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  • 平和な実を生み出す懲らしめ
  • エホバの王国を告げ知らせるものみの塔 1988
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エホバの王国を告げ知らせるものみの塔 1988
塔88 4/15 26–31ページ

平和な実を生み出す懲らしめ

「どんな懲らしめも当座は喜ばしいものに思えず,かえってつらいことに思えます。しかし後には,それによって訓練された人に,平和な実,すなわち義を生み出すのです」― ヘブライ 12:11。

1,2 (イ)ヘブライ 12章9節から11節によると,神は愛のうちに何を備えておられますか。(ロ)一例としてどのような懲らしめがありますか。その懲らしめからどんな結果の生じることがありますか。

ご自分の子供のころのことを考えてみてください。ご両親から懲らしめられているところを思い起こせますか。ほとんどの人は思い起こせます。使徒パウロは,神からの懲らしめについて注解する際に,そのことを一つの例えとして用いました。それはヘブライ 12章9節から11節に記されています。

2 わたしたちの霊的な命に影響を及ぼし得る,父親が与えるような神からの懲らしめは,いろいろな形を取ることがあります。その一つは,神の規準に従って生活することをもはや望まない,あるいは拒む人をクリスチャン会衆から締め出すという神の取り決めです。そのようにして強い懲罰もしくは懲らしめを受ける人は,悔い改めて転向するかもしれません。また,そうした過程において,忠節な者たちの会衆も,神の高い規準に従うことの重要性を知るという点で鍛錬されます。―テモテ第一 1:20。

3 排斥という考えに一部の人々はどのように反応しますか。

3 『でも,追放して,その後は,追放されたその人と話をしないというのは,厳しいのではありませんか』と言う人がいるかもしれません。そのような見方が,エホバの証人だった両親に育てられたある女性の関係する,最近行なわれた裁判の際に表面化しました。その女性の両親は排斥されていました。その女性は排斥されていませんでしたが,会衆を去るという手紙を書くことによって自発的に自ら関係を断絶しました。そのため会衆には,その女性がもはやエホバの証人ではなくなったという簡単な知らせがありました。その女性は移転しましたが,何年か後に戻って来て,地元の証人たちが自分と話をしようとしないのに気づき,問題を法廷に持ち出しました。結果はどうなったでしょうか。このことからあなたはどのような影響を受けるでしょうか。問題を正しく理解するために,排斥に関係した事柄について聖書が何と述べているかを調べてみましょう。

このような断固とした立場を取るのはなぜか

4 会衆の一部の人たちに関連して,時にはどんなことが生じますか。(ガラテア 6:1。ユダ 23)

4 真のクリスチャンのほとんどは,神と神の義の律法を忠節に支持しています。(テサロニケ第一 1:2-7。ヘブライ 6:10)しかし,時には,真理の道からそれてゆく人もいます。例えば,ある人はクリスチャンの長老たちが差し伸べる援助にもかかわらず,悔い改めることなく神の律法を破るかもしれません。また,偽りの教理を教えることにより,あるいは自ら会衆との関係を断絶することにより,信仰を否認するかもしれません。では,どうすべきでしょうか。使徒たちが生きていた時にもそのようなことが生じましたから,これについて使徒たちが書き記した事柄を調べてみましょう。

5,6 (イ)わたしたちには,重大な罪を犯して悔い改めない人の扱いに関するどんな賢明な諭しがありますか。(マタイ 18:17)(ロ)わたしたちはどんな質問に直面しますか。

5 コリントに住むある男の人が不道徳な行ないをして悔い改めなかったとき,パウロは会衆に,「兄弟と呼ばれる人で,淫行の者,貪欲な者,偶像を礼拝する者,ののしる者,大酒飲み,あるいはゆすり取る者がいれば,交友をやめ,そのような人とは共に食事をすることさえしないように」と告げました。(コリント第一 5:11-13)ヒメナオのような背教者に対しても同じようにしなければなりませんでした。「分派を助長する者については,一度,またもう一度訓戒した後,これを退けなさい。あなたが知っているとおり,そのような人は道から外れて罪をおかし……ているのです」と記されています。(テトス 3:10,11。テモテ第一 1:19,20)そのようにして避けることは,会衆を退けるどんな人に対しても適切な処置だったでしょう。こう書かれています。「彼らはわたしたちから出て行きましたが,彼らはわたしたちの仲間ではありませんでした。わたしたちの仲間であったなら,わたしたちのもとにとどまっていたはずです。しかし彼らが出て行ったのは,すべての者がわたしたちの仲間なのではないことが明らかになるためです」― ヨハネ第一 2:18,19。

6 望ましいのは,そのような人が悔い改めて再び受け入れられるようになることです。(使徒 3:19)しかしその間,クリスチャンはその人との,限られた程度の交友を持てるのでしょうか,それとも,その人を徹底的に避ける必要があるのでしょうか。そして,もし避ける必要があるのなら,それはなぜでしょうか。

全く切り断つ?

7 罪人の二つの級に対するわたしたちの振る舞い方はどのように違いますか。

7 クリスチャンは一般の人々から離れて超然としているのではありません。わたしたちは,近所の人や職場の同僚や学友などが『淫行の者,貪欲な者,ゆすり取る者,偶像を礼拝する者』だとしても,それらの人々と普通に接し,それらの人々に証言します。パウロは,わたしたちがそのような人々を完全に避けることはできず,『さもなくば,世から出なければならないことになる』と書きました。けれども,世の人々と同じような生き方をする「兄弟」に関しては異なった扱い方をしなければならないという指示を与えました。つまり,「兄弟と呼ばれる人で,[そのような道に戻ってしまった]者がいれば,交友をやめ,そのような人とは共に食事をすることさえしないように」という指示です。―コリント第一 5:9-11。マルコ 2:13-17。

8 使徒ヨハネは避けることに関するどのような助言を与えましたか。

8 使徒ヨハネが記した書にも,クリスチャンはそのような者たちを完全に避けるべきであるということを強調する同様の諭しがあります。こう書かれています。「先走って,キリストの教えにとどまらない者は,だれも神を持っていません。……この教えを携えないであなた方のところにやって来る人がいれば,決して家に迎え入れてはなりませんし,あいさつのことばをかけてもなりません。その人にあいさつのことば[ギリシャ語,カイロー]をかける者は,その邪悪な業にあずかることになるからです」a ― ヨハネ第二 9-11。

9,10 (イ)イスラエルでは律法に背いて悔い改めない者はどうなりましたか。なぜですか。(ロ)わたしたちは,罪を悔い改めないために追放された人の扱いに関する今日の取り決めについてどのように感じるべきですか。(ペテロ第二 2:20-22)

9 そのような断固とした態度が今日でも適切なのはなぜでしょうか。では,神の律法の中でイスラエルに命じられていた,切り断つための厳しい処置について考えてみてください。様々な重大な事柄において,故意に違犯した者は処刑されたのです。(レビ記 20:10。民数記 15:30,31)そのようなことになったなら,他の人たちは,たとえ親族であっても,律法に背いて死んだ者と話をすることはもはやできませんでした。(レビ記 19:1-4。申命記 13:1-5; 17:1-7)当時の忠節なイスラエル人は,わたしたちと同様の感情を持つ普通の人たちでしたが,神が公正と愛を備えておられる方で,神の律法によって自分たちの道徳的,霊的清さが守られていることを知っていました。ですから彼らは,悪行者を切り断つ神の取り決めが基本的に良いことで正しいということを受け入れることができました。―ヨブ 34:10-12。

10 わたしたちも彼らと同じように,クリスチャンが,犯した罪を悔い改めずに追放された人との交友を拒絶するという神の取り決めが,わたしたちの保護となっていることを確信できます。「古いパン種を除き去りなさい。あなた方は酵母を持たない者なのですから,それにふさわしく新しい固まりとなるためです」と書かれているとおりです。(コリント第一 5:7)クリスチャンは,故意に自ら関係を断絶した人たちをも避けることによって,もしかしたら危険な,認識の欠けた,あるいは背教的でさえある見解に染まらないよう保護されます。―ヘブライ 12:15,16。

親族の場合はどうか

11,12 (イ)悪行者が切り断たれた時,その親族に当たるイスラエル人はどのような影響を受けましたか。(ロ)従順の益について例を挙げて説明してください。

11 もちろん神は,悪行者を切り断つことに関するご自分の義の律法を実践するときにしばしば親族が関係し,影響を受けることを理解しておられます。先ほど述べたとおり,悪行を犯したイスラエル人が処刑されたなら,もはや家族の交わりは不可能でした。事実,もしある息子が大酒飲みで大食いであれば,両親はその息子を裁き人たちの前に連れて行くことになっており,もしその息子が悔い改めないなら,『イスラエルの中から悪を除き去る』ため,親はその息子の,義にかなった処刑に加わることになっていたのです。(申命記 21:18-21)親にとってこれが容易でなかったであろうことは察しがつきます。悪行者の兄弟や姉妹,あるいは祖父母がどのように感じたかについても考えてみてください。しかし,家族への愛よりも自分たちの義なる神に対する忠節を重んじることは,彼らにとって命を救うものとなりました。

12 コラの例を思い起こしてみましょう。コラはモーセによる神の指導に逆らう反逆の主謀者でした。エホバは,ご自分の完全な公正に基づいて,コラが死ななければならないことを理解しておられました。しかし,すべての忠節な者たちには次のような忠告が与えられました。「どうか,これら邪悪な人々の天幕の前から離れてください。彼らに属するどんなものにも触れてはいけません。彼らのすべての罪に連なってぬぐい去られることのないためです」。神の警告を受け入れようとしなかった親族は反逆者たちと共に死にました。しかし,コラの親族の中には賢明にもエホバへの忠節を選んだ人たちがいました。そうした人たちはその忠節のゆえに自分の命を救い,後に祝福を受けることになりました。―民数記 16:16-33; 26:9-11。歴代第二 20:19。

13 もし一緒に暮らしている家族の成員が排斥されたなら,あるいは自ら関係を断絶したなら,忠節なクリスチャンはどのように反応するでしょうか。

13 クリスチャン会衆から切り断たれるなら直ちに死ぬというわけではありませんから,家族の絆は存続します。したがって,排斥された,あるいは自ら関係を断絶した男性がそのまま,クリスチャンである妻や忠実な子供たちと一緒に家で生活することもあるでしょう。妻や子供たちは神の裁きと会衆の決定に敬意を払うがゆえに,その男性と自分たちとの間にあった霊的な絆が,その男性の取った行動によって変化させられたということを認めるでしょう。しかし,その男性は排斥されていても血のつながりや結婚関係が絶たれたわけではないので,彼らの通常の家族としての愛情や関係は存続させることができます。

14 一緒に生活していない排斥された,あるいは自ら関係を断絶した親族との接触については,神からのどんな助言が影響するはずですか。

14 もし排斥された者,あるいは自ら関係を断絶した者が,一緒に暮らしている家族ではなく,別に生活している親族であるなら,事情は異なります。その親族とはほとんど接触せずにすむかもしれません。たとえ家族の何かの事柄で接触しなければならないとしても,「兄弟と呼ばれる人で,淫行の者,貪欲な者,[その他由々しい罪を犯している者]がいれば,……そのような人とは共に食事をすることさえしないように」という神の定められた原則に従って,そういうことは最小限に保たれるに違いありません。―コリント第一 5:11。

15 そういう場合,親族は感情から受ける影響をどのように制御することができますか。(詩編 15:1-5。マルコ 10:29,30)

15 当然のことながら,それは難しいかもしれません。孫に対する祖父母の愛のような,感情と家族の絆があるからです。しかし,26ページの引用文の中で一姉妹が述べているとおり,それは神への忠節の試みなのです。そのように,親族が排斥されて生じた悲しみや苦しみを感じている人は皆,コラの親族の一部の人たちが残した模範から慰めと励みを得られるかもしれません。―詩編 84:10-12。b

裁判所の判決

16-18 先に述べた訴訟事件ではどんな判決が下されましたか。裁判所はどんな補足的な意見を述べましたか。

16 あなたは先の訴訟事件がどうなったか知りたいと思われるかもしれません。それは,信仰を退け,自ら会衆との関係を断絶することを選んだ後に,以前の知人たちが自分と話をしようとしないことに憤慨した女性の関係した訴訟です。

17 連邦地方裁判所は,その件を公判にかける前に,その女性に即決判決を下しました。それは,裁判所は教会内部の懲罰にかかわる事柄には関与しないという考え方に基づく判決でした。そこで,その女性は控訴しました。連邦控訴裁判所の全員一致の判決c は次のとおり,(合衆国憲法)修正第1条の諸権利に関する,より広い根拠に基づくものでした。「忌避の習慣はエホバの証人の信仰の一部であるゆえに,本法廷は,合衆国憲法に規定された『自由な実践』の条項により……[控訴人が]優勢とはなり得ないことを認める。被控訴人は忌避の習慣に従う,憲法で保証された特権を有している。したがって,本法廷は」地方裁判所の原判決を「支持する」。

18 裁判所の意見は次のように続いています。「忌避は,エホバの証人が聖書正典の聖句に関する自分たちの解釈に基づいて従う慣行であり,本法廷にはその聖句を解釈し直す自由はない。……被告は自分たちの宗教上の信念を自由に実践する権利がある。……裁判所は一般に教会の会員(あるいは元会員)同士の関係を綿密に調査することはしない。諸教会には会員あるいは元会員に懲戒を加えるに際して大きな自由が与えられている。本法廷は,『信者だけが関係する宗教活動は自由であり,また自由であるべきである。それはいかなるものも持ち得ないほど,ほぼ絶対的な自由である』というジャクソン[元連邦最高裁判所]判事の見解に同意する。……[控訴人が]捨てることを決意した教会の会員は,もはや控訴人とは交際したくないと結論した。本法廷はそれら教会員にはその選択をする自由があると判断する」。

19,20 会衆から切り断たれている人が,法廷に訴えて金銭による損害賠償を求める立場にいないのはなぜですか。

19 同裁判所は,たとえ以前の知人たちがその女性と話をしないことにしたために本人が心痛を味わったとしても,それにより「無形の傷害すなわち感情的な痛手の損害賠償を取ることが当人に許されるなら,それはエホバの証人の宗教の自由な実践を制限することになり,憲法違反になる。……宗教の自由な実践を憲法は保障しているのだから,社会は[控訴人の]被ったその種の害を,すべての市民が享受する,宗教を異にする権利を守るため,払うに十分値する犠牲として容認しなければならない」ということを認めています。この判決は言い渡されて以来,ある意味で,より一層重みを帯びるようになりました。どうしてそう言えるでしょうか。なぜなら,その女性は後日,国の最高裁判所に訴え,事件を審理して,できれば自分に不利な判決を覆してもらおうとしたからです。しかし,1987年11月に連邦最高裁判所は,それを棄却しました。

20 ですから,この重要な裁判によって決着をみたのは,排斥された人,あるいは自ら関係を断絶した人が,忌避されていることに対して法律に訴えてエホバの証人に損害賠償を求めることはできないということです。d 会衆はわたしたちのだれもが神の言葉の中に読むことのできる完ぺきな指示にこたえ応じ,その指示を適用していたのですから,当人は自らの行為によって身に招いた喪失感を味わっているのです。

懲らしめ ― 多くの人が益を受ける

21 排斥をどう見るかに関して平衡が必要なのはなぜですか。

21 外部の人々の中には,排斥について聞いて,クリスチャン会衆の成員ともはや話のできない悪行者に同情したがる人もいます。しかし,そのような同情は的外れではないでしょうか。悪行者や他の人たちが受けるかもしれない潜在的な益について考えてみてください。

22,23 排斥された人に対する見方の点で神に従うことの重要性と価値を,例を挙げて説明してください。

22 例えば,わたしたちは,26ページに載せられている,排斥された妹のマーガレットとの「交わりを完全に絶つ」ことにしたリネットの言葉に注目しました。リネットとそのクリスチャンの親族は,「エホバの道こそ最善であると認めて」いました。実際,そのとおりです。

23 リネットの妹は後日リネットにこう言いました。『もしお姉さんが排斥を軽く考えていたなら,こんなに早く復帰への道を取ることはなかったと思います。家族から全く切り離され,会衆との親しい接触も全く断たれた時,悔い改めたいという気持ちがとても強くなりました。わたしは自分の行ないがいかに間違っていたか,エホバに背を向けることがいかに重大なことであるかに気づきました』。

24 排斥に対するある姉妹の反応は,本人と他の人たちにどのような影響を及ぼしましたか。

24 別の例ですが,ローリーの場合,両親が排斥されました。しかし,彼女はこう言っています。『両親との交わりは,なくなるどころか多くなりました。時がたつにつれて,私はだんだん不活発になってゆき,集会にも出席しなくなってしまいました』。その後,ローリーは「ものみの塔」誌の1981年9月1日号と15日号(日本文,1981年11月1日号と15日号)の記事を読みました。その記事には,コリント第一 5章11節から13節とヨハネ第二 9節から11節の諭しが強調されていました。「私の内にはまるで白熱灯がともされたかのようでした」と,ローリーは書いています。『自分がいろいろな面で変化しなければならないことは分かっていました。また,マタイ 10章34節から36節の意味がよく理解できるようになりました。家族が私の決意を受け入れるのは容易なことではありませんでした。というのは,私の5歳になる息子が独りっ子だったので,両親はその子をとても愛していたからです』。マーガレットの場合がそうだったように,そのような交わりを失うことによってローリーの両親の心に動揺の生じることが望まれているのです。それでも,関連する懲らしめのおかげでローリーは助かりました。こう述べています。『私は再び野外奉仕に出るようになりました。自分が変化したので,夫婦の関係も家族関係も以前より強くなっていますし,私も強くなっています』。

25 復帰したある人は神からの懲らしめについてどのような見方をしましたか。

25 また,排斥され,後に復帰した人の気持ちを考えてみましょう。サンディーはこのような手紙を寄せました。『戒めと排斥に関する[前述の]非常に有益で教訓的な記事を載せてくださり,ありがとうございます。エホバがご自分の民を深く愛して組織が清く保たれるよう見届けておられるのはうれしいことです。外部の人々にとって厳しいと思えるような事柄は,必要とされているだけでなく,実際には行なわなければならない愛すべきことなのです。私たちの天の父が愛のある,許してくださる神であられることに感謝しています』。

26 懲らしめを受け入れるなら,どのような義の実が生じますか。(詩編 94:10,12)

26 ですから,悪行を悔い改めない人を会衆から追放するよう要求しておられるわたしたちの神は,もしその罪人が悔い改めて考え方を全く変えるなら会衆に復帰できる,ということをも親切に示しておられるのです。(自ら関係を断絶した人も同様に,再び会衆の一員になることを申し出ることができます。)復帰した人は,自分に対する愛を確立してくれるクリスチャンたちから慰めを得ることができます。(コリント第二 2:5-11; 7:8-13)まさしく,パウロが書いたとおりです。「どんな懲らしめも当座は喜ばしいものに思えず,かえってつらいことに思えます。しかし後には,それによって訓練された人に,平和な実,すなわち義を生み出すのです」― ヘブライ 12:11。

[脚注]

a ヨハネはここで,「こんにちは」というようなあいさつのことばであったカイローという語を用いました。(使徒 15:23。マタイ 28:9)ヨハネは,「両腕に抱きしめる,それゆえあいさつをする,歓迎する」ことを意味し,抱擁をさえ伴う非常に温かいあいさつを指すことのある(13節に出てくるような)アスパゾマイという語は用いませんでした。(ルカ 10:4; 11:43。使徒 20:1,37。テサロニケ第一 5:26)ですから,ヨハネ第二 11節のヨハネの指示が,そのような者には「こんにちは」という言葉さえかけてはならないという意味であることは十分に考えられます。「ものみの塔」誌,1985年7月15日号,31ページをご覧ください。

b 親族が排斥された場合の説明は,「ものみの塔」誌,1981年11月15日号,25-31ページをご覧ください。

c 819F.2d875(9th Cir. 1987)

d 様々な人が訴訟を起こしましたが,聖書に基づく忌避行為のことでエホバの証人に不利な判決を下した法廷は一つもありません。

記憶すべき要点

□ 排斥はどんな点で一種の懲らしめとなり得ますか

□ 排斥された人たちに対するクリスチャンの振る舞いが,世の罪人に対する振る舞いと異なるのはなぜですか

□ 親族が排斥されたとしても,聖書のどんな命令を思いに留めているべきですか

□ 自ら関係を断絶したある人が起こした訴訟において,一控訴裁判所はどんな判決を下しましたか

□ 排斥をめぐってある人たちが述べた個人的な言葉から,何を学べますか

[26ページの拡大文]

「[排斥された妹]マーガレットとの交わりを完全に絶つことは,エホバの取り決めに対する私たちの忠節を試みるものとなりました。それは私たちの家族が,エホバの道こそ最善であると認めていることを示す機会となりました」― リネット。

[30ページの囲み記事]

破門 ― どのような結果になったか

英国の歴史家エドワード・ギボンは,使徒時代に近かったころの排斥の妥当性と結果について次のように書きました。

「どんな社会においても,その社会の成員で,総意によって確立されたそれらの規定を退けたり破ったりする者を親交と恩典から締め出すことは,疑問の余地のない権利である。……破門には,霊的な意義だけでなく,一時的な[地的な]意義もあった。破門を宣告されたクリスチャンは,忠実なクリスチャンの献祭のいかなる部分にもあずかることを許されなかった。宗教的にも個人的にも友好関係は解消された」。

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