある男性が追放され,後に悔い改めて身を転じ,復帰したという記録があります。(コリント第一 5:11-13。コリント第二 2:5-8)今日,同じようなことが生じるとき,あなたはどう感じますか。他の人も命を得てほしいという気持ちを,どのように示せるでしょうか。
15 悔い改めた悪行者は恥ずかしさや落胆を感じていることでしょう。そして,神も兄弟たちも自分を愛してくれており,自分が命を得るようにと願ってくれている,という安心感を必要としています。神は,進んで悔い改めた古代の民を,優しく親切に安心させました。こうあります。「[わたしは]忠実をもってあなたと契りを結び,あなたは必ずエホバを知ることになる」。(ホセア 2:20)神がこのような気持ちでおられるのですから,わたしたちも,「憐れみを示す」神としてゼカリヤが描写しているエホバと同じ思いでいることを明らかにすべきです。―ゼカリヤ 10:6。
16 だれかが復帰した場合,わたしたちはどう反応すべきですか。
16 神は人々が命を得ることを願っておられるので,罪人が悔い改めたり,不活発だった僕が熱心さを取り戻したりするのを喜ばれます。a (ルカ 5:32)上述の復帰したコリントの男性の場合,パウロは会衆の人たちに,その人を許して励ますように,また自分たちが本当にその人を愛していることを伝えるように勧めました。こう述べています。「そのような人にとって,大多数の人から与えられたこの叱責は十分です。ですから,……親切に許して慰め,そのような人が過度の悲しみに呑み込まれてしまうことのないようにすべきです。それで,あなた方が彼に対する愛を確証するように勧めます」。(コリント第二 2:6-8)罪を犯した人々に関するエホバの言葉も忘れないでください。ホセアはこう記しています。「わたしは彼らの不忠実をいやす。自ら進んで彼らを愛する」。(ホセア 14:4)わたしたちはエホバに見倣い,こうしたいやしとそれによって可能になる永遠の命のために,自分にできることを喜んで行なうでしょうか。
17,18 エホバのもとに戻って来た人を,また排斥された人の家族を,愛をもってどのように援助できますか。
17 エホバは,戻って来る人の尊厳を認めつつ接することを明らかにしておられます。ご自分の愛を存分に受けるに値する人として迎え入れるのです。不忠実だった妻をホセアが進んで受け入れたのと同じです。エホバはご自分の僕たちにどう接したかについて,こう述べておられます。「わたしは,彼らのあごのくびきを外す者のようになった。わたしは各人のもとに穏やかに食物を携えて行った」。(ホセア 11:4)戻って来た人たちを穏やかに引き寄せるエホバの愛情について考えると,本当に心温まる思いがします。わたしたちは,敬虔な悲しみと真の悔い改めを表わしている人に厳しい態度や冷たい態度を取らないことによって,エホバに見倣えます。その人が会衆に再び迎え入れられたなら,怒りをあらわにしたり,過去の過ちゆえの恨みを抱いたりするのではなく,必要な慰めのことばをかけるべきです。―テサロニケ第一 5:14。
18 会衆からの排斥に関連して,ほかにもエホバに見倣える点があるでしょうか。だれかが追放された場合,その人の家族の中の忠節な人たち,例えば忠実な配偶者や子どもの助けになれますか。その人たちは懸命に努力して,集会の出席や宣教奉仕を欠かさないようにしているでしょう。わたしたちは,その人たちが必要としている特別な支援を与えるでしょうか。優しい憐れみを示す別の方法は,「良い言葉,慰めの言葉」を用いてそれら忠実な人たちに話しかけ,励みになる会話をすることです。(ゼカリヤ 1:13)集会の前後や一緒に宣教奉仕をしているときなど,そうする多くの機会があります。その人たちは仲間の働き人,会衆の大切な成員であり,自分は疎外されているとか孤立しているなどと感じさせたくはありません。親が排斥されて,子どもだけがエホバに仕えようと努力している場合もあります。わたしたちは,そのような子たちが命を得ることを心から願っています。その願いをどのように示せますか。
「父なし子は憐れみを受ける」
19 ゼパニヤは,「父なし子」とも言える人にどんな霊的援助を与えましたか。
19 助けを差し伸べる点での一つの型を,西暦前7世紀の半ばに奉仕したゼパニヤから学べます。ゼパニヤはユダの王家の一員であったようで,ヨシヤ王の遠い親戚だったかもしれません。ヨシヤは父親が暗殺されたために8歳で王位に就くことになり,難題に直面しました。国民は偶像礼拝や忌むべき慣行にはまり込んでいたのです。(ゼパニヤ 3:1-7)父親がいない若いヨシヤには,気まぐれで強情な国民を治めるための優れた導きや健全なアドバイスが必要でした。この本ですでに取り上げたとおり,エホバはゼパニヤその他の預言者を通して賢明な指示をお与えになりました。注目すべき点として,エホバは預言者を通してユダの「君たち」をとがめましたが,王のことは批判なさいませんでした。(ゼパニヤ 1:8; 3:3)このことからすると,ヨシヤ王は若いうちからすでに清い崇拝を求める態度を示していたようです。ゼパニヤの訓戒によってヨシヤは,ユダから汚れた崇拝を一掃する決意を奮い立たせることができたに違いありません。
20 会衆内の「父なし子」にとって,霊的な親代わりによる導きはどのように助けとなりますか。
20 ゼパニヤがヨシヤに示した関心は,親が排斥された子どもなど,助けを必要とする傷つきやすい若者に対するエホバの関心を例証しています。ホセアは,「[神]によって父なし子は憐れみを受ける」と明言しています。(ホセア 14:3)親代わりとなって霊的また実生活の面での導きを与えてくれる人を必要とする「父なし子」が,ほかにもいるでしょうか。霊的な孤児,ひとり親家庭の子ども,家族からの援助なしでエホバに仕えている若者などがそうです。多くの場合,そうした子どもたちが会衆から離れずに霊的に円熟してゆくかどうかは,霊的な親代わりがいるかどうかに左右されます。大勢の「父なし子」が,会衆内の円熟したクリスチャンから愛のこもった関心を示してもらい,バランスの取れた霊的な大人へと立派に成長しています。―詩編 82:3。
霊的な親代わりとなって,「父なし子」に愛を示せますか
21 円熟したクリスチャンは,若者にどんな援助を差し伸べることができますか。
21 例えば,女手一つで子どもを育てている母親は,円熟したクリスチャンが子どもに関心を払ってくれるなら助かるでしょう。(ヤコブ 1:27)監督や他の人たちは,頭の権にふさわしい敬意を払い,分別を働かせつつ,恵まれない家族を霊的に支援できます。あなたも自分の配偶者や家族と一緒に,父親のいない子どもと時間を過ごせるかもしれません。寂しさに耐えている若者に思いやりを示せるでしょうか。その子は,感情移入をしてくれる人や気持ちを打ち明けられる相手を必要としているかもしれません。一緒に公の宣教奉仕をしながら話を聴いてあげることもできます。わたしたちは忙しいので,ある程度の期間にわたって定期的にそうした助けを与えるかどうかという点で,『愛の純真さが試される』でしょう。(コリント第二 8:8)あなたの払う努力は,他の人にも命を得てほしいという気持ちの表われとなります。
22 人々に命を得させたいというエホバの気持ちについて,あなたはどう感じますか。
22 神が人々に関心を払い,永遠の命を得させたいと願っておられることをじっくり考えると,本当に力づけられます。神は,永遠の命に値しない歩みを選ぶ矯正不能な人たちに不興を表明することよりも,ご自分を愛する義なる人たちに愛情を示し,命を与えることを望まれます。わたしたちはエホバの日を切に待ち望みつつ,エホバに見倣い,他の人が命の道を歩むのを助けてゆきましょう。
a 心温まる三つの例えから,ご自分の民の中の迷い出た人たちに対する神の深い気遣いを知ることができます。失われた羊,失われた硬貨,放とう息子の例えです。―ルカ 15:2-32。
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「それを待ちつづけよ」エホバの日を思いに留めて生きる
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第12章
「それを待ちつづけよ」
1,2 (イ)どんな自問ができますか。(ロ)12預言者のうちの幾人かはどんな情勢のもとで生きていましたか。ミカはどんな態度を持っていましたか。
地上から悪が取り除かれるエホバの日を,あなたはどれほど長く待ってこられましたか。今後さらにどれほどのあいだ喜んで待とうと考えておられますか。その日が来るまでの間,どんな態度で,どんな生き方をするでしょうか。あなたの答えは,天国に行くのを待ちながら自分の好きなように生きている教会員の答えとは違うでしょう。
2 その大いなる日を待っている人にとって,12預言書はとても助けになります。12預言者の多くは,神の司法上の介入が差し迫った時期に生きていました。例えばミカは,西暦前740年のアッシリア人の手によるサマリアの処罰が近づいていた時代に奉仕しました。(20,21ページの年表をご覧ください。)ユダに対するエホバの日も,その後,やはり確実に臨むことになっていました。神が行動なさる正確な時を知らなかったミカは,神がそのうち行動してくださるだろうと考えて,何もせずにただじっと待っていればよいと結論づけたでしょうか。ミカはこう述べています。「わたしは,終始エホバに目を向ける。わたしの救いの神を待ち望もう。わたしの神は聞いてくださる」。(ミカ 7:7)ミカは迫り来る事柄を確信しており,物見の塔の上で目を凝らす見張りの兵士のようだったのです。―サムエル第二 18:24-27。ミカ 1:3,4。
ゼパニヤ
3 エルサレムの滅びを控えた時期に,ハバククとゼパニヤはどんな見方を提示しましたか。
3 次に,ゼパニヤおよびハバククの時代に目を向けましょう。この二人は,西暦前607年のエルサレムの滅びが近づいた時期に奉仕しました。とはいえ,神の裁きの執行が目前なのか数十年先なのかは知りませんでした。(ハバクク 1:2。ゼパニヤ 1:7,14-18)ゼパニヤはこう書いています。「『わたしが獲物に向かって立ち上がる日までわたしを待て』と,エホバはお告げになる,『わたしの司法上の決定は,……わたしの糾弾を,わたしの燃える怒りをことごとく注ぐことだからである』」。(ゼパニヤ 3:8)ゼパニヤより少し後の時代の人,ハバククはどうでしょうか。こう記しています。『この幻はなお定めの時のためのものであり,終わりに向かって息をはずませてゆくのである。それは偽ることはない。たとえ遅れようとも,それを待ちつづけよ。それは必ず起きるからである。遅くなることはない』。―ハバクク 2:3。
4 ゼパニヤとハバククはどんな状況のもとで預言しましたか。どんな態度でそうしましたか。
4 ゼパニヤ 3章8節とハバクク 2章3節の宣告がなされたころの状況を考えると,理解が深まります。一部のユダヤ人が「エホバは善いことをしてくれないが,悪いことをもたらすわけでもない」と言っていた時期に,ゼパニヤは「エホバの怒りの日」をふれ告げました。その日には,敵である諸国民も,気まぐれで強情なユダヤ人も,神の不興を身に受けるのです。(ゼパニヤ 1:4,12; 2:2,4,13; 3:3,4)ゼパニヤは神の糾弾と怒りを恐れましたか。いいえ,むしろ期待して『待つ』ようにと告げられました。『ハバククはどうだったのだろう』と思われますか。ハバククも,「それを待ちつづけよ」と告げられました。ゼパニヤとハバククは,前途に控えた事柄に無頓着にはならなかったに違いありません。世の中はずっとこのまま変わらないと考えているかのような生き方はしなかったのです。(ハバクク 3:16。ペテロ第二 3:4)上述のとおり,この二人の預言者に共通していた重要な点は,『待ちつづける』べきであるということでした。ご存じのように,この二人が待っていた事柄は,西暦前607年に歴史上の事実となりました。「待ち」つづけることは知恵の道だったのです。
「『わたしを待て』と,エホバはお告げになる」。―ゼパニヤ 3:8
5,6 今の時代が神の目的の進展においてどこに位置するかを考えると,どのような態度を持つべきですか。
5 それと同様に,現在の事物の体制に対する「エホバの怒りの日」が来ることも確信できます。それは事実となります。現実となる,信頼できることなのです。あなたはこの点に何の疑問も抱いておられないでしょう。ゼパニヤおよびハバククと同じくわたしたちも,その日が来る正確な時を知りません。(マルコ 13:32)とはいえ,その日は必ず来ます。今の時代における聖書預言の成就は,その日が間もなく来ることをはっきり示しています。ですから,エホバがこの預言者たちに対して強調された事柄はあなたにも当てはまります。つまり,『それを待ちつづける』べきなのです。そして,次の絶対的な真理を忘れないでください。わたしたちの神は,「待ち望む者のために行動してくださる」唯一の神です。―イザヤ 64:4。
6 あなたも,期待のこもったふさわしい態度を示し,「エホバの怒りの日」がまさしく予定どおりの時に来るという確信を自分の行ないによって表わせます。その確信とそれに応じた行動は,イエスが述べた事柄と調和しています。イエスは使徒たちに,そして油そそがれたクリスチャンすべてに,次のように勧めました。『あなた方の腰に帯を締め,ともしびをたいていなさい。こうしてあなた方は,自分たちの主人を待っている人たちのようでありなさい。主人が到着したときに,見張っているところを見られるそれらの奴隷は幸いです! あなた方に真実に言いますが,主人は帯を締め,彼らを食卓の前に横にならせ,そばに来て奉仕してくれるでしょう』。(ルカ 12:35-37)ふさわしい待つ態度は,エホバの大いなる日が神の定めの時に少しも遅れることなく来る,という確信の表われなのです。
『待って』おり,『用意ができている』
7,8 (イ)神の辛抱は,どんな成果を生んでいますか。(ロ)ペテロは,どんな態度を表わすように勧めていますか。
7 現代の神の僕たちは神の王国が1914年に天で樹立される前から待っており,その後もずっと待っています。待っているといっても,何もしていないわけではありません。むしろ,神から割り当てられた証言活動を熱心に行なってきました。(使徒 1:8)次の点をじっくり考えてみてください。仮にエホバの大いなる日が1914年に到来していたなら,あなたはどうなっていたでしょうか。あるいは,その日が今から40年前に到来したなら,その時あなたは「聖なる行状と敬虔な専心」を示していたでしょうか。(ペテロ第二 3:11)いまエホバの証人となっているご家族や,会衆内の親しい友はどうでしたか。こう考えると明らかなように,神の僕たちが待っている間ずっと,あなたや他の大勢の人たちに救いの道が開かれてきました。ペテロ第二 3章9節の言葉のとおりです。エホバが王国樹立の直後に邪悪な体制全体を滅ぼされなかったおかげで,大勢の人が悔い改めることができました。ニネベ人が悔い改めて,命を容赦されたのと同様です。「わたしたちの主の辛抱を救いと考えなさい」と述べた使徒ペテロと,わたしたち皆も同感なのではないでしょうか。(ペテロ第二 3:15)この期間はまだ続いており,人々に,悔い改めたり生活や考えを調整したりする機会を差し伸べています。
8 クリスチャンの中にも,ミカ,ゼパニヤ,ハバククの時代の社会情勢にあまり関心を抱かない人がいて,「それはずっと昔のことではないか」と言うかもしれません。とはいえ,当時のことからどんな教訓を得られるでしょうか。すでに触れた点ですが,ペテロはクリスチャンには「聖なる行状と敬虔な専心」を示す必要がある,と助言しています。そして,その続きのところでもう一つの必要を強調しています。「エホバの日の臨在を待ち,それをしっかりと思いに留める」必要です。(ペテロ第二 3:11,12)ですから,わたしたちはその日を「しっかりと思いに留め」,「それを待ちつづけ」なければなりません。
9 『終始目を向けて』いるべきなのはなぜですか。
9 わたしたちは,エホバに数年あるいは数十年仕えてきたとしても,今もミカと同じように『終始目を向けて,待ち望んで』いるでしょうか。(ローマ 13:11)わたしたち人間は,終わりがいつ来るか,それまでにどれほどの時間が残されているかをぜひ知りたいと思うものです。しかし,知ることはできません。イエスの次の言葉を思い出してください。「家あるじは,盗人がどの見張り時に来るかを知っていたなら,目を覚ましていて,自分の家に押し入られるようなことを許さなかったでしょう。このゆえに,あなた方も用意のできていることを示しなさい。あなた方の思わぬ時刻に人の子は来るからです」。―マタイ 24:43,44。
10 使徒ヨハネの生き方と見方から,どんな教訓が学べますか。
10 イエスの言葉には,ミカ,ゼパニヤ,ハバククの記述とよく似た響きがあります。もっともイエスは,古代の人々ではなくご自分の追随者たちに,わたしたちに対して述べておられます。献身的な多くのクリスチャンがイエスの助言をしっかり当てはめてきました。「用意のできていることを示し」,待ちつづけてきたのです。使徒ヨハネはこの点で良い手本です。ヨハネは,オリーブ山で他の3人と共に事物の体制の終結についてイエスに尋ねました。(マタイ 24:3。マルコ 13:3,4)それは西暦33年のことで,ヨハネが参照できるような,様々な物事がいつ生じるかを見定めるための予定表はありませんでした。では,それから60年ほど後に目を移しましょう。ヨハネは年老いましたが,意欲や期待感を失ってはいません。それどころか,「しかり,わたしは速やかに来る」というイエスの言葉を聞き,「アーメン! 主イエスよ,来てください」と応じます。ヨハネはそれまでの人生を後悔していませんでした。エホバが裁きの執行の際に各々にその業にしたがって報いも与えてくださる,ということを確信していたのです。(啓示 22:12,20)その裁きがいつ下されるとしても,主イエスの忠告どおり,「用意のできている」状態でいたいと願っていました。あなたもそう感じておられますか。
『待っている』か,「満ち足りる」か
11 ミカとホセアの時代の人々は,その二人とどのように異なっていましたか。
11 エホバの裁きの執行が近づいていた時期の預言者たちから引き出せる別の教訓も考えましょう。その裁きはまずイスラエルに,その後ユダに臨みました。ミカは『終始目を向けて,待ち望んで』いましたが,周囲の多くの人はそうせず,『善いことを憎んで悪を愛する』者となっていました。ミカは,それらの人々が変化しようとしないなら「助けを呼び求めても,エホバはそれに答えない」であろうと警告しました。(ミカ 3:2,4; 7:7)ミカと同じ時代のホセアは,農作業の用語を使って北のイスラエル王国の人々にこう促しました。『あなた方自身のために義のうちに種をまけ。愛ある親切にそって刈り取りを行なえ。あなた方自身のために耕地を耕せ。エホバを捜し求める時間のあるうちに』。ところが,ほとんどの人は耳を傾けようとせず,『悪をすき返して』,不義を刈り取りました。(ホセア 10:12,13)堕落した慣行を容認したり,それに携わったりし,エホバの道ではなく『自分の道に依り頼み』ました。今の時代の人は,『約束の地のただ中に住んでいた真の崇拝者たちが一体どうしてそのようになったのか』と思うかもしれません。ホセアは,問題の核心であった態度を指摘しています。わたしたちがエホバの大いなる日を待ちつづけるには,そのような態度に用心する必要があります。つまり,安楽な暮らしに浸り,「満ち足りて」しまう態度です。
12 (イ)ホセアは,西暦前740年以前にイスラエル人の間で見られるようになっていた,どんな望ましくない状態を指摘していますか。(ロ)民が「満ち足りて」しまったことは,どんなところに表われましたか。
12 神の民は,約束の地,乳と蜜の流れる地に入った後,かなり裕福な暮らしを楽しみました。その結果どうなりましたか。ホセアはエホバの言葉を伝えています。「その放牧地によって彼らは満ち足りるようにもなった。満ち足りてくると,その心は高ぶるようになった。そのため彼らはわたしを忘れた」。(ホセア 13:6)それより数百年前,神はまさにその危険について民に警告しておられました。(申命記 8:11-14; 32:15)それなのに,ホセアやアモスの時代には,イスラエル人はふがいなくも「満ち足りて」しまっていました。アモスは具体的な点を挙げています。多くの人が家に豪華な家具を備えており,別荘を持つ家族もいました。最高級の物を食べ,上等のぶどう酒を選り抜きの器で飲み,おそらく良い香りの化粧品と思われる「最上の油」を肌に塗っていました。(アモス 3:12,15; 6:4-6)もちろん,生活のこうした面は,それ自体どれも不適切なものではありません。しかし,それらを重視しすぎるのは明らかに間違っていました。
13 イスラエル人には,裕福な人もそうでない人も,どんな基本的な欠陥がありましたか。
13 北王国の人がみな裕福になって『満ち足りた』わけではありません。生計を立てて家族を養うのに苦労する貧しい人もいました。(アモス 2:6; 4:1; 8:4-6)今日の世界の多くの場所でも同様です。では,ホセア 13章6節に記されている神の助言は,古代イスラエルの貧しい人々にも,また今日の人々にも当てはまりますか。そのとおりです。エホバは,真の崇拝者が,裕福な人もそうでない人も,生活の物質的な面に気を奪われて『神を忘れて』しまわないよう用心すべきであることを示しておられました。―ルカ 12:22-30。
14 自分の期待感についてよく考えてみるべきなのはなぜですか。
14 わたしたちは,過去から学べるだけでなく,現代における多くの預言の成就も見ているので,油断せずに用意をし,待っているべき一層の理由があります。とはいえ,これまでかなりの期間,例えば数十年も待っているとしたら,どうでしょうか。わたしたちは宣教奉仕に打ち込み,エホバの日は遠い将来ではないという確信に基づいて様々な個人的決定を下してきました。しかし,その日はまだ来ていません。わたしたちは期待感を持ち続けているでしょうか。自分自身にこう問いかけてみてください。『わたしの期待感は今でも熱烈だろうか。それともかなり冷めてしまっただろうか』。―啓示 2:4。
15 期待感が薄れていることは,どんな点に表われますか。
15 期待感を測る方法はいろいろありますが,ここでも,アモスが当時の「満ち足りて」しまった民に関して述べた点から考えてみましょう。そうすることにより,「満ち足りて」しまう傾向が自分に幾らかでもないかを分析できます。何年か前には考えや行動に期待感が表われていたクリスチャンも,豪華な家や自動車,最新流行の服,高価な化粧品や宝石類,高級ワインやぜいたくな食事のために懸命に働くようになっているかもしれません。わたしたちが適度な楽しみも許されない禁欲主義者でなければならないことを示唆する言葉は,聖書のどこにもありません。骨折って働く人は「食べ,まさしく飲み,そのすべての骨折りによって良いことを見るべき」です。(伝道の書 3:13)とはいえ,クリスチャンである人が飲食や外見に以前より気を奪われるようになる危険があります。(ペテロ第一 3:3)小アジアの油そそがれた者たちの中に考えの焦点のずれてしまった人がいたことについてイエスが述べておられるとおり,クリスチャンにはその危険があるのです。(啓示 3:14-17)わたしたちにも同様のことが生じているでしょうか。物質的な事柄に夢中になって,「満ち足りて」いますか。期待感が薄れているでしょうか。―ローマ 8:5-8。
16 『満ち足りた』生活を築こうと懸命に努力するよう励ますことは,なぜ子どもにとって最善のことではありませんか。
16 エホバの大いなる日に対する期待の衰えが,自分の子どもや他の人へのアドバイスに表われることもあります。あるクリスチャンは,こう考えるかもしれません。『自分は終わりが間近だと考えて,教育や出世の機会を断念した。でも子どもには,快適な生活をするのに必要な訓練をぜひ受けさせてやりたい』。ホセアの時代にも同じように考えた人がいたことでしょう。そのような親が,『満ち足りた』生活様式に重きを置くアドバイスを与えたなら,それは子どもにとって最善のことだったでしょうか。当時の子どもが快適で『満ち足りた』生活を実際に追求したなら,西暦前740年にサマリアがアッシリア人に征服された時,その子はどうなったでしょうか。―ホセア 13:16。ゼパニヤ 1:12,13。
どんなライフスタイルを追求するよう,お子さんを励ましていますか
揺るぎない期待を抱いて生きる
17 どのようにミカに見倣うべきですか。
17 昔の真の崇拝者たちと同じくわたしたちも,神の約束された事柄は神の定めの時に時間どおりに成就する,と確信できます。(ヨシュア 23:14)預言者ミカが救いの神を待ち望んだのは賢明なことでした。今,時の流れをさかのぼってその時代を見れば,サマリアが征服される直前の時期にミカが生きていたことが分かります。わたしたちは,またわたしたちの時代はどうでしょうか。将来,自分の人生を振り返る時,世俗の仕事,ライフスタイル,全時間宣教などについて賢明な選択をしたことが明白でしょうか。確かにわたしたちは「その日と時刻」を知りません。(マタイ 24:36-42)それでも,ミカのような態度を培い,それに応じた行動を取るのが賢明であることに,疑問の余地はありません。さらにミカは,回復された地上の楽園で報いとして命を得る時,自分の預言的な音信と忠実な手本がわたしたちの益となったことを知って大いに喜ぶでしょう。そしてわたしたちは,エホバが救いの神であることの生きた証拠となるのです。
18,19 (イ)オバデヤは,来たるべきどんな災厄を指摘しましたか。(ロ)オバデヤはどのようにイスラエルに希望を差し伸べましたか。
18 わたしたちの確信には,しっかりとした根拠があります。一例として,短い預言書であるオバデヤ書について考えてみましょう。その書は古代エドムに注目し,「兄弟」であるイスラエルを虐待したエドム人に対するエホバの裁きを宣告しています。(オバデヤ 12)この本の10章で見たとおり,予告された荒廃は確かに生じました。ナボニドス配下のバビロニア人が西暦前6世紀半ばにエドムを征服し,エドムは国家として存在しなくなったのです。とはいえ,オバデヤの音信には別の重要な点も含まれています。エホバの大いなる日を待ちつづけることと関係のある重要な点です。
19 ご存じのとおり,エドムを荒廃させた敵国(バビロン)は,神の民でありながら不忠実な人々にも神からの処罰を執行していました。西暦前607年,バビロニア人はエルサレムを滅ぼし,ユダヤ人を捕囚として連れ去りました。その地は荒れ果てた所となりました。それですべてが終わってしまったのでしょうか。いいえ,エホバはオバデヤを通して,イスラエル人がその地を再び取得することを予告なさいました。オバデヤ 17節に,その励みとなる約束が次のように記されています。「シオンの山には逃れて来る者たちがいるであろう。そこは必ず聖なる所とされるのである。そしてヤコブの家はその取得すべき物を取得しなければならない」。
20,21 オバデヤ 17節から力を得られるのはなぜですか。
20 エホバがオバデヤを通して語られた事柄が実際に起きた,ということを歴史は確証しています。神が予告され,そのとおりのことが生じたのです。捕囚になっていたユダとイスラエルの大勢の人たちが西暦前537年に帰還しました。故国に戻った人たちはエホバの祝福を受けて,荒れ地を緑の美しい楽園に変えました。あなたも,イザヤ 11章6-9節と35章1-7節にある,この驚くべき変化に関する預言を読んだことがおありでしょう。とりわけ重要なのは,再建されたエホバの神殿を中心として真の崇拝が再興されたことです。このようにオバデヤ 17節も,エホバの約束が信頼できることの証拠となっています。エホバの約束は必ず果たされるのです。
21 オバデヤは,「王権はエホバのものとされなければならない」という断固たる言葉で預言を締めくくっています。(オバデヤ 21)あなたはこの言葉に信頼を置き,エホバが統治なさる輝かしい時を心待ちにしておられることでしょう。その時エホバはイエス・キリストを通して,この地球を含む宇宙全体で何の反対も受けずに統治なさいます。エホバの大いなる日とそれに伴う祝福を待ってきた期間が短いか数十年に及ぶかにかかわりなく,わたしたちは,聖書に基づくそのような期待が実現すると固く信じることができます。
とこしえの将来を思い見つつ,喜びにあふれてエホバに仕える
22 あなたはなぜ,自分の見方をハバクク 2章3節やミカ 4章5節に合わせたいと思いますか。
22 ここで,今の時代に確かに当てはまるハバククの保証の言葉を繰り返すのはふさわしいでしょう。『この幻はなお定めの時のためのものであり,終わりに向かって息をはずませてゆくのである。それは偽ることはない。たとえ遅れようとも,それを待ちつづけよ。それは必ず起きるからである。遅くなることはない』。(ハバクク 2:3)人間の観点からするとエホバの大いなる日が遅れているように思えるとしても,その日は必ず予定どおりに来ます。エホバがそう約束しておられるのです。ですから,神に長年仕えてきた人も,神を崇拝するようになって日の浅い人も,ミカ 4章5節で言い表わされているような確信を抱いて共に前進することができます。「わたしたちは,定めのない時に至るまで,まさに永久に,わたしたちの神エホバの名によって歩む」。
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「あなた方は諸国民の中でこうふれ告げよ」エホバの日を思いに留めて生きる
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第13章
「あなた方は諸国民の中でこうふれ告げよ」
ライオンのほえ声が聞こえたなら,どう反応しますか
1 エホバが預言者に語ることをライオンがほえることに例えられるのは,なぜですか。
ライオンがほえるのを聞いたことがありますか。ライオンのほえ声は削岩機の音より大きいと言われています。夜のしじまを破って近くでライオンがほえたなら,あなたはどうしますか。すぐさま反応するでしょう。この本で取り上げている12預言者の一人アモスは,次のような例えを用いました。「ライオンがいてほえ声を上げた! だれが恐れないであろうか。主権者なる主エホバが語った! だれが預言しないであろうか」。(アモス 3:3-8)あなたも,エホバご自身が語られるのを聞いたなら,アモスのように反応するのではないでしょうか。アモスはすぐに行動し,十部族のイスラエル国民に対して預言しました。
2 (イ)預言するという務めを遂行するうえで,どのようにアモスに見倣えますか。(ロ)この章ではどんな点を考えますか。
2 『でも,わたしは預言者ではありません』と,あなたはおっしゃるかもしれません。預言者としての正式な訓練を受けたことがないので自分にはとても資格がない,と思うでしょうか。では,アモスのことを考えてください。子牛崇拝の祭司アマジヤから反対を受けた時,アモスはこう言いました。「わたしは預言者ではなく,預言者の子でもなかった。わたしは牧夫であり,エジプトいちじくの実をはさむ者であった」。(アモス 7:14)地味な経歴しかありませんでしたが,アモスはエホバを代表する預言者としての務めを意欲的に遂行しました。あなたはいかがですか。12預言者の任務と似たところのある任務を与えられている,ということを自覚しておられますか。あなたには,現代にかかわる神からの音信を告げ知らせるとともに人々を教えて弟子とする,という務めがあるのです。では,この重大な任務をどう見ておられますか。あなたが諸国民の中でふれ告げるべき音信とは何ですか。この任務をどれほど徹底的に果たしておられますか。業の成功を判定する基準は何ですか。これらの点を考えてみましょう。
「自分の唇の若い雄牛」
3 この本で取り上げている12預言者がしたのと似た業を,どのように行なえますか。
3 わたしたちは本当に,預言者たちがしたような業を行なっているのでしょうか。エホバから直接霊感を受けるという意味でライオンのほえ声を聞いたことはないでしょう。とはいえ,み言葉 聖書を通して,間近に迫ったエホバの日に関する緊急な音信を聞いています。この本の1章で見たように,「預言」という語には様々な意味があります。あなたも,アモスなどの古代の預言者と同じ意味での預言者ではないにしても,将来についてはっきり語ることができます。どのようにですか。12預言書を含む聖書から学んだ預言的な音信を告げ知らせることができるのです。今は,まさにそうすべき時です。
神の民は20世紀初頭から今日に至るまで“預言”してきた
4 ヨエル 2章28-32節の預言は,今日どんな意味で成就していますか。
4 この点を別の角度から見てみましょう。エホバ神は預言者ヨエルに,あらゆる人が“預言する”時について,こうお告げになりました。「その後,わたしは自分の霊をあらゆる肉なる者の上に注ぐことになる。あなた方の息子や娘たちは必ず預言する。あなた方の老人たちは夢を見る。あなた方の若者たちは幻を見る」。(ヨエル 2:28-32)西暦33年のペンテコステの日,使徒ペテロは,ある出来事に上記の聖句を適用しました。エルサレムの階上の間に集まっていた人たちの上に聖霊が注ぎ出され,次いでその人たちが「神の壮大な事柄」を宣べ伝えた,という出来事です。(使徒 1:12-14; 2:1-4,11,14-21)では,現代に目を向けましょう。ヨエルの預言は20世紀の初めごろから主要な成就を見ています。霊によって油そそがれた老若男女のクリスチャンが「預言する」ようになりました。天に樹立された王国に関する良いたよりを含め,「神の壮大な事柄」を告げ知らせるようになったのです。
5 (イ)わたしたちすべてにどんな特権がありますか。(ロ)「自分の唇の若い雄牛」をささげるとは何を意味しますか。そうすることについて,あなたはどう感じていますか。
5 「ほかの羊」の「大群衆」は,神の子となるよう聖霊によって生み出されてはいませんが,イエス・キリストの油そそがれた追随者たちにこう呼びかけています。「わたしたちはあなた方と共に行きます。神があなた方と共におられることを聞いたからです」。(ヨハネ 10:16。啓示 7:9。ゼカリヤ 8:23)抱いている永遠の命の希望が天と地のどちらにおけるものであるとしても,「自分の唇の若い雄牛」をささげる特権があります。(ホセア 14:2)ホセアの預言のこの表現は何を意味しているのでしょうか。「若い雄牛は,感謝の捧げ物として最上の動物だった」と,聖書学者のC・F・カイルは述べています。使徒パウロはホセア 14章2節に言及し,こう書いています。「常に賛美の犠牲を神にささげましょう。すなわち,そのみ名を公に宣明する唇の実です」。(ヘブライ 13:15)ですから,「自分の唇の若い雄牛」という表現は,自分の唇のまさに最上のもの,つまりエホバを賛美して語る言葉を指します。
6 自分の賛美の犠牲の質を吟味すべきなのはなぜですか。
6 心のこもった祈りをエホバにささげ,クリスチャンの集会でエホバについて感謝に満ちた注解をし,公の宣教奉仕で熱心に語る時,エホバに賛美の犠牲を献じていることになります。とはいえ,わたしたち各自はこう自問できるでしょう。『そのようなことを行なう時,自分の捧げ物の質はどうだろうか』。これまでに学んだ事柄から,あなたはマラキの時代の祭司たちはひどすぎると感じておられるでしょう。厚かましくも,欠陥のある動物を神の祭壇に携えて来たのです。エホバはマラキを通して,祭司たちの犠牲の質が低いことを強調しなければなりませんでした。エホバの食卓を軽んじていることを祭司たちが自覚していなかったからです。(マラキ 1:8)したがってわたしたちは,自分の犠牲の質を吟味し,犠牲が何ら欠陥のないまさに最上のものであるようにすることが大切です。
ふれ告げるべき音信
7 二つの面を持つ音信のどんな面をふれ告げるには勇気が求められますか。
7 宣教奉仕で「自分の唇の若い雄牛」をささげるには勇気が要る,とお感じになりませんか。人々のもとに携えて行く音信には二つの面があり,一方の面は決して人気のあるものではないからです。預言者ヨエルは神の民にこう伝えました。「あなた方は諸国民の中でこうふれ告げよ。『戦いを神聖なものとせよ! 強力な者たちを奮い立たせよ! これを近くに来させよ! すべての戦人を上って来させよ!』」(ヨエル 3:9)現代での適用において,これは諸国民に対する強烈な挑戦ではないでしょうか。神に刃向かう人々に対するエホバの義なる戦いの宣戦布告なのです。エホバはご自分の民には,『剣をすきの刃に,槍を刈り込みばさみに打ち変えるように』と指示しておられますが,敵対する諸国民には,「すきの刃を剣に,刈り込みばさみを小槍に打ち変えよ」と告げておられます。(ミカ 4:3。ヨエル 3:10)神の敵たちは宇宙の創造者と戦いを交える準備をしなければならないのです。これは,伝えるわたしたちにとっても,心安らぐ音信とはとても言えません。
8 「ヤコブの残っている者たち」がライオンになぞらえられているのはなぜですか。
8 預言者ミカの音信の中で,「自分の唇の若い雄牛」をささげる人たちはライオンになぞらえられています。ミカはこう書いています。「ヤコブの残っている者たちは,諸国民の中……にあって,森の獣の中のライオンのように,羊の群れの中にいるたてがみのある若いライオンのようにならなければならない。実際に通って行く時,それはまさに踏みつけたりかき裂いたりする。救い出す者はいない」。(ミカ 5:8)この例えがふさわしいのはなぜでしょうか。現代において神の民は,諸国民に警告の音信をふれ告げる時,ライオンのような勇気を示さなければならないからです。その先頭に立っているのは油そそがれた残りの者です。a
エホバの日を大胆にふれ告げていますか
9 (イ)どんな時に,ライオンのような勇気を奮う必要がありますか。(ロ)反対や無関心に直面したとき,どうすれば勇気を出せますか。
9 あなたは,音信の一面である警告をふれ告げるときに,ライオンのような勇気を示しておられますか。権力者の前に立つ時だけでなく,学校の友達や職場の同僚,未信者の親族に話す時にも,そのような勇気が必要でしょう。(ミカ 7:5-7。マタイ 10:17-21)反対や無関心に直面したとき,どうすれば勇気を奮い起こせるでしょうか。サマリアとエルサレム両方の滅びについて警告するという身のすくむような仕事をミカがどうして果たせたか,その理由に注目してください。こうあります。『このわたしは,エホバの霊のもとに力に満たされ,また公正と力強さとに満たされた。それは,ヤコブに対しその反抗について,イスラエルに対しその罪について告げるためであった』。(ミカ 1:1,6; 3:8)あなたも,力を与える霊を神から豊かに受けることができ,それゆえに『力に満たされる』ことが可能です。(ゼカリヤ 4:6)祈りのうちに神に頼るなら,耳が鳴るような言葉を告げ知らせることができるでしょう。―列王第二 21:10-15。
10 「エホバの日」に関する音信をふれ告げるとき,どのようにゼパニヤに見倣えますか。
10 あなたも勇気を出したいと思われるでしょう。とはいえ,警告の音信を携えて人々に近づくときには巧みさも必要です。間近に迫った「エホバの日」に関する音信を伝える時でも,「すべての人に対して穏やかで[つまり「巧みで」]」なければならないのです。(ヨエル 2:1,11。ゼパニヤ 1:14。テモテ第二 2:24; 脚注)この点も12預言者から学べます。彼らはエホバからの裁きの音信を大胆に告げ知らせながらも,耳を傾ける人たちに思いやりを示しました。例えば預言者ゼパニヤは,当時のかたくなな君たち(高貴な者たち)に向かって話す時には遠回しな言い方をしませんでしたが,忠実なヨシヤ王まで批判したりはしませんでした。(ゼパニヤ 1:8)わたしたちは,警告の音信を告げ知らせる時,人々について消極的な先入観を持つのではなく,羊になる可能性のある人とみなして援助できるでしょうか。―マタイ 25:32-34。
11 (イ)わたしたちの伝える二つの面を持つ音信の,第二の面は何ですか。(ロ)エホバの日をふれ告げる時,どのように12預言者に見倣えますか。
11 わたしたちの伝える二つの面を持つ音信の,もう一つの面は何でしょうか。その面はミカ 5章で浮き彫りにされています。「ヤコブの残っている者たちは,多くの民の中にあってエホバからの露のように,草木に注ぐ豊潤な雨のようにならなければならない。それは人を頼みとせず,地の人の子らを待つこともない」。(ミカ 4:1; 5:7)今日,霊的なヤコブつまりイスラエルの「残っている者たち」とその仲間は,良いたよりを「多くの民」に伝えているので,さわやかさを与える「エホバからの露」,「草木に注ぐ豊潤な雨」のようです。音信のこの第二の面についても,ヘブライ語聖書の最後の12の書から多くを学べるはずです。12預言者は滅びだけでなく回復もふれ告げたからです。あなたも宣教奉仕で,エホバの日に関する音信の明るい面を強調しておられますか。
この音信をどのようにふれ告げるか
12,13 (イ)神の民が昆虫の群れに例えられていることには,どんな意味がありますか。(ロ)ヨエル 2章7,8節を読んで,あなたはどう感じますか。
12 あなたは,二つの面を持つこの音信をどのようにふれ告げておられますか。預言者ヨエルは神の民の業を,いなごなどの昆虫による一連の災厄になぞらえています。(ヨエル 1:4)しかし,どうしてエホバの民がよりによって昆虫の群れのようだと言えるのでしょうか。ヨエル 2章11節で神が,それらの昆虫は「その[つまりご自分の]軍勢」であると述べておられるからです。(「啓示」の書でも,神の民の象徴としていなごが用いられています。啓示 9章3,4節をご覧ください。)ヨエルの描写によると,昆虫の行なう業はむさぼり食う火のようであり,昆虫が通ってゆくと,「エデンの園」のように見えていた場所が「荒れすさんだ荒野」に変わりました。(ヨエル 2:2,3)では,わたしたちはヨエルの預言の意味を理解していることをどのように示せるでしょうか。
13 これらの小さい生き物がどれほど徹底的であるかを考えてみてください。ヨエルはこう表現しています。「強力な者たちのように彼らは走る。戦人のように城壁を上る。また各自自分の道を行きつつ,その道筋を変えない。互いに押し合うこともない。走路を行く強健な男子のようにして彼らは進んで行く。飛び来る物の中で倒れる者がいるとしても,他の者は進路からそれない」。(ヨエル 2:7,8)反対という「城壁」も彼らとその災厄を阻むことはできません。圧制的な敵によって処刑された忠節なクリスチャンがいます。そのようにして「飛び来る物の中で倒れる者がいるとしても」,他の人たちが業を引き継ぎ,エホバから与えられた使命を果たします。あなたは,業は成し遂げられたと神が判断なさる時まで,エホバの日をふれ告げる任務をしっかり遂行してゆこうと決意しておられますか。すでに亡くなった忠実なクリスチャンの跡を継ぐかのようにして業を担っておられますか。
反応がどうであれ,宣教奉仕において成功できる
14 徹底的な伝道活動にどのように貢献できますか。
14 徹底的であること,それが肝要です。ヨエルの預言で描かれている徹底的な伝道活動に,個人としてどのように貢献できるでしょうか。家から家の宣教奉仕に参加し,その後,関心を示した人を教えるために再び訪問することによって,そうできます。留守だった家も再び訪ねます。そのようにして,この預言的な描写を理解していることを表わすのです。さらに,街路で証言するなら,他の場所では会えない人と話せるでしょう。別の分野として,他の国から移住してきた人たちも援助できるかもしれません。b あなたは,こうした機会すべてに目ざとくあって,現代の徹底的な伝道活動に貢献していますか。
成功の判定基準は何か
15 12預言者の音信に対する人々の反応に関して,どんな点が注目に値しますか。
15 畏怖の念を抱かせるエホバの日に関する音信に,人々はどう反応しますか。わたしたちが反対や無関心に遭うとしても驚くには当たりません。神の預言者たちの多くも同様の経験をしました。預言者のほとんどは強烈な警告の音信を伝えたからです。(エレミヤ 1:17-19; 7:27; 29:19)それでも,良い結果を目にした預言者もいました。少なくとも5人,ヨナ,ミカ,ゼパニヤ,ハガイ,ゼカリヤは,過去の罪を悔い改めて歩みを正すよう人々の心を動かすことができました。
16 預言者としてのミカの努力はどんな実を結びましたか。
16 預言者としてのゼパニヤの業は,清い崇拝の復興に着手するようヨシヤ王を動かしたと思われます。ミカはユダの頭たる者たちに対する裁きの音信を大胆にふれ告げ,ヒゼキヤ王はミカの言葉に調和した行動を取りました。(ミカ 3:1-3)興味深いことに,エレミヤの時代の年長者たちはヒゼキヤの反応を良い手本として引き合いに出し,「[王が]エホバを恐れ,エホバのみ顔を和めた」ことを述べています。(エレミヤ 26:18,19。列王第二 18:1-4)ヒゼキヤの指導のもとに,ユダの民と,北王国から来た快く応じる者たちは,過ぎ越しおよび無酵母パンの祭りを祝い,しかもその祭りを1週間延長しました。その人々が真の崇拝に戻ったことは,どんな結果を生んだでしょうか。「エルサレムには大いなる歓びがあった」と記されています。(歴代第二 30:23-26)これに先だってミカは,アハズ王が治める背教した国民に対する神からの破滅の音信をふれ告げていました。とはいえ,アハズの息子ヒゼキヤが立派にこたえ応じた時に,自分の努力の良い実を見ることができたのです。
17 ハガイとゼカリヤは何を成し遂げることができましたか。
17 預言者のハガイとゼカリヤのことも考えてみましょう。彼らは,故国に帰還したユダヤ人に対して奉仕しましたが,その人々は無関心で自己中心的になっていました。(ハガイ 1:1,2。ゼカリヤ 1:1-3)二人が任務に取りかかったころには,神殿の土台が据えられてから16年が経過しており,エホバの家が「荒れている」のに,人々は「それぞれ自分の家のために走り回って」いました。ハガイはユダヤ人にこう呼ばわります。『「この地のすべての民よ,強くあれ」と,エホバはお告げになる。「そして,働け」』。どうなりましたか。エホバが総督ゼルバベル,大祭司ヨシュア,そして「民の残っている者たちすべて」の『霊を奮い立たせて』おられたので,彼らは神殿に関する仕事を終えることができました。―ハガイ 1:9,12,14; 2:4。
18,19 (イ)土地によっては,人々がエホバの日の布告にどのようにこたえ応じていますか。(ロ)すべての人に警告の音信を告げ知らせる必要に,あなたはどうこたえ応じようと思いますか。
18 12預言者のほとんどは,エホバにもともと献身していた国民に音信を告げ知らせました。わたしたちは,まことの神を全く知らない人々に宣べ伝えているかもしれませんが,それでも,預言者たちの活動の結果から教訓を学べます。今日でも,多くの区域で人々がエホバの日に関する緊急な音信にこたえ応じています。ゼカリヤが予告したような結果が見られているのです。こうあります。「その日,多くの国の民が必ずエホバのもとに加わり,まさしくわたしの民となる。わたしはあなたのうちに住む」。(ゼカリヤ 2:11)現在,神の民が伝える音信に,文字通り「多くの国の民」がこたえ応じています。(啓示 7:9)ゼカリヤはこう予言しました。「多くの民また強大な国民がまさにやって来て,エルサレムで万軍のエホバを求め,エホバの顔を和めようとするであろう」。この人たちは「諸国のあらゆる言語から来た十人の者」として描かれており,霊的なイスラエル人一人のすそをとらえて,こう言います。「わたしたちはあなた方と共に行きます。神があなた方と共におられることを聞いたからです」。―ゼカリヤ 8:20-23。
19 「諸国のあらゆる言語」という表現に注目してください。聖書や聖書文書は多くの言語に翻訳されており,エホバの証人は奉仕者を訓練し,「諸国のあらゆる言語」の人々を教えられるようにしています。(マタイ 28:19,20。使徒 1:8)あなたも地元の地域に住む別の言語を話す人たちを援助するために,その言語を学んでおられるかもしれません。非常に大勢の人たちが意欲的な態度で一つか二つの新しい言語を学び,良いたよりに熱烈にこたえ応じる人の多い国に移動しています。あなたも,そのような産出的な区域に移動して『諸国民の中でふれ告げる』ことができますか。その点を祈りのうちに考慮してください。お子さんがいるなら,そのような移動が可能かどうかを家族で何度も話し合い,成長してゆくお子さんの前にその目標を絶えず掲げるようにしましょう。
20 ニネベの民に関連して,エホバはどんな態度を際立たせておられますか。
20 とても見込みがないと思える人々が音信に耳を傾けた,という経験をした預言者もいます。ヨナです。ニネベの人々は,王までもがヨナの音信に好意的にこたえ応じ,エホバに信仰を置きました。神ご自身がこう述べておられます。『わたしが大いなる都市ニネベを,右も左も全くわきまえない十二万以上の人々のいるこの所を惜しんだとしても当然ではないか』。(ヨナ 4:11)畏怖の念を抱かせるエホバの日をふれ告げるあなたの動機は何かという観点から,この言葉について考えてみてください。贖いによって救ってくださったエホバに恩義を感じていますか。エホバの献身した僕としての責任感を抱いていますか。(コリント第一 9:16,17)これらはエホバの日をふれ告げるもっともな理由となります。しかし,それに加えてあなたは,エホバの日をふれ告げる対象となる人々を『惜しんで』いますか。神のような憐れみに動かされてその日について語るのは,何と幸福なことなのでしょう。
21 アマジヤの脅しに対処したアモスの手本から何を学べますか。
21 ヨエル,オバデヤ,ナホム,ハバクク,マラキに人々がどんな反応を示したかはほとんど分かりません。とはいえ,ある時にアモスが直面した反応は分かります。アマジヤはアモスに強硬に反対し,アモスが王に対して陰謀をたくらんでいると非難し,アモスがベテルで宣べ伝えるのを禁止しようとしました。(アモス 7:10-13)アモスは勇気をもって反対に立ち向かいました。今日でも,宗教家が政治指導者を動かしてエホバの民を迫害させたり,有益な伝道活動を禁止させたりしようとすることがあります。あなたは,アモスに見倣い,反対に遭っても良いたよりを大胆にふれ告げますか。
22 自分の区域での宣教奉仕が成功している,と言えるのはなぜですか。
22 12預言者は様々な反応に面しましたが,全員が務めを果たしました。重要なのは,わたしたちの伝える二つの面を持つ音信に人々がこたえ応じるかどうかではなく,わたしたちが「自分の唇の若い雄牛」つまり自分の最上の「賛美の犠牲」をエホバにささげるかどうかです。(ホセア 14:2。ヘブライ 13:15)結果は神にゆだねることができます。本当に羊である人は神が引き寄せてくださるでしょう。(ヨハネ 6:44)さらに,人々の反応がどうであれ,あなたは神の音信をふれ告げる者として成功することができます。「良いたよりを携えて来る者,平和を言い広める者の足」は,良いたよりを感謝して受け入れる人の目に美しく映るのであり,そのことを確信できます。そして何よりも,その足はエホバの目に美しいのです。(ナホム 1:15。イザヤ 52:7)エホバの大いなる日が間近に迫っているので,今の時代に関してヨエルが予告した事柄を行なってゆく決意を固めましょう。こうあります。「あなた方は諸国民の中でこうふれ告げよ。『戦いを神聖なものとせよ! 強力な者たちを奮い立たせよ!』」 諸国民に対する神の戦いをふれ告げるのです。―ヨエル 3:9。
a この預言はマカベア時代に最初の成就を見たようです。マカベア家に率いられたユダヤ人は,ユダから敵を追い出し,神殿を再び献納しました。こうして,メシアが現われる時にユダヤ人の残りの者がメシアを迎えられるようになりました。―ダニエル 9:25。ルカ 3:15-22。
b エホバの証人の発行した「あらゆる国の人々のための良いたより」という小冊子は,地元の主要な言語を話せない人々を助けるのに役立っています。
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『もはや何の不足もないまでの祝福』エホバの日を思いに留めて生きる
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第14章
『もはや何の不足もないまでの祝福』
1,2 (イ)わたしたち各自は,どんな良い選択を行なえますか。(ロ)どんな預言の成就は,わたしたちの享受できる祝福と関係がありますか。
今は裁きと祝福の時です。宗教的退廃と霊的回復の時代です。あなたは,祝福を得たい,霊的回復がもたらす現在と将来の益にあずかりたいと思っておられるに違いありません。では,どうすればそうした益を確信できますか。その答えにかかわる預言があります。1914年に「終わりの日」が始まってから間もなく主要な成就を見た預言です。(テモテ第二 3:1)マラキはこう予告しています。「『あなた方の求める,まことの主[エホバ]がその神殿に……来る。そして,あなた方の喜ぶ契約の使者が。見よ,その者は必ず来る』と,万軍のエホバは言われた」。―マラキ 3:1。
2 あなたの生活において重大な意味を持つこの預言は,12預言書の最後の書に記されています。12預言書の考察の締めくくりとして,マラキの書いた事柄は注目に値します。マラキ書には,あなたを含めエホバの僕たちが『もはや何の不足もないまでの祝福』を受けるための肝要な指示が収められているのです。(マラキ 3:10)では,マラキ 3章を詳しく調べてみましょう。
霊的な清めの時
3 「神のイスラエル」が選ばれたのは,古代の神の民がどんな状態に陥っていたからですか。
3 マラキの時代より500年ほど後にエホバは,キリスト(神によって遣わされた「[アブラハム]契約の使者」)を代理として用い,ご自分の契約の民を裁くためにエルサレムの文字通りの神殿に来られました。そして,全体としては恵みを受け続けるに値しなくなっていたその国民を退けられました。(マタイ 23:37,38)そのことは,西暦70年に生じた出来事が証明しています。同様に確かな点として神は,その民の代わりに「神のイスラエル」を,つまりあらゆる国民から取られた14万4,000人で成る霊的な国民を選ばれました。(ガラテア 6:16。ローマ 3:25,26)とはいえ,これはマラキの預言の最終的な成就ではありませんでした。その預言は現代をも指し示しており,あなたが『もはや何の不足もないまでの祝福』を得るという将来の見込みと密接な関係があります。
4 1914年にイエスが王座に就いた後,どんな点に答えを出す必要が生じましたか。
4 聖書預言の成就から確かに分かるとおり,1914年にエホバの天の王国の王としてイエス・キリストが即位しました。その後,神の是認に値するクリスチャンの一団をイエスが特定する時が来ました。霊的な清純さの試験に合格した者として立つのはだれでしょうか。その答えはマラキの言葉に示唆されています。こうあります。「彼の来る日にだれが忍べるであろうか。その現われる時に立っていられるのはだれであろうか。彼は精錬する者の火のように……なるからである」。(マラキ 3:2)エホバは裁きのために,いつ,どのように「神殿」に来られましたか。
5,6 (イ)エホバは検閲のために霊的な神殿に来られた時,崇拝者と称する人たちの大部分に関して何を見いだされましたか。(ロ)霊によって油そそがれた神の僕たちには何が必要でしたか。
5 もちろん神は,石とモルタルでできた神殿に来られたのではありません。真の崇拝のためのそのような文字通りの神殿の最後のものは,すでに西暦70年に破壊されていました。エホバが来られたのは霊的な神殿です。霊的な神殿とは,人間がイエスの贖いの犠牲に基づいて神に近づき神を崇拝するための取り決めのことです。(ヘブライ 9:2-10,23-28)キリスト教世界の諸教会がその霊的な神殿を構成していなかったことは確かです。なぜなら,それら諸教会は,清い崇拝ではなく偽りの教えを広める,流血と霊的売春の罪を負った宗教体制の一部だったからです。そのようなものに対して,エホバは「速やかな証人」となられました。そして,あなたもご存じのとおり,神は有罪の裁きを下されましたが,それは公正な裁きでした。(マラキ 3:5)一方,神の王国の樹立後,厳しい試練を受けても神への忠誠を実証し,神の霊的な神殿の中庭で奉仕する真のクリスチャンの一団がいました。とはいえ,それら油そそがれた者たちも幾らかの浄めを必要としており,12預言書はそのことを指摘していました。それらの書には,神の僕たちの霊的また身体的な回復に関する心温まる約束が収められているのです。マラキの予告によると,エホバが『金のように,また銀のように澄ませる』民が存在するようになります。そして,『エホバのため義にそって供え物をささげる民』となります。―マラキ 3:3。
6 確かな証拠によれば,1918年以降にエホバは,油そそがれたクリスチャンに必要な清めを施し,彼らの崇拝,慣行,教理を浄められました。a 油そそがれた者たち,および後に彼らに加わった「大群衆」は,大いに益を受けてきました。(啓示 7:9)そして,一致したグループとして引き続き「義にそって」,『エホバを喜ばせる供え物』をささげています。―マラキ 3:3,4。
エホバはご自分の民を一つのグループとして精錬してこられた。わたしたちは個人として,まだ幾らかの精錬が必要だろうか
7 神のみ前における自分の立場に関して,どのような自問をするのはふさわしいことですか。
7 神の民は全体として確かにそのようにしていますが,個人としてのわたしたち各自はどうでしょうか。こう自問できます。『わたしの態度や行動には,まだ精錬の必要な面があるだろうか。油そそがれた者たちをエホバが精錬してこられたように,わたしもまだ自分の行ないを精錬する必要があるだろうか』。すでに見たように12預言者は,望ましい特性や行状とともに,望ましくない見方や行ないも際立たせています。そのおかげであなたにとっても,エホバが「あなたに求めておられる」事柄が理解しやすくなっているのではないでしょうか。(ミカ 6:8)この「あなたに」という表現に注目してください。これは,個人レベルでの精錬や清めがさらに必要かどうかを各自が分析すべき理由を強調しています。
「どうかわたしを試みるように」
8 エホバはご自分の民に,どんな招きを差し伸べておられますか。
8 エホバがマラキ 3章でさらに述べておられる事柄を考えましょう。10節に,次のような温かな招きの言葉があります。「『十分の一をことごとく倉に携え入れて,わたしの家に食物があるようにせよ。この点で,どうかわたしを試みるように』と,万軍のエホバは言われた。『わたしがあなた方に向かって天の水門を開き,もはや何の不足もないまでにあなた方の上に祝福を注ぎ出すかどうかを見よ』」。この勧めは神の民全体に差し伸べられています。あなたは,これが自分個人に対する招きでもあると感じておられますか。
9 どんな種類の捧げ物と什一をエホバに差し出すことができますか。
9 では,どのようにしてエホバに「十分の一」を納めることができますか。もちろん,律法が規定していたような文字通りの捧げ物や什一を差し出す義務はありません。現在,神が求めておられるのは霊的な種類の捧げ物です。前の章で見たように,パウロは,わたしたちの証言活動を捧げ物と描写しています。(ホセア 14:2)次いで,別のタイプの犠牲について,こう書いています。「善を行なうこと,そして,他の人と[物質的なものを]分かち合うことを忘れてはなりません。神はそのような犠牲を大いに喜ばれるのです」。(ヘブライ 13:15,16)それで,マラキ 3章10節の「十分の一」は霊的および物質的な捧げ物を表わしている,ということが分かります。バプテスマを受けたクリスチャンであるあなたのすべてはエホバに献じられていますが,什一に相当するものがあるのです。つまり,あなたのものでエホバのもとに携え入れることのできる部分,すなわち神への奉仕に用いることのできる部分です。その中には,エホバへの奉仕に活用できる時間,エネルギー,資産,物質的な寄付が含まれます。
10 どんな意味で,ふさわしく『エホバを試みる』ことができますか。
10 このような象徴的な什一を専心と愛の気持ちからエホバにささげるのは,まさに適切なことです。緊急感も必要です。ご存じのとおり,エホバの大いなる日は急速に近づいており,それは「大いに畏怖の念を抱かせるもの」です。(ヨエル 2:1,2,11)命がかかっています。神は,あなたが個人として応じることのできる招きを差し伸べておられます。「わたしを試みるように」と呼びかけておられるのです。もちろん,立場の低い人間が,神は信頼に値しないとでも言うかのようにエホバを試みるなど,とんでもないことです。(ヘブライ 3:8-10)とはいえ,あなたは謙遜に,正しい意味でエホバを試みることができます。どのようにでしょうか。エホバは祝福を約束なさいました。あなたはエホバに従うとき,エホバを試みていることになります。あたかも『神はわたしを祝福してくださるだろうか』と言っているかのようです。それにこたえてエホバは,あなたを祝福する義務をご自身に課し,約束を守られます。このように,神が『ご自分を試みる』のを許しておられることを考えると,神は豊かに祝福してくださる,との確信が強まるのではないでしょうか。
11,12 あなたご自身は,エホバがご自分の民にお与えになったどんな祝福を目にしてきましたか。
11 確かに,エホバの民は物質的な捧げ物や霊的な犠牲を惜しみなくささげてきました。そしてエホバは『もはや何の不足もないまでの祝福』を注いでおられます。あなたも,神の民にそのような祝福が与えられるのを見てこられたかもしれません。実際,20世紀初頭から今に至るまでエホバの証人の数は飛躍的に増加してきました。そして,「神の奥深い事柄」の理解も大いに増し加わってきたのではないでしょうか。(コリント第一 2:10。箴言 4:18)では,別の角度から考えてみましょう。あなたご自身はどんな影響を受けてきましたか。
12 あなたがかつて教会員だったころのこと,あるいはエホバの証人の集会に出席し始めたころのことを思い出してみてください。当時,聖書の基本的な真理をどれほど把握しておられましたか。それを,その後に学んで聖書そのものから証明できるようになった事柄と比べてみてください。さらに,いま成就している預言など,理解できるようになったいっそう奥深い事柄についても考えてください。実生活に聖句を当てはめる面で遂げた進歩はいかがですか。大きく前進してこられたのではありませんか。使徒ペテロと同じく,あなたも,「わたしたちにとって預言の言葉はいっそう確かなものとなりました」と言えるのではないでしょうか。(ペテロ第二 1:19)ですから,あなたは個人的に『エホバに教えられて』おり,真のキリスト教を実践する民,エホバに永久に仕えたいと願う民の一員となっているのです。(イザヤ 54:13)現時点でも,あなたは確かな根拠に基づいて,神はわたしを大いに祝福してくださっている,と言えます。
あなたの名が命の書に記される
13 神の覚えの書に名を記録していただくことはどうして可能ですか。
13 エホバからの祝福はほかにもあります。マラキ 3章16節にこう記されています。「その時,エホバを恐れる者たちが互いに,各々その友に語り,エホバは注意して聴いておられた。そして,エホバを恐れる者のため,またそのみ名を思う者たちのために,覚えの書がそのみ前で記されるようになった」。油そそがれた者たちも,大群衆に属する人たちも,このような崇敬の念のこもった『エホバへの恐れ』を表わしています。あなたも,自分がエホバの証人の一人であること,エホバのみ名を思い,その名を世界中で大いなるものとしている幸福な民の一員であることを,特権だと思われませんか。自分の忠実さをエホバに覚えておいていただけるという保証があるので,個人としても本当に満ち足りた気持ちになれるのではないでしょうか。―ヘブライ 6:10。
14 エホバがどんな態度や行為を憎悪されるかを理解するうえで,あなたにとって12預言書はどのように助けになりましたか。
14 では,わたしたち各人はどうすれば,現在すでにエホバのみ前で記されている「覚えの書」に自分の名を載せていただく資格を満たせますか。12預言書から学んだ賢明な助言を幾つか思い出してみましょう。エホバを不快にさせる行ない,特質,態度に関する洞察を得ることができました。例えば,「みだらな行ない」や「淫行の霊」など,神の義の規準と相いれず人の生活を損ないかねないと神が言われる事柄に,預言者たちは注意を促しています。(ホセア 4:12; 6:9)神は,配偶者に対して不実な振る舞いをする者を憎み嫌われます。家族の他の成員に対してであるとしても,同じことが言えます。(マラキ 2:15,16)エホバは預言者たちに霊感を与えて,ご自分がいかなる形態の暴虐も喜びとしないことを強調させておられます。(アモス 3:10)また,仕事や金銭に関して不正や不正直を避けるべきことも明らかにさせておられます。(アモス 5:24。マラキ 3:5)さらに12預言書は,権威をゆだねられた人が偏った見方や私利私欲によって判断を曇らされないようにすることの重要性も強調しています。―ミカ 7:3,4。
15 12預言書の勧めに従うことから,どんなすばらしい益が得られますか。
15 とはいえ12預言書は,避けるべき事柄に注意を引いているだけではありません。神の規準を守るときに得られる数々の益にもスポットライトを当てています。エホバとの関係がいっそう緊密になります。(ミカ 4:5)義が行き渡り,会衆は一段と安定し,活発になります。結婚のきずなは強まり,家族も霊的な物事を中心にしていっそうしっかりと結び合わされます。(ホセア 2:19; 11:4)公正かつ正直に行動するので,人からの敬意を勝ち得ることができます。エホバの憐れみに倣って同情と愛ある親切を示し,報いとして兄弟姉妹から同情と愛ある親切を受けます。(ミカ 7:18,19)霊的な人々,真実と平和を愛する兄弟姉妹に囲まれ,何よりもエホバとの友情関係を持てるのです。(ゼカリヤ 8:16,19)あなたもこれらの祝福をすでに経験しておられるのではありませんか。
16 今日,どんな相違が明らかになっていますか。エホバの清算の日に,その相違はどんな意味を持ちますか。
16 こうした点を考えて確かに言えるのは,『義なる者と邪悪な者との相違』つまり真のクリスチャンと偽りのクリスチャンとの相違がいっそう明白になっている,ということです。(マラキ 3:18)わたしたちはエホバの規準にかなう者になろうと努力していますが,世間一般は不敬虔の泥沼にますます深く沈み込んでいます。そして,ご存じのとおり,「エホバの大いなる日」が到来する時,この違いは重大な意味を帯びることになります。―ゼパニヤ 1:14。マタイ 25:46。
17 今後,この本の情報をどのように用いてゆくことができますか。
17 ですから,12預言書の助言は時代を超えて有益なのです。何らかの問題に直面したとき,あるいは決定を下さなければならないとき,この本に載せられている実際的な情報を読み返してください。そうすることにより,エホバの道を教え諭していただきたい,『その道筋を歩み』たいという願いを常に示せます。(ミカ 4:2)とはいえ,神の道を歩むのは今だけのことではありません。あなたの切なる願いは,自分の名をエホバの覚えの書に恒久的にとどめていただくことではありませんか。12預言書はそのためにも役に立ちます。
信仰によって救いに至る
18 ヨエル 2章32節には,どんな肝要な条件が挙げられていますか。使徒パウロはその条件に何を付け加えましたか。
18 ヨエルは,神から永続的な是認を得るための大切な要件を際立たせ,「エホバの名を呼び求める者はみな安全に逃れる」と述べています。(ヨエル 2:32)二人の使徒,ペテロとパウロは,この肝要な条件を引用しています。(使徒 2:21。ローマ 10:13)そしてパウロはこの勧告に別の面を付け加え,「人は,自分が信仰を持っていない者をどうして呼び求めるでしょうか」と問いかけています。(ローマ 10:14)あなたは,今そして永久にエホバの名を呼び求め,エホバに信仰を働かせてゆきたいと願っておられるに違いありません。
ヨエル
19 エホバの名を呼び求めることには何が含まれますか。
19 エホバの名を呼び求めることには,神の固有の名を知って用いる以上のことが含まれます。(イザヤ 1:15)ヨエル 2章32節の文脈では,真の悔い改め,およびエホバの許しに対する信頼が強調されています。(ヨエル 2:12,13)神の名を呼び求めるとは,本当に神を知り,神を信頼し,神に従い,生活の中で神を第一にするようになるということです。エホバに仕えることが,その人の最優先事項になるのです。そしてそれは,満足のゆく永続する生活という神からの祝福を得るための大きな一歩となります。―マタイ 6:33。
20 信仰を働かせる人は,どんな壮大な報いを得ますか。
20 エホバはハバククを通して,「義なる者は自分の忠実さによって生きつづける」と言われました。(ハバクク 2:4)この点を是非とも,思いと心にしっかり刻み込みましょう。これは聖書の核心をなす真理の一つです。パウロは,霊感による手紙の中で3回この聖句に言及しています。b (ローマ 1:16,17。ガラテア 3:11,14。ヘブライ 10:38)この真理によると,わたしたちの罪のためにイエス・キリストがささげてくださった犠牲に信仰を働かせることが必要です。イエスはこう説明しています。「神は世を深く愛してご自分の独り子を与え,だれでも彼に信仰を働かせる者が……永遠の命を持てるようにされた」。また,「み子に信仰を働かせる者は永遠の命を持っている」とも記されています。(ヨハネ 3:16,36)その犠牲により,わたしたちを請け戻してくださる方だけが施せるいやしが備えられます。マラキ書には,エホバの大いなる日がサタンの邪悪な世に対して行なう事柄に関するエホバの言葉があり,その続きにこう記されています。「わたしの名を恐れるあなた方には,義の太陽が必ず照り輝き,その翼にはいやしが伴う」。イエスが,いやしを伴って照り輝くのです。これには,わたしたちがいま経験している霊的ないやしが含まれます。そして新しい世では身体的ないやしも完全になされます。そのことを考えると本当に胸が躍るのではありませんか。―マラキ 4:2。
21 ご意志を成し遂げるエホバの能力に信仰を抱けるのはなぜですか。
21 ご意志を成し遂げる神の能力に信仰を置くことも肝要です。ミカの時代,人が人を信頼するのは難しいことでした。「仲間を信じてはいけない。腹心の友をも信頼してはいけない」と,ミカは書いています。それでもミカは,ためらうことなくエホバを信頼しました。あなたもそうでしょう。ミカは,「わたしは,終始エホバに目を向ける」と述べています。(ミカ 7:5,7)気まぐれな人間とは異なり,エホバは,ご自分の主権の立証のため,また信仰を抱く人たちの永続的な福祉のために目的を果たす意志と力をお持ちです。
22 信仰のうちにエホバの名を呼び求める人は,結果として何を経験できますか。
22 あなたも確信をもってハバククのように言うことができます。「わたしは,ただエホバにあって歓喜し,わたしの救いの神にあって喜びにあふれます」。(ハバクク 3:18)預言者ヨエルは,信仰のうちにエホバの名を呼び求める人たちが喜べる理由を明らかにしています。その人たちは「安全に逃れる」,パウロの表現によると「救われる」のです。(ヨエル 2:32。ローマ 10:13)どんな意味で,安全に逃れる,つまり救われるのでしょうか。あなたは信仰を働かせることによって,サタンのずる賢い行為から,また邪悪な人たちに臨む多くのつらい経験からすでに救われています。(ペテロ第一 1:18)それだけでなく,この邪悪な事物の体制が壊滅する時に救い出されることも,確信を抱いて待ち望むことができます。その滅びによって,12預言者が指し示す数々の祝福を享受する機会が開かれます。
パラダイスをかいま見る
23,24 (イ)12預言書は,パラダイスのどんな点をかいま見させてくれますか。(ロ)将来に対するあなたの見方は,12預言者の記述からどんな影響を受けましたか。
23 「エホバを恐れる」人たちには,永続する祝福が待っています。(マラキ 3:16)12預言書の幾つかを通して,目前に迫った地上のパラダイスをかいま見ることができ,その生き生きとした描写を読むと,喜びと期待に満たされます。例えば,ミカはこう記しています。「彼らはまさに,各々自分のぶどうの木の下,自分のいちじくの木の下に座り,これをおののかせる者はだれもいない」。(ミカ 4:4)神の王国のもとでは,安心感を抱き,自分の労働の実を刈り取ることになるのです。
24 病気や悲嘆,そして死もなくなることを待ち望むのは,単なる希望的観測ではありません。人間としての完全さに達する見込みをもって生き返ってくる人たちの喜びを想像してみてください。その人たちは,ホセア 13章14節が述べる事柄を地上で十二分に経験するのです。こうあります。「シェオルの手からわたしは彼らを請け戻す。死から彼らを取り戻す。死よ,お前のとげはどこにあるのか。シェオルよ,お前の破壊力はどこにあるのか」。パウロはこの聖句を天への復活に適用しています。―コリント第一 15:55-57。
25 新しい世であなたはどんな気持ちになると思いますか。
25 地上への復活など信じられない,ということはないでしょう。(ゼカリヤ 8:6)神の民が捕囚から帰還することをアモスとミカが予告した時,それは信じ難く思えたかもしれません。しかし,実際その通りになったのではありませんか。(アモス 9:14,15。ミカ 2:12; 4:1-7)帰還した人たちはこう言いました。「わたしたちは夢を見ている者のようになった。その時,わたしたちの口は笑いで,わたしたちの舌は歓呼で満たされるようになった。……エホバは,わたしたちに対して行なったことにおいて大いなることを行なわれた。わたしたちは喜びに満ちた」。(詩編 126:1-3)あなたも,新しい世で『もはや何の不足もないまでの祝福』を経験する時,同じように感じることでしょう。
エホバの僕は,真実と公正を愛する人たちに囲まれている
26 エホバの日を思いに留めて生きる人には,何が待っていますか。
26 「エホバの日」によって悪が取り除かれ,地が清められた後,完全な意味で「王権はエホバのものとされなければ」なりません。(オバデヤ 15,21)それは神の地上の臣民すべてにとってすばらしい祝福となるのではないでしょうか。あなたも,マラキ 3章の言葉が当てはまる人たちの一人になれます。こうあります。「『そして彼らは必ずわたしのものとなる』と,万軍のエホバは言われた。……『そしてわたしは,人が自分に仕える子に同情を示すのと同じように彼らにも同情を示す』」。(マラキ 3:17)あなたは忠実さゆえに,救われる見通しをいま持っており,将来においては『もはや何の不足もないまでの祝福』を注がれるのです。何とすばらしい見込みなのでしょう!
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